人間は、虚構の中で、虚像を創造し、欲望に動かされて生きている。しかし、実在しているものやことの中で、理性によって思考して、実像を創造しながら生きていると思い込んでいるのである。深層心理が、そのように、思い込ませているのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。深層心理が、虚構の中の虚像の創造を、実在の中の実像の創造だと思い誤らせていることが、人間に惨劇・悲劇をもたらしている根本の原因である。人間にとって、実在しているものは、深層肉体の意志だけである。深層肉体の意志は、ひたすら生き続けようという意志であり、深層心理と同様に、人間の無意識のうちに働き、他の何ものからも影響を受けない。しかし、これは、人間のみに存在するのではなく、全ての生物に共通に存在している。しかも、他の生物と同様に、それは、人間が誕生後生み出したものではなく、先天的に人間の肉体に住みついているのである。深層肉体の意志によって、心臓が伸縮・拡張を繰り返し、血液を循環しているのである。深層肉体の意志によって、呼吸し、肺が活動しているのである。深層肉体の意志によって、飲食物を摂取し、胃腸が消化・吸収しているのである。これらの行為は、全て、無意識のうちに為され、その人を生き続けさせようという統括した意志に基づいて行われているのである。深層肉体は、内臓の働きばかりではなく、病気や怪我にも対応している。例えば、体内にウイルスが入り、風邪を引くと、深層肉体は、インターフェロンを産生し、免疫系を働かせて防御し、咳でウイルスを体外に放出し、発熱でウイルスを弱らせたり殺したりする。頭痛や咳や発熱などの不快感は、表層心理にも、肉体の異状を意識させ、その警戒と対応を求めているのである。怪我をすると、深層肉体は、血液でその部分を固め、白血球で、侵入した細菌を攻め滅ぼそうとする。肉体が損傷を受けると、痛みを生み出して、深層心理や表層心理にも、肉体の異状を意識させ、その警戒と対応を求めるのである。風邪を引くと、深層肉体は、インターフェロンを産生し、免疫系を働かせて防御し、咳でウイルスを体外に放出し、発熱でウイルスを弱らせたり殺したりする。頭痛や咳や発熱などの不快感も、また、深層心理や表層心理に、肉体の異状を意識させ、その警戒と対応を求めているのである。空腹やのどの渇きという欲求が起こるのも、深層肉体の、食糧や飲み物を摂取することによって、肉体的に生きさせようという意志によってである。このように、深層肉体の意志によって、肉体は生かされ、人間は生きていけるのである。しかし、人間の行動には、深層肉体は関与していない。人間の行動は、深層心理によって大枠が決められているのである。人間の無意識のうちに、深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それによって動き出すのである。その後、人間が、表層心理で思考して、行動を修正することがあるが、修正できるのはほんの僅かな部分である。表層心理での思考とは、自らが思考していると意識しながら思考することである。一般の人が言う思考とは、この表層心理での思考を意味している。それは理性とも呼ばれている。しかし、人間の表層心理での思考、すなわち、理性は、深層心理の思考に最終的には抵抗することはできないのである。哲学者のアドルノが第二次世界大戦の惨状を見て理性の無力を嘆いたが、深層心理が生み出す自我の欲望が戦争を強く求めれば、理性は抵抗できないのである。本来的に、理性には戦争を止める力は存在しないのである。だから、第二次世界大戦以後、現在においても、地域紛争は絶えないのである。さて、人間は、常に、まず、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則を満たそうとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのである。つまり、深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、その自我の欲望にとらわれて生きているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言うのである。深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考している。深層心理は、欲動によって、快感原則を満たそうとして、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間は、深層心理という、自らの無意識の思考が生み出した自我の欲望にとらわれて生きるしか無いのである。なぜならば、心理が生み出した自我の欲望が、人間の行動の生きる原動力になっているからである。つまり、人間は、表層心理で意識して思考して生み出していない自我の欲望、すなわち、理性によって思考して生み出していない自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が生み出しているから、やはり、その自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、逃れることができないのである。つまり、人間の逃れることができない自我の欲望は、自らが意識して思考する前に、既に、無意識のうちに思考して生み出されてしまっているのである。ドイツの哲学者のハイデッガーが、「先駆的」と表現しているものも、人間は、表層心理で思考する前に、既に、深層心理で思考して生み出されているものである。表層心理での思考は、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令の諾否について行われるのであり、人間は、深層心理から離れて、表層心理独自で思考することはできないのである。つまり、人間の意識しての思考は、常に、無意識の思考を受けて始まるのである。さらに、人間は、自ら意識して思考することなく、すなわち、表層心理で思考することなく、無意識のうちに思考して生み出した自我の欲望のままに、すなわち、深層心理が思考して生み出した自我の欲望のままに行動していることが非情に多いのである。この行動が、所謂、無意識の行動である。人間の日常生活が 、ルーティーンと言われ、同じようなことを繰り返すことによって成り立っているのは、無意識の行動だから可能なのである。表層心理で意識して思考することがないから、考え込むことが無く、行動がスムーズに行われるのである。さて、人間は、常に、まず、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則を満たそうとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのであるが、それでは、深層心理、自我、自我を立てる、心境、欲動、快感原則とは何か。先に述べたように、深層心理とは、人間の無意識のうちの思考である。人間は、深層心理の思考が生み出す自我の欲望に動かされて生きているのである。そして、先に述べたように、人間の意識しながらの思考が、表層心理での思考である。それを、理性と呼び、人間は重要視しているが、常に、表層心理での思考は深層心理の思考が生み出した行動の指令について審議するだけである。しかも、表層心理の審議が無いままに、人間は自我の欲望のままに無意識に動くことが多いのである。さらに、表層心理で審議して、意志で行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、抑圧することはできず、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動せざるを得ないのである。冒頭に、人間は虚構の中で虚像を創造し欲望に動かされて生きていると述べたが、当然のごとく、自我の欲望はこの欲望の最たるものである。次に、構造体、自我であるが、構造体とは、人間の組織・集合体である。国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどがそれである。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動する自分のあり方である。国という国の構造体には国民という自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。人間は、常に、構造体という虚構に所属して、自我という虚像を持して、暮らしているのである。国は、「興亡恒無し」と言われるように、生まれたり滅びたりして、安定しない。現在、世界に覇を唱えているアメリカ合衆国と言えども、17世紀に北米に進出し、19世紀に独立を成し遂げたのである。しかも、原住民を殺戮して、作り上げた国である。しかし、人間は、誰しも、生まれてくる国を選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その国に存在しているのである。日本という構造体に偶然生まれたから日本人という自我を持つのであり、中国という構造体に生まれていれば中国人という自我を持ち、韓国という構造体に生まれていれば韓国人という自我を持つのである。誰しも、生まれる国を選べず、その国に生まれてくる必然性も無く、気が付いたらその国に生まれていたのである。現在、尖閣諸島という無人島、竹島という無人島の領有権をめぐって、日本人と中国人、日本人と韓国人が争っているが、互いに相手の国に生まれていたならば、その国の領有権を主張していたであろう。つまり、国民の深層心理が生み出す自我の欲望が、無人島の領有権を主張するのである。そこには、表層心理での思考、すなわち、理性の思考が存在しないのである。哀れであり、幼稚である。人間、誰しも、親を選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その家の子として存在しているのである。親も、子を選べない。生まれてくるまで、どのような子なのかわからないのである。それでも、家族という構造体の中で、父・母・息子・娘などの自我を持って暮らしていくしかないのである。しかし、夫婦が離婚すれば、家族は消滅するのである。学校は、近代の産物であり、常に消滅の危機がある。しかも、生徒は教師を選べず、教師は校長を選べないのである。会社は、常に、倒産の不安を抱えている。仲間とは、身近な者たちの一時的な集団である。カップルは、構造体の中で、最も消滅の不安を抱えているのである。誰しも、相思相愛になれば、「赤い糸で結ばれている。」と思うけれども、簡単に、赤い糸は切れ、カップルは消滅してしまうのである。このように、構造体は、皆、虚構であり、自我は、皆、虚像なのである。次に、自我を主体に立てるであるが、自我を主体に立てるとは、深層心理が、構造体という虚構の中で、自我という虚像を中心に据えて、自我の行動について思考して、感情と行動という自我の欲望という欲望を生み出しているということである。しかし、人間は、自ら、主体的に、意識して、考えて、自らの意志で行動しながら暮らしていると思い込んでいるのである。それは、人間は、そのような生き方に憧れているから、深層心理の無の有化作用が、自ら主体的に意識して考えて自らの意志で行動しながら暮らしていると思い込ませたのである。しかし、自我の欲望は、自らが表層心理で意識して思考して生み出していず、深層心理が人間の無意識のうちに欲動によって快感原則に満たそうと思考して生み出しているのである。しかし、ほとんど人は、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動しながら暮らしていると思っている。そして、もしも、自分が、主体的に行動できないとすれば、それは、他者からの妨害や束縛があるからだと思っている。そこで、他者からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れるのである。自由であれば、自分は、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自ら意識して思考して、自らの意志で行動することができると思い込んでいるのである。しかし、それは大きな誤解である。人間は主体的ではないのである。人間は、自由であっても、主体的になれないのである。なぜならば、人間は、常に、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きているからである。自我の欲望に動かされて生きているのだから、決して、主体的に思考し、主体的に生きているとは言えないのである。深層心理は、欲動によって、自我に対して快感原則を満たそうとして、すなわち、自我に快楽をもたらそうとして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているから、人間は、自我が主体的に自らの行動を思考していると言えないのである。また、そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。また、人間の主体的な思考、すなわち、人間の表層心理での思考は、深層心理の思考の結果を受けて始まるから、人間は、本質的に、主体的に思考できないのである。さらに、人間は、主体的に思考して自我の欲望を生み出しているのではなく、深層心理が思考して、自我の欲望を生み出しているから、誰しも、他者に、自らの欲望を全てを話すことができないのである。それには、二つの理由がある。一つの理由は、無意識の思考という深層心理が自我の欲望を生み出すから、人間は、表層心理で、その自我の欲望を意識しないこともあるからである。むしろ、人間は表層心理で意識することなく、深層心理が生み出した自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが、所謂、無意識の行動である。人間は、自らは気付いていないが、行動の多くが無意識の行動もしくは無意識で始まっている行動なのである。もう一つの理由は、深層心理は、快感原則を満たそうとして、自我の欲望を生み出すから、必ず、恥知らずな欲望が存在するからである。中には、恥知らずな欲望にまみれている人もいるのである。次に、快感原則であるが、快感原則とは、スイスで活躍した心理学者のフロイトの用語であり、ひたすら、その時その場で、自我に快楽をもたらし、自我から不快を避けようという欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理の思考は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを、目的・目標としているのである。キリスト教で、悪事を犯したことや悪なる欲望を抱いたことがある者が、神の代理とされる司祭に、それ告白し、許しと償いの指定を求める懺悔という儀式がある。しかし、悪なる欲望を抱いただけで罪人であるなら、人間全員が懺悔しなければならなくなる。当然のごとく、司祭自身も、懺悔しなければならないことになる。なぜならば、深層心理は、快感原則を満たそうとして自我の欲望を生み出すので、全ての人間の自我の欲望には、必ず、悪なる欲望が存在するからである。次に、心境であるが、心境は、感情とともに、虚構かつ欲望である。心境も感情も、心の状態を表すから、虚構なのである。深層心理は、まっさらな状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではないのである。深層心理は、常に、ある心境の下にあり、ある行動の指令とともにある感情という自我の欲望を生み出しているのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境や感情の状態の時には、深層心理は現在の状態を維持しようとし、不得意の心境や感情の状態の時には、現在の状態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。だから、欲望でもあるのである。さらに、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのでは無く、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識せざるを得ないのである。人間は、一人でいてふとした時にも、他者に面した時にも、他者を意識した時にも、何もしていない自分の状態や何かをしている自分の状態を意識するのであるが、その時も、同時に、必ず、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。どのような状態にあろうと、心境や感情は掛け替えのない自分の存在を表しているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり」(私は全ての存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは自分が存在しているからである。だから、自分は確かに存在しているのである。)という論理で、自分の存在を確証したが、そのような回りくどい論理を使用せずとも、人間は自分の心境や感情で自分がこの世に存在していることを感じ取っているのである。そして、心境は、深層心理が自らの気分に飽きた時、そして、深層心理がある感情を生み出した時に、変化するのである。感情は、深層心理が、思考して、自我の欲望を生み出した時、行動の指令ととともに誕生するのである。だから、人間は、表層心理で、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。次に、欲動であるが、欲動は、感情を生み出し人間を行動へと駆り立てる四つの欲望の集合体である。すなわち、欲動は、深層心理に感情と行動という自我の欲望生み出させる内在的な欲望の集合体である。欲動は深層心理に存在しているから、内在的な欲望と言われているのである。それに対して、自我の欲望は、深層心理が生み出したものであるから、外在的な欲望と言われているのである。まさしく、欲動は欲望である。欲動という四つの欲望の集合体が、深層心理を内部から突き動かしているのである。フロイトは、欲動をリピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギーを挙げている。ユングは、リピドーとして、生命そのもののエネルギーを挙げている。しかし、フロイトが挙げているリピドーは狭小であり、ユングが挙げているリピドーは漠然としていて、曖昧である。実際には、欲動は、四つの欲望によって成り立っているのである。そこには、第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望が存在する。それは、自我の保身化という作用をする。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望が存在する。それは、自我の対他化の作用をする。第三の欲望として、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望が存在する。それは、対象の対自化の作用をする。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望が存在する。それは、自我の他者の共感化という作用をする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、深層心理の思考のままに行動しても良い生活状態にあり、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。フロイトは、自我の欲望の暴走を抑圧するために、深層心理に、道徳観に基づき社会規約を守ろうという超自我の欲望、所謂、良心がが存在すると言うが、深層心理は、ルーティーンの生活を守るために、道徳観や社会規約を利用しているのである。良心も、また、深層心理の無の有化作用によって誕生したのであり、人間がその存在を望んでいるから、実際には存在していないのに、存在しているように、人間に思い込ませたのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。国民に愛国心があるのも、国を愛しているからではなく、国という構造体が存在しなければ、国民という自我も存在しないからである。つまり、国民という自我を愛し、執着しているからなのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子も、仲間という構造体から追放されたくなく、友人という自我を失いたくないから、いじめの事実を隠し続けたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。人間の最初の構造体は、家族であり、最初の自我は、男児もしくは女児である。フロイトが提唱した精神分析の思想に、エディプス・コンプレクスがある。それは、家族という構造体で、男児という自我を持った者は、深層心理が、母親という他者に対して、男性という好評価・高評価を受けて快楽を得ようとして、近親相姦的な愛情というエディプスの欲望を抱き、敵対者として、父親を憎むようになるが、父親や社会がそれに反対し、家族という構造体から追放される虞があるので、深層心理のルーティーンを守りたいという自己検閲、もしくは、表層心理での現実原則によって、エディプスの欲望を抑圧してしまう精神現象である。男児は、家族という構造体の中で、男児という自我を持ったから、深層心理がエディプスの欲望(母親に対する近親相姦的な愛情)という自我の欲望を生み出したのである。しかし、家族という構造体から追放される虞があるので、男児は、深層心理で、エディプスの欲望を抱いたのは一人の男性という自我を母親という他者から認めて欲しいという理由から起こしたのであるが、深層心理の自己検閲もしくは表層心理での現実原則によって、エディプスの欲望を抑圧したのは、家族という構造体の中での男児の自我を存続させたいからである。このよううに、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用は、構造体という虚構、自我という虚像を支えているのである。次に、欲動の第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用があるが、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から生徒や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。深層心理は、傷心という感情とと不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出した。悪評価・低評価が傷心という感情の理由である。不登校・不出勤は、これ以上傷心せず、自宅で心を癒やそうという意味である。その後、人間は、表層心理で、理性で、現実原則に基づいて、傷心という感情の下で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令について意識して思考し、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのである。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望を満たそうという理由からである。だが、深層心理が生み出した傷心という感情が強いので、登校・出勤できないのである。そして、人間は、表層心理で、すなわち、理性で、不登校・不出勤を指令する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとするのだが、それも上手く行かずに、苦悩に陥るのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。また、受験生が有名大学を目指し、少女がアイドルを目指すのも、自我を他者に認めてほしいという欲望を満足させたいからである。男性が身だしなみを整えるのも、女性が化粧をするのも、自我が他者に認められたいという欲望を満足させるために行っているのである。このように、欲動の第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用が、他者の視線で捉えられた自我という虚像を支えているのである。次に、欲動の第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用があるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。哲学的に言えば、対象の対自化とは、「有を無化する」(「人は自己の欲望を対象に投影する」)(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。)ことである。さらに、対象の対自化は、哲学的に言えば、「無を有化する」(「人は自己の欲望の心象を存在化させる」)(人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)ことまで、深層心理は行う。これは、人間特有のものである。 人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むこと、いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めること、いずれもこの欲望によるものである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。さて、自我の志向性や趣向性は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。志向性と趣向性は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性は観点・視点で冷静に捉え、趣向性は好みで感性として捉えていることである。さて、自我の対他化は自我が他者によって見られることならば、対象の対自化は自我の志向性や趣向性で他者・物・現象を見ることなのである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその理由である。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その理由・意味である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その理由・意味である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば快楽を得られることがその意味・理由である。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるからである。このように、欲動の第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用という欲望があるからこそ、他者・物・現象が構造体という虚構に組み入れられ、他者・物・現象が虚像という対象になり、自我の支配を受けるのである。ちなみに、ハイデッガーの言う「世界ー内ー存在」の「世界」とは、自我・他者・物・現象によって形成された構造体である。次に、欲動の第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望、すなわち、自我と他者の共感化の作用があるが、それは、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるという理由・意味があるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強いという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。「呉越同舟」は、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、その理由・意味があるのである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取ろうとして、仲が悪くなるのである。このように、欲動の第四の欲望としての自我と他者の心の交流を図りたいという欲望、すなわち、自我と他者の共感化の作用は、自我という虚像が、構造体という虚構の一員になることで、快楽を得ようとするのである。さて、人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、ある気分の下で、構造体の中で、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのであるが、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識して思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識して、思考して、行動する。すなわち、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考であり、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我という道徳観や社会規約を守るという自己検閲がそれを抑圧できないのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。犯罪の多くはこの時に起こるのである。だから、人間は、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きていると言えるのである。だからこそ、人間は、深層心理の働きを理解して、深層心理が暴走しないように、考慮しなければならないのである。まず、理解すべきことは、人間は、構造体という虚構の中で、自我という虚像を創造し、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きているということである。構造体、自我、自我の欲望は、人間の生きる原動力であるが、それにとらわれてはならないということである。なぜならば、構造体は虚構であり、自我は虚像であり、自我の欲望は深層心理が生み出したものであるからである。しかし、多くの人は、自分は、実在しているものやことの中で、理性によって思考して、実像を創造しながら生きていると思い込んでいるのである。もちろん、深層心理が、そのように、思い込ませているのであるが、そのように思い込んでいる人間には、苦悩が絶えることは無く、そのように思い込んでいる人間が多くいる人間世界には、犯罪や戦争が絶えることが無いのである。
深層心理とは、人間の無意識の思考であり、深層心理が、虚構の中の虚像の創造を、実在の中の実像の創造だと思い誤らせていることが、人間に惨劇・悲劇をもたらしている根本の原因であることを理解すべきなのである。
深層心理とは、人間の無意識の思考であり、深層心理が、虚構の中の虚像の創造を、実在の中の実像の創造だと思い誤らせていることが、人間に惨劇・悲劇をもたらしている根本の原因であることを理解すべきなのである。