あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、虚構の中で、虚像を創造し、欲望に動かされて生きている。(自我その375)

2020-06-30 10:52:46 | 思想
人間は、虚構の中で、虚像を創造し、欲望に動かされて生きている。しかし、実在しているものやことの中で、理性によって思考して、実像を創造しながら生きていると思い込んでいるのである。深層心理が、そのように、思い込ませているのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。深層心理が、虚構の中の虚像の創造を、実在の中の実像の創造だと思い誤らせていることが、人間に惨劇・悲劇をもたらしている根本の原因である。人間にとって、実在しているものは、深層肉体の意志だけである。深層肉体の意志は、ひたすら生き続けようという意志であり、深層心理と同様に、人間の無意識のうちに働き、他の何ものからも影響を受けない。しかし、これは、人間のみに存在するのではなく、全ての生物に共通に存在している。しかも、他の生物と同様に、それは、人間が誕生後生み出したものではなく、先天的に人間の肉体に住みついているのである。深層肉体の意志によって、心臓が伸縮・拡張を繰り返し、血液を循環しているのである。深層肉体の意志によって、呼吸し、肺が活動しているのである。深層肉体の意志によって、飲食物を摂取し、胃腸が消化・吸収しているのである。これらの行為は、全て、無意識のうちに為され、その人を生き続けさせようという統括した意志に基づいて行われているのである。深層肉体は、内臓の働きばかりではなく、病気や怪我にも対応している。例えば、体内にウイルスが入り、風邪を引くと、深層肉体は、インターフェロンを産生し、免疫系を働かせて防御し、咳でウイルスを体外に放出し、発熱でウイルスを弱らせたり殺したりする。頭痛や咳や発熱などの不快感は、表層心理にも、肉体の異状を意識させ、その警戒と対応を求めているのである。怪我をすると、深層肉体は、血液でその部分を固め、白血球で、侵入した細菌を攻め滅ぼそうとする。肉体が損傷を受けると、痛みを生み出して、深層心理や表層心理にも、肉体の異状を意識させ、その警戒と対応を求めるのである。風邪を引くと、深層肉体は、インターフェロンを産生し、免疫系を働かせて防御し、咳でウイルスを体外に放出し、発熱でウイルスを弱らせたり殺したりする。頭痛や咳や発熱などの不快感も、また、深層心理や表層心理に、肉体の異状を意識させ、その警戒と対応を求めているのである。空腹やのどの渇きという欲求が起こるのも、深層肉体の、食糧や飲み物を摂取することによって、肉体的に生きさせようという意志によってである。このように、深層肉体の意志によって、肉体は生かされ、人間は生きていけるのである。しかし、人間の行動には、深層肉体は関与していない。人間の行動は、深層心理によって大枠が決められているのである。人間の無意識のうちに、深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それによって動き出すのである。その後、人間が、表層心理で思考して、行動を修正することがあるが、修正できるのはほんの僅かな部分である。表層心理での思考とは、自らが思考していると意識しながら思考することである。一般の人が言う思考とは、この表層心理での思考を意味している。それは理性とも呼ばれている。しかし、人間の表層心理での思考、すなわち、理性は、深層心理の思考に最終的には抵抗することはできないのである。哲学者のアドルノが第二次世界大戦の惨状を見て理性の無力を嘆いたが、深層心理が生み出す自我の欲望が戦争を強く求めれば、理性は抵抗できないのである。本来的に、理性には戦争を止める力は存在しないのである。だから、第二次世界大戦以後、現在においても、地域紛争は絶えないのである。さて、人間は、常に、まず、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則を満たそうとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのである。つまり、深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、その自我の欲望にとらわれて生きているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言うのである。深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考している。深層心理は、欲動によって、快感原則を満たそうとして、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間は、深層心理という、自らの無意識の思考が生み出した自我の欲望にとらわれて生きるしか無いのである。なぜならば、心理が生み出した自我の欲望が、人間の行動の生きる原動力になっているからである。つまり、人間は、表層心理で意識して思考して生み出していない自我の欲望、すなわち、理性によって思考して生み出していない自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が生み出しているから、やはり、その自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、逃れることができないのである。つまり、人間の逃れることができない自我の欲望は、自らが意識して思考する前に、既に、無意識のうちに思考して生み出されてしまっているのである。ドイツの哲学者のハイデッガーが、「先駆的」と表現しているものも、人間は、表層心理で思考する前に、既に、深層心理で思考して生み出されているものである。表層心理での思考は、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令の諾否について行われるのであり、人間は、深層心理から離れて、表層心理独自で思考することはできないのである。つまり、人間の意識しての思考は、常に、無意識の思考を受けて始まるのである。さらに、人間は、自ら意識して思考することなく、すなわち、表層心理で思考することなく、無意識のうちに思考して生み出した自我の欲望のままに、すなわち、深層心理が思考して生み出した自我の欲望のままに行動していることが非情に多いのである。この行動が、所謂、無意識の行動である。人間の日常生活が 、ルーティーンと言われ、同じようなことを繰り返すことによって成り立っているのは、無意識の行動だから可能なのである。表層心理で意識して思考することがないから、考え込むことが無く、行動がスムーズに行われるのである。さて、人間は、常に、まず、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則を満たそうとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのであるが、それでは、深層心理、自我、自我を立てる、心境、欲動、快感原則とは何か。先に述べたように、深層心理とは、人間の無意識のうちの思考である。人間は、深層心理の思考が生み出す自我の欲望に動かされて生きているのである。そして、先に述べたように、人間の意識しながらの思考が、表層心理での思考である。それを、理性と呼び、人間は重要視しているが、常に、表層心理での思考は深層心理の思考が生み出した行動の指令について審議するだけである。しかも、表層心理の審議が無いままに、人間は自我の欲望のままに無意識に動くことが多いのである。さらに、表層心理で審議して、意志で行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、抑圧することはできず、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動せざるを得ないのである。冒頭に、人間は虚構の中で虚像を創造し欲望に動かされて生きていると述べたが、当然のごとく、自我の欲望はこの欲望の最たるものである。次に、構造体、自我であるが、構造体とは、人間の組織・集合体である。国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどがそれである。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動する自分のあり方である。国という国の構造体には国民という自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。人間は、常に、構造体という虚構に所属して、自我という虚像を持して、暮らしているのである。国は、「興亡恒無し」と言われるように、生まれたり滅びたりして、安定しない。現在、世界に覇を唱えているアメリカ合衆国と言えども、17世紀に北米に進出し、19世紀に独立を成し遂げたのである。しかも、原住民を殺戮して、作り上げた国である。しかし、人間は、誰しも、生まれてくる国を選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その国に存在しているのである。日本という構造体に偶然生まれたから日本人という自我を持つのであり、中国という構造体に生まれていれば中国人という自我を持ち、韓国という構造体に生まれていれば韓国人という自我を持つのである。誰しも、生まれる国を選べず、その国に生まれてくる必然性も無く、気が付いたらその国に生まれていたのである。現在、尖閣諸島という無人島、竹島という無人島の領有権をめぐって、日本人と中国人、日本人と韓国人が争っているが、互いに相手の国に生まれていたならば、その国の領有権を主張していたであろう。つまり、国民の深層心理が生み出す自我の欲望が、無人島の領有権を主張するのである。そこには、表層心理での思考、すなわち、理性の思考が存在しないのである。哀れであり、幼稚である。人間、誰しも、親を選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その家の子として存在しているのである。親も、子を選べない。生まれてくるまで、どのような子なのかわからないのである。それでも、家族という構造体の中で、父・母・息子・娘などの自我を持って暮らしていくしかないのである。しかし、夫婦が離婚すれば、家族は消滅するのである。学校は、近代の産物であり、常に消滅の危機がある。しかも、生徒は教師を選べず、教師は校長を選べないのである。会社は、常に、倒産の不安を抱えている。仲間とは、身近な者たちの一時的な集団である。カップルは、構造体の中で、最も消滅の不安を抱えているのである。誰しも、相思相愛になれば、「赤い糸で結ばれている。」と思うけれども、簡単に、赤い糸は切れ、カップルは消滅してしまうのである。このように、構造体は、皆、虚構であり、自我は、皆、虚像なのである。次に、自我を主体に立てるであるが、自我を主体に立てるとは、深層心理が、構造体という虚構の中で、自我という虚像を中心に据えて、自我の行動について思考して、感情と行動という自我の欲望という欲望を生み出しているということである。しかし、人間は、自ら、主体的に、意識して、考えて、自らの意志で行動しながら暮らしていると思い込んでいるのである。それは、人間は、そのような生き方に憧れているから、深層心理の無の有化作用が、自ら主体的に意識して考えて自らの意志で行動しながら暮らしていると思い込ませたのである。しかし、自我の欲望は、自らが表層心理で意識して思考して生み出していず、深層心理が人間の無意識のうちに欲動によって快感原則に満たそうと思考して生み出しているのである。しかし、ほとんど人は、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動しながら暮らしていると思っている。そして、もしも、自分が、主体的に行動できないとすれば、それは、他者からの妨害や束縛があるからだと思っている。そこで、他者からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れるのである。自由であれば、自分は、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自ら意識して思考して、自らの意志で行動することができると思い込んでいるのである。しかし、それは大きな誤解である。人間は主体的ではないのである。人間は、自由であっても、主体的になれないのである。なぜならば、人間は、常に、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きているからである。自我の欲望に動かされて生きているのだから、決して、主体的に思考し、主体的に生きているとは言えないのである。深層心理は、欲動によって、自我に対して快感原則を満たそうとして、すなわち、自我に快楽をもたらそうとして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているから、人間は、自我が主体的に自らの行動を思考していると言えないのである。また、そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。また、人間の主体的な思考、すなわち、人間の表層心理での思考は、深層心理の思考の結果を受けて始まるから、人間は、本質的に、主体的に思考できないのである。さらに、人間は、主体的に思考して自我の欲望を生み出しているのではなく、深層心理が思考して、自我の欲望を生み出しているから、誰しも、他者に、自らの欲望を全てを話すことができないのである。それには、二つの理由がある。一つの理由は、無意識の思考という深層心理が自我の欲望を生み出すから、人間は、表層心理で、その自我の欲望を意識しないこともあるからである。むしろ、人間は表層心理で意識することなく、深層心理が生み出した自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが、所謂、無意識の行動である。人間は、自らは気付いていないが、行動の多くが無意識の行動もしくは無意識で始まっている行動なのである。もう一つの理由は、深層心理は、快感原則を満たそうとして、自我の欲望を生み出すから、必ず、恥知らずな欲望が存在するからである。中には、恥知らずな欲望にまみれている人もいるのである。次に、快感原則であるが、快感原則とは、スイスで活躍した心理学者のフロイトの用語であり、ひたすら、その時その場で、自我に快楽をもたらし、自我から不快を避けようという欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理の思考は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを、目的・目標としているのである。キリスト教で、悪事を犯したことや悪なる欲望を抱いたことがある者が、神の代理とされる司祭に、それ告白し、許しと償いの指定を求める懺悔という儀式がある。しかし、悪なる欲望を抱いただけで罪人であるなら、人間全員が懺悔しなければならなくなる。当然のごとく、司祭自身も、懺悔しなければならないことになる。なぜならば、深層心理は、快感原則を満たそうとして自我の欲望を生み出すので、全ての人間の自我の欲望には、必ず、悪なる欲望が存在するからである。次に、心境であるが、心境は、感情とともに、虚構かつ欲望である。心境も感情も、心の状態を表すから、虚構なのである。深層心理は、まっさらな状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではないのである。深層心理は、常に、ある心境の下にあり、ある行動の指令とともにある感情という自我の欲望を生み出しているのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境や感情の状態の時には、深層心理は現在の状態を維持しようとし、不得意の心境や感情の状態の時には、現在の状態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。だから、欲望でもあるのである。さらに、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのでは無く、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識せざるを得ないのである。人間は、一人でいてふとした時にも、他者に面した時にも、他者を意識した時にも、何もしていない自分の状態や何かをしている自分の状態を意識するのであるが、その時も、同時に、必ず、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。どのような状態にあろうと、心境や感情は掛け替えのない自分の存在を表しているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり」(私は全ての存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは自分が存在しているからである。だから、自分は確かに存在しているのである。)という論理で、自分の存在を確証したが、そのような回りくどい論理を使用せずとも、人間は自分の心境や感情で自分がこの世に存在していることを感じ取っているのである。そして、心境は、深層心理が自らの気分に飽きた時、そして、深層心理がある感情を生み出した時に、変化するのである。感情は、深層心理が、思考して、自我の欲望を生み出した時、行動の指令ととともに誕生するのである。だから、人間は、表層心理で、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。次に、欲動であるが、欲動は、感情を生み出し人間を行動へと駆り立てる四つの欲望の集合体である。すなわち、欲動は、深層心理に感情と行動という自我の欲望生み出させる内在的な欲望の集合体である。欲動は深層心理に存在しているから、内在的な欲望と言われているのである。それに対して、自我の欲望は、深層心理が生み出したものであるから、外在的な欲望と言われているのである。まさしく、欲動は欲望である。欲動という四つの欲望の集合体が、深層心理を内部から突き動かしているのである。フロイトは、欲動をリピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギーを挙げている。ユングは、リピドーとして、生命そのもののエネルギーを挙げている。しかし、フロイトが挙げているリピドーは狭小であり、ユングが挙げているリピドーは漠然としていて、曖昧である。実際には、欲動は、四つの欲望によって成り立っているのである。そこには、第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望が存在する。それは、自我の保身化という作用をする。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望が存在する。それは、自我の対他化の作用をする。第三の欲望として、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望が存在する。それは、対象の対自化の作用をする。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望が存在する。それは、自我の他者の共感化という作用をする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、深層心理の思考のままに行動しても良い生活状態にあり、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。フロイトは、自我の欲望の暴走を抑圧するために、深層心理に、道徳観に基づき社会規約を守ろうという超自我の欲望、所謂、良心がが存在すると言うが、深層心理は、ルーティーンの生活を守るために、道徳観や社会規約を利用しているのである。良心も、また、深層心理の無の有化作用によって誕生したのであり、人間がその存在を望んでいるから、実際には存在していないのに、存在しているように、人間に思い込ませたのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。国民に愛国心があるのも、国を愛しているからではなく、国という構造体が存在しなければ、国民という自我も存在しないからである。つまり、国民という自我を愛し、執着しているからなのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子も、仲間という構造体から追放されたくなく、友人という自我を失いたくないから、いじめの事実を隠し続けたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。人間の最初の構造体は、家族であり、最初の自我は、男児もしくは女児である。フロイトが提唱した精神分析の思想に、エディプス・コンプレクスがある。それは、家族という構造体で、男児という自我を持った者は、深層心理が、母親という他者に対して、男性という好評価・高評価を受けて快楽を得ようとして、近親相姦的な愛情というエディプスの欲望を抱き、敵対者として、父親を憎むようになるが、父親や社会がそれに反対し、家族という構造体から追放される虞があるので、深層心理のルーティーンを守りたいという自己検閲、もしくは、表層心理での現実原則によって、エディプスの欲望を抑圧してしまう精神現象である。男児は、家族という構造体の中で、男児という自我を持ったから、深層心理がエディプスの欲望(母親に対する近親相姦的な愛情)という自我の欲望を生み出したのである。しかし、家族という構造体から追放される虞があるので、男児は、深層心理で、エディプスの欲望を抱いたのは一人の男性という自我を母親という他者から認めて欲しいという理由から起こしたのであるが、深層心理の自己検閲もしくは表層心理での現実原則によって、エディプスの欲望を抑圧したのは、家族という構造体の中での男児の自我を存続させたいからである。このよううに、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用は、構造体という虚構、自我という虚像を支えているのである。次に、欲動の第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用があるが、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から生徒や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。深層心理は、傷心という感情とと不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出した。悪評価・低評価が傷心という感情の理由である。不登校・不出勤は、これ以上傷心せず、自宅で心を癒やそうという意味である。その後、人間は、表層心理で、理性で、現実原則に基づいて、傷心という感情の下で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令について意識して思考し、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのである。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望を満たそうという理由からである。だが、深層心理が生み出した傷心という感情が強いので、登校・出勤できないのである。そして、人間は、表層心理で、すなわち、理性で、不登校・不出勤を指令する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとするのだが、それも上手く行かずに、苦悩に陥るのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。また、受験生が有名大学を目指し、少女がアイドルを目指すのも、自我を他者に認めてほしいという欲望を満足させたいからである。男性が身だしなみを整えるのも、女性が化粧をするのも、自我が他者に認められたいという欲望を満足させるために行っているのである。このように、欲動の第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用が、他者の視線で捉えられた自我という虚像を支えているのである。次に、欲動の第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用があるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。哲学的に言えば、対象の対自化とは、「有を無化する」(「人は自己の欲望を対象に投影する」)(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。)ことである。さらに、対象の対自化は、哲学的に言えば、「無を有化する」(「人は自己の欲望の心象を存在化させる」)(人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)ことまで、深層心理は行う。これは、人間特有のものである。 人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むこと、いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めること、いずれもこの欲望によるものである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。さて、自我の志向性や趣向性は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。志向性と趣向性は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性は観点・視点で冷静に捉え、趣向性は好みで感性として捉えていることである。さて、自我の対他化は自我が他者によって見られることならば、対象の対自化は自我の志向性や趣向性で他者・物・現象を見ることなのである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその理由である。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その理由・意味である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その理由・意味である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば快楽を得られることがその意味・理由である。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるからである。このように、欲動の第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用という欲望があるからこそ、他者・物・現象が構造体という虚構に組み入れられ、他者・物・現象が虚像という対象になり、自我の支配を受けるのである。ちなみに、ハイデッガーの言う「世界ー内ー存在」の「世界」とは、自我・他者・物・現象によって形成された構造体である。次に、欲動の第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望、すなわち、自我と他者の共感化の作用があるが、それは、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるという理由・意味があるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強いという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。「呉越同舟」は、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、その理由・意味があるのである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取ろうとして、仲が悪くなるのである。このように、欲動の第四の欲望としての自我と他者の心の交流を図りたいという欲望、すなわち、自我と他者の共感化の作用は、自我という虚像が、構造体という虚構の一員になることで、快楽を得ようとするのである。さて、人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、ある気分の下で、構造体の中で、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのであるが、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識して思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識して、思考して、行動する。すなわち、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考であり、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我という道徳観や社会規約を守るという自己検閲がそれを抑圧できないのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。犯罪の多くはこの時に起こるのである。だから、人間は、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きていると言えるのである。だからこそ、人間は、深層心理の働きを理解して、深層心理が暴走しないように、考慮しなければならないのである。まず、理解すべきことは、人間は、構造体という虚構の中で、自我という虚像を創造し、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きているということである。構造体、自我、自我の欲望は、人間の生きる原動力であるが、それにとらわれてはならないということである。なぜならば、構造体は虚構であり、自我は虚像であり、自我の欲望は深層心理が生み出したものであるからである。しかし、多くの人は、自分は、実在しているものやことの中で、理性によって思考して、実像を創造しながら生きていると思い込んでいるのである。もちろん、深層心理が、そのように、思い込ませているのであるが、そのように思い込んでいる人間には、苦悩が絶えることは無く、そのように思い込んでいる人間が多くいる人間世界には、犯罪や戦争が絶えることが無いのである。
深層心理とは、人間の無意識の思考であり、深層心理が、虚構の中の虚像の創造を、実在の中の実像の創造だと思い誤らせていることが、人間に惨劇・悲劇をもたらしている根本の原因であることを理解すべきなのである。



切れやすいのは、深層心理が敏感であるために、心が弱く、傷付きやすいからである。(自我その374)

2020-06-26 13:40:40 | 思想
人間は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それによって行動するのである。だから、人間は、絶対的な自由観や主体性観から、自らを解放させなければならないのである。人間は、他者が行動を束縛していなくても、他者に思考を束縛されていなくても、絶対的に自由になることも絶対的な主体性を抱くこともできないのである。なぜならば、人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持たなければ生きていけないからである。また、人間は、自ら意識して思考すること、すなわち、理性を過信してはならない。なぜならば、人間は、深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて行動しているからである。人間の意識しての思考を、表層心理での思考と言う。人間の無意識の思考を、深層心理の思考と言う。深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と表層心理で考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識して思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。無意識の行動は、一般に思われているような稀な行動ではない。日常生活がルーティーンと言われるように同じような行動を繰り返すのは、無意識の行動だからできるのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動しようとするのである。これが、理性の思考による行動、すなわち、意志の行動である。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。心に安らぎは訪れない状態が苦悩である。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。犯罪の多くはこの時に起こるのである。だから、人間の思考の主体は、意識しての思考、すなわち、表層心理での思考では無く、無意識の思考、すなわち深層心理の思考なのである。さて、人間は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それによって行動するのであるが、自我とは、何であるか。自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。人間は、一人でいても、一人暮らしをしていても、ホームレス生活をしていても、常に、構造体に所属し、自我を有し、常に、他者との関わりながら暮らしている。人間は、常に、何らかの構造体に所属し、他者から何らかの自我を与えられているので、それに則って行動するしか無いのである。他者から構造に所属することを許され、他者から自我を与えられているということは、他者の期待を背負っているということなのである。ある人が、どれだけ、自由を主張しても、主体性を誇示しても、いついかなる時でも、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を有しているので、構造体と自我に制限されているから、絶対的な自由そして絶対的な主体性は存在しないのである。選択肢が狭められている自由、選択肢が既に与えられている主体性なのである。それを、自由、主体性と呼ぶことはできない。逆に、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を有しているから、構造体と他者に束縛されているように感じ、自由と主体性に憧れるのである。しかし、もしも、全く、構造体に所属せず、自我を有していない時間があったならば、人間は、何をしてか良いかわからず、途方に暮れるだろう。人間は、常に、構造体に所属し、他者との関わりの中で、役目を果たす存在として自我を担わされているが、深層心理が生み出す自我の欲望はそれにとどまっていない。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者の期待に応えようとしつつ、時には、それ以上のこと、それ以外のことを求めて、自我の欲望として生み出しているのである。心理学者のラカンに、「人は他者の欲望を欲望する」という言葉があるが、それは、深層心理が他者の期待に応えようと自我の欲望を生み出していることを意味しているのである。ラカンの言葉に倣えば、「人は自我の欲望を対象に投影する」という言葉が、深層心理が他者の期待以上のことや他者の期待以外のことを求めて自我の欲望を生み出しているという意味になるだろう。対象の範疇には、他者、物、現象が入っている。人間は、常に、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を有して、他者の欲望を欲望し、もしくは、自我の欲望を対象に投影しながら、生きているのである。次に、自我を主体に立てるとは、何か。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我の行動について考えるということである。深層心理は、欲動によって、自我に対して快感原則を満たそうとして、すなわち、自我に快楽をもたらそうとして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。だから、人間は、自我が主体的に自らの行動を思考していないのである。そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。また、人間の主体的な思考、すなわち、人間の表層心理での思考は、深層心理の思考の結果を受けて始まるから、人間は、本質的に、主体的に思考できないのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考に気付いていない。深層心理の思考に対しては、無意識の行動というような、稀な行動だと思っているのである。思考の中心は表層心理にあるから、そのように誤解しているのである。そして、自ら、主体的に、意識して、考えて、自らの意志で行動しながら暮らしていると思っているのである。それは、主体的に生きていたいと思っているからである。これを、深層心理の無の有化作用という。無の有化作用とは、実際に存在しないものやことが、深層心理の存在への欲望が強いと、存在しているように思い込むことである。そこに、大きな誤りが生じているのである。次に、欲動とは何か。欲動は、深層心理に住みつき、深層心理に感情と行動という自我の欲望生み出させる欲望の集団である。欲動は深層心理に住みついているから内在的な欲望と表現し、深層心理が生み出した自我の欲望を外在的な欲望と表現することがある。欲動は、四つの欲望によって成り立っている。第一の欲望が、自我を存続・発展させたいという欲望である。自我の保身化という作用をする。第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。自我の対他化の作用をする。第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。対象の対自化の作用をする。第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。自我の他者の共感化という作用をする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望が満たされている、すなわち、自我の保身化の作用が上手く行っているのである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で意識して考えることがなく、無意識の行動だから可能なのである。また、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。フロイトは、自我の欲望の暴走を抑圧するために、深層心理に、道徳観に基づき社会規約を守ろうという超自我の欲望、所謂、良心がが存在すると言う。しかし、深層心理は瞬間的思考するのだから、良心がそこで働いていると考えられない。ルーティーンの生活を守るために、道徳観や社会規約を利用しているように思われる。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。これも、また、深層心理による無の有化作用である。自殺した子は、仲間という構造体から追放されたくなく友人という自我を失いたくないから、自殺寸前までいじめの事実を隠し続けたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。人間は、自我に執着するあまり、かくも愚かなことを行うのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用であるが、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。人間は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から生徒や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なると、不登校・不出勤になることがある。これは、深層心理は、これ以上傷心せず、自宅で心を癒やそうとして、不登校・不出勤の行動の指令を生み出したのである。そして、人間は、表層心理で、傷心という感情の下で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令について意識して思考し、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのであるが、傷心の感情が強いので、登校・出勤できないのである。また、受験生が有名大学を目指すこと、少女がアイドルを目指すことの理由・意味も、自我が他者に認められたいという欲望を満足させることである。男性が身だしなみを整えるのも、女性が化粧をする、痩せるのも、自我が他者に認められたいという欲望を満足させるために行っているのである。有名大学を目指すこと、アイドルを目指すこと、身だしなみを整えること、化粧をすること、痩せることいずれも、他者から見るとたわい無いことであるが、自我が他者に認められたいという欲望にとらわれている人間には、非常に重要なことなのである。失敗すると、鬱病になったり、最悪の場合、自殺を図る人も存在するのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、すなわち、自我の対自化化の作用であるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。哲学的に言えば、対象の対自化とは、「有を無化する」(「人は自己の欲望を対象に投影する」)(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。)ことである。さらに、深層心理は、対象の対自化が高じて、「無を有化する」(「人は自己の欲望の心象化を存在化させる」)(人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)ことまで行う。これは、人間特有のものである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むこともこの欲望によるものである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとしているのである。人間は、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、また、自己正当化できなければ生きていけないのである。さて、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその理由である。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その目的である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その目的である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば満足感が得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られることがその意味・理由である。とどのつまり、人間とは、自分中心、自我中心の動物なのである。それは、幼い頃に、既に、現れているのである。人間の最初の構造体は、家族であり、最初の自我は、男児もしくは女児である。フロイトが提唱した精神分析の思想に、エディプス・コンプレクスがある。それは、家族という構造体で、男児という自我を持った者は、深層心理が、母親という他者に対して、男性という好評価・高評価を受けて快楽を得ようとして、近親相姦的な愛情というエディプスの欲望を抱き、敵対者として、父親を憎むようになるが、父親や社会がそれに反対し、家族という構造体から追放される虞があるので、表層心理で、抑圧してしまう精神現象である。男児は、家族という構造体の中で、男児という自我を持ったから、深層心理がエディプスの欲望(母親に対する近親相姦的な愛情)という自我の欲望を生み出したのである。しかし、家族という構造体から追放される虞があるので、男児は、深層心理で、エディプスを抱いたのは一人の男性という自我を母親という他者から認めて欲しいという理由から起こしたのであるが、表層心理で、エディプスの欲望を抑圧した意味は、そうするすることによって、家族という構造体の中での男児の自我を守るためである。次に、欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望、すなわち、自我と他者の共感化の作用であるが、それは、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるという理由・意味があるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強いという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。「呉越同舟」は、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、その理由・意味があるのである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取ろうとして、仲が悪くなるのである。さて、人間は、誰しも、心が深く傷付き、怒りの感情が高まると、切れ、いきなり、激しく相手に毒づいたり、相手に殴り掛かったりすることがある。切れやすい人は、繰り返し、そのような乱暴を働く。多くの人は、乱暴を働く人は心が強い人だと誤解している。そうではなく、乱暴な人は、すなわち、切れやすい人は、心が弱く、深層心理が敏感なために、自我が傷付きやすく、傷付いた自我の心を早く回復させるために、深層心理が乱暴を働ように指令を出し、本人が、それに従ったのである。しかし、切れやすい性格は、先天的なものであり、本人の意志ではどうすることもできないのである。一生変わることはないのである。なぜならば、性格は深層心理の範疇にあり、人間は表層心理の意志ではどうすることもできないからである。だから、人間は、自らの意志で性格を変えることができないのである。もしも、性格が変わったように見える人がいたならば、その人は、生活環境が変わったために深層心理が敏感に反応することが少なくなったからか。感情が高まっても切れる前に行動をして切れる行動をすることを回避しているか、人間の精神活動の仕組みを知り深層心理の生み出す行動の指令のままに行動しなくなったからである。さて、広辞苑では、「切れる」の意味を、「我慢が限界に達して、理性的な対応ができなくなる。」と説明している。それでは、何を「我慢」することが「限界に達し」たのか。それは、激しく相手に毒づいたり、相手に殴り掛かったりすることである。それでは、その人の何が、相手に激しく毒づいたり、相手に殴り掛かったりすることを考え出したのか。それは、深層心理である。深層心理とは、一般に、無意識と呼ばれている。深層心理とは、人間の心の奥底に存在し、自らは意識していない心の思考である。その人の深層心理が、相手に激しく毒づいたり、相手に殴り掛かったりすることを考え出したのである。それでは、何が、「我慢の限界に達し」たのか。それは、表層心理である。表層心理とは、人間の意識しての思考である。人間が表層心理で意識して思考した結果が、一般に、意志と呼ばれるものである。つまり、その人の表層心理の意志が、相手に激しく毒づいたり、相手に殴り掛かったりするという行動を抑圧できなかったのである。それでは、何が、相手に激しく毒づいたり、相手に殴り掛かったりするという行動を抑圧しようという表層心理の意志を抑圧したのか。それは、深い傷心と強い怒りの感情である。それでは、何が、深い傷心と強い怒りの感情を生み出したのか。それも、深層心理である。つまり、深層心理が生み出した深い傷心・強い怒りの感情によって、表層心理の意志が、相手に激しく毒づいたり、相手に殴り掛かったりするという行動を抑圧できなかったのである。それでは、その人の深層心理が、相手に激しく毒づいたり、相手に殴り掛かったりするという行動をその人に取らせることによって何を獲得しようと考えたのか。それは、相手の同位に立つこと、もしくは、相手の上位に立つことである。深層心理には、常に、他者の同位に立ちたい、もしくは、他者の上位に立ちたいという欲望が存在するからである。それでは、なぜ、深層心理が、深い傷心の感情と怒りの感情を生み出したのか。それは、相手から侮辱や暴力などを受け、自我が悪評価・低評価を受けたからである。人間の深層心理の欲動には、他者に認められたいという欲望があり、それが傷つけられたからである。それでは、なぜ、相手から、悪評価・低評価を受けると、深層心理が、傷心・怒りの感情を生み出すのか。それは、深層心理には、常に、他者から好評価・高評価を受けたいという欲望が存在するからである。それは、相手の同位に立ちたい、もしくは、相手の上位に立ちたいという欲望と同じものである。すなわち、深層心理の欲動の中の他者に認められたいという欲望が傷つけられたからである。さて、先に述べたように、深層心理が敏感であることは、意志によって変えることができないから、人間関係や生活環境が変えて、深層心理が敏感に反応することが少なくするか、深層心理が敏感に反応して感情が高まっても、切れる前に回避する行動を前もって考えておくか、人間の精神活動の仕組みを知り、深層心理の生み出す行動の指令を冷静に対応するように自らを仕向けることである。

  

人間は、意志無く生まれ、意志無く生き、意志無く死んでいくしかないのか。(自我その372)

2020-06-22 14:37:14 | 思想
人間は、気が付いたら、そこに存在しているのである。人間は、誰しも、意志無く生まれている。つまり、偶然に、誕生しているのである。しかし、それでも、ひたすら生きようとする。肉体に、常に、生きようとする意志があるからである。しかし、その意志は、自らが生み出したものではない。肉体が、誕生とともに、有している意志である。だから、人間は、この意志に気付いていない。だから、人間は、深層肉体を動かすことはできない。この人間をひたすら生かせようとする意志を持った肉体を深層肉体と言う。深層肉体の人間をひたすら生かせようとする意志には、全く、迷いは存在しない。しかし、人間には、自らの意志によって、動く肉体も存在する。それが、表層肉体である。深層肉体は、精神や肉体がどんな状態に陥ろうと、ひたすら生きようとする。自殺は、深層肉体の意志に反した行いである。自殺とは、深層心理の快感原則の基づいて生み出した自我の欲望である。深層心理は、生きて間は、苦痛から逃れられないと思考し、自殺という自我の欲望を生み出したのである。人間は、表層心理で、現実原則に基づいて思考し、自殺を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した苦痛の感情が強すぎるので、抑圧できず、自殺に突き進んでいくのである。人間は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体が働き、それによって生かされているのである。人間の肉体の内部には、肺や心臓や胃があるが、誰も、自分の意志で、肺や心臓や胃の動きを止めることはできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。人間の無意識のうちに、深層肉体が呼吸をしているのである。テレビの学園ドラマで、授業中、教師に、「おまえは何をしているのだ。」と注意された生徒が、とぼけて、「息をしています。」と答えるシーンがあったが、その生徒は間違っている。誰も、意識して息をしていない。人間が意識して息をしているのならば、寝入ると同時に、息が止まり、死んでしまう。深呼吸という意識的な行為も存在するが、それは、深く吸うということを意識するだけでしかなく、常時の呼吸は無意識の行為である。呼吸は、誕生とともに、既に、人間の深層肉体に備わっている機能であるから、人間は、生きていけるのである。心臓も、人間の意志で動いているのではない。だから、止めようと思っても、止めることはできない。心筋梗塞が起こったり、人為的に、他者や自分がナイフを突き立てたりなどしない限り、止まらないのである。さらに、胃も、人間の意志によって動いているのではない。心臓や肺と同じく、誕生と同時に、深層肉体として、既に動いているのである。胃の仕組みや働きすら、今もって、ほんのわずか知られていない。だから、人工的な胃は存在しないのは当然のことである。確かに、人工心臓は存在するが、それは、新しく作り出したのではなく、現に存在している心臓を模倣したものである。だから、人工心臓は、生来の心臓の一部の働きしかできない。このように、人間は、ほとんどの場合、自らの意志によって、肉体を動かしているのではなく、肉体自身が肉体を動かしているのである。それが深層肉体の働きである。人間が、意識して行う肉体の活動、すなわち、表層肉体による活動は、深呼吸する、授業中挙手する、速く走る、体操するなど日常生活の中でも一部の活動である。しかも、その意志的な動作も、動作の初発のほんの一部にしか関わっていない。例えば、歩くという動作がある。確かに、歩こうという意志の下で歩き出すことがある。しかし、両足を交互に出すという動きは、誰も意識して行っていない。もしも、右、左と意識して足を差し出していたら、意識しての行動、つまり、表層肉体は同じことを長く続けていられないから、途中で足がこんがらがり、うまく歩けなくなるだろう。万が一、目的地まで、意識して両足を差し出して歩いて行ったとしても、むしろ、必要以上に、疲れてしまうだろう。だから、最も意識して行っていると考えられる動作の一つである歩くという行動すら、意識して行っているのではなく、無意識に、つまり、肉体自身によって行われているのである。歩きながら考えるということも、歩くことに意識が行っていないから、可能なのである。このように、人間は、自分の意志によって意識的に肉体を動かすのは極小的なあり方であり、肉体自身が肉体を動かすのが中心的なあり方なのである。つまり、人間は、深層肉体によって、生かされているのである。深層肉体の生きようとする意志は並大抵のものではない。私の父は亡くなっても、その翌日も、遺体の髪の毛も爪も伸びていた。髪の毛も爪も、つまり、深層肉体は父が亡くなったことを知らないのである。いや、知ろうとしていないと言ったほうが正確かもしれない。さて、人間は、指を少し切っただけでも、痛みを感じ、血が出る。血は、その部分を白血球で殺菌し、傷口を血小板で固め、その部分の再生を助けるために、出るのである。肉体は、自ら、再生能力を持ち、更に、痛みによって、深層心理に、そこに異状があることを知らしめるのである。そして、深層心理の異常な反応を受けて、表層心理は思考し、原因を追究し、同じ過ちを繰り返さないようにし、また、治療法も考えるのである。深層肉体は、これほどまでに、生きようとしているのである。しかし、人間は、深層肉体が、どれほど強い生きようと意志を持っていても、肉体が衰えて死を迎えたり、事故に遭って死を迎えたり、他者に恨まれて殺されたり、深層心理が深層肉体の生きる圧倒して自殺を選んだりなどして、最期を迎えるのである。さて、ほとんどの人間は、毎日、同じことを繰り返しながら、生きている。人間の日常生活は、ほとんど、毎日同じことを繰り返すルーティーンになっている。それは、深層心理がそれを望むからである。深層心理とは、人間の意志によらない、人間の無意識の思考である。深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて行動し、生活している。人間には、表層心理での思考、すなわち、意志による、意識しての思考も存在するが、それは、深層心理の思考が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令に対して行われるのであり、表層心理独自で思考することは無いのである。しかも、人間は、表層心理で深層心理が生み出した行動の指令に対して思考すること無く、深層心理が生み出した自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが、所謂、無意識の行動であり、ほとんどの人の毎日同じことを繰り返すルーティーンの日常生活もそうである。日常生活がルーティーンになるのは、深層心理がそれを望むからであり、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だからである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。さて、人間の毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を保証するのは、構造体と自我である。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。人間は、毎日、同じ構造体に所属し、同じ自我を持って行動しているのである。また、人間は、構造体と自我が社会的にも認められているから、毎日、構造体に所属し、自我を持って、社会的な関わりの中で、暮らしていけるのである。だからこそ、人間は、毎日、同じ構造体に行き、同じ自我を持って、暮らしているのである。しかし、毎日の生活を保証する自我・構造体という存在を、人間は、主体的に選択したのでは無いのである。すなわち、子は生まれてくるや否やの選択権は無く、息子・娘の性も選べず、父・母を選べず、家族を選べないのである。生まれてみて、息子・娘の性に気付き、自分を生んでくれた女性が母になり、その配偶者が父となり、生まれた家庭が家族になるのである。父・母も子を選べず、生まれた子が息子・娘になるのである。さらに、生まれる国を選べず、近くの学校に入り、合格した会社に入り、身近な人と友人になり、身近な人と恋愛関係に陥るのである。選択権が無いか選択する範囲が非常に狭いのである。だから、人間は、構造体も自我も主体的に選んでいるのでは無く、必然的に選ばされているのである。人間は、主体的に選んでいない構造体に所属し、他者から与えられた自我を持して生きていくしか無いのである。人間は、常に、まず、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則を満たそうとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのである。つまり、深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、自我の欲望を生み出し、人間は、その自我の欲望にとらわれて生きているのである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、感情と行動の指令を生み出していないのである。すなわち、人間は、主体的に思考していないのである。フランスの心理学者のラカンも、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言うのである。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。深層心理が、欲動によって、快感原則を満たそうとして、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間は、自らの深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望にとらわれて生きるのである。自我の欲望が、人間の生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して生み出していない自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が生み出しているから、やはり、その自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、逃れることができないのである。さて、人間は、常に、まず、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則を満たそうとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのであるが、最初に、自我を主体に立てるとは、どういうことであろうか。それは、深層心理が自我を中心に据えて、自我の行動について考えるということである。深層心理は、欲動によって、自我に対して快感原則を満たそうとして、すなわち、自我に快楽をもたらそうとして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。だから、人間は、自我が主体的に自らの行動を思考していないのである。そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。また、人間の主体的な思考、すなわち、人間の表層心理での思考は、深層心理の思考の結果を受けて始まるから、人間は、本質的に、主体的に思考できないのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考に気付いていない。深層心理の思考に対しては、無意識の行動というような、例外的な活動にしか認めていないのである。思考の中心は表層心理でのものだと思っているのであるのである。そして、自ら、主体的に、意識して、考えて、自らの意志で行動しながら暮らしていると思っているのである。それは、主体的に生きていたいと思っているからである。これを、深層心理の無の有化作用という。無の有化作用とは、実際に存在しないものやことが、深層心理の欲望が強過ぎると、存在しているように思い込むことである。そこに、大きな誤りが生じているのである。次に、心境とは何か。それは、感情と同じく、心の状態を表す。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境や感情の状態の時には、深層心理は現在の状態を維持しようとし、不得意の心境や感情の状態の時には、現在の状態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。さらに、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのでは無く、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、否応なく、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり」(私は全ての存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは自分が存在しているからである。だから、自分は確かに存在しているのである。)という論理で、自分の存在を確証したが、そのような回りくどい論理を使用せずとも、人間は自分の心境や感情で自分がこの世に存在していることを感じ取っているのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時、そして、深層心理がある感情を生み出した時に、変化する。感情は、深層心理が、思考して、自我の欲望を生み出した時、行動の指令ととともに誕生する。だから、人間は、表層心理で、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時などに、何もしていない自分の状態や何かをしている自分の状態を意識するのであるが、その時も、同時に、必ず、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。どのような状態にあろうと、心境や感情は掛け替えのない自分の存在を表しているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。そして、深層心理は、まっさらな状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではないのである。深層心理は、常に、ある心境の下にあり、ある行動の指令とともにある感情という自我の欲望を生み出しているのである。深層心理は、自らを覆う心境や自らが生み出す感情が快適なものならば、現在の行動を継続するように自我の欲望を生み出し、自らを覆う心境や自らが生み出す感情が不快なものならば、不快感を払拭するように行動の指令を生み出すのである。
次に、快感原則とは何か。それは、心理学者のフロイトの用語であり、ひたすら、その時その場で、自我に快楽をもたらし、自我から不快を避けようという欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理の思考は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを、目的・目標としているのである。キリスト教で、悪事を犯したことや悪なる欲望を抱いたことがある者が、神の代理とされる司祭に、それ告白し、許しと償いの指定を求める懺悔という儀式がある。しかし、悪なる欲望を抱いただけで罪人であるなら、人間全員が懺悔しなければならなくなる。当然のごとく、司祭自身も、懺悔しなければならないことになる。なぜならば、深層心理は、快感原則を満たそうとして自我の欲望を生み出すので、全ての人間の自我の欲望には、必ず、悪なる欲望が存在するからである。しかし、フロイトは、悪なる欲望を抑圧するために、深層心理に、道徳観に基づき社会規約を守ろうという超自我の欲望、所謂、良心がが存在すると言う。確かに、深層心理には、自らが生み出した自我の欲望を検閲する作用、すなわち、自己検閲の作用があるように思われる。しかし、私には、深層心理は、ルーティーンの生活を守るために、道徳観や社会規約を利用しているように思われる。なぜならば、人間は悪事が自らの仕業だと露見しなければ、往々にして、悪なる欲望のままに行動しようとするからである。次に、欲動とは何か。それは、感情を生み出し人間を行動へと駆り立てる、すなわち、深層心理に感情と行動という自我の欲望生み出させる根本的な内在的な欲望の集団である。欲動は深層心理に住みついているるから、内在的な欲望と言うのである。欲動という根本の欲望の集団が、深層心理を内部から突き動かして自我の欲望を生み出しているのである。だから、欲動を欲望と同列に扱って構わないのである。フロイトは、欲動をリピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギーを挙げている。ユングは、リピドーとして、生命そのもののエネルギーを挙げている。しかし、フロイトが挙げているリピドーは狭小であり、ユングが挙げているリピドーは漠然としていて、曖昧である。両者とも、人間の全ての行動と感情の理由と意味を説明できないのである。実際には、欲動は、四つの欲望によって成り立っているのである。第一の欲望が、自我を存続・発展させたいという欲望である。自我の保身化という作用をしている。第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。自我の対他化の作用をしている。第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。対象の対自化の作用をしている。第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。自我の他者の共感化という作用をしている。人間は、無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望が満たされている、すなわち、自我の保身化の作用が上手く行っているのである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で意識して考えることがなく、無意識の行動だから可能なのである。また、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことでもあるのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。フロイトは、自我の欲望の暴走を抑圧するために、深層心理に、道徳観に基づき社会規約を守ろうという超自我の欲望、所謂、良心がが存在すると言うが、私には、深層心理は、ルーティーンの生活を守るために、道徳観や社会規約を利用しているように思われる。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子も、仲間という構造体から追放されたくなく友人という自我を失いたくないから、自殺寸前までいじめの事実を隠し続けたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。人間は、自我に執着するあまり、かくも愚かなことを行うのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用であるが、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。人間は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から生徒や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なる。すると、深層心理は、これ以上傷心せず、自宅で心を癒やそうとして、不登校・不出勤の行動の指令を生み出す。そして、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、傷心という感情の下で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令について意識して思考し、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのである。現実原則からは、不登校・不出勤は自我にとってマイナスだからである。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望を満たそうということである。だが、深層心理が生み出した傷心という感情が強いので、登校・出勤できないのである。そして、人間は、表層心理で、すなわち、理性で、不登校・不出勤を指令する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとするのだが、それも上手く行かずに、苦悩に陥るのである。また、受験生が有名大学を目指すこと、少女がアイドルを目指すことの理由・意味も、自我が他者に認められたいという欲望を満足させることである。男性が身だしなみを整えるのも、女性が化粧をする、痩せるのも、自我が他者に認められたいという欲望を満足させるために行っているのである。有名大学を目指すこと、アイドルを目指すこと、身だしなみを整えること、化粧をすること、痩せることいずれも、他者から見るとたわい無いことであるが、自我が他者に認められたいという欲望にとらわれている人間には、非常に大切なことである。失敗すると、鬱病になったり、最悪の場合、自殺を図る人も存在するのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用であるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。哲学的に言えば、対象の対自化とは、「有を無化する」(「人は自己の欲望を対象に投影する」)(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。)ことである。さらに、深層心理は、対象の対自化が高じて、「無を有化する」(「人は自己の欲望の心象化を存在化させる」)(人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)ことまで行う。これは、人間特有のものである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むこと、いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めること、いずれもこの欲望によるものである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとすることがその理由・意味である。人間とは、弱い存在であるから、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、また、自己正当化できなければ生きていけないのである。さて、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその理由である。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その理由・意味である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その理由・意味である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば快楽を得られることがその意味・理由である。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られることがその意味・理由である。とどのつまり、人間とは、自分中心、自我中心の動物なのである。それは、幼い頃に、既に、現れているのである。人間の最初の構造体は、家族であり、最初の自我は、男児もしくは女児である。フロイトが提唱した精神分析の思想に、エディプス・コンプレクスがある。それは、家族という構造体で、男児という自我を持った者は、深層心理が、母親という他者に対して、男性という好評価・高評価を受けて快楽を得ようとして、近親相姦的な愛情というエディプスの欲望を抱き、敵対者として、父親を憎むようになるが、父親や社会がそれに反対し、家族という構造体から追放される虞があるので、表層心理で、抑圧してしまう精神現象である。男児は、家族という構造体の中で、男児という自我を持ったから、深層心理がエディプスの欲望(母親に対する近親相姦的な愛情)という自我の欲望を生み出したのである。しかし、家族という構造体から追放される虞があるので、男児は、深層心理で、エディプスを抱いたのは一人の男性という自我を母親という他者から認めて欲しいという理由から起こしたのであるが、表層心理で、エディプスの欲望を抑圧した意味は、そうするすることによって、家族という構造体の中での男児の自我を守ることである。次に、欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望、すなわち、自我と他者の共感化の作用であるが、それは、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるという理由・意味があるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強いという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。「呉越同舟」は、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、その理由・意味があるのである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取ろうとして、仲が悪くなるのである。さて、人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、ある心境の下で、構造体の中で、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのであるが、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識して思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識して、思考して、行動する。すなわち、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考であり、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強いので抑えきれないのである。そうなると、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我という道徳観や社会規約を守るという欲望の良心がそれを抑圧できないのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。犯罪の多くはこの時に起こるのである。だから、人間は、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きていると言えるのである。それでは、人間に、何ができるのか。人間は、ただ、単に、深層心理が生み出す自我の欲望に操られて人生を終わらせるのか。それが、一人一人の人間に問いかけられているのである。



人間に、何ができるのか。そして、自分に、何ができるのか。(自我その371)

2020-06-20 14:40:55 | 思想
人間に、何ができるのか。人間は、ただ、単に、欲望に操られているだけの存在ではないのか。人間は、深層心理が生み出す自我の欲望に操られて生きているだけではないのか。そして、その人間の一人として、自分に、何ができるのか。それに答えるには、人間の深層心理と表層心理のあり方、そして、自分自身の深層心理と表層心理の特徴を理解する必要がある。人間には、深層心理の思考と表層心理での思考という二種類の思考が存在する。深層心理の思考とは無意識の思考であり、表層心理での思考とは意識しながらの思考である。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考に気付いていない。深層心理の思考に対しては、無意識の行動というような、例外的な活動にしか認めていないのである。思考の中心は表層心理でのものだと思っているのであるのである。そして、自ら、主体的に、意識して、考えて、自らの意志で行動しながら暮らしていると思っているのである。それは、主体的に生きていたいと思っているからである。これを、深層心理の無の有化作用という。無の有化作用とは、実際に存在しないものやことが、深層心理の欲望が強過ぎると、存在しているように思い込むことである。そこに、大きな誤りが生じているのである。人間は、自らの欲望にとらわれ、自らを正確に見ず、自らの思考や行動に対して、過小な評価や過大な評価をして、いたずらに絶望したり、過ちを犯したりするのである。さて、人間は、自ら思考する前に、既に、思考している。人間は、自ら意識して思考する前に、既に、無意識のうちに思考しているのである。すなわち、人間は、表層心理で思考する前に、既に、深層心理で思考しているのである。しかし、無意識のうちに思考を始めても、すなわち、深層心理が思考を始めても、その思考の途中に、意識することがあれば、意識しての思考、すなわち、表層心理での思考だと思い込んでしまうのである。しかも、表層心理での思考は、常に、深層心理の結果を受けて始まるのであり、表層心理独自で思考することは無いのである。つまり、人間の意識しての思考は、無意識の思考を受けて始まるのである。しかも、人間は、自ら意識して思考して行動する前に、すなわち、表層心理で思考して行動する前に、既に、無意識のうちに思考して、すなわち、深層心理が思考して行動していることが多いのである。この深層心理の思考の行動が、所謂、無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンと言われ、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。表層心理で思考していないから、考え込むこと無く、行動がスムーズに行われるのである。しかし、人間は、無意識のうちに行動を始めても、その行動の途中に、意識すると、最初から意識して行動していたように思い込むのである。そして、人間は、自ら、主体的に、意識して、考えて、自らの意志で行動しながら暮らしていると思い込んでいるのである。しかし、人間は、常に、まず、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心理の下で、欲動によって、快感原則を満たそうとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのである。つまり、深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、自我の欲望を生み出し、人間は、その自我の欲望にとらわれて生きている。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言うのである。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。欲動によって、快感原則を満たそうとして、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間は、自らの深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望にとらわれて生きるのである。自我の欲望が、人間の生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して生み出していない自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が生み出しているから、やはり、その自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、逃れることができないのである。しかし、自我の欲望は、自らが表層心理で意識して思考して生み出していず、深層心理が人間の無意識のうちに快感原則に満たそうと思考して生み出しているから、自我の欲望には、恥知らずな欲望も存在するのである。しかし、ほとんど人は、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動しながら暮らしていると思っている。そして、もしも、自分が、主体的に行動できないとすれば、それは、他者からの妨害や束縛があるからだと思っている。そこで、他者からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れる。自由であれば、自分は、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自ら意識して思考して、自らの意志で行動することができると思い込んでいるのである。しかし、それは大きな誤解である。人間は主体的ではないのである。人間は、自由であっても、主体的になれないのである。なぜならば、人間は、常に、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きているからである。自我の欲望に動かされて生きている人間に対して、は主体的に思考し、主体的に生きているとは言えないのである。人間は、主体的に思考して自我の欲望を生み出しているのではなく、深層心理が思考して、自我の欲望を生み出しているから、誰しも、他者に、自らの欲望を全てを話すことができないのである。それには、二つの理由がある。一つの理由は、無意識の思考という深層心理が自我の欲望を生み出すから、人間は、表層心理で、その自我の欲望を意識しないこともあるのである。むしろ、人間は表層心理で意識することなく、深層心理が生み出した自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが、所謂、無意識の行動である。人間は、自らは気付いていないが、行動の多くが無意識の行動もしくは無意識で始まっている行動である。もう一つの理由は、深層心理が生み出す自我の欲望の中には、必ず、恥知らずな欲望が存在するからである。中には、恥知らずな欲望にまみれている人も存在する。深層心理は、快感原則を満たそうとして、自我の欲望を生み出すから、恥知らずな欲望が存在するのである。快感原則とは、ひたすら快楽を求める欲望であり、そこには、道徳観や社会規約は存在しないから、当然のごとく、深層心理は、自我の欲望として、恥知らずな欲望を生み出すこともあるのである。さて、人間は、常に、まず、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心理の下で、欲動によって、快感原則を満たそうとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのであるから、人間にとって、最も大切なものは自我である。言うまでもなく、自我の欲望は、常に、自我と深く関わっている。自我の欲望には、自我に関わりの無い、突拍子のない、野放図なものは存在しないい。それでは、自我とは何か。それは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。人間は、いついかなる時でも、ある自我を有して、ある構造体に所属し、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて生きているのである。次に、自我を主体に立てるとは何か。それは、深層心理が自我を中心に据えて、自我の行動について考えるということである。深層心理は、欲動によって、自我に対して快感原則を満たそうとして、すなわち、自我に快楽をもたらそうとして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。だから、人間は、自我が主体的に自らの行動を思考していないのである。そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。また、人間の主体的な思考、すなわち、人間の表層心理での思考は、深層心理の思考の結果を受けて始まるから、人間は、本質的に、主体的に思考できないのである。次に、快感原則とは何か。それは、スイスで活躍した心理学者のフロイトの用語であり、ひたすら、その時その場で、自我に快楽をもたらし、自我から不快を避けようという欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理の思考は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを、目的・目標としているのである。キリスト教で、悪事を犯したことや悪なる欲望を抱いたことがある者が、神の代理とされる司祭に、それ告白し、許しと償いの指定を求める懺悔という儀式がある。しかし、悪なる欲望を抱いただけで罪人であるなら、人間全員が懺悔しなければならなくなる。当然のごとく、司祭自身も、懺悔しなければならないことになる。なぜならば、深層心理は、快感原則を満たそうとして自我の欲望を生み出すので、全ての人間の自我の欲望には、必ず、悪なる欲望が存在するからである。次に、気分とは何か。それは、感情と同じく、心の状態を表す。気分は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、気分や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の気分や感情の状態の時には、深層心理は現在の状態を維持しようとし、不得意の気分や感情の状態の時には、現在の状態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。さらに、人間は自分を意識する時は、常に、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は気分や感情を意識しようと思って意識するのでは無く、ある気分やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、否応なく、気分や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する気分や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり」(私は全ての存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは自分が存在しているからである。だから、自分は確かに存在しているのである。)という論理で、自分の存在を確証したが、そのような回りくどい論理を使用せずとも、人間は自分の気分や感情で自分がこの世に存在していることを感じ取っているのである。そして、気分は、深層心理が自らの気分に飽きた時、そして、深層心理がある感情を生み出した時に、変化する。感情は、深層心理が、思考して、自我の欲望を生み出した時、行動の指令ととともに誕生する。だから、人間は、表層心理で、自ら意識して、自らの意志によって、気分も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。人間は、表層心理では、気分も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時などに、何もしていない自分の状態や何かをしている自分の状態を意識するのであるが、その時も、同時に、必ず、自分の心を覆っている気分や感情にも気付くのである。どのような状態にあろうと、気分や感情は掛け替えのない自分の存在を表しているのである。つまり、気分や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。そして、深層心理は、まっさらな状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではないのである。深層心理は、常に、ある気分の下にあり、ある行動の指令とともにある感情という自我の欲望を生み出しているのである。次に、欲動とは何か。それはは、感情を生み出し人間を行動へと駆り立てる、すなわち、深層心理に感情と行動という自我の欲望生み出させる内在的な欲望の集団である。欲動は深層心理に存在しているから、内在的な欲望と言うのである。欲動という欲望の集団が、深層心理を内部から突き動かしているのである。だから、欲動を欲望と同列に扱って構わないのである。フロイトは、欲動をリピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギーを挙げている。ユングは、リピドーとして、生命そのもののエネルギーを挙げている。しかし、フロイトが挙げているリピドーは狭小であり、ユングが挙げているリピドーは漠然としていて、曖昧である。両者とも、人間の全ての行動と感情の理由と意味を説明できないのである。実際には、欲動は、四つの欲望によって成り立っているのである。それは、第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。第三の欲望として、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者の共感化という作用である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。それが、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由と意味である。フロイトは、自我の欲望の暴走を抑圧するために、深層心理に、道徳観に基づき社会規約を守ろうという超自我の欲望、所謂、良心がが存在すると言うが、深層心理は、ルーティーンの生活を守るために、道徳観や社会規約を利用しているように思われる。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子も、仲間という構造体から追放されたくなく友人という自我を失いたくないから、自殺寸前までいじめの事実を隠し続けたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。次に、欲動の第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用があるが、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から生徒や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。深層心理は、傷心という感情とと不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出した。悪評価・低評価が傷心という感情の理由である。不登校・不出勤は、これ以上傷心せず、自宅で心を癒やそうという意味である。その後、人間は、表層心理で、理性で、現実原則に基づいて、傷心という感情の下で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令について意識して思考し、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのである。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望を満たそうという理由からである。だが、深層心理が生み出した傷心という感情が強いので、登校・出勤できないのである。そして、人間は、表層心理で、すなわち、理性で、不登校・不出勤を指令する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとするのだが、それも上手く行かずに、苦悩に陥るのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。そして、苦悩が強くなり、自らそれに堪えきれなくなり、加害者である同級生・教師や同僚や上司という他者を数年後襲撃したり、自殺したりするのである。つまり、同級生・教師や同僚や上司という他者の悪評価・低評価が苦悩の理由であり、襲撃や自殺は苦悩から脱出するという意味である。また、受験生が有名大学を目指すこと、少女がアイドルを目指すことの理由・意味も、自我が他者に認められたいという欲望を満足させることである。男性が身だしなみを整えるのも、女性が化粧をするのも、自我が他者に認められたいという欲望を満足させるために行っているのである。次に、欲動の第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用があるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。哲学的に言えば、対象の対自化とは、「有を無化する」(「人は自己の欲望を対象に投影する」)(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。)ことである。さらに、対象の対自化は、哲学的に言えば、「無を有化する」(「人は自己の欲望の心象化を存在化させる」)(人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)ことまで、深層心理は行う。これは、人間特有のものである。 人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むこと、いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めること、いずれもこの欲望によるものである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとすることがその理由・意味である。さて、自我の志向性や趣向性は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。志向性と趣向性は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性は観点・視点で冷静に捉え、趣向性は好みで感性として捉えていることである。さて、自我の対他化は自我が他者によって見られることならば、対象の対自化は自我の志向性や趣向性で他者・物・現象を見ることなのである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその理由である。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その理由・意味である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その理由・意味である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば快楽を得られることがその意味・理由である。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られることがその意味・理由である。さて、人間の最初の構造体は、家族であり、最初の自我は、男児もしくは女児である。フロイトが提唱した精神分析の思想に、エディプス・コンプレクスがある。それは、家族という構造体で、男児という自我を持った者は、深層心理が、母親という他者に対して、男性という好評価・高評価を受けて快楽を得ようとして、近親相姦的な愛情というエディプスの欲望を抱き、敵対者として、父親を憎むようになるが、父親や社会がそれに反対し、家族という構造体から追放される虞があるので、表層心理で、抑圧してしまう精神現象である。男児は、家族という構造体の中で、男児という自我を持ったから、深層心理がエディプスの欲望(母親に対する近親相姦的な愛情)という自我の欲望を生み出したのである。しかし、家族という構造体から追放される虞があるので、男児は、深層心理で、エディプスを抱いたのは一人の男性という自我を母親という他者から認めて欲しいという理由から起こしたのであるが、表層心理で、エディプスの欲望を抑圧した意味は、そうするすることによって、家族という構造体の中での男児の自我を守ることである。次に、欲動の第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望、すなわち、自我と他者の共感化の作用があるが、それは、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるという理由・意味があるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強いという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。「呉越同舟」は、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、その理由・意味があるのである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取ろうとして、仲が悪くなるのである。さて、人間の行動は、深層心理が欲動に基づいて快感原則を満たそうとして生み出し、指令しているから、全ての行動には理由と意味がある。しかし、人間は、常に、全ての行動の理由と意味を意識して行動しているわけではない。無意識の行動が存在するのである。なぜならば、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて快感原則を満たそうとして思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それが起点となって、人間は行動するからである。確かに、人間は、表層心理で、意識して行動することがある。また、人間は、表層心理で、意識して思考した後で行動することがある。しかし、それらは、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、それを受けて行われるのである。人間の表層心理での思考は、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて快感原則を満たそうとして思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、それを受けて行われるのである。深層心理が自我の欲望を生み出す前に、表層心理で、思考して、行動することは無いのである。しかしながら、人間は、全ての行動は、自ら表層心理で意識して、思考して、行っていると思い込んでいるから、行動している途中や行動した後で、時として、理痛や意味を理解せずに行動していることに気付き、驚くのである。また、人間の全ての感情にも理由と意味がある。それは、行動の指令と同様に、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて快感原則を満たそうとして思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すからである。しかし、行動と異なり、人間は、常に、自分の感情を意識している。しかし、人間は感情を意識しようと思って意識しているのでは無く、感情が人間を覆ってくるから、人間は自分の感情を意識せざるを得ないのである。しかし、感情の存在が、すなわち、自分が意識する感情が常に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。また、確かに、人間は、常に、自分の感情を意識するが、しかし、その理由と意味を全て理解しているわけではない。後にそれが理解されることもあり、後々までわからないこともある。なぜならば、これも、また、全ての感情は、全ての行動の指令と同様に、人間の無意識のうちに、深層心理が欲動に基づいて快感原則を満たそうとして思考して生みだしているからである。人間は、意識して、すなわち、表層心理で、思考して、決して、行動の指令と同様に、感情も生み出すことはできないのである。さて、なぜ、全ての行動と感情に理由と意味があるのか。それは、深層心理が、過去と現在を理由で繋ぎ、将来と現在を意味で繋いでいるからである。深層心理が、欲動に基づいて快感原則を満たそうとして思考して、過去の出来事によって現在の感情と行動の指令を生み出し、将来の目的によって現在の感情と行動の指令を生み出しているから、全ての行動と感情に理由と意味があるのである。つまり、深層心理が、欲動に基づいて思考して、過去の出来事、現在の感情と行動の指令、将来の目的を繋げているから、全ての行動と感情に理由と意味があるのである。この、深層心理による、過去、現在、将来という一連の創造を、ハイデッガーは、時熟と表現している。だから、時熟とは、客観的な時間系列ではなく、深層心理による創造の時間系列なのである。客観的な時間系列は、人間にとって、社会的な行動には有用であるが、個人的には、時熟が、身に迫ってくるのである。さて、人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、ある気分の下で、構造体の中で、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのであるが、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識して思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識して、思考して、行動する。すなわち、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考であり、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我という道徳観や社会規約を守るという欲望の良心がそれを抑圧できないのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。犯罪の多くはこの時に起こるのである。だから、人間は、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きていると言えるのである。それでは、人間に、何ができるのか。人間は、ただ、単に、深層心理が生み出す自我の欲望に操られて人生を終わらせるのか。それが、一人一人の人間に問いかけられているのである。自分に、何ができるのか。それに答えるには、自分自身の深層心理の特徴を理解する必要がある。深層心理は瞬間的に思考するから、思考の傾向は一定のはずである。だから、深層心理の思考のままの行動、すなわち、無意識の行動である、日常生活がルーティーンの繰り返しになるのである。もちろん、人間は、表層心理では、すなわち、意識しての思考そしてその結果である意志によって、深層心理を動かすことはできない。つまり、表層心理で深層心理を直接に動かすことはできない。しかし、表層心理による繰り返しの行動が深層心理を動かすのである。たとえば、悲観的に考えがちの人が存在する。悲観的な思考は深層心理の傾向である。もしも、自分の思考の傾向が悲観的であることに悩んでいたならば、無理に、楽観的に考えることである。表層心理で、すなわち、意識して意志で、楽観的に考えることである。それを繰り返し、それがルーティーンになれば、深層心理も楽観的に考えるようになるのである。もちろん、それは、一朝一夕では変化しない。何年も掛かることも珍しくない。しかし、繰り返し、ルーティーンになれば、必ず、深層心理が変化するのである。スポーツもそうである。私は、サッカーを長年やっている。サッカーには、地上のボールの蹴り方として、インステップ、インフロント、インサイド、アウトサイド、アウトフロントがある。誰しも、初心者の時には、これらの蹴り方を正確にできない。なぜならば、深層心理に、正しい蹴り方が存在しないからである。しかし、経験者に習い、表層心理で、意識して、正しい蹴り方をするように繰り返し練習しているうちに、深層心理に、正しい蹴り方が身に付くようになるのである。そして、意識しなくても、自然と、正しい蹴り方をするようになるのである。つまり、深層心理を変えるのは、表層心理で、長期間を掛けて、繰り返し行い、ルーティーンにするしか無いのである。しかし、自ら、表層心理で思考して行動しながら暮らしている、すなわち、主体的に、意識して、考えて、自らの意志で行動しながら暮らしていると思っている限り、深層心理の生み出す自我の欲望に操られて生きるしかないのである。そして、自らの表層心理での思考や行動に対して、過小な評価や過大な評価をして、いたずらに絶望したり、過ちを犯したりするのである。




人生とは、与えられ、逃れられない、死を賭けたゲームである。(自我その370)

2020-06-18 13:09:26 | 思想
人間は、誰しも、自分で選択して生まれてきたのではない。気が付いたら、そこに存在しているのである。人間には、誰一人として、誕生するか否かの選択権は与えられていないのである。つまり、生の自由は存在しないのである。しかし、それでも、人間は、確かに、誕生の選択権、すなわち、生の選択権は有していないが、自分の意志で人生を終わらせられる権利、すなわち、死の選択権は有しているように思われる。つまり、死の自由が存在しているように思われる。しかし、肉体はどんな状況においても生きようとしているのに、精神が死を選択するのはあまりに残酷な仕打ちである。つまり、人間は、自分の意志に関わりなく生を与えられのだが、どんな状況においても生き続ける肉体の意志を有しているのである。しかし、人間の中には、自殺によって、人生を終わらせる人が数多く存在する。それは、自分の生きている状況が苦しいから、自殺を選択したのである。つまり、自殺を選択させられたのである。自らの状況が、自らを死に追いやったのである。ところが、先日、驚いたことに、あるテレビ番組で、大変戦争下の特攻隊が話題になると、「若者たちは、家族を守るために、特攻を志願した。」とコメンテーターが解説するのである。思わず、いつまでこのような小学生レベルの幼稚なことを言っているのだろうと呟いてしまった。海軍・陸軍の指導者たちは、太平洋戦争が負け戦だとわかった段階でも、国体護持(天皇制の維持)をアメリカ(連合国側)に認めてもらうまで戦いを引き延ばそうとし、自分たちの敗戦の責任を回避するための策を練るために、降服を延ばそうとしていたのである。さらに、若者を特攻死させたにとどまらず、一億総玉砕とか本土決戦などと叫んで、国民を皆殺しにする作戦まで導入しようとしていたのである。若者たちは、特攻を志願したのではない。志願させられたのである。特攻とは、自殺である。しかし、若者の肉体は常に生きようとしているのに、精神が、敢えて、それに背いてまで、特攻死という自殺を選んだのは、上官に脅され、「君たちの後に私も続くから。」とだまされたからである。若者の後に続いた上官は、ほんの数名である。若者たちは、臆病者という汚名を受けたくなかったから、家族に恥をかかせたくなかったから、特攻を選択せざるを得なかったのである。つまり、海軍・陸軍の指導者たち・上官たちが、若者を死に追いやったのである。さて、確かに、人間は、偶然に、生まれてくる。しかし、必然として生きるしか無いのである。しかし、偶然に生まれてきているから、当然のごとく、存在の不安、不条理を感じることもある。それが描かれているのが、『パンセ』であり、『河童』である。パスカルの『パンセ』という瞑想録に、「私はあそこにいず、ここにいるのを見て、恐れ、驚く。というのは、なぜあそこにいずここにいるのか、あの時にいず今この時にいるのか、全然その理由が無いからである。」という一節がある。確かに、我々が、この時間、この空間にいることに必然性はない。自分が選んだことでもなく、誰かに指図されてわけでもない。気がついたら、そこにいたのである。そこに、恐怖、驚愕を覚えるのは、当然のことである。しかし、そもそも、必然性の無さは、誕生から始まっているのである。芥川龍之介の『河童』という小説には、河童の世界ではお腹の子供に「生まれてきたいか。」と誕生の意志を尋ねるように描かれている。河童は誕生の選択したものが生まれてきているから、河童に誕生の責任はある。しかし、我々は、誰も、自らの誕生を選択していない。母親にしても、どのような子供が生まれてくるかわからないから、母親の選択でもなく、責任でもない。そこに、生物学の見地から、精子と卵子の結合、すなわち、受精ということを問題視しても、いたずらに混乱するばかりで、何ら解決にならない。神の意志ということにすれば、自分が選ばれた人間のように思え、満足できるかも知れない。確かに、パスカルは、熱心なカソリック教徒であったから、自らの鋭い問いかけに対して、最終的には、神が答えてくれるだろう。しかし、ニーチェの言うように「神が死んだ」世界に生きている人間には、詭弁のように思えてくる。しかも、死も、人間が選択していないのに、必ず、訪れる。死は、突然にかつ偶然に訪れる。死は必然的だが、人間の意志にかかわらず、突然にかつ偶然に訪れる。確かに、自殺という死の選択の行為はある。しかし、それは、人生の中での絶望ということが原因であり、誰しも望まないことが動機であるから、それは、選択とは言えない。そもそも、人間には、先天的に、死への不安が与えられており、生きていくことが宿命づけられている。それでも、自殺という死の選択をしたのは、人生の中での絶望が、死への不安を忘れさせたからである。だから、自殺は、死への不安を克服したのではない。死への不安をすり抜けたのである。自殺は、単に、人生の状況に対する敗北でしかないのである。つまり、自殺は、人生の敗北なのである。宮本顕治が芥川龍之介の自殺を「敗北の文学」と評したのは、正しい。しかし、それは、芥川龍之介だけではない。自殺は、全て、人生に敗北したことが原因なのである。畢竟、人間は、人生と戦っても勝利しないのである。なぜならば、人生は、自分の選択によるものだけでなく、与えられたものだからである。人間は、偶然に誕生し、偶然に突然にそして必然的に死を迎えるのだが、その間を、生き抜くしか無いのである。中島敦の小説『山月記』で、主人公の李徴が、「全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押し付けられたものを大人しく受け取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。」と呟いている。まさしく、人間には、押し付けられた人生を生きるしかないのである。さて、人間には、誰一人として、誕生するか否かの選択権は与えられていないだけでなく、男子として生まれてくるか女子で生まれてくるかという選択権も与えられていないのである。さらに、子には、宿る母親の選択権が与えられていないばかりか、父親の選択権も家族の選択権も与えられていないのである。人間は、誕生するやいなや、息子もしくは娘という自我を持たされ、家族という構造体で生きるしかないのである。人間の最初の構造体が家族であり、最初の自我が息子もしくは娘であるが、一生、いついかなる時でも、ある構造体の中で、ある自我を持って生きていくしかないのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動しているのである。具体的には、構造体と自我の関係は、次のようになる。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があり、日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があるのである。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属しているから、常に、他者との関わりがある。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、行動するのである。心理学者のフロムは、『自由からの逃走』という著書の中で、「個人の同一性は、デカルト以来、近代哲学の主要な問題であった。こんにちでは、我々は、当然のこととして、自分は自分であると考えている。しかも、なお、自分自身についての懐疑は存在し、更に、増大しさえした。私は、誰であろうか。私の肉体的自我の持続のほかに、私自身の同一性を保証してくれるものはあるであろうか。その答えは、個人的自我の確証というデカルトの確証とは異なり、その否定である。すなわち、私は何の同一性も持たない。他者が私にそうあるように期待していることの反射に過ぎないような自我以外に、自我などは存在しない。私は『あなたが望むままのもの』である。この同一性の喪失の結果。いっそう、順応することが強制されるようになる。それは、人間は他者の期待に従って行動する時にのみ、自我を確信できるということを意味する。もし、我々がこのような事情に従って行動しないならば、我々は単に非難と増大する孤独の危険を冒すだけでなく、我々のパーソナリティの同一性を喪失する危険を冒すことになる。そして、それは狂気に陥ることを意味するのである。」と述べている。つまり、人間は、主体的な判断などしていないのである。他者の介入が有ろうと無かろうと、主体的な判断ができないのである。人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。心理学者のラカンも、「人は他者の欲望を欲望する。」と言う。この言葉は、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、他者の期待に応えたいと思う。」という意味である。それでは、なぜ、人間は、主体的な判断ができないのか。なぜ、主体的な判断が存在しないのか。それは、人間は、いついかなる時でも、常に、構造体に所属し、構造体内で、自我として生きていて、深層心理が、欲動によって、その人を動かしているからである。欲動は、自我の保身化、自我の対他化、対象の対自化、自我と他者の共感化という欲望から形成され、フロムもラカンも、自我の対他化の欲望を説明しているのである。深層心理とは、人間の無意識の心の働きである。つまり、人間は、無意識という深層心理の働きによって動かされているのである。人間には、深層心理の思考と表層心理での思考という二種類の思考が存在するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考であり、その思考の結果が意志である。人間の心の中で、最初に動き出すのは、深層心理である。人間の無意識のうちに、深層心理が思考するのである。人間は、まず、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満たすように思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。ラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言うのである。深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。人間は、自らの深層心理が論理的に思考して生み出した欲望に捕らわれて生きるのである。欲望が、人間が生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが生み出していない欲望によって生きているのである。しかし、自らが生み出していなくても、自らの深層心理が生み出しているから、やはり、その欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、逃れることができないのである。しかし、自らが生み出していないから、恥知らずな欲望も湧いてくるのである。しかし、ほとんど人は、深層心理が欲望を生み出していることに気付いていない。欲望はその人自らが意識して思考して生み出していると考えている。人間の意識しての思考は、表層心理と言われている。ほとんどの人は、人間は表層心理で思考して欲望を生み出していると思っている。ほとんどの人は、自ら意識して思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らない。深層心理の思考に気付いていない。だから、ほとんどの人は、主体的に、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら暮らしていると思っている。そして、もしも、自分が、主体的に行動できないとすれば、それは、他者からの妨害や束縛があるからだと思っている。そこで、他者からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れる。自由であれば、自分は、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自ら意識して思考して、自らの意志で行動することができると思い込んでいるのである。しかし、それは大きな誤解である。人間は主体的ではないのである。人間は、自由であっても、主体的になれないのである。なぜならば、人間は、常に、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きているからである。自我の欲望に動かされて生きている人間は主体的に思考し、主体的に生きているとは言えないのである。人間は、主体的に思考して欲望を生み出しているのではなく、深層心理が思考して、欲望を生み出しているから、誰しも、他者に、自らの欲望を全てを話すことができないのである。欲望の中には、必ず、恥知らずな欲望が存在するからである。中には、恥知らずな欲望にまみれている人も存在するのである。
さて、自我を主体に立てるとは、何か。それは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。次に、欲動とは、何か。それは、深層心理に感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出させ、人間を行動へと駆り立てる、深層心理に内在している欲望の集団なのである。フロイトは、欲動をリピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギー、すなわち、性欲を挙げている。しかし、フロイトが挙げているリピドとしての性欲だけでは、欲動は狭小であり、人間の全ての感情と全ての行動と感情の理由と意味を説明できないのである。欲動は、自我の保身化、自我の対他化、対象の対自化、自我と他者の共感化という欲望から形成されていると考えると、人間の全ての感情と全ての行動と感情の理由と意味を説明できるのである。次に、快感原則とは、何か。それは、フロイトの用語であり、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。そこには、道徳観や社会規約は存在しない。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。さて、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、それを受けた行動には二種類存在する。一つは、人間は、表層心理で思考すること無く、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するのである。所謂、無意識の行動である。ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、毎日同じようなことを繰り返すというルーティーンという現象を作り出している。毎日同じようなことを繰り返すのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動して良いからである。換言すれば、表層心理で意識して思考することが起こっていないということなのである。フロイトは、深層心理には、道徳観や社会規約を守ろうという超自我という欲望も存在すると言うが、もしも、その欲望が働くならば、日常生活がルーティーンになることに寄与していることになる。超自我は、日常生活がルーティーンになるために存在するのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。もう一つは、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒絶するかについて、現実原則に基づいて、意識して思考して、行動しようとするのである。深層心理は、快感原則によって、過ちを犯すような行動の指令を生み出すこともあるので、表層心理で思考する必要があるのである。現実原則も、フロイトの用語であり、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらそうとする欲望である。表層心理での思考の結果が意志による行動である。人間は、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れることを決定すれば、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動する。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れることを拒絶することを決定し、意志によって、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧したならば、表層心理で、深層心理が納得するような別の行動を考え出さなければならなくなるのである。それが、なかなか考え出せない状態が苦悩である。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒絶することを決定し、意志によって行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。つまり、人間の思考も行動も、主体は深層心理にあるのである。さて、深層心理は欲動によって動かされているのであるが、欲動には、第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。いずれも、自我を存続・発展せたいという第一の欲望、自我の保身化から来ている。次に、欲動には、第二の欲望として、フロムやラカンが重要視した、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。それは、深層心理が、自我が他者に認められることによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我の対他化とは、言い換えると、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。他者に認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、認められれば、評価されれば、好かれれば、愛されれば、信頼されれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。受験生が勉強するのは、所謂名門大学に合格し、教師や同級生や親から褒められ、世間から賞賛を浴びたいからである。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。次に、欲動には、第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。それは、哲学用語で言えば、有の無化作用である。深層心理が、他者や物や現象という対象を自我で支配することによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。深層心理が、自我を主体に立てて、他者という対象を自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で支配すること、物という対象を自我の志向性や趣向性で利用すること、現象という対象を自我の志向性や趣向性で捉えることなのである。すなわち、他者の対自化とは、自我の力を発揮し、他者たちを思うように動かし、他者たちのリーダーとなることなのである。その目標達成のために、日々、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接している。物の対自化とは、自分の目的のために、対象の物を利用することである。現象の対自化とは、自分の志向性でや趣向性で、現象を捉え、理解し、支配下に置くことである。対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、物という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、現象という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で捉えている。国会議員は総理大臣になってこの国を支配したいのである。教諭は校長になって学校を支配したいのである。社員は社長になって会社を支配したいのである。人間は樹木やレンガを建築材料として利用するのである。科学者は自然を対象として捉え、支配しようとするのである。また、人間は、自分の志向性や自分の趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造する。それが、「人は自己の心象を存在化させる」、哲学用語で言えば、無の有化という作用である。人間はは、この世に神が存在しなければ生きていけないと思ったから、神を創造したのである。さて、志向性や趣向性は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。しかし、志向性(観点・視点)と趣向性(好み)は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性は冷静に捉え、趣向性は感情的に捉えていることである。右翼・保守系の大衆は、愛国心を金科玉条にして、安倍首相を趣向性で捉えている、すなわち、好みで捉えているから、安倍首相が悪行をどれだけ悪行を重ねても、安倍政権を支持するのである。また、自我による対象の対自化は、挫折しても、深層心理が、自らを精神疾患をするまでに苦悩しないのである。なぜならば、挫折しても、深層心理は、無の有化作用、すなわち、「人は自己の心象を存在化させる」ことによって、空想、妄想を生み出し、乗り越えていくからである。むしろ、自我による対象の対自化にこそ、人間の生きる希望が見出されるのである。さて、対象の対自化を徹底した思想が、ドイツの哲学者のニーチェの言う「権力への意志」である。しかし、人間、誰しも、常に、対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、誰かの反対にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。だから、フランスの哲学者のサルトルは、「対自化とは、見るということであり、勝者の態度だ。見られることより見ることの方が大切なのだ。」と言い、死ぬまで戦うことを有言実行したが、一般には、その態度を貫く「権力への意志」の保持者はまれなのである。誰しも、サルトルの言葉は理解するが、それを貫くことは難しいのである。また、大衆は、他者という対象を、無意識のうちに、自分の趣向性(好み)で捉えることが多い。だから、大衆の行動は、常に、感情的なのである。最後に、欲動には、第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者の共感化という作用である。それは、深層心理が、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我と他者の共感化とは、自我の存在を確かにし、自我の存在を高めるために、他者と理解し合い、心を交流し、愛し合い、協力し合うのである。人間は、仲間という構造体を作って、友人という他者と理解し合い、心を交流し、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合い、労働組合という構造体に入って、協力し合うのである。年齢を問わず、人間は愛し合って、カップルや夫婦という構造体を作り、恋人や夫・妻という自我を持つが、相手が別れを告げ、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、深層心理の敏感な人ほど、ストーカーになって、相手に嫌がらせをしたり、付きまとったりするのである。それは、カップルや夫婦という構造体が壊れ、恋人や夫・妻という自我を失うことの苦悩から起こすのである。ドイツの詩人ヘルダーリンは、愛するゼゼッテが亡くなったので、深層心理が、この苦悩から脱出するために、自らを、精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにしたのである。また、敵と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の志向性である。政治権力者は、敵対国を作って、大衆の支持を得ようとするのである。安倍晋三首相は、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆の支持を集めているのである。さて、心理には、深層心理と表層心理が存在するように、肉体にも、深層肉体と表層肉体が存在する。表層肉体は、挙手する、ボールを投げる、深呼吸する、速く走るなど、表層心理に動かされる肉体の動きである。深層肉体とは、深層心理や深層心理によらず、ひたすら生きようと意志を持った肉体の動きである。深層肉体が存在するから、人間は、生きていけるのである。しかし、それは、自分が意識して生み出している意志ではなく、言わば、肉体そのものに、生来、備わっている意志である。この、自らが意識する前に、既に、生きる意志を持って存在している肉体を深層肉体と言うのである。聖書に「人はパンのみにて生くるものにあらず。」とあるが、パンを求めているのが深層肉体であり、パン以外のものを求めているのが深層心理や表層心理である。それ故に、深層肉体は、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという意志を持っていると言えるのである。それ故に、深層肉体の意志は、単純明快なのである。人間に、自殺する人が存在するが、それは、もちろん、深層肉体の意志ではない。深層肉体の意志とは、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志であるからである。もちろん、自殺するにはそれなりの理由があろうが、しかし、深層肉体の意志を無視して、自らの手で自らの肉体を破壊するほど愚かなことは、この世に存在しない。詩人の石原吉郎は、シベリア抑留を経験し、劣悪な環境を生きのびて、「人間は、どんな環境にもなじむものだ。」と言っている。これが、深層肉体の意志である。作家の武田泰淳は、太平洋戦中、中国大陸で、日本の軍人たちが、中国の庶民に対して、略奪、拷問、レイプ、虐殺を繰り返しているのを目の当たりにし、彼らが、戦後、帰国すると、何の良心の咎めなしに、のうのうと暮らしているのを見て、「人間は、何をしても生きていくものだ。」と言っている。これが、深層肉体の意志である。作家の大岡昇平は、太平洋戦争前、中、後の日本の軍人たちや庶民の生き方を見て、「ずるい人間は、どんな環境においても、ずるく生きのびるものだ。」と言っている。これが、深層肉体の意志である。また、深層肉体は、肉体に損傷・損壊箇所があると、本人(肉体保持者)に肉体的な苦痛を与え、深層心理は肉体のその部分に損傷・損壊があることに気付き、表層心理にその損傷・損壊部分の治療方法と今後の対策を考えさせるのである。表層心理の思考は、苦痛から始まり苦痛の消滅で終了する。例えば、指の怪我であるであるが、時系列で言えば、指に怪我したからこそ苦痛があるのであるが、本人(肉体保持者)は、最初に指に苦痛を感じ、それによって、指の怪我に気付くのである。つまり、深層肉体が、指に苦痛を生み出すからこそ、本人(肉体保持者)の深層心理は、指に着目し、出血している指を発見し、表層心理が、その指の苦痛から解放されようとして治療に専念し、次に、二度とこの苦痛を味わうことの無いように、これからは慎重に包丁を扱おうというように、今後の対策を講ずるのである。つまり、指の怪我に限らず、深層肉体が、苦痛を生み出すからこそ、本人(肉体保持者)の深層心理は、その部分が損傷・損壊していることに気付き、表層心理が、その苦痛から解放されるために、その損傷・損壊部分を治すための方法を考え出そうとするのである。苦痛があるからこそ、人間は、損傷・損壊の原因を考え、二度と同じ過ちを犯さないように対策を講ずるのである。それ故に、苦痛からの解放が、損傷・損壊箇所の治療と対策の終了をも意味するのである。もちろん、苦痛が無くなっても、損傷・損壊箇所が十分に治癒していない場合もあるが、それでも、たいていの場合、このまま放置していても、自然に治癒する段階に来ているのである。深層肉体が、このまま放置していても、自然に治癒する段階に来ていると判断したから、苦痛を送らないのである。だから、もしも、苦痛が無ければ、人間は、ほとんどの場合、肉体に損傷・損壊があってもそれに気付かないのである。もちろん、表層心理で、治療やその後の対策を考慮するはずも無い。だから、肉体が損傷・損壊したならば、苦痛は必要なのである。逆に、人間は、どこにも、苦痛が無ければ、どこにも、肉体の損傷・損壊箇所は無いと判断しているのである。深層肉体の意志は、人間が生きのびるためには、必要不可欠なのである。深層肉体は、肉体に損傷・損壊箇所があると、本人(肉体保持者)に肉体的な苦痛を与え、深層心理は肉体のその部分に損傷・損壊があることに気付き、表層心理がその損傷・損壊部分の治療方法と今後の対策を考えるのであるが、深層心理も、精神に損傷があると、精神的な苦痛を覚え、感情と行動の指令を生み出し、表層心理が、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が出した行動の指令をそのまま実行するか、行動の指令を抑圧して別の行動を取るか考えるのである。ここでも、表層心理の思考は、苦痛から始まり苦痛の消滅で終了する。さて、精神の損傷とは対他存在の損傷のことである。対他存在の損傷とは、簡単に言えば、プライドの損傷である。対他存在とは、人間が、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、他者が自分がどのように見ているか気にしながら、暮らしているあり方である。対他存在の損傷、つまり、プライドの損傷は、他者からの評価が悪評価・低評価の時、起こるのである。その時、精神的に苦痛を感じ、その苦痛から脱するために、深層心理の思考が始まり、そして、それを受けて、表層心理が思考するのである。このように、人間は、肉体的にも精神的にも、苦痛から、その損傷・損壊、その原因に気付き、苦痛から解放されようとして、思考するのである。つまり、肉体的な損傷・損傷も精神的な損傷も、その発見も治療も、苦痛を感じることが起点であり、苦痛が無くなることが最終地点なのである。つまり、苦痛の有無が、損傷の治癒のバロメーターになっているのである。それ故に、苦痛が人間のの思考の源になっているのである。