あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は永遠に罪人である。歴史は無駄な時間である。(自我その522)

2021-08-24 18:46:40 | 思想
人間は罪人であると規定したのは人間である。人間は、いつになったら、罪人でなくなるのか。しかし、人間は罪人から永遠に逃れることはできない。人間の最大の罪は殺人である。人間は、いつになったら、殺人を犯さなくなるのか。しかし、どれだけ時代が進んでも、人間世界から、人殺しが無くなることはない。歴史は無駄な時間である。なぜならば、深層心理が、思考して、他者を殺したいという自我の欲望を生み出し、人間を動かしているからである。人間の人間たる所以は、深層心理が思考して生み出した自我の欲望が人間を動かしていることである。だから、人間世界から永遠に人殺しが無くなることはないのである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。一般に、深層心理の思考は無意識と呼ばれている。だから、人間は、自分の意志では持ちたくないと思っていても、深層心理が生み出すから、他者を殺したいという自我の欲望を持ってしまい、それを実行することがあるのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理の思考を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考しているということを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、快楽を求めて、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。深層心理の思考は快楽を追い求めることが主眼なのである。そして、深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望に動かされて人間は行動しているのである。つまり、人間は、自らを意識して思考することによって生み出していない自我の欲望に動かされて行動しているのである。人間の自らを意識した精神活動を表層心理と言う。人間の表層心理での思考が理性である。すなわち、人間は、表層心理での思考で生み出していない自我の欲望によって動かされているのである。理性による思考が人間の行動の基盤になっていないのである。しかし、人間は、表層心理で意識的に思考して生み出していなくても、すなわち、理性が働いていなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自らの欲望であるから、それから、逃れることができないのである。自我の欲望に動かされて行動するしかないのである。つまり、人間は、自らは意識もしていず、気付いてもいないが、深層心理が快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、その自我の欲望に動かされて行動しているのである。他者を殺したいという自我の欲望に限らず、深層心理が生み出す自我の欲望が人間を動かしているのである。人間は、表層心理での自らを意識した思考では、すなわち、理性による思考では、自我の欲望を生み出すことができず、行動の基点にならないのである。つまり、他者を殺したいという自我の欲望に限らず、自我の欲望は、人間が、自ら意識した思考によって生み出したものではなく、自らが意識していないところで生まれて、人間を動かしているのである。深層心理が、思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。だから、人間が無意識のうちに思考して生み出した他者を殺したいという自我の欲望を、すなわち、深層心理が思考して生み出した他者を殺したいという自我の欲望を、人間は、表層心理での自らを意識した思考によって、すなわち、理性の思考によって、抑圧しなければいけないのである。それが、意志による抑圧である。人間は、誰しも、深層心理が思考して生み出した自我の欲望によって動かされているが、自我の欲望の中には、他者も自我も破滅させるという危険性を持っているものが存在する。当然、それは、表層心理での思考による意志によって抑圧しなければならない。人間は、誰しも、この運命から逃れることはできないのである。しかし、なぜ、このようなことになるのか。それは、深層心理が、常に、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているからである。深層心理の快楽を求める欲望には、道徳観や社会規約は存在しない。なぜならば、道徳観や社会規約を守っても、快楽が得られないからである。だから、深層心理の思考は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を得ることを目的として行われるのである。だから、深層心理の思考は、時には、社会生活を営む上で不都合を生じる虞がある自我の欲望を生み出して人間を動かそうとすることがあるのである。人間が、道徳観や社会規約に基づいて思考するのは、表層心理で、自我に現実的な利益をもたらそうとして、思考する時である。なぜならば、道徳観や社会規約を守らなければ、周囲や社会から顰蹙を買ったり罰せられたりして、自我に現実的な不利益をもたらすからである。だから、深層心理が快楽を求めて思考して他者を殺したいという自我の欲望を生み出して人間を動かそうとしても、人間は、表層心理で、道徳観や社会規約に基づいて、自我に現実的な利益をもたらそうと思考して、他者を殺したいという自我の欲望を、意志によって抑圧しようとするのである。しかし、人間は、他者を殺したいという自我の欲望を、表層心理での思考によって、意志で、抑圧しようとしても、常に抑圧できるわけではない。深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎる場合、表層心理の思考による意志で抑圧しようとしても、抑圧することができずに、人間は人殺しを実行しようとすることがあるのである。そして、殺人犯のほとんどは、犯行現場から逃走し、自らの犯罪を隠匿しようとする。それは、表層心理で思考して、自らが犯人だと露見すると、周囲の者や世間から非難され、逮捕されて、処罰されることを恐れるからである。しかし、人間は、誰しも、人殺しをする前から、表層心理で思考して、人殺しをすれば、逮捕されて、厳しく処罰されることを知っている。一人でも殺せば、何年も、刑務所に入れられ、監視されて、自由を奪われることを知っている。出所しても、差別され、以前の生活ができないのを知っている。人殺しは、全く、割に合わない行為だと知っている。それでも、毎日、世界中で、人殺しが行われている。なぜ、そうなのか。それは、深層心理が思考して生み出した怒りの感情が強いから、表層心理の思考で、抑圧しようとしてもできず、深層心理が思考して生み出した殺せという行動の指令通りに行動するからである。もしくは、表層心理の思考で、犯行後のことを考えることができないほどに、深層心理が思考して生み出した怒りの感情が強いからである。深層心理が思考して生み出した他者を殺したいという自我の欲望は、深層心理が生み出した怒りの感情と深層心理が生み出した殺せという行動の指令が合体したものである。怒りの感情が殺せという行動の指令の動力になっているのである。しかし、なぜ、表層心理の思考で抑圧しなければいけない他者を殺したいという自我の欲望が、自らの心の中に生まれてくるのか。抑圧しなければいけない自我の欲望ならば、最初から、持たなければ良いではないか。確かに、その通りである。しかし、人間の思考は、常に、深層心理の思考から始まるからである。そこに、表層心理での思考は存在しないのである。だから、人間は、他者を殺したいという自我の欲望を持ってしまうことがあるのである。深層心理が思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。それでは、深層心理は、なぜ、他者を殺したいという自我の欲望を生み出すのか。それは、深層心理は、常に、自我を主体にして、自我に快楽をもたらそうと思考するからである。しかし、殺人が快楽であるからではない。稀には、そういうこともあるだろう。しかし、ほとんどの殺人の原因は、深層心理の快楽を求める欲望が阻害され、不快感がもたらされたからである。深層心理が、その不快感を解消しようとして、怒りの感情と殺せという行動の指令という自我の欲望を生み出し、その阻害した者を殺すように、人間を動かそうとするのである。人間は、快楽を求める深層心理によって動かされているのである。しかし、ほとんどの人は、自分自身は、道徳観や社会規約を基に、表層心理で思考して、意志によって行動していると思い込んでいるのである。だから、自分の心の中に他者を殺したいという欲望を発見したり、他者を殺そうと襲撃してしまった後、実際に他者を殺してしまった後、自分自身に対して、恐れおののくのである。それは、深層心理が、常に、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしていのに気付いていず、常に、表層心理で思考して、意志によって行動していると思い込んでいるからである。さて、深層心理は、何に動かされているか。それは、欲動である。だから、深層心理は、常に、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。そして、人間は、時には、表層心理で、現実的な利得を求めて、思考して、すなわち、理性で、道徳観や社会規約を基に、自我の欲望を抑圧しようとすることがあるのである。自我とは、ある構造体の中で、他者からある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属し、自我として生きているのである。人間は、構造体に応じて、異なった自我を所有して行動しているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って行動しているのである。だから、異なった構造体には異なった自我を所有しているから、「あなたは何ですか。」と尋ねられると、構造体に応じた自我を答えるのである。例えば、ある人は、家族という構造体に所属している時は父という自我を所有し、夫婦という構造体に所属している時は夫という自我を所有し、銀行という構造体に所属している時は行員という自我を所有し、コンビニという構造体に所属している時は客という自我を所有し、電車という構造体に所属している時は乗客という自我を所有し、日本という構造体に所属している時は日本人という自我を所有し、東京都という構造体に所属している時は都民という自我を所有し、同窓会という構造体に所属している時は同級生という自我を所有して行動している。だから、息子や娘が彼のことを父だと思っているが、彼は父だけでなく、夫、行員、客、乗客、都民、同級生人という自我をも所有しているのである。彼は、家族という構造体では父という自我を所有しているが、他の構造体では他の自我を所有して行動しているのである。もちろん、息子や娘は彼の父以外の自我を知らず、全体像がわからないのである。人間は、他者の一部しか知ることができないのに、それを全体像だと思い込んでいるのである。また、人間は、自らのことを、自分と表現するが、自分そのものは存在しない。なぜならば、自分は、単独では存在できないからである。自分は、他者や他人が存在する時に、存在する。人間は、他者や他人の存在を意識した時に、自らを自分として意識するのである。他者とは、同じ構造体の中の人々である。他人とは、別の構造体の中での人々である。だから、人間にとって、自分とは、単に、他者や他人と接する時に、もしくは、他者や他人を意識した時に、自らに対して持つ意識でしか無いのである。また、人間は、自己として存在することに憧れている、もしくは、自己として存在していると思い込んでいるが、容易には、自己として生きることができないのである。自己として存在するとは、自らを意識して、主体的に、自らの行動を思考して、その思考の結果を意志として、行動することである。自らの意識した精神活動が表層心理である。人間の主体的な意識しての思考が理性である。つまり、人間が自己として存在するとは、主体的に表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して、行動を決めて、それを意志として、行動することである。すなわち、自己として存在するとは、人間が表層心理で思考して、その思考の結果を意志として、行動することなのである。このように言うと、一見、自己として生きることは簡単なように思え、自らも容易にできるように思う。確かに、人間は、常に、表層心理で思考して、すなわち、理性によって、行動しているのならば、自己として存在していると言える。しかし、人間は、深層心理に動かされているから、自己として存在していないのである。深層心理が、自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我としての人間は、それに動かされて、行動しているのである。人間が、自己として存在していないということは、自由な存在でもなく、主体的なあり方もしていず、主体性も有していないということを意味するのである。また、そもそも、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるから、人間は、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。主体的に、他者の思惑を気にしないで思考し、行動すれば、その構造体から追放される虞があるからである。だから、人間は、自己として存在できないのである。しかし、人間は、自己として存在できず、自分が主体的に行動できないのは、他者や他人から妨害や束縛を受けているからだと思っている。そこで、他者からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れるのである。自由であれば、自分は、常に、表層心理で、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自らを意識して思考して、自らの意志で行動することができると思い込んでいるのである。つまり、自己として生きられると思っているのである。そして、そのような生き方に憧れるのである。しかし、人間は、自由であっても、決して、主体的になれないのである。なぜならば、深層心理が、常に、自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求めて、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動しているからである。人間の日常生活が、毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、深層心理が思考した、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、深層心理の思考のままに行動して良く、人間は、表層心理で意識して思考するまでのことが起こっていないからなのである。人間は、表層心理で意識して思考する時は、常に、自我に現実的な利得を持たせようという視点で行うのである。さらに、深層心理には、超自我という、毎日同じようなことを繰り返すルーティーンを行うように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとする働きも存在する。超自我は、深層心理の構造体の中で自我を持して暮らしたいという欲望から発した、自我の保身化という作用である。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、深層心理が生み出した他者を殴れ・他者を殺せなどの行動の指令を抑圧できないのである。その場合には、深層心理が生み出した行動の指令に対する審議は、表層心理に移されるのである。そして、人間は、表層心理で、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、現実的な利得を得られるか否かという視点から思考して、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考して、拒絶する結論を出し、意志によって抑圧しようとするのである。しかし、超自我のルーティーン通りの行動を行わせる作用にしろ、表層心理での自我の利得に基づく思考にしろ、万能ではないのである。なぜならば、深層心理が生み出した感情が強ければ、超自我や表層心理での思考によって深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、行動の指令のままに行動してしまうのである。人間は、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、深層心理が生み出した他者を殴れ・他者を殺せなどの行動の指令のままに行動してしまうのである。その時、傷害事件や殺人事件が起こるのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。快楽は欲動にかなった時に得られるから、深層心理は欲動に基づいて思考するのである。つまり、欲動が深層心理を動かしているのである。欲動が、深層心理に、自我を主体に立てて思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出させ、人間を行動へと駆り立てているのである。欲動が、深層心理を内部から突き動かし、思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させているのである。つまり、深層心理は欲動に動かされて思考しているのである。心理学者のフロイトは、欲動をリピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギー、すなわち、性欲を挙げている。しかし、フロイトの言う性欲というリピドーだけでは、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望を説明しきれないのである。欲動は、性欲に限定されず、四つの欲望によって成り立っている。深層心理に内在する欲動の第一の欲望が自我を確保・存続・発展させたいという欲望であり、第二の欲望が自我が他者に認められたいという欲望であり、第三の欲望が自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望であり、第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。欲動の四つの欲望の中で、最も強いのは、第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。なぜならば、人間は、自我を確保・存続・発展させたいという第一の欲望を満足させ、自我を持つことで、深層心理という無意識の思考が自我の欲望を生み出すことができるからである。だから、深層心理は、自我の確保・存続・発展という欲動の第一の欲望を満たし、快楽を得るために、自我の欲望を生み出すのである。そして、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、自我の欲望を生み出している。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。構造体が絶対不可欠なのは、構造体が存在しなければ、自我も存在しないからである。だから、国、都道府県、家族、学校、会社、仲間、夫婦、カップルという構造体に所属している人は、誰しも、愛国心、郷土愛、家族愛。愛校心、愛社精神、友情、夫婦愛、恋愛感情という自我愛を持っているのである。人間は、自我として存在し、自我は構造体が存在することによって成立するから、構造体を愛するのである。この構造体に対する愛が、自我の欲望を生み出し、自我に対する愛とともに、人間に快楽をもたらすとともに、人間を悲しい目に遭わせたり、過ちを犯させたりするのである。愛国心があるからこそ、他国からの自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。愛国心という自我愛があるから、オリンピックやワールドカップを楽しめるのであるしかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。郷土愛という自我愛があるから、帰省すると安心感が得られるが、隣県同士が争うのである。家族愛という自我愛があるから、自宅が火事の際には親は自らの命を投げ出して子供を助けようとするが、いじめをしていた子の親は、いじめの責任をいじめられていた子やその家族に帰するのである。愛校心という自我愛があるから、同窓会を楽しむが、偏差値の低い学校を馬鹿にするのである。愛社精神という自我愛があるから、充実した毎日が送れるが、会社の不正に荷担するのである。友情という自我愛があるから、仲間といると楽しいが、いじめに加担するのである。夫婦愛や恋愛感情という自我愛は、生きている実感を持たせてくれるが、夫婦やカップルが破綻すると、ストーカーになる者も現れるのである。ミャンマーの国軍兵士が、無差別に、市民を射殺しているのは、上官の命令に従っているからであり、上官の命令に背けば、兵士という自我を失うからである。欲動の第二の欲望が自我が他者に認められたいという欲望であるが、深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。自我の対他化とは、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。この欲望がかなえば、自我が伸張し、自我の力が発揮できたように思うのである。だから、深層心理は、自我が他者から見られていることを意識して思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理は、どのようにすれば、その人から好評価・高評価を得られるかと考えて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。ラカンに、「人は他者の欲望を欲望する」という言葉がある。それは、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」という意味である。ラカンのこの言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。他者の欲望を獲得することが、自分の力を発揮したことの現れなのである。だから、逆に、自我が他者に認められないと、深層心理は、すなわち、人間は苦悩に陥るのである。だから、その苦悩を回避しようとして、敢えて、自我の力を知らしめ、他者に自我を認めさせようとしている者も現れるのである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、北朝鮮の金正恩による殺戮は、国民に、自我の力を知らしめるためである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望であるが、深層心理は、対象の対自化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化による快楽は、自我が他者に好評価・高評価を受けることによって得られるが、対象の対自化による快楽は、自我の志向性(観点・視点)で他者・物・現象などの対象を支配することによって得られるのである。対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。)という一文で表現することができる。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者を支配することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、深層心理が、すなわち、人間が、喜び・満足感が得られれるのである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。わがままは盲目的な支配欲の現れである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、北朝鮮の金正恩による殺戮は、国民からの承認欲を満足させるためだけでなく、国民に対する支配欲を満足させるために起こしているのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば、快楽を得られるのである。また、欲動の第三の欲望が強まると、深層心理は、有の無化、無の有化という二つの機能を持つ。有の無化とは、人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。つまり、他者の対自化の欲望が、深層心理の思考にも力を及ぼすことがあるのである。無の有化は、「人は自己の欲望を心象化する」という言葉で言い表すことができる。それは、人間は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造するという意味である。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。神の創造は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。これも、また、他者の対自化の欲望が、深層心理の思考にも力を及ぼしたのである。欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望があるが、深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理は、自我と他者が心の交流をすること、愛し合う、友情を育む、協力し合うようにさせることによって快楽を得るのである。自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりするのである。それがかなえば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。また、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うこともある。それが、「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象である。この欲望は、愛情、友情、協調性を大切にする思いであり、自我の立場と他者の立場は同等であるから、一般的に、歓迎されるのである。だから、この欲望は、自我の評価を他者に委ねるという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を一方的に支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うのである。「呉」の国と「越」の国の仲が悪いのは、二国は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。つまり、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。しかし、試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなり、自分がイニシアチブを取りたいから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。つまり、対象の対自化が自我の力が発揮できると思うから、共通の敵がいなくなると、我を張る(自我を主張する)のである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。しかし、中学生や高校生が、仲間という構造体を作り、友人という自我で、構造体に所属していない同級生をいじめるのは、友人と連帯感ができて仲間という構造体が形成されているという快楽を得ているとともに、一人で生きている者への嫉妬心からである。カップルや夫婦という構造体にある者が、相手から別れを告げられてストーカーになり、相手を殺すことまであるのは、自分の代わりの恋人や夫に対する嫉妬心からである。自民党・公明党政府がオリンピック・パラリンピックにこだわったのは、国民が自国の選手やチームが活躍すると、共感欲を満足し、狂喜乱舞して、政権の支持が高まるからである。自民党・公明党政府は、中国、北朝鮮、韓国を敵視することによって、国民を煽り、「呉越同舟」の現象を作り出し、支持を得て、戦争をして相手国民を殺そうと思うまでに愛国心を高めるのである。しかし、人間には、深層心理の思考だけでなく、表層心理という意識しての思考も存在する。しかし、深層心理は表層心理よりも時間的に早く思考し、力が強いのである。人間が表層心理で思考するのは、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について実行するか抑圧するかを審議する時だけなのである。人間は、表層心理独自に思考することはできないのである。しかも、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令について審議し、抑圧するという結論を出し、意志で抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、抑圧できないのである。深層心理が生み出した感情を打ち消すには、表層心理で対抗する感情を生み出さなければならないが、人間は、表層心理では、感情を生み出せないのである。感情は、深層心理でしか生まれないのである。だから、人間は、感情をコントロールできないのである。しかも、深層心理は、快楽を求めて思考しているのである。だから、快楽に繋がる善事ならば行動の指令として生み出すことはあるが、快楽に繋がらない善事ならば行動の指令として生み出さないのである。逆に、快楽に繋がる悪事ならば行動の指令として生み出すことがあるのである。もちろん、深層心理が悪事を行動の指令として生み出せば、人間は、自らを意識して、表層心理で思考して、抑圧しようとする。これが、所謂、我慢である。人間は、表層心理で、自我に現実的な利得をもたらそうとして、道徳観や社会規約に照らして、思考して、深層心理が生み出した行動の指令としての悪事を、意志で抑圧しようとするのである。すなわち、我慢しようとするのである。人間が、表層心理で、道徳観や社会規約を考慮に入れて思考するのは、道徳観や社会規約に背馳した悪事を行えば、後に、他者から顰蹙を買い、自我に現実的な利得が得られないからである。しかし、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、表層心理で、思考して、意志で、深層心理が生み出した行動の指令としての悪事を抑圧しようとしても、抑圧できないのである。すなわち、我慢には、限界があるのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令としての悪事を実行してしまうのである。それが悲劇を生むのである。その最悪の形が殺人である。このように、深層心理が、常に、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているから、時には、他者を殺したいという自我の欲望が生みだし、人間は、それに動かされて、人殺しをすることがあるのである。なぜならば、深層心理の快楽を求める欲望には、道徳観や社会規約は存在しないからである。なぜならば、欲動には道徳観や社会規約が存在せず、道徳観や社会規約を守っても快楽が得られないからである。だから、深層心理の思考は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を得ることを目的として行われるのである。もちろん、人間は、表層心理で、道徳観や社会規約に基づいて、自我に現実的な利益をもたらそうと思考して、他者を殺したいという自我の欲望を、意志によって抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎる場合、表層心理の思考による意志で抑圧しようとしても、抑圧することができずに、人間は人殺しを実行することがあるのである。人間は、表層心理で、すなわち、意志で、深層心理を変えない限り、悲劇から免れることはできないのである。しかし、深層心理は、表層心理で、すなわち、意志で変えられないから、深層心理なのである。しかも、人間は、表層心理で、すなわち、意志で、深層心理を変えることができた時、人間性を失うのである。それは、神なのか石ころなのか。



苦しみが消えたということが、問題が解決されたということを意味する。(自我その521)

2021-08-18 14:42:41 | 思想
オーストリアの哲学者ウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しみが消えれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しみが消えたということが、問題が解決されたということを意味するのである。」と言う。苦しんでいる人間にとって、苦しみから逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜ、そのようなことが生じるのか。それは、苦しいという感情を生み出したのは深層心理であるが、人間は、表層心理で、苦しみをもたらしている原因を調べ、解決の方法を思考し、苦しみから逃れようとするからである。深層心理とは、無意識の精神活動である。一般に、無意識とは無意識の行動を言う。しかし、人間は、無意識のうちに思考しているのである。それが、深層心理の思考である。だから、深層心理は思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのであるが、人間は、感情と行動の指令という自我の欲望がどこから生まれてくるかわからず、それを意識すること無く行動することが多い。それが、所謂、無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。だから、無意識の行動は、決して、奇異な行動ではないのである。表層心理とは、人間の自らを意識しての精神活動である。だから、人間の表層心理での思考とは、人間の自らを意識しての思考である。理性とは、人間の表層心理での思考であり、人間の自らを意識しての思考である。意志とは、人間の表層心理での思考の結果であり、人間の自らを意識しての思考の結果であり、理性の結果である。さて、苦しいというのは感情であるから、深層心理が思考して生み出したものである。もちろん、深層心理は苦しいという感情を生み出す時には、行動の指令も同時に生み出している。しかし、行動の指令の通りに行動しても、苦しいという感情から解放されないと思われるから、人間は、表層心理で、苦しみをもたらしている原因を調べ、解決の方法を思考し、苦しみから逃れようとするのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、苦悩の原因となっている問題を突き止め、それを解決する方法を模索していている途中で、深層心理の心境が変わり、苦悩の原因となっている問題がどうでも良くなると、苦しいという感情が消えてしまうのである。苦しいという感情が消えてしまえば、苦悩の原因となっている問題も消えてしまうのである。つまり、人間にとって、心境や感情という情態が絶対的なものなのである。人間は、苦しいから、その苦しみから逃れるために、表層心理で、苦しみをもたらしている原因を調べ、解決の方法を思考するのである。だから、苦しみが無ければ、人間は、表層心理で、自らを意識して、思考する必要は無いのである。しかし、苦しみをもたらしたのは、深層心理である。人間は、誰しも、苦しみは喜ばない。だから、表層心理で、苦しみを招来することは無い。深層心理が、思考して、乗り越えられない自我の問題があるから、苦しいという感情と行動の指令という自我の欲望を生み出したのである。しかし、行動の指令の通りに行動しても、苦しいという感情から解放されないと思われるから、人間は、表層心理で、苦しみをもたらしている原因を調べ、解決の方法を思考し、苦しみから逃れようとするのである。つまり、人間は、苦痛があるから、その苦痛から逃れるために、深層心理が思考して解決できない自我の問題を、表層心理で、自らを意識して、解決しなければならないのである。つまり、人間は、深層心理がもたらす苦痛によって、深層心理が解決できない自我の問題を、表層心理で、解決するように仕向けられているのである。人間は、常に、深層心理の思考から始まるのである。人間は、常に、ある構造体に所属して、ある自我を持って、行動している。そして、人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則を満たそうと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのである。つまり、深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、自我の欲望を生み出し、人間は、その自我の欲望に動かされて生きているのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体の中で、他者からある特定の役割を担ったポジションが与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、国民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では夫と妻という自我があり、人間という構造体では男性・女性いう自我がある。だから、ある人は、人間という構造体では女性という自我を持ち、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では母という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って、行動しているのである。ある人は、人間という構造体では男性という自我を持ち、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では夫という自我を持ち、会社という構造体では人事課長という自我を持ち、コンビニという構造体では来客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って行動しているのである。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。だから、人間は、表層心理で、自我に執着しているのではなく、深層心理が、自我に執着しているのである。すなわち、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、自我に執着しているのではなく、無意識のうちに、自我に執着しているのである。だから、自我の執着から逃れられないのである。心境とは、感情と同じく、情態という心の状態である。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する情態である。ルーティーンという毎日同じようなことを繰り返す生活を可能にしているのは、心境である。感情は、喜怒哀楽などの情態であり、深層心理が思考して、行動の指令と一体化させて自我の欲望として生み出したものである。深層心理が生み出した感情が、自我である人間に、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動させる動力になっているのである。すなわち、心境がルーティーンという毎日同じようなことを繰り返す生活の動力となり、感情が行動の動力になっているのである。情態を表す言葉として、他に、気持ち、気分などがあるが、気持ちは感情に近く、気分は心境に近い言葉である。人間の心は、すなわち、深層心理は、たいていは、心境という情態にあり、時には、感情という情態になる。そして、情態は心境と感情が並び立つことがない。すなわち、心境が存在する時は、感情は存在せず、感情が存在する時は、心境は存在しない。人間は、常に、一つの心境という情態、もしくは、一つの感情という情態にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、人間の心境であり感情である。また、人間は、心境によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚する。深層心理は、得意の心境の情態の時には、自我を現在の状態を維持させようと思考して、人間に、現在の心境のままにいつもと同じような行動をさせ、現在の状態を維持させようとする。深層心理は、不得意の心境の情態の時には、自我である人間を現在の状態から脱却させようと思考する。しかし、深層心理は、どれだけ思考しても、強い感情を伴った行動の指令という自我の欲望を生み出さなければ、自我は、すなわち、人間は、ルーティーンという毎日同じようなことを繰り返すのである。なぜならば、深層心理には、超自我という機能が存在するからである。超自我とは、自我にルーティーンを守らせる機能である。超自我が、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとするのである。監禁された少女が、その場から逃げようとしなかったのは、超自我の作用である。もしも、深層心理が怒りという過激な感情と殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。表層心理での思考は、長く時間が掛かる。それは、深層心理は、快感原則という快楽を求める欲望に基づく思考だから、瞬間的に行われるが、表層心理での思考は、現実原則という自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に基づく思考だからである。人間は、表層心理で、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利得をもたらそうと思考するのである。道徳観や社会規約を考慮せずに行動すると、後に、他者から顰蹙を買う可能性があるからである。しかし、人間の表層心理での思考の役割は、常に、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議のみである。つまり、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を離れて思考することはできないのである。すなわち、表層心理独自で思考することはできないのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという自我の将来のことを考え、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかについて思考するのである。例えば、人間は、誰しも、朝起きると、学校・職場に行くことを考えて不快になることがある。この、学校・職場に行くことを考えて不快になったのは、人間の自らを意識しての表層心理の思考の結果ではなく、無意識の深層心理が思考して生み出したのである。表層心理での思考からは感情は生まれないのである。人間が、無意識のうちに、深層心理が思考して、不快な感情と学校・職場に行かないでおこうという行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。しかし、たいていの場合、不快な気持ちを振り切り、登校・出勤する。それは、超自我という機能が働いたからである。もしも、超自我が、深層心理が生み出した学校・職場に行かないでおこうという行動の指令を抑圧できなかったなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになるのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した不快な感情の下で、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、学校・職場に行かなかったならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した学校・職場に行かないでおこうという行動の指令をついて受け入れるか拒否するかについて思考するのである。そして、たいていの場合、深層心理が生み出した学校・職場に行かないでおこうという行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、深層心理が生み出した学校・職場に行かないでおこうという行動の指令を抑圧し、学校・職場に行こうとするのである。しかし、深層心理が生み出した不快な感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志も、深層心理が生み出した学校・職場に行かないでおこうという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、学校・職場に行かないのである。そして、人間は、自宅で、表層心理で、不快な感情の下で、この不快な感情と学校・職場に行かないでおこうという行動の指令という自我の欲望から逃れるためにはどうしたら良いかと思考するのである。なぜならば、学校・職場に行かないことは、自我に現実的な利得をもたらさないからである。しかし、たいていの場合、良い方法が思い浮かばず、苦悩するのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した学校・職場に行かないでおこうという行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧でき、学校・職場に行くことができたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した不快な感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、すぐには不快な感情は消えることがないからである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、不快な感情のままに、毎日、学校・職場に行くのである。そして、ルーティーンの生活に紛れて不快な感情は消えていけば良いが、不快な感情が積み重なると、その不快な感情から逃れるために、深層心理が自らに鬱病などの精神疾患をもたらすことがあるのである。深層心理は、鬱病などの精神疾患に罹患して、現実から逃れようとするのである。つまり、心境や感情という情態が人間を動かしているのである。心境が人間にルーティーンの生活を送らせ、感情が人間に行動を起こさせるのであるが、それは、常に、心境や感情という情態が深層心理を覆っているからである。さらに、深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在してからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろなものやことの存在を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろなものやことががそこに存在していることを前提にして、思考し、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろなものやことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろなものやことの存在が証明できるから、自分やものやことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして、思考し、活動しているのである。人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在、ものの存在、ことの存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。確信があるから、深層心理は自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分やものやことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則を満たそうと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、何かをして、気分転換をはかり、心境を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の変換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができないから、何かをすることによって、心境を変えるのである。つまり、人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。欲動とは、深層心理に内在していて、深層心理を動かしている四つの欲望である。欲動には、第一の欲望として自我を確保・存続・発展させたいという欲望があり、第二の欲望として自我を他者に認めてもらいたいという欲望があり、第三の欲望として自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望があり、第四の欲望として自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。すなわち、深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動の四つの欲望に基づいて、快感原則によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて生きているのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。ミャンマーの国軍兵士が、無差別に、市民を射殺しているのは、上官の命令に従っているからであり、上官の命令に背けば、兵士という自我を失うからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。そうしないと、自分の力を発揮できないのである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけず、生きる目標を失ってしまうから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できず、自分の力を発揮できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。愛国心という自我の欲望を直視しなければならないのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。自我の対他化とは、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。この欲望がかなえば、自我が伸張し、自分の力が発揮できたように思うのである。だから、深層心理は、自我が他者から見られていることを意識して思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理は、どのようにすれば、その人から好評価・高評価を得られるかと考えて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。ラカンに、「人は他者の欲望を欲望する」という言葉がある。それは、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」という意味である。ラカンのこの言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。他者の欲望を獲得することが、自分の力を発揮したことの現れなのである。だから、逆に、自我が他者に認められないと、深層心理は、すなわち、人間は苦悩に陥るのである。人間が、朝起きると、学校・職場に行くことを考えて不快になるのも、学校・職場という構造体で、同級生、教師・上司、同僚などの他者から評価されていないからである。また、人間にとって、最も強い感情は怒りである。深層心理が怒りの感情を生み出し、自我である人間を、深層心理の行動の指令通りに動かそうとするのである。人間は、激しい怒りの感情を抱くと、超自我や表層心理で抑圧しようとしてもできずに、他者を侮辱しろ、他者を殴れ、他者を殺せなどの深層心理の指令通りに、過激な行動を起こしてしまい、悲劇、惨劇を生むのである。さて、それでは、なぜ、深層心理が怒りの感情を生み出したのか。それは、自我が他者に叱責されたり、陰口を叩かれたり、侮辱されたり、殴られたりなどしたからである。自我が他者に叱責されたり、陰口を叩かれたり、侮辱されたり、殴られたりなどすることは、自我が他者によって下位に落とされたことを意味するのである。深層心理は、常に、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとしているから、自我が他者によって下位に落とされたので、怒りの感情を生み出したのである。つまり、プライドが傷付けられたから、怒ったのである。深層心理は、常に、自我が他者に認められたいという欲望を持っているから、それが、認められるどころか、貶され、プライドがずたずたにされたから、傷付き、その傷心から立ち上がろうとして、プライドを傷つけた他者に対して、怒りの感情と侮辱しろ、殴れ、殺せなどの過激な行動の指令を自我の欲望として生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。つまり、深層心理は、他者によって自我が下位に落とされたから、その他者に対して、怒りの感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、過激な行動の指令通りに自我を動かし、その他者を下位に落として、自我を上位に立たせようとするのである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望である。それは、「人は自己の欲望を対象に投影する。」という一文で言い表すことができる。それは、「人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。」という意味である。深層心理は、対象の対自化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとするのである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者を支配することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、深層心理が、すなわち、人間が、喜び・満足感が得られれるのである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。わがままは盲目的な支配欲の現れである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、北朝鮮の金正恩による殺戮は、国民からの承認欲を満足させるためだけでなく、国民に対する支配欲を満足させるために起こしているのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば、快楽を得られるのである。自我の対他化による快楽は、自我が他者に好評価・高評価を受けることによって得られるが、対象の対自化による快楽は、自我の志向性(観点・視点)で他者・物・現象を支配することによって得られるのである。さらに、対象の対自化が高じると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生じる。まず、有の無化という作用であるが、深層心理は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、人間の無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。次に、無の有化であるが、それは、「人は自己の欲望を心象化する。」という一文で言い表すことができる。それは、深層心理は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、人間の無意識のうちに、この世に存在しているように思い込むという意味である。深層心理は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。神が存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理は、自我と他者が心の交流をすること、愛し合う、友情を育む、協力し合うようにさせることによって快楽を得るのである。自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりするのである。それがかなえば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。また、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うこともある。それが、「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象である。この欲望は、愛情、友情、協調性を大切にする思いであり、自我の立場と他者の立場は同等であるから、一般的に、歓迎されるのである。だから、この欲望は、自我の評価を他者に委ねるという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を一方的に支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うのである。「呉」の国と「越」の国の仲が悪いのは、二国は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。つまり、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。しかし、試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなり、自分がイニシアチブを取りたいから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。つまり、対象の対自化が自我の力が発揮できると思うから、共通の敵がいなくなると、我を張る(自我を主張する)のである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。しかし、中学生や高校生が、仲間という構造体を作り、友人という自我で、構造体に所属していない同級生をいじめるのは、友人と連帯感ができて仲間という構造体が形成されているという快楽を得ているとともに、一人で生きている者への嫉妬心からである。カップルや夫婦という構造体にある者が、相手から別れを告げられてストーカーになり、相手を殺すことまであるのは、自分の代わりの恋人や夫に対する嫉妬心からである。自民党・公明党政府がオリンピックにこだわるのは、国民が自国の選手やチームが活躍すると、共感欲を満足し、狂喜乱舞して、政権の支持が高まるからである。自民党・公明党政府は、中国、北朝鮮、韓国を敵視することによって、国民を煽り、「呉越同舟」の現象を作り出し、支持を得ようとしているのである。快感原則とは、深層心理に存在する、道徳観や社会的規約を有さず、その時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望である。感情と行動の指令という自我の欲望とは、深層心理が思考して、生み出したものである。深層心理が生み出した感情が、自我である人間に、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動させる動力になっているのである。


人間は、深層肉体と深層心理によって生かされている。(自我その520)

2021-08-14 14:25:20 | 思想
ほとんどの人は、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている。それは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、無意識のままに行動して良く、意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、ほとんどの人は、常に、自ら意識して肉体を動かし、自ら意識して思考していると思っている。人間の自ら意識しての肉体の動きを表層肉体と言い、人間の自ら意識しての精神の動きを表層心理と言う。確かに、人間は表層肉体で肉体を動かし、表層心理で思考する時がある。しかし、表層肉体で肉体を動かすことや表層心理で思考することは、人間の活動の一部にしか過ぎない。人間は、深層肉体と深層心理によって生かされているのである。深層肉体とは人間の無意識の肉体の動きであり、深層心理とは人間の無意識の精神の動きである。深層肉体は人間をパンを求めてひたすら生きるようにし、深層心理は人間をパンを食べる時にも快楽を求めて生きるようにしているのである。まず、深層肉体であるが、そのあり方は単純である。深層肉体は、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという意志を持って、人間を生かしている。深層肉体は、精神や肉体がどんな状態に陥ろうと、ひたすら人間を生かせようとする。深層肉体は、人間の意志によらず、深層心理独自の意志によって、肉体を動かし、人間を生かしている。人間は、深層肉体の意志という肉体そのものに存在する意志によって生かされている。人間は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の意志によって生かされているのである。深層肉体の典型は内蔵である。人間は、誰一人として、自分の意志で、肺や心臓や胃などの内蔵の動きを止めることはできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。人間の無意識のうちに、深層肉体が呼吸をしているのである。テレビの学園ドラマで、授業中、教師に、「おまえは何をしているのだ。」と注意された生徒が、とぼけて、「息をしています。」と答えるシーンがあったが、その生徒は間違っている。誰も、意識して息をしていない。人間が意識して息をしているのならば、寝入ると同時に、息が止まるはずである。確かに、深呼吸という意志による意識的な行為も存在するが、それは、意識して深く息を吸うということだけでしかなく、常時の呼吸は無意識の行為、すなわち、深層肉体の行為である。呼吸は、誕生とともに、人間の深層肉体に備わっているあるから、人間は、生きていけるのである。心臓も、人間の意志で動いているのではない。だから、止めようと思っても、止めることはできない。心筋梗塞のような異常な事態に陥ったり、自らや他者が人為的にナイフを突き立てたりなどしない限り、止まらないのである。確かに、人工心臓は存在するが、それは、新しい心臓を作り出したのではなく、現に存在している心臓を模倣したものである。だから、人工心臓は、生来の心臓の一部の働きしかできないのである。さらに、胃も、人間の意志によって動いているのではない。心臓や肺と同じく、誕生と同時に、深層肉体の意志として、既に動いているのである。深層肉体は、人間が自殺に突き進んでも、人間を生かせようとする意志を捨てることは無い。だから、どのような自殺行為にも、苦痛が伴うのである。つまり、人間の肉体は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の働きによって生かされているのである。次に、深層心理であるが、深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。しかし、無意識と言っても、それは何もしていないということではない。人間は、自らは意識していないが、思考しているのである。それが深層心理である。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。「言語によって構造化されている」と言うように、深層心理が言語を使って論理的に思考しているのである。ラカンが言うように、人間は無意識のうちに、深層心理が言語を使って論理的に思考しているのである。深層心理は、ひたすら、快楽を求め、不快を避けようと意志して、思考しているのである。深層心理の快楽を求め不快を避けようという意志も、深層肉体のひたすら生きようという意志と同様に、人間は、自ら意識して、生み出すことはできない。そして、自ら意識して、自らの意志によって、生み出すことをやめようとしても、やめることはできないのである。それは、深層心理そのものに、生来、備わっている意志だからである。さて、深層肉体、深層心理は、人間の無意識の活動であるが、人間は自我を持つことによって、肉体の活動は深層肉体と表層肉体に分離し、精神の肉体の活動は深層心理と表層心理に分離するのである。表層肉体とは、人間の自らを意識しての自らの意志による肉体の活動である。表層心理とは、人間の自らを意識しての自らの意志による精神の活動である。しかし、深層肉体の活動は、人間が自我を持っても、人間の誕生時と同じく、ひたすら人間を生かせようという意志で動いている。しかし、深層心理の活動は、人間が自我を持つことによって、人間という動物性から自我が主体にする人間性に変化するのである。すなわち、深層心理の、快楽を求め不快を避けようという意志に基づく思考の活動は、自我を主体にして行われるようになるのである。さて、自我とは何か。自我とは、人間が、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、構造体の中で自我を得て、初めて、人間として活動できるのである。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、夫婦という構造体には夫・妻という自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があり、男女関係という構造体には男性・女性という自我がある。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。すなわち、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、構造体の中で、自我として、生きるしかないのである。人間は、常に、ある構造体に所属していて、ある自我を持って生きているが、深層心理が、人間の無意識のうちに、ある自我を主体に立て、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。快楽を求めるとは、その時その場でひたすら快楽を求め、不快を避けようという欲望であり、そこには、道徳観や社会規約は存在しない。自我の欲望を満たすことによって、快楽を得ようとするのである。それでは、深層心理は、どのように思考すれば、快楽を得ることができるのか。欲動に呼応すれば快楽を得ることができるのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。だから、深層心理は、欲動に基づいて思考するのである。つまり、深層心理は、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動が、深層心理を動かしているのである。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなえば、快楽を得ることができるから、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。欲動の四つの欲望の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理は、自我を保身化することによって、その欲望を満たそうとする。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。深層心理は、自我を対他化することによって、その欲望を満たそうとする。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。深層心理は、対象を対自化することによって、その欲望を満たそうとする。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。深層心理は、自我と他者を共感化することによって、その欲望を満たそうとする。しかし、馬鹿にされたりなどして、自我が傷つけられたならば、深層心理は、怒りの感情とともに相手を侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出す。深層心理は、怒りの感情によって、人間を動かし、侮辱・暴力などの過激な行動を行わせ、自我の欲望をかなえることを妨害した相手をおとしめ、傷付いた自我を癒やそうとするのである。しかし、そのような時には、まず、超自我が、ルーティーンを守るために、侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望から発している機能である。深層心理には、超自我という、毎日同じようなことを繰り返すように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとする機能も存在するのである。超自我は、これまでの構造体の中でこれまでの自我を持して暮らしたいという欲動の第一の欲望である自我の保身化という作用から発し、毎日これまでと同じように暮らしたいというルーティーン通りの行動を守ろうとする機能である。もしも、過激な行動を抑圧しようという超自我の機能が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議するからである。現実的な利得を求めるとは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうという欲望である。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実的な利得を求めて、侮辱したり殴ったりしたならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を侮辱したり殴ったりしてしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。さて、欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、深層心理は、自我を保身化することによって、その欲望を満たそうとする。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。退学者・失業者が苦悩するのは、学校・会社という構造体から追放され、生徒・会社員という自我を失ったからである。裁判官が総理大臣に迎合した判決を下し、高級官僚が公文書改竄までして総理大臣に迎合するのは、何よりも自我が大切だからである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は、自殺した生徒よりも自分たちの自我を大切にするから、事件を隠蔽するのである。いじめた子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないから、いじめの事実を隠し続け、自殺にまで追い詰められたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、構造体を維持しようとするのである。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、構造体の消滅を認めるしかないから、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできずに、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令に従ってしまうである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。しかし、人間は、愛国心、すなわち、自我の欲望を、自ら、意識して生み出しているわけではなく、無意識のうちに、深層心理が愛国心という自我の欲望を生み出しているのである。つまり、世界中の人々は、皆、自らが意識して生み出していないが、自らの深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。だから、ニーチェの「永劫回帰」という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望であるが、深層心理は、自我を対他化することによって、その欲望を満たそうとする。自我の対他化は、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしている。深層心理は、同級生・教師や同僚・上司という他者から、生徒や会社員という自我に好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、馬鹿にされたり注意されたりして、悪評価・低評価を受け、自我が傷付くと、深層心理は、傷心という感情と不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出すことがある。しかし、人間は、表層心理で、現実的な利得を求めて、傷心という感情の下で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令について思考し、行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとする。それは、登校・出勤した方が、生徒や会社員という自我を存続でき、現実的な利得を得られるからである。しかし、深層心理が生み出した傷心という感情が強いので、登校・出勤できないのである。その後、人間は、表層心理で、不登校・不出勤を指示する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとする。しかし、たいていの場合、それも上手く行かずに、苦悩に陥るのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。そして、苦悩が強くなり、自らそれに堪えきれなくなり、自殺したりするのである。つまり、同級生・教師や同僚・上司という他者の悪評価・低評価が苦悩の原因であり、襲撃や自殺は苦悩から脱出するためにあるのである。また、受験生が有名大学を目指すのも、少女がアイドルを目指すのも、自我を他者に認めてほしいという欲望を満足させるためである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望であるが、深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。対象の対自化は、深層心理が、自我の志向性(観点・視点)で。他者・物・現象を捉えることである。対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。)という一文で表現することができる。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生まれる。有の無化とは、深層心理が、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。有の無化は、「人は自己の欲望を心象化する」という一文で言い表すことができる。無の有化とは、深層心理が、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造することである。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、深層心理は、自我と他者を共感化させることによって、その欲望を満たそうとする。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえば、喜び・満足感が得られるのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、深層心理のルーティーンの生活を守ろうとする超自我や表層心理の現実的な利得を求める思考で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、それほど屈辱感が強かったのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは、何よりも、他クラスを倒して皆で喜びを得るということに価値があるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終われば、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否するという仲の悪い状態に戻るのである。このように、人間は、自我の動物であるから、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望に動かされてしまうのである。次に、表層肉体であるが、表層肉体とは、表層心理による肉体の活動である。すなわち、表層肉体とは、人間の意識しての肉体の活動、人間の意志による肉体の活動である。表層肉体は、深呼吸する、挙手をする、速く走る、体操するなど、人間の表層心理による意識しての意志による肉体の活動である。スポーツという日常生活には存在しないことができるのは、自ら意識して、自らの意志によって表層肉体の同じ活動を繰り返したからである。表層肉体の同じ活動の繰り返しが深層肉体としてに定着し、無意識のうちに体が動き、スポーツができるようになるのである。しかし、表層肉体の活動は、肉体の活動の一部しか過ぎないのである。肉体の活動のほとんどを深層肉体に負っているのである。確かに、人間の人間たる所以の一つは、表層心理で、自ら意識して、自らの意志によって、行動することにある。それが、表層肉体の行為である。しかし、表層肉体の行為と言えども、表層心理の意識や意志が関わるのは、動作の初発のほんの一部にしか過ぎないのである。例えば、歩くという表層肉体の動作がある。確かに、歩くという動作は、歩こうという意志の下で歩くという意識の下で表層心理によって始められる。しかし、両足を交互に出すという動きは、誰しも意識して行っていない。もしも、右、左と意識して足を差し出していたならば、意識することに疲れて、長く歩けないだろう。だから、最も簡単に意識して行っていると考えられる動作の一つである歩くという表層肉体の動作すら、意識して行うのはほんの一部であり、そのほとんどは、無意識に、つまり、深層肉体によって行われているのである。歩きながら考えるということが可能なのも、歩くことに意識が行っていないからである。ほとんどの肉体行動は、人間は、表層心理で、自ら意識して、自分の意志によって、行っているのではなく、すなわち、表層肉体の行為ではなく、深層肉体の行為なのである。つまり、人間の肉体は、深層肉体によって、動かされ、生かされているのである。さて、言うまでもなく、人間には、自らを意識しての思考も存在する。それが、表層心理での思考である。表層心理とは、人間が自らを意識すること、人間が自らを意識することによって始まる思考活動である。人間の表層心理での思考の結果が、所謂、意志である。これは、意識された意志であり、深層肉体や深層心理の無意識の意志とは異なる。さて、人間は、深層心理が、まず、快楽を求め、不快を避けようと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのであるが、その後、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、自我に利得を得ようという現実原則の視点から、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考することがあるのである。その思考の結果、生み出されたものが、所謂、意志である。だから、人間は、表層心理での思考だけでは、感情を生み出せないばかりか行動もできないのである。しかし、人間は、必ずしも、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考した後で、意志によって、行動しているわけでは無いのである。むしろ、人間は、表層心理で意識されることなく、表層心理で思考することなく、深層心理が、快楽を求め、不快を避けようと、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが、所謂、無意識の行動である。深層心理が怒りなどの過激な感情とともに侮辱しろ・殴れなどのルーティーンから外れた過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できなかった場合、人間は、表層心理で、自我に利得を得ようという現実原則の視点から、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考するのである。なぜ、深層心理が過激な感情とルーティーンから外れた過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できなかった場合、人間は、表層心理で、自我の存在を意識して、現実的な利得を求めて、思考するのか。それは、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。また、人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時に、自らの存在を意識する。人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自らの行動や思考を意識することである。そして、自らの存在を意識すると同時に、思考が始まるのである。それが、表層心理での思考である。それでは、なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識し、自らの行動や思考を意識するのか。それも、また、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。さらに、無我夢中で行動していて、突然、自らの存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識することがあるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じた時、表層心理で、自らの存在を意識して、現実原則の視点から、思考するのである。ニーチェは「意志は意志できない」と言う。同じように、人間は、思考も意志できないのである。深層心理の思考が人間の意志によって行われないように、表層心理の思考も人間の意志によって行われないのである。人間が自らの存在を意識すると同時に、表層心理での思考が始まるのである。






人間は、他者から与えられた自我を自分として生きている。(自我その519)

2021-08-02 13:24:38 | 思想
ほとんどの人は、この世に、自分として存在していると思っている。しかし、人間には、自らが決める自分という独自のあり方は存在しない。人間は、他者から与えられた自我を自分だと思い込んで存在しているのである。人間は他者から与えられた自我を主体に立てて、それを自分だと思い込んで生きているのである。しかし、人間は、生きるためには、他者から与えられたとは言え、自我が必要なのである.。なぜならば、人間とは社会的な存在者であり、社会生活を営むためには自我が不可欠だからである。人間は、他者との関係性との中で何者かになり、人間として存在することができるのである。他者との関係性を絶って、一人で生きることはできないのである。さて、それでは、自我とは何か。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったポジションが与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・男児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・女児などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているのである。だから、ある人は、人間という構造体では女性という自我を持ち、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では母という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って、行動しているのである。また、ある人は、人間という構造体では男性という自我を持ち、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では夫という自我を持ち、会社という構造体では人事課長という自我を持ち、コンビニという構造体では来客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って行動しているのである。だから、自分とは、自らを他者や他人と区別している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、同じ構造体の人々である。他人とは、別の構造体の人々である。すなわち、自分とは、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と区別しているあり方なのである。だから、人間には、自分そのものは存在しないのである。人間は、自分そのものは存在せず、別の構造体に入れば、別の自我を持ち、別の自我になるだけなのである。人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、他者と関わりながら、暮らしているのである。別の構造体に所属すれば、別の自我を持つのである。だから、人間は、自我を有して生まれていない。自我が持つ能力を有して生まれてくるのである。人間は、カオスの状態で、動物としての本能を持って、生まれてくるのである。人間は、カオスの状態で生まれてきて、不安だから、コスモスの状態を求め、構造体に所属し、自我を持とうとするようにできているのである。また、人間は、構造体に所属し、自我を有して、初めて、人間としての思考が生まれてくるのである。もちろん、それは自我を主体にした思考である。さて、人間の最初の構造体は家族であり、最初の自我は息子・娘である。人間は、家族という構造体に所属し、息子・娘だという自我が得られて、初めて、人間としての思考が生まれてくるのである。また、人間は、構造体に所属し、自我を持つようになって、精神が安定し、安心して、快楽を求めて思考し、行動できるようになるのである。幼児は、家族という構造体に所属し、息子・娘だという自我を得て、初めて、安心感を得て、快楽を求めて、思考し、行動できるのである。自我の成立は、アイデンティティーの確立を意味する。幼児が息子・娘という自我を持ったということは、動物を脱し、人間になったということ、つまり、人間界に入ったことを意味するのである。しかし、人間は、自ら意識して思考して、意志によって快楽を求めて行動しているのではない。人間の自らを意識しての精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は、表層心理で、快楽を求めて、思考して、意志によって行動しているのではない。深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、人間は、表層心理で、思考して、行動することがあるのである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。深層心理の思考は、一般に、無意識と言われている。つまり、幼児が、家族という構造体の中で、息子・娘という自我を持ち、人間になった時から、幼児の深層心理が、息子・娘という自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、息子・娘という自我を持った人間を動かそうとするのである。確かに、人間は、表層心理で、自らを意識して、現実的な自我の利得を求めて、思考して、意志によって行動することがある。しかし、人間は、表層心理の思考では、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すことはできないのである。すなわち、表層心理の思考だけでは、行動できないのである。なぜならば、人間は、表層心理で、自らの状態を意識して、現実的な自我の利得を求めて、思考するのは、常に、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について審議し、その結果、意志によって行動する時だけだからである。さて、幼児の自我の欲望の一つに、エディプスの欲望、エディプス・コンプレクスがある。フロイトの用語である。エディプスの欲望とは、最も自分に親しげに愛情を注いでくれる異性の親という他者に対する性愛的な欲望(近親相姦的愛情)である。すなわち、エディプスの欲望とは、息子は母に対しての、娘は父に対しての性愛的な欲望である。エディプスの欲望を抑圧する過程をエディプス・コンプレクスと言う。幼児の深層心理は、家族という構造体の中で、息子・娘という自我の安定を得ると、息子・娘という自我が主体に立てて、快楽を求めて、思考して、エディプスの欲望(母・父に対して性愛的な欲望)という自我の欲望を生み出し、息子・娘という自我を持った人間を動かそうとするのである。つまり、幼児が、家族という構造体の中で、息子・娘という自我を持ち、人間になった時から、息子は母に対して、娘は父に対して性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を抱き始めるのである。すなわち、人間界に入るということ、つまり、人間になるということの一つは、異性の他者に対して性愛的な欲望を抱き始めるということなのである。幼児が、人間になれば、すなわち、家族という構造体の中で、息子・娘であるという自我が成立すれば、深層心理が、異性の親である、母・父に対して性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を生み出し、息子・娘という自我を持った人間を動かそうとするのである。もちろん、この欲望は決してかなえられることは無く、幼児は、絶望することになる。それは、男児の母への性愛的な欲望(近親相姦的愛情)には父が大きな対立者として立ちふさがり、女児の父への性愛的な欲望(近親相姦的愛情)には母が大きな対立者として立ちふさがり、絶対的な裁き手としての社会(周囲の人々)もこの欲望を容認せず、父・母に味方するからである。そこで、男児・女児は、この家族という構造体の中で生きていくために、そして、社会(周囲の人々)の中で生き延びるために、自我の欲望を、深層心理(無意識の世界)の中に抑圧するのである。つまり、自我の安定のために、自我の欲望を抑圧するのである。これが、エディプス・コンプレクスである。つまり、人間になるということは、家族という構造体において、息子・娘という自我が成立し、アイデンティティーが確立された時から始まるが、それとともに、エディプスの欲望という自我の欲望が生じるのである。もちろん、それは、家族という構造体を破壊する反社会的な欲望だから、他者や他人から反対され、自らも抑圧しようとする。しかし、幼児だから、このような反社会的な自我の欲望を抱くのではない。人間は、死ぬまで、反社会的な自我の欲望を抱き続けるのである。なぜならば、人間は、死ぬまで、常に、何らかの構造体に属し、何らかの自我を持つので、深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするからである。もちろん、息子・娘の性愛的な欲望(近親相姦的愛情)という自我の欲望は抑圧しなければならない。その欲望のままに動くと、父・母、社会(周囲の人々)が容認せず、家族という構造体から追放され、毎日同じようなことをして暮らすというルーティーンの行動ができなくなる虞があるからである。だから、まず、深層心理の超自我が性愛的な欲望(近親相姦的愛情)という自我の欲望を抑圧しようとする。超自我とは、人間をルーティーン通りの行動に導こうとする機能である。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、現実的な利得を求めるために、思考して、性愛的な欲望(近親相姦的愛情)という自我の欲望を抑圧しようとする。人間は、表層心理で、他者に配慮し、道徳観・社会規約に基づいて、深層心理が生み出した性愛的な欲望(近親相姦的愛情)という自我の欲望のままに行動したならばどうなるかという後のことを考慮し、自我の欲望を抑圧しようとするのである。人間が、表層心理で、自らを意識して、他者に配慮し、道徳観・社会規約に基づいて、思考するのは、道徳観・社会規約に基づいて行動しなければ、後に、他者から、罰せられたり非難されたりして、現実的な利得を得られないからである。さて、人間は何も考えず、何も感じず、何もせずに、生きることはできない。それは、人間は、自らが意識して求めなくても、深層心理が、快楽を求めて思考して、人間を動かそうとしているからである。言わば、人間は、快楽を求めて、生きるようにできているのである。さて、それでは、快楽とは何か。快楽とは気持ちが良いという感情である。気持ちが良いから、人間は快楽を求めて生きているのである。気持ちが良いという表現は、言い得て妙である。なぜならば、気持ちが良いということは、気持ちにとって良いという感情を意味し、すなわち、人間にとって良いという感情を意味するからである。だから、人間は、快楽を求めて、生きるのである。しかし、快楽は、他の感情と同じく、人間の心から生じ、感じられるものであり、自分の意志では作り出すことができないのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。しかし、ほとんどの人は、自ら意識して、道徳観や社会規約にに基づいて、思考し、その思考の結果を意志として行動していると思っている。すなわち、ほとんどの人は、表層心理で、道徳観や社会規約にに基づいて、思考して、行動していると思っているのである。確かに、人間は、表層心理で、自ら意識して、思考することがある。その思考の結果が意志である。しかし、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議する時だけなのである。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのであるが、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、すなわち、表層心理で思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。むしろ、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。ルーティーンという、同じようなことを繰り返す日常生活の行動は、無意識の行動である。だから、人間の行動において、深層心理が思考して行う行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。それは、表層心理で意識して審議することなく、意志の下で行動するまでもない、当然の行動だからである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。しかし、後者の場合、人間は、表層心理で、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、その時その場での快楽を求めて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちである。深層心理は、超自我によって、ルーティーンの生活を守ろうとして、この自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強い場合、抑えきれないのである。超自我が過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求めて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。強い傷心の感情が、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。強い怒りの感情が、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。さて、フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、快楽を求めて、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。つまり、深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。人間が、時として、表層心理で、自らを意識して思考する時があるが、それは、常に、深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望についてである。つまり、人間の行動は、表層心理の思考である理性によってではなく、深層心理が快楽を求めて思考して生み出したものなのである。しかし、多くの人は、深層心理の存在を知らず、深層心理の思考の力を知らないから、自我の欲望の存在に気付くことがあると、自らが表層心理で意識して思考して生み出しているように誤解するのである。しかし、自らが表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているのであるから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自我の欲望は、紛れもなく、自らの欲望だから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きているのである。さて、深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているが、快楽は、欲動にかなった行動をすれば、得られるのである。だから、深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。さて、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望がある。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、簡潔に言えば、自我という社会的な地位や社会的な位置を守りたいという欲望である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っているのは、深層心理が、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、表層心理で自我の欲望を意識することなく、自我の欲望のままに行動しているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で意識して考えることがなく、無意識の行動だから可能なのである。また、人間は、表層心理での、現実的な利得を求める欲望に基づいて、意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想そのものである。しかし、人間の生活は、必ずしも、毎日が、平穏ではない。嫌なことがある。それでも、学校や職場へ行くのである。生徒という自我を持った人が高校という構造体で教諭から注意され、社員という自我を持った人が会社という構造体で上司から注意されると、深層心理は、傷心・怒りの感情と反論しろという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を唆すのだが、深層心理の超自我がルーティーンを守るために、反論しろという行動の指令を抑圧しようとする。もしも、自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、反論した後で、自我が教諭や上司という他者からどのようにされるか想像し、現実的な利得を得るためにようとして、反論しろという行動の指令を抑圧するのである。そして、明日も、また、学校や会社へ行くのである。このように、日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、その時その場での快楽を求める欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちである。その時、深層心理の超自我がルーティーンを守るために、自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強い場合、抑えきれないのである。そして、超自我が自我の欲望を抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求める欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が思考して生み出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した傷心・怒りの感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した傷心・怒りの感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。強い傷心の感情は、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。強い怒りの感情が、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。そして、それが国という構造体同士の争いになれば、戦争になるのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、誰しも、愛国心を持っているのである。それは、国という構造体に所属し、国民という自我を持っているからである。かつて、よく、愛国心の有無、強弱に関するアンケートがあった。日本人の愛国心についての状況を知りたいがためである。しかし、それは全く無意味である。誰でも愛国心は存在するからである。確かに、日本が嫌いだという人がいる。しかし、それは、自分の理想とする日本と現在の日本が違っていると思うからであり、決して、愛国心が存在しないわけではない。愛国心は、日本人だけでなく、全世界の人々に共有されている。なぜならば、全世界の人々が、いずれかの国に所属し、国民という自我を持っているからである。愛国心とは、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている者の、深層心理が思考して生み出す自我の欲望だからである。それは、郷土という構造体に所属しているから愛郷心を、家族という構造体に所属しているから家族愛を、会社というという構造体に所属しているから愛社精神を、学校という構造体に所属しているから愛校心を、カップルという構造体に所属しているから恋愛感情を、仲間という構造体に所属しているから友情を、宗教団体という構造体に所属しているから信仰心を抱くのと同じである。それらも、皆、深層心理が思考して生み出す自我の欲望である。さて、「子供は正直である。」と言われる。この言葉の真意は、大人は嘘をつくことがあるから言ったことの全部を信用することはできないが、子供は嘘を言わないから言ったことの全部を信用できるということである。言うまでもなく、子供に対して好意的な言葉である。しかし、「子供は正直である。」からこそ、些細なことで喧嘩するのである。相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、簡単に喧嘩が始まるのである。子供は、お互いに、相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、喧嘩が絶えないのである。自分の権利だけを主張することは、自我の欲望に忠実であるということである。子供は、子供としての自我の欲望に忠実なのである。つまり、愛国心の発露も幼児の行為なのである。子供は正直だと言う。それと、同様に、愛国心の発露も正直な心情の吐露である。しかし、それは、後先を考えない、幼児の行為である。日本人の愛国主義者と中国の愛国主義者の争い、日本人の愛国主義者と韓国の愛国主義者の争いは、幼児の争いである。幼児の悪行は大人が止めることができる。しかし、日本、中国、韓国の政治権力者は、それを止めるどころか、むしろ、たきつけている。彼らもまた幼児的な思考をしているからである。それ故に、愛国心による争いは収まる気配は一向になく、むしろ拡大しているのである。為政者、国民、共々、愛国心から発する自我の欲望に従順である限り、収まらないのである。また、小学校・中学校・高校という構造体で起こるいじめによる自殺も、自我の欲望に忠実であることの悲劇、惨劇である。なぜ、いじめられていた生徒、親に訴えなかったのか。それは、そうすることで、いじめっ子たちは罰せられるかも知れないが、自分は、仲間という構造体から追放され、学校という構造体やクラスという構造体に居場所を無くすからである。それを彼は最も恐れたのである。自殺するのは、いじめという屈辱から解放され、いじめっ子たちは罰せられるからである。自殺すれば、仲間という構造体から追放され、学校という構造体やクラスという構造体に居場所が無くすという不安を味わわないで済むのである。それでは、なぜ、いじめっ子たちは、いじめという非人間的な行為を行ったのか。それは、いじめっ子たちの深層心理にとって、いじめは楽しいからである。小学生・中学生・高校生が、仲間という構造体で、一人の人をいじめるのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、連帯感という快楽が得られるからである。また、嫌いな人間や弱い人間をいじめると、人間は、快感を覚えるのである。なぜならば、人間にとって、嫌いな人間の嫌いな部分とは、自分自身も身に付ける可能性がある、忌避したい部分であるからである。だから、いじめっ子たちは、自らが持つかも知れない嫌いな部分や弱い部分を持っている同級生を仲間という構造体でいじめることで、それを支配したと思えるから、快楽を覚えるのである。それでは、なぜ、いじめを見ていた周囲の中学生たち注意することも無く、教師に訴えることをしなかったのか。そうすれば、自分が、次に、いじめっ子たちのいじめのターゲットになる可能性があるからである。大人たちが現れ、いじめっ子たちを罰するということがわかった時に、安心して、いじめの事実を話すのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたい・好かれたい・評価されたいという欲望である。簡潔に言えば、承認欲である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚・上司という他者から生徒や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、悪評価・低評価を受けると、心が傷付くのである。その傷心から解放されるために、深層心理が怒りの感情を生み出すのである。人間にとって、最も強い感情は怒りである。深層心理が怒りの感情を生み出し、自我である人間を、深層心理の行動の指令通りに動かして、傷心の感情から解放されようとするのである。深層心理は、自我を傷つけた他者に対して、怒りという過激な感情と侮辱しろ・殴れ・殺せなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。人間は、過激な怒りの感情を抱くと、深層心理の超自我や表層心理の意志で抑圧しようとしてもできずに、他者を侮辱しろ、他者を殴れ、他者を殺せなどの深層心理の指令通りに、過激な行動を起こしてしまい、悲劇、惨劇を生むのである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。支配欲である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。ロシアのプーチン大統領や北朝鮮の金正恩最高指導者が、敵対勢力である政治家やジャーナリストを弾圧したり殺害したりするのは、この支配欲からである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理には、二つの機能が起こり、付け加わる。一つは、有の無化という機能である。この世に、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象が存在していると、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。自己正当化によって、心に安定を得ようとするのである。もう一つは、無の有化という機能である。さて、この世に、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象が存在しなければ、深層心理が、存在しているように思い込むというということである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定を得ようとするのである。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。共感欲である。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理は、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとするのである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。北朝鮮の金正恩を中心とした政治権力者が、アメリカを共通の敵として、大衆に協力を求め、それが成功しているのである。日本の自民党政権は、中国、北朝鮮、韓国を共通の敵として、大衆に協力を求め、それが成功しているのである。また、人間が友人が作るのは、一人の自我で行動するのは不安だから、同じ境遇の他者を仲間とし、その結果、友情という快楽を得るのである。つまり、友情があるから友人になるのではなく、一人の自我では不安だから友人を作り、仲間という集団を作るのである。そして、学校では、仲間という集団で、ある一人をターゲットにして敵としていじめ、友情という共感感情という快楽を得るのである。ターゲットになるのは、女子生徒、弱い男子生徒、弱い教師である。仲間で勝利という共感感情を得たいから、ターゲットになるのは、常に、弱小の個人である。また、ターゲットに恨みはなくても、仲間という構造体から離れ、友人という自我を失うことが不安だから、仲間と一緒になって、嫌がらせをしたり暴力を加えたりするのである。そして、自殺に追い込むことがあるのである。また、若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことだからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、相手から別れを告げられることがある。そのような時に、ストーカーになる人が現れる。ストーカーになるのは、カップルという構造体が消滅し、夫や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとうのである。そして、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとする者が現れるのである。深層心理は、自我に執着するあまり、人間に、かくも愚かなことを行わせるのである。このように、人間世界に特有に存在する、同種同士が殺し合うという殺人・戦争という行為は、深層心理が、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしている限り、消滅することは無いのである。このように、人間は、他者から与えられた自我を自分として存在し、深層心理が、快楽を求めて思考して、自我を動かしているのである。それを理解しない限り、深層心理に動かされるままに、生きるしかないのである。