あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自由な社会とストレス、防衛反応、いろいろな考え方

2017-07-28 08:41:28 | 思想
誰しも、ストレスなく、暮らしたいと思っているが、毎日、大なり小なり、ストレスを感じている。なぜならば、現代の日本は、自由な社会だからである。自由な社会であること自体は良いのだが、皮肉なことに、それがストレスを生み出しているのである。自由な社会とは、自分の選択・決断によって行動できる社会である。自由な社会の良さは、自分が行ったことで、自分が評価されることである。自由な社会において、人間は、自分の選択・決断による行為が良い結果をもたらせば、周囲の人や世間の人から賞賛され、自分自身も、自分の能力を確信でき、心から満足することができる。しかし、自由な社会において、人間は、自分の選択・決断による行為が悪い結果をもたらせば、周囲の人や世間の人から陰に陽に批判され、自分自身も、自分のことをふがいない人間だと思い、自己嫌悪に陥ってしまう。それが、ストレスになるのである。かてて加えて、何かの選択を迫られ、その決断がなかなか付かない時も、ストレスを覚えることがある。さらに、結果がまだわからないのに、悪い結果を案じてストレスを感じることもある。つまり、自由な社会においては、自分の思い通りにならない場合、誰しも、ストレスを感じてしまうのである。だから、自由な社会は、両刃の剣なのである。つまり、自由な社会は、国民一人一人が自らの選択・決断の下で行動できるので、個人の尊厳が守られ、良いのであるが、それが良い結果をもたらせば、その人は、個人として、周囲の人や世間の人から高い評価を受け、良いのであるが、逆に、それが悪い結果をもたらせば、その人は、個人として、周囲の人や世間の人から低い評価を受け、自己嫌悪に陥り、それがストレスになるのである。不自由な社会は、ストレスという面においては、優位である。日本において、最も不自由な社会が招来されたのは、太平洋戦争の時代である。軍部が、国民を統制し、国民から、自らの選択・決断によって行動できる自由を奪った。国民には、死の恐怖・飢えの不安はあっても、ストレスを感じることはほとんど無かった。なぜならば、国民には、自ら、選択・決断する権利が無かったので、個人として賞賛されることが無いのと裏腹に、個人として責任を問われることも無いから、ストレスを感じることが無かったからである。国民は、軍部に統制され、軍部に言われたように行動し、自分の思いのままに行動できないことが当然のように思ってしまうと、ストレスを覚えることがほとんど無くなってしまうのである。より正確に言えば、国民は、死の恐怖・飢えの不安に苛まれ、ストレスを感じている余裕が無かったのである。一般に、太平洋戦争に限らず、戦争に入ると、その国の民衆の精神疾患の発生数は、平和で自由な時代に比べて、極端に少なくなる。ストレスが精神疾患の主要因だからである。しかし、現代の日本の社会は、自由な社会だから、誰しも、自分の思い(自らによる選択・決断)のままに行動できると思っているので、自分の思い通りの結果にならないと、他の人から責められ、自分自身も自分のことを責め、ストレスを覚えてしまうのである。ニーチェは、「最後の人間とは、自分が他の人から愚かだと思われることにも、自分自身が自分のことを愚かだと思うことにも、堪えることのできない動物である。」という意味のことを言っている。最後の人間とは、これまでの人間を意味する。最後の人間を超えた人間が、超人である。しかし、人間は、容易に、最後の人間を脱却して、超人になることはできない。これまでも、そして、これからも、人間は、自らの心理・行動の原点は、他者による自分に対する評価・自分自身による自分に対す評価であることから逃れることができそうに無い。それ故に、人間は、自由な社会を選び、自由な社会に暮らす限り、ストレスから逃れることはできないのである。自由な社会とは、自分しだいで成功・失敗が決まるということは良いことだという思いで打ち立てられた社会である。だから、失敗すると、自己責任という言葉が、大手を振って歩くのである。言うまでもなく、それが、ストレスの主要因である。さて、ストレスの多い自由な社会とストレスの少ない不自由な社会のうち、どちらかを選ばなければならないとしたら、国民の大半もそうだろうが、私も、迷うこと無く、前者の、ストレスが多くても、自由な社会を選ぶだろう。なぜならば、確かに、自由な社会は、個人として、自己責任を問われる可能性があるが、個人として、認められるもあるからである。更に、ストレスを感じながら生きる方が、死の恐怖・飢えの不安に苛まれて生きるより、人間らしく生きられるからである。だから、自由な社会を選び、自由な社会に生きていく限り、人間は、多少のストレスを感じるのは正常なことなのである。しかし、ストレスがたまりすぎ、高じて、肉体的な変化や精神的な変化を起こすのは、異常な事態である。肉体的な変化とは胃潰瘍、十二指腸潰瘍、過食症、拒食症などの肉体の病気になること、精神的な変化とは鬱病、適応障害、離人症などの精神疾患に陥ることである。ストレスに苛まれた人が、肉体的な変化と精神的な変化のうちのどちらの変化を起こすか、どの病気、どの精神疾患に陥るかは、その人の体質や気質によって決まってくる。しかし、確かに、いずれの変化(肉体の病気、精神疾患)も、例外なく、罹病者本人は苦痛を受けるが、実は、人間は、無意識のうちに、深層心理が働いて、それらの変化を起こし、表層心理に(意識に)、自らが異常事態にあることを知らせると共に、ストレスの辛さから逃れようとしているのである。だから、肉体的な変化も精神的な変化も、深層心理による防衛反応と言うことができるのである。つまり、その人の深層心理が、その人を、胃潰瘍などの肉体の病気にさせたり、鬱病などの精神疾患に陥らせることによって、ストレスの辛さから逃れ、その人を守ろうとしているのである。胃潰瘍の辛さは、ストレスの辛さの代理である。鬱病の辛さは、本人を、ストレスを受ける環境に行かせないためにある。人間には、常に、防衛反応がある。例えば、人間は、料理をしている際、うっかり、包丁で指を傷つけることがある。すると、血が出て、消毒と細胞防御をする。痛みが意識化されるから、これから、指を傷つけないように注意する。出血と痛みが防衛反応である。だから、ストレスによって引き起こされた胃潰瘍や鬱病は、それが治っても、防衛反応が治ったことになるので、抜本的な解決になっていない。ストレスの原因になっているものやことを消滅させなければ、その人が、元の環境に戻れば、再び、胃潰瘍や鬱病に罹ってしまう可能性が大きい。だから、大切なことは、ストレスの原因を消滅させること、本人が考え方を変えることである。そのためには、ストレスになっている環境を変えること、別の環境に移ること、ストレスを感じないようになることが必要なように考えられる。まず、第一点目のストレスになっている環境を変えることであるが、これはなかなか難しい。例えば、職場で上司が、家庭で父が、自分にとって大きなストレスになっている場合、日本人の多くは、彼らに意見や不満を述べることをしない。彼らの復讐が恐いからであり、その環境から追い出されることを恐れるからである。だから、職場では、上司に何も言えずに、ストレスが高じて自殺したり、家庭では、父や夫の暴力を受け続けたりする人が、跡が絶たないのである。むしろ、その職場を辞める覚悟で、上司のパワハラやセクハラを弁護士に相談して、謝罪と慰謝料を勝ち取った方が良いのである。日本人は、職場外の第三者に訴えた後、その職場に留まることは、心理的に難しい。職場内の人に相談するのも良いが、自分の思いを話すことで心が慰められることはあるが、その人が実力者で無いと、根本の解決には至らない。最も良いのは、労働組合に相談することである。しかし、労働組合に対する日本人の意識は低く、誤解していることも多いので、労働組合が活躍している職場は少ない。家庭内暴力の場合は、そこから逃げて、警察や役所や弁護士に相談するしか道は無い。第二点目の別の環境に移ることであるが、家庭内ストレスだけで無く、職場内ストレスにおいても、これが最も容易な方法である。転職することは恥じだという意識、新しい職場が見つからないかもしれないという不安、新しい職場になじめないのでは無いかという不安はあるが、ストレスで毎日が苦しいという状況を考えれば、ものの比では無い。座して死を待つことは無い。第三点目のストレスを感じないようになることであるが、人間は、性格を変えることはなかなかできないが、自分に合った考え方ならば、その考え方に変わることができる。一つ目の考え方として、ハイデッガーの主張する、実存的な考え方がある。ハイデッガーの言う実存的な考えとは、自らを臨死の状態において決断する思想である。簡単に言えば、もしも、今、自分に死が迫っていたならば、職場において、家庭において、どのように考え、どのように行動するかを考え、その思考通りに、決断する思想である。今まで、人の目を気にし、同じような生活を繰り返していたが、その日常性を崩し、自分らしい、新しい生き方を決断する思考方法である。二つ目の考え方として、自分はもちろんのこと、誰にも責任を取らせない考え方である。何事も成るしか成らないのであるとして、全てを運命として受け入れる考え方である。現実をそのまま受け入れ、抵抗しない考え方である。そこには、状況を変えようとする意志は無く、喜びも悲しみも無く、時間が坦々と過ぎていくばかりである。むしろ、坦々と過ぎゆくことが喜びなのである。三つ目の考え方として、世捨て人に身を置いて考える方法である。出家や隠遁をして、自ら、世間との関係を絶った人である。しかし、小林秀雄は、「世捨て人とは、世を捨てたのでは無く、世に捨てられたのである。」というような意味のことを言っている。至言である。つまり、世捨て人とは、世間から価値を認められなくなったので、世間から身を引いて、人間関係を絶って生きている人のことなのである。誰しも、簡単には、実際の世捨て人には成れませんが、想定上の世捨て人には成れます。世捨て人になれば、他の人から高く評価されることはありませんが、低く評価されることもありません。自我から離れ、堅苦しい人間関係から離れるので、解放され、人の目を気にせず、自由に物事を考え、行動できる。四つ目の考え方として、人間は役目存在でしか無く、人間が動いているのでは無く、役目が動いているという考え方である。つまり、人間は、役目に動かされて生きている存在でしか無いという考え方である。例えば、職場内において、誰しも、自由な選択・決断はできず、社長ならば社長という役目に沿った選択・決断しかできず、部長ならば部長という役目に沿った選択・決断しかできず、課長ならば課長という役目に沿った選択・決断しかできず、一般社員ならば一般社員という役目に沿った選択・決断しかできないから、役目存在にしか過ぎないのである。そこにおける、名誉・評価などはたわいのないものになるのである。五つ目の考え方として、人間の行動や発言は、ほとんど、深層心理によるものであると考えることである。上司は自分の意志で発言していると思うから、部下は言われたことを気にするのである。上司が、訳のわからない深層心理によって言わされていると思えば、上司が言ったことは気にならないものである。フロイトやラカンが言っているように、人間は、自分の意志で言動しているように思っているが、実は、深層心理に操られて言動しているのである。六つ目の考え方として、宗教に、身を委ねることである。全ての宗教は、あの世に価値観を置き、この世はその通過点に過ぎないことを教えるから、信仰心が深くなれば、これまで自分を困らせていたことがつまらなく見えてくるのである。このように、自由な社会で生きる限り、多少のストレスがあるのは当然であるが、強過ぎるストレスがある環境では、今の環境の状況を変えるか、別の環境に移るか、自分の考え方を変えるしか無いのである。

悪女の深情け

2017-07-17 21:29:47 | 思想
連日、松居一代についての報道が、テレビの画面を賑わせている。私は、テレビ局の彼女のスキャンダルの取り上げ方については興味はないが、彼女が自ら発信しているというブログやYouTubeを民放全局のワイドショーが取り上げているので、彼女の真意を理解するために見ている。各局のワイドショーによって、彼女が、夫と週刊誌を非難している内容を知ることができた。彼女の行動は、深層心理の敏感な(強い)人の一典型である。彼女は、夫は浮気し、離婚して彼女の財産の相当部分を奪おうと目論んでいる、その証拠もあると言う。週刊文春に対しては、彼女の記事を載せる時には、必ず、前もって、その記事の全文を知らせてくれる約束だったのに、知らせてくれなかったと言って怒っている。週刊新潮に対しては、民間人の家にいる自分の姿を盗撮したと言って怒っている。私には、夫の浮気・彼女の財産目的の離婚願望、週刊文春の約束反故、週刊新潮の盗撮が真実なのかどうかはわからない。しかし、それらが真実だとしても、夫婦関係の問題については、内輪で、近親者や友人や弁護士に相談して解決すべきなのに、ブログやYoutubeを使って、一般大衆に知らしめるのは尋常ではない。しかし、それこそ、彼女の敏感な(強い)深層心理が創出した現象なのである。彼女の怒りの深層心理が強過ぎたために、自分自身も恥をかくからやめておこうという表層心理の抑制が効かなかったのか、最初から、そのような表層心理の働きがなかったように思われる。人間は、感情という深層心理が強過ぎると、理性による判断という表層心理の抑制が効かないのである。深層心理が敏感な(強い)人は、例外なく、感情の勢いも激しい。私は、この件以前のテレビ番組で、松居一代のことが印象づけられていた。その番組で、初めて、松居一代という人の存在を知り、そして、思わず、その番組を注視してしまった。その番組には、女性の雑誌記者から自らの夫婦関係について質問されて、松居一代は、「主人が浮気したら、私は、主人を殺します。刑務所に入る覚悟はすでに付いています。私は、主人を深く愛しているからです。」と答えていたからである。驚いて、私は、インターネットで、松居一代の結婚について、調べてみた。夫は、船越英一郎という俳優だった。彼は初婚、彼女は四歳年上で、前夫との間にできた一人の男児を連れての再婚である。私は、その時、「船越さんが結婚してくれたことに対してむしろ感謝すべきなのに、浮気したら殺すなんて、何てひどいことを言う人だ。」と思った。その時、船越英一郎に同情の念を禁じ得なかった。しかし、これは、彼女の船越英一郎に対する愛情の発露なのである。彼女が、このような非常識な、大胆な発言を、世間に公言できたのは、「絶対に別れない。どのようなことがあっても、別れてやらない。」という強い思いがあったからである。そして、この思いは、自らの愛情に対する深い自信からしか生まれてこない。だから、その時、その女性記者が、「松井さん、それは、あなたの究極のわがままではないですか。真の愛情ではないでしょう。」と詰問すると、彼女は、きっぱりと、「私は、主人の心の底から愛しているから、こう言い切れるのです。あなたは、本当に人を愛したことがないから、わからないのです。」と答えた。その女性記者は、二の句が継げず、絶句するしかなかった。確かに、女性記者の言うように、松居一代の発言は究極のわがままである。しかし、愛情の発露は、程度の差はあれ、常に、わがままを起源としている。わがままとは、自我に執着した発言や行為を意味する。この場合の彼女の自我は、船越英一郎の妻というステータス(社会的な位置)にある。彼女は、船越英一郎の妻というステータス(社会的な位置)に執着しているから、あのように発言したのである。愛は、常に、人間関係、自我、ステータス(社会的な位置)、執着、わがままを伴っている。「愛は盲目」なのである。言うまでもなく、「愛は盲目」とは、「人は、愛すると、その愛に捕らわれて、理性を失い、適切な判断ができなくなる。」ということを意味する。松居一代は、船越英一郎を愛したからこそ、その愛に捕らわれて、理性を失い、適切な判断ができなくなったのである。しかし、誰しも、人を愛すると、その愛に捕らわれて、理性を失い、適切な判断ができなくなってしまうのである。確かに、松居一代の発言や行為は、度が過ぎていると言えるかもしれないが、彼女のような言動も、また、愛情表現の一典型である。松居一代の性格は、決して、異常ではない。心理学者のラカンが言うように、「人間には、正常な性格、標準的な性格、普通の性格など存在しない。人間には、先天的に、性格に、傾き、個性がある。」からである。だから、ほとんどの人は、自分の性格に不満を抱き、理想とする性格、憧れる性格があるのだが、実現できないでいるのである。さて、今回の件を報道している、ある民放局のワイドショーで、彼女と一時的に生活を共にしていた八十代の女性が、「松井さんは、思いやりのある良い人です。ずっと一緒に暮らしたかった。」と言った。すると、男性司会者の一人が、「松井さんは、もう一つ、別の顔を持っているのですね。」とコメントした。この司会者は、人間を知らないのである。殺人事件が起こると、テレビ番組で、犯人のことを調べ、近所での評判が良かったり、会社内での評判が良かったりすると、司会者やコメンテーターは、よく、「犯人は、悪の本性を隠して、暮らしていたのです。」言う。彼らも、また、人間を知らないのである。人間は、いろいろな顔を持ち、いろいろな交流の仕方をし、いろいろな評価や評判を受けて暮らしているのが、普通なのである。良いならば良い、悪いならば悪いというような、一定の評価を受けて暮らしている人は、この世に、一人として存在しないのである。例えば、一人の女性でも、家族でいる時は長女、会社にいる時は会社員、友人といる時は友人、隣の人と話す時は隣人となるのである。それぞれの人間関係において、長女、会社員、友人、隣人というような顔を持ち、いろいろな評価や評判を受けて暮らしているのである。評価や評判が異なるのは当然のことなのである。だから、殺人犯と言えども、悪いという一定の評価や評判を受けて暮らしているのではないのである。さて、「愛は盲目」の典型的な例はストーカーである。彼らは、皆、「この世で、最もあの人を愛しているのは自分だ。」と思い込んでいる。この気持ちが、異常な執着行動の要因になっている。松居一代も、ストーカーの一人である。さらに、「愛は盲目」は、恋愛感情だけでなく、全ての愛に当てはまるのである。母親の我が子に対する愛も、そうである。最近のニュースで、自宅が火事になり、母親は、消防署に電話した後、二人の子供を助け出そうとして、三人共に、焼死した事件があった。彼女の行動は悲劇的であるとともに感動的である。決して、非難してはならない行動である。しかし、二人の子を愛するあまり、理性を失い、適切な判断ができなくなり、自らの命が失われる危険を省みずに、燃え盛る炎の中に飛び込んでいったのである。また、学校では、いじめによる自殺事件が跡を絶たないが、その時、必ず、いじめっ子の母親は、「うちの子は悪くない。自殺した子の家庭に原因がある。」と言う。我が子を愛するあまり、理性を失い、適切な判断ができなくなっているのである。我が子を愛するあまり、いじめられて自殺した子やその子の家族の心情を思い遣ることができないのである。逆に、周囲の者や世間から非難される我が子の心情を思い遣り、辛く思うのである。さらに、いじめっ子に育てたとして、母親としての自らが周囲の者や世間から非難されることを想像して、辛く感じるのである。そこには、我が子に対する愛情と自分に対する愛情しか存在しないのである。しかし、自分以外の人を愛しながら、自分に対する愛情も存在するのは、いじめっ子の母親の我が子に対する愛情だけではないのである。このことは、全ての愛に対して言えるのである。むしろ、人間の、ある人やある者やあることに対する愛は、自分に対する愛から発しているのである。だから、この世の全ての人は、愛に執着するのである。つまり、愛とは、究極的には、自己愛なのである。さて、今回、松居一代が、夫である船越英一郎の浮気や彼女の財産狙いの離婚願望を、ブログやYoutubeを使って、世間に告発している。しかし、彼女の怒りの真の原因は、夫である船越英一郎の浮気や彼女の財産狙いの離婚願望ではない。夫である船越英一郎の浮気や彼女の財産狙いの離婚願望を世間に公表すれば、世間が自分に味方すると思ったからである。彼女の怒りの真の原因は、船越英一郎の心が自分から離れたことである。松居一代は、愛する夫の心が離れてしまったことに気付き、深く傷付いたのである。もう夫婦関係は修復できないと気付き、心に深い痛手を負ったのである。自分の傷付いた心を癒やすために、復讐に転じたのである。だから、彼女は、今回の告発の目的を、「船越英一郎から心からの謝罪を勝ち取ること」としているのである。人間には、深層心理が敏感な人と鈍感な人がいる。深層心理の敏感な人は、心が傷付きやすく、人を愛する気持ちと共に人を憎む気持ちも強く、一旦、心が傷付くと、長い間、尾を引いてしまう。また、人間は、心が傷付くと、その対応の仕方によって、三種の型に分かれる。自分ばかりを責める人、自分と相手の両方を責める人、相手ばかりを責める人の三種である。松居一代は、深層心理が敏感で、心が傷付くと、相手ばかりを責める人なのである。哀れなのは、船越英一郎である。蛇に睨まれた蛙同然であった。しかし、彼も、彼女の発言や行為に、ある期間、深い愛情を感じ取り、幸福感に包まれていたはずである。だから、交際し、結婚し、結婚生活を維持できたのである。しかし、彼の心が、いつの頃からか、彼女から離れていったのである。その原因を、ワイドショーでは、彼女の強い嫉妬心であるとか、彼女が彼の過去の交際女性をマスコミに暴露したからだとか言うが、その真偽が明瞭ではない。概して、一般に言われるほど、人は、人を好きになった原因も、心が離れた原因も明瞭ではないものである。むしろ、何となくとか、いつの間にかとかの場合が多いのである。ところで、私は、テレビに映し出された彼女の発言を聞き、行動を見て、「悪女の深情け」という言葉を思い浮かべた。広辞苑では、「悪女を」「醜い女」という容貌の意味に取り、「悪女の深情け」という慣用句の意味を、「醜い女は美人に比して愛情や嫉妬心が深い」としている。しかし、松居一代は、広辞苑の言うような「醜い女」ではない。しかし、彼女は、「愛情や嫉妬心が深い」女性である。だから、「悪女」とは、深層心理が敏感で、心が傷付くと、相手ばかりを責める女性のことを意味するのである。松居一代は、愛情や嫉妬心が深いから、つまり、深層心理が敏感で、心が傷付くと、相手ばかりを責める女性だから、船越英一郎に対する恨みが深いのである。彼女は、「船越が、心から、謝罪したら、許してあげる。そうでなければ、最高裁まで戦って、船越の不実を暴く。」と言っているが、この言葉こそ、船越英一郎に対する恨みの深さを表している。このように、松居一代は、船越英一郎からの「心からの謝罪」を得るために、戦っている。しかし、第三者から見れば、松居一代が、船越英一郎から、「心からの謝罪」を勝ち取るという些細な目的のために、多額の金銭を遣い、多くの時間や大いなる労力を使い、世間に夫婦の恥をさらけ出しているのは、あまりに幼稚で、滑稽に映る。しかし、人間とは、松居一代に限らず。自らのプライドのためには、理性を失い、適切な判断をできなくなってしまいがちな、動物なのである。

安倍晋三首相におけるエディプス王の欲望の発露

2017-07-11 17:18:21 | 思想
加計学園問題が、国会で、ようやく、前文部科学省の事務次官の前川氏を参考人招致して、本格的に取り上げ始めた。森友学園問題が、大阪府議会で、ようやく、前理事長の籠池氏を参考人招致して、本格的に取り上げ始めた。しかし、いずれの場でも、詳細が明らかにされることはないだろう。しかし、両問題とも、状況証拠からして、国民の誰にも、主犯はわかっている。言うまでもなく、主犯は、安倍晋三首相である。自民党の総裁でもある安倍晋三首相は、公明党と共謀して、国会で、強行採決をさせて、これまで、日本戦略会議、特定秘密保護法、集団的自衛権、共謀罪などの法案を成立させてきた。それらの法案が、国民目線に立ったものでないことは言うまでもないことである。それらの流れの中にあるのが、この加計学園問題、森友学園問題である。なぜ、安倍首相は、暴挙を繰り返すのか。それには、言わずもがなのことだが、二つの理由がある。一つは、国民の野党に対する支持率が低かったことである。民進党は、民主党政権時代の国民の不信感を払拭できていない。共産党は、旧ソ連の共産党、中国の共産党、北朝鮮の共産党に対する国民の悪いイメージから抜け出ていない。それらの国の共産党と日本共産党が、どこがちがうのか、多くの国民には明瞭になっていない。社民党は、国会議員の数も少なく、その活動が国民に認識されていない。もう一つは、逆に、これまで、国民の安倍内閣に対する支持率、自民党に対する支持率が、高かったことである。精神分析の用語に、人間の無意識心理(深層心理)についての最も基本的な概念の一つに、エディプス・コンプレクスがある。フロイトが提唱し、ラカンが継承し、発展させたものである。男児は、母親に対し近親相姦的な愛情を抱き、父親を憎むようになるが、父親の反対に遭い、社会が父親の味方をするので、意識にとどめることができずに、無意識心理(深層心理)の中に抑圧してしまう。この抑圧された感情に伴う心的現象(コンプレクス)がエディプス・コンプレクスである。エディプス・コンプレクスという命名は、ギリシア神話の、父親と知らずに父親を殺し、母親と知らずに母親と結婚した、エディプス王の悲劇によっている。ところで、男児の母親に対する近親相姦的な愛情は、決して消滅したわけではない。無意識心理(深層心理)内に留まっている。だから、父親の反対がなく、社会的に容認されていると思えば、男児は母親の近親相姦的な愛情に突き進んで行くであろう。男児の本能には、母親に対する近親相姦的な愛情を抑止するものは存在しない。男児に限らず、我々人間には、社会的関係(人間関係)において、本能は存在しない。我々人間は、社会的関係(人間関係)を営みながら暮らしているが、その営みの中で、無意識心理(深層心理)の中から、欲望が生まれてくる。誰しも、その欲望をそのまま叶えようと思う。もしも、その欲望に対して反対する者(勢力)が存在せず、自分の欲望が社会的に容認されていると思えば、行動に移すだろう。そこに、善なる欲望、悪なる欲望の峻別は、存在しない。まさしく、安倍晋三首相は、その立場に立ったのである。安倍晋三首相の欲望に反対する野党勢力は弱く、内閣支持率・自民党支持率が高かったから、安倍晋三首相は、日本戦略会議、特定秘密保護法、集団的自衛権、共謀罪、森友学園、加計学園に対する処置を我田引水的に、強行することができたのである。安倍晋三首相は、自らの欲望が社会的に圧倒的に支持を受けていると思ったから、一連の暴挙に出ることができたのである。さて、安倍晋三首相のこれらの欲望、これらの暴挙の果てに待っているものは何か。戦前回帰である。大日本帝国憲法の復活、教育勅語の復活である。それは、自民党の憲法改正草案に、明瞭に見て取ることができる。安倍晋三首相は、戦前のように、国家指導者が強硬に国民を統制し、軍事力を背景にした、強い日本を取り戻したいのである。そこには、戦前の日本に対する反省の思考は一抹も存在しない。しかも、アメリカ頼みの戦前回帰である。それは、安倍晋三首相のアメリカへの媚びを売る行いから、明瞭に見て取ることができる。具体的には、自衛隊員の命・沖縄県の軍用基地の積極的な差し出し、思いやり予算の増額、TPPの積極的参加(トランプ大統領によって頓挫させられたが)などに、はっきりと現れている。しかし、安倍首相が、このような国民目線から離れた欲望を達成してきたのはなぜか。言うまでもなく、弱体な野党勢力、自らへの国民の圧倒的な支持に原因がある。だから、安倍首相の欲望を押しとどめるためには、野党第一党の民進党は、自民党と同じような考えを抱いている議員を排除し、自民党の第二政党の誤解を解き、真に国民目線に立った政党に生まれ変わらなければならない。また、国民自身は、権力者に熱い期待を抱き、圧倒的な支持を与えてはいけない。国民から圧倒的な支持を受けた権力者は、必ず、自らの内なるエディプス王の悪なる欲望すら叶えようとするからである。マスコミは、全ての権力者の悪なる欲望を暴き続けなければならない。なぜならば、権力者は、常に、暴走する可能性を持っているからである。権力者の無意識心理(深層心理)には、常に、エディプス王の欲望が潜んでいるのである。