あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、誰しも、深層心理によって、反社会的な自我の欲望を抱くことがある。(自我その526)

2021-09-27 16:45:50 | 思想
人間は、誰しも、意志無く生まれている。つまり、偶然に、誕生している。人間は、気が付いたら、そこに存在しているのである。つまり、人間は、誰一人として、自らの意志によって生まれてきていないのに、生きているのである。しかし、それは、生きる意味、生きる目的が存在していないということを意味していない。人間は、生きる意味、生きる目的を有せずして、生きることはできない。つまり、人間には、自ら意識していないが、生きる意味、生きる目的が存在しているのである。すなわち、人間は、生きる意味、生きる目的を自ら意識していなくても、生きていけるのである。それは、先天的に、人間には、生きる意味、生きる目的が与えられているからである。人間の先天的な生きる意味、生きる目的とはひたすら生き続けようとすることである。人間は、先天的に、ひたすら生き続けようとするによって、生かされているのである。人間のひたすら生き続けようとする無意識の意志は深層肉体の意志によって生み出されている。深層肉体とは、人間の無意識の肉体の活動である。つまり、人間は、無意識のうちに、深層肉体の意志によって、ひたすら生き続けようとするのである。そして、人間は、動物を脱して、人間界に入ること、すなわち、自我を持つことによって、ひたすら生き続けようとす深層肉体の意志に加えて、快感原則に基づいて生きようとする深層心理による無意識の意志を持つようになるのである。深層心理とは、人間の無意識の精神の活動である。人間は、無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則に基づいて、他者・物・現象などの外部に反応して、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、他者・物・現象などの外部に反応しながら、行動しているのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったポジションが与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、他者と・物・現象などの外部と関わりながら、暮らしているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・男児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・女児などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って行動しているのである。だから、人間は自分にこだわって生きているが、自分とは、自らを他者や他人と区別している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、同じ構造体の人々である。他人とは、別の構造体の人々である。すなわち、自分とは、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と区別しているあり方に過ぎないのである。だから、人間には、自分そのものは存在しないのである。人間には、自分そのものは存在せず、別の構造体に入れば、別の自我になるだけなのである。だから、人間は、自我が持つ能力を有して生まれてくるが、自我を有して生まれていないのである。人間は、カオスの状態で、動物として生まれてくるのである。人間は、無意識のうちに、深層肉体の意志によって、ひたすら生き続けようとするのである。しかし、人間は、カオスの状態では不安だから、コスモスの状態を求め、構造体に所属し、自我を持つようにできているのである。人間は、構造体に所属し、自我を有して、初めて、人間としての思考が生まれ、人間として行動できるようになるのである。すなわち、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則に基づいて、他者・物・現象などの外部に反応して、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我となった人間を動かそうとするのである。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。快感原則とは、端的に言えば、快楽を求める欲望である。快感原則は、オーストリアの心理学者のフロイトの定義であり、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。もちろん、人間が快楽を得るということは自我が快楽を得るということであり、深層心理が快楽を得るということである。だから、深層心理にとって、自らが快楽を得るために、自我を主体に立てる必要があるのである。それでは、深層心理は、自我はどのような時に快楽を得ることができるのか。それは、欲動にかなった時である。だから、深層心理は、欲動に従って思考するのである。欲動には、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、人間は、悪事を犯しても、快楽を得ることがあるのである。そこに、人間の存在の問題の原点が存在するのである。さて、欲動とは、深層心理に内在し、深層心理の思考を動かす、四つの欲望である。深層心理は、この四つの欲望のいずれかを使って、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者の共感化という作用である。人間は、無意識のうちに、深層心理が、自我を確保・存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて、他者・物・現象などの外部に反応して、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。まず、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望についてあるが、これは、自我の保身化という作用をし、ほとんどの人の日常生活を、無意識の行動によって成り立たせているのである。毎日が同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、人間は、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むと言っても、毎日が、必ずしも、平穏ではない。些細な問題が起こる。たとえば、会社という構造体で、会社員が上司から営業成績が悪いと叱責を受けると、深層心理は、傷心から怒りの感情を生み出すとともに反論しろという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を唆す。しかし、超自我がルーティーンを守るために、反論しろという行動の指令を抑圧しようとする。超自我も、また、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望から発しているのである。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、意識して、思考して、将来のことを考え、自我を抑圧しようとするのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。現実原則も、フロイトの思想であり、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望である。そして、会社員は、表層心理で、現実原則に基づいて、意識して、思考して、将来のことを考え、謝罪して、ルーティーンの生活を続けようとするのである。このように、日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、その時その場での快楽を求める欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちである。その時、深層心理の超自我がルーティーンを守るために、自我の欲望を抑えようとする。しかし、深層心理が生み出した感情が強い場合、抑えきれないのである。そして、超自我が自我の欲望を抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求める現実原則に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が思考して生み出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した傷心・怒りの感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した傷心・怒りの感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。強い傷心の感情は、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。強い怒りの感情が、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。そして、それが国という構造体同士の争いになれば、戦争になるのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、誰しも、愛国心を持っているのである。それは、国という構造体に所属し、国民という自我を持っているからである。かつて、よく、愛国心の有無、強弱に関するアンケートがあった。日本人の愛国心についての状況を知りたいがためである。しかし、それは全く無意味である。誰でも愛国心は存在するからである。確かに、日本が嫌いだという人がいる。しかし、それは、自分の理想とする日本と現在の日本が違っていると思うからであり、決して、愛国心が存在しないわけではない。愛国心は、日本人だけでなく、全世界の人々に共有されている。なぜならば、全世界の人々が、いずれかの国に所属し、国民という自我を持っているからである。愛国心とは、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている者の、深層心理が思考して生み出す自我の欲望だからである。それは、郷土という構造体に所属しているから愛郷心を、家族という構造体に所属しているから家族愛を、会社というという構造体に所属しているから愛社精神を、学校という構造体に所属しているから愛校心を、カップルという構造体に所属しているから恋愛感情を、仲間という構造体に所属しているから友情を、宗教団体という構造体に所属しているから信仰心を抱くのと同じである。それらも、皆、深層心理が思考して生み出す自我の欲望である。さて、「子供は正直である。」と言われる。この言葉の真意は、大人は嘘をつくことがあるから言ったことの全部を信用することはできないが、子供は嘘を言わないから言ったことの全部を信用できるということである。言うまでもなく、子供に対して好意的な言葉である。しかし、「子供は正直である。」からこそ、些細なことで喧嘩するのである。相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、簡単に喧嘩が始まるのである。子供は、お互いに、相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、喧嘩が絶えないのである。自分の権利だけを主張することは、自我の欲望に忠実であるということである。子供は、子供としての自我の欲望に忠実なのである。つまり、愛国心の発露も幼児の行為なのである。子供は正直だと言う。それと、同様に、愛国心の発露も正直な心情の吐露である。しかし、それは、後先を考えない、幼児の行為である。日本人の愛国主義者と中国の愛国主義者の争い、日本人の愛国主義者と韓国の愛国主義者の争いは、幼児の争いである。幼児の悪行は大人が止めることができる。しかし、日本、中国、韓国の政治権力者は、それを止めるどころか、むしろ、たきつけている。彼らもまた幼児的な思考をしているからである。それ故に、愛国心による争いは収まる気配は一向になく、むしろ拡大しているのである。為政者、国民、共々、愛国心から発する自我の欲望に従順である限り、収まらないのである。また、小学校・中学校・高校という構造体で起こるいじめによる自殺も、自我の欲望に忠実であることの悲劇、惨劇である。なぜ、いじめられていた生徒、親に訴えなかったのか。それは、そうすることで、いじめっ子たちは罰せられるかも知れないが、自分は、仲間という構造体から追放され、学校という構造体やクラスという構造体に居場所を無くすからである。それを彼は最も恐れたのである。自殺するのは、いじめという屈辱から解放され、いじめっ子たちは罰せられるからである。自殺すれば、仲間という構造体から追放され、学校という構造体やクラスという構造体に居場所が無くすという不安を味わわないで済むのである。それでは、なぜ、いじめっ子たちは、いじめという非人間的な行為を行ったのか。それは、いじめっ子たちの深層心理にとって、いじめは楽しいからである。小学生・中学生・高校生が、仲間という構造体で、一人の人をいじめるのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、連帯感という快楽が得られるからである。また、嫌いな人間や弱い人間をいじめると、人間は、快感を覚えるのである。なぜならば、人間にとって、嫌いな人間の嫌いな部分とは、自分自身も身に付ける可能性がある、忌避したい部分であるからである。だから、いじめっ子たちは、自らが持つかも知れない嫌いな部分や弱い部分を持っている同級生を仲間という構造体でいじめることで、それを支配したと思えるから、快楽を覚えるのである。それでは、なぜ、いじめを見ていた周囲の中学生たち注意することも無く、教師に訴えることをしなかったのか。そうすれば、自分が、次に、いじめっ子たちのいじめのターゲットになる可能性があるからである。大人たちが現れ、いじめっ子たちを罰するということがわかった時に、安心して、いじめの事実を話すのである。次に、自我が他者に認められたいという欲動の第二の欲望についてであるが、これは、自我の対他化の作用をし、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとしているのである。人間は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。そのために、深層心理が、怒りという感情と復讐という行動の指令という自我の欲望を生み出すことがあるのである。男子高校生は、同級生から馬鹿だと言われると、思わず、拳を握りしめることがあるのである。人間は、常に、深層心理が、自我が他者から認められるように生きているから、自分の立場を下位に落とした相手に対して、怒りの感情と復讐の行動の指令を生み出し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせるように、自我を唆すのである。しかし、深層心理の超自我のルーティーンを守ろうという思考と表層心理での現実原則の思考が、復讐を抑圧するのである。しかし、怒りの感情が強過ぎると、深層心理の超自我も表層心理での思考が功を奏さず、復讐に走ってしまうのである。そうして、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。人間は、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすとわかっていても、深層心理が生み出した感情が、深層心理の超自我も表層心理での思考を圧倒し、深層心理が生み出した行動の指令のままに、自我が動かされることがあるのである。人間の表層心理での思考、すなわち、理性には限界があるのである。ここにも、人間の存在の問題の原点があるのである。次に、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲動の第三欲望についてであるが、これは、対象の対自化の作用をし、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとする。対象の対自化は自我の志向性(観点・視点)で他者・物・現象を見ることなのである。その一つは、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。)という一文で表現することができる。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を思うように動かすことことができれば、深層心理は、喜び・満足感という快楽が得られるのである。校長の快楽は、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を支配しているという満足感である。社長の快楽は、会社という構造体の中で、会社員という他者を支配しているという満足感である。さらに、わがままも、他者を対自化しようという欲望から起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できることが物を支配しているということなのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えるということが現象を支配していることなのである。カントは理性という志向性で、ヘーゲルは弁証法という志向性で、マルクスはプロレタリア革命という志向性で、ハイデッガーは存在論という志向性で、フロイトは無意識という志向性で、現象を支配しようとしたのである。さらに、対象の対自化の欲望が強まると、深層心理の対象の対自化の作用には、無の有化と有の無化という機能が生まれてくる。無の有化は、「人は自己の欲望を心象化する」という一文で言い表すことができる。それは、「人間は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。」である。人間は、自らの存在が不安だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子は自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子に求めるのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。有の無化は、「人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込む。」ことである。犯罪者は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、服役しているうちに、犯罪を起こしていないと思い込んでしまうのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするためにあるのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合って、信頼できる構造体を作ることにあるのである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じ、自我の存在が確認できるからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという目的であり、表層心理で、抑圧しようとしても、抑圧できなかったのは、屈辱感が強過ぎたからである。つまり、ストーカーになる原因は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるからである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。二人が仲が悪くても、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れると、二人は協力して、立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。さて、人間は、ルーティーン通りの行動を行っている間は、深層心理が生み出した自我の欲望のままに行動するのである。しかし、深層心理が怒りなどの過激な感情とともに侮辱しろ・殴れなどのルーティーンから外れた過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できなかった場合、人間は、表層心理で、自我に利得を得ようという現実原則の視点から、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考するのである。それでは、なぜ、深層心理が過激な感情とルーティーンから外れた過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できなかった場合、人間は、表層心理で、自我の存在を意識して、現実原則の視点から、思考するのか。それは、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時に、自らの存在を意識するのは、他者の存在は脅威だからである。だから、人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自らの行動や思考を意識することである。そして、自らの存在を意識すると同時に、思考が始まるのである。それが、表層心理理での思考である。さらに、無我夢中で行動していて、突然、自らの存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識することがあるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じた時、表層心理で、自らの存在を意識して、現実原則の視点から、思考するのである。ニーチェは「意志は意志できない」という。同じように、思考も意志できないのである。深層心理の思考が人間の意志によって行われないように、表層心理の思考も人間の意志によって行われないのである。人間が自らの存在を意識すると同時に、表層心理での現実原則に基づいての思考が始まるのである。心境は、感情と同じく、情態(心の状態)を表す。深層心理は、常に、ある心境や感情の下にある。つまり、深層心理は、まっさらな情態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境や感情の下で思考するのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する深層心理の情態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、深層心理が行動の指令とともに突発的に生みだす情態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の情態にあるか不得意の情態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境の情態の時には、深層心理は現在の情態を維持しようとし、不得意心境の情態の時には、現在の情態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。さらに、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。人間は、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分に意識する心境や感情が存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在してからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろなものやことの存在を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分、他者・物・現象などの外部がそこに存在していることを前提にして、思考し、活動をしているのであるから、自分の存在、他者・物・現象などの外部の存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分、他者・物・現象などの外部の存在が証明できるから、自分、他者・物・現象などの外部が存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、それらのもの存在を前提にして、思考し、活動しているのである。人間は、心境や感情によって、直接、自分、他者・物・現象などの外部の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。確信があるから、深層心理は自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分、他者・物・現象などの外部の存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化し、深層心理がある感情を生み出した時にも、変化する。だから、人間は、誰しも、意識して、意によって、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、すなわち、表層心理では、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。人間は、表層心理で、自ら意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換によって、心境を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の変換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができないから、何かをすることによって、心境を変えるのである。つまり、人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時などに、何もしていない自分の状態や何かをしている自分の状態を意識するのであるが、その時、同時に、必ず、自分の心を覆っている心境や感情という情態にも気付くのである。どのような状態にあろうと、心境や感情という情態は掛け替えのない自分なのである。つまり、心境や感情という情態こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。ハイデッガーも、「人間の心は、常に、何らかの情態にある。」と言う。情態とは耳慣れない言葉であるが、気持ち・心理状態の意味である。ハイデッガーが情態を重んじたのは、それが人間の存在のあり方に深く関わっているからである。継続した心理状態である心境と一時的な気持ちの高ぶりである感情という情態によって、人間は自らを知るのである。しかし、人間は心境の継続・変化も感情の発生も、表層心理で、自ら意識して、自らの意志で、行っているわけではない。心境・感情がという情態が深層心理を統括しているのである。だから、人間は、意識や意志という表層心理では、情態を動かすことはできないのである。人間が、意識や意志という表層心理でできることは、深層心理が生み出した感情の高まりを抑え、深層心理が生み出した行動の指令を抑えるだけである。すなわち、深層心理が生み出した自我の欲望を抑圧するだけである。しかし、感情の大きな高まりの中では、人間は表層心理による意志の力では、行動の指令を抑えることができず、そのまま、実行してしまうのである。つまり、深層心理が生み出した怒りなどの感情が強過ぎると、人間は表層心理による意志の力では、それを抑圧できず、相手を侮辱しろ、相手を殴れ、時には、相手を殺せという深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することができず、そのまま、実行し、悲劇、惨劇を生むのである。つまり、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、人間は表層心理による意志の力では、深層心理が生み出した自我の欲望を抑圧できないのである。さて、人間の心境は自ら変化することがあるが、それには二つの要因がある。一つは、深層心理が、あまりに長く同じ心境でいると。それに嫌悪感を抱くのである。すなわち、深層心理は、あまりに長く同じ心境でいると、その心境に嫌悪感を抱き、自ら、その心境を変化させようとするのである。飽きるという状態が、この状態である。つまり、飽きるとは、人間は、あまりに長く同じ心境でいることに嫌悪感を抱いた状態である。つまり、深層心理は、あまりに長く同じ心境でいることに飽きたから、別の心境になろうとして、別の行動をしようと自我の欲望を起こすことがあるのである。もう一つは、感情の高まりである。すなわち、人間は、心に、感情の高まりが起こると、それを起点にして、そこから心境の変化が始まるのである。暫くすると、心境が明確に変化し、そこから、それが継続した心境になるのである。しかし、情態は、常に、人間が何らかの感情や抱いていたり何らかの気分の状態にいたりすることを意味していることにとどまらない。人間は、常に、自分が何らかの感情や何らかの心境の情態にあるから、自分の存在を認識できるのである。特に、人間は、苦悩という情態にある時、最も、自分の存在を感じるのである。なぜならば、苦悩から逃れようとしても、容易には逃れられない自分の存在を実感させられるからである。デカルトは、「我思う、故に、我あり。」という論理で、自分の存在を証明しようとしたが、そのような論理を駆使しなくても、人間は、自らの情態によって、常に、自分の存在を感じ取っているのである。さて、人間の最初の構造体は家族であり、最初の自我は息子・娘である。人間が、家族という構造体に所属し、息子・娘という自我を持ったということは、動物を脱し、人間になったということ、つまり、人間界に入ったことを意味するのである。人間は、家族という構造体に所属し、息子・娘という自我が得られて、初めて、深層心理が、自我を主体に立てて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、息子・娘という自我になった人間を動かそうとするのである。しかし、深層心理の生み出す自我の欲望は、恣意的なものではない。フランスの心理学者のラカンが「無意識は言葉によって構造化されている。」と言っているように、深層心理は、言語を使って論理的に思考し、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理は、常に、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則に基づいて、他者・物・現象などの外部に反応して、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。自我の欲望が、人間の後天的な生きる意味、生きる目的である。すなわち、人間は、家族という構造体に所属し、息子・娘という自我を持つと、深層心理が、息子・娘という自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則に基づいて、他者・物。現象などの外部に反応して、、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、息子・娘という自我になった人間を動かそうとするのである。つまり、人間は、動物を脱して、人間界に入ること、すなわち、家族という構造体に所属して、息子・娘という自我を持つことによって、深層肉体が生み出すひたすら生き続けようとする無意識の意志に加えて、深層心理が生み出す息子・娘という自我の欲望をかなえようという無意識の意志を動かされて、行動するようになるのである。さらに、人間が自我を持つということは、自我の成立を意味し、アイデンティティーの確立を意味する。幼児が息子・娘という自我を持ったということは、動物を脱し、人間になったということ、つまり、人間界に入ったことを意味するばかりでなく、家族という構造体で、息子・娘という自我のアイデンティティーが確立されたことを意味するのである。息子・娘という自我のアイデンティティーが確立されたから、深層心理は、息子・娘という自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則に基づいて、他者・物・現象などの外部に反応して、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、息子・娘という自我になった人間を動かせるのである。だから、人間は、自ら意識して思考して、意志によって快楽を求めて行動しているのではない。人間の自らを意識しての精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は、表層心理で、快楽を求めて、思考して、意志によって行動しているのではない。深層心理が、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則に基づいて、他者・物・現象などの外部に反応して、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、人間は、時として、その感情の下で、その行動の指令について、表層心理で、現実的な自我の利得を求めて、思考して、行動しようとすることがあるのである。人間は、動物を脱して、人間界に入ること、すなわち、家族という構造体に所属して、息子・娘という自我を持てば、すなわち、息子・娘という自我のアイデンティティーが確立すれば、深層心理は、快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、息子・娘という自我になった人間を動かそうとするのである。つまり、人間が、動物を脱して、人間界に入ることということは、深層肉体が生み出すひたすら生き続けようとする無意識の意志に加えて、深層心理が生み出す息子・娘という自我の欲望をかなえようという無意識の意志を動かされて、行動するようになるのことを意味するのである。つまり、幼児が、家族という構造体の中で、息子・娘という自我を持ち、人間になった時から、幼児の深層心理が、息子・娘という自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則に基づいて、他者・物・現象などの外部に反応して、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、息子・娘という自我を持った人間を動かそうとするのである。確かに、人間は、表層心理で、自らを意識して、現実的な自我の利得を求めて、思考して、意志によって行動することがある。しかし、人間は、表層心理の思考では、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すことはできないのである。すなわち、表層心理の思考だけでは、行動できないのである。なぜならば、人間は、表層心理で、自らの状態を意識して、現実的な自我の利得を求めて、思考するのは、常に、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について審議し、その結果、意志によって行動しようとする時だけだからである。さて、幼児の自我の欲望の一つに、エディプスの欲望、エディプス・コンプレクスがある。フロイトの用語である。エディプスの欲望とは、最も自分に親しげに愛情を注いでくれる異性の親という他者に対する性愛的な欲望(近親相姦的愛情)である。すなわち、エディプスの欲望とは、息子は母に対しての、娘は父に対しての性愛的な欲望である。エディプスの欲望を抑圧する過程をエディプス・コンプレクスと言う。幼児の深層心理は、家族という構造体の中で、息子・娘という自我の安定を得ると、息子・娘という自我が主体に立てて、快楽を求めて、思考して、エディプスの欲望(母・父に対して性愛的な欲望)という自我の欲望を生み出し、息子・娘という自我を持った人間を動かそうとするのである。つまり、幼児が、家族という構造体の中で、息子・娘という自我を持ち、人間になった時から、息子は母に対して、娘は父に対して性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を抱き始めるのである。すなわち、人間界に入るということ、つまり、人間になるということの一つは、異性の他者に対して性愛的な欲望を抱くということなのである。幼児が、人間になれば、すなわち、家族という構造体の中で、息子・娘であるという自我が成立すれば、深層心理が、異性の親である、母・父に対して性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を生み出し、息子・娘という自我を持った人間を動かそうとするのである。もちろん、この欲望は決してかなえられることは無い。それは、男児の母への性愛的な欲望(近親相姦的愛情)には父が大きな対立者として立ちふさがり、女児の父への性愛的な欲望(近親相姦的愛情)には母が大きな対立者として立ちふさがり、絶対的な裁き手としての社会(周囲の人々)もこの欲望を容認せず、父・母に味方するからである。幼児が、性愛的な欲望(近親相姦的愛情)という自我の欲望を貫けば、家族という構造体から追放されるからである。そこで、幼児の深層心理にある超自我というルーティーンの生活を守ろうとする機能が、この家族という構造体の中で生きていくために、そして、社会(周囲の人々)の中で生き延び、ために、自我の欲望を、深層心理(無意識の世界)の中に抑圧するのである。超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、幼児は、表層心理で、自らの状態を意識して、現実的な自我の利得を求めて、思考して、意志によって、性愛的な欲望(近親相姦的愛情)という自我の欲望を抑圧することになる。つまり、家族という構造体で、幼児という自我の生活を安定して続けるために、超自我や表層心理での思考によって、性愛的な欲望(近親相姦的愛情)という自我の欲望を抑圧するのである。これが、エディプス・コンプレクスである。つまり、人間になるということは、家族という構造体において、息子・娘という自我が成立し、アイデンティティーが確立された時から始まるが、それとともに、エディプスの欲望という自我の欲望が生じるのである。もちろん、それは、家族という構造体を破壊する反社会的な欲望だから、他者や他人から反対され、自らも、超自我や表層心理での思考によって抑圧しようとするのである。しかし、幼児だけが、反社会的な自我の欲望を抱くのではない。人間は、一生、反社会的な自我の欲望を抱き続けるのである。なぜならば、人間は、一生、常に、何らかの構造体に属し、何らかの自我を持つからである。



人間は、意志としての自己として生きているのではなく、欲望としての自我として生かされている。(自我その525)

2021-09-19 14:24:06 | 思想
人間には、自分そのものは存在しない。自我が生きているだけである。人間は、意志としての自己として生きているのではなく、欲望としての自我として生かされているのである。人間は、毎日、同じ場所で、同じ人と会い、同じようなことをして暮らしている。それを、ルーティーンと言う。人間は、毎日、構造体という同じ場所で、他者という人に同じ会い、同じ自我を持って、同じようなことをして、ルーティーン通りに暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったポジションが与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・男児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・女児などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているのである。だから、ある人は、人間という構造体では女性という自我を持ち、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では母という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って、行動しているのである。また、ある人は、人間という構造体では男性という自我を持ち、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では夫という自我を持ち、会社という構造体では人事課長という自我を持ち、コンビニという構造体では来客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って行動しているのである。だから、人間は自分にこだわって生きているが、自分とは、自らを他者や他人と区別している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、同じ構造体の人々である。他人とは、別の構造体の人々である。すなわち、自分とは、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と区別しているあり方なのである。だから、人間には、自分そのもの存在しないのである。人間には、自分そのものは存在せず、別の構造体に入れば、別の自我を持ち、別の自我になるだけなのである。人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、他者と関わりながら、暮らしているのである。人間は、別の構造体に所属すれば、別の自我を持つのである。だから、人間は、自我を有して生まれていず、自我が持つ能力を有して生まれてくるのである。人間は、カオスの状態で、動物として生まれてくるのである。人間は、カオスの状態で生まれてきて、不安だから、コスモスの状態を求め、構造体に所属し、自我を持つようにできているのである。人間は、構造体に所属し、自我を有して、初めて、人間としての思考が生まれてくるのである。もちろん、それは、自我を主体にしての思考である。人間の最初の構造体は家族であり、最初の自我は息子・娘である。人間は、家族という構造体に所属し、息子・娘だという自我が得られて、初めて、人間としての思考が生まれてくるのである。また、人間は、構造体に所属し、自我を持つようになって、精神が安定し、安心して、快楽を求めて思考し、行動できるようになるのである。幼児は、家族という構造体に所属し、息子・娘だという自我を得て、初めて、安心感を得て、快楽を求めて、思考し、行動できるのである。自我の成立は、アイデンティティーの確立を意味する。幼児が息子・娘という自我を持ったということは、動物を脱し、人間になったということ、つまり、人間界に入ったことを意味するのである。しかし、人間は、自ら意識して思考して、意志によって快楽を求めて行動しているのではない。深層心理が、自我を主体に立てて、心境の下で、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。深層心理の思考は、一般に、無意識と言われている。つまり、幼児が、家族という構造体の中で、息子・娘という自我を持ち、人間になった時から、幼児の深層心理が、息子・娘という自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、息子・娘という自我を持った人間を動かしているのである。深層心理に対して、人間の自らを意識しての精神活動を表層心理と言う。一般に言われる思考とは、人間の表層心理での思考である。しかし、人間は、表層心理の思考だけでは、行動できないのである。表層心理の思考では、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すことはできないからである。確かに、人間は、時には、表層心理で、自ら(自らの状態)を意識して、現実的な自我の利得を求めて、思考することがあるが、その時は、常に、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について許諾するか拒否するか審議しているのである。すなわち、人間は、時には、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、表層心理で、自ら(自らの状態)を意識して、現実的な自我の利得を求めて、深層心理が生み出した行動の指令について許諾するか拒否するか審議して、行動することがあるのである。だから、人間は、表層心理独自の思考では、行動できないのである。人間がルーティーンの生活を送られるのは、表層心理で思考していないからである。表層心理で思考していないから、同じような生活が続けられるのである。しかし、人間は思考せずにルーティーン通りの行動をしているのではない。自ら意識せず思考して、そのように行動しているのである。すなわち、深層心理が思考して、自ら意識すること無く、人間を動かし、ルーティーンの生活をさせているのである。しかし、一般に、無意識の行動とは、人間の例外的な行動を意味する。しかし、実際は、人間の生活のほとんどは無意識の行動なのである。むしろ、意識した行動が例外的なのである。なぜならば、人間は、毎日、意識すること無く、深層心理の思考して生み出した自我の欲望のままに行動しているからである。すなわち、人間の無意識のうちに、深層心理が思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かし、ルーティーンの生活をさせているのである。そして、ルーティーンの生活を破るようなことが起こった時、人間は、表層心理で、自らの状況を意識してその対応を思考し、行動することがあるのである。つまり、日常生活がルーティーンになっているのは、深層心理が思考して生み出した自我の欲望のままに行動していることを意味し、表層心理で、自らの状況を意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。また、人間は、表層心理で自らの状況を意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェは、「永劫回帰」という思想で、森羅万象が永遠に同じことを繰り返すと説いたが、まさに、その思想は人間の生活にも当てはまるのである。しかし、ほとんどの人は、毎日、常に、自らの状況を意識して思考し、自らの意志によって自らの肉体を動かし、行動していると思い込んでいるのである。人間の自らの状況を意識した肉体の活動を表層肉体と言う。つまり、ほとんどの人は、毎日、常に、表層心理で自らの状況を意識して思考し、自らの意志によって表層肉体を動かして行動していると思い込んでいるのである。確かに、人間は表層肉体で肉体を動かし、表層心理で思考する時がある。しかし、表層肉体で肉体を動かすことや表層心理で思考することは、人間の活動の一部にしか過ぎないのである。人間は、深層肉体と深層心理によって生かされているのである。深層心理が人間の無意識の精神の活動であるように、深層肉体とは人間の無意識の肉体の動きである。深層肉体は人間をパンを求めてひたすら生きるようにし、深層心理は人間をパンを食べる時にも快楽を求めて生きるようにしているのである。深層肉体のあり方は単純である。深層肉体とは、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという意志を持って、人間を生かしている肉体の活動である。深層肉体は、人間が精神的に、肉体的にどんな状態であろうと、ひたすら人間を生かせようとする。深層肉体は、人間の意識した意志によらず、深層肉体独自の意志によって、肉体を動かし、人間を生かそうとする。人間は、深層肉体の意志という肉体そのものに存在する意志によって生かされているのである。人間は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の意志によって生命が維持されているのである。深層肉体の典型は内蔵である。人間は、誰一人として、自分の意志で、内蔵の動きを止めることはできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。人間の無意識のうちに、深層肉体が呼吸をしているのである。誰も、意識して息をしていないのである。人間が意識して息をしているのならば、寝入ると同時に、息が止まるはずである。確かに、深呼吸という意志による意識的な行為も存在するが、それは、意識して深く息を吸うということだけでしかなく、常時の呼吸は無意識の肉体の行為、すなわち、深層肉体の行為である。呼吸は、人間の深層肉体に備わっているあるから、人間は、無意識のうちに、息をして、生きていけるのである。心臓も、人間の意志で動いているのではない。だから、止めようと思っても、止めることはできないのである。心筋梗塞のような異常な事態に陥ったり、自らや他者が人為的にナイフを突き立てたりなどしない限り、止まらないのである。確かに、人工心臓は存在するが、それは、新しい心臓を作り出したのではなく、現に存在している心臓を模倣したものに過ぎないのである。さらに、胃も、人間の意志によって動いているのではない。心臓や肺と同じく、誕生と同時に、深層肉体の意志として、既に動いているのである。また、深層肉体は、人間が自殺に突き進んでも、人間を生かせようとする意志を捨てることは無い。だから、どのような自殺行為にも、肉体に苦痛が伴うのである。つまり、人間は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の働きによって、ひたすら生きるように仕向けられているのである。それと同様に、人間は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層心理の働きによって、ひたすら快楽を求めて生きるように仕向けられているのである。新約聖書に「初めに言葉ありき」という言葉がある。「この世は神の言葉によって作られた」という意味である。この世は、神の言葉以上に遡ることができないのである。ウィトゲンシュタインは「語りえないものについては沈黙しなければならない」と言う。神、倫理的なこと、論理そのものなどについて、誰しも語ることができないから、語ってはいけないという意味である。神、倫理的なこと、論理そのものなどは、感じ取ることができ、示すことはできるが、説明できないと言うのである。それと同様に、人間は、深層心理と深層肉体以上に遡ることができないのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。「言語によって構造化されている」と言うように、深層心理が言語を使って論理的に思考しているのである。ラカンが言うように、人間は無意識のうちに、深層心理が言語を使って論理的に思考しているのである。深層心理は、ひたすら、快楽を求め、不快を避けようと意志して、思考しているのである。深層心理の快楽を求め不快を避けようという意志も、深層肉体のひたすら生きようという意志と同様に、人間は、自ら意識して、生み出すことはできない。そして、自ら意識して、自らの意志によって、生み出すことをやめようとしても、やめることはできないのである。それは、深層心理そのものに、生来、備わっている意志だからである。さて、深層肉体、深層心理は、人間の無意識の活動であるが、人間は自我を持つことによって、肉体の活動は深層肉体と表層肉体に分離し、精神の肉体の活動は深層心理と表層心理に分離するのである。表層肉体とは、人間の自らを意識しての自らの意志による肉体の活動である。表層心理とは、人間の自らを意識しての自らの意志による精神の活動である。しかし、深層肉体の活動は、人間が自我を持っても、人間の誕生時と同じく、ひたすら人間を生かせようという意志で動いている。しかし、深層心理の活動は、人間が自我を持つことによって、人間という動物性から自我が主体にする人間性に変化するのである。すなわち、深層心理の、快楽を求め不快を避けようという意志に基づく思考の活動は、自我を主体にして行われるようになるのである。すなわち、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、構造体の中で、自我として、生きるしかないのである。人間は、常に、ある構造体に所属していて、ある自我を持って生きているが、深層心理が、人間の無意識のうちに、ある自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。心境とは、感情と共に、深層心理の情態を表している。心境は、爽快、陰鬱などの長期に持続する情態である。心境は、気分とも表現される。感情は、喜怒哀楽などの瞬間的に湧き上がる情態である。深層心理が爽快という心境にある時は、深層心理は現状に満足し、新しく行動の指令を生み出さず、現在の行動を維持しようとする。深層心理が陰鬱という心境にある時は、現状に不満を抱き続けているということであり、深層心理は現状を改革するために、どのような行動を生み出せば良いかと思考し続けることになる。深層心理が喜びという感情を生み出した時は、現状に大いに満足しているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が怒りという感情を生み出した時は、現状に大いに不満を抱いているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状を改革・破壊しようとするものになる。深層心理が哀しみという感情を生み出した時は、現状に不満を抱いているがどうしようもないと諦めているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状には触れないものになっているのである。深層心理が楽しみという感情を生み出した時は、将来に希望を抱いているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が、常に、心境や感情という情態に覆われているからこそ、人間は自分の存在を意識する時は、常に、ある心境やある感情という情態にある自分としても意識するのである。人間にとって、現在の状態が良いか悪いかの意識は、常に、心境や感情に掛かっているのである。さて、心境は、深層心理の底に流れているものであり、感情は深層心理が生み出すものであるから、人間は、表層心理で、感情を変えることができないように、心境も変えることはできない。しかし、心境が変わる時はある。それは、まず、深層心理が自らの心境に飽きた時に、心境が、自然と、変化するのである。気分転換が上手だと言われる人でも、表層心理で、意志によって、気分を、すなわち、心境を変えたのではなく、その人の深層心理が自らの心境に飽きやすく、心境が、自然と、変化したのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時、一時的に、深層心理の状態は、感情に覆われ、心境が感じられなくなる。その後、心境は回復するが、その時、心境は、以前のものとは異なったものになっている。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換をして、心境を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。そのようなことでしか、心境を変えることができないのである。だから、心境を変える方法を表層心理で思考するのである。「苦しんでいる人間は、苦しみが消えれば、それで良い。苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しみが消えたということが、問題が解決されたということを意味するのである。」とオーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタインは言う。苦しんでいる人間は、苦しみから逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。人間は、苦しいから、その苦しみから逃れるために、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、それを除去する方法を考えるのである。だから、苦しみが消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。たとえ、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ上げ、それを問題化して、解決する途上であっても、苦しみが消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。つまり、苦痛が存在しているか否かが問題が存在しているか否かを示しているのである。苦痛があるから、人間は考えるのである。苦痛が無いのに、誰が、考えるだろうか。それでは、なぜ、このようなことが生じるのか。それは、苦しみをもたらしたのは深層心理であり、その苦しみから逃れようと思考しているのは表層心理だからである。人間は、誰しも、苦しみを好まない。だから、人間は、誰しも、表層心理で、意識して、自らに苦しみを自らにもたらすことは無い。苦しみを自らにもたらしたのは、深層心理である。深層心理が、思考しても、乗り越えられない問題があるから、苦痛を生み出したのである。人間は、その苦しみから解放されるために、表層心理で、それを問題化して、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、解決の方法を思考するのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした苦痛から解放されるために、表層心理で、思考するのである。だから、苦痛が消滅すれば、思考も停止するのである。さて、深層心理が、人間の無意識のうちに、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているが、快楽を求めるとは、その時その場でひたすら快楽を求め、不快を避けようという欲望であり、そこには、道徳観や社会規約は存在しない。自我の欲望を満たすことによって、快楽を得ようとするのである。深層心理は、欲動に呼応すれば快楽を得ることができるので、欲動に基づいて思考するのである。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場でひたすら快楽を求めて、思考するのである。つまり、深層心理は、快楽を得るために、欲動に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。だから、深層心理は、欲動に基づいて思考するのである。つまり、深層心理は、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、心境の下で、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動が、深層心理を動かしているのである。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなえば、快楽を得ることができるから、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理は、自我を保身化することによって、その欲望を満たそうとする。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。深層心理は、自我を対他化することによって、その欲望を満たそうとする。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。深層心理は、対象を対自化することによって、その欲望を満たそうとする。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。深層心理は、自我と他者を共感化することによって、その欲望を満たそうとする。人間が、毎日、構造体という同じ場所で、他者という人に同じ会い、同じ自我を持って、同じようなことをして、ルーティーンの生活をしていけるのは、深層心理が欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているからである。しかし、時には、自我が傷つけられ、ルーティーンの生活が破られる時がある。それは、往々にして、他者から、馬鹿にされたり侮辱されたりなどした時に起きる。それは、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望が阻害されたことを意味する。そのような時、深層心理は、怒りの感情と相手を侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。深層心理は、怒りの感情で人間を動かし、侮辱・暴力などの過激な行動を行わせ、自我が他者に認められたいという欲望が阻害した相手をおとしめることによって、自らの自我を高めようとするのである。しかし、そのような時には、まず、超自我が、ルーティーンを守るために、怒りの感情を抑圧し、侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望から発している機能である。深層心理には、超自我という、毎日同じようなことを繰り返すように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとする機能も存在するのである。超自我は、これまでの構造体の中でこれまでの自我を持して暮らしたいという欲動の第一の欲望である自我の保身化という作用から発し、毎日これまでと同じように暮らしたいというルーティーン通りの行動を守ろうとする機能である。そして、もしも、超自我の機能が過激な行動を抑圧できなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。人間の表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、結論を出すのに、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実的な利得を求めるとは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうという欲望である。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実的な利得を求めて、侮辱したり殴ったりしたならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を、意志によって、抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を侮辱したり殴ったりしてしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。さて、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望は、深層心理はその欲望を満たすために、自我を保身化する。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。退学者・失業者が苦悩するのは、学校・会社という構造体から追放され、生徒・会社員という自我を失ったからである。裁判官が総理大臣に迎合した判決を下し、高級官僚が公文書改竄までして総理大臣に迎合するのは、何よりも自我が大切だからである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は、自殺した生徒よりも自分たちの自我を大切にするから、事件を隠蔽するのである。いじめた子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないから、いじめの事実を隠し続け、自殺にまで追い詰められたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、構造体を維持しようとするのである。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、構造体の消滅を認めるしかないから、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできずに、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令に従ってしまうである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。しかし、人間は、愛国心、すなわち、自我の欲望を、自ら、意識して生み出しているわけではなく、無意識のうちに、深層心理が愛国心という自我の欲望を生み出しているのである。つまり、世界中の人々は、皆、自らが意識して生み出していないが、自らの深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望であるが、深層心理は、自我を対他化することによって、その欲望を満たそうとする。自我の対他化は、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしている。深層心理は、同級生・教師や同僚・上司という他者から、生徒や会社員という自我に好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、馬鹿にされたり注意されたりして、悪評価・低評価を受け、自我が傷付くと、深層心理は、傷心という感情と不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出すことがある。しかし、人間は、表層心理で、現実的な利得を求めて、傷心という感情の下で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令について思考し、行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとする。それは、登校・出勤した方が、生徒や会社員という自我を存続でき、現実的な利得を得られるからである。しかし、深層心理が生み出した傷心という感情が強いので、登校・出勤できないのである。その後、人間は、表層心理で、不登校・不出勤を指示する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとする。しかし、たいていの場合、それも上手く行かずに、苦悩に陥るのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。そして、苦悩が強くなり、自らそれに堪えきれなくなり、自殺したりするのである。つまり、同級生・教師や同僚・上司という他者の悪評価・低評価が苦悩の原因であり、襲撃や自殺は苦悩から脱出するためにあるのである。また、受験生が有名大学を目指すのも、少女がアイドルを目指すのも、自我を他者に認めてほしいという欲望を満足させるためである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望であるが、深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。対象の対自化は、深層心理が、自我の志向性(観点・視点)で。他者・物・現象を捉えることである。対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。)という一文で表現することができる。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生まれる。有の無化とは、深層心理が、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。有の無化は、「人は自己の欲望を心象化する」という一文で言い表すことができる。無の有化とは、深層心理が、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造することである。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、深層心理は、自我と他者を共感化させることによって、その欲望を満たそうとする。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえば、喜び・満足感が得られるのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、深層心理のルーティーンの生活を守ろうとする超自我や表層心理の現実的な利得を求める思考で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、それほど屈辱感が強かったのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは、何よりも、他クラスを倒して皆で喜びを得るということに価値があるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終われば、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否するという仲の悪い状態に戻るのである。このように、人間は、自我の動物であるから、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望に動かされてしまうのである。また、人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時に、自らの存在を意識する。人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自らの行動や思考を意識することである。そして、自らの存在を意識すると同時に、思考が始まるのである。それが、表層心理での思考である。それでは、なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識し、自らの行動や思考を意識するのか。それも、また、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。さらに、無我夢中で行動していて、突然、自らの存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識することがあるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じた時、表層心理で、自らの存在を意識して、現実原則の視点から、思考するのである。ニーチェは「意志は意志できない」と言う。同じように、人間は、思考も意志できないのである。深層心理の思考が人間の意志によって行われないように、表層心理の思考も人間の意志によって行われないのである。人間が自らの存在を意識すると同時に、表層心理での思考が始まるのである。次に、表層肉体であるが、表層肉体とは、表層心理による肉体の活動である。すなわち、表層肉体とは、人間の意識しての肉体の活動、人間の意志による肉体の活動である。表層肉体は、深呼吸する、挙手をする、速く走る、体操するなど、人間の表層心理による意識しての意志による肉体の活動である。スポーツという日常生活には存在しないことができるのは、自ら意識して、自らの意志によって表層肉体の同じ活動を繰り返したからである。表層肉体の同じ活動の繰り返しが深層肉体としてに定着し、無意識のうちに体が動き、スポーツができるようになるのである。しかし、表層肉体の活動は、肉体の活動の一部しか過ぎないのである。肉体の活動のほとんどを深層肉体に負っているのである。確かに、人間の人間たる所以の一つは、表層心理で、自ら意識して、自らの意志によって、行動することにある。それが、表層肉体の行為である。しかし、表層肉体の行為と言えども、表層心理の意識や意志が関わるのは、動作の初発のほんの一部にしか過ぎないのである。例えば、歩くという表層肉体の動作がある。確かに、歩くという動作は、歩こうという意志の下で歩くという意識の下で表層心理によって始められる。しかし、両足を交互に出すという動きは、誰しも意識して行っていない。もしも、右、左と意識して足を差し出していたならば、意識することに疲れて、長く歩けないだろう。だから、最も簡単に意識して行っていると考えられる動作の一つである歩くという表層肉体の動作すら、意識して行うのはほんの一部であり、そのほとんどは、無意識に、つまり、深層肉体によって行われているのである。歩きながら考えるということが可能なのも、歩くことに意識が行っていないからである。ほとんどの肉体行動は、人間は、表層心理で、自ら意識して、自分の意志によって、行っているのではなく、すなわち、表層肉体の行為ではなく、深層肉体の行為なのである。つまり、人間の肉体は、深層肉体によって、動かされ、生かされているのである。








人間は、深層心理を覆う心境、深層心理が生み出す感情に縛られ、逃れることができない。(自我524)

2021-09-09 13:57:03 | 思想
人間は感情の動物である。感情が、人間に、自らを、すなわち、自らの存在を意識させるのである。感情が無ければ、人間は、自らの存在を知覚できず、生きている実感を覚えることはできないのである。感情が人間の存在を、すなわち、人間の生活、人生を刻印しているのである。感情が人間を動かしているのである。つまり、人間は感情に動かされて行動する動物なのである。しかし、人間は、自分の意志では、感情を生み出すことも動かすことも消すこともできないのである。なぜならば、感情は、深層心理によって、生み出されるからである。深層心理とは、人間の無意識の精神の活動である。すなわち、人間の無意識のうちに、深層心理が思考して感情を生み出しているのである。つまり、感情は、自らが意識できない深層心理によって生み出されるから、人間は、自らの意志で、生み出すことも動かすことも消すこともできないのである。さて、人間には、深層心理ばかりでなく表層心理もある。表層心理とは、人間の自らを意識した精神の活動である。人間は、表層心理で、自らを意識し、自らを意識して思考し、自らの意志で行動しようとするのである。一般に言われる思考は、表層心理での思考である。しかし、人間は、表層心理では、自らの感情を生み出すことも動かすことも消すこともできないのである。すなわち、人間は、自らの意志によって、自らの感情を生み出すことも動かすことも消すこともできないのである。また、感情は深層心理によって生み出されるから、人間は表層心理で感情に働き掛けることはできないのである。しかも、深層心理は、常に、行動の指令を伴って、感情を生み出すのである。感情は、行動の指令の動力にもなっているのである。深層心理は、感情と行動の指令という自我の欲望として生み出し、感情を動力にして、行動の指令通りに、人間を動かそうとするのである。人間は、常に、構造体の中で、自我として生きていて、深層心理が、自我を主体にして思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って生きているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って生きているが、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、ある心境の下で、快感原則を満たそうと、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。自我である人間は、深層心理が思考して生み出した自我の欲望に動かされて、行動しているのである。つまり、人間の無意識のうちに、深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理は、感情を動力にして、自我である人間に、行動の指令を実行させようとしているのである。確かに、人間は、表層心理で思考すること、すなわち、自らを意識して思考することもあるが、それは、常に、深層心理の思考の後に行われるのである。人間は、表層心理で、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が思考して生み出した感情の下で、深層心理が思考して生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかについて、思考するのである。人間は、表層心理独自で思考することはできないのである。人間が主体的に思考できず、感情を生み出すことも動かすことも消すこともできず、主体的な行動ができないのはここに由来しているのである。人間は、常に、深層心理が思考し、その後、表層心理で、深層心理の思考の結果を受けて思考することがあるのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている」と言う。無意識とは、無意識の思考であり、深層心理の思考を意味する。「言語によって構造化されている」とは、深層心理が言語を使って論理的に思考していることを意味する。深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、ある心境の下で、快感原則を満たそうと、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理は、常に、心境の下にあるのである。心境は、感情と共に、深層心理の情態である。心境は、爽快、陰鬱など、長期に持続する情態である。心境は、気分とも表現される。感情は、喜怒哀楽など、瞬間的に湧き上がる情態である。心境は、深層心理が爽快という心境にある時は、現状に充実感を抱いているということであり、深層心理は新しく行動の指令を生み出さず、現在の行動を維持しようとする。深層心理が陰鬱という心境にある時は、現状に不満を抱き続けているということであり、深層心理は現状を改革するために、どのような行動を生み出せば良いかと思考し続けることになる。深層心理が喜びという感情を生み出した時は、現状に大いに満足しているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が怒りという感情を生み出した時は、現状に大いに不満を抱いているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状を改革・破壊しようとするものになる。深層心理が哀しみという感情を生み出した時は、現状に不満を抱いているがどうしようもないと諦めているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状には触れないものになっているのである。深層心理が楽しみという感情を生み出した時は、将来に希望を抱いているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が、常に、心境や感情という情態が覆われているからこそ、人間は自分の存在を意識する時は、常に、ある心境やある感情という情態にある自分としても意識するのである。その意味でも、心境や感情の存在は重要なのである。さて、人間は、表層心理で、感情を変えることができないように、心境も変えることはできない。しかし、心境が変わる時はある。それは、まず、深層心理が自らの心境に飽きた時に、心境が、自然と、変化するのである。気分転換が上手だと言われる人でもは、表層心理で、意志によって、気分を、すなわち、心境を変えたのではなく、深層心理が自らの心境に飽きやすく、心境が、自然と、変化したのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時、一時的に、深層心理の状態は、感情に覆われ、心境は消滅する。そして、その後、心境は回復するが、その時、心境は、変化している。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換をして、心境を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。しかし、そのようなことでしか、心境を変えることができないのである。だから、心境を変える方法を編み出さなければならないのである。「苦しんでいる人間は、苦しみが消えれば、それで良い。苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しみが消えたということが、問題が解決されたということを意味するのである。」とオーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタインは言う。苦しんでいる人間は、苦しみから逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。人間は、苦しいから、その苦しみから逃れるために、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、それを除去する方法を考えるのである。だから、苦しみが消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。たとえ、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ上げ、それを問題化して、解決する途上であっても、苦しみが消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。つまり、苦痛が存在しているか否かが問題が存在しているか否かを示しているのである。苦痛があるから、人間は考えるのである。苦痛が無いのに、誰が、考えるだろうか。それでは、なぜ、このようなことが生じるのか。それは、苦しみをもたらしたのは深層心理であり、その苦しみから逃れようと思考しているのは表層心理だからである。人間は、誰しも、苦しみを好まない。だから、人間は、誰しも、表層心理で、意識して、自らに苦しみを自らにもたらすことは無い。苦しみを自らにもたらしたのは、深層心理である。深層心理が、思考しても、乗り越えられない問題があるから、苦痛を生み出したのである。人間は、その苦しみから解放されるために、表層心理で、それを問題化して、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、解決の方法を思考するのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした苦痛から解放されるために、表層心理で、思考するのである。だから、苦痛が消滅すれば、思考も停止するのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、快感原則を満たそうと、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているが、快感原則とは、フロイトの用語であり、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場でひたすら快楽を求め快楽を求める深層心理の欲望である。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場でひたすら快楽を求めて、思考するのである。つまり、深層心理は、快楽を得るために、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなえば、快感原則を満たすことができる、すなわち、快楽を得ることができるのである。深層心理は欲動の四つの欲望に従えば快楽を得られるから、欲動に基づいた行動の指令を生み出し、感情によって、自我である人間を動かそうとするのである。つまり、欲動が、深層心理を動かし、自我である人間を動かしているのである。欲動の四つの欲望の第一の欲望は、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。簡潔に言えば、安心欲である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。人間が、結婚、入学、入社を祝福するのは、夫(妻)、生徒、社員という自我を確保したからである。人間が、離婚、退学、退社を嫌がるのは、夫(妻)、生徒、社員という自我の存続が絶たれ、自我を失ったたからである。人間が、会社などの構造体で昇進を祝福するのは、自我が発展したからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。また、自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、構造体の存続を自我の存続のように喜び、構造体の発展を自我の発展のように喜ぶのである。だから、高校サッカーや高校野球で、郷土チームを応援するのである。それは、一般に、郷土愛と言われているが、単なる自我愛である。また、オリンピックやワールドカップで自国選手や自国チームを応援するのである。それは、一般に、愛国心と言われている。しかし、それも、単なる自我愛である。また、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、それが発揮されるのは自我の欲望だからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望であり、自我愛である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、国家観の戦争が無くなることはないのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。簡潔に言えば、承認欲である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。それは、深層心理が、自我が他者に認められると、喜び・満足感という快楽を得られるからである。だから、人間は、誰しも、他者から認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、生きているのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉は、自我が他者に認められたいという深層心理の欲望、すなわち、自我の対他化の作用を端的に言い表している。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。だから、人間の苦悩のほとんどの原因が、他者から悪評価・低評価を受けたことである。そのために、深層心理は、時には、自らを鬱病などの精神疾患に陥らせ、時には、自我に自殺を強いるのである。深層心理が、この苦悩から脱出するために、自らを、精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにし、自我を自殺に追い立て、現実そのものを失わせるのである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象(こと)などの対象を支配したいという欲望である。簡潔に言えば、支配欲である。対象の対自化は、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。対象の対自化は、深層心理が自らの志向性(観点・視点)で他者・物・現象を捉えることなのである。つまり、深層心理が、自らの志向性で、他者・物・現象(こと)などの存在しているものを捉え、自我の下に置くことなのである。対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」という言葉で言い表すことができる。それは、「人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えようとする。」という意味である。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。最後に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という機能が生まれる。有の無化とは、人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。借金をしている者の中には、返済するのが嫌だから、深層心理が、借金していることを忘れてしまうのである。無の有化という機能は、「人は自我の欲望を心象化する」という言葉で言い表すことができる。それは、人間は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造するという意味である。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。ストーカーは、相手の心から自分に対する愛情が消えたのを認めることが辛いから、相手の心に自分に対する愛情がまだ残っていると思い込み、その心を呼び覚ませようとして、付きまとうのである。有の無化、無の有化、いずれも、深層心理が自我を正当化して心に安定感を得ようとするのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、それは、自我と他者の共感化という作用として現れる。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、それほど屈辱感が強かったのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。安倍晋三前首相は、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆の支持を集めたのである。「呉越同舟」を利用した、自我のエゴイスティックな行動である。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていない証である。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。しかし、日常生活において、異常なことが起こることもある。それは、ほとんどの場合、侮辱などをされ、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望が破られた時である。そのような時、深層心理が怒りの感情と侮辱した相手を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間に、相手を殴ることを促すのである。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、それが働き、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとするのである。超自我は、深層心理に内在する欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という作用の機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する審議は、表層心理に移されるのである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。現実原則は、快感原則と同様に、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。自我が不利益を被らないように、行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などから思考するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を殴ったならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。しかし、誰かが自我が傷つけても、深層心理は、時には、傷心の感情から解放されるための怒りの感情と相手を攻撃するという自我の欲望を生み出さず、うちに閉じこもってしまうことがある。それは、攻撃するのは、相手が強大だからであり、攻撃すれば、いっそう。自我の状況が不利になるからである。そうして、傷心のままに、苦悩のままに、自我の内にこもるのである。それが、憂鬱という情態性である。そのような時、深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことがある。深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことによって、現実を見えないようにし、現実から逃れようとするのである。人間は、誰しも、自ら意識して、精神疾患に陥ることはない。また、人間は、誰しも、自らの意志で、精神疾患に陥ることはできない。すなわち、表層心理という意識や意志では、自らの心に、精神疾患を呼び寄せることはできないのである。深層心理という人間の無意識の心の働きが、自らの心に、精神疾患をもたらしたのである。精神疾患には様々なものがあるが、代表的なものが、鬱病である。鬱病の基本症状は、気分が落ち込む、気がめいる、もの悲しいといった抑鬱気分である。また、あらゆることへの関心や興味がなくなり、なにをするにも億劫になる。知的活動能力が減退し、家事や仕事も進まなくなる。さらに、睡眠障害、全身のだるさ、食欲不振、頭痛などといった身体症状も現れることが多い。抑鬱気分が強くなると、死にたいと考える(自殺念慮が起こる)だけでなく、実際に、自殺を図ることもある。また、鬱病に罹患している人間は、表層心理で、自らの心理状態を意識して、自らの意志で、行動を起こそうという気にならない。また、たとえ、自らの意志で、行動を起こそうとしても、肉体が動かない。深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、自らの肉体が行動を全然起こさないようにしたのである。つまり、深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、鬱病の原因が学校や会社という構造体の中での出来事ならば、自らの肉体を学校や会社に行かせないようにしたのである。つまり、学校や会社で堪えられない情況にある人間の深層心理が、自らの心を、鬱病に罹患させることによって、抑鬱気分を維持させ、学校・会社の行かせないようにするという、現実逃避よる解決法を画策したのである。しかし、人間は、鬱病に罹患すると、学校や会社に行けなくなるばかりでなく、他のこともできなくなるのである。さらに、自殺を考えたり、実際に、自殺しようとしたりするのである。鬱病は、人間を、継続した重い気分に陥らせ、何もする気も起こらなくさせ、自殺を考えさせ、実際に、自殺しようとさせたりするから、大きな問題なのである。鬱病だけでなく、他の全ての後天的な精神疾患も、深層心理によってもたらされた現実逃避よる解決法である。統合失調症は、現実を夢のように思わせ、現実逃避をしているのでる。離人症は、自我の存在を曖昧にすることによって、現実逃避しているのである。このように、現実があまりに辛く、深層心理でも表層心理でも、その辛さから逃れる方策、その辛さから解放される方策が考えることができないから、深層心理が、自らを、精神疾患にして、現実から逃れたのである。しかし、精神疾患によって、現実の辛さから逃れたかも知れないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛の心理状態が、終日、本人を苦しめるのである。だから、精神疾患に陥った人に対して、周囲のアドバイスも励ましも、無効であるか有害なのである。精神疾患に陥った人は、現実を閉ざしているのであるから、周囲の現実的なアドバイスには聞く耳を持たず、無効なのである。また、周囲の「がんばれ」という励ましの言葉は、「がんばれ」とは「我を張れ」ということであり、「自我に執着せよ」ということであるから、逆効果であり、有害なのである。自我に執着したからこそ、現実があまりに辛くなり、精神疾患に逃れざるを得なくなったからである。そして、今、現実が見えない状態であるから、現実から来る苦しみはないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛によって苦しめられているのである。さて、精神疾患の苦痛から解放するために、薬物療法とカウンセリングが多く用いられる。確かに、精神疾患そのものの苦痛の軽減・除去には、薬物療法は有効であろう。しかし、現実は、そのまま残っている。現実を変えない限り、たとえ、薬物療法で、精神疾患の苦痛が軽減されても、その人が、そのことによって、再び、現実が見えるようになると、再び、元の精神疾患の状態に陥るようになることが考えられる。そこで、重要になってくるのが、カウンセリングである。カウンセリングは、自己肯定感を持たせることを目的として、行われる。精神疾患に陥ったのは、自分が無力であるため、現実に対処できず、深く心が傷付いたからである。そこで、自己に肯定感を持たせ、自信を与え、現実をありのままに受け入れるようにするのである。しかし、自分に力が無いと思い込み、外部に関心を持たない状態に陥っている者に対して、肯定感を持たせ、自信を持たせ、現実をありのままに受け入れるようにさせることは、至難の業である。だから、カウンセリングは、長い時間が掛かるのである。自我の欲望から逃れるまでには、長い時間が掛かるのである。しかし、自宅が火事になり、取り残された子供を助けようとして、自らの命が失われる危険を省みずに、火の中に飛び込む母親が存在するが、それも、自我の欲望による行動である。感動的な行為であるが、それは、家族という構造体の中の母親という自我がそのようにさせるのである。深層心理が生み出した自我の欲望がそうさせるのであり、表層心理の思考による、主体的な意志によるものではない。だから、同じ人も、よその家が火事ならば、消防署には連絡しても、火の中に飛び込むことはないのである。人間は、構造体の中で、自我を得て、初めて、自らの存在が意味を帯びるのである。人間は、自らの社会的な位置が定まらなければ、つまり、構造体の中で自我が定まらなければ、深層心理は、自我の欲望を生み出すことができないのである。人間の存在とは社会的な位置であり、社会的な位置とは構造体の中での自我あであるから、人間にとって、構造体と自我が重要なのである。また、人間は、構造体に所属し、構造体内の他者にその存在が認められて、初めて、自らの自我が安定するのであるが、それがアイデンティティーを得るということである。つまり、アイデンティティを得るには、自らが構造体に所属しているという認識しているだけでは足りず、構造体内で、他者から、承認と評価を受ける必要とするのである。つまり、構造体内の他者からの承認と評価が存在しないと、自我が安定しないのである。自我が安定するとは、自我の欲望が満たされているということであるから、人間は、自我の欲望を満たすために生きるのである。自我の欲望を満たすとは、自我の存在を他者に知らしめ、快楽を追求することである。だから、人間にとって、すなわち、自我にとって、他者は、自我が自らの欲望を追求するための目標、若しくは、道具としての存在なのである。なぜならば、自我の欲望とは、自我を確保しつつ、他者を支配し、なおかつ、自我を他者に認めてもらいたい、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望から発しているからである。人間は、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を所有して、自我の欲望を追求しながら、一生を送るのである。自我とは、言わば、役割を果たし、役柄をこなすという役を演じている人間のあり方である。しかし、人間は、意識して、思考して、その役を演じているのではない。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、その役を演じているのではない。すなわち、人間は、主体的に思考して、自我を動かすことができないのである。人間は、無意識に、思考して、その役を演じているのである。すなわち、人間は、深層心理が、思考して、その役を演じているのである。なぜならば、自我は深層心理に浸透し、人間と自我は一体化しているからである。深層心理が、自我と一体化し、自我を主体に立てて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて行動するのである。人間は、誰しも、常に、さまざまな構造体に所属して、その構造体に応じて、さまざまな自我を所有しているが、深層心理によって生み出された感情と行動の指令という自我の欲望によって動かされる存在でしかないのである。だから、人間は、誰しも、「あなたは何」と尋ねられても、同じ答を返せないのである。時と場所によって、自我が異なるからである。構造体によって、異なった自我を所有しているからである。彼女の息子が母だと思っているのは当然だが、彼女は母だけでなく、妻、教諭、客、乗客、県民、友人という自我をも所有しているのである。彼女は、家族という構造では母という自我を所有しているが、他の構造体では他の自我を所有して行動しているのである。だから、息子は母としか知らず、彼女の全体像がわからないのである。人間は、他者の一部の自我しか知ることができないのに、それが全体像だと思い込んでいるのである。だから、殺人事件が起こると、必ず、マスコミが犯罪者の真実の姿を追及し、会社、近所、親族、高校時代の仲間などという構造体を訪ねるが、その評価は同じではないのである。構造体に応じて、異なった自我を持ち、異なった評価が与えられているからである。そのなかで、マスコミが、悪評価・低評価の自我を真実の姿だとして取り上げているだけなのである。






人間とは、深層心理が生み出す自我の欲望の戯れに過ぎない。(自我その523)

2021-09-04 13:45:10 | 思想
人間は、深層心理が思考して生み出した自我の欲望に動かされて生きている。しかし、多くの人は、深層心理の力を知らず、常に、自ら、意識して、思考して、自らの意志で行動していると思っている。人間の無意識の精神活動を深層心理、人間の意識した精神活動を表層心理と言う。一般に、無意識の活動が知られているが、多くの人は、それを、人間の例外的な行動だと思っている。なぜならば、ほとんどの行動は、表層心理で思考して、自らの意志で行っていると思っているのである。だから、多くの人は自由に憧れるのである。自由ならば、他者の妨害を受けずに、他者の妨害を受けずに、自ら意識して思考し、自らの意志で、行動することができると思っているからである。しかし、自分自身の行動を振り返って考えてみればわかることだが、人間の多くの行動は、自ら意識して思考していず、自らの意志によってなされていないのである。無意識のうちに行っている行動なのである。すなわち、深層心理が思考した行動なのである。人間が、毎日、同じことを繰り返すというルーティーンの生活をしているのは、深層心理が思考して生み出した自我の欲望のままに、無意識に動いているから、可能なのである。深層心理が生み出した行動の指令のままに無意識に行動しているから、ルーティーンの生活になるのである。人間は、表層心理で、自らの現在の生活を意識して思考すること無く行動しているから、毎日、同じような行動になるのである。また、日常生活がルーティーンになるのは、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味するのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を望むのである。さらに、人間にとって、深層心理が生み出した行動の指令に従ったルーティーンの生活という習慣的な生活は安定しているから、それを望むのである。人間が、自らの状態を意識して思考するのは、すなわち、表層心理で思考するのは、日常生活において、異常なことが起こり、ルーティーンの生活ができない時である。すなわち、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままに行動することができない時、人間は、自らの状態を意識して、表層心理で思考するのである。つまり、人間が、表層心理で思考するのは、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままに行動することができず、不自由を感じた時である。そして、人間は、不自由を感じた時に、自由な状態に思いを致すのである。そして、自由とは、自ら意識して思考して、自らの意志で、すなわち、表層心理で思考して、行動することができる状態だと思い違いをするのである。しかし、人間には、表層心理で思考して行動するような自由は存在しないのである。自由な状態とは、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままに行動することだからである。しかし、人間は、自ら意識して思考して生み出していない行動を自由な行動と認めることはできないのである。それは、主体的な生き方に憧れを持っているからである。主体的な生き方とは、人間が、自己を主体にして、表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して、行動することである。しかし、人間には、自己は存在しない。自己は幻想である。人間にとって存在するのは自我である。自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動するのである。構造体と自我の関係は、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属しているから、常に、他者との関わりがある。人間は、構造体の中で、他者から役目を担わされ、自我として行動するのである。人間は、常に、社会生活を営まないと生きていけないから、常に、何らかの構造体に属し、何らかの自我を持して暮らさざるを得ないのである。デカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言いながら、我の定義を明確にしなかったが、人間が、自分の存在を意識するのは、普遍的な自分としてでは無く、個別的な自我なのである。つまり、日本という構造体では国民という自我があり、家族という構造体では父という自我であり、学校という構造体では生徒という自我であり、会社という構造体で課長という自我であり、コンビニという構造体では客という自我であり、電車という構造体で客という自我であり、仲間という構造体では友人という自我であり、カップルという構造体では恋人という自我である。人間は、常に、このような構造体の中で、このような自我を持って行動しているのである。つまり、人間が自分の存在を意識する時は、漠然とした自分、主体的な自己を意識するのでは無く、常に、構造体の中で、個別な明瞭な自我を意識するのである。だから、人間にとって、自我とは、単に、他者に対して、自らに対してが持つ意識でしか無いのである。自我は、他者に対して、自らの存在を指し示すだけのものだからである。人間は、常に、構造体の中で自我を有して行動しているから、人間には、自らが意図するような自由は存在しないのである。人間は、自ら意識して思考して意志によって行動しているのではなく、深層心理が、常に、ある心境の下で、構造体の中で、自我を主体に立てて、快感原則によって、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている」と言う。無意識とは、無意識の思考であり、深層心理の思考を意味する。「言語によって構造化されている」とは、深層心理が言語を使って論理的に思考していることを意味する。深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、ある心境の下で、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、快感原則によって、欲動に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。それでは、心境とは何か。心境は、感情と同じく、情態(心の状態)を表す。深層心理は、常に、ある心境や感情の下にある。つまり、深層心理は、まっさらな情態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境や感情の下で思考するのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する情態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる情態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の情態にあるか不得意の情態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境の情態の時には、深層心理は現在の情態を維持しようとし、不得意心境の情態の時には、現在の情態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。さらに、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。人間は、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分に意識する心境や感情が存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在してからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろなものやことの存在を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろなものやことががそこに存在していることを前提にして、思考し、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろなものやことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろなものやことの存在が証明できるから、自分やものやことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして、思考し、活動しているのである。人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在、ものの存在、ことの存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。確信があるから、深層心理は自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分やものやことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化し、深層心理がある感情を生み出した時にも、変化する。だから、人間は、誰しも、意識して、意によって、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、ある心境の下で、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、すなわち、表層心理では、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。人間は、表層心理で、自ら意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換によって、心境を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の変換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができないから、何かをすることによって、心境を変えるのである。つまり、人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時などに、何もしていない自分の状態や何かをしている自分の状態を意識するのであるが、その時、同時に、必ず、自分の心を覆っている心境や感情という情態にも気付くのである。どのような状態にあろうと、心境や感情という情態は掛け替えのない自分なのである。つまり、心境や感情という情態こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。ハイデッガーも、「人間の心は、常に、何らかの情態にある。」と言う。情態とは耳慣れない言葉であるが、気持ち・心理状態の意味である。ハイデッガーが情態を重んじたのは、それが人間の存在のあり方に深く関わっているからである。継続した心理状態である心境と一時的な気持ちの高ぶりである感情という情態によって、人間は自らを知るのである。しかし、人間は心境の継続・変化も感情の発生も、表層心理で、自ら意識して、自らの意志で、行っているわけではない。心境・感情がという情態が深層心理を統括しているのである。だから、人間は、意識や意志という表層心理では、情態を動かすことはできないのである。人間が、意識や意志という表層心理でできることは、深層心理が生み出した感情の高まりを抑え、深層心理が生み出した行動の指令を抑えるだけである。すなわち、深層心理が生み出した自我の欲望を抑圧するだけである。しかし、感情の大きな高まりの中では、人間は表層心理による意志の力では、行動の指令を抑えることができず、そのまま、実行してしまうのである。つまり、深層心理が生み出した怒りなどの感情が強過ぎると、人間は表層心理による意志の力では、それを抑圧できず、相手を侮辱しろ、相手を殴れ、時には、相手を殺せという深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することができず、そのまま、実行し、悲劇、惨劇を生むのである。つまり、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、人間は表層心理による意志の力では、深層心理が生み出した自我の欲望を抑圧できないのである。さて、人間の心境は自ら変化することがあるが、それには二つの要因がある。一つは、深層心理が、あまりに長く同じ心境でいると。それに嫌悪感を抱くのである。すなわち、深層心理は、あまりに長く同じ心境でいると、その心境に嫌悪感を抱き、自ら、その心境を変化させようとするのである。飽きるという状態が、この状態である。つまり、飽きるとは、人間は、あまりに長く同じ心境でいることに嫌悪感を抱いた状態である。つまり、深層心理は、あまりに長く同じ心境でいることに飽きたから、別の心境になろうとして、別の行動をしようと自我の欲望を起こすことがあるのである。もう一つは、感情の高まりである。すなわち、人間は、心に、感情の高まりが起こると、それを起点にして、そこから心境の変化が始まるのである。暫くすると、心境が明確に変化し、そこから、それが継続した心境になるのである。しかし、情態は、常に、人間が何らかの感情や抱いていたり何らかの気分の状態にいたりすることを意味していることにとどまらない。人間は、常に、自分が何らかの感情や何らかの心境の情態にあるから、自分の存在を認識できるのである。特に、人間は、苦悩という情態にある時、最も、自分の存在を感じるのである。なぜならば、苦悩から逃れようとしても、容易には逃れられない自分の存在を実感させられるからである。デカルトは、「我思う、故に、我あり。」という論理で、自分の存在を証明しようとしたが、そのような論理を駆使しなくても、人間は、自らの情態によって、常に、自分の存在を感じ取っているのである。次に、自我を主体に立てるとはどういうことか。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。次に、快感原則とは、何か。快感原則とは、オーストリアの心理学者のフロイトの定義であり、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。次に、欲動とは何か。欲動とは、深層心理の心理を動かすものであり、四つの欲望から成り立っている。深層心理は、この四つの欲望のいずれかを使って、自我の欲望を生み出しているのである。欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという欲望がある。深層心理は自我の保身化という作用を行う。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。深層心理は自我の対他化の作用を行う。この四つの欲望の中で、人間が自らの存在を最も意識するのは、自我の対他化の作用での時である。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。深層心理は対象の対自化の作用を行う。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。深層心理は自我と他者の共感化という作用を行う。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。それが、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由である。また、深層心理は、構造体を存続・発展するためにも、思考して、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして首相に迎合するのは、立身出世のためである。いずれも、自我を確保・存続・発展せたいという第一の欲望、自我の保身化から来ているのである。欲動の第二の欲望が自我が他者に認められたいという欲望である。それは、深層心理が、自我が他者に認められることによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我の対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いながら、自我に対する他者の思いを探ることである。他者に認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、認められれば、評価されれば、好かれれば、愛されれば、信頼されれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。人間は、いついかなる時でも、自我が他者に認められるように行動する。他者を攻撃することがあるのは、他者が自我を認めてくれないばかりか、貶めたからである。下位に貶められた自我を上位にもっていこうとして、他者を攻撃するのである。学生や生徒が勉強するのは、成績を上げて、教師や同級生や親から褒められたいからである。会社員が懸命に働くのは、業績を上げて、上司や先輩や同輩に褒められたいからである。自我の対他化については、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉にその意味が集約されている。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。人間が苦悩に陥る主原因が、深層心理の自我の対他化の欲望がかなわなかったことである。欲動の第三の欲望が自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望である。深層心理は、対象の対自化の作用を行うが、それは、他者や物や現象という対象を自我で支配することによって、喜び・満足感という快楽を得ようとするために行う。対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、物という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、現象という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で捉えている。)という一文で表現することができる。深層心理が、自我を主体に立てて、他者という対象を自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で支配すること、物という対象を自我の志向性や趣向性で利用すること、現象という対象を自我の志向性や趣向性で捉えることなのである。すなわち、他者の対自化とは、自我の力を発揮し、他者たちを思うように動かし、他者たちのリーダーとなることなのである。その目標達成のために、日々、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接している。国会議員は総理大臣になってこの国を支配したいのである。教諭は校長になって学校を支配したいのである。社員は社長になって会社を支配したいのである。深層心理は、他者の対自化という作用によって、自我で他者を支配するために、他者がどのような思いで何をしようとしているのかその欲望を探ろうとする。しかし、他者の欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自らの欲望と対比しながら行うのである。その人の欲望が、自分の欲望と同じ方向にあるか、逆にあるかを探るのである。つまり、他者が味方になりそうか敵になりそうか探るのである。そして、その人の欲望が自分の欲望と同じ方向にあり、味方になりそうならば、自らがイニシアチブを取ろうと考える。また、その人の欲望が自分の欲望と異なっていたり逆の方向にあったりした場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。これを徹底した思想が、ドイツの哲学者のニーチェの言う「権力への意志」である。しかし、人間、誰しも、常に、他者という対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、誰かの反対にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。だから、フランスの哲学者のサルトルは、「対自化とは、見るということであり、勝者の態度だ。見られることより見ることの方が大切なのだ。」と言い、死ぬまで戦うことを有言実行したが、一般の人の中では、その態度を貫く「権力への意志」の保持者はまれなのである。誰しも、サルトルの言葉は理解するが、それを貫くことは難しいのである。また、大衆は、他者という対象を、無意識のうちに、自分の趣向性(好み)で捉えることが多い。だから、大衆の行動は、常に、感情的なのである。物の対自化とは、自分の目的のために、対象の物を利用することである。人間は樹木やレンガを建築材料として利用するのである。現象の対自化とは、自分の志向性でや趣向性で、現象を捉え、理解し、支配下に置くことである。科学者は自然を対象として捉え、支配しようとするのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理は、無の有化、有の無化という機能を持つ。無の有化とは、深層心理は、自分の志向性や自分の趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造することである。それは、「人は自己の心象を存在化させる」という機能である。人間は、この世に神が存在しなければ生きていけないと思ったから、神を創造したのである。有の無化とは、深層心理は、自分の志向性や自分の趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、この世に存在していないように思い込んでしまうことである。犯罪者は、罪に向き合うのが辛いから、自分は罪を犯していないと思い込んでしまうのである。深層心理は、無の有化、有の無化という機能によって、空想、妄想を生み出し、辛い現実を乗り越えていくのである。欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。深層心理は自我の他者の共感化という作用を行う。それは、深層心理が、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我と他者の共感化とは、自我の存在を確かにし、自我の存在を高めるために、他者と理解し合い、心を交流し、愛し合い、協力し合うのである。人間は、仲間という構造体を作って、友人という他者と理解し合い、心を交流し、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合い、労働組合という構造体に入って、協力し合うのである。年齢を問わず、人間は愛し合って、カップルや夫婦という構造体を作り、恋人や夫・妻という自我を持つが、相手が別れを告げ、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、深層心理の敏感な人ほど、ストーカーになって、相手に嫌がらせをしたり、付きまとったりするのである。それは、カップルや夫婦という構造体が壊れ、恋人や夫・妻という自我を失うことの苦悩から起こすのである。ドイツの詩人ヘルダーリンは、愛するゼゼッテが亡くなったので、深層心理が、この苦悩から脱出するために、自らを、精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにしたのである。また、敵と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の志向性である。政治権力者は、敵対国を作って、大衆の支持を得ようとするのである。保守勢力は、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆の支持を集めているのである。人間関係がすぐに成り立つのは、愛情・友情・信頼の連帯よるものではなく、「呉越同舟」の関係だからである。次に、感情と行動の指令という自我の欲望とは何か。それが、深層心理が生み出した感情が深層心理が生み出した行動の指令通りに、自我を動かそうとすることである。さて、欲動の四つの欲望がかなわず、自我が傷つけられたならば、深層心理は、怒りの感情とともに暴力などの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出す。深層心理は、怒りの感情によって、人間を動かし、侮辱や暴力などの過激な行動を行わせ、自我の欲望をかなえることを妨害した相手をおとしめ、傷付いた自我を癒やそうとするのである。しかし、そのような時には、まず、超自我が、ルーティーンを守るために、過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、深層心理の構造体の中で自我を持してこれまでと同じように暮らしたいという、欲動の第一の欲望である自我の保身化から発したいう作用である。しかし、もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、基本的に、長時間掛かかる。なぜならば、表層心理での思考は、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実原則とは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望である。この場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、侮辱したり殴ったりしたならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した暴力などの行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した侮辱や暴力などの行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を侮辱したり殴ったり、時には、殺害したりしてしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。それが、時には、精神疾患を招き、時には、自殺を招くのである。