あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

国民はなぜ戦争に向かっている自民党・公明党政権を支持するのか。(提言12)

2023-08-29 19:55:48 | 思想
国民はなぜ戦争に向かっている自民党・公明党を支持するのか。それは、決して、国民が戦争を望んでいるからではない。戦争は起こらないと思っているからである。たとえ、戦争が起こっても、自衛隊が戦い、アメリカ軍が支援して、自分の身に被害が及ばないと思っているのである。だから、岸田政権が軍備を増強しても、不安を感じていないのである。軍備増強すれば、アメリカ軍の支援を受けて、ロシア、中国、北朝鮮などの国からの軍事的脅威に対抗できると思っているのである。しかし、日米安保条約と言えども、日本が外国に攻め込まれても、アメリカ軍が支援すると確約していない。アメリカ軍が支援する時には、アメリカの議会の承認が必要なのである。台湾が中国に攻め込まれて自衛隊が台湾を支援しても、尖閣諸島をめぐって中国軍と自衛隊が交戦しても、アメリカ軍は自衛隊を支援しないだろう。アメリカ大統領は支援すると言っているが、アメリカ世論やアメリカ議会が猛反対し、アメリカ軍は派遣されないだろう。なぜならば、他国のいざこざに巻き込まれて、自国の兵士の命が犠牲になることを誰が許すだろうか。また、中国もアメリカも核を保有している。核保有国同士の戦争は同士討ちになり、両国とも滅びる公算が強い。だから、アメリカは安易には中国と戦争できないのである。つまり、台湾が中国に攻め込まれて自衛隊が支援しても、尖閣諸島をめぐって中国軍と自衛隊が交戦しても、アメリカ軍は自衛隊を支援することは無いのである。それは、自衛隊がロシア軍と交戦しても、自衛隊が北朝鮮軍と交戦しても同じである。アメリカ軍は日本の戦争には加担することは無いのである。アメリカに直接的に明白に利益にならない限り、アメリカ軍は日本の戦争には加担することは無いのである。それなのに、日本人の多くは、自衛隊と外国の軍隊と戦争になるとアメリカ軍が支援すると思い込んでいるのある。何というお人好しの民族であろうか。現実を見ずに、空想が現実になると思い込んでいるのである。戦前もそうであった。中国、アメリカの国力を把握せずに、戦争を仕掛けたのである。ほとんどの国民が、日本は神の国だからピンチになると神風が吹いて勝利すると思い込んでいたのである。本当に、お人好しの国民である。心理学者のユングは人類には元型があると言う。元型とは共通する心の動き方のパターンである。日本人の元型がお人好しである。だから、戦前の戦争は困れば神が助けてくれると思い、戦後の戦争は困ればアメリカ軍が助けてくれると思っているのである。それは、宗教においても、現れている。神道も仏教も、棚から牡丹餅のお人好しの宗教なのである。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神は、生前の行いによって、死後、人々を裁く。しかし、日本の神道の神は、神社で、賽銭を上げて願いを唱えれば、人々の叶えてくれる、現世利益の神である。仏教の仏も、「南無阿弥陀仏」と六字の名号を唱え、念仏すれば、また、「南無妙法蓮華経」と七字の題目を唱えれば、人々を極楽へ往生させてくれる。自らの行動について思考し、実践する必要が無いのである。だから、国民は平和を守ろうとする立憲民主党・共産党を支持しないのである。確かに、日本国民も平和を望んでいる。しかし、それは、現実を変えない限りでの平和である。立憲民主党・共産党が自民党・公明党の現体制を批判し、変革しようとしているから、国民もそれに乗っかる場合、自らも、変革のために思考し、行動しなければならない。棚から牡丹餅を待っている国民が、自ら思考し行動するような大儀なことは嫌なのである。楽な姿勢にいることに安住している国民が、立憲民主党・共産党に思考し行動することを強いられているように思うから、立憲民主党・共産党を支持しないばかりか、批判するのである。立憲民主党・共産党に耳を傾けると、甘い夢から覚め辛い現実を見なければならないから、立憲民主党・共産党を批判するのである。立憲民主党・共産党のように現体制を批判するよりも、現体制を維持しようとする自民党・公明党の方が思考せず、行動をしなくても良いから、国民にとっては居心地が良く、安穏に暮らせるのである。それは、愛国心にも現れている。日本国民は、愛国心に心の拠り所を見出している。それは、戦前の天皇、神風に愛国心の拠り所にしていた日本国民と同じである。だから、日本国民は、愛国心を前面に押し出している自民党・公明党を好感を懐いている。国益を押した立てることが愛国心だと思い込んでいる。そして、相手国の人々の思いを考慮する人を反日だと罵り、国賊だとまで言う右翼・保守派の人々に好感を懐いている。それが、日本維新の会の支持者が増えている理由である。日本国民は、無反省の愛国心がどれほど残虐性を発揮するかに思いを至らないのである。ここにも、棚から牡丹餅を期待するお人好しの国民性が現れているのである。現在、世界は国という構造体で区分され、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。日本という国に生まれたから、日本という構造体に所属して、日本人という自我を持つから、日本に愛国心が生まれてくるのである。それは、韓国、北朝鮮、中国に生まれても、同じことである。自らが所属している国だから、その国を愛するのである。世界中の人々が、オリンピックやワールドカップで、自国チームや自国選手を応援し、楽しむことができるのも、愛国心があるからである。愛国心は、保身欲と承認欲に支えられているのである。人間は、国民という自我を持つと同時に、この自我を持ち続けたいという保身欲が生じるのである。国民という自我は国という構造体に所属することで持つことができるので、他国の人々によって自国を認めてほしいという承認欲も生まれてくるのである。愛国心があるからこそ、他国民からの自国の評価が気になるのである。承認欲のなせる業である。だから、ワールドカップやオリンピックで、自国チームや自国選手が勝利すれば歓喜し、敗北すれば絶望するのである。しかし、愛国心に取りつかれた政治権力者は、往々にして、戦争を引き起こす。政治権力者は、権力者としての承認欲を満たすために、戦争を引き起こすのである。愛国心に取りつかれた国民は、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、国民という自我を愛しているに過ぎないからである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、愛国心が生じ、愛国心にとらわれた政治権力者は戦争を引き起こし、愛国心にとらわれた国民は、戦場で、拷問、虐殺、レイプをためらいなく行うのである。しかし、日本国民は、政治権力者の容易に戦争を引き起こす自我の欲望にも、戦場における自らの残虐性にも思いが至らないのである。だから、愛国心を前面に押してている自民党・公明党政権を支持するのである。


人類に希望は存在するのか。(自我その532)

2023-08-23 19:17:00 | 思想
人類に希望は存在するのか。なぜ、この世から、戦争や殺人などの犯罪が無くならないのか。それは、理性が欲望を抑圧できないからである。欲望と言っても、漠然としたものではなく、自我に徹底的にこだわるという自我の欲望という明確なものである。深層心理が自我を主体に立てて思考して自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理とは人間の無意識の精神活動である。つまり、人間は、自らが意識していない思考、自らが生み出していない欲望に動かされて行動しているのである。人間の自らを意識しての精神活動を表層心理と言う。人間の表層心理での思考が理性である。理性が自我の欲望を抑圧できないから、戦争や殺人を頂点とした犯罪が無くならないのである。しかも、理性が自我の欲望を抑圧できないどころか、往々にして、自我の欲望に加担するのである。しかし、個人が個人を殺すという殺人と個人が集団に命じて集団を殺すという戦争は意味合いが異なっている。殺人は、承認欲を阻害されたのでその恨みを晴らすためや支配欲を満たすために金銭を奪うことなどが原因であり、加害者が直接手を下すのである。露見すれば罰せられ、被害者の抵抗にあい返り討ちになることもある。しかし、戦争の場合、戦争を決めた政治権力者は、自らは武器を持って戦うことは無い。だから、容易に戦争を始めるのである。人間は、地位が上昇するにつれ、自我の欲望も増大していく。人間には誰しも支配欲があり、政治権力を握った者は自分は何をやっても許されると思い、支配欲を満たそうとして、自我の欲望のままに行動するのである。国民が政治権力の内実や政治家の実態を批判しない限り、政治権力者の国民に対する支配欲はとどまることは無く、戦争がその最高形態を示すのである。さらに、戦争が始まると、国民に共感欲が生まれ、一致団結して戦うのである。政治権力者は、それを利用して、他国に戦争を仕掛けるのである。世界は愚かな国民に満ちているから、戦争がやむことは無いのである。しかし、人間は理性の動物ではなかったのか。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言ったのは17世紀である。「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在しているからである。」と言い、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろな物やことの存在まで、すなわち、真理を証明することができると主張したのである。しかし、理性は自我の欲望を克服することができなかった。第一次世界大戦、第二次世界大戦、アウシュビッツの悲劇、広島長崎の悲劇は20世紀に起きた。ドイツの哲学者のアドルノは「現代の理性は方向を誤り、第二次世界大戦、アウシュビッツの悲劇を生み出した。」と述べ、第二次世界大戦、ヒットラー率いるナチス党によるユダヤ人大虐殺の原因を方向性を誤った理性に求めた。しかし、第二次世界大戦、ユダヤ人の大虐殺は、理性という自らを意識している思考が生み出したものではなく、自我の欲望によって起こされたのである。理性は自我の欲望を抑圧しきれないどころか、それに積極的に従ったのである。自我の欲望を満たすことに理性が寄与したのである。爆撃機、戦車、原子爆弾の発明、ユダヤ人の計画的な殺戮計画そして実行、広島長崎への核攻撃は、理性が積極的に自我の欲望に協力したことを示している。現在も続いているウクライナ戦争は、西欧寄りの政策をとるウクライナにロシアの大統領のプーチン大統領が兵を向けたのが発端である。ロシアを嫌っているゼレンスキー大統領はそれに真っ向から対抗した。数多くのロシア兵、ウクライナ兵、ウクライナ国民へが亡くなっても、まだ戦闘が続いている。プーチンのロシアの大統領としての自我の欲望、ゼレンスキーのウクライナの大統領としての自我の欲望が、無益であるばかりか残酷な戦争を継続させているのである。20世紀から21世紀にかけて起きたミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領によるウクライナ侵攻、北朝鮮の金正恩による殺戮も、自我の欲望によって起こされたものである。岸田文雄内閣総理大臣が、軍備増強をしたのも、戦争の際には、自衛隊員、そうて、国民を兵士として、自ら指揮を執ることを夢見ているからである。戦争で指揮を執ることができれば、総理大臣としての自我の欲望が満たされるのである。しかし、戦争や殺人だけでなく、人間の全ての行動は自我の欲望によって引き起こされるのである。すなわち、人間は、常に、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて行動しているのである。理性は自我の欲望を抑圧できないばかりか、時には、自我の欲望に協力するのである。なぜならば、理性で思考しても、それは行動する力を持っていないからである。理性は感情を生み出せず、理性で行動しても快楽が得られないのである。だから、人間世界には、飽きもせず、戦争や殺人が繰り返されるのである。フランスの心理学者のラカンは「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。ラカンの言う「無意識」とは、深層心理の思考を意味する。「言語によって構造化されている」とは、深層心理が言語を使って論理的に思考していることを意味する。つまり、ラカンは、人間は無意識のうちに、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、欲動に基づいて言語を使って論理的に思考しているのである。深層心理が、常に、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。しかし、ほとんどの人は、自ら意識して思考して行動していると思っているのである。すなわち、ほとんどの人間は、表層心理で思考して、自らの意志によって行動していると思い込んでいるのである。つまり、自らは理性的な人間だと思い込んでいるのである。確かに、人間は、表層心理で、思考する時がある。しかし、表層心理での思考は、常に、深層心理の思考の結果を受けて行われるのであり、表層心理での思考だけでは行動できないのである。なぜならば、表層心理での思考では感情を生み出すことができないからである。すなわち、理性では行動できないのである。だから、人間にとって、表層心理での思考よりも、深層心理の思考考が大きな力を持っているのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているから、表層心理での思考よりも深層心理の思考の方が大きな力を持っていると言えるのである。さて、深層心理は自我を主体に立てて思考して人間を動かしているが、それでは、自我とは何か。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなどがある。日本という国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我がある。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動しているのである。だから、ある人は、家族という構造体では母という自我を持ち、日本という構造体では日本国民という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って行動しているのである。また、ある人は、日本という構造体では日本国民という自我を持ち、家族という構造体では夫という自我を持ち、会社という構造体では人事課長という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って行動しているのである。だから、息子や娘が母、父だと思っている人は、確かに、家族という構造体では母、父という自我で行動しているが、他の構造体では、他の自我を所有して行動しているのである。だから、誰しも、「あなたは何ですか。」と尋ねられた場合、その時、所属している構造体の中での自我を答えるのである。人間は、常に、ある一つの構造体に所属して、ある一つの自我として生きていて、他の構造体では、他の自我を有しているから、自分というあり方は固定していないのである。自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。他人とは、構造体の外の人々である。すなわち、自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人の自我と自らの自我を区別しているあり方が自分なのである。だから、人間は、自我と自我との関係の中で生きていて、誰一人として、自分として独自に生きることはできないのである。人間が最初に所属する構造体は家族であり、人間が最初に持つ自我は娘、息子である。しかし、親がちゃという流行語があるように、娘、息子は、家族を選べず、母、父という親を選べないのである。なぜならば、人間は、誰しも、自分の意志によって生まれてきていないからである。そうかと言って、生まれることを拒否したのに、無理矢理、誕生させられたわけでもない。つまり、自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、そこに存在しているのである。だから、人間は、誰しも、自分の意志に関わりなく、誕生させられ、当然のごとく、親を選べず、気が付いた時には、その家の子として存在しているのである。そして、与えられた家族という構造体に所属して、与えられた娘、息子を自我として生きるしかないのである。しかし、親も、子を選べないのである。どのような子が生まれてくるのかわからないのである。子がちゃである。生まれてきた娘、息子の母、父を自我として生きるしか無いのである。人間の悲劇とは、必然性無く所属させられた家族、必然性無く与えられた娘、息子という自我であるが、それから逃れられないということである。さらに、家族にアイデンティティ、娘、息子にアイデンティティを持つことができなければ生きていけないのである。人間は、構造体に所属し、自我が与えられ、構造体の人々にその存在が認められて、初めて、自らの存在を確認し、安心できる動物なのである。それが、アイデンティティーを持つということである。ところが、日本では、一般に、アイデンティティーは、簡単に、「自己同一性。人格における存在証明または同一性。」などと説明されている。これでは、アイデンティティーは独りよがりなものになる。アイデンティティーは、構造体に所属し、自我を持しているだけでは得ることはできないのである。アイデンティティーは、構造体に所属し、自我を持し、その自我が構造体内の他者や構造体外の他者に認められ、自らが自らの自我に満足して、初めて得ることができるのである。つまり、アイデンティティを得るには、自らの自我に対する他者からの承認と評価を必要とし、自らが自らの自我のあり方に満足することが必要なのである。しかし、確かに、国民にアイデンティティーを持てれば精神的に安定できるが、それが愛国心という形で戦争に向かわせることもあるのである。次に、深層心理は欲動に基づいて快楽を求めて思考して人間を動かしているが、それでは、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望である。保身欲は自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。承認欲は自我が他者に認められたいという欲望である。支配欲は他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。共感欲は自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であり、深層心理は、自我の状態を欲動に適応したものにすれば快楽が得られるので、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。その時、その場で、自我に、ひたすら快楽をもたらそうとする深層心理の姿勢を、フロイトは、快感原則と呼んだ。しかし、欲動には、道徳観や社会規約を守ろうという欲望が存在しない。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場で快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするから、行動の指令には善事も悪事も存在するのである。もちろん、悪事の行動の指令には、超自我や表層心理での思考が抑圧しようとする。超自我とは、深層心理に内在し、欲動の保身欲から発したルーティーンの生活を守ろうとする作用である。超自我が悪事の行動の指令を抑圧できなければ、人間は、自らを意識して、表層心理で、行動の指令通りに行動すればその後自我がどのような状態になるかを想像し、現実的な利得を求めて、悪事の行動の指令を抑圧しようと考えるのである。その際、表層心理で、道徳観や社会規約を考慮するのは、それらを無視すると、世間から指弾され、承認欲が満たされないからである。しかし、感情が強ければ、超自我も表層心理での思考も、深層心理が思考して生み出した行動の指令を抑圧できないのである。悪事の行動の指令を実行してしまうのである。人間は、最初から自ら思考できれば、すなわち、最初から表層心理で思考できれば、悪事を思いつかないのだが、深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているから、行動の指令には悪事も含まれているのである。さて、欲動の第一の欲望が自我を確保・存続・発展させたいという保身欲であるが、この欲望が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を可能にしているのである。人間の毎日の生活がルーティーンになっているのは、欲動の保身欲からから発した深層心理が思考して生み出した自我の欲望のままに、表層心理で意識することなく、無意識に行動しているからである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェは、「永劫回帰」という言葉で、森羅万象は永遠に同じことを繰り返すという思想を唱えたが、それは、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、人間は、誰しも、朝起きると、学校・職場に行くことを考えて不快になることがある。不快になったのは、表層心理での思考の結果ではなく、深層心理が思考して生み出したのである。表層心理での思考からは感情は生まれないのである。無意識のうちに、深層心理が思考して、学校・職場に行くと、同級生にいじめられたり上司に馬鹿にされたりして、承認欲が阻害され、自我が傷付けられるから、不快な感情と不登校・不出勤という行動の指令を生み出し、生徒・社員を動かそうとするのである。しかし、たいていの場合、不快な気持ちを抑圧し、登校・出勤する。それは、超自我という機能と深層心理での思考が働いたからである。超自我が、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとするのである。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。表層心理での思考は、長く時間が掛かる。それは、深層心理は快楽を求める思考だから、瞬間的に行われるが、表層心理での思考は、現実原則に基づくからである。現実原則は、フロイトの用語であり、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望である。人間が、表層心理で、自らを意識して思考する時は、自我に現実的な利得をもたらそうという志向性で思考するのである。人間は、表層心理で、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利得をもたらそうと思考するのである。道徳観や社会規約を考慮せずに行動すると、後に、他者から顰蹙を買う可能性があるからである。しかし、人間は、表層心理独自で思考することは無い。人間は、表層心理で、常に、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという自我の将来のことを考え、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかについて思考するのである。もしも、超自我が、深層心理が生み出した学校・職場に行くなという行動の指令を抑圧できなかったなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになるのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した不快な感情の下で、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、学校・職場に行かなかったならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した学校・職場に行くなという行動の指令をついて受け入れるか拒否するかについて思考するのである。そして、たいていの場合、深層心理が生み出した学校・職場に行くなという行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、学校・職場に行こうとするのである。しかし、深層心理が生み出した不快な感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志も、深層心理が生み出した学校・職場に行くなという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、学校・職場に行かないのである。その後、人間は、自宅で、表層心理で、この不快な感情と学校・職場に行くなという行動の指令から逃れるためにはどうしたら良いかと思考するのである。なぜならば、学校・職場に行かないことは、自我に現実的な利得をもたらさないからである。そして、たいていの場合、良い方法が思い浮かばず、苦悩するのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した学校・職場に行くなという行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧でき、学校・職場に行くことができたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した不快な感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、すぐには不快な感情は消えることがないからである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、不快な感情のままに、毎日、学校・職場に行くのである。そして、ルーティーンの生活に紛れて不快な感情は消えていけば良いが、不快な感情が積み重なると、その不快な感情から逃れるために、深層心理が自らに鬱病などの精神疾患をもたらすことがあるのである。深層心理は、鬱病などの精神疾患に罹患して、現実から逃れようとするのである。また、深層心理は、欲動の保身欲に応じて、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界は国という構造体で区分され、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。日本という国に生まれたから、日本という構造体に所属して、日本人という自我を持つから、愛国心が生まれてくるのである。自らが所属している国だから、その国を愛するのである。世界中の人々が、オリンピックやワールドカップで、自国チームや自国選手を応援し、楽しむことができるのも、愛国心があるからである。愛国心は、保身欲と承認欲に支えられているのである。国民という自我を持つと同時に、この自我を持ち続けたいという保身欲が生じるのである。国民という自我は国という構造体に所属することで持つことができるので、他国の人々によって自国を認めてほしいという承認欲も生まれてくるのである。愛国心があるからこそ、他国民からの自国の評価が気になるのである。承認欲のなせる業である。ワールドカップやオリンピックで、自国チームや自国選手が勝利すれば歓喜し、敗北すれば絶望する。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップを楽しめるのである。自国チームや自国選手の活躍を期待しているからである。しかし、愛国心があるから、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、国民という自我を愛しているに過ぎないからである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、自我にとらわれた人間世界には、戦争が無くなることはないのである。人間世界が一つの構造体となって、初めて、地上に戦争が無くなるのである。しかし、それは、地球を襲うような生物や人間をターゲットにする異星人が出現しない限り、不可能である。人類を襲うようなものが出現しない限り、人間は地球人というアイデンティティをもつことができないのである。つまり、国民という自我を持ち、国民というアイデンティティをもっている限り、この世から戦争は無くならないのである。しかし、人間は、国民という自我を否定し、国民というアイデンティティを否定することはできないのである。なぜならば、人間は自我の動物であり、自我ににアイデンティティを覚えなければ、快楽を求めて行動できないからである。世界が国という構造体で区分されているから、それに応じて、全ての人が国民という自我を持って行動するしかないのである。誰一人として、例外が許されないのである。確かに、国民という自我が無ければ、戦争は起こらないが、ワールドカップやオリンピックを楽しめず、一人取り残されるのである。国民という自我にアイデンティティを失った人間には、精神の不安定が押し寄せるのである。それほど、自我にアイデンティティを覚えることは人間の存在に必須のことなのである。しかし、人間は、誰しも、生まれてくる国を選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その国に存在しているからである。日本という国に生まれたから、日本という構造体に所属して、日本人という自我を持つのである。そして、愛国心を持つのである。自らが所属している国だから、その国を愛するのである。もしも、中国、韓国に生まれていたならば、中国、韓国に愛国心を持つのである。だから、愛国心は声高に叫び、中国、韓国に敵が心を燃やすことは笑止千万である。。アメリカを同盟国として尊重している日本人は多いが、アメリカ国民は、アメリカに愛国心を持ち、日本を利用しているだけなのである。次に、欲動の第二の欲望が自我が他者に認められたいという承認欲であるが、人間(自我)が他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理は、必ず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンに「人は他者の欲望を欲望する。」という言葉がある。「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」という意味である。この言葉が、承認欲の現象を端的に言い表している。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩なのである。学校・会社という構造体に行きたくないのは、生徒・会社員という自我の承認欲が阻害されているからである。同級生・教師や同僚・上司という他者から生徒や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという承認欲を持って学校や会社という構造体に行くのだが、毎日のように、悪評価・低評価を受けると、同級生・教師や同僚・上司という他者の下位に落とされ、心が傷付き、憂鬱になるのである。深層心理は、自我の欲望といて、憂鬱な感情と学校・会社という構造体に行くなと行動の指令を生み出し、生徒・会社員に不登校・不出勤を促すのである。そして、時には、深層心理は、傷心から解放されるために、怒りの感情を生み出すことがある。人間にとって、最も強い感情は怒りである。深層心理が怒りの感情を生み出し、自我である人間を、深層心理の行動の指令通りに動かして、下位の自我を上位にして、傷心の感情から解放されようとするのである。深層心理は、自我を傷つけた他者に対して、怒りという過激な感情と侮辱しろ・殴れ・殺せなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、下位の自我を上位にしようとして、人間を動かそうとするのである。人間は、過激な怒りの感情を抱くと、深層心理の超自我や表層心理の意志で抑圧しようとしてもできずに、他者を侮辱しろ、他者を殴れ、他者を殺せなどの深層心理の指令通りに、過激な行動を起こしてしまい、悲劇、惨劇を生むのである。次に、欲動の第三の欲望に、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという支配欲がある。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。ロシアのプーチン大統領や北朝鮮の金正恩最高指導者が、敵対勢力である政治家やジャーナリストを弾圧したり殺害したりするのは、この支配欲からである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の支配欲であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象支配欲であるが、それは、自我の志向性(観点・視点)で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象への支配欲が強まると、深層心理には、有の無化、無の有化という二つの機能が生まれる。有の無化とは、この世に、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象が存在していると、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。自己正当化によって、心に安定を得ようとするのである。もう一つは、無の有化という機能である。この世に、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象が存在しなければ、深層心理が、存在しているように思い込むというということである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定を得ようとするのである。次に、欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとするのである。、他者と心を交流したり、愛し合ったりすれば、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものになるので、喜び・満足感が得られるのである。さらに、敵とする者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。北朝鮮の金正恩を中心とした政治権力者が、アメリカを共通の敵として、大衆に協力を求め、それが成功しているのである。日本の自民党政権は、中国、北朝鮮を共通の敵として、大衆に協力を求め、それが成功しているのである。また、人間が友人が作るのは、一人の自我で行動するのは不安だから、同じ境遇の他者を仲間とし、その結果、友情という快楽を得るのである。つまり、友情があるから友人になるのではなく、一人の自我では不安だから友人を作り、仲間という集団を作り、友情を育むのである。そして、学校では、仲間という集団で、ある一人をターゲットにして敵としていじめ、友情という共感感情という快楽を得るのである。ターゲットになるのは、女子生徒、弱い男子生徒、弱い教師である。仲間で勝利という共感感情を得たいから、ターゲットになるのは、常に、弱小の個人である。また、ターゲットに恨みはなくても、仲間という構造体から離れ、友人という自我を失うことが不安だから、仲間と一緒になって、嫌がらせをしたり暴力を加えたりするのである。そして、自殺に追い込むことがあるのである。また、若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことだからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、相手から別れを告げられると、ストーカーになる人が現れる。ストーカーになるのは、カップルという構造体が消滅し、夫や恋人という自我を失い、保身欲が阻害されるのが辛いから、相手に付きまとうのである。そして、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙にその辛さから逃れようとする者も現れるのである。このように、深層心理は、自我に執着するあまり、人間に、かくも愚かなことを行わせるのである。殺人・戦争は、深層心理が生み出した自我の欲望が為せる業である。理性が抑圧できないのである。自我である人間を動かしている限り、殺人・戦争は消滅することは無いのである。しかし、自我の欲望を対処する方法を、人類はいまだ見いだせないのである。