あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

恋愛、対他存在、対自存在、深層心理

2015-03-29 12:17:26 | 思想
人間の意識は、対自存在と対他存在から成り立っている。対自存在とは、他の人の心の中を探ったり、動物の行動の目的を探ったり、物の利用価値を考えたり、事の意味を考えたりするあり方である。つまり、自分が中心になって、積極的に関わっていくあり方なのである。対他存在とは、自分が他の人からどのように見られているかを意識するあり方である。つまり、自分を受け身の立場にして、存在を確認する行為なのである。もちろん、対自存在も対他存在は、自らの意志によって動くのではなく、無意識のうちに動いているから、深層心理の働きである。恋愛感情を持つのも、深層心理の働きである。いつの間にか、ある人を好きになっていたのである。人を好きになることは、自分の心が動いたのだから、対自存在の働きであるが、それと同時に、相手にも自分のことを好きになってもらいたい気持ちが起こるのである。つまり、恋愛感情とは、深層心理が起こし、対自存在の働きと対他存在の働きの両存在によって、形成されるのである。恋愛感情だけでなく、対自存在と対他存在は、車の両輪のように、人間の心理と行動の全てを動かしている。もちろん、相思相愛が成立し、恋愛関係という構造体が創造されたということは、男女二人とも、対他存在が満足している状態にあるということを意味している。どのような恋愛も、対自存在の働き(相手への愛情)だけでは成立せず、対他存在の働き(相手からの愛情)が加わって、初めて、成立するのである。それ故に、恋愛には、喜びと哀しみが生じるのである。対自存在と対他存在は、重要な要素なので、例を挙げて、説明してみよう。第一の例として、Aが、昼食を共にするために、Bに会おうとしていたとする。Aが、「Bは、何を食べたいのかなぁ。」と考えている時に、対自存在のあり方をしている。Aが、Bに会って、Bの笑顔を見て、「Bは、私を信頼している。」と思った時、対他存在のあり方をしている。このような形で、私たちは、人に対して、対自存在と対他存在のあり方をするのである。しかし、私たちには、動物や物や事柄に対しては、対自存在のあり方しか無い。なぜならば、それらには心が無いので、それらが自分をどのように見ているかを考える必要が無いからである。虎は危険だから近付かないようにしよう、掃除機を使って掃除しよう、太平洋戦争は日本にどのような損害をもたらしたのか考えている時など、自分がそれらに対して、一方的に思いを馳せるのである。但し、動物でも、ペットは異なる。私たちは、ペットを人間のように扱い、自分を信頼していると思ったり、愛情を持っていると思ったりなど、対他存在のあり方で接している。人間のように、可愛く感じているのである。そのような人の中には、人間以上にペットに執着し、ペット依存症になる人までいる。第二の例として、Aがセーターを買おうとしていたとする。寒さをしのぐにはどのセーターが良いかと考えている時、Aは対自存在のあり方をしている。そして、そのセーターが自分に似合うかどうか、つまり、人からどのように思われるか考える時、Aは対他存在のあり方をしている。第三の例として、Aが野球部のピッチャーだったとする。敵チームのバッターに打たれないように投げている時、対自存在のあり方をしている。敵チームを押さえた後、観客の声援に応え、ヒーローの気持ちでいる時、対他存在のあり方をしている。第四の例として、Aが、高校の入学試験を受けていたとする。必死に問題を解いている時、Aは対自存在のあり方をしている。ふと、「この試験に受かったら、両親が褒めてくれるだろう。」と思った時、Aは対他存在のあり方をしている。第五の例として、Aがゲームをしていたとする。無我夢中でゲームに打ち込んでいる時、対自存在のあり方をしている。そして、誰かに声をかけられると、自分はどのように見られているか考え、対他存在のあり方になる。つまり、自らを対象化して見るのである。第六の例として、女性の化粧や男性の髭剃りを挙げることができる。男女とも、道具を使って、自らの顔に働きかける。その時は、対自存在のあり方をしている。しかし、化粧や髭剃りを思い立った時、男女とも他の人に目を意識しているから、その時点において、対他存在のあり方をしている。しかし、私たちは、自らの意志で、つまり、表層心理で、対自存在、対他存在の両方のあり方のどちらかを選択しているのではない。深層心理が、必要に応じて、この二つのあり方のどちらかを選択して、思考しているのである。そうして、深層心理は、ある思い・ある感情・ある行動を、私たちの意識に上らせる。それを受けて、私たちの表層心理は、深層心理の指示通りに行動するとどのような状態に陥るかを予想して、自らの行動を決める。しかし、深層心理が強すぎると、表層心理は抵抗できず、深層心理の思うままに行動することになってしまう。大抵の犯罪は、深層心理から湧き上って来る感情とそれに付随した行動の欲望が強すぎて、表層心理が止められないことから起こる。そうして、深層心理が弱まると、後悔するのである。常に、私たちの思考や感情や行動の方向性は、深層心理から始まる。それを受けて、表層心理が動き出すのである。動物には、深層心理と表層心理の区別が存在しない。だから、動物は、迷うこともなく、将来のことを考えることもない。さらに、動物には、対他存在のあり方は存在しない。だから、彼らは、常に裸であり、他の動物がいる前で、小動物を襲って食べ、排泄し、交尾できるのである。しかし、動物は同種の動物と争うことがあっても、殺し合うことはない。対他存在のあり方が無いからである。雄は、雌をめぐって戦うことはあっても、買った雄は負けた雄を決して殺さない。また、負けた雄も、決して、ストーカーにならない。動物には、恋愛関係という構造体が存在しないからである。さて、恋愛に話を戻すことにする。人を好きになっても、「私は片思いで良い。」と言う人がいるが、決して、それは本心ではない。好きな人ができて、相手の気持ちが自分に向かわなくても良いと思う人はいない。確かに、相手に告白しないで、ただ黙って遠くから見ているだけの人が、男女とも、数多く存在するのは事実である。しかし、それは、自分の気持ちを告白して、交際を申し込んでも、相手から断られる可能性が高く、恥をかきたくない(心が傷付きたくない)から、黙っているのである。対他存在(相手から好かれたい)が傷付くのを恐れているのである。それが、意志という表層心理である。しかし、そのような人も、恋愛感情が高まると、思い切って、告白してしまう。黙っていることに、我慢できなくなったのである。恋愛感情という深層心理の高まりを、告白した後のことを想定して、傷つくことを回避する表層心理が押さえることができなかったのである。つまり、自分は相手に恋愛感情を持っているのに、相手がそれに気付かず、自分に愛情を注いでくれないことに対して、堪えられなくなったのである。そして、人を好きになるのは、表層心理の意志の作用ではなく、深層心理の作用であり、いつの間にか、そうなってしまったのである。だから、好きになることを、「恋に落ちる」や「恋に陥る」などと表現するのである。次に、恋愛の対象となる、外見と中身について、述べる。人は、よく、「人間は中身が大切だ。外見ではない。」と言う。しかし、中身は、外から見えない。外見から、中身を判断するしかないのである。だから、外見つまり外面性(顔・しぐさ・態度・ステータス(社会的な位置・地位・身分))と、中身つまり内面性(思いやり・性格・気質)は、相反するものではなく、むしろ、深い繋がりがある。一般に、男性は、可愛い人、美しい人、色っぽい人、スタイルの良い人を好きになる傾向がある。つまり、外面的に魅力のある人である。そこに、優しく、柔らかなしぐさが加わる。一般に、女性は、社会的に力のある人や有名な人(若手政治家、医師、弁護士、スポーツ選手、俳優、芸能人)とイケメン(爽やかな人)を好む傾向がある。つまり、男女とも、外面性に引かれるが、女性は、それ以外に、社会的にステータス(地位、身分)に秀でた人にも好意を寄せるのである。ちなみに、女性が、イケメンと声高に言うようになったのは、最近のことである。女性は、普遍的に、有名人や実力者を好む傾向がある。だから、古代ローマの将軍のアントニウスにクレオパトラが近づき、唐の玄宗皇帝が楊貴妃を侍らせ、フランス皇帝のナポレオンに美女のジョセフィーヌが嫁いだのである。平安時代の女性にとっての憧れの男性である「よき人」は、身分が高く、教養(和歌、笛、漢詩などの才能)のある人だった。江戸時代の女性にとっての憧れのイケメンは、歌舞伎役者だった。現代では、プロ野球選手と美人女子アナウンサーがよく結婚する。それは、有名人や実力者に美女が近づくという意味ではなく、有名人や実力者に多くの女性が近づき、彼らは、その中から、美女を選んで、結婚するという意味なのである。さて、このように、男女は問わず、大抵の人は、外見やステータスから人を好きになるのだが、外見やステータスの基準が時代ごとに変遷している。しかし、同時代の人々の多くは、他者への同一化という深層心理によって、同じような人を好きになってしまう。他者への同一化とは、簡単に言えば、人のまねをする傾向である。わかりやすい現象は、流行を追う傾向である。具体的に例を挙げれば、次のようなことである。弟が持っている玩具を兄もほしくなってしまう。兄弟喧嘩になり、弟が泣かされるので、甘い親は、同じ玩具を二つ買う羽目になる。女子高校生は、他の生徒がルーズソックスをはいているのを見て、自分もはきたくなるのである。ブランド品を買いあさる女性たちは、他の女性がブランド品を身に着けているので、自分もほしくなったのである。現代の男性の多くが胸の大きな女性を好むのは、周囲の男性やマスコミが大きな胸の女性をちやほやするからである。だから、若い女性の多く胸を大きくするように努力し、豊胸手術をする人までいるのである。しかし、四、五十年前は、胸の大きな女性よりも胸の小さな女性の方が評価が高かったのである。男性から、胸の大きな女性は頭が悪いと思われたいたからである。だから、胸の大きな女性は、むしろ、さらしなどでそれを隠そうとしていた。現在、小顔が好まれ、流行して、若い女性を中心に化粧などによって小顔に見せようと努力している。これは、これまでの日本の歴史に存在しなかったことである。四、五十年前の女優は、現代から見ても、美人だといえると思うが、顔は、現代から見ると、大きい部類に属する人が多かったと思う。小顔の女優は、現代でも、活躍している。吉永小百合がその一人である。彼女は、小顔だからこそ、現代でも人気があるのだろう。平安時代は、顔がふっくらした女性、江戸時代は、浮世絵を見てもわかるように、顔が目立つ人が好まれた。だから、平安時代や江戸時代の男性の多くは、顔の大きさには、全くこだわらなかったと思われる。また、現代の女性は、二重瞼を美の条件にしているが、平安時代の女性は、一重瞼の切れ長の目が推奨された。そして、現代において、若い女性の多くは、肌をできるだけ白く見せようとし、男性もそれを好む傾向がある。顔の白さだけは、どんな時代にも通用する、所謂美人の条件のように思われ、「色の白いは七難隠す」と言われてきた。しかし、これも、四、五十年前には、夏目雅子という女優が、テレビのコマーシャルで、水着を付けて、小麦色の肌をアピールすると、若い女性はわざわざ肌を焼くようにし、男性たちは、白い肌の女性よりも小麦色の肌の女性を好んだ。このように、美の基準は、時代の変遷とともに、変化しているのである。そして、男性も女性も、無意識のうちに、時代の美の基準に自らを順応させて、外面を修整したり、人を好きになったりしているのである。これが、他者への同一化の意味である。もちろん、人を好きになるということは、深層心理のなすことだから、自分がそれに気づいていないのは当然のことである。

深層心理と苦悩

2015-03-21 17:44:49 | 思想
北陸では、珍しく、今日の早朝の空は、雲一つなく、青く、高く、澄んでいた。空を見上げた時、高校時代を思い出した。高校時代、私は、下宿していた。私は、何かに悩むと、部屋を飛び出し、砂浜に向かった。そこは、下宿の裏にあり、歩いて、五分ぐらいのところにあった。砂浜に仰向けになって寝ころび、大きく、高い空を見上げると、悩んでいる自分の存在がちっぽけなものに思え、悩みもどこかへ吹き飛んでいくような気がした。あるテレビ番組で、「自分探しをするために旅に出る若者」について取り上げていた。その時、評論家の一人が、「旅に出ても自分が見つかるわけはない。現実の自分をしっかり見つめることが大切なんだ。」と言った。確かに、旅に出て、現実を離れた所へ行っても、そこに、自分が活躍できる場所は無いだろう。しかし、気分転換になり、自分を見つめなおす機会にはなる。また、現実の自分をしっかり見つめ直すことが大切だと言われても、大抵の若者にはその手立ては無いだろう。日本は、高校はもちろんのこと、大学でも、専門学科以外では、哲学や心理学を教えていないから、日本の若者は、自分を見つめる手立ては、経験から学ぶしかない。それ故に、自分を見つめ直すようになれるまでには、相当な時間が掛かる。日本の教師も、欧米の教師と異なり、一部の人を除いて、大学では、本格的には、哲学や心理学を学んでいない。教育課程に、言い訳程度に、心理学が入っている程度である。だから、生徒にも、哲学や心理学を教えることはできないのである。そこで、若者は、暗中模索で自分探しをし、我流で自分探しをして、苦しんでいるのである。実は、政治家や文部科学省の官僚などの権力者たちは、敢えて、哲学や心理学を、高校教育に導入しないようにしているのである。なぜならば、高校生が、哲学や心理学を学ぶと、自分でものを考えるようになり、権力者の言うとおりにならないからである。その代わりに、道徳を導入しようとしているのである。政治家と官僚は、戦前と、意識が全く変わっていないのである。彼らの狙いは、従順な人間、素直な人間、つまり、扱いやすい人間を作ることにある。しかも、その効果が、着々と、成果が現れつつある。政治家や官僚の狙い通り、戦前志向の若者が増えているのである。さて、誰しも、悩むことがある。それは、次のような心理的な過程をたどって、起こる。まず、人は、プライドが傷つけられた時、傷つけられそうな時、深層心理がそれに対して怒り、自我の修復のために、反発、反論、復讐しようと考える。しかし、表層心理が、深層心理の思いのままに行動すると、一層、自分の状況が不利になると考え、別の方策を考えようとする。しかし、なかなか、別の方策が思い浮かばず、たとえ、思い浮かんでも、その方策に自信が持てないので、更に、別の方策を考えようとする。そうして、プライドが傷ついたままの状態、つまり、心が落ち込んだ状態が続く。このような状態、つまり、心が落ち込んだまま、プライドを取り戻す方策を考え続けている状態が、悩むということなのである。つまり、悩むとは、自我の修復の方策が見つからないので、苦痛の状態が継続している状態を指すのである。それでは、苦痛をもたらしているのは、何か。それは、深層心理である。深層心理が、苦痛を解除する方法を、表層心理に求めているのである。つまり、深層心理が心を悩ませ、人間に、真剣に考えるように仕向けているのである。それを受けて、考え込んでいるのが表層心理である。換言すれば、表層心理が、深層心理の与えた課題を考えているのである。しかし、その課題とは、必ずしも、重要なものではない。生きるか死ぬかの問題のようなものは稀である。プライドを取り戻すことが、課題のほとんどであるから、友人からは、「どうして、そんなくだらないことに悩んでいるんだ。」と言われ、自分自身も、後で、その時のことを振り返って、「どうして、あんなことで悩んでいたんだろう。」と疑問に思うことがしばしばである。哲学者のウィトゲンシュタインも「大抵の場合、問題が解決したから、悩みが解消したのではない。その問題がどうでもよくなったから、悩みが自然に消えていったのである。」という意味のことを言っているが、この言葉は、悩みの内実を解き明かしている。人間とは、プライドに囚われた動物である。人間は、プライドが傷つけられた、プライドが傷つけられそうになった時、心に動揺をきたし、それを回復するために、深層心理が、その人間に、近視眼的な行動を取らそうとするのは、その故である。人間には、対自存在と対他存在のあり方がある。簡単に言えば、対自存在とは見るあり方であり、対他存在とは見られるあり方である。この両方のあり方とも、誰しも、無意識のうちに、つまり、深層心理が行っているのであり、表層心理の意志的な行為ではなく、いつの間にか、自然に行われいる。例えば、あなたが、ある人を観察していれば、深層心理が、対自存在の働きをしていて、ある人に見られて、恥ずかしく感じたら、深層心理が、対他存在の働きをしているのである。プライドとは、対他存在の別名である。プライドが目立つ人をプライドの高い人だと言うが、プライドの無い人は存在しない。また、人間は、いついかなる時にでも、プライドは存在する。家族の中にいても、道を歩いていても、コンビニエンスストアにいても、電車に乗っていても、学校の中でも、会社の中でも、全て、そうである。いついかなる時でも、人間は、他人の視線を意識しているからである。他人の視線を意識していること、すなわち、それが対他存在のあり方なのである。つまり、人間は、いついかなる時でも、プライドを持っているのである。しかし、人間は、漠然とした人間として、プライドを持っているのではない。漠然とした人間として、評価されたいのではない。例えば、女子高校生は、女子高校生としての対他存在があるのである。女子高校生としてのプライドを持っているのである。女子高校生として、見られ、評価されたいのである。女子高校生は、たくましいと言われても、心が傷つくこと、つまり、プライドが傷つけられることはあっても、ちっとも、うれしくないだろう。しかし、一家の主は、たくましいと言われると、うれしくなるだろう。なぜならば、女子高校生は、自らを女子高校生と認め、つまり、女子高校生の自我を持って、それを認められようと行動しているからである。同様に、一家の主は、一家の主の自我を持って、それを認められようと行動しているのである。女子高校生は、一高校に所属にしているから、女子高校生という、社会的に認められた位置を獲得しているのである。一家の主は、一家族に所属しているから、主という、社会的に認められた位置と獲得しているのである。このような、高校、家を構造体と言う。会社、店、大学、中学校なども構造体である。また、女子高校生、主などの社会的な認められた位置をステータスと言う。中学生、課長、母、なども、ステータスである。私たちは、いついかなる時でも、何らかの構造体に属し、何らかのステータスを得て、それを自我として持ち、それが認められるように行動しているのである。つまり、プライドを得るために、少なくとも、プライドを保持するために、行動しているのである。もちろん、それは、無意識、つまり、深層心理の下で行われているから、自分では気づいていない。人から褒められたり、高い評価を受けたりして、認められると、プライドが満足されて、喜ぶ。人から、馬鹿にされたり、低い評価を受けたりして、ないがしろにされると、プライドが傷つき、心を痛める。この喜んだこと、心を痛んだことだけが、感情として、意識に上ってくるのである。それが、対他存在のあり方なのである。つまり、対他存在は、深層心理の仕業なのである。私たちは、自らの対他存在に気づかないままに、対他存在によって動かされているのである。対自存在も、また、私たちが気付かないままに、私たちを動かしている。誰が、見ようと思って、見ているだろうか。確かに、何かを探すために、辺りを見回すことがある。その時は、見ようと思ってみているのではなく、見つけようと思って、見ているのである。対自存在の見るとは、そういうことではなく、見えてくるのである。例えば、彼が誠実な人のように見えてくることがある。それは、彼を見ていると、誠実な人のように見えてくるのである。だから、対自存在も、また、深層心理の仕業なのである。このように、対他存在も対自存在も、深層心理の仕業なのである。そうすると、私たちは、深層心理によって、ほぼ、支配されていて、表層心理の出る幕はわずかなのである。誰しも、苦悩の淵に陥ると、つまり、深層心理と表層心理の葛藤の坩堝(るつぼ)から抜けられなくなると、自分自身を責めたり、他の人を責めたりして、ますます、人間関係の袋小路にはまり込み、抜けがたくなる。しかし、苦悩の淵に陥らせるのが深層心理で、自分の意志とは関わりのないものがもたらすのであり、苦悩の原因が自我のプライドが傷つけられたことによることだと知れば、自分自身や他者を責めたてることは、深層心理の言うがままになっていることを意味し、何の解決にもならないことが理解できるはずである。深層心理は、全ての人の心の奥底に存在するものである。しかし、自分で産み出した心理ではないから、容易には、コントロールできないものである。それを評して、詩人のランボーは「自分とは他者のことである。」という意味のことを言い、心理学者のラカンは「この世に自分は存在しない。」という意味のことを言っているのである。人間の心の動きは、常に、深層心理から始まる。そして、誰しも、思い通りの夢を見ることができないのと同様に、深層心理を産み出すことはできないのである。それでも、深層心理を自分のものとして、引き受けなければいけないところに、人間の悲劇がある。トラウマも、深層心理が産み出したものである。トラウマについて、辞書は、「心理的に大きな打撃を与え、その影響がいつまでも残るようなショックや体験。心的外傷。精神的外傷。」と説明している。しかし、なぜ、トラウマが起こるのか、どのようなことがトラウマになるのかの説明がなされていない。そこで、辞書の不足分を説明すると、次のようになる。プライドが傷つけられたことが、トラウマになるのである。先に述べたように、プライドとは、対他存在を満足したい気持ち、つまり、自分が他の人に良いように見られたい気持である。トラウマの例として、東日本大震災で、自分だけが助かり、家族全員を喪った父親を挙げることができる。彼は、家族を助けられなかったことで、家族にも、他者にも、顔向けできない気持ちでいるのである。父親としての自我の面目を失ったと思っているのである。父親としてのプライドを傷つけられたのである。なぜ、トラウマとして残っているかと言えば、自分は、父親として助けることができなかったという慚愧(ざんき)の念が、深層心理に、残っているからである。そして、時として、深層心理が、表層心理に、そのことを解決せよと要求するのである。しかし、言うまでもなく、過去に戻すことはできない。そこで、苦悩の淵に陥るのである。

役柄存在と構造体

2015-03-14 17:41:50 | 思想
私たちは、毎日、いついかなる時でも、何らかの役柄を演じて、暮らしている。役柄存在が、私たちの暮らし方なのである。私たちに与えられた役柄が、ステータス(社会的な位置)である。私たちは、その役柄に成りきっ、つまり、ステータスに成りきって暮らしている。ステータスに成りきって生活している時の心のあり方を、自我と言う。ドラマには、必ず、役者が登場し、その役柄に応じて演技する。私たちは、毎日、いついかなる時でも、何らかの役柄を担い、それに成りきって、暮らしている。しかし、役者と私たちとは、明確な違いがある。役者は意識して、つまり、表層心理で、その役柄を演じている。しかし、私たちは、深層心理で、役柄を演じている。しかも、役柄に成りきっているので、自分が演じているのに気付いていない。ちなみに、役者には、名優と大根役者がいる。名優とは、その役柄にはまり、演じているように感じられない人のことを言う。大根役者とは、その役柄に成りきれず、わざとらしく、演じているように感じられる人を言う。さらに、若い女性が、同じようなしぐさをしても、「かわいい」と言われる人と、「ぶりっこ」と言われる人がいる。「かわいい」と言われる人は、そのしぐさが演じているように見えない人であり、「ぶりっこ」といわれる人は、そのしぐさがいかにも演じているように見える人である。さて、これから、家族という、われわれの日常生活のおいて、最も基礎となっている組織について、構造体と役柄存在の面から、述べようと思う。家族もまた構造体の一つであり、その一員のそれぞれが、役柄を演じている。それは、テレビのホームドラマと同じである。実際の家族が、ホームドラマのようなありかたをしているから、ホームドラマが作られ、そして、テレビのホームドラマが実際の家族の在り方に影響を与えることができるのである。ホームドラマは、家族の中に起こる問題を、他の面々がどのように関わり、家族全体にどのように影響を与え、どのように変化し、どのように解決していったかを描いたドラマである。私たちの日常生活において、家族とは血縁関係を基にした構造体で、最も中心的な存在である。例えば、ここに、山田良子という女性がいたとする。山田家は、七人家族で、祖父、祖母、父、母、長男、そして、長女、次女(本人)で構成された、構造体である。彼女は、帰宅すると、山田家という構造体の下で、次女というステータスに成りきって、次女の自我(プライド)を持って、行動する。どのような構造体にも、了解事項があり、家族という構造体もその例外ではない。彼女の行動は、家族全体によって、制約されている。特に、彼女は、長女に頭が上がらない。しかし、長女は、時には、彼女をいたわり、かばってくれる。山田家の人々は、家族の一人が褒められると喜び、侮辱されると怒る。なぜならば、人間とは、構造体に所属することでしか、一人の人間として存在できないから、構造体とは一心同体の組織だと思い込んでいるからである。家族はいっそう身近な構造体だから、自我もより強く作用する。それ故に、家族の一人でも欠けると、残された者たちの心に空虚が生じる。例えば、山田家の祖父が亡くなると、良子も悲しみに暮れてしまう。今まで、七人が家族の構造体として組織され、それを当然のごとくのように思っていたので、すぐには、六人家族の日常生活が送れないからである。それでも、六人家族という構造体に慣れていく。葬式とは、祖父が家族という構造体から去り、もう二度と戻ってこないということを受け入れようとする、けじめのための積極的な儀式である。祖父は、亡き人となり、山田家の構造体に、もう、影響を及ぼすことはない。また、良子が、祖父が亡くなったのを心の底から悲しんだのは、家族という構造体の一人が欠けたというばかりでなく、祖父が孫の良子を可愛がり、良子はその愛情を快く受け入れていたからである。一般に、相手が自分を愛してくれたり認めてくれたりした(対他存在を満足させてくれた)ならば、自分も相手を愛したり認めたりする(相手の対他存在を満足させる)ものである。だから、祖父が良子可愛がってくれたので、良子も祖父を慕っていたのである。また、一般に、祖父や祖母が孫が可愛いのは、自分たちの死期が近いのを悟り、死後、この世に、自分たちの血縁関係者が存在することで安心を得るのである。つまり、死んだ後も、この世に、自分たちの生が残るという幻想から、わが子より、孫という若い者が大切に思われるのである。さて、これまで、家族の一員が欠けたことをついて述べてきたが、家族が増えた場合に、どうなるか精神分析したい。端的に言えば、やはり、心が動揺するのである。よく、母子家庭の母は、「子供たちのために、父親がほしい」と言って、再婚を望む。しかし、実際は、自分一人では育てていくことが不安だから、もしくは、自分に好きな人がいるから、そうしたいのである。更に、「子供たちが、新しいお父さんをほしがっていていたから。」と言う人は、心に何らかの疚しさを感じるので、自分の再婚を正当化しようとしているのである。たとえ、子供たちが、「新しいお父さんがほしかった。」と言ったとしても、それは、母親の思いを汲んだものであり、自分たちの本心ではない。なぜならば、子供たちは、これまでの家族とう構造体に。新しい人が加わることに不安を覚えているからである。母親は、「私を愛してくれている人ならば、子供たちも愛してくれるだろう。」と思っているかもしれないが、それは、母親の願いにしか過ぎず、往々にして、期待に反した結果を招く。男性は女性を愛しても、その女性の子供も愛する理由は存在しない。もしも、新しく父親になった人が、子供たちを可愛がったとしたら、それは、その人が元々子供好きな人であるか、子供たちの方から、新しい父親を立てている(新しい父親の自我を喜ばせている)からである。大抵の場合、前夫の間にできた子供と新しい父親の関係は上手く行かない。それは、新しい父親は、すぐに、ステータスとしての父の権威を子供たちに求める(父としての自我を満足させようとする)からである。しかし、子供たちにとって、新しい父親は、今までの母子家庭という構造体を壊す、異物なのである。馴染めないどころか、本質的には、入って来てほしくなかったのである。新しい父親に違和感を覚え、どう接して良いかわからない。こんな場合、新しい父親が、長い時間を掛けて、子供たちに優しく接して、受け入れてもらうようにするべきなのである。しかし、大抵の新しい父親は、すぐに、子供たちに自らのステータスを認知させようとするあまり、拒否され、暴力を振るったりして、ますます、心が離れていくのである。このような時、母親は子供たちをかばえば良いのであるが、新しい夫に嫌われたくないために、見て見ぬふりをすることが多い。新しい夫の共犯者になることも珍しくない。母子関係という構造体よりも夫婦関係という構造体が大切なのである。さらに、新しい父親の間に、子供が生まれると、子供たちの立場は一層みじめなものになる。それは、父子家庭の場合も同様である。もちろん、母子家庭の子供たちと新しい父親、父子家庭の子供たちと新しい母親が、上手く行く場合があるが、それは、新しい父や母が子供好きか、深い包容力のある人の時である。ちなみに、国際大会で、日本人が活躍すると、大抵の日本人が喜ぶのは、自分もまた日本という構造体に属し、日本人という自我が満足できるからである。また、「在日韓国人は韓国に帰れ。在日朝鮮人は北朝鮮に帰れ。」などと、ヘイト・スピーチをして、大通りをデモ行進をしている団体があるが、これも、日本人という自我がなせる業である。日本人という自我に囚われると、このような恥ずかしいことを集団で行ってしまうのである。悲劇的なのは、恋愛関係という構造体が壊れた時である。恋愛関係は、二人で組織されているから、一人が去ると、恋愛関係という構造体は崩壊する。それが、失恋という現象である。残された者の心の空虚、つまり、苦悩は。並大抵ではない。そこで、残された者は、心の修復を図るために、色々なことを講じる。ある人は、相手を忘れるために涙を流し続ける。涙が苦悩をいやすことがあるのである。ある人は、自分の思いを友人に聞いてもらう。人に自分の思いを聞いてもらうことで心が癒されることがあるのである。ある人は、嵐が過ぎ去るのを堪えて待つように、失恋の苦しみを忘れるために、やけ酒を浴びたり、やけ食いしたり、音楽を聴いたり、長電話をしたりする。そうしているうちに、徐々に忘れることができるのである。ある人は、そんなに好きではない人を、恋愛の対象者として受け入れ、恋愛関係の構造体を建て直して、失恋の苦悩から逃れようとする。また、一部であり、男性が多いのだが、ストーカーになる人もいる。ストーカーになる男性とは、恋愛関係という構造体の崩壊を認めることがあまりに苦しいので、それを認めることができす、去った彼女を呼び戻して、崩壊した恋愛関係という構造体を再構築するために、なりふり構わず、接近していく人である。それでも、彼女が受け入れてくれない場合、諦めきれず、時には、殺人まで犯してしまう人がいる。そうすることによって、自らが勝者の位置に付くことができるからである。つまり、恋愛関係という構造台を破壊したのは、彼女(の意志)ではなく、自ら(の意志)だとすることで、去られた(失恋した)者の苦しみ、つまり、敗者の苦しみから逃れようとするのである。だから、世間では、よく、「振られた人よりも振った人の方が辛い。」という人がいるが、それは、嘘である。やはり、振られた人の方が、断然、辛いのである。また、女性が、失恋しても(恋愛関係にあった男性に去られて構造体が壊れても)、ストーカーになることがほとんど無いのは、相手の男性を憎悪し、軽蔑して、自分の方が上位に立てるからである。つまり、精神的には、勝者の立場にあるわけである。言わば、「あんな男なんか、こっちの方から、願い下げよ。」と、心の底から、思うことができるからである。

深層心理の支配、表層心理の抵抗

2015-03-10 18:56:14 | 思想
近頃、マスコミは、よく、罪を犯した人に対して、自己責任という言葉を使う。そして、罪を犯した人は、自分の犯した罪の大きさに気付き、悄然として、そして、茫然として、マスコミのカメラの前を歩いている(歩かされている)姿をよく見る。確かに、自分の犯した罪は、自分で償わなければならない。しかし、自己責任という言葉には、自分の行動は全て自分の意志から発し、人間は意識的に行動しているという意味が含まれている。しかし、それは大きな誤解である。なぜならば、まず、人間の心の中に生まれて来る感情、そして、その感情に伴った行動への思いは、自分の意志ではないからである。言わば、自分の意志と関わりなく、勝手に生まれて来るのである。例えば、若い男性によくあることだが、ある人のことを怒り、殴ってやりたいという思いが湧いてくる。しかし、その思いは、自分の意志ではない。自分の心の中で生まれたものであるが、自分の意志ではない。これが、深層心理なのである。しかし、大抵の人は、殴った後のことを考えて、自分の意志で、殴ることをやめる。それが、表層心理の働きである。言うまでもなく、表層ん心理が深層心理を制止できず、殴ってしまえば、当然、罪に問われる。つまり、自分が産み出した感情ではないが、それに引きずられて犯した行為が犯罪なのである。しかし、私は犯罪使者をかばうために、このようなことを言っているのではない。人間には、自分の意志でできることとできないことがあり、責められるべきことと責められるべきではないことがあるということを言いたいのである。それは、いたずらに他の人を責めたり、自分自身を責めたりすることを無くしたいからである。むやみに、他の人を責めたり自分自身を責めたりする人は、人間とは自分の感情も行動もコントロールできる動物だと誤解しているのである。さて、先のブログで、対他存在、他者への同一化について述べたが、これらは、深層心理に属している。簡単に再説すると、次のようになる。深層心理とは、自分の意志に関わりなく、自分の心の中に生まれて来る、感情そして具体的な行動への欲望である。表層心理とは、その心理を受けて、それを対処しようとする、心の動きである。対他存在とは、人間の、常に、他の人の目、他の人の評価を気にしている、あり方を指している。正確に言えば、人間は、人の目を気にするのではなく、人の目が気になるのである。それ故に、対他存在が、深層心理に属していると言えるのである。他者への同一化とは、他の人と同じようなことをしていると安心するありかたを指す。真似をしたり、ブランド品にはまったり、流行を追ったりすることは、皆、その現象である。また、学ぶの語源は、まねぶ(まねをする)ということからわかるように、学ぶも他者への同一化の現象である。そして、他者への同一化の現象も、自らの意志ではなく、いつの間にかそのようにしているということで、深層心理に属しているのである。さらに、今回のブログで説明する、構造体、ステータス、自我も、また、深層心理に属している。これらは、対他存在、他者の同一化の現象と深く関わり、人間の感情のあり方や行動の原理になっている。人間には、希望、喜び、楽しさなどの自分を高める感情と、怒り、悲しみ、苦悩などの自分の心のバランスを崩す感情が存在するが、これらは、往々にして、構造体、ステータス、自我のあり方から発している。今回は、苦悩という現象を取り上げ、説明したいと思う。苦悩は、誰にでも、訪れる感情である。中には、絶えることなく訪れ、それが高じて、うつ病になり、挙句の果てに、自殺する人まで存在する。人間の苦悩の原因は、大体において、精神的なものである。肉体的なものは、苦悩ではなく、苦痛である。苦悩が、人間を精神的にどん底に突き落とすのである。うつ病になったり、自殺したりする人は、肉体的な苦痛よりも、精神的な苦悩が原因であることが多い。端的に言えば、苦悩は、対他存在が傷つけられたことから発生する。対他存在とは、自分が他の人からどのように見られているかの意識である。つまり、人間は、自分が、他の人から叱られたり、侮辱されたり、無視されたり、陰で悪口を言われたりなどして、低く評価されると、苦悩するのである。逆に言えば、それは、人間は、常に、自分が、他の人から、人並みに、もしくは、人並み以上に見られたいという思いがあることが示している。この、自分が、他の人からどのように見られているか、意識されている自分の姿が、自我である。単刀直入に言えば、自我とは、構造体における、ステータスとしての自分の姿、そして、対他存在から来る、自分のプライドの動向を意味する。つまり、苦悩とは、自我が傷つけられ、プライドを失ったことから、起こるのである。それでは、構造体とは、何か。構造体とは、一つの組織、関係性の塊を意味する。例えば、家族、会社、学校、店、友人関係、恋愛関係など、それぞれが一つの構造体である。ステータスとは何か。ステータスは英語であるが、和訳すると、身分、地位、階級など、社会的な位置を表す。例えば、家族という構造体の中では、父、母、長男、長女、次男、次女などがそれに当たり、会社という構造体の中では、社長、部長、係長、社員などがそれに当たり、学校という構造体の中では、校長、教諭、生徒などがそれに当たる。自我とは、構造体の中における、自らのステータスとして、対他存在である。わかりやすく言えば、プライドである。例を挙げて、構造体、ステータス、自我について、説明することにする。ここに、山田一郎という四十代の男性がいたとする。彼のある日の一日の行動を見ると、朝、自宅で起きると、妻、長男、長女とともに朝食を取り、電車に乗り、東京屋商事株式会社に行き、勤務が終わると、電車に乗り、コンビニに立ち寄り、帰宅すると、風呂にすぐ入り、一家で夕食を終え、テレビを見て、その後、寝て、次の日を迎えている。この日の彼の所属した構造体は、山田家、JRの電車、東京屋商事株式会社、ファミリーマートということになる。ステータスは、山田家の父、JRの電車の客、東京屋株式会社の営業課長、ファミリーマートの客である。そして、それぞれの構造体の中のステータスに応じての自我を持っている。彼は、この日、朝食の際、長男を叱った。長男は、受験生のために、遅くまで勉強し、時々、起きるのが遅いことがあった。それに応じて、朝食に遅れることがたびたびあったのである。今まで黙っていたが、今回こそ、注意したのである。すると、長男は、「そんなこと言うんだったら、食べない。」と言って、本当に、食べずに高校に向かおうとした。妻は、すぐに、トーストを包んで、長男に持たせた。どうして良いかわからず、父としての自我が傷つけられ、山田一郎は黙っているしかなかった。しかし、夕食の際、長男が、「お父さん、朝のこと、ごめん。俺、ちょっと、日本史の年号が覚えられず、いらいらしていたから。明日からは、きちんと起きるよ。」と言ってくれたので、父としての威厳が保たれ、山田家の父としての自我を満足させることができた。会社では、営業部長に、商品の売れ行きが悪いので発破をかけられ、少々、営業課長としての自我が傷つけられた。そこで、明日、営業部の社員を集めて、売れ行きを伸ばすための会議を開こうと考えた。ファミリーマートでは、店員の愛想のよい応対に、客としての自我を満足することができた。このようにして、山田一郎は、一瞬たりとも、孤立した山田一郎として生きることはなく、常に、ある特定の構造体に属し、ある特定のステータスを得て、それを自分として自我意識を持ち、自我を満足させることを目的にして生きているのである。私たちの毎日も、山田一郎と同じである。私たちは、毎日、いついかなる時でも、ある特定の構造体の中で、ある特定のステータスを得て、それを自分として自我意識を持ち、自我を満足させるために行動しているのである。それでは、自我が満足する時はどういう場合か。言うまでもなく、対他存在が満足する時である。つまり、他の人から、好かれたり、褒められたり、存在が認められたりなどして、高く評価される時である。山田一郎が、ファミリーマートで喜びを感じたのは、店員から、客という自分のステータスを認めれているように感じられ、自我が満足できたからである。逆に、対他存在が不満な時、つまり、他の人から、嫌われたり、侮辱されたり、馬鹿にされたり、無視されたりなどして、低く評価された時、自我が傷つけられる。そして、自我の修復の方法が思いつかないとき、苦悩に陥る。山田一郎が、朝食の時、心が傷ついたのは、長男に父というステータスを蔑ろにされたと思ったからである。しかし、夕食の時に、長男が謝ったので、父というステータスが認められたように感じられ、自我が修復され、苦悩に陥ることはなかったのである。会社でも、部長から、商品の売れ行きが悪いということで苦言を呈され、営業課長という自分のステータスを低く評価されたように感じ、自我が傷つけられたが、明日、その対策の会議を開くことにして、苦悩に陥ることからまぬかれることができたのである。つまり、私たちが苦悩に陥るは、ある構造体で、ステータスとしての能力を低く評価され、自我が傷つけられた時、それを修復するのによい方法が思いつかず、絶望に陥った時である。

人は他者の欲望を欲望する

2015-03-07 20:44:05 | 思想
フランスの心理学者のラカンに、「人は他者の欲望を欲望する」という言葉がある。一見、難しく感じられるが、実は、その意味は平易である。この言葉には、二つの意味がある。端的に言えば、他者への同一化と対他存在である。他者への同一化の意味は、人間は、他の人が好きなものを好きになり、他の人がしていることをしたくなり、他の人がほしがっているものをほしがるということである。私たちが、自分の意志で選んだと思っている物やことは、実は、他の人がしているから、それを選んだのである。例えば、弟がおもちゃで楽しく遊んでいると、兄もそれがほしくなり、兄弟喧嘩が始まる。中学校を卒業すると、誰しも、勉強が嫌いでも、他の同級生が高校へ行くから、自分も進学する。女子高校生は、他の女子高生がルーズソックスやミニスカートを履いているから、履きたくなるのである。若い女性は、世の中で小顔が推奨されているから、自分も小顔もなりたくなるのである。江戸時代までは、浮世絵を見てもわかるように、顔が美的評価の第一要因だったから、大きな顔の方が推奨され、小顔を望むということはなかった。五十年ほど前、日本では、胸の大きな、若い女性は、恥じた。胸の大きな女性は、頭が悪く、下品だと言われていたからである。胸の大きな人は、それを隠すために、さらしなどで胸をきつく押さえていた。しかし、逆に、現代は、胸の小さな、若い女性が恥じている。時代の価値観の変遷が、人間の心(深層心理)を動かし、悲喜劇を生むのである。現代の女子高校生は、社会で、可愛らしさが評価されているから、自分も可愛らしく装い、振る舞うのである。しかし、女子高校生の可愛らしさが、社会的に認められたのは、二十年ほど前のことである。社会学者の上野千鶴子が、「私の高校時代は、女子高校生は、社会的に無視された存在だった。」と言っています。女子高校生は、肉体労働ができず、結婚にもまだ間があり、見聞も狭いということで、家庭的にも社会的にも、あまり役に立たないので、無視されていたのである。しかし、二十年ほど前に、「高校教師」(主演・真田広之)というテレビドラマで、桜井幸子が演じるヒロインの女子高校生が、あまりにも、可愛く、誠実で、知的だったので、それ以来、女子高校生は、可愛い存在として認められるようになったのである。三十年ほど前に、「金曜日の妻たちへ」というテレビドラマで、石田あゆみや小川知子が演じる、三、四十代の主婦の不倫があまりに魅力的だったから、それ以来、主婦たちはおしゃれになり、不倫をする人が増えたのである。四十年ほど前に、洋画の「エマニエル夫人」で、ヒロインのシルビア・クリステルの性演技が、上品で、美しかったので、この映画に触発されて、多くの若い女性が、自らの感性の性を主張するようになった。日本は、それ以前は、女性の結婚には、一度も性の経験がないことが必須条件だった。男性の考えが、一方的に、女性に押しつけらていたのである。しかし、自らの考えの下で、性を主張をすることで、社会から、女性の性体験の有無が結婚条件から外されるようになった。ブランド品が、女性に人気があるのは、他の女性がそれをほしがり、羨ましがるから、それが素晴らしく見えると同時に、それを手に入れると、虚栄心を満足させることができるのである。私の五千円の腕時計は、二十年以上、正確に時を刻んでいるが、ブランド品でないので、誰もほしがらない。レオナルド・ダ・ビンチの描いたモナ・リザは、絵の専門家が名画だと言うから、絵のわからない人も、名画として扱うようになったのである。大阪府民や兵庫県民に阪神ファンが多いのは、周囲のほとんどが阪神ファンだからである。私自身、小学生の頃は、父や兄の影響で相撲ファンになり、中学生になると、友人たちの影響で野球ファンになった。高校一年生から、主にサッカーをするのなったのは、体育の時間で、クラスメートに褒められたからである。このように、私たちは、無意識のうちに、他者の思いを、自分の心(深層心理)に取り入れて、自分の思いとしている。しかし、注意すべきことは、犯罪への加担も、他者への同一化から来る現象だということである。仲間に同調して、いじめや万引きなどに加担する子供が非常に多いのである。しかし、他者への同一化の深層心理の動きで、確実に、良いことだと言えることがある。学ぶということである。学ぶの語源は、まねぶ(まねをする)である。人間は、まねをすることによって、今まで、自分にはなかった技術や技能や学問や知識を取り入れていくのである。学ばない人間は、オリジナルと言われるものは作れず、人間としての成長もない。次に、対他存在であるが、対他存在とは、他の人に、自分がどのように見られているか、気遣うあり方を指している。その本質は、他の人の評価を得たいのである。それが、他者の欲望を欲望するという意味なのである。例えば、ボランティア活動は、何の見返りも求めていないように見えるが、やはり、ボランティアの対象者に感謝されたいという気持ちがある。だからと言って、否定すべきことではない。その活動そのものに意味があるからだ。また、無償の愛も存在しない。確かに、多くの親は、将来、子供の世話が期待できなくても、愛情を持って、育てている。無償の愛ではなく、子供の成長を見る喜びが見返りなのである。確かに、一途に、愛する男性や女性に尽くす人がいる。彼らは、自らの尽くす態度を無償の愛だとしているが、そうではない。彼、彼女の愛を留めておきたいから、自分に自信がないから、無我夢中で、そうしているのである。しかし、それでも、そのような人たちは、いじらしく、健気である。しかし、人間は、往々にして、一途に尽くされると、それを重く感じて、去ってしまう。なぜならば、尽くされたことに対する応分の見返りをする自信がないからである。しかし、このような人は、善人である。ずるい人たちは、一途な愛を利用して、楽をし、そして、堕落していく。また、冗談のように、失恋した女性は髪型を変えるとよく言われるが、私は、そのような女性を知っている。彼女は、髪型を変えることによって、他の人から、これまでの自分とは異なった、新しい自分を見てほしいのである。つまり、他の人が自分に対する見方が変わると、自分が変わったように思えるのである。すると、過去の自分(失恋した自分)を捨てることができ、新しく生まれ変われた気になるのである。また、自分で自分のことを可愛いと思っている女性も、誰もそう言わなければ、自信を持つことができず、不安である。逆に、自分で自分のことを可愛くないと思っていても、誰かが、真面目な顔で、可愛いと言えば、自分に自信を持つことができるのである。また、どれだけ、自分に自信を持っていても、他の人から、馬鹿にされたり、侮辱されたり、無視されたりして、低く評価されると、必ず、心が傷つき、自信を失ってしまう。また、希望とは、将来において、他の人に認められる可能性があることを、現在、自分が所持していることを意味している。また、一人っきりで、自分の部屋にいても、常に、他の人の目を意識している。誰かが、いつ、訪れても良いように、常に、態勢を整えている。部屋を乱雑にしていても、自宅をゴミ屋敷にしている人も、人の目が気にならなくなったわけではない。これぐらいならば許してもらえると思っているのである。また、良い思い出は、例外なく、他の人に高い評価を受けたものである。逆に、トラウマとは、他の人から侮辱されたり、馬鹿にされたり、叱られたり、自分の力不足を思い知らされたりして、自らを卑下した体験である。そこには、他の人の評価が深く絡んでいるのである。うつ病などの世親疾患も、原因は、対他存在から来る恐怖、つまり、人の目に覚える恐怖である。例えば、会社員がうつ病に陥るのは、会社で、上司に叱られたり、ミスしたなどの過去の出来事、そして、仕事をうまくこなせないのではないかという将来に対する不安などの危惧、つまり、自分がこの会社では認めてもらえないのではないか、首になるのではないかという不安が原因なのである。つまり、他の人から、自分が低く評価されることの恐怖、心配、不安から、起こるのである。しかし、私たちは、自分の心(深層心理)の中にある、他者への同一化の動きも対他存在のあり方も、決して、消滅させることはできない。消滅できた人は、人間性を失ってしまう。しかし、だからと言って、それらの奴隷になる必要もない。その正体を理解して、上手く付き合うことが大切なのである。私たちは、他の人から、高く評価されなくても、無視されても、馬鹿にされても、侮辱されなくても、低く評価されても、それで死ぬことはなく、何度でもやり直すことができるのである。そうして、礼儀正しく接し、相手の話を誠実に聞くようにすれば、必ず、自分を評価してくれる人は現れ、仲間や友人ができるのである。なぜならば、自分だけでなく、人は、皆、他の人と繋がりたいという他者への同一化、そして、他の人に認められたいという対他存在の心情(深層心理)が存在するからである。それでも、もしも、努力しても、仲良くなれない人がいたら、怒って口を利かないのではなく、形式的・実利的に接して、敵対しないことである。そうすれば、いつか、好転することがある。好転しなくても、悪化することはないのである。。