あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

深層心理と表層心理(自我と関係性と構造体(9))

2017-08-27 20:30:22 | 思想
敢えて、「人間は生きているのではなく、自分自身によって生かされているのである。」と言わなければならないと思う。なぜならば、「人間は生きているのではなく、他の人たちによって生かされているのだ。」ということはよく言われるが、このことを言う人は滅多にいないからだ。確かに、これも真実である。しかし、半面の真実でしかない。もう半面の真実は、最初に述べたように、人間は自分自身によって生かされているということである。そして、それは、同時に、人間は自分自身によって殺されるということでもある。それでは、人間を生かし、殺す自分自身とは、何であろうか。それは、深層心理であある。それでは、深層心理とは、何であろうか。それは、人間の心の動きである。それならば、わざわざ、深層心理という用語を使わずとも、心理という用語で十分だと思われるかもしれない。しかし、それが、私たちが気付かないままに(無意識のうちに)、私たちの現状を分析し、判断し、ある感情・気分を伴って、ある行動を起こす(肉体を動かす)ように促してくる(襲ってくる)ので、深層心理という用語を使わざるを得ないのである。さて、深層心理を、テニスの試合でのスマッシュの技で具体的に説明すると次のようになる。相手プレーヤーから返されたネット際の高い球を、こちら側のプレーヤーがスマッシュで打ち込む場合、彼は考え込まない。考え込んでいれば、間に合わない。しかし、確かに、彼は考え込んではいないけれども、考えてはいるのである。彼の何が考えるのか。彼の深層心理が考えるのである。彼の無意識のままに考えるのが深層心理である。彼の深層心理が現状を分析し、スマッシュを判断し、肉体がそれに従って、肉体に焼き付けられた方法でスマッシュを打ち込んだのである。その時、スマッシュに自信のあるプレーヤーの心は喜びに満ちていたであろう。スマッシュに自信のないプレーヤーの心は不安に満ちていたであろう。しかし、深層心理とは、喜び・不安などの感情だけでなく、分析、判断、行動の促し(肉体の動き)までを含めての動きを表すのである。心理学者のラカンが、「無意識(深層心理)は、言語によって構造化されている。」と言っているのは、このことを表している。さて、テニスプレーヤーのスマッシュの技は、生まれついてのものではない。練習によって身についたものである。彼は、コーチの指導に従って、意識的に技術を身につけ、無意識のうちにスムーズにスマッシュを打てるまでになったのである。この、意識的に技術を身につけようという心の姿勢、これが表層心理である。そして、自分の意志に従って、意識的にスマッシュを打つ(肉体を動かす)ことを繰り返したのである。さて、深層心理は、スポーツだけでなく、いろいろな場面で動いているのである。むしろ、表層心理より活躍しているのである。私たちは、意識的に考えるより、無意識のうちに考えていることが多いのである。それ故に、冒頭、「人間は生きているのではなく、自分自身によって生かされているのである。」と述べたのである。私たちの日常生活において、最初に動くのは、表層心理ではなく、深層心理なのである。先に述べたように、深層心理は、私たちが気付かないままに(無意識のうちに)、私たちの現状を分析し、判断し、ある感情・気分を伴って、ある行動を起こす(肉体を動かす)ように、私たちを促してくる(襲ってくる)。しかし、この時の深層心理の判断は、その時の現状を打破することだけで、後のことを考えていない。しかし、その行動が意識化されると、表層心理は、その行動の結果、どのようなことが起こるかを想像する。そして、その行動の結果から起こる予想から、その行動が良くないと判断すれば、深層心理を抑圧するように動く。しかし、深層心理が強過ぎると、表層心理の抑圧は効かない。また、人間は、深層心理のまま、つまり、無意識のうちに、表層心理を通過せずに、行動することもある。いつも行っていることがそうである。これから、幾つかの例を挙げて、深層心理の働きと表層心理の働きを説明しようと思う。深層心理は、保守的な動きをし、自我の保全、拡充を第一の目的にして、種々様々な欲望(正当な欲望から不当な欲望まで)を引き起こす。自我とは、自分のステータス(自分の社会的な位置)である。自我の拡充とは、ニーチェの言う「力(権力)への意志」である。テニスプレーヤーのスマッシュの場合、彼はこの試合に勝って、テニスプレーヤーとしての自我を拡充するために行う。スマッシュはいつも行っていることだから、深層心理の判断のままに行い、表層心理にまで上らないことが多い。しかし、アマチュアのテニスプレーヤーでスマッシュに自信のない人の場合、深層心理がスマッシュを判断した後、表層心理が意識して、打ち損じないように、フォームに注意しながら打ち込むようにする。エディプス・コンプレクスの場合、男児の深層心理が、この家の男の子であるという自我の拡充のために、母親に対して欲望(近親相姦的な愛情)抱くのであるが、表層心理が、その欲望を通そうとすると、父親の怒りに触れ、周囲の人々から糾弾され、この家にもこの社会にも生きていけない状態になることを想像し、深層心理を抑圧したのである。いじめっ子の母親の場合、深層心理が、母親としての自我を保全するために、いじめられた子が自殺しても、自殺の原因をいじめられていた子自身やその家庭にあると主張するのである。失恋した男性の中には、深層心理が、カップルという構造体が破壊され、恋愛関係という関係性が消滅し、恋人という自我が失われるのが苦しいので、その苦しさから逃れるために、相手の女性の上位に立つことを思い立ち、その人に、相手の女性に危害を加える欲望や相手の女性を殺す欲望を持たすのである。失恋の苦しみとは、相手の女性から見下された苦悩だからである。そして、それを実行に移すストーカーになる者が現れるのである。もちろん、ストーカーにならない失恋男性の方が断然多い。彼らは、ストーカーになった後の悲劇が予想されるから、表層心理が深層心理を抑圧したのである。しかし、深層心理が強過ぎれば、表層心理の抑圧は功を奏さず、ストーカーになるしかないのである。このように、自我の保全、拡充のために、深層心理が激しく動く。戦争もまた、自我の保全、拡充のために、深層心理が成せる業である。

自由(自我と関係性と構造体(8))

2017-08-26 19:30:00 | 思想
誰しも、自由に憧れる。しかし、人間とは、自我に縛られている動物だから、永遠に自由になることはできない。例えば、山田一郎は、仕事を終えても、自由になれない。家に帰っても、父親という自我に縛られる。なぜならば、彼は、山田家という構造体の中で、家族関係を結び、父親というステータス(社会的位置)を与えられているからである。しかし、父親として振る舞うと言っても、それは、決して、表層心理的(意志的)な仮初めのものではなく、深層心理的なものである。つまり、彼は、山田家に帰ると、父親になりきるのである。父親が、彼の山田家における自我になっているからである。だから、彼は、いちいち考えなくても(表層心理で考えなくても)、深層心理から父親としての欲望(思考)が湧いてくるのである。さて、山田一郎には、妻、小学二年生の息子が一人、幼稚園児の娘が一人いて、親戚の中では、亭主関白として通っている。彼は家に帰るのを楽しみにしている。しかし、全くの自由であるわけではない。今は収まっているが、息子の小学校選択を巡って、妻と幾度も口論し、何度も妻を殴りたい衝動に駆られ、それを抑えてきた。そして、妻の主張通りの小学校になった。息子が自分に敬語を遣わないことが幾度かあり、その度に、自分が父親にされたように、殴ろうという欲望が湧いたが、息子の顔を見ると、できなかった。言葉による注意でとどめた。しかし、山田一郎は、家では自由だと思う。会社では、よく注意されるが、家では、注意されることが無いからである。しかし、彼は、家でも、決して自由ではない。父親というステータス(社会的位置)に縛られ、父親を自我として行動しているだけである。満足しているから、自由でないことに気付かないのである。しかし、山田一郎は、自分は会社では不自由な生活を送っていると思う。彼は、海川会社という構造体の中で、雇用関係を結び、企画部の社員というステータス(社会的位置)を与えられている。言わば、海川会社で、企画部の社員という自我を持って、働いているのである。彼は、会社に不満を抱いている。彼の企画がほとんど通らず、すぐに激高する性格を上司によく注意されるからである。しかし、誰にしろ、会社での評価がどうであろうと、会社に雇われるということは、その会社の社員というステータス(社会的位置)に縛られる、それを自我として働くということなのだから、既に、自由を失っているのである。山田一郎は、よく、自分はこの会社に向いていないのではないかと思う。しかし、彼には、海川会社の社員ということに、自我が無いわけではない。テレビで、海川会社のコマーシャルが流れると、いつも、うれしくなるからである。人間とは、あることが自我として心に食い込まれると、深層心理が、その自我の保全、拡充のために心が動かすのである。さて、山田一郎は、学生時代、新聞で、旅行の宣伝を見るたびに、自由な旅に出ることに憧れた。しかし、自由な旅は存在しない。電車に乗れば、乗客の自我に縛られ、ホテルに入れば、宿泊客の自我に縛られ、決して、自由ではないのである。学生生活がつまらなかったから、旅に存在しない夢を追っただけなのである。さて、不満だらけの山田一郎の会社生活の中で、良いことが起こった。企画部に、彼好みの独身女性社員が配属されたのである。彼は、彼女を見るたびに、自分が独身だったら自由に恋愛できるのにと思う。しかし、相思相愛の関係を結び、恋人同士という構造体の中で、恋人という自我を持ったとしても、自由ではない。彼女が若い男性と歩いているのを見ると、嫉妬に苦しむだろう。それは、恋人という自我に縛られ、心が自由にはばたけないからである。私たちは、認知症になったとしても、ステータスを忘れてしまったり、自我を失ってしまったりすることはない。認知症とは、実際の現在の構造体・関係性・自我を、別の構造体・関係性・自我と勘違いする現象である。認知症の老女のところへ、娘がやってきても、老女が昔の友人と勘違いすることがある。実際は、家族という構造体の中で、母子の関係を結んでいるのだから、母という自我を持つべきなのに、老女の心は、友人同士という構造体の中で、友情をむすんでいる、友人という自我を持っているのである。つまり、勘違いしているだけで、自我そのものを失っているわけではないのである。それでは、死ぬまで、私たちは、ステータス(社会的位置)つまり自我から自由になれないのであろうか。ソシュール研究の第一人者であった丸山圭三郎は「私は一度死んでみたい。」と言ったことがある。丸山圭三郎は、自我から解放されることを渇望していたのである。つまり、私たちは、死ぬまで自我から自由になれないのである。人間世界に、自由は存在しないのである。

欲望(自我と関係性と構造体(7))

2017-08-25 17:09:12 | 思想
エディプス・コンプレクスとは、精神分析の用語であり、フロイトが唱え、ラカンが発展させたものである。男児の欲望(母親に対する近親相姦的な愛情)の発生から抑圧するまでの葛藤を表している。男児は、母親に対して近親相姦的な愛情という欲望を持つが、父親が強い対抗者として立ちふさがり、社会(周囲の人々)が父親に味方するので、その家に生き残り、社会に生き残るために、自らの欲望を深層心理(無意識の世界)に抑圧せざるを得なくなるという思想である。それでは、なぜ、男児は母親に対して近親相姦的な愛情という欲望を持つに至ったのだろうか。それは、男児が、自らをこの家の男の子であるというステータス(社会的な位置)を自我として得たからである。この家の男の子であるという自我を持つ前の男児は、母親から庇護を受けたいという欲求はあっても、欲望はない。それは、食欲や睡眠欲や排泄欲と同じく、生まれながら備わっているものである。まだ、赤ん坊の段階である。動物の子と同じ段階である。そこから成長し、男児は、母親を中心とした家族そして周囲の人々からこの家の男の子であると認められていることを知り、そこに、アイデンティティー(自己同一性)を得て、自らもそのように認識し、この家の男の子というステータスを自我して持ったのである。男児は、この家の男の子という自我を得たからこそ、母親に対して欲望(近親相姦的な愛情)を持ったのである。しかし、母親に対して欲望(近親相姦的な愛情)を持ったからと言って、決して、男児を非難するべきではない。なぜならば、欲望とは、深層心理(無意識の世界)から生まれてくるものであって、本人の意志によるものではないからである。人間は自我を持つと、深層心理が、その自我の保全、拡充のために、いろいろな欲望を生み出してくるのである。その欲望は、正当なものから、怪しげなもの、不当なものまで、さまざまである。なぜならば、深層心理は、欲望の審査はせず、自我の保全、拡充のためだけに、欲望を生み出してくるからである。だから、母親に対する近親相姦的な愛情という欲望は、男児本人の罪ではない。本人には、それが悪いことだという認識はまだない。だからこそ、父親が強い対抗者として立ちふさがり、社会(周囲の人々)が父親に味方する必要があるのである。男児の欲望(母親に対する近親相姦的な愛情)に限らず、怪しげな欲望や不当な欲望は、強い対抗者が現れ、社会がそれに味方しないと、収まることはない。なぜならば、欲望を持った人間は、それがどのような欲望であろうと、強い対抗者の存在と社会からの断罪の虞がない限り、突き進もうとするからである。なぜならば、どのような欲望であろうと、欲望の充足は、一時的であろうと、快楽をもたらし、喜びをもたらすからである。逆に、欲望の抑圧や不充足は、自分が納得しない限り、ストレスとして残るからである。成人になると、人間は自らの欲望を自ら抑圧することが多いが、それを自らの道徳観から常に行う人はほんの一部である。聖人君子と呼ばれる、ほんの一部の人しか存在しない。道徳観とは、心に住み着いた、強い対抗者の視線と社会の裁きの視線である。しかし、聖人君子と言えども、生まれながらにして、道徳観があったわけではない。社会関係を営みながら成長していくうちに、心に住み着いたものである。しかし、ほとんどの人は、その時の他者の目(強い対抗者の視線と社会の裁きの視線)を気にして、自らの欲望を抑圧しているのである。ほとんどの人とは、凡人・俗人のことである。凡人・俗人たちは、強い対抗者が存在せず、社会の裁きの手が緩やかに見えると、それが怪しげな欲望であろうと不当な欲望であろうと、それを達成しようとする。そこには、弱者と強者が存在する。弱者の凡人・俗人とは、一般大衆である。一般大衆の中には、人に隠れて、こっそりと、自らの怪しげな欲望や不当な欲望を達成しようとする者が存在する。だから、その欲望はささやかなものである。強者の凡人・俗人とは、権力者たちのことである。具体的に言えば、政治家、高級官僚、医者、資本家、資産家、有名人などである。彼らの中には、他者を動かして、隠れても、表だっても、自らの怪しげな欲望や不当な欲望を達成しようとする者が存在する。彼らは、自分たちには、それをする権利があると思っている。それも、また、ステータス(社会的な位置)としての自我が思わせることである。だが、どのような欲望も、彼らが自らの意志で作ったものではない。彼らの深層心理がそれを作り、彼らはそれに従っているだけである。だから、彼らの欲望に対抗する、強い反対者と社会の明確な裁きが必要なのである。このように、人間は、自我を持つと、その自我に応じて、自我の保全、拡充のために、深層心理が、いろいろな欲望を生み出してくるのである。母性愛も、欲望の一つである。子供を持った女性は、家族という構造体の中で、母子関係を結び、母親という自我を持つ。そこに、母性愛という欲望が生まれてくる。母性愛は、一般に、褒め称えられることが多いが、それは、自らの身をなげうってまでも、子供を守ろうとするからである。しかし、いじめられていた子が自殺しても、いじめっ子の母親が、我が子をかばい、自殺の原因はいじめられていた子や家庭にあると言うのは、母親という自我を守るためである。これも、また、母性愛という欲望が成せる業なのである。愛国心も、欲望の一つである。日本人は、日本という構造体の中で、日本国民という関係性を結び、日本人という自我を持つ。だから、愛国心という欲望のない日本人はいない。欲望は、自我の保全、拡充のために動くから、利用価値のほとんどない、尖閣諸島や竹島の所有を巡って、尖閣諸島は中国人と日本人、竹島は韓国人と日本人が争っているのである。中国人の中にも韓国人の中にも日本人の中にも、戦争をしても構わないから、尖閣諸島や竹島を自国のものにせよと言っている人がいる。愚の骨頂である。無人島のために人の命を失わせても良いはずがない。しかし、戦争は、これまで、深層心理に突き動かされて、愛国心という自我の欲望のために、引き起こされている。そして、数え切れないほどの国民の命が奪われている。その度に、戦争の悲惨さが訴えられる。しかし、国民という自我がある限り、深層心理から湧き上がってくる愛国心という欲望がある限り、この世から、戦争という文字が消えることはないだろう。

私(自分)・自己・自我(自我と関係性と構造体(6))

2017-08-24 18:47:51 | 思想
デカルトが「方法序説で」で述べた有名な言葉に、「コギト エルゴ スム」がある。一般に、略されて、「コギト」と呼ばれている。一般的には、「『私は考える、ゆえに私はある』の意で、彼はあらゆることを懐疑したあげく、意識の内容は疑いえても、意識する私の存在は疑いえないという結論に到達し、これを第一原理とし、確実な認識の出発点とした。」(広辞苑)と説明されることが多い。しかし、考えられている(意識されている)事柄の存在の確証は得られないが、そこに確かに存在しているから私は考える(意識する)ことができるのだ、だから、私は確実に存在していると言うことができるという論理は危うい。なぜならば、私が考える(意識する)ということは、人間世界にしか通用しない行為だからだ。もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだますことが可能ならば、考える(意識する)行為も、本当は存在せず、存在しているように悪魔にだまされているかもしれないからだ。また、そもそも、私たちは、自分がそこに存在していると前提して、いろいろな活動をしているのである。たとえ、自分の存在を疑ったとしても、疑うこと自体、自分の存在を前提にして論理を展開するのだから、論理の展開の結果、自分の存在は疑わしいという結論が出たとしても、自分の存在を前提にしての活動は継続する。つまり、自分の存在を疑うことは、意味を成さないのである。つまり、論理的に存在が証明できるから存在しているのではなく、存在を前提に活動しているから、存在しているのである。そういう意味で、確かに、私たちは存在している。私たちは、一人一人私として、言い換えれば、一人一人自分として存在している。それでは、私とは、自分とは、何か。それは、一般的には、「他者と区別して認識している主体」ということになるであろう。しかし、それを、私は、自己と呼びたい。なぜならば、他に、自我があるからである。私(自分)とは、自己と自我の両方の意味を持っているのである。それでは、自我とは、何か。自我とは、ステータス(自分の社会的な位置)である。人間は、いついかなる時でも、ある特定の構造体の中で、ある特定の人間関係を結んで、ある特定のステータスを得て、それを自我として、暮らしている。例えば、日本という構造体の中で、国民関係を結んで、日本人として暮らしている。山田家という構造体の中で、家族関係を結んで、父として暮らしている。川田会社という構造体の中で、上下関係を結んで、社員として暮らしている。山川高校という構造体の中で、師弟関係を結んで、生徒として暮らしている。この日本人、山田家の父、川田会社の社員、山川高校の生徒が、ステータスとしての自我である。自我が欲望を生み出すのである、自我があるから欲望が生まれてくるのであり、自我の無いところには欲望は存在しない。我々は、この自我の保全、拡充という欲望のために、日々、勤しむのである。日々、自我の保全、拡充のために、深層心理から(無意識の世界から)、正当な欲望から不当な欲望までさまざまな欲望が生まれてくる。深層心理は、自我の保全、拡充のためには、欲望の選択はしない。表層心理が不当な欲望を抑圧するしかない。しかし、表層心理が欲望の選別を誤ったり、深層心理が強過ぎて不当な欲望を表層心理が抑圧できなかった場合、とんでもない状況が引き起こされる。個人的な悲劇・惨劇ばかりでなく、国家的な悲劇・惨劇が訪れる。当然のこととして、(深層心理から引き起こされる)欲望を問題にしなければならないのである。

愛国心(自我と関係性と構造体(5))

2017-08-23 16:15:36 | 思想
人間は、いついかなる時でも、自我として生きている。自我とは、父、母、会社員、学生、恋人、友人などである。自我は、自分が所属する構造体(共同体)があってこそ、存在することができる。だから、人間は、誰しも、自分が所属している構造体(共同体)を愛するのである。自分が所属している構造体(共同体)とは、日本、家族、会社、学校、恋人同士、仲間のことである。自我の存在を保証するものは、自分が所属している構造体(共同体)の中での、親密な関係性である。この親密な関係性は、一般的には、アイデンティティーと呼ばれている。アイデンティティーとは、「ある人が一個の人格として時間的・空間的に一貫して存在している認識をもち、それが他者や共同体からも認められていること。」(広辞苑)という意味である。だから、日本人ならば、誰にも、愛国心がある。父ならば、誰にも、家族愛がある。母ならば、誰にも、家族愛がある。会社員ならば、誰にも、愛社精神がある。学生ならば、誰にも、愛校心がある。恋人ならば、誰にも、恋愛感情がある。友人ならば、誰にも、友情がある。日本人ならば、誰にも、愛国心があるのだから、反日という言葉は成立しない。日本人ならば、誰しも、日本の国益に利することを考え、反することを考えないからである。そこに、国益の利し方の相違はあるだけである。だから、自分(たち)の考えと異なる人を、反日だと批判する人は幼稚である。当然のこととして、非国民、売国奴という言葉も成立しない。人間は、自我を持つと同時に、その自我を保全し、拡充するために、深層心理がいろいろな欲望を生み出してくる。正当な欲望から怪しげな欲望まで、さまざまな欲望を生み出してくる。怪しげな欲望は、抑圧しなければ、人間社会は破壊される。人間は、幼児期において、異性の親に対して、近親相姦的な欲望を抱くと、フロイトは言う。これが、エディプスの欲望である。しかし、同性の親という大きな対抗者の妨害に遭い、絶対的な裁き手である社会が同性の親に与するので、幼児は、この家そしてこの社会に生き残るために、自らの欲望を抑圧せざるを得ない。この抑圧の姿が、エディプス・コンプレクスなのである。幼児ですら、この家の子であるという自我を持つと、異性の親に対する近親相姦的な欲望という怪しげな欲望を抱くのである。成人の自我を持った人間には、その自我の保全そして拡充のために、正当な欲望から怪しげな欲望まで、深層心理からいろいろな欲望が生まれてくるのは当然である。言うまでもなく、怪しげな欲望は抑圧しなければならない。反日という言葉を使って、自分たちの考えと異なる人を批判する人たちには、共通の考えがある。それは、アメリカの力を借りて、中国・韓国・北朝鮮を押さえようという考えである。しかし、中国人・韓国人・北朝鮮人にも、当然のごとく愛国心があり、愛国心を前面に押し出せば、戦争になるしかない。現代において、戦争は、戦勝国も敗戦国も、敗者である。また、アメリカ人も愛国心があり、アメリカの国益に利することはしないから、お人好しの日本人の期待するようなことはしない。自国の兵士の命を日本に差し出すことはしない。だから、反日という言葉を使って、自分たちの考えと異なる人を批判する人たちの欲望を抑圧しなければならない。