あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、自我の欲望の動物である。(自我その199)

2019-08-31 18:27:21 | 思想
人間の心は、深層心理から、人や物やことに対して、いろいろな思いが湧き上がってくる。特に、人に対しては、守りたい、尽くしたいから、一緒にいたいという思いから、殴りたい、いなくなってほしい、死んでもらいたいという思いまで湧き上がってきて、非常に幅が広い。深層心理は、表層心理から見ると、見通しが利かない底なし沼のようなものである。深層心理には、常に自我の欲望が渦巻いていて、それが、人間を動かしているのである。キリスト教に、懺悔という儀式がある。神の代理とされる司祭に、悪事を犯していなくても、悪なる心を抱いただけでも、それを告白し、許しと償いの指定を求めるのである。地球上の人間が、もしも、全員、キリスト教徒ならば、人間全員が懺悔しなければならないだろう。当然、司祭自身も、懺悔しなければならない。さて、それでは、なぜ、深層心理は、悪なる心を生み出すことがあるのか。それは、深層心理は、自我が他者に認められること、そして、自我の存続・発展に執着して、自我を動かそうとしているからである。深層心理には、道徳心は存在しないのである。深層心理は、人間の無意識のうちに、自我が他者に認められること、そして、自我の存続・発展のために、心の奥底で、思考し、感情と共に行動の指令を生み出している。ラカンの「無意識は言語によって構造化されている。」という言葉はこの謂である。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って、論理的に思考していることを意味している。深層心理が感情と共に行動の指令を生み出した後、表層心理は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令を審議する。審議の結果、表層心理が、深層心理が出した行動の指令のままに行動することを選択すれば、それは、表層心理の意志による行動となる。表層心理が、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを選択すれば、その通りに行動せず、その代わり、自ら、行動を考え出そうとして、深い思考を始める。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、表層心理が深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、抑圧できず、そのまま行動することになる。これが、所謂、感情的な行動であり、犯罪に繋がることが多い。また、稀れには、表層心理が意識せず、深層心理が出した行動の指令のままに、行動することがある。これが、所謂、無意識の行動である。さて、人間は、いついかなる時でも、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。具体的には、構造体と自我の関係は、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属しているから、常に、他者との関わりがある。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、行動するのである。そして、自我を動かしているのが、深層心理である。まず、深層心理が思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それによって、人間の心は動き出すのである。意志や意識という表層心理は、深層心理の動きがあった後で、初めて、動き出すのである。さて、深層心理の自我の欲望は、どのような機能によって、生まれてくるのだろうか。それは、対自化・対他化・共感化という三機能のいずれかによって生まれてくるのである。対自化とは、人間が、他者や物やことに対した時、それをどのように利用するか、それをどのように支配するか、彼(彼女)がどのように考え何を目的としているかなどと考えて、対応を考えることである。特に、他者に対しては、征服欲・支配欲の視点から観察し、できうれば、征服欲・支配欲を満たしたいと思っている。ニーチェの「権力への意志(力への意志)」の思想は、対自化の機能を認め、積極的に推し進めようとする思想である。対他化とは、人間は、他者に対した時、自分が好評価・高評価を受けたいという気持ちで、彼(彼女)が自分をどのように思っているか、相手の気持ちを探ることを言う。言わば、被征服・被支配の視点である。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」と言う言葉は対他化を普遍化させたものである。この言葉の意味は、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」である。共感化とは、敵や周囲の者に当たるために、他者と協力したり、友情を紡いだり、愛情を育んだりすることを言う。敵や周囲の者と対峙するために、他者と愛し合ったり協力し合ったりして、自分の力を高め、自分の存在を確かなものにすることが目的である。ところで、一般に、人間は、他者に対した時、自分の自我(ポジション)が相手より強い・優位であると思えば、相手を対自化して、相手の思いを探り、相手を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりする。人間は、自分の自我(ポジション)が相手より弱い・優位であると思えば、自らを対他化して、相手が自文のことをどのように思っているか探る。人間は、自我が不安な時は、他者と共感化して、自我の存在を確かなものにしようとする。このように、人間は、常に、深層心理が対自化・対他化・共感化の三機能のいずれかを働かせて、自我が他者から認められること、そして、自我の存続・発展を図っているのである。さて、「子供は正直だ。」と言われ、賞賛されるが、実際は、子供は、深層心理が生み出した自我の欲望に正直だから恐ろしい面もあるのである。人間、誰しも、自分の趣向にあった、好きな人や心を許せる人と、楽しく暮らしたいと思っている。子供でも、それは、同じである。毎日のように、クラスという同じ構造体で、生徒という自我を持って暮らしていると、必ず、自分が好きな人、自分を好きな人、自分が嫌いな人、自分を嫌う人が出てくる。自分が相手を嫌いになれば、相手がそれに気付き、相手も自分を嫌いになる。相手が自分を嫌いになれば、自分もそれに気付き、自分も相手を嫌いになる。つまり、片方が嫌いになれば、相互に嫌いになり、その関係が固定するのである。また、嫌いになった理由は、意地悪をされたからとか物を盗まれたからというような明確なものは少ない。多くは、自分でも気付かないうちに嫌いになっていて、嫌いになったことを意識するようになってから、相手の挨拶の仕方、話し方、笑い方、仕草、雰囲気、態度、声、容貌など、全てを嫌うようになる。好き嫌いは、深層心理が決めることだから、その理由がはっきりしないのである。しかし、自分が明白には気付かない、たわい無いことが原因であることが多いのである。しかし、一旦、自分が相手を嫌いだと意識すると、それが表情や行動に表れ、相手も自分も嫌いになり、同じ構造体で、共に生活することが苦痛になってくる。その人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がしてくる。自分が下位に追い落とされていくような気がしてくる。いつしか、相手が不倶戴天の敵になってしまう。そうすると、深層心理は、相手を攻撃し、相手を困らせることで、自我が上位に立ち、苦痛から逃れることを指令するのである。自分一人で攻撃すると、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れないので、友人たちを誘うのである。自分には、仲間という構造体があり、共感化している友人たちがいるから、友人たちに加勢を求め、いじめを行うのである。友人たちも、仲間という構造体から放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。しかし、大人は、そういうわけには行かない。いじめが露見すれば、法律で罰せられ、最悪の場合、一生を棒に振るからである。もしも、相手が上司の場合、相手にセクハラ・パワハラがあれば、訴えれば良いが、気にくわないということだけでは、上司を更迭できない。逆に、それを態度に示すだけで、上司に復讐され、待遇面で不利になる。また、同輩・後輩が嫌いな場合、陰で悪口を言いふらして憂さを晴らす方法もあるが、自分がネタ元だと露見すれば、復讐されるだろう。だから、深層心理の言うがまに、相手を攻撃しないのである。子供は、自我の欲望に正直だから、悲劇・惨劇をもたらすのである。さて、ストレスという言葉をよく聞く。ストレスは、表層心理が、深層心理の自我の欲望を抑圧しことから生じる。表層心理が、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令を抑圧したことから、生じる。「現代社会はストレス社会だ。」と言われる。それは、誰しも、「現代社会は過去のどの時代よりも自由な時代だから、自我の欲望は抑圧する必要が無く、かなえることができるはずだ。」と思っているからである。自由な社会なのに、自我の欲望を抑圧しなければいけないから、いっそう、ストレスを感じるのである。しかし、ストレスを感じない社会は、過去に存在しなかった。そして、未来においても、存在しないだろう。なぜならば、深層心理は、自我が他者から認められること、そして、自我の存続・発展を図ることしか考えず、道徳心が無く、善悪の区別無く、自我の欲望を生み出してくるから、表層心理で、それを抑圧しなければならないことが必ずあるからである。人間は、いついかなる時でも、深層心理が、自我のためだけに欲望が生み出してくるから、表層心理が、それを吟味し、実行すれば、自分に対して、他者に対して、社会に対して、不利益や害悪をもたらす欲望がそこに必ず存在するから、それを抑圧する必要があるのである。しかし、どのような自我の欲望でも、抑圧すれば、ストレスを感じる。だから、ストレスを全く感じること無く、自我の欲望をそのまま追求したいという人も存在するのが事実である。子供のいじめがそれである。大人のセクハラやパワハラのそれである。職場で、上司からパワハラやセクハラを受け続けた部下が、ストレスをため込み、鬱病に罹患するのは、パワハラやセクハラを受けた時、深層心理から反発や抵抗や反論や反撃などの自我の欲望が起こったが、表層心理が、その欲望を実行すれば、自分に不利益な結果を招来することを考慮して、自我の欲望を抑圧しからである。部下は、後に、その抑圧を後悔しているからである。上司の意のままになっているというように考え、自己の力不足を嘆き、ストレスをため込み、鬱病になってしまったのである。また、パワハラやセクハラを行った上司は、その地位や権威を利用した自我の欲望が深層心理から湧き上がり、それを実行したのである。上司は、パワハラやセクハラの自己の欲望を抑圧すれば、ストレスを感じるので、実行したのである。暗愚な上司は、自我の欲望を抑圧したことで、心の中で、自己の力不足を嘆き、ストレスを感じ、それをため込んでしまうので、パワハラやセクハラを行うのである。現実には、賢明な上司よりも、暗愚な上司が、断然、多いのである。なぜならば、会社には、上司を止める者がいないからである。だから、部下が団結して、若しくは、部下が外部の力を借りて、上司の欲望を阻止しなければいけないのである。権力者とは、常に、そういう者なのである。権力の旨味とは、自我の欲望を、思う存分に発揮できることなのである。さて、大人が、「子供は正直である。」と言って、子供の心を賞賛するのは、子供は、大人のように、自分に利益をもたらすために、ごまかしたり、策略を用いたりして、悪事を働くことはないと思いたいためである。大人は、たとえ、子供は悪いことをしても、簡単に露見し、注意すれば、素直に従うと思いたいからである。しかし、子供も悪事が露見すれば、友人や他の子供のせいにする。正直に白状することがあるのは、言い逃れをするだけの知恵が無いからであり、正直に言えば、許される可能性が高いことを知っているからである。全国各地において、小学校の低学年の頃から、弱者に対して、陰湿ないじめが長期にわたって繰り返されている。確かに、大人に比べて、悪事のレベルは低いから、犯罪に問われないだけで、悪事の件数から言えば、決して、大人に引けは取らない。それは、各人が、自分の子供時代を振り返ってみればわかることである。自分は、子供時代には、純真だったが、次第に、心が汚れてきたと、誰が言えるだろうか。人間は、子供の頃から、汚れており、不正直なのである。それは、人間は、子供時代から、自我の欲望があり、その欲望は、深層心理から上ってくるからである。それでも、大人が、「子供は正直である」と言いたいのは、大人は、「せめて、子供だけでも、純真な心を持ってほしい」と願っているからである。まさに、「人は自己の欲望を他者に投影する」のである。また、もしも、子供が純真な心の持ち主ならば、少年法は不要だろう。そもそも、正直であることは良いことなのだろうか。正直であるとは、自我の欲望に忠実であるということである。言いたいことを言い、したいことをするということである。深層心理から、自我が他者から認められ、自我の存続・発展のために、いろいろな自我の欲望が湧き上がってくる。表層心理が、取捨選択して、抑圧しなければ、とんでもない社会になる。犯罪社会になり、短期間で、人類は絶滅する。つまり、人間は、深層心理の自我の欲望に忠実でないから、換言すれば、人間は正直でないから、人間社会が成り立っているのである。さて、自己の欲望を忠実に実行できると思っているのは、権力者である。現代においては、政治家である。しかし、政治家が、地方遊説に行くと、大衆が、喜色満面で、歓声を上げて、彼を取り囲む。それを見ても、ニーチェが「大衆は馬鹿だ。」と言うのは納得できる。マルクスは、政治的・経済的な支配権をめぐって、支配階級に対して、被支配階級が階級闘争を起こすことを提唱したが、現代社会においては、それに加えて、人権をめぐっても、階級闘争を起こす必要があるのである。キリスト教徒は、長年、「全知全能の神が、なぜ、善なる心だけでなく、悪なる心を抱く、人間を創造したのか。」という課題に取り組み、いろいろな解答を出してきた。しかし、人間は、自我の欲望の動物であり、自我の欲望は深層心理から湧き上がってきて、深層心理には、善悪の判断はないから、人間の心に、善悪が同居するのは当然のことなのである。さらに、キリスト教徒は、簡単に、善と悪について述べるが、善とは何か、悪とは何かという思考を深めていないのである。例えば、第二次世界大戦の末期、何度も、ヒートラーの暗殺未遂事件があり、彼らは、皆、処刑されているが、彼らは善なる心を抱いていたか悪なる心を抱いていたか。キリスト教徒はどのように答えるのだろうか。簡単に、善とか悪とか決められないはずであり、決めてはいけないのである。人間が生きていくということは、自我の欲望に対して不正直を重ねることである。



本当の顔。本当の心。(自我その198)

2019-08-30 19:04:05 | 思想
17世紀のフランスの思想家のモンテーニュは、「私たちの職業の大部分は芝居のようなものだ。『世界全体が芝居を演じている。』自分の役をしかるべく演じなければならない。しかし、仮の人物を務めていることを忘れてはならない。仮面と外観を自分の実体であると思ったり、借り物を自分自身のものだと思い込んだりしてはならない。私たちは肌着と皮膚との区別ができない。おしろいは顔に塗れば十分で、心にまで塗る必要は無い。」と言っている。つまり、人間を、外面と内面に分け、外面は、職業、芝居、演じる、自分の役、仮の人物、仮面、外観、肌着であり、内面は、実体、自分自身、心である。外面は、生きていくために必要な他者との関わりで見せる面でしかなく、内面に自分の真実があるとしているのである。確かに、私たちの職業は、自ら積極的に選んだものではなく、食べていくために仕方なく勤めているのであるから、そこに、自分自身は存在せず、芝居を演じているようなものだというモンテーニュの主張も理解できる。たとえ、自ら積極的に選んだ職業であったとしても、意にそぐわない仕事をこなさなければならない場合は、芝居を演じているような気持ちになるだろう。また、顔も、おしろいを塗った程度の化粧ならば、本来の自分の顔に近いから、自分の顔だと言えるが、厚化粧をすれば、本来の自分の顔から遠くなり、誰の顔だかわからなくなるだろう。だから、おしろいを塗った程度の化粧で良いというモンテーニュの主張は理解できる。しかし、モンテーニュの主張は、職業に就いて仕事をする前や仕事をした後での職業についての分析であり、職業に就いて仕事をしている時の人間を分析したものではない。また、顔についても、化粧をする前や落とした後での顔の分析であり、化粧した顔をしている女性を分析していない。なぜ、モンテーニュは、職業に就いて仕事をする前や仕事をした後での職業や化粧をする前や落とした後での顔についての分析をしているのに、職業に就いて仕事をしている時の人間や化粧した顔をしている女性を分析していないのか。それは、人間の無意識での心の働きである深層心理に気付いていないからである。モンテーニュの行った分析は、人間の意識や意志の働きである表層心理なのである。つまり、人間は、職業に就いて仕事をしている時、演じているのではなく、職業人になりきっているのである。すなわち、自分で意識して、自分の意志で、換言すれば、表層心理で、職業人を演じているのではなく、無意識のうちに、心の底から、換言すれば、深層心理が、職業人になりきっているのである。また、役者自身、舞台に立っている時やドラマ・映画の撮影をしている時、演じているのではなく、その人になりきっているのである。すなわち、自分で意識して、自分の意志で、換言すれば、表層心理で、演じているのではなく、無意識のうちに、心の底から、換言すれば、深層心理が、その人になりきっているのである。その人になりきっている役者を名優と言い、その人になりきれず演じているように見える人を大根役者と言うが、大根役者は役者ではない。それと同じように、職業人になりきれず、職業人を演じている人は職業人ではない。だから、モンテーニュの論理は、破綻しているのである。そして、薄化粧であろうと厚化粧であろうと、女性は、表層心理で、化粧をした顔をした女性を演じているのではなく、深層心理が、化粧をした女性になりきっているのである。つまり、女性にとって、薄化粧した顔であろうと厚化粧した顔であろうと、自分の顔なのである。モンテーニュは、女性の心情、すなわち、女性の深層心理、ひいては、人間の深層心理を理解していないのである。また、「おしろいは顔を塗れば十分で、心にまで塗る必要は無い。」とあり、モンテーニュは、偽りのない心、本当の心を大切しているのが理解できる。しかし、人間は、自分で意識して、自分の意志で、換言すれば、表層心理で、心を変えることはできない。心とは、深層心理だからである。表層心理は、深層心理を変えることができないのである。モンテーニュは、人間の心は、純真で、そこに、本当の心として、厳として存在していると考えているが、人間の心は、移ろいやすく、自我の欲望に満ちたものである。モンテーニュの思いは、「人は自己の欲望を他者に投影する」という自己の欲望から来ている。つまり、モンテーニュは、人間の心を、純真で、そこに、本当の心として、厳として存在していると思いたいから、そのように、人間が見えてきたのである。

我々には、考え続けることしか、道が残されていない。(自我その197)

2019-08-28 19:37:47 | 思想
人間、誰しも、夢を見る。しかし、寝る前に、今晩、どんな夢を見るか、誰にもわからない。誰一人として、自分で意識して、自分の意志で、夢を作ることはできないからである。すなわち、誰一人として、表層心理の意識や意志で、夢を作ることはできないのである。つまり、人間、誰しも、夢を支配できないのである。夢を作るのは無意識の心の作用である深層心理だから、夢を支配できないのである。しかし、夢は、眠っている間だけにしか見ないから、目覚めた後は、精神的には影響を与えることがあっても、直接的に行動に結びつくことは無い。夢に見た場面は、目覚めた後の場面と異なるからである。夢を行動に結びつけようとするのは、夢を解釈した表層心理である。また、白昼夢という現象もある。白昼夢とは、真昼に見る夢、夢のような非現実的な空想を意味する。白昼夢も、眠っている時に見る夢と同様に、精神的には影響を与えるとしても、夢を解釈した表層心理の働きがない限り、行動に結びつくことは無い。夢と深層心理の関係について、本格的に研究した最初の人がフロイトである。フロイトは、夢を解釈して、その人の深層心理の思いを理解しようとした。しかし、フロイトは、性欲にこだわって深層心理を理解し、人間の主体性に期待を掛けすぎるあまり、人間の夢ばかりでなく、人間の現実の全体そのものも、深層心理によって作られ、動かされるているということへまでは思いを致すことができなかった。確かに、夢と現実は異なる。夢は、深層心理だけで形成され、現実は、深層心理だけでなく、そこに、深層肉体、表層心理、表層肉体が絡んで、形成されているからである。しかし、夢も現実も、深層心理が中心であることは同じなのである。デカルトは、『省察』(『第一哲学の省察』)で、「確かに、今、私は、目覚めている。この手を意識して伸ばし、かつ伸ばしていることを感覚する。しかし、私は、夢の中で同じようなことしてだまされたことを思い出さずにはいられない。以上のことをより注意深く考えてみると、夢と現実を区別する確実な根拠をどこにも見出すことができないことに気付かされる。」と記している。「夢と現実を区別する確実な根拠をどこにも見出すことができない」のは、両者とも、深層心理が中心となって形成されているからである。そこで、人々は、体の一部をつねってみて、これが夢の出来事なのか現実に起こっている出来事なのかを判別するのである。痛みを感じなければ、夢の中の出来事である。なぜならば、夢は深層心理だけで形成されているから痛みを感じないのである。痛みを感じれば、現実に起こっている出来事である。痛みを起こすのは深層肉体であり、深層心理は、その痛みを受けて、自我に気が付き、感情と行動の指令を生み出し、表層心理は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について、そのまま行動するか抑圧するかを考えるのである。抑圧する場合、別の行動を考えることになる。この一連の反応が起こるから、現実に起こっている出来事だとわかるのである。さて、人間は、日常生活において、眠りから覚めると、自我に気付き、深層心理と深層肉体が動き出す。深層心理と深層肉体が合流して行動を起こす。目が覚めると、深層心理は、無意識のうちに、ここは自分の部屋だと認識し、自分が属している家族という構造体と自我(父、母、息子、娘というポジション)を認識し、日付を確認し、時間を確認し、次に向かう高校という構造体での生徒という自我や会社という構造体での会社員という自我に思いを馳せるのである。深層肉体とは、無意識に行う、習慣的な行動である。無意識に行っている行動だから、深層肉体の行動と言うことができるのである。深層肉体の行動は、無意識に行う、ベッドから降り、着替えをし、トイレに向かい、歯磨きを行い、朝食のテーブルに着くなどのような一連の行動である。つまり、深層心理と深層肉体は、深く絡み合っているのである。日常生活に、何ら問題が無ければ、深層心理・深層肉体だけが働き、表層心理も表層肉体も働く余地はないのである。日常生活に、何ら問題が無ければ、悩むことが無く、それによって疲れることが無いから、人間は楽な暮らしをしていけるのである。つまり、人間は、同じようなことを繰り返して日常生活を送るのは、考え込むことがなく、楽だからである。人間の同じような生活を繰り返そうとする現象は、ニーチェの「永劫回帰(永遠回帰)」の思想に合致している。「永劫回帰(永遠回帰)」について、辞書では、「同じものやことが永遠に繰り返し生じること。世界の出来事は、円環運動を行って、永遠に繰り返すこと。宇宙は、永遠に、回帰運動を繰り返すこと。」と解説され、「目的も意味も無い永遠の反復を、積極的に引き受けるところに、生の絶対的肯定を見る、ニーチェの根本思想。生の各瞬間は、無限回も生起し回帰するが故に永遠の価値を持つとされる思想。人間は、今の一瞬を大切に生きるべきだとする、ニーチェの根本思想。」と意味づけされている。しかし、解説は正しいが、このような意味づけでは、ニーチェの思想は理解できない。ニーチェの「永劫回帰(永遠回帰)」の思想は、「権力への意志(力への意志)」の思想に裏打ちされている。「権力への意志(力への意志)」とは、辞書では、「他を征服し、同化し、いっそう強大になろうという思考を持った意欲。不断の生成の内に、全生命体を貫流させようという思考の意欲。さまざまな可能性を秘めた、人間の内的、活動的生命力を重んじる思想。」と解説されている。つまり、ニーチェは、いっそう強大になろうとする、活動的生命力を重んじる生き方を思考し、楽だから同じような生活を繰り返そうという大衆の生きる姿勢を批判しているのである。だから、ニーチェは、「大衆は馬鹿だ。」と言うのである。ニーチェは、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動することを思考し、実践することを志向しているのである。言わば、「権力への意志(力への意志)」を「永劫回帰(永遠回帰)」することを志向しているのである。しかし、人間は、日常生活を破って思考するのは、苦悩・苦痛がある時である。日常生活が上手くいかず、苦悩・苦痛があるから、それを解決しようとして、思考するのである。思考するのは、表層心理の作用である。そして、それを実践する動きは、表層肉体である。もちろん、人間、誰しも、苦悩・苦痛を忌避する。しかし、苦悩・苦痛が無ければ、誰も、表層心理で思考しないのである。苦悩・苦痛が無ければ、誰も、表層心理で思考せず、深層心理・深層の肉体の下で、同じような生活を繰り返そうとする。だから、ニーチェは、「人間は、楽しみや喜びの中にいては、自分自身の主人になることはできない。人間は、苦痛や苦悩の中にいて、初めて、自分自身の主人になる可能性が開けてくる。」と言っているのである。しかし、人間、誰しも、日常生活が上手くいかず、苦悩・苦痛があるから、それを解決しようとして、表層心理で思考するが、全ての人が、自分自身の主人になれるわけではない。「権力への意志(力への意志)」を「永劫回帰(永遠回帰)」できる者、すなわち、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動するためにはどうしたら良いかと表層心理で思考し続ける者だけが、自分自身の主人になれるのである。だから、深層心理・深層の肉体の下で、楽だから同じような生活を繰り返そうという生き方をしている者は、日常生活の奴隷なのである。また、日常生活が上手くいかず、苦悩・苦痛があるから、それを解決しようとして、表層心理で思考しても、思考を短期間で終え、安易に妥協し、以前の日常生活に戻っていく者も、日常生活の奴隷である。つまり、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動するためにはどうしたら良いかと、表層心理で思考し続ける者だけに、自分自身の主人になれる道が開け、ニーチェの言う「超人」になる可能性が開かれているのである。ニーチェの言う「超人」とは、ハイデッガーの言う「本来的人間」である。つまり、我々は、「権力への意志(力への意志)」を「永劫回帰(永遠回帰)」するしか、自分自身の主人になれないのである。すなわち、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動するためにはどうしたら良いかと、表層心理で思考し続ける者だけに、日常生活の奴隷から脱し、「超人」・「本来的人間」になる道が開かれているのである。そして、自分自身の主人になった人、換言すれば、「超人」・「本来的人間」だけが、日常生活の苦悩・苦痛から解放されるのである。


人間は、偶然を、必然として生きるしかない。(自我その196)

2019-08-27 19:05:56 | 思想
人間、誰しも、気が付いたら、そこに存在しているのであり、自分で選択して生まれてきたのではない。人間には、自ら誕生するか否かの選択権は与えられていないからである。しかし、人間は、自殺できるから、死だけは選択できるように思われる。しかし、深層肉体(人間の意志とは関係なく生きのびようという意志を持っている肉体)は、常に、生きようとしているのに、表層心理(人間の意識や意志)が、敢えて、死を意志するのだから、それは選択ではない。心(精神)が苦しいから、自殺を選択したのである。つまり、自殺を選択させられたのである。TBSのテレビ番組で、「若者たちは、家族を守るために、特攻を志願した。」と解説していたが、いつまで、このような、小学生レベルの幼稚なことを言っているのだろうか。海軍・陸軍の指導者たちは、太平洋戦争が負け戦だとわかった段階でも、国体護持(天皇制の維持)を連合国側に認めてもらうまで戦いを引き延ばそうとし、自分たちに敗戦の責任があるので、降服を延ばそうとしていたのである。一億総玉砕とか本土決戦などと叫んで、国民を皆殺しにする作戦まで導入しようという上官が多かった。若者たちは、特攻を志願したのではない。志願させられたのである。特攻とは、戦果に関わりなく、自殺である。しかし、肉体は常に生きようとしているのに、精神が、敢えて、それに背いてまで自殺するのだから、それは選択ではない。上官に脅され、弱虫という汚名を受けたくないから、自殺、つまり、特攻を選択せざるを得なかったのである。つまり、本質的には、偶然生まれてきたのに、必然として生きるしか無いのである。また、子は、母親を選択することはできない。子には、宿る母親の選択権が与えられていないのである。もちろん、父親の選択権も家族(のメンバー)の選択権も与えられていない。子(息子、娘)という自我(自分のポジション、自分のステータス、自分の社会的な位置)を持って、ある特定の家族という構造体(人間の集合体、組織)に所属して、母親、父親という自我を持った人たちに服属して生きるしか無いのである。だから、良い母親、良い父親だと思われる家族に所属できれば幸運であり、悪い母親、悪い父親だと思われる家族に所属すれば不運であると言うしか無いのである。しかし、不運であっても、そこで生きるしか無いのである。他の家族は引き受けてくれないからであり、他の家族の実態はわからないからである。つまり、子(息子、娘)にとって、母親、父親、家族の出会いは偶然だが、必然的に、その母親、その父親に服属し、その家族に所属して生きるしか無いのである。また、親にも言えることである。母親、父親も、子(息子、娘)を選択することはできない。親は、生まれてきた子(息子、娘)は、どんな子であろうと、自分たちの家族という構造体に所属させ、我が子として育てるしか無いのである。つまり、母親、父親も、子(息子、娘)を選択することはできない。母親、父親にとって、偶然、生まれてきた子(息子、娘)であるが、どんな子であろうと、必然的に、自分たちの家族という構造体に所属させ、我が子として育てるしか無いのである。この後、成長するにつれ、保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、会社、仲間、カップルなどの構造体に所属し、園児、生徒、学生、会社員、友だち、恋人などの自我を得るが、それらの出会いも、偶然であり、しかし、やはり、そこで、必然的に生きるしかない。なぜならば、人間は、誰しも、生まれてくる時代も場所を選選択することができないからである。もちろん、人間は、誰しも、生まれてくる国も選べない。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その国に存在しているのである。だから、現在、韓国の文大統領と日本の安倍首相が、口角沫を飛ばして、相手を罵っているが、韓国人も日本人もそれに同調する必要は無いのである。韓国に生まれたのも日本に生まれたのも、偶然であり、そこにおいて、必然的な生き方は、自ら、探れば良いのである。さて、人間は、一人でいても、常に、構造体に所属し、自我を有しているから、常に、他者との関わりがある。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、行動するのである。多くの人は、自ら意識して、自らの意志で、つまり、表層心理で、自我を動かしていると思っている。しかし、自我をまず最初に動かすのは、人間の無意識の心の働きである、深層心理である。表層心理は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令を意識し、思考し、そのまま行動するかそれを抑圧するか決定するのである。抑圧する場合は、表層心理が、行動を考えるのである。それでは、深層心理は、どのように、自我を動かすのか。まず、言えることは、深層心理は、自我を、構造体の存続・発展に尽力させる。構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。だから、文大統領も安倍首相も、韓国、日本という構造体の存続・発展の危機を、国民に対して煽って、大統領、首相の自我の欲望を達成しようとしているのである。しかし、国民が、文大統領、安倍首相の主張通り行動しなくても、韓国、日本という構造体が消滅するはずが無いのである。また、無人の尖閣諸島、竹島の領有権をめぐって、日本・中国、日本・韓国と、厳しく、対峙しているのも、日本、中国、韓国という構造体の存続・発展のためという名目である。しかし、そのような無人の島を争うことは、逆に、日本、中国、韓国という構造体の消滅に向かうのである。次に、深層心理には、対他化・対自化・共感化の機能がある。対他化とは、人間が他者に対した時、無意識のうちに、深層心理が、その人に高評価・好評価を受けたいという願いを持ちつつ、その人が自分をどのように思っているかを探ることである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」という言葉で、深層心理の対他化の機能を説明している。この言葉の意味は、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、他者の期待に応えたいと思う。」である。つまり、人間は、主体的な判断などしていないのである。他者の介入が有ろうと無かろうと、主体的な判断ができないのである。他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。家族という構造体において、父・母・息子・娘の自我の行動の仕方は、自分が育った家族や他の家族の構造体のそれを、深層心里が、取り入れている。次に、義務教育の中学校を終えての進路についてであるが、ほとんどの人は、高校に進学する。なぜ、ほとんどの人が高校に進学するのか。それも、また、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」の言葉通りである。すなわち、他の生徒が高校に進学し、教師や親がそれを勧めるからである。対自化とは、人間が他者に対した時、無意識のうちに、深層心理が、自分の支配欲の欲望に照らして、その人に対応するために、その人の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。ニーチェの言う「力への意志」とは、自我の盲目的な拡充を求める、深層心理の対自化の欲望なのである。共感化とは、人間が他者に対した時、無意識のうちに、深層心理が、その人を、味方として、仲間として、愛し合う存在としてみることである。しかし、深層心理の機能として、対他化が、対自化や共感化よりも、優先する。なぜならば、人間にとって、他者の存在は脅威だからである。共感化は、理想的であるが、理解し合ったり愛し合ったりする関係になるまでには、時間が掛かる。また、対自化するためには、自分が相手よりも上の立場であり、相手もそれを認める必要があるから、時間が掛かる。だから、対他化という、相手の自分に対する思いを探ることが、真っ先に、行われるのである。相手の気持ちが気になるのである。相手から評価されたいのである。相手から評価されると、大きな満足感・喜びを得ることができるからである。人間は、自我の働きが、他者から、好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚するのである。逆に、自我の働きが認められず、他者から、悪評価・低評価を受けると、気持ちが沈み込むのである。当然のごとく、自我は、他者から、好評価・高評価を受けることを目的として、行動するようになる。他者からの評価が、絶対的なものになってくるのである。たとえば、学校という構造体に行けば、同級生たちと仲良く過ごしていたり、会社という構造体に行けば、上司から信頼されていたりすれば、深層心理は、本人に、楽しい感情を持たせると共に学校・会社に行くようにという行動の指令を出すのである。逆に、学校という構造体に行けば、同級生たちから継続的ないじめにあっていたり、会社という構造体に行けば、上司から毎日のように叱責されたりしていれば、深層心理は、本人に対して、嫌な感情を持たせると共に学校・会社に行かないようにという行動の指令を出すのである。つまり、深層心理に対他化の働きで感情を生み出し、感情が、人間を動かすのである。ところで、気持ちの高揚や沈み込みの感情は、自ら、意識して、自らの意志で、つまり、表層心理で、生み出すことはできない。人間は、自分が気付かない無意識の世界で、つまり、深層心理が感情を生み出しているのである。だから、人間は、感情を自ら作ることはできないのである。もちろん、深層心理は、恣意的に感情を生み出すのではない。深層心理は、自我の状況を把握して、感情を生み出しているのである。つまり、人間は、自らは意識していないが、深層心理が、自我の状況を理解し、感情、それと共に、行動の指令を、本人に与えるのである。例えば、深層心理は、怒りの感情と共に殴れという行動の指令を本人に出したり、悲しみの感情と共に泣けという行動の指令を出したりするのである。しかし、表層心理が、深層心理の行動の指令を意識して、後の周囲の人の気持ちを考慮して、殴らなかったり、涙を止めたりすることがあるのである。それが、抑圧である。しかし、深層心理の起こした感情が強ければ、表層心理の抑圧が功を奏さず、本人は、殴ったり、涙を流したりするのである。また、家族に所属する母親・父母が、自分の子がいじめの加害者になり、いじめられた子供が自殺すると、自殺の原因を、自殺した子の家庭や自殺した生徒の性格などに求め、責任転嫁するのは、母親。父親という自我を守るためである。それもまた、深層心理による行動の指令による。深層心理が、自我にこだわっているからである。人間は、誰しも、自分は、自らの良心に従って、主体的に考え、判断して、行動できると思っている。しかし、深層心理が、自我の存続・発展を基に、判断して、行動の指令を出しているのである。もちろん、そこには、自らの良心による自己決断は存在しない。深層心理の対他化と「力への意志」による自我決断だけがが存在している。。その自我を動かすものは、深層心理である。深層心理とは、人間自身はその存在にも動きにも気付いていない、心の働きである。無意識の働きであると言っても良い。しかし、条件反射のように、思考せずに、本能的に行動しているという意味では決して無い。深層心理は、人間の無意識のうちに、心の奥底で、思考し、感情と共に行動の指針を生み出している。ラカンの「無意識は言語によって構造化されている。」という言葉はこの謂である。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って、論理的に思考していることを意味している。その後、深層心理が生み出した行動の指針のままに、無意識のうちに行動することがある。これが、所謂、無意識による行動である。しかし、たいていの場合、表層心理は、深層心理が生み出した感情と行動の指針を意識する。その結果、行動の指令のままに行動したり、行動の指令を抑圧したりすることの選択をするのである。表層心理が、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動することを選択すれば、それは意志による行動になる。表層心理が、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを選択すれば、行動を起こさない。その代わり、自ら、次の行動を考え出そうとして、深い思考を始める。深層心理は、瞬間的に思考するから、浅い思考で、感情と行動の指針を生み出している。しかし、深層心理が生み出した感情が強い場合、表層心理が深層心理が生み出した行動の指針を抑圧しようとしても、抑圧できず、そのまま行動することになる。これが、所謂、感情的な行動である。それ故に、感情的な行動を起こさないために、表層心理は、常に、継続して思考をしていなければならない。そうすれば、深層心理による、感情の高ぶりは起こらないからである。感情の高ぶりは、深層心理による短絡的・短時間の思考から起こるから、常に、行動の決断は、長期的な表層心理によるものにしておかなければいけないのである。それが、偶然、生まれながら、必然的に生きるということなのである。


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標準の性格は存在しない。性格には、皆、傾きがある。(自我その195)

2019-08-26 18:38:54 | 思想
多くの人は、「自分は、自分で意識して自分の意志で精神を動かし、自分で意識して自分の意志で肉体を使って、主体的に生きている。」と思っている。だから、精神と肉体を分離して考えることができるのである。特に、西洋の人々は、17世紀のデカルトの思想以来、人間は、理性を用い、主体的に生きていくことができると思っている。確かに、人間には、意識して意志で精神を動かし、意識して意志で肉体を使って、生きている部分はある。それが、表層心理の働き、表層肉体の働きである。しかし、人間は、自分で意識して意志で感情を起こせず、意識して一歩ずつ歩いていないなどの身近な動きの例でわかるように、人間の基本的な動きには、表層心理、表層肉体は働いていないのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、感情とともに行動の指令を生み出しているのである。感情は、深層心理が働いた結果なのである。また、深層肉体が、人間の無意識のうちに、歩くなどの習慣的な行動を起こさせているのである。そして、表層心理が働き出すのは、深層心理が動いた後である。表層心理は、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が出した行動に指令について考え、適当だと思えば行動に移し、不適当だと思えば行動の指令を抑圧し、別の行動を考えるのである。この表層心理の思考が理性による思考である。また、深層肉体は、指や胃など全ての肉体に異常な部分があれば、痛みを出し、深層心理がその痛みを受けて、感情と行動の指令を生み出し、表層心理は、深層心理生み出した感情の下で、深層心理が出した行動に指令について考え、適当だと思えば行動に移し、不適当だと思えば行動の指令を抑圧し、別の行動を考えるのである。この表層心理の思考が理性による思考である。だから、精神と肉体は分離せず、深層心理、死表層心理、深層肉体、表層肉体が、複雑に、しかし、論理的に絡み合っているのである。確かに、理性による思考だけを見れば、人間は、主体的に生きていると言えるかも知れない。しかし、人間が、理性を働かせるのは、生活の一部なのである。また、表層心理による理性の思考と言えども、オリジナルなものではなく、そのまま実行するにしろ抑圧するにしろ、深層心理が出した行動の指令の影響を受けているのである。そして、理性による思考が納得できるかどうかを判断するのは、深層心理なのである。つまり、理性による思考が納得できれば、深層心理が満足感という感情を生み出し、理性による納得できなければ、深層心理が不満という感情を生み出し、表層心理は、それを受けて、反省しながら、思考を進めていくからである。だから、表層心理の理性による主体的な思考と言えども、深層心理の存在が無ければ、不可能なのである。また、人間は、表層心理が意識すること無く、深層心理が出した指令のままに行動することがある。それが、所謂、無意識の行動である。無意識の行動は、習慣的な行動が多く、意識して問題化するまでも無い事柄だから、表層心理が意識の俎上に上らせなかったのである。さて、ラカンは、「標準の性格など存在しない。性格には、皆、傾きがある。」と言っている。至言である。その性格の傾きは、主に、深層心理の感度が原因である。人間には、深層心理の敏感な人と鈍感な人がいる。一般に、深層心理の鈍感な人は、深層心理が生み出した感情の力が弱いから、表層心理が行動を支配し、人間関係をスムーズに進めることができる。しかし、深層心理の敏感な人は、自分でも、深層心理が出した行動の指令のままに行動すれば、自分にとって不都合な結果になるのは予想できるので、表層心理が意志によって、行動の指令を抑圧しようとするのだが、深層心理が生み出した感情の力が強いから、行動の指令のままに、動いてしまうことが多いのである。そして、案の定、悪い結果を招き、周囲から顰蹙を買い、心が傷付き、重い気分に陥ってしまうのである。しかし、深層心理の敏感な人にとって、表層心理が、行動の指令の抑圧に成功したとしても、感情の高ぶりがそのまま残っているので、その後、次の行動を考え出すのは非常に辛く、困難である。深層心理の敏感だということは、感動しやすいということであるとともに、心が深く傷付きやすいということである。だから、深層心理は、深く傷付いた心から解放されるために、往々にして、過激な行動の指令を出すのである。また、表層心理が、意志で、過激な行動の指令を抑圧し、行動をやめたとしても、深く傷付いた感情と抑圧する感情の葛藤が激しく、いっそう心が深く傷付くことになるのである。つまり、抑圧に成功しようと、抑圧が失敗しようと、地獄のような苦しみが待っているのである。だから、深層心理の敏感な人は、心が傷付くことが予想される場所に近寄らず、心が傷付くような情況に陥らないようにすることが大切なのである。深層心理の敏感な人は、幾度となく激高し、何度も失敗を重ねて、自分が、深層心理の敏感な人間であることはわかっているはずである。ところが、深層心理の敏感な人には、負けず嫌いや正義感の強い人が多く、表層心理の意志の力で、深層心理が生み出した感情や行動の指令を抑圧できる、抑圧しなければいけないと思い込んでいる人が多いのである。そうして、失敗を重ねるのである。さらに、深層心理の敏感な人には、負けず嫌いや正義感の強い人が多く、深層心理が強いから、心が傷付くことが予想される場所に近寄らないこと、心が傷付くような情況に陥らないようにすることは卑怯だと思い込んでいる人も多く存在するのである。そして、徒らに、苦悩を重ねるのである。深層心理の力は偉大なのである。特に、深層心理の敏感な人にとって、深層心理の力は偉大なのである。確かに、深層心理が敏感なのは生来の体質であり、自分のせいではない。しかし、深層心理が敏感なことで起こした行動といえども、自分自身が起こした行動であるから、自分がその責めを負わなければいけないのである。だから、深層心理の敏感な人は、心が傷付くことが予想される場所に近寄らないこと、心が傷付くような情況に陥らないようにすることを肝に銘じるべきである。しかし、深層心理の敏感な人は、敏感であるが故に、喜びや楽しさを感じる心も強い。だから、喜びや楽しさを感じられそうな場所に出掛けがちである。しかし、喜びや楽しさを感じられそうな場所は、心が傷付く可能性も高いのである。それを知っていても、心の敏感な人は、敏感さに応じた刺激を求め、そのような所へ行ってしまうのである。そして、案の定、期待外れな結果になって、深く傷付くのである。「君子、危うきに近寄らず」である。深層心理の敏感な人は、この言葉を、深く肝に銘じるべきである。大きな喜びや大きな楽しみを期待しないことである。大きな喜びや大きな楽しみを期待するから、深く傷付くのである。そして、深層心理の敏感な人は、他者に期待することが大きすぎたり、他者の存在を実際以上に大きく見がちである。確かに、人間は、対他存在(他者から好評価・高評価を受けたいという思いで、他者の自分への思いを探るあり方)の動物であるから、他者の視線は気になる。しかし、自分と同様に、他者も、相手を見ていない。両者とも、自分に対する評価を気にし、相手に対する評価はなおざりなのである。だから、他者からの評価は、薄っぺらなものなのである。また、他者から高い評価を受けようと思うから、他者を大きく見すぎる傾向になりがちである。だから、他者から悪評価・低評価を受けると、深く傷付くのである。しかし、自分同様に、他者も、深層心理の動物であるから、自分の身に迫ってこないことがらである相手に対する評価には、表層心理の意志による、大きな思考力が働いていないのである。だから、他者の存在を過大視する必要は無いのである。つまり、深層心理の敏感な人は、深層心理が強く反応する所に行かず、深層心理が強く反応する考え方をしないことである。しかし、深層心理の鈍感な人でも、深層心理が敏感に反応する時がある。そのような時は、深層心理が敏感な人と同じ対策を講ずれば良いのである。しかし、自分の思いとは別に、他者から直接呼びかけられることがある。それが、他者からの「頑張れ」「根性を出せ」「我慢しろ」などの呼び掛けの言葉である。確かに、これらが励ましとなり、いっそう気力が充実し、体力がみなぎることがある。その時は、素直に、他者の呼び掛けと自分の思いに従えば良いのである。しかし、これらの言葉が負担になったら、無視すれば良いのである。ところが、人間は、対他存在の動物であり、他者から好評価・高評価を受けたいから、残っていない精神力・体力を振り絞って、いっそう励もうとするのである。そうして、精神を壊し、肉体を壊すのである。特に、深層心理の敏感な人は、対他存在の思いも強いから、そうなってしまうのである。しかし、人間は、誰しも、他者に呼び掛けられずとも、何年も、何十年も、頑張り、根性を出し、我慢してきたのである。だから、誰しも、自分の頑張る力、根性の力、我慢する力を知っているはずである。呼び掛けの言葉が負担に感じることは、これ以上の頑張る力、根性の力、我慢する力をは自分に備わっていないことを意味しているのである。人間は、精神の力、肉体の力ともに、既に、深層心理、深層肉体に備わっていて、それ以上の力は出ないのである。人間にできることは、既に備わっている深層心理、深層肉体の力・傾向を知り、それを、無理なく現実に応用することである。だから、無理を要求する他者の呼び掛けは無視すれば良いのである。自分自身に当てはめて考えればわかることであるが、「頑張れ」「根性を出せ」「我慢しろ」などの呼びかけの言葉は、聞き手の事情を深く考慮せず、呼び掛け人の満足感・快楽を求めて発せられることがほとんどなのである。