あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

オリンピック開催を反対していた人は、日本選手を応援し、その活躍に歓喜してはいけないのか。(提言その1)

2021-07-28 10:58:46 | 思想
オリンピック開催を反対していた人は、日本選手を応援し、その活躍に歓喜してはいけないのか。そのようなことは断じてない。なぜならば、情況が変わったからである。人間は、情況に応じて生きるからである。オリンピックは開催されたのである。情況は変わったのである。オリンピック開催前には、それに反対していても、オリンピックが開催されてからは、日本選手を応援し、その活躍に歓喜しても、何ら矛盾は存在しないのである。もちろん、オリンピックが始まっても、オリンピックに反対し、デモ行進をする人もいるだろう。オリンピックのテレビ番組は一切見ないし、オリンピックの報道を一切無視するという人もいるだろう。それは、個々の判断だからそれで良いのである。情況を考慮せずに、単純に終始一貫を求めるのは幼児の思考である。例えば、戦争に反対していても、太平洋戦争が起こると、日本のためだと思い、戦地に赴いた日本人は多い。その人たちに、誰が、終始一貫した考えを求めるだろうか。もちろん、ごく少数だが、それでも、反対し続けて、兵役を拒否した人も存在する。その人たちは、憲兵や特攻に逮捕され、拷問を受け、ある人は賛成に回り、ある人は反対し続けて戦争が終わるまで刑務所に入れられたり殺されたりした。誰が前者を責められようか。人間は、情況に応じて、すなわち、情況を判断して生きていくのである。







人間は自らを脱構築しなければいけない。(自我その518)

2021-07-11 12:17:52 | 思想
ほとんどの人は、自らが、快楽を求めて、何かに動かされて生き、何かを追うように仕向けられて生きていることに気付いていない。つまり、ほとんどの人は、深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、人間を動かしているのに気付いていないのである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理が思考して生み出した感情は、深層心理が思考して生み出した行動の指令を実行する動力になっているのである。深層心理が思考して生み出した行動の指令は、人間を、具体的な行動へと促しているのである。深層心理が思考して生み出した感情と深層心理が思考して生み出した行動の指令が一体化して、自我の欲望になり、人間を動かしているのである。しかし、ほとんどの人は、最初から最後まで、自ら意識して、他者に配慮し、道徳観・社会規約に基づいて、思考し、意志によって行動していると思っているのである。確かに、人間には、自らを意識しての思考も存在する。それが、表層心理での思考であり、一般に言われている思考である。つまり、ほとんどの人は、最初から最後まで、表層心理で、自らを意識して、他者に配慮し、道徳観・社会規約に基づいて、思考し、意志によって行動していると思っているのである。しかし、表層心理での思考は、常に、深層心理の結果を受けて行われるのである。表層心理での思考は、常に、現実的な利得を求めることを目的に、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかを審議するためだけに行われるのである。すなわち、人間は、表層心理で、現実的な利得を求めることを目的に、他者に配慮し、道徳観・社会規約に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかを審議するのである。人間が、表層心理で、自らを意識して、他者に配慮し、道徳観・正義感・社会規約に基づいて、思考するのは、道徳観・社会規約に基づいて行動しなければ、後に、他者から、罰せられたり非難されたりして、現実的な利得を得られないからである。また、感情も行動の指令も深層心理の範疇に属しているから、人間は、表層心理での思考では、感情も行動の指令も生み出すことができないのである。つまり、人間は、表層心理での思考だけでは、行動できないのである。さて、人間は、表層心理での思考で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れると決定すれば、行動の指令のままに実行する。人間は、表層心理での思考で、深層心理が生み出した行動の指令について拒否すると決定すれば決断すれば、意志によって、行動の指令を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、意志によって行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。また、意志によって行動の指令を抑圧することができたとしても、今度は、人間は、表層心理で、深層心理が納得するような行動を考え出さなければならないのである。深層心理が納得するような行動を考え出さない限り、深層心理が生み出した感情が心の中に居座り、人間を苦しめるのである。人間が、表層心理で、深層心理が納得するような行動を考え出そうとして、考え出せない情態が、苦悩である。このように、深層心理と表層心理が関わっているのである。例えば、人間は、誰しも、時には、失礼なことを言われたり、失礼なことをされたりして、自我が傷つけられることがある。その時、深層心理が、自我を主体に立てて、思考して、怒りの感情とともに相手を侮辱しろ、殴れなどの行動の指令という自我の欲望を生み出すことがある。稀には、深層心理が、怒りの感情とともに相手を殺せなどの過激な行動の指令という自我の欲望が生み出すことがある。しかし、この後、人間は、まず、深層心理の超自我というルーティーン通りの行動をしようとする機能が、相手を侮辱しろ、殴れ、殺せなどの行動の指令を抑圧しようとする。そして、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、現実的な利得を求めようと、思考して、行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、相手を侮辱しろ、殴れ、殺せなどの行動の指令を抑圧しようとする。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動した後のことを考慮し、行動の指令を抑圧しようとするのである。しかし、怒りの感情が強過ぎる場合、相手を侮辱しろ、殴れ、殺せなどの行動の指令を抑圧できず、行動の指令のままに実行するのである。そして、悲劇、惨劇をもたらすのである。また、意志で、相手を侮辱しろ、殴れ、殺せなどの行動の指令を抑圧できたとしても、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような、傷心・怒りの感情から解放されるための行動を考えなければならない。そのような行動を考えだし、それを実行しなければ、傷心・怒りの感情に苦しめられるからである。しかし、それは容易に考え出されることがなく、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。それは、深層心理が自ら精神疾患に陥ることによって、現実から逃れようとしているのである。さて、深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのであるが、自我とは、何か。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているのである。だから、人間は、自我に執着して生きているのである。つまり、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、自我に執着しているのではなく、深層心理が、人間を自我に執着させているのである。深層心理とは、人間の無無識の精神活動であるから、人間は、自ら意識せず、自ら意志しなくても、深層心理によって、自我に執着して生きているのである。だから、自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。他人とは、構造体の外の人々である。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。だから、人間には、自分そのものは存在しないのである。人間は、孤独であっても、孤立していたとしても、常に、構造体が所属し、自我を持って、他者と関わりながら。暮らしているのである。つまり、人間は、誰しも、自分そのものは存在せず、別の構造体に入れば、別の自我を持つだけなのである。また、人間は自己としても存在できないのである。自己とは、人間が、自ら意識して考え、意識して決断し、その結果を意志として行動する生き方である。だから、人間が、最初から最後まで、表層心理で思考して、その結果を意志として行動しているのであれば、自己として存在していると言えるのであるが、人間は、深層心理に動かされているから、自己として存在していると言えないのである。人間は、自己として存在していないということは、自由な存在でもなく、主体的なあり方もしていず、主体性も有していないということを意味するのである。また、そもそも、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるから、人間は、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。主体的に、他者の思惑を気にしないで思考し、行動すれば、その構造体から追放される虞があるからである。さて、深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのであるが、どのようにすれば快楽は得られるのか。それは、欲動に応ずることである。すなわち、深層心理は、欲動に応ずれば、快楽が得られるのである。それでは、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在していている四つの欲望である。すなわち、深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動の四つの欲望に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて生きているのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。ミャンマーの国軍兵士が、無差別に、市民を射殺しているのは、上官の命令に従っているからであり、上官の命令に背けば、兵士という自我を失うからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。そうしないと、自分の力を発揮できないのである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけず、生きる目標を失ってしまうから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できず、自分の力を発揮できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。自我の対他化とは、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。この欲望がかなえば、自我が伸張し、自分の力が発揮できたように思うのである。だから、深層心理は、自我が他者から見られていることを意識して思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理は、どのようにすれば、その人から好評価・高評価を得られるかと考えて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。ラカンに、「人は他者の欲望を欲望する」という言葉がある。それは、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」という意味である。ラカンのこの言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。他者の欲望を獲得することが、自分の力を発揮したことの現れなのである。だから、逆に、自我が他者に認められなければ、深層心理は、怒りの感情と他者に対する攻撃の指令という自我の欲望を生み出し、人間を行動の指令通りに動かし、自我が他者に認められなかった傷心から解放されようとするのである。すなわち、自我の力を知らしめ、他者に自我を認めさせようするのである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、北朝鮮の金正恩による殺戮は、国民に、自我の力を知らしめるためである。人間は、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、深層心理の超自我が抑圧しようとしても、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した行動の指令について、拒否すること決定し、意志で抑圧しようとしても、抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、殺したりしてしまうことがあるのである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望である。それは、「人は自己の欲望を対象に投影する。」という一文で言い表すことができる。それは、「人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。」という意味である。深層心理は、対象の対自化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとするのである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者を支配することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、深層心理が、すなわち、人間が、喜び・満足感が得られれるのである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。わがままは盲目的な支配欲の現れである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、北朝鮮の金正恩による殺戮は、国民からの承認欲を満足させるためだけでなく、国民に対する支配欲を満足させるために起こしているのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば、快楽を得られるのである。自我の対他化による快楽は、自我が他者に好評価・高評価を受けることによって得られるが、対象の対自化による快楽は、自我の志向性(観点・視点)で他者・物・現象を支配することによって得られるのである。さらに、対象の対自化が高じると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生じる。まず、有の無化という作用であるが、深層心理は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、人間の無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。次に、無の有化であるが、それは、「人は自己の欲望を心象化する。」という一文で言い表すことができる。それは、深層心理は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、人間の無意識のうちに、この世に存在しているように思い込むという意味である。深層心理は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。神が存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理は、自我と他者が心の交流をすること、愛し合う、友情を育む、協力し合うようにさせることによって快楽を得るのである。自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりするのである。それがかなえば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。また、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うこともある。それが、「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象である。この欲望は、愛情、友情、協調性を大切にする思いであり、自我の立場と他者の立場は同等であるから、一般的に、歓迎されるのである。だから、この欲望は、自我の評価を他者に委ねるという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を一方的に支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うのである。「呉」の国と「越」の国の仲が悪いのは、二国は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。つまり、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。しかし、試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなり、自分がイニシアチブを取りたいから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。つまり、対象の対自化が自我の力が発揮できると思うから、共通の敵がいなくなると、我を張る(自我を主張する)のである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。しかし、中学生や高校生が、仲間という構造体を作り、友人という自我で、構造体に所属していない同級生をいじめるのは、友人と連帯感ができて仲間という構造体が形成されているという快楽を得ているとともに、一人で生きている者への嫉妬心からである。カップルや夫婦という構造体にある者が、相手から別れを告げられてストーカーになり、相手を殺すことまであるのは、自分の代わりの恋人や夫に対する嫉妬心からである。自民党・公明党政府がオリンピックにこだわるのは、国民が自国の選手やチームが活躍すると、共感欲を満足し、狂喜乱舞して、政権の支持が高まるからである。自民党・公明党政府は、中国、北朝鮮、韓国を敵視することによって、国民を煽り、「呉越同舟」の現象を作り出し、支持を得て、戦争をして相手国民を殺そうと思うまでに愛国心を高めるのである。



誰が生きているのか。自分が生きているのではないのか。(自我その517)

2021-07-06 14:51:25 | 思想
コロナウィルスのせいで、オリンピック開催が危ぶまれている。開催への批判も多い。しかし、オリンピックが始まれば、日本人は、日本チームと日本人選手を応援するだろう。なぜ、日本人は日本チームと日本人選手を応援するのだろうか。それは、日本という国を愛しているからである。それを愛国心と言う。それでは、なぜ、日本人に愛国心があるのか。それは、自らが、日本という構造体に所属していて、日本人という自我を持っているからである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体の中で、ポジションが与えられ、それを自らのあり方として行動する、役割を担った現実の自らの姿である。つまり、愛国心とは自我愛なのである。国を愛しているように見えて、実は、国民という自らの自我を愛しているのである。だから、オリンピックで、日本チームや日本人選手を応援している時も、実は、自分自身を応援しているのである。そのために、真剣なのである。日本チームや日本人選手が勝てば、日本という国が世界で上位に認められると思い、自分のことのように喜び、日本チームや日本人選手が負ければ、日本という国が世界で下位に思われると思い、自分のことのように悲しむのである。オリンピックでの選手の活躍は、その選手の存在主張であるとともに、国際社会における、国という構造体の存在主張であり、国民という自我の存在主張なのである。だから、オリンピックは、自我の発揚の場なのである。だから、オリンピックで求めるのは、一に、自国チーム、自国選手の勝利なのである。しかし、日本人に限らず、国民ならば、誰しも、自らの国を愛している。その国の国民という自我を持っているからである。現代においては、自分が所属している国に対する愛情、すなわち、愛国心が世界を動かしているのである。それは、世界が分けられ、どこかの国という構造体に所属し、国民という自我を持たなければ、自己確認できないから、世界中の人々には、皆、愛国心があるのである。愛国心があるからこそ、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、殺戮などの残虐な行為が無くなることはないのである。しかし、人間は、誰しも、生まれてくる国を選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その国に存在しているのである。日本という国に生まれたから、日本人は、日本という構造体に所属して、日本人という自我を持ち、日本に愛国心を抱くのである。韓国という国に生まれたから、韓国人は、韓国という構造体に所属して、韓国人という自我を持ち、韓国に愛国心を持つのである。中国という国に生まれたから、中国人は、中国という構造体に所属して、中国人という自我を持ち、中国に愛国心を抱くのである。アメリカという国に生まれたから、アメリカ人は、アメリカという構造体に所属して、アメリカ人という自我を持ち、アメリカに愛国心を抱くのである。国籍を移しても、同じである。日本人が韓国に国籍を移せば、韓国という構造体に所属して、韓国人という自我を持ち、韓国に愛国心を持つのである。そして、オリンピックが始まれば、日本人は、日本チームや日本人選手を応援し、韓国人は、韓国チームや韓国人選手を応援し、中国人は、中国チームや中国人選手を応援し、アメリカ人は、アメリカチームやアメリカ人選手を応援するのである。また、戦争が始まれば、日本人は、愛国心から、敵国の人間という理由だけで人を殺すことができ、韓国人は、愛国心から、敵国の人間という理由だけで人を殺すことができ、中国人は、愛国心から、敵国の人間という理由だけで人を殺すことができ、アメリカ人は、愛国心から、敵国の人間という理由だけで人を殺すことができるのである。だから、現代においては、国民という自我を持っている者が、自分が所属している国に対する愛情、すなわち、愛国心に動かされ、世界を動かしているのである。だから、現代においては、誰も生きていず、国民という自我が生きているのである。





人間が、皆、自分の気持ちに正直に行動するようになれば、人類は滅びる。(自我その515)

2021-07-05 14:01:35 | 思想
人間の気持ちとは単なる感情ではない。気持ちには、感情とともに常に行動の指令が伴っている。だから、人間が、「気持ちいい」と言う時は、このままの状態でいたいということであり、「気持ち悪い」と言う時は、近寄りたくない状態であることを意味しているのである。「気持ち悪い」と言われると、心が傷付くのは、その言葉を言った人の心の叫びであると思われるからだ。心の叫びとは、本音である。本人は無意識のままに本音を語っていることである。つまり、心の叫びとは、本人は意識していないが、心が思ったことが、言葉となって現れたということを意味しているのである。本人が意識していない心の動きを深層心理と言う。一般に、深層心理とは人間の無意識の精神活動を指し、特に、深層心理の思考だけを取り上げて、それを無意識と表現することが多い。すなわち、ある人に対して、深層心理が気持ち悪いと感じ、近寄りたくないと思ったのである。しかし、一般に、「気持ち悪い」と感じる人がいても、それを言葉で発しない。なぜならば、「気持ち悪い」と発すると、人の心を傷つけることになり、後に、その人から復讐されるからである。「気持ち悪い」という言葉を発することを抑圧したのは、表層心理での思考によってである。人間には、深層心理だけでなく、表層心理も存在するのである。表層心理とは、人間の自らを意識しての精神活動である。すなわち、人間は、表層心理で思考し、気持ち悪いという言葉を発したならば、相手の心を傷つけ、後に、復讐されることを恐れて、「気持ち悪い」という言葉を発することを抑圧したのである。人間は、幼い頃から、正直に生きなさいと言われ続け、正直を美徳として教え込まれる。しかし、「気持ち悪い」と正直に言うと、相手の心を傷つけるのである。すなわち、人間は、深層心理が感じたことや思考したことを、そのまま、言葉で言ったり行動したりすると、社会生活を営む上で不都合を生じることがあるのである。しかも、その機会が、非常に多いのである。なぜ、このようなことが生じるのか。すなわち、なぜ、人間には自分の気持ちに正直に行動してはいけないことが多いのか。なぜ、人間には心の叫びのままに叫んではいけないことが多いのか。つまり、なぜ、人間には、深層心理の思考の通りに言ったり行動したりしてはいけないことが多いのか。それは、深層心理は、快楽を求めて、思考しているからである。深層心理は、一時の快楽、その時ばかりの快楽を求めて思考するから、社会生活を営む上で不都合なことを言うことや行うことを、行動の指令として、人間に与えることもあるのである。だから、人間は、表層心理で思考して、深層心理が思考して生み出した社会生活を営む上で不都合なことを、抑圧しなければならないのである。しかし、人間は、表層心理の思考では、気持ちを、すなわち、感情と行動の指令を生み出すことができないのである。表層心理の思考は、常に、深層心理が思考して生み出した行動の指令について、審議するだけなのである。だから、快楽を求めて思考するという深層心理の志向性を変えない限り、深層心理は人間に自分の気持ちに正直に行動してはいけないことを行動の指令として与え続けることになるが、人間は、表層心理では、すなわち、自らの意志では、変えることはできないのである。そこに、人間の存在の矛盾があるのである。だから、深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているということから、人間は永遠に逃れることができないのである。つまり、深層心理が思考して、時には、社会生活を営む上で不都合を生じる虞があることを、自我の欲望として生み出して人間を動かすことがあるということから、人間は永遠に逃れることができないのである。それでは、自我とは何か。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体と自我の関係は次のようになる。家族という構造体には、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、夫婦という構造体には、夫もしくは妻の自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があり、県という構造体には、県知事・県会議員・県民などの自我があり、国という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があるのである。たとえ、人間は、一人暮らしをしていても、孤独であっても、孤立していても、常に、一つの構造体に所属し、一つの自我を持って、他者と関わりながら、暮らしているのである。次に、自我を主体に立てるとは何か。自我を主体に立てるとは、深層心理が、自我を自分だと思い込み、自我を中心に考えるという意味である。だから、人間は、自我に執着して生きているのである。つまり、人間は、表層心理で、すなわち、自ら意識して、自らの意志によって、自我に執着しているのではない。深層心理が、自我に執着しているのである。だから、自我の執着から逃れられないのである。次に、自我の欲望とは何か。自我の欲望とは、感情と行動の指令が合体したものであり、感情が動力となり、行動の指令通りに、人間を動かそうとするのである。次に、快楽を求めるとは何か。快楽を求めるとは、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。深層心理は、欲動に応じれば、快楽が得られるので、欲動に基づいて思考するのである。また、快楽を求める欲望には、道徳観や社会規約は存在しない。なぜならば、道徳観や社会規約を守っても、快楽が得られないからである。だから、深層心理の思考は、道徳観や社会規約に縛られず、欲動に基づいて、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的として行われるのである。そこで、深層心理が思考して、時には、社会生活を営む上で不都合を生じる虞があることを、自我の欲望として生み出して人間を動かそうとすることがあるのである。人間が、道徳観や社会規約に基づいて思考するのは、表層心理で思考する時である。なぜならば、道徳観や社会規約を守らなければ、周囲や社会から顰蹙を買ったり罰せられたりするからである。次に、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させ、人間を行動へと駆り立てる、人間の内在的な四つの欲望である。欲動は深層心理に存在しているから、内在的な欲望と言われるのである。深層心理は、欲動に応じれば、快楽が得られるので、欲動に基づいて思考するのである。欲動は、四つの欲望によって成り立っている。欲動の第一の欲望は、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、それは、深層心理に、自我を保身化させようとする。欲動の第二の欲望は、自我が他者に認められたいという欲望であるが、それは、深層心理に、自我を対他化させようとする。欲動の第三の欲望は、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望であるが、それは、深層心理に、自我で、他者・物・現象という対象を対自化させようとする。欲動の第四の欲望は、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、それは、深層心理に、自我と他者を共感化させようとする。深層心理は、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、欲動の保身化・対他化・対自化・共感化という四つの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、自我である人間を動かしているのである。さて、人間の日常生活は、ほとんど、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望にかなっているからである。人間の生活が毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動しても何ら問題が無く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。そして、深層心理は、自我を守るために、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かし、時には、罪を犯させるのである。高級官僚たちが、森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会などでの、「記憶にございません」を繰り返す国会答弁、証拠隠滅、書類消去、書類改竄などの罪を犯したのは、安倍晋三前首相に恩を売り、立身出世したかったからである。彼らは、自らの自我のために、国民を欺いたのである。彼らは、深層心理で、国民を欺くことがルーティーンになっているから、表層心理で、自らの行動の諾否について、審議することは無い。つまり、考え込むことが無いのである。また、学校でいじめ自殺事件があると、校長・教頭・教諭の深層心理が校内のいじめを隠蔽するという罪を犯すのは、自らの自我を守るためである。深層心理には、被害生徒への思いよりも、自らの自我が大切なのである。いじめっ子の親の深層心理も、自らの自我を守るために、いじめの原因を、被害生徒や被害生徒の家族関係に求めるのである。さらに、生徒や会社員が嫌々ながらも学校や会社へ行くのは、深層心理が生徒や会社員という自我を守りたいためである。そして、検事、弁護士、裁判員、裁判官の深層心理も、自我を守りたいという欲望で動き、自己で主体的に活動していないから、日本の裁判は、政権寄りの歪んだ判決を出すのである。次に、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望であるが、それは、深層心理が自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。深層心理は、自我を対他化し、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、自我を対他化し、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。フランスの心理学者のラカンは、「人は他者の欲望を欲望する」と言う。それは、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」という意味である。この言葉は、端的に、自我の対他化を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているからである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の犯罪は、自我が他者に認められないどころか、他者に心が傷つけられ、怒りの感情を持ったことが原因である。すなわち、犯罪は、決まって、傷心から始まるのである。深層心理が傷つけられたからである。怒りは、深層心理が思考して生み出した復讐の感情である。それは、深層心理には、自我が他者から認められたい、評価されたいという欲望があるからである。しかし、それが、他者に認められるどころか、貶され、プライドがずたずたにされたから、心が傷付き、深層心理が、その傷心から立ち上がろうとして、怒るのである。そして、深層心理の敏感な人は、感情の起伏が激しいから、激しく罵倒したり、いきなり殴り掛かるなどの乱暴を働くことがあるのである。だから、深層心理の敏感な人は、心が傷付きやすく、深層心理が、その傷付いた心を早く回復させるために、怒り、自我に、傷つけた人を激しく罵倒させたり、乱暴を働かさせたりするのである。怒りは、深層心理が生み出した感情であり、自らの心を傷つけた相手に対する復讐を実行させる大きな力になるのである。全ての感情が行動の指令を実行する動力になっているのであるが、怒りという感情が最も大きい動力であるから、人間は怒りに駆られて行動の指令通りに行動するのである。深層心理は自らが思考して生み出した行動の指令を、自我に実行させるために、感情という動力を生み出しているのである。つまり、感情とは、現在の自我の状況を反映しているだけでなく、次の行動への動力になっているのである。特に、怒りは感情の中でも最も強い感情であり、自我を傷つけた相手の立場を下位に落とし、相手の心を傷つけることによって、自我を上位に立たせようとするのである。それは、自我が下位に落とされ、心が傷付いたからである。だから、深層心理は、怒ると、徹底的に自我を傷つけた相手の弱点を突こうとするのである。そこには、見境は無い。自我を傷つけた相手の心を深く傷つけられるのならば、何でも構わないのである。自我を傷つけた相手の心が最も早く最も深く傷付く方法を考え出し、そこを徹底的に攻めようとするのである。それが、犯罪に繋がるのである。相手の心が最も傷付く言葉で侮辱したり、腕力の劣った相手ならば暴力に訴えようとするのである。怒りはその時の傷心から逃れるためのものであるから、相手の弱点を突いて下位に落とそうとするのである。女性に対しては、「ブス」、「デブ」などと侮辱したり、男性に対しては、「能なし」、「ちび」などと侮辱したり、相手が抵抗するまもなく殴ったりするのである。しかし、人間は、常に、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動しているわけではない。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、自我に現実的な利得を求めて、自らの状態を意識して、深層心理が生み出した行動の指令の諾否を思考して、行動することがある。人間の表層心理での思考は、自我に利益をもたらそうという長期的な展望に立って行っているので、深層心理の瞬間的に快楽を求める思考とは著しい対照を成している。しかし、人間の表層心理での思考は、常に、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が思考して生み出した感情の下で、深層心理が思考して生み出した行動の指令について許諾するか拒否するかを決めるために意識して行うのであり、人間は、深層心理から離れて、表層心理独自で思考することはできないのである。また、深層心理の思考の後、人間は、感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、すぐに行動する場合と表層心理で考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識して思考することなく、行動するのである。それが、日常生活をルーティーンにしているのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識して、思考して、行動する。すなわち、人間は、表層心理で、自我を主体に立てて、自我に現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。表層心理での思考とは、人間の意識しての思考であり、理性である。そして、人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志による行動である。さて、日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を守ろうとせず、その時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すことがあるのである。そのような時には、まず、超自我が、ルーティーンを守るために、過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、深層心理の構造体の中で自我を持してこれまでと同じように暮らしたいという、欲動の第一の欲望である自我の保身化から発した作用である。しかし、もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。だから、人間は、表層心理で思考し、自我を傷つけた相手を復讐した後のことを想像し、自らが発した侮辱の言葉や暴力によって、相手が深くうらんだり、周囲から顰蹙を買うことによって、自らの立場を危うくする可能性があることを考慮し、深層心理が生み出した侮辱の言葉や暴力を拒否する決断を下し、意志によって抑圧しようとするのである。しかし、深層心理が生み出した怒りが強い場合、表層心理の意志による抑圧は実行されないのである。そして、人間は、深層心理が思考して生み出した、侮蔑の言葉や暴力によって、相手を一瞬にして討ち倒せという行動の指令通りに、行動するのである。深層心理が思考して生み出した怒りの感情は、復讐によってその時の傷心から逃れるための感情であるから、相手が言葉によって傷付くならば言葉を投げかけたり、相手が腕力が無かったり手が出せない立場ならば平手打ちを食わせたり蹴ったりせよなどの行動の指令を出すのである。深層心理は、思考して生み出した侮蔑の言葉や暴力という行動の指令で、一撃で相手を打ち倒そうとするのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、思考して、深層心理が生み出した行動の指令を拒否して、行動の指令を抑圧することを決め、実際に、行動の指令のままに行動しない場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。次に、欲動の第三の欲望である自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望であるが、それは、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」という一文で表現できる。それは、「人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。」という意味である。自我の志向性や趣向性は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。まず、他者という対象の対自化であるが、他者を支配することである。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが目的である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが目的である。だから、校長や社長は、深層心理が生み出した自我の欲望のままに横暴なことをするのである。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば、深層心理が快楽を得られるからである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、深層心理が快楽を得られるからである。そして、後に、表層心理で思考して、自然破壊を認識し、悩むのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるからである。さらに、対象の対自化の欲望が高じると、深層心理には、「無の有化」、「有の無化」という機能が発生する。「無の有化」とは、「人は自己の欲望を心象化する」(人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)という言葉に表れている。 深層心理は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ることがその目的である。「有の無化」とは、深層心理は、この世に、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象が存在していると、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。自己正当化によって、心に安定を得ようとするのである。深層心理は、快楽を求めるためには、敢えて、現実を歪めて捉えるのである。次に、欲動の第四の欲望である自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、それは、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強いという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。そして、ストーカーの深層心理は、屈辱感から、怒りという感情と付きまとえ・襲撃せよなどの行動の指令を自我の欲望を生み出し、別れを告げられた者を、行動の指令通りに行動させようとするのである。そして、ストーカーは、表層心理で思考して、自我に現実的な利得を求めようとして、行動の指令通りに行動したならば、後に、自我に不利益なことがあるとわかり、意志で抑圧しようとしても、怒りの感情が強いので、そのまま行動してしまうのである。これが、ストーカーの惨劇である。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望から発している。二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得ることができるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、二人は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否して、仲が悪くなるのである。このように、深層心理が自我に執着し、深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かし、時には、社会生活を営む上で不都合を生じる虞があることを、自我の欲望として生み出して人間を動かすことがあるということから、人間は永遠に逃れることができないのである。だから、人間が、皆、自分の気持ちに正直に行動するようになれば、すぐに滅びるのである。



人間は、醜くても、自我の欲望を直視できない間は、自分が生きていると言えない。(自我その516)

2021-07-04 15:02:38 | 思想
人間は、常に、ある構造体に所属して、ある自我を持って、行動している。そして、人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則を満たそうと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのである。まず、深層心理であるが、深層心理とは人間の無意識の精神活動である。つまり、深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、自我の欲望を生み出し、人間は、その自我の欲望に動かされて生きているのである。次に、構造体であるが、構造体とは、人間の組織・集合体である。次に、自我であるが、自我とは、構造体の中で、他者からある特定の役割を担ったポジションが与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、国民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では夫と妻という自我がある。だから、ある女性は、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では母という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って、行動しているのである。ある男性は、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では夫という自我を持ち、会社という構造体では人事課長という自我を持ち、コンビニという構造体では来客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って行動しているのである。次に、自我を主体に立てるであるが、」自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。だから、人間は、表層心理で、自我に執着しているのではなく、深層心理が、自我に執着しているのである。表層心理とは人間の自らを意識しての精神活動である。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。すなわち、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、自我に執着しているのではなく、無意識のうちに、自我に執着しているのである。だから、自我の執着から逃れられないのである。次に、心境であるが、心境とは、感情と同じく、情態という心の状態である。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する情態である。ルーティーンという毎日同じようなことを繰り返す生活を可能にしているのは、心境である。感情は、喜怒哀楽などの情態であり、深層心理が思考して、行動の指令と一体化させて自我の欲望として生み出したものである。深層心理が生み出した感情が、自我である人間に、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動させる動力になっているのである。すなわち、心境がルーティーンという毎日同じようなことを繰り返す生活の動力となり、感情が行動の動力になっているのである。情態を表す言葉として、他に、気持ち、気分などがあるが、気持ちは感情に近く、気分は心境に近い言葉である。人間の心は、すなわち、深層心理は、たいていは、心境、時には、感情という情態にある。そして、情態は心境と感情が並び立つことがない。すなわち、心境が存在する時は、感情は存在せず、感情が存在する時は、心境は存在しない。人間は、常に、一つの心境という情態、もしくは、一つの感情という情態にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、人間の心境であり感情である。また、人間は、心境によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚する。深層心理は、得意の心境の情態の時には、自我を現在の状態を維持させようと思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出さず、自我である人間に、現在の心境のままにいつもと同じような行動をさせ、現在の状態を維持させようとする。深層心理は、不得意の心境の情態の時には、自我である人間を現在の状態から脱却させようと思考する。しかし、深層心理は、どれだけ思考しても、強い感情を伴った行動の指令という自我の欲望を生み出さなければ、自我は、すなわち、人間は、ルーティーンという毎日同じようなことを繰り返すのである。なぜならば、深層心理には、超自我という機能が存在するからである。超自我とは、自我にルーティーンを守らせる機能である。深層心理には、超自我という機能も存在するのである。超自我が、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとするのである。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。表層心理での思考は、長く時間が掛かる。それは、深層心理は、快感原則という快楽を求める欲望に基づく思考だから、瞬間的に行われるが、表層心理での思考は、現実原則という自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に基づく思考だからである。人間は、表層心理で、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利得をもたらそうと思考するのである。道徳観や社会規約を考慮せずに行動すると、後に、他者から顰蹙を買う可能性があるからである。しかし、人間の表層心理での思考の役割は、常に、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議のみである。つまり、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を離れて思考することはできないのである。すなわち、表層心理独自で思考することはできないのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという自我の将来のことを考え、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかについて思考するのである。もしも、超自我が、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できなかったなかったならば、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令について思考することになるのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実原則という自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動すると、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した行動の指令をついて受け入れるか拒否するかについて思考するのである。例えば、人間は、誰しも、朝起きると、学校・職場に行くことを考えて不快になることがある。この、学校・職場に行くことを考えて不快になったのは、人間の自らを意識しての表層心理の思考の結果ではなく、無意識の深層心理が思考して生み出したのである。表層心理での思考からは感情は生まれないのである。人間が、無意識のうちに、深層心理が思考して、不快な感情と学校・職場に行かないでおこうという行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。しかし、たいていの場合、不快な気持ちを振り切り、登校・出勤する。それは、超自我という機能が働いたからである。もしも、超自我が、深層心理が生み出した学校・職場に行かないでおこうという行動の指令を抑圧できなかったなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになるのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した不快な感情の下で、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、学校・職場に行かなかったならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した学校・職場に行かないでおこうという行動の指令をついて受け入れるか拒否するかについて思考するのである。そして、たいていの場合、深層心理が生み出した学校・職場に行かないでおこうという行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、深層心理が生み出した学校・職場に行かないでおこうという行動の指令を抑圧し、学校・職場に行こうとするのである。しかし、深層心理が生み出した不快な感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志も、深層心理が生み出した学校・職場に行かないでおこうという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、学校・職場に行かないのである。そして、人間は、自宅で、表層心理で、不快な感情の下で、この不快な感情と学校・職場に行かないでおこうという行動の指令という自我の欲望から逃れるためにはどうしたら良いかと思考するのである。なぜならば、学校・職場に行かないことは、自我に現実的な利得をもたらさないからである。しかし、たいていの場合、良い方法が思い浮かばず、苦悩するのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した学校・職場に行かないでおこうという行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧でき、学校・職場に行くことができたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した不快な感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、すぐには不快な感情は消えることがないからである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、不快な感情のままに、毎日、学校・職場に行くのである。そして、ルーティーンの生活に紛れて不快な感情は消えていけば良いが、不快な感情が積み重なると、その不快な感情から逃れるために、深層心理が自らに鬱病などの精神疾患をもたらすことがあるのである。深層心理は、鬱病などの精神疾患に罹患して、現実から逃れようとするのである。つまり、心境や感情という情態が人間を動かしているのである。心境が人間にルーティーンの生活を送らせ、感情が人間に行動を起こさせるのである。それは、常に、心境や感情という情態が深層心理を覆っているからである。さらに、深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在してからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろなものやことの存在を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろなものやことががそこに存在していることを前提にして、思考し、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろなものやことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろなものやことの存在が証明できるから、自分やものやことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして、思考し、活動しているのである。人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在、ものの存在、ことの存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。確信があるから、深層心理は自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分やものやことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則を満たそうと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換によって、心境を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の変換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができないから、何かをすることによって、心境を変えるのである。つまり、人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。次に、欲動であるが、欲動とは、深層心理に内在していて、深層心理を動かしている四つの欲望である。欲動には、第一の欲望として自我を確保・存続・発展させたいという欲望があり、第二の欲望として自我を他者に認めてもらいたいという欲望があり、第三の欲望として自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望があり、第四の欲望として自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。すなわち、深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動の四つの欲望に基づいて、快感原則によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて生きているのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。ミャンマーの国軍兵士が、無差別に、市民を射殺しているのは、上官の命令に従っているからであり、上官の命令に背けば、兵士という自我を失うからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。そうしないと、自分の力を発揮できないのである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけず、生きる目標を失ってしまうから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できず、自分の力を発揮できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。愛国心という自我の欲望を直視しなければならないのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。自我の対他化とは、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。この欲望がかなえば、自我が伸張し、自分の力が発揮できたように思うのである。だから、深層心理は、自我が他者から見られていることを意識して思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理は、どのようにすれば、その人から好評価・高評価を得られるかと考えて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。ラカンに、「人は他者の欲望を欲望する」という言葉がある。それは、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」という意味である。ラカンのこの言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。他者の欲望を獲得することが、自分の力を発揮したことの現れなのである。だから、逆に、自我が他者に認められないと、深層心理は、すなわち、人間は苦悩に陥るのである。人間が、朝起きると、学校・職場に行くことを考えて不快になるのも、学校・職場という構造体で、同級生、教師・上司、同僚などの他者から評価されていないからである。また、人間にとって、最も強い感情は怒りである。深層心理が怒りの感情を生み出し、自我である人間を、深層心理の行動の指令通りに動かそうとするのである。人間は、激しい怒りの感情を抱くと、超自我や表層心理で抑圧しようとしてもできずに、他者を侮辱しろ、他者を殴れ、他者を殺せなどの深層心理の指令通りに、過激な行動を起こしてしまい、悲劇、惨劇を生むのである。さて、それでは、なぜ、深層心理が怒りの感情を生み出したのか。それは、自我が他者に叱責されたり、陰口を叩かれたり、侮辱されたり、殴られたりなどしたからである。自我が他者に叱責されたり、陰口を叩かれたり、侮辱されたり、殴られたりなどすることは、自我が他者によって下位に落とされたことを意味するのである。深層心理は、常に、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとしているから、自我が他者によって下位に落とされたので、怒りの感情を生み出したのである。つまり、プライドが傷付けられたから、怒ったのである。深層心理は、常に、自我が他者に認められたいという欲望を持っているから、それが、認められるどころか、貶され、プライドがずたずたにされたから、傷付き、その傷心から立ち上がろうとして、プライドを傷つけた他者に対して、怒りの感情と侮辱しろ、殴れ、殺せなどの過激な行動の指令を自我の欲望として生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。つまり、深層心理は、他者によって自我が下位に落とされたから、その他者に対して、怒りの感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、過激な行動の指令通りに自我を動かし、その他者を下位に落として、自我を上位に立たせようとするのである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望である。それは、「人は自己の欲望を対象に投影する。」という一文で言い表すことができる。それは、「人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。」という意味である。深層心理は、対象の対自化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとするのである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者を支配することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、深層心理が、すなわち、人間が、喜び・満足感が得られれるのである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。わがままは盲目的な支配欲の現れである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、北朝鮮の金正恩による殺戮は、国民からの承認欲を満足させるためだけでなく、国民に対する支配欲を満足させるために起こしているのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば、快楽を得られるのである。自我の対他化による快楽は、自我が他者に好評価・高評価を受けることによって得られるが、対象の対自化による快楽は、自我の志向性(観点・視点)で他者・物・現象を支配することによって得られるのである。さらに、対象の対自化が高じると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生じる。まず、有の無化という作用であるが、深層心理は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、人間の無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。次に、無の有化であるが、それは、「人は自己の欲望を心象化する。」という一文で言い表すことができる。それは、深層心理は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、人間の無意識のうちに、この世に存在しているように思い込むという意味である。深層心理は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。神が存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理は、自我と他者が心の交流をすること、愛し合う、友情を育む、協力し合うようにさせることによって快楽を得るのである。自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりするのである。それがかなえば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。また、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うこともある。それが、「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象である。この欲望は、愛情、友情、協調性を大切にする思いであり、自我の立場と他者の立場は同等であるから、一般的に、歓迎されるのである。だから、この欲望は、自我の評価を他者に委ねるという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を一方的に支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うのである。「呉」の国と「越」の国の仲が悪いのは、二国は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。つまり、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。しかし、試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなり、自分がイニシアチブを取りたいから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。つまり、対象の対自化が自我の力が発揮できると思うから、共通の敵がいなくなると、我を張る(自我を主張する)のである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。しかし、中学生や高校生が、仲間という構造体を作り、友人という自我で、構造体に所属していない同級生をいじめるのは、友人と連帯感ができて仲間という構造体が形成されているという快楽を得ているとともに、一人で生きている者への嫉妬心からである。カップルや夫婦という構造体にある者が、相手から別れを告げられてストーカーになり、相手を殺すことまであるのは、自分の代わりの恋人や夫に対する嫉妬心からである。自民党・公明党政府がオリンピックにこだわるのは、国民が自国の選手やチームが活躍すると、共感欲を満足し、狂喜乱舞して、政権の支持が高まるからである。自民党・公明党政府は、中国、北朝鮮、韓国を敵視することによって、国民を煽り、「呉越同舟」の現象を作り出し、支持を得て、戦争をして相手国民を殺そうと思うまでに愛国心を高めるのである。次に、快感原則であるが、快感原則とは、深層心理に存在する、道徳観や社会的規約を有さず、その時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望である。次に、感情と行動の指令という自我の欲望であるが、感情と行動の指令という自我の欲望とは、深層心理が思考して、生み出したものである。深層心理が生み出した感情が、自我である人間に、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動させる動力になっているのである。このように、深層心理は、醜い自我の欲望も生み出してくる。しかし、人間は、醜くても、自我の欲望を直視し、表層心理で対処しない限り、自分が生きているとは言えないのである。