あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、なぜ苦悩するのか。(自我その172)

2019-07-31 18:48:23 | 思想
人間は、なぜ苦悩するのか。それは、自らは主体的に生きることができると思っているからである。主体的とは、自分がある思考や判断や行動などをする時、自分が主体となって動くことを意味する。人間は、誰しも、自分は、自ら考え、自ら判断して、自らの意志で行動したいと思っている。そして、自分が主体的に行動できない時があるとすれば、強力な他者の介入があった時か自分に実力が無い時だと思っている。他者の介入に抗することができない無力な自分、無力だから目標を達成することができない自分に堪えきれず、苦悩するのである。つまり、自分のプライドが粉粉にうち砕かれた時、苦悩するのである。しかし、果たして、そこまで、人間はプライドを持つ必要があるのであろうか。なぜならば、人間は、人間社会の中で生きていかなければならないから、その時点で、既に、自己を捨て、自我に捕らわれて、主体的な生き方は失われているからである。自分が主体的な生き方だと思い込んでいる生き方は、自我と他者の欲望に動かされている生き方なのであり、決して、主体的な生き方ではないのである。それでは、なぜ、人間は、主体的な生き方ができず、自我として生きていかざるを得ないのか。それは、人間は、常に、ある構造体の中で、ある自我を負って生きることしか生き方が無いからである。つまり、人間は、人間社会の中で生きていかざるを得ないのであるから、いつ、いかなる時でも、常に、ある人間の組織・集合体という構造体の中で、あるポジションを得て、その務めを果たすように、自我として生きていかざるを得ないのである。具体的に言えば、構造体と自我の関係は、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。だから、総理大臣、校長、社長、店長、運転手と言えども、単に、一つの自我に過ぎない。単に、一つの役割を果たしているのに過ぎない。国民、教諭・生徒、社員、店員・客、車掌・客などに支えられて存在する。だから、どの自我が絶対的なものではないのである。そして、日本、学校、会社、店、電車という構造体も、家族、仲間、カップルという構造体も、ある時代、ある時期において誕生し、そして、時代の推移、時間の経過によって消滅する。だから、どの構造体も絶対的なものではないのである。つまり、自我にプライドを持ついわれは無いのである。自我にプライドを持つから、プライドが打ち砕かれると、苦悩するのである。自我の務めを淡々と果たせば良いのである。失敗すれば、矯正すれば良いのである。自分のミスが原因で、現在の構造体を放逐されれば、別の構造体を探せば良いのである。その構造体も放逐されれば、また、別の構造体を探せば良いのである。構造体に使われるのが嫌ならば、自分が構造体を作れば良いのである。死を迎えるまで変化し続ければ良いのである。それを、立ち止まってプライドを持とうとするから、それが打ち砕かれて苦悩するのである。また、そもそも、人間は、自らのプライドと言えども、、自ら、生み出したものではないのである。他者の欲望に動かされて、生み出したものなのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」と言っている。この言葉の意味は、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」である。つまり、人間は、主体的な判断などしていないのである。他者の介入が有ろうと無かろうと、自らが、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。プライドを持とうという意欲、プライドを気にするという思いも、全て、他者の欲望を取り入れたからである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断して、つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。

愛という束縛(自我その171)

2019-07-30 19:25:50 | 思想
人間には、愛という感情、そして、それに対する感情として、憎しみがある。しかし、他の感情と同じく、愛も憎しみも、人間は、自らの意志や意識で生み出すことができない。つまり、表層心理で、生み出すことができない。愛も憎しみも、人間の無意識のうちに、心に生まれてくる。つまり、深層心理が、生み出しているのである。しかしながら、世間には、愛を崇高なものと見る風潮がある。映画やテレビドラマでも、愛が題材として描かれることが多い。それは、愛するもののために自らを犠牲にするからである。恋愛は愛する人のために、家族愛は愛する家族のために、愛国心は愛する国のために、母性愛は愛する子のために自らを犠牲にするのである。イスラム教、キリスト教、仏教という宗教でも、愛に対する考え方は異なるが、いずれも愛が絡んでいる。イスラム教は、愛を説かないが、神に対する愛が基本である。キリスト教は、神に対する愛と人間に対する愛(隣人愛)を説く。仏教は、愛を煩悩だとして否定するが、教祖に対する愛、信者同士の愛がある。信者同士の愛といっても、イスラム教、キリスト教、仏教ともに、同一宗教というだけでは、愛は成立しがたく、同一宗派になって、初めて強い愛が生まれる。だから、イスラム教徒は、他の宗教の信者を殺戮するだけで無く、スンニー派とシーア派同士でも殺し合っている。キリスト教徒も、かつて、他の宗教を軽蔑するだけで無く、幾度となく、カソリックとプロテスタントの間で激しい戦争があった。日本の仏教でも、かつて、宗派同士の激しい戦闘があった。だから、愛とは、愛する人のために、愛する家族のために、愛する国のために、愛する子のために、愛する神のために、愛する教祖・信者のために存在するだけであり、普遍的な人類愛に繋がらないのである。愛する人がいる人は憎む人が存在し、愛する家族がいる人は他の家族を憎み、愛する国がある人は他の国を憎み、愛する子がいる人は他の家族の子を憎み、愛する神がいる人は他の宗教・他の宗派の神を憎み、愛する教祖・信者がいる人は他の宗派の教祖・信者を憎むのである。だから、決して、愛とは崇高なものではないのである。愛とは、愛の対象者だけが、利益を受ける仕組みである。しかし、愛の対象者が、愛を受けることを拒むと、ストーカーの被害者になったり、家庭内虐待の被害者になることもある。それは、愛とは、愛の対象者への愛と見せかけながら、真実は、自我愛だからである。言い換えれば、人間は自分しか愛せないのである。人間は、自我、そして、自我を保証する構造体しか愛せないのである。それでは、自我とは、何か。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。それでは、構造体とは何か。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体と自我の関係について、具体的に言えば、次のようになる。カップルという構造体では、恋人という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、国民という自我があり、イスラム教という構造体では、神・預言者(マホメット)・信者などという自我があり、キリスト教という構造体では、神・キリスト・神父(牧師)などの自我があり、仏教の宗派という構造体では、教祖・信者の自我があるのである。人間は、自分が所属する構造体の存続・発展に尽力するが、それは、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、カップルという構造体を破壊した恋人に対して、ストーカーとなって復讐するのである。家族という構造体で、自分を父として尊敬しない息子・娘に対して、虐待するのである。だから、愛は崇高な感情では無い。愛するものために自らを犠牲にするという行為も、愛する構造体が傷付けられ・破壊されるのを見るのが辛いからである。愛する構造体が傷付けられ・破壊されることは、自我が傷付けられ・破壊されることを意味するからである。確かに、自分の命が失われることを省みずに、我が子を救うために、燃え盛る家の中に飛び込んでいく母親は偉大である。母性愛の為せる業である。しかし、どの母親も、我が子がいじめ自殺事件の加害者になると、自殺の原因を、被害者自身の性格・被害者の家族の問題に求めるのである。これも、また、母性愛の為せる業である。しかし、自我にこだわり、構造体にこだわり、愛や憎しみを生み出すのは、深層心理の為せる業であり、表層心理の所為ではない。人間は、表層心理で(意識して、自ら意志して)、愛も憎しみも生み出せず、もちろん、自我愛も構造体愛も生み出せないからである。深層心理が(人間の無意識のままに)、愛も憎しみも、もちろん、自我愛も構造体愛も生み出しているからである。これが、深層心理が生み出した自我の欲望である。だから、愛する構造体を傷付け・破壊した者に対する復讐の行為も愛するもののために自らを犠牲にするという行為も、(深層心理が生み出した)自我の欲望から発しているのである。確かに、表層心理は、自我の欲望を生み出していないから、復讐の行為も犠牲の行為も自らの意志ではない。しかし、深層心理も表層心理も同じ肉体に宿り、同じ心の中にある。だから、表層心理は、深層心理の欲望の思いが強くてそこから発する行為が過激な場合は、必ず、意識するはずである。そして、その過激な行為が行われた後のことを考慮し、自らの肉体を抑圧し、その行為を行わないようにしなければならないのである。「子供は正直だ」とよく言われるが、それは、子供は自我の欲望に正直に行動するということである。それが許されるのは、子供の思考力や力が乏しいから、自我の欲望に正直に行動しても、大した被害をもたらさないからである。しかし、大人が自我の欲望に正直になると、どうなるか。2005年4月、中国人が、日本の自民党小泉政権の歴史教科書問題や国連安保常任国問題に端を発して、暴徒化し、「愛国無罪」の掛け声の下で、日系スーパーなどが襲撃した。日本人が日本の都合の良いように近代の中国侵略を糊塗するのも、中国人が日系スーパーを襲撃したのも、両者とも、愛国心という自我の欲望に正直だったからである。日本と中国が尖閣諸島という無人の島々の領有権を、日本と韓国が竹島という無人島の領有権を戦争も辞さない態度で臨んでいるのも、愛国心という自我の欲望に正直だからである。日本の安倍政府が、韓国に対して、徴用工問題に対抗して、半導体材料の輸出を規制したのも、韓国民が、日本製品の不買運動を起こしたのも、愛国心という自我の欲望に正直だからである。愛国心という深層心理から湧き上がる自我の欲望を、表層心理が抑圧しない限り、このような子供じみた正直さが行動となって現れるのである。日本でも、韓国でも、中国でも、愛国心という深層心理から湧き上がる自我の欲望を、表層心理が抑圧しない人が多数を占めるようになったのである。それは、アメリカも、ロシアも、ヨーロッパも、同じ傾向にあるのである。このまま、各国民が愛国心という自我の欲望に正直に突き進めば、第三次世界大戦になるだろう。そして、最後には、核戦争になるから、人類は、必ず、滅びるだろう。

自らが変わるということ、情況を変えるということについて(自我その170)

2019-07-29 15:20:31 | 思想
テレビのドキュメンタリー番組を見ると、開発途上国の子供たちが、嬉しそうに学校に行き、熱心に学んでいる。彼らは、将来、医者になりたい、先生になりたい、エンジニアになりたいなどの夢を語る。学ぶことによって、自らを変え、将来の夢に向かって邁進しようと思っているのである。その一方、学校に行けず、子守をしたり、街頭で花を売ったりしている子供たちがいる。彼らは、学校に行きたいが、親を助けなければ家計が成り立たないから、そのようにしているのである。彼らは、異口同音に、現在の家庭の状況では仕方が無いと言う。彼らも、現在の貧しさを脱するためには、教育を受けることが大切だと知っているのであるが、家庭の事情から、現在の自分を変えることができないのである。しかし、イスラム教の原理主義者たちが、学校に通う少女の暗殺を企てる。彼らは、現況から変わろうという彼女の思いが気に入らないのだ。女性は男性の支配下にあるべきだという思いが強いののである。しかし、男尊女卑の考えは、イスラム教成立当初から存在し、それは、その時代の遊牧民族の考えをそのまま反映したものである。イスラム挙の原理主義者は、自らの思考と異なるイスラム教信者やイスラム教以外の宗教を信じている者の暗殺を企てている。日本の右翼が、日本の方向性に関して自らと異なる考え方をする者を反日だと非難したり、在日朝鮮人や在日韓国に対して日本から出て行けと言ったりするのと同じである。彼らは、古い思考法に留まり、形を変えることを良しとしないのである。むしろ、彼らこそ、学習して、自らを変えるべきなのである。学習するということは、自らを変え、成長させることを目的にしているからである。しかし、ニーチェの「永劫回帰」の思想が言うように、人間には、同じことを毎日繰り返す習性がある。人間は、毎日、同じ構造体(人間の組織・集合体)に行き、同じ自我(あるポジションを自分の存在として認めること)を持ち、同じことを繰り返している。人間は、無意識のうちに、深層心理によって、そのようにするように仕向けられているのである。もちろん、変化が成長となるためには、変化、繰り返し、定着、成長、そして変化へというような流れがある。しかし、繰り返しだけでは成長できないのである。人間は、転職などの機会が訪れているのに、自ら拒否し、今までの暮らしを繰り返そうとするから、後悔するのである。もちろん、転職しても上手く行かないかも知れない。しかし、それでも、そこから、得るものがあり、成長できるのである。また、転職しなくても、会社の方針が気に入らなければ、会社を変えるように動けば良いのである。それこそが、会社の方針に忍従してきたこれまでの自分を変えることなのである。もちろん、それに対して。会社は圧力を掛け、退職を余儀なくされることも多いであろう。しかし、そうでなければ、会社は変わらないのである。佐高信は、ある県の教職員組合の幹部から、「教師は、どのような考えを持って行動することが大切ですか。」と尋ねられ、「いつでも、教師を辞める覚悟を持って行動することです。」と答えると、「それには賛同できません、」と言われたそうです。私は、佐高信の意見に賛成である。しかし、現在の教師は、組合員であろうと、非組合員であろうと、あまりにも、自分を変える意識、学校を変える意識に乏しい。だから、中学校でも、高校でも、教師が生徒の服装検査をし、野球部は丸刈り、そして、体育クラブでは、監督・顧問による生徒への暴力事件が絶えないのである。いじめ自殺事件が起きても、校長だけで無く、クラス担任教師、クラブ顧問教師までもが、校長・教師という自我を守るために、いじめの事実を隠蔽しようとするのである。そのような教師たちに、どのようなアドバイスも無効であろう。自らが変わる勇気を持たず、環境を変える勇気を持たない者は、現況を甘受するか忍従するしかない。それは、また、生き方の一つであろう。しかし、そのような保守的な生き方をしている人が、往々にして、何かを変えようとする人たちの足を引っ張ることが多いのである。経営者ならば、自我に捕らわれているから、そうするのは、賛同できないが、理解できる。しかし、被雇用者が、そのようにするのは、嫉妬心からである。ニーチェの言うルサンチマン(奴隷道徳)からである。だから、現在の自らの情況を憂えていても、自らを変えようとしない人、情況を変えようとしない人に対して、同情できないのである。

人間、誰しも、周囲の人となじめない時がある。(自我その169)

2019-07-28 17:01:37 | 思想
人間、誰しも、周囲の人となじめない時がある。常になじめない人、時折なじめない人、時としてなじめない人などさまざまな人がいるが、必ず、なじめない時がある。また、人間、誰しも、自分が周囲の人から正しく評価されていないと思う時がある。常に正しく評価されていないと思う人、時折正しく評価されていないと思う人、時として正しく評価されていないと思う人などさまざまな人がいるが、必ず、正しく評価されていないと思う時がある。そして、人間、誰しも、周囲の人となじめない時、自分が周囲の人から正しく評価されていないと思う時があるために、現在所属している構造体(家族、会社、店、学校、仲間などの人間の組織・構造体)から出たいと思う時がある。常に出たいと思う人、時折出たいと思う人、時として出たいと思う人などさまざまな人がいるが、必ず、出たいと思う時がある。しかし、それは、当然のことである。人間、誰しも、自己として生きているのではなく、自我として生きているからである。自己という主体的な存在ではなく、構造体の中の自我として暮らさざるを得ない存在だからである。しかも、存在だけでなく、意識も、自我なのである。つまり、意識も自分のポジションと一体化しているのである。人間は、常に、構造体という組織・集合体の中で、あるポジションを自我として行動し、深層心理が、自我を生かすために、他者を対他化・対自化・共感化のいずれかの機能を働かせて暮らしているが、思うようにいかないから、周囲の人となじめない時、自分が周囲の人から正しく評価されていないと思う時があり、現在所属している構造体(家族、学校、会社、店、仲間などの人間の組織・構造体)から出たいと思う時があるのである。それでも、現在所属している構造体から出ることを逡巡するのは、一つの構造体を出ることは一つの自我を失うことを意味し、それに不安を覚えるからである。これから、それを再説しながら、細説・詳説していこうと思う。先に述べたように、人間は、いついかなる時でも、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動している。構造体とは、家族、学校、会社、店、仲間などの人間の組織・集合体である。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体と自我の関係について、具体的に言えば、次のようになる。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教頭・教諭・生徒などの自我があり、クラスという構造体では、担任・クラスメートという自我があり、クラブという構造体では、顧問・部員などの自我があり、会社という構造体では、社長・会長・部長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があるのである。そして、深層心理が、自我を生かすために、他者を対他化・対自化・共感化のいずれかの機能を働かせて暮らしているのだが、深層心理、対他化・対自化・共感化とはどのようなものであろうか。深層心理とは、フロイトの言う無意識である。その意味は、次の通りである。人間は、決して、意識的に自分の意志で考えて、言い換えれば、表層心理が考えて行動しているのではない。人間は、無意識的に、言い換えれば、深層心理が対他化・対自化・共感化のいずれかの機能を働かせて考えて、行動しているのである。対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自分に対する他者の思いを探ることである。対自化とは、自分の目標を達成するために、他者に対応し、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。共感化とは、自分の力を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と愛し合い、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うことである。さらに、自我は構造体の存続・発展にも尽力するが、それは、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。だから、周囲の人となじめない時、自分が周囲の人から正しく評価されていないと思う時があっても、現在所属している構造体から出ることに逡巡するのである。さて、人間は、自我の動物であるから、自我を生かすために、他者を利用するのである。それが、深層心理が働かせる対他化・対自化・共感化の機能である。人間は、互いに、自我を生かすために、他者を利用しようとするのであるから、周囲の人となじめない時、自分が周囲の人から正しく評価されていないと思う時、現在所属している構造体から出たいと思う時があるのは当然のことである。吉本隆明が、「人間はわがままに生まれてきながら、協調しなくては生きていけないことに、人間の不幸がある。」と言ったのは至言である。人間は、ストレスから逃げることはできないのである。バタイユが、「人間は、愛し合っている二人でも、セックスの際には、男性には強姦と同じ欲望があり、女性には、売春と同じ欲望がある。」と言ったのは至言である。愛とは、相手の愛情を征服する欲望なのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)と言ったのは、至言である。人間は、主体的な判断などしていないのである。他者の介入が有ろうと無かろうと、主体的な判断ができないのである。他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。そのような人間なのであるから、他者の評価によって、簡単に崩れるのである。ヘーゲルは、「主人と奴隷の関係において、主人は、奴隷に生活を依存しているが、奴隷は、労働によって、自然を知り、自己を形成することができる。」と言った。果たして、ヘーゲルの言うように、会社や店などにおいて、恵まれない境遇・嫌な上司・嫌みな先輩や同僚の中で、それが自分の人間形成に役に立つと思えるかどうかが問題である。マルクスは、ヘーゲルの言うような観念的な自立は意味を為さず、労働者(奴隷)は現実に自立するために、団結して、資本家(主人)と戦うこと、つまり、革命を起こすことを勧めたのである。そして、目指す社会は、主人(資本家)と奴隷(労働者)の無い社会、つまり、公平・平等な社会である。しかし、吉本興業のようなブラック企業は、労働組合が無く、芸人がそれぞれ孤立させられているから、書面契約をせずに、主人側(経営者側)は、自らの都合の良いように、芸人を処理するのである。つまり、芸人は、操られているのである。ハイデッガーは、「死の覚悟を持たない限り、自分の生き方を変えることはできない。」(ハイデッガーの実存主義)と言ったのは、至言である。しかし、本当に死の覚悟を持ったら、多くの人は自殺してしまうのではないだろうか。また、苦悩したら、死の覚悟を持つ前に、深層心理が自らを精神疾患に陥らせて、苦悩から逃れ・忘れようとするのではないだろうか。死の覚悟を持つことで自分の生き方を変えられる人は幸いである。ところで、往々にして、人間は、自我の力が弱いと思えば、対他化して、他者の自らに対する思いを探る。自我の力が強いと思えば、対自化して、他者の思いを探り、他者を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりする。自我が不安な時は、他者と共感化して、自我の存在を確かなものにしようとする。このように、人間とは自我が中心の生き物であるから、他者を利用とするのは当然のことなのである。この思いは、深層心理から湧き上がってくるから、どうしようもないのである。さらに、毎日、同じ構造体で暮らしていると、必ず、嫌いな人が出てくる。好きな人ばかりでなく、必ず、嫌いな人が出てくるのである。しかし、人間は、好き嫌いの判断・感情を、自ら意識して、自らの意志で、行っているわけではない。意志や意識という表層心理とは関わりなく、深層心理が嫌いな人を出現させるのである。しかし、人は、構造体に嫌いな人がいても、それを理由にして、その人を構造体から放逐することは許されない。わがままだと非難されるだけであり、また、恥ずかしくて、言えない。また、自分が今の構造体から出ると、今の自我が失われ、新しい構造体に受け入れられて新しい自我を得られるという保証も無く、不安だから、今の構造体に留まろうとする。しかし、閉ざされ、固定された構造体で、毎日、嫌いな人と共に生活することは苦痛である。トラブルが無くても、その人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がする。いつしか、不倶戴天の敵になってしまう。すると、自らの深層心理が、自らに、その嫌いなクラスメートに対して攻撃を命じる。しかし、自分一人だと、勝てないかも知れない。また、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れない。そこで、仲間という構造体に頼み、友人に加勢を求め、いじめを行い、嫌いな人を下位におとしめるか、構造体から放逐しようとするのである。友人は、仲間という構造体から、自分が放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。上司も、いじめに気付いても、いじめている人たちは構造体の戦力になっていることが多く、彼らを敵に回すと、構造体の運営が難しくなるから、見て見ぬふりをするのである。また、いじめられている人というのは、構造体の戦力になっていても、個性が強いから、往々にして、上司の言うことをそのまま従うということが無いから、助ける気にならないのである。しかし、これが、逆の立場になり、自分が、いじめの被害者になることもあるのである。このように、人間、誰しも、自我中心に生きているから、周囲の人となじめない時、自分が周囲の人から正しく評価されていないと思う時があるために、現在所属している構造体から出たいと思う時があるのである。

メダル数を競うことの愚かさ(自我その168)

2019-07-28 12:13:47 | 思想
来年、日本で、オリンピックが開催される。マスコミは、連日、「今、日本全体が東京オリンピックの期待感で盛り上がっていて、来年になれば、いっそう高まるだろう。」と報じている。なぜ、東京オリンピックに、マスコミも国民も期待するのか。それは、オリンピックは、国威発揚の良い機会であり、地元開催ならば、その期待がいっそう高まるからである。そんな中、「オリンピックなんかに、興味ないよ。そんな金があったら、母子家庭や身体障害者や知的障害者などの弱者を支援することに充てたら良いのに。」と言ったならば、無視されるか、顰蹙を買うか、袋だたきに遭うだろう。さて、6月27日、JOC(日本オリンピック委員会)は、理事会で、山下泰裕を新会長に選出した。彼は、会長就任の記者会見で、「目標は、金メダル30個。自覚を持って挑戦すれば、十分に可能。」と述べた。なぜ、彼は、金メダルの獲得数を、具体的に数値目標として掲げなければならなかったのか。それは、マスコミも国民も、金メダルを数多く獲得することをを期待しているからだ。オリンピックが終われば、いや、途中でも、マスコミは、金メダルを中心に、各国のメダル獲得数を順位付けする。その結果が上位であればあるほど、国民は喜ぶというわけである。まさしく、オリンピックは国威発揚の機会なのである。しかし、オリンピックに出場する選手の気持ちはどうであろうか。もちろん、プロであろうとアマチュアであろうと、毎日、その競技を練習し、種々の大会に参加・出場しているから、自国開催のオリンピックならば、なおさらのこと、出場し、活躍したいだろう。できれば、金メダル獲得の栄誉を担いたいだろう。しかし、金メダル候補と言われながら、それを逃したならば、また、メダル候補と言われながら、それを逃したならば、国民は大いに落胆するであろう。しかし、決して、非難しないだろう。日本国民は、現実を目の当たりにするのは恐いから、傷心を受けないように、現実を糊塗して見たり、未来に可能性を引き延ばそうとしたりするのである。しかし、選手にしてみれば、期待外れの結果になり、国民が落胆し、それを隠そうと、無視したり、慰めの言葉を掛けてくることが、いっそう辛いのである。なぜ、マスコミや国民は、東京オリンピックを、選手がのびのびと自分の力を発揮する晴れ舞台にしないのだろうか。なぜ、金メダルという十字架を負わせるのだろうか。それは、オリンピックに限らず、国際大会は、国威発揚の大会だと思い込み、その思いに全く疑念を抱かないからである。だから、選手がどのように良い試合をしても、メダルを獲得しなければ、意味が無いのである。選手が、どのように良い試合・演技をしても、金メダルはベストであるが、最悪でも、銅メダルを獲得しなければ、それは何の意味も為さないのである。メダル獲得という結果が全てなのである。それが、金メダルを中心にして、国別、メダル獲得数の順位付けに現れているのである。それでは、なぜ、日本国民は、オリンピックを国威発揚の機会にし、金メダル獲得数を中心にしたメダル獲得の国別の順位にこだわり、日本選手を応援するのか。それは、日本選手も自分も、日本という構造体(人間の組織・集合体)に所属し、日本人という自我を持っているからである。日本国民は、日本選手が金メダルを中心にしたメダルを獲得すれば、世界中の人々から、日本という国・日本人という自我の存在・力が認められると思うから、嬉しいのである。それは、父(母)が息子(娘)が有名私立中学校に合格した時、高校生が自分が所属している高校のサッカー部が全国高校サッカー選手権大会で優勝した時、社員が自分が所属している会社の野球部が都市対抗野球大会で優勝した時の喜びと同じである。しかし、選手の中には、国民の期待に潰される人も存在する。それが、円谷光吉の悲劇である。円谷光吉は、1964年の東京オリンピックのマラソン競技で銅メダルを獲得し、次回の1968年のメキシコオリンピックでも日本中から活躍を期待されていたが、腰痛や椎間板ヘルニアの手術のために、十分に走れなくなり、同年の1月、「光吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。」という遺書を残して自殺している。27歳だった。また、ヒットラーは、1936年のベルリン大会では開会宣言をし、これまでに無い壮大なスケールで大会を行い、新しい式典を設けるなどして、ドイツ国民を陶酔させ、文字通り、ドイツの国威発揚のために、大いにオリンピックを利用した。第二次世界大戦の勃発は、その僅か三年後である。オリンピックと戦争は、同じものである。いずれも、愛国心に基づく国威発揚の機会なのである。