あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自我と深層心理(自我その62)

2019-03-18 20:32:14 | 思想
マルクスは、「哲学者たちはこれまで世界をさまざまに解釈してきただけだった。しかし、重要なのは、世界を変えることなのだ。」と言った。そして、資本主義と資本主義社会を分析して、非人間的な実態を暴き、暴力革命による、共産主義社会の実現を説いた。確かに、彼の教えに準じた人たちが、暴力革命で、共産主義社会を作った。それが、ソ連、中国、北朝鮮である。しかし、これらの国々は、革命前よりも、自由はなく、生活は苦しく、資本主義社会の舞い戻るか、資本主義を一部取り入れざるを得なかった。なぜ、そうなったのだろうか。それは、マルクスは、人間を見誤っていたからである。孫子に、「彼を知り、己を知れば、百戦殆からず。」(敵についても、味方についても、情勢をしっかり把握していれば、幾度戦っても敗れることはない。)という名言がある。マルクスの欠点が、この言葉に、如実に表れている。すなわち、マルクスは、彼(敵)である資本主義と資本主義社会の実態を把握していたが、己(味方)であるはずの人間の心理の内実を把握していなかったのである。だから、彼の思想に共鳴して、暴力革命で、共産主義社会を作っても、例外なく、失敗に終わらざるを得なかったのである。マルクスの人間の心理についての把握の欠落部分の最大のものは、深層心理である。深層心理とは、「本人が意識していないが日常の精神に影響を与えている心の深層」である。深層心理の重要性を説いたのは、フロイトである。しかし、マルクスは、フロイト以前の人だから、フロイトの著書に触れることはできず、深層心理の重要性を知らなかったのは当然のことである。しかし、我々は、フロイト以降の人間であるから、深層心理を知ることができる。また、深層心理は「日常の精神に影響を与えている心の深層」であるから、些事の日常生活から理解を深めていかなければならないのである。そうしないと、自分自身だけでなく他者をも見誤ることがあるからである。挙げ句の果てに、心身共に、自分自身ばかりでなく他者をも傷つける可能性があるからである。さて、ほとんどの人は、自分の生活の実態が自分には見えていて、自分で生き方を決めていると思っている。しかし、果たして、そうだろうか。我々は、毎日の生活を、同じことを繰り返して生きているのではないか。ニーチェの言う「永劫回帰」である。稀にふっと自分を意識するが、ほとんどの場合、何が事が起こった時や誰かに尋ねられた時にしか自分を意識しないのではないか。無意識に生きている時間が多いのではないか。無意識と言っても、考えていないのではない。我々の意識には上ってこないが、深層心理が考えて行動しているのである。たとえば、山川家という構造体(組織、人間の集合体)は、父の太郎、母の瑤子、息子の一郎、娘の由美から成り立っている。太郎は庭木を伐採し、瑤子は料理を作り、一郎は犬を散歩に連れて行き、由美は花壇の水撒きをする。彼らに、おのおの、自分が山川家の父、母、息子、娘という自我があるからである。しかし、それを普通のこととして生活し、特に、自分の自我を意識することはない。確かに、表層心理では自我を意識していないが、深層心理ではそれを覚えている。だから、いつの間にか、自分の自我に応じて、太郎は庭木を伐採し、瑤子は料理を作り、一郎は犬を散歩に連れて行き、由美は花壇の水撒きをしてしまうのである。しかし、一郎や由美が太郎にため口を利くと、太郎の自我が怒り、怒りとともに、太郎に自分が父ということを意識させるのである。ところで、太郎は大井川株式会社という構造体に行くと営業部長という自我を持って働き、瑤子は大井川銀行という構造体へ行くと銀行員という自我を持ち、一郎は大井川高校という構造体へ行くと二年生という自我を持って勉強し、由美は大井川中学校という構造体では三年生という自我を持って勉強している。彼らは、おのおの、山川家という構造体での父、母、息子、娘という自我があることを忘れ、大井川株式会社という構造体の営業部長というポジション、大井川銀行という構造体の銀行員というポジション、大井川高校という構造体の二年生というポジション、大井川中学校という構造体の三年生というポジションに専念し、それを自我として行動するのである。なぜならば、構造体ごとに、異なった自我(ポジション)を持たざるを得ないからである。しかし、彼らは、ただ、構造体に存在するのではない。何かや他者に働きかけて存在するのである。それが、対自存在という人間のあり方である。対自存在も、当然のこととして、無意識に行っているから、深層心理の範疇にある。つまり、山川太郎の大井川株式会社という構造体での対自存在は営業部長として働くことであり、山川瑤子の大井川銀行という構造体での対自存在は銀行員として働くことであり、山川一郎の大井川高校という構造体での対自存在は二年生として勉強することであり、山川由美の大井川中学校という構造体での対自存在は三年生として勉強することである。そして、対自存在の活動、つまり、自我(ポジション)の活動は、対他存在のあり方に支えられている。対他存在というあり方は、他者に認められたいという気持ちをもって活動することである。つまり、山川太郎と山川瑤子は他の人に認められたいと思って働き、山川一郎と山川由美は他の人に認められたいと思って勉強しているのである。小学生・中学生・高校生が、小学校・中学校・高校のクラスやクラブという構造体で、いじめによって自殺するのは、彼らの行動がクラスメートやクラブ員などの仲間から認められなかったからである。もちろん、小学校・中学校・高校という構造体に行かなければいじめられることはないが、そうすると、小学生・中学生・高校生という自我(自分のポジション)を失うことになるので、それが恐くてできないのである。