あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人生に、意味は無く、自我の欲望だけが蠢いている。(自我から自己へ11)

2022-02-27 11:38:24 | 思想
中島敦の小説「山月記」に、主人公の李徴は、「全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押し付けられたものを大人しく受け取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。」と呟いている部分がある。まさしく、人間は、押し付けられた命を自らのものとして生きていくしか無いのである。人間は、誰しも、意志をもって生まれていないからである。気が付いたら、そこに存在しているのである。つまり、生まれる必然性が無く、偶然に誕生したのである。だから、ひたすら快楽を求めて思考して生きるという押し付けられた生き方から逃れることはできないのである。つまり、人間が誰しもひたすら快楽を求めて思考して生きようとするのは、そのような意志が先天的に人間に備わっているからである。もちろん、しかし、その意志は、自らが生み出したものではない。誕生以来、人間は誰しも持たされているのである。ニーチェが言うように、「意志は意志できない」のである。だから、人間は、誰しも、自ら意識して思考しなくても、無意識のうちに、ひたすら快楽を求めて思考して生きているのである。人間の無意識の精神活動を深層心理と言う。すなわち、人間は自らは気付いていないが、深層心理が思考して人間を動かしているのである。さて、ほとんどの人の日常生活が毎日同じことを繰り返すというルーティーンになっているのは、無意識の行動だからである。ニーチェに、「森羅万象は永遠に同じこと繰り返す」という「永劫回帰」の思想があるが、それは人間の日常生活にも当てはまるのである。もちろん、無意識の行動と言っても、人間は思考せずに行動しているわけでは無い。人間は、自ら意識していないが、深層心理が思考しているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている」と言う。無意識とは、無意識の思考であり、深層心理の思考を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味するのである。すなわち、深層心理が、思考して、人間を動かしているのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。人間は、深層心理の思考活動をに気付いていないが、無意識のうちに、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に従って行動しているのである。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属して、ある自我を持って、生きているのである。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、国民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では夫と妻という自我がある。だから、ある人は、日本という構造体では日本国民という自我を持ち、家族という構造体では母という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って行動しているのである。また、ある人は、日本という構造体では日本国民という自我を持ち、家族という構造体では夫という自我を持ち、会社という構造体では人事課長という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って行動しているのである。だから、息子や娘が母、父だと思っている人は、家族という構造体では母、父という自我を所有しているが、他の構造体では、日本国民、妻、夫、教諭、人事課長客、乗客、妻などの自我を所有して行動しているのである。しかし、息子や娘は母、父という一つの自我しか知ることができないのである。人間は、その構造体における他者の自我しか理解できないのである。他者の一つの自我しか知ることができないのに、それを全体像だと思い込んでいるのである。しかし、人間は、「あなたは何。」と尋ねられると、その時、所属している構造体に応じて、自我を答えるしかないが、他の構造体では、異なった自我を所有しているのである。人間は、誰しも、異なった構造体に所属し異なった自我を所有し、各構造体は独立していているから、その人の一つの自我から全体像を割り出すことはできないのである。人間は、常に、ある一つの構造体に所属して、ある一つの自我として生きていて、他の構造体では、他の自我を有しているから、自分というあり方は固定していないのである。しかし、ほとんどの人は、自らは自分として固定して存在しているように思っているのである。しかし、自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。他人とは、構造体の外の人々である。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。さて、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているが、人間は、欲動に応じた行動を行えば、快楽が得られるのである。そこで、深層心理は、欲動に従って思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。すなわち、欲動が深層心理を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たしそうとする。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。しかし、欲動の四つの欲望のいずれかでも阻害する他者が現れ、自我が傷つけられたならば、深層心理は、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、欲動の欲望を阻害した他者に復讐するように、人間を動かそうとする。復讐することによって、傷付いた自我を癒やそうとするのである。さて、人間は、誰しも、平穏な生活を望んでいるが、日常生活が毎日同じことを繰り返すというルーティーンになるのは、構造体にも自我にも異常が無く、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で思考することが起こっていないことを意味するのである。表層心理とは人間の意識しての精神活動を意味する。人間は、自らを意識して思考すること、すなわち、表層心理で思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。しかし、日常生活において、異常なことが起こり、ルーティーンの生活が壊れそうになることがある。それは、他者から侮辱されたりなどして、自我が他者に認められたいという欲動の第二欲望が阻害され時である。そのような時、深層心理が怒りの感情と侮辱した相手を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間に、相手を殴ることを促すのである。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとするのである。超自我は、深層心理に内在する自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、侮辱した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、人間は、自らの状態を意識して、怒りの感情の下で、相手を殴ったならば、後に、自我がどうなるかという、相手の行動や周囲の者たちの評価を気にして、侮辱した相手を殴れという行動の指令について、許諾るか拒否するか、思考するのである。つまり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、自らを意識して(自らの状態を意識して)、深層心理が生み出した過激な感情の下で、深層心理が生み出した過激な行動の指令について、将来の現実的な利得を考慮して、許諾するか拒否するか、思考するのである。人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮して思考するのも、他者の評価が気になるからである。つまり、人間は、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求めて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。この場合、多くの人は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を殴ったならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧しようと考えるだろう。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我の抑圧も、表層心理での思考の結論を遂行しようとする意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。また、人間は、深層心理が思考して生み出した感情や行動の指令が過激であった場合、自らの存在を意識する(自らの状態を意識する)が、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時にも、自らの存在を意識するのである。つまり、人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自らの行動や思考を意識することである。そして、自らの存在を意識すると同時に、思考が始まるのである。それが、表層心理理での思考である。それでは、なぜ、人間は、深層心理が思考して生み出した感情や行動の指令が過激であった時、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識し、自らの行動や思考を意識するのか。それは、自らの存在に危うさを感じ、他者の存在に脅威を感じたからである。さらに、無我夢中で行動していて、突然、自らの存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識することがあるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じた時、表層心理で、自らの存在を意識して、現実的な利得を求めて、思考するのである。深層心理の思考が人間の意志によって行われないように、表層心理の思考も人間の意志によって行われないのである。人間が自らの存在を意識すると同時に、表層心理での思考が必ず始まるのである。さて、人間は、自らを意識する時は、自らの状態を意識する(自らの行動や思考を意識する)だけでなく、自らの情態も意識するのである。情態とは、心境や感情などの心の状態である。情態が、自分の外の状況を知らしめ、自分の体内の状態を知らしめるとともに、自らの存在を認識させるのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり」(私は全ての存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは自分が存在しているからである。だから、自分は確かに存在しているのである。)という論理で、自分の存在を確証したが、そのような回りくどい論理を使用せずとも、人間は自らの情態で自分がこの世に存在していることを感じ取っているのである。さて、人間は、一般に、何らかの心境という情態の下にある。深層心理は、一般に、心境の下にある。深層心理が、人間の無意識のうちに、ある心境の下で、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。心境は、爽快、陰鬱など、長期に持続する情態である。心境は、気分とも表現される。感情は、喜怒哀楽など、瞬間的に湧き上がる情態である。深層心理は、感情を生み出す時は、行動の指令を伴って、自我の欲望として生み出し、人間を動かしている。感情が、自我に、すなわち、人間に、行動の指令を実行させる動力になるのである。感情が湧き上がれば、その時は、心境が消える。心境と感情は並び立たないのである。心境は、爽快という情態にある時は、現状に充実感を抱いているという状態を意味し、深層心理は新しく自我の欲望を生み出さず、自我に、ルーティーンの行動を繰り返させようとする。心境は、陰鬱という情態にある時は、現状に不満を抱き続けているという状態を意味し、深層心理は現状を改革するために、どのような自我の欲望を生み出せば良いかと思考し続ける。深層心理が喜びという感情を生み出した時は、現状に大いに満足しているということであり、深層心理が喜びという感情とともに生み出した行動の指令は、積極的に、現状を維持しようとするものになる。深層心理が怒りという感情を生み出した時は、現状に大いに不満を抱いているということであり、深層心理が怒りという感情ととみに生み出した行動の指令は、現状を改革・破壊しようとするものになる。深層心理が哀しみという感情を生み出した時は、現状に不満を抱いているがどうしようもないと諦めているということであり、深層心理が哀しみという感情ととみに生み出した行動の指令は、現状には触れないものになっているのである。深層心理が楽しみという感情を生み出した時は、将来に希望を抱いているということであり、深層心理が楽しみという感情とともに生み出した行動の指令は、積極的に、現状を向上させようとするものになる。さて、人間は、自らの意志で、すなわち、表層心理で、心境や感情などの情態をも変えることができない。それは、深層心理は、常に、心境という情態に覆われ、深層心理が感情という情態を生み出しているからである。情態は深層心理の範疇にあるから、人間は、表層心理で、情態を変えることができないのである。しかし、心境が変わる時がある。まず、深層心理が自らの心境に飽きた時に、心境が、自然と、変化するのである。気分転換が上手だと言われる人は、表層心理で、意志によって、気分を、すなわち、心境を変えたのではなく、深層心理が自らの心境に飽きやすく、心境が、自然と、変化したのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時、一時的に、深層心理の状態は、感情に覆われ、心境は消滅する。そして、その後、心境は回復するが、その時、心境は、変化している。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換をして、心境を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができないから、何かをすることによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。しかし、そのようなことをすることによってしか、心境を変えることができないのである。だから、自分なりに、心境を変える方法を見つけ出さなければならないのである。さて、「苦しんでいる人間は、苦しみが消えれば、それで良い。苦しみが消えたということが、問題が解決されたということを意味するのである。苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。」とオーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタインは言う。苦しんでいる人間は、苦しみの心境から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。人間は、苦しいから、その苦しみの心境から逃れるために、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、それを除去する方法を考えるのである。苦しみの心境が消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。たとえ、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ上げ、それを問題化して、解決する途上であっても、苦しみの心境が消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。つまり、苦痛が存在しているか否かが問題が存在しているか否かを示しているのである。苦痛があるから、人間は考えるのである。苦痛が無いのに、誰が、考えるだろうか。それでは、なぜ、このようなことが生じるのか。それは、苦しみをもたらしたのは深層心理であり、その苦しみから逃れようと思考しているのは表層心理だからである。人間は、誰しも、苦しみを好まない。だから、人間は、誰しも、表層心理で、意識して、自らに苦しみを自らにもたらすことは無い。苦しみを自らにもたらしたのは、深層心理である。深層心理が、思考しても、乗り越えられない問題があるから、苦痛を生み出したのである。人間は、その苦しみから解放されるために、表層心理で、それを問題化して、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、解決の方法を思考するのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした苦痛から解放されるために、表層心理で、思考するのである。だから、苦痛という心境が消滅すれば、思考も停止するのである。それほど心境という情態が、感情という情態と共に、人間の存在を決定づけているのである。人間は、情態によって、自分の存在を自覚するのである。人間は自分を意識する時は、常に、ある情態にある自分として意識するのである。人間は情態を意識しようと思って意識するのでは無く、ある心境が深層心理を覆っているから、ある感情に動かされているるから、人間は自分を意識する時には、常に、ある情態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、否応なく、情態の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある情態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する情態が存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。


人間は、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きるしかないのか。(自我から自己へ10)

2022-02-09 13:31:45 | 思想
人間は、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きている。深層心理とは人間の無意識の精神の活動である。すなわち、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。しかし、ほとんどの人は、自ら意識して思考して、自らの感情をコントロールしながら、自らの意志で行動していると思っている。すなわち、主体的に思考して行動していると思っている。そこに、大きな誤りがある。人間の自らを意識しての精神の活動を表層心理と言う。つまり、ほとんどの人は、表層心理で、自ら意識して思考して、自らの感情をコントロールしながら、自らの意志で行動していると思っている。それが大きな誤りなのである。なぜならば、深層心理が、常に、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているからである。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動している。人間は、孤独であっても、常に、構造体に所属し、ある自我を持って、他者と関わりながら、行動している。しかし、表層心理で、自我を意識して思考して、主体的に行動しているのではなく、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなどがある。国という構造体では、国民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我がある。人間の行動は、全て、深層心理が生み出した自我の欲望の現象(現れ)なのである。もちろん、人間は、表層心理で思考する時がある。しかし、人間は、表層心理での思考では、感情を生み出すことができないのである。だから、人間は、表層心理での思考で、行動の指針を生み出しても、感情を生み出すことができないから、深層心理が納得しない限り、表層心理で思考して生み出した行動の指針通りに行動できないのである。つまり、表層心理での思考は、深層心理から独立して存在していないのである。人間が、表層心理で、自らを意識して、思考する時は、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについての審議なのである。人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令のままに、行動することが多いのである。すなわち、人間は、無意識に、深層心理が思考して生み出した自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが、所謂、無意識の行動である。日常生活が、ルーティーンという同じようなことを繰り返す行動になるのは、無意識の行動だから可能なのである。深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに、表層心理で意識すること無く、行動しているから、毎日、同じような行動ができるのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考して人間を動かしていると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。人間は、自らの深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望に捕らわれて生きているのである。自我の欲望が、人間が生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して生み出していない自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが表層心理で思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、逃れることができないのである。さて、欲望とは、ほしがることである。それでは、自我は何を欲しがっているか。言うまでも無く、快楽である。つまり、自我の欲望とは、自我が快楽を求めているということなのである。しかし、自我が快楽を求めて主体的に思考して行動しているのではない。深層心理が、常に、自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。深層心理は、欲動に求めた行動を自我にさせれば快楽が得られるので、思考して、欲動に迎合した行動を生み出すのである。欲動とは、深層心理に内在している欲望の集団である。欲動が、深層心理を内部から突き動かし、それによって、深層心理は快楽を求めて思考するのである。つまり、深層心理が、常に、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、快楽を求めて、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、自我である人間を動かしているのである。欲動は四つの欲望によって成り立っている。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理の自我の保身化という作用となって現れる。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。深層心理の自我の対他化という作用となって現れる。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望である。深層心理の対象の対自化の作用となって現れる。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。深層心理の自我の他者への共感化という作用となって現れる。まず、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望であるが、ほとんどの人の日常生活は、この欲望にかなっているから、同じことを繰り返すルーティーンになっているのである。ルーティーンの生活になっているということは、深層心理が自我の保身化という作用によって生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味するのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではなく、自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社という構造体に行くのは、生徒・会社員という自我を失うのが恐いからである。夫婦が互いに嫌いながら離婚しないのは、家族という構造体が消滅し、夫・父、妻・母という自我を失うのが恐いからである。官僚が公文書改竄までして安倍前首相に迎合した、立身出世という自我を発展させるためである。しかし、日常生活において、異常なことが起こることもある。それは、長年勤めた会社をいきなり馘首される。家庭で、子が親に成績のことで叱られる。学校で、同級生たちから嫌われ無視される。学校の職員会議で、教諭たちの意見を聞かず、校長が独断で何事も決める。会社で、社員が業績が上げられず上司に叱られる。恋人から別れを切り出される。妻から離婚してほしいと言われる。そのような時、深層心理が怒りの感情と侮辱した相手を傷付けよという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間に、相手を殴ることを促し、復讐の行動によって傷付いた心を回復させようとする。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、それが働き、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、深層心理に内在する欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という作用の機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、相手を傷付けよという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する審議は、表層心理に移されるのである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求めて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果、すなわち、理性による思考の結果が意志である。現実的な利得を求めての思考とは、自我が不利益を被らないように、行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などから思考するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を傷付けたならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した相手を傷付けよという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を傷付けよという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を傷付けしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。それが、時には、精神疾患を招き、時には、自殺を招くのである。次に、自我が他者に認められたいという欲動の第二の欲望であるが、それは、深層心理の自我の対他化という作用となって現れる。深層心理は、自我に他者に認められるような行動をことによって、自我に喜び・満足感という快楽をもたらそうとすることである。すなわち、深層心理が喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。人間は、すなわち、深層心理は、常に、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探っているのである。他者に認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、自我に対する他者の思いを探っているのである。言うまでもなく、自我が、他者から、認められれば、評価されれば、好かれれば、愛されれば、信頼されれば、喜びや満足感という快楽が得られるからである。人間は、自我を持つやいなや、深層心理に、他の欲望と同じく、この欲望が生じるのである。中学生や高校生が勉強するのは、テストで良い成績を取り、教師や同級生や親から褒められたいからである。自我の対他化は、ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」と言う。それは、「人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。」という意味である。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。また、人間が苦悩に陥る主原因が、深層心理の自我の対他化の作用から起こっている。すなわち、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や社員という自我を持っていて暮らしているが、同級生・教師や同僚や上司という他者から悪評価・低評価を受けたからである。そのような時、深層心理が傷心し、怒りの感情と悪評価・低評価をた相手を傷付けよという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間に、相手に復讐することよって傷付いた心を回復させようとする。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求めて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。表層心理で、行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などから思考するのである。そうして、将来のことを考え、深層心理が生み出した相手を傷付けよという行動の指令を抑圧するのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。次に、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲動の第三の欲望であるが、それは、深層心理の対象の対自化の作用となって現れる。深層心理が、他者や物や現象という対象を自我で支配することによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。つまり、対象の対自化とは、「人は自己の欲望を対象に投影する」ことなのである。それは、「人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、物という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、現象という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で捉えている。」という意味である。他者の対自化とは、自我の力を発揮し、他者たちを思うように動かし、他者たちのリーダーとなることなのである。その目標達成のために、日々、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接している。国会議員は総理大臣になってこの国を支配したいのである。教諭は校長になって学校を支配したいのである。社員は社長になって会社を支配したいのである。物の対自化とは、自分の目的のために、対象を物として利用することである。人間は樹木やレンガを建築材料として利用するのである。現象の対自化とは、自分の志向性でや趣向性で、現象を捉え、理解し、支配下に置くことである。科学者は自然を対象として捉え、支配しようとするのである。さらに、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望が高じると、深層心理には、無の有化、有の無化という機能が生じる。無の有化とは、深層心理は、自我の志向性や自我の趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、人間の無意識のうちに、この世に存在しているように思い込むということである。深層心理は、すなわち、人間は、この世に神が存在しなければ生きていけないと思ったから、神を創造したのである。有の無化とは、深層心理は、この世に自我に不都合な他者・物・現象という対象が存在していると、人間の無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むということである。犯罪者の深層心理は、自らの罪に悩まされるから、いつの間にか、無意識のうちに、自分は犯罪を行っていないと思い込んでしまうのである。また、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望を徹底した思想が、ドイツの哲学者のニーチェの言う「権力への意志」である。しかし、人間、誰しも、常に、対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者であるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、誰かの反対にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。また、フランスの哲学者のサルトルは、「対自化とは、見るということであり、勝者の視線だ。対他化とは、見られるということであり、敗者の視線だ。見られる視線は、見る視線に変えなければならない。」と言い、死ぬまで、政治権力者や大衆と戦った。しかし、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、それを貫こうとすると、往々にして、孤立するからである。次に、自我と他者の心の交流を図りたいという欲動の第四の欲望であるが、それは、深層心理の自我の他者への共感化という作用となって現れる。深層心理は、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、喜び・満足感という快楽を得ようとするのである。自我と他者の共感化とは、自我の存在を確かにし、自我の存在を高めるために、他者と理解し合い、心を交流し、愛し合い、協力し合うのである。人間は、仲間という構造体を作って、友人という他者と理解し合い、心を交流し、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合い、労働組合という構造体に入って、協力し合うのである。しかし、年齢を問わず、人間は愛し合って、カップルや夫婦という構造体を作り、恋人や夫・妻という自我を持つが、相手が別れを告げ、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、深層心理の敏感な人ほど、ストーカーになって、相手に嫌がらせをしたり、付きまとったりするのである。また、敵と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の志向性である。政治権力者は、敵対国を作って、大衆の支持を得ようとするのである。さて、人間は、常に、深層心理が、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を得ようと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、自我である人間を動かそうとしているが、深層心理の思考の後、人間は、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動する場合と、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考して、行動する場合がある。前者の場合が、無意識による行動である。人間の生活が、ルーティンと言われる決まり切った無意識の行動の生活になるのは、表層心理で考えることもなく、安定しているからである。だから、ニーチェの言う「永劫回帰」(同じことを永遠に繰り返す)という思想が、人間の日常生活にも当てはまるのである。後者の場合、人間は、深層心理が生み出した感情の中で、表層心理で、現実的な利得を求める欲望によって、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらせようとして、深層心理が出した行動の指令について審議する。表層心理で思考して、深層心理が生み出した行動の指令を許諾する結論に達すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。表層心理で思考して、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論に達すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、その後、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理での思考は、長時間を要する。人間が、表層心理で思考するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、安定したルーティンの生活が破られた時である。その時、深層心理は、傷心・怒りなどの感情とを相手を殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を動かそうとする。しかし、人間は、表層心理は、行動の指令の通りに行動すると、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧しようとする。しかし、人間は、表層心理による意志で、深層心理による行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。所謂、感情的な行動であり、犯罪に繋がることが多いのである。深層心理が生み出した怒りなどの感情が強い場合、人間は、表層心理による意志で、深層心理による行動の指令を抑圧できないのである。また、人間は、表層心理による意志で、深層心理による行動の指令を抑圧できたとしても、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、深層心理が納得するような、傷心・怒りという苦痛の感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。自殺する人も存在する。このように、人間は、本質的に、深層心理が欲動によって快楽を求めて思考して生み出した自我の欲望に動かされているのである。しかし、ほとんどの人は、主体的に、自ら意識して思考して、自らの感情をコントロールしながら、自らの意志で行動していると思っているから、自我の欲望に対して一歩も踏み込めないのである。



人間は自我として生きるしかないのか。(自我から自己へ9)

2022-02-08 14:14:17 | 思想
人間には、自我しか存在しない。人間には、確固とした自分は存在しない。人間には、特定の自分は存在しない。すなわち、人間には、自分は存在しないのである。自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎない。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。他人とは、構造体の外の人々である。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。人間は、自我として生きているのである。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属して、ある自我を持って、生きている。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、国民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では夫と妻という自我がある。だから、ある人は、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では母という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って行動しているのである。また、ある人は、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では夫という自我を持ち、会社という構造体では人事課長という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って行動しているのである。だから、息子が母だと思っている人は、彼女は家族という構造体では母という自我を所有しているが、他の構造体では、妻、教諭、客、乗客、妻などの自我を所有して行動しているのである。息子は彼女の全体像がわからないのである。人間は自らのみならず他者の全体像がわからないのである。人間は、その構造体における自らの自我と他者の自我しか理解できないのである。特に、他者に対しては、他者の一部しか知ることができないのに、そこから全体像だと推し量り、それを全体像だと思い込んでいるのである。人間は、「あなたは何。」と尋ねられると、所属している構造体ごとに、自我の答え方が異なるからである。なぜならば、人間は、構造体によって、異なった自我を所有しているからである。人間は、誰しも、異なった構造体に所属し異なった自我を所有し、各構造体は独立していているから、一つの自我から全体像を割り出すことはできないのである。数年前、ストーカー殺人事件の犯人として、男性が逮捕された。逮捕されたと言っても、逃げていたわけではない。犯行現場に、呆然と立ち尽くしていたところを、連行されたのである。彼らは三年間交際し、彼が結婚を申し込もうと思っていた矢先、彼女から、「好きな人ができたから、別れてほしい。」と言われた。彼は、怒ったり、哀願したりしたが、彼女の気持ちは変わらなかった。それでも諦められない彼は、彼女が勤務している会社の前で待ち伏せしたり、彼女のアパートの部屋を監視したりした。彼女は、身の危険を感じ、警察に相談した。警察は、彼を呼び、注意した、彼が謝罪し、納得したようなので、警察はそれ以上踏み込もうとしなかった。その三日後、会社帰りの彼女が、近所のスーパーで買い物し、アパートに入ろうとしているところを、彼が、包丁で、背後から襲い、刺殺した。マスコミは、この事件を追った。特に、この手の事件を扱うことを特徴としているバラエティー番組が、執拗に、この事件を追い、連日、放送した。レポーターは、遠慮会釈無く、いろいろな人にインタビューした。まず、彼の実家を訪ねた。父親がインタビューに応じた。父親は、「家では、穏やかで、こんなことをするとは信じられない。」と答えた。これが真実で無かろうと、父親は自らの自我を守るために、そして、息子の自我を少しでも自我を守るために、このように答えざるを得なかったのである。レポーターは、「このような精神の異常者に育てたことに責任を感じませんか。」と、親の責任を問うた。「申し訳ありません。」と、記者に対してにとも、世間に対してにとも、被害者に対してにとも、被害者家族に対してにとも明らかにせずに、深々と頭を下げた。しかし、ストーカー殺人の責任は、一に、息子の責任であり、父親には、全く、責任は無い。息子は、恋人の彼女から別れを告げられ、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を失うことに耐えられなかったので、殺人にまで至ったのである。彼の深層心理が彼に殺害を命じ、彼はそれに抗することができなかったのである。また、彼は、精神の異常者ではない。彼に限らず、誰しも、失恋すると、ストーカー的な心情に陥るのである。一般に、女性の方が、相手の男性を嫌悪し、軽蔑することによって、上位に立ち、失恋の苦悩から立ち直るのが速いのである。男性の方も、相手の女性を嫌悪し、軽蔑することによって、上位に立ち、失恋の苦悩から立ち直ろうとするが、その気分転換が女性より下手で、時間が掛かる。中には、彼のように、全く気分転換が図れず、全く立ち直れない人がいるのである。その中に、凶行に及ぶ者が存在するのである。さらに、レポーターは、「被害者の親御さんに対して、何か、言葉はありませんか。」と尋ねた。父親は、「息子が大切な娘さんの命を奪ってしまって、本当に、すみません。」と、涙声で、深々と頭を下げた。これでは、まるで、拷問である。確かに、凶悪な犯罪である。しかし、父親に何の落ち度があると言うのだろうか。しかも、レポーターは、このような追及の仕方をすると、視聴率が上がり、レポーターという自我の欲望も満足できるので、何の反省もなく、行うのである。大衆は、犯人一人を責めるだけでは、怒りが収まらないので、彼の近親者を探し求め、責任を追及するのである。レポーターを含めてバラエティー制作関係者は、それを利用し、視聴率を上げ、自我を満足させるのである。さらに、レポーターは、近所に行き、彼の人間性について、尋ね回る。しかし、近所の人は、異口同音に、「きちんと挨拶し、物腰が柔らかで、このような事件を起こすとは考えられません。」と答える。彼の、近所という構造体での近所の人という自我、近隣関係は、すこぶる評判が良いのである。さらに、レポーターは、彼が勤務している会社へ行き、上司や同僚に、彼の人間性について、尋ねる。彼らも、異口同音に、「勤務態度はまじめで、仕事ができ、こんな事件を起こすとは、想像できない。」と答える。彼の、会社という構造体での社員という自我も、評価が高いのである。さらに、レポーターは、彼の高校時代の同級生にインタビューし、「あいつは、かっとすると、何をするかわからないところがあった。」という言葉を引き出し、ようやく、満足できるのである。「やはり、犯人には、裏の顔がありました。犯人は異常な精神の持ち主です。これが、真実の顔です。」と言い、自分のインタビューの成果を誇るのである。レポーターを含めてバラエティー制作関係者は、最初から、「罪を犯す人には、必ず、常任とは異なる、異常心理がある。どんなに穏やかな顔をしていても、それに、騙されてはいけない。」という結論を持っているのである。さらに、被害者の両親にインタビューを試みたようだが、それは断られたようである。それは当然である。彼らは、突然、娘がこの世から消え、家族という構造体が傷付けられた痛みから立ち直っていないからである。何を語れば良いのか。語るとは、訴えることである。訴えることは、ただ一つ、娘を返してほしいということである。しかし、そう訴えたところで、何になろう。誰が叶えてくれるというのか。より虚しさが増すだけである。レポーターは、その代わり、被害者の叔父から、「犯人を死刑にしてほしい。」という言葉を引き出し、最後に、大衆とともに歩む番組の姿勢を示し、視聴者にアピールでき、満足げであった。しかし、レポーターが言うように、犯人は精神の異常者なのだろうか。異常な心理があるから、犯罪を犯すのだろうか。そうではなく、深層心理が生み出した自我の欲望が強いから、犯罪だとわかっていても、それを行ってしまうのではないか。深層心理、自我、自我の欲望を徹底的に分析しない限り、犯罪の真相に迫れないのである。また、レポーターは、かっとすると何をするかわからないところが彼の真実の顔だとし、彼の嘘の顔が多くのの高評価・好評価を生み出していると言っている。つまり、高校時代の同級生を除いて、皆、騙されているというわけである。しかし、人間は、皆、いろいろな構造体に属し、いろいろなポジションを自我として持って暮らしている。この自我の他者からの評価が顔である。自我の他者からの評価が高ければ、良い顔になり、自我の他者からの評価が低ければ、悪い顔になる。だから、顔は、良い顔にもり、悪い顔にもなり、一つに定まらないのである。構造体によって評価が異なるからである。彼は、家族という構造体では、息子という自我は他者からの評価が高く、近所という構造体では、近所に住んでいる人という自我は他者からの評価が高く、会社という構造体では、社員という自我は他者からの評価が高かったが、たった一つ、高校という構造体では、同級生という自我が他者からの評価が低かったのである。人間とは、こういうものである。自我の他者からの評価、つまり、顔は一つに定まらないのである。犯罪者だからと言って、全ての構造体での、自我の他者からの評価が低いわけではないのである。人間は、幾つもの自我、幾つもの顔を持っているからである。人間の自我は、その人が所属している構造体の数だけ存在し、その数だけ、顔があるのである。ほとんどの人は、この世に、自分として存在していると思っているが、人間には、自らが決める自分という独自のあり方は存在しない。人間は、構造体の中で他者から与えられた自我を自分だと思い込んで存在しているのである。人間は他者から与えられた自我を主体に立てて、それを自分だと思い込んで生きているのである。しかし、人間は、生きるためには、他者から与えられたとは言え、自我が必要なのである.。なぜならば、人間とは社会的な存在者であり、社会生活を営むために構造体とは自我が不可欠だからである。人間は、他者との関係性との中で何者かになり、人間として存在することができるのである。他者との関係性を絶って、一人で生きることはできないのである。また、人間は、自我に執着して生きているが、自ら意識して、自らの意志によって、自我に執着しているのではなく、深層心理が、人間を自我に執着させているのである。深層心理とは、人間の無無識の精神活動である。だから、人間は、自ら意識せず、自ら意志しなくても、深層心理によって、自我に執着して生きているのである。だから、人間は自己としても存在できないのである。自己とは、人間が表層心理で思考して行動するあり方である。表層心理とは、人間の自らを意識しての精神活動である。つまり、自己とは、人間が、自ら意識して考え、意識して決断し、その結果を意志として行動する生き方である。だから、人間が、表層心理で思考して、その結果を意志として行動しているのであれば、自己として存在していると言えるのであるが、人間は、深層心理に動かされているから、自己として存在していると言えないのである。人間は、自己として存在していないということは、自由な存在でもなく、主体的なあり方もしていず、主体性も有していないということを意味するのである。また、そもそも、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるから、人間は、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。主体的に、他者の思惑を気にしないで思考し、行動すれば、その構造体から追放される虞があるからである。人間は、無識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされているから、自我の欲望から逃れることはできないのである。自我の欲望は、人間の行動の源であるが、それは、深層心理が生み出しているのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。だから、深層心理は常に自我を意識して思考しているのである。しかし、深層心理の動きだから、ほとんどの人はこのことに気付いていない。それでも、人間は、時には、表層心理で、自我を意識する時がある。人間は、他者や他人の視線を感じた時や他者や他人の視線を受ける可能性がある時には、必ず、自我を意識する。なぜ、人間は、他者や他人の存在を感じた時、自らの存在を意識し、現在の自我の行動や思考を意識するのか。それは、他者や他人が、自我にとって、脅威の存在だからである。また、人間には、無我夢中という、自我を意識せずに、対象に専心して、思考していたり行動していたりする状態の時がある。その状態の時でも、、突然、自我を意識する時がある。すなわち、自我の行動や思考を意識する時がある。なぜ、人間には、無我夢中で思考している時や行動していている時でも、突然、自我を意識することもあるがあるのか。それは、自らが気付かないうちに、他者や他人に襲われる可能性があるからである。他者や他人は、自らにとって、脅威の存在なのである。このように、人間は、他者や他人の存在によってしか、自らを意識することができないのである。すなわち、他者や他人の介在が無くては、人間は、表層心理で、自我が意識することは無いのである。つまり、人間は、表層心理で、自我が主体に成って考えることができず、行動できないのである。だから、人間は、主体的なあり方をしていず、主体性を有していないのである。それでありながら、人間は、主体的なあり方をしていて、主体性を有していると思い込み、自らに過度に期待するから、何かに失敗すると、自らを責め、後悔し、絶望するのである。そもそも、人間は、構造体に所属し、自我を有して、初めて、人間としての思考が生まれ、人間として行動できるようになるのであるから、自我に縛られ、主体的なあり方ができないのである。それでも、ほとんどの人は、自らは、主体的に考え、行動していると思い込んでいる。しかし、深層心理が、自我を主体に立てて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我となった人間を動かしているのである。それでは、人間は、表層心理で、自我をどのように意識するのか。それは、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。人間は、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分に意識する心境や感情が存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在してからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろなものやことの存在を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分、他者、物、現象などがそこに存在していることを前提にして、思考し、活動をしているのであるから、自分の存在、他者、物、現象などの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分、他者、物、現象などの存在が証明できるから、自分、他者、物、現象などが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、それらのもの存在を前提にして、思考し、活動しているのである。人間は、心境や感情によって、直接、自分、他者、物、現象などの存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。確信があるから、深層心理は自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分、他者、物、現象などの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。もちろん、この自分とは、真実は、自我である。