あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

バカバカしい人生より(脱構築の向こうに何がある(その5))

2016-04-09 10:39:16 | 思想
「時には娼婦のように」という懐メロの歌詞に、「バカバカしい人生より、バカバカしいひと時がうれしい」という一節がある。まさしく、世の中は、理不尽なことに満ちている。自民党政治は、人間によって行われていると思えない。安倍晋三は、アメリカという虎の威を借る狐になり下がり、中国、韓国、北朝鮮を敵視する政策を執り、世論を煽っている。国民は、安倍政権に、安保法案で裏切られ、国民間の格差を拡大させられ、大企業優遇策を執られ、非正規雇用を促進させられ、保育園の拡充は口先だけのものであることがわからされたのに、安倍政権に対する支持率は高い。安倍政権の特徴は、防衛費とアメリカ軍に対する思いやり予算の増大にまざまざと現れているではないか。自民党の狙いは、日本の戦前回帰なのである。戦前と異なる点は、アメリカの子分になることと軍隊の指揮権を首相が持つことだけである。ニーチェの「大衆はバカだ」という言葉がまざまざと思い出される。マスコミも、マスコミとしての自らの役割を見失っている。産経新聞や読売新聞は自民党の御用新聞になり下がっている。産経新聞や読売新聞は、中国、韓国、北朝鮮を敵視し、アメリカに媚びを売っている。まさしく、自民党と同じである。確かに、中国、韓国、北朝鮮の政権は傲慢である。しかし、この三国の政権だけが傲慢なのではない。アメリカ、ロシア、フランス、イギリス、そして、日本、これらの国の政権はすべて傲慢である。なぜ、これらの国の政権を追及しないのだろうか。放送局も堕落している。なぜ、安保法、秘密保護法を追及しないのか。だから、高市早苗総務相に、偏向している放送局には放送権を与えないと恫喝されるのだ。高市は、自民党に批判的な放送局は許さないと言っているのだ。自民党の戦前回帰の最たるものだ。しかし、どの放送局も、高市の発言に対峙しようとしていない。安倍政権を怖がっているのである。そして、不倫報道ばかりしている。挙句の果てに、歌舞伎役者の片岡愛之助と藤原紀香の結婚パレードの放送である。少し前までは、片岡愛之助が熊切あさ美と非人間的な別れ方を報道したのである。バカバカしいにもほどがある。しかし、非難しても、悔やんでも、仕方がない。なぜならば、これが世の中だからである。これが人生だからである。それならば、バカバカしい人生を放っておいて、自分だけのバカバカしいひと時を楽しもうではないか。芸能界に、アイドルという得体のしれない者が存在する。アイドルの意味は偶像である。つまり、アイドルとは実像ではないのである。そこに存在していると認めた者だけに見えるものなのである。それで良いではないか。自分だけのアイドルを見つけて、このバカバカしい人生を放っておいて、自分だけのバカバカしいひと時を楽しもうではないか。

火山の噴火のように(脱構築の後に何がある(その4))

2016-04-07 12:23:43 | 思想
悩みごとの出現は、火山の噴火と同じである。火山が噴火すると、あたりの風景は一変し、人はここにずっと住めないように感じる。しかし、どんなに大きな噴火であろうと、どのような場所であろうと、いつかは、あたりは元の穏やかな風景に戻っていく。そして、人も戻ってくる。それと同じように、もう立ち直れないと思われる、どのような大きな悩みごとであろうと、いつかは、元の自分の心に戻っていく。じたばたせず、あたりを見回してみれば良い。そんなに大きな悩みごとではないことに気付くだろう。自我にこだわらないことである。そうすれば、すぐに、自分の心が取り戻せるはずだ。

川崎市中学一年生殺害事件(脱構築の向こうに何がある(その3))

2016-04-02 13:51:58 | 思想
2015年2月20日午前2時頃、川崎市の河川敷で、上村遼太君が、17歳から18歳の少年A、B、Cの不良グループによって、リンチされ、カッターナイフで首を切られるという凄惨な方法で殺された。主犯格のAは、かつて、上村君に暴力を振るったということで、別のグループに自宅まで押しかけられ、謝罪させられていた。上村君は、人気があり、グループにこだわりなく、親しく交際していた。上村君が約束の時間に遅れて来ることがあったり、ため口をきくことがあったりなどしたので、Aは、上村君が増長して来たと思っていた。それで、機会があったら、とっちめてやろうと思っていたのである。しかし、上村君を呼び出したのは、Bである。Bは上村君と仲が良かった。Bは、Aが上村君を恨んでいたのを知っていたから、Aが上村君を殴るということはわかっていたが、殺害するとは思っていなかったそうである。しかし、BはAに言われ、上村君にカッターナイフで切り付けているのである。Bは、上村君よりも、このグループの立場を選んだのである。そもそも、Aが殴ることを知っていながら、上村君を呼び出しているのである。裁判長は、「BはAを止めることができたのに止めなかった。」と断罪している。確かに、BはAを止めることはできた。もしも、これが、人目に触れる時間帯、場所で行われていたならば、BはAを止めていただろう。しかし、このリンチは、深夜の河川敷で行われていたから、三人の犯行だと露見しない可能性があったのである。そこで、Bは、社会的に罰せられない可能性が高いと思い、グループという構造体内の自らの存在を選んだのである。そして、Aにカッターナイフを差し出したのは、Cである。Cは上村君とほとんど面識がなく、何の恨みも抱いていなかったようである。Aが上村君を殺害するとまで、思っていなかったようである。Aが上村君を脅迫しやすいように、カッターナイフを差し出したようなのである。もっとも、Cは普段からカッターナイフを持ち歩いていて、何かあったら、カッターナイフを取り出して、相手を威嚇しようと思っていたようである。Cも、また、Aに言われ、上村君にカッターナイフで切り付けている。しかし、Bと同様に、これが、人目に触れる時間帯、場所で行われていたならば、Aによる上村君の殺害を止めていただろう。しかし、このリンチは、深夜の河川敷で行われていたから、三人の犯行だと露見しない可能性があったのである。そこで、Cは、これも、Bと同様に、社会的に罰せられる可能性が低いと思い、グループという構造体内の自らの存在を選んだのである。Aは、このグループという構造体の中心者であるというプライドがあった。しかし、上村君は、約束の時間に遅れて来ることがあったり、自分にため口をきくことがあったりなどして、プライドが傷つけられていた。また、このグループの構成員は、この構造体にだけ属しているべきなのに、上村君は、他のグループにも属し、さらに、上村君のことで、自分は、そのグループから屈辱を受け、はらわたが煮えくり返っていたのである。Aは、上村君に対して、肉体でもって、このグループ内の上下関係、このグループの掟を知らしめるために、凄惨なリンチを行ったのである。そして、上村君への暴力が他のグループに知られ、再び、屈辱を受けるのを恐れて、殺害までに及んだのである。上村君は、このグループの構造体に属し、仲間という人間関係を結び、このグループの一員というステータス(社会的な位置)を得ていた。もしも、上村君が、このグループの構造体に属さず、仲間という人間関係を結ばず、このグループの一員というステータス(社会的な位置)を得ていなければ、殺害されることはなかった。もしも、Aが、このグループという構造体の中心者でなければ、上村君を殺すことはなかった。もしも、BとCが、このグループの構造体に属していなければ、仲間という人間関係を結ぶことはなく、このグループの一員というステータス(社会的な位置)にこだわらないので、Aの共犯者となることはなかった。つまり、グループという構造体が無ければ、この事件は起こらなかった。人間は、孤独に耐えられない動物である。固定した構造体に属し、固定したステータスを得て、固定した人間関係に入らなければ生きていけないのである。例えば、家族、会社、学校は固定した構造体であり、父、課長、生徒は固定したステータスであり、家族内関係、会社内関係、学校内関係が固定した人間関係である。家族、会社、学校などに固定した構造体に所属し、父、課長、生徒などの固定したステータスを得ているから、そのステータスに応じた役割を毎日果たし、他の人から認められて生きていけるのである。この事件の原因を、個人の資質に求める人が多い。Aの残忍性、BとCの浅薄な思考による付和雷同性、そして、上村君の人の好さである。しかし、たとえ、そのような資質があったとしても、この不良グループという固定した構造体が存在しなければ、彼らがグループの一員という固定したステータスを得なければ、仲間という固定した人間関係を形成しなければ、この事件は起きなかったのである。この不良グループが固定した構造体を構築し、A・B・C・上村君がグループの一員という固定したステータスを持っていて、彼らが仲間という固定した人間関係を形成していたので、Aは非人間的に振る舞うことができ、B・CはAの言うことを聞き、上村君は逃げ出さなかったのである。Aは、「誰かに止めてほしかった。」と述べているが、その誰かには、決して、グループ内の人間がなることはできない。Aがこの不良グループの中心者であるからである。閉ざされた不良グループという構造体の中では、誰も、Aを止めることはできない。不良グループは、閉ざされた構造体が必須条件であるから、この世では、Aの行為を止めるものが存在しないのである。しかし、この不良グループだけでなく、この世の構造体は、全て、閉ざされているのである。誰が、他の家族の内実、自分の勤務していない会社の内実、自分の通っていない学校の内実を知っているだろうか。だから、突然、家庭内の児童虐待、会社の粉飾決算、学校のいじめ事件が暴かれるのである。しかし、ほとんどの場合、家庭内の児童虐待、会社の粉飾決算、学校のいじめ事件は、主犯の一人によって起こされているのではなく、必ず、共犯者が存在する。この不良グループ内では、主犯のAの残忍なリンチを、B・Cが付和雷同型に支えたように。大抵の場合、家庭内の父親の子供の虐待に母親が協力し、会社の上司の粉飾決算に部下が協力し、学校のいじめ事件には主犯格の生徒以外に何人かの共犯生徒が存在するのである。つまり、この世の悪事は、主犯の一人によってなされるのではなく、付和雷同型の共犯者の協力によってなされているのである。誰しも、構造体から追い出されたくなく、関係性を壊したくなく、ステータスを失いたくないから、構造体や構造体の中心人物の悪事に加担するのである。しかし、誰しも、いついかなる時でも、ある固定した構造体に属し、ある固定したステータスを得て、ある固定した関係性の中で、生きている。ということは、誰しも、構造体や構造体の中心人物の悪事に加担する可能性があるということなのである。林郁夫は、オーム真理教に所属し、麻原彰晃の指示で、地下鉄にサリンを撒くなどの犯罪で、無期懲役の刑を受けた。林郁夫は語っている、「誰しも、オーム真理教に所属したならば、麻原彰晃の支持をはねつけることはできない。」と。林郁夫の犯罪行為を非難しても非難尽くせることはない。しかし、誰が、自信をもって、「私は、構造体や構造体の中心人物の悪事に加担する可能性は全く無い。」と言えるだろうか。私は、そのような人が現れることを期待している。しかし、これまで出会った人がそのように言っても、これまで見た人がそのように言っても、政治家がそのように言っても、私は、全く信じない。