あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、感情に動かされて生きているが、感情を生み出すことはできない。(自我から自己へ24)

2024-07-26 15:52:08 | 思想
人間は感情の動物である。人間は、感情に動かされて生きている。しかし、感情を生み出すことはできない。換言すれば、人間は、感情に振り回されて生きているが、感情をどうすることもできない。この人間のあり方には、自我が深くかかわっている。自我は、全てのの感情の基点であるだけでなく、全ての欲望、全ての行動の基点なのである。人間は、常に、構造体に所属し、他人を意識しつつ、他者と関わりながら、自我として生きている。構造体とは、人間の組織・集合体である。他人とは構造体外の人々である。他者とは構造体内の人々である。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体には、夫婦、家族、学校、会社、国、店、電車、仲間、カップルなどがあり、それに応じて自我がある。夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、クラスという構造体では担任教諭。生徒という自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我がある。だから、ある人は、男女という構造体に所属している時は男性という自我を所有し、夫婦という構造体に所属している時は夫という自我を所有し、家族という構造体に所属している時は父という自我を所有し、小学校という構造体に所属している時は教諭という自我を所有し、コンビニという構造体に所属している時は客という自我を所有し、電車という構造体に所属している時は乗客という自我を所有し、日本という構造体に所属している時は日本人という自我を所有し、東京都という構造体に所属している時は都民という自我を所有して活動しているのである。だから、小学生は彼を先生と呼ぶが、それは、小学校という構造体においての彼の自我にしか過ぎないのである。また、息子や娘は彼をお父さんと呼ぶが、家族という構造体においての彼の自我にしか過ぎないのである。だから、彼の本当の姿など存在せず、構造体によって、異なった自我を所有しているだけなのである。しかも、人間は自ら意識して自我として行動していないのである。人間の自らを意識した精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は表層心理で思考して自我として行動していないのである。深層心理が、自我を主体に立てて、心境の下で、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理とは無意識の精神活動である。無意識の思考が人間を動かしているのである。つまり、人間は自我として生きているが、その自我を自ら動かしていず、深層心理に動かされているのである。人間は、表層心理で思考して意志によって行動しようとしても、深層心理が得心しなければ行動できないのである。なぜならば、深層心理は感情を生み出すことができるが、表層心理の思考では感情を生み出すことができないからである。だから、表層心理での思考による結論は行動の指令にならないのである。深層心理が、表層心理での思考による結論を得心して、感情と行動の指令という自我の欲望として生み出した時、人間は、初めて、行動できるのである。つまり、表層心理での思考だけでは行動できないのである。確かに、人間は、表層心理で思考して、すなわち、自らが自ら意識して思考して、自我の欲望を生み出していない。深層心理が思考して自我の要望を生み出している。しかし、表層心理で思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。なぜならば、人間は自我の欲望に動かされて生きているからである。感情が動力となり、行動の指令通りに人間を動かそうとするのである。自我の欲望は、自我を主体にした欲望であるから、自我となっている人間を動かすことができるのである。しかし、ほとんどの人は、自ら意識して思考して行動していると思っているのである。すなわち、ほとんどの人は、表層心理で思考して、自らの意志によって行動していると思い込んでいるのである。それは、自我の欲望は自我を主体にした欲望であるからである。人間の意識的な思考を理性と言う。つまり、ほとんどの人は自らをは理性的な人間だと思い込んでいるのである。フランスの心理学者のラカンは「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。ラカンの言う「無意識」とは、深層心理の思考を意味する。「言語によって構造化されている」とは、深層心理が言語を使って論理的に思考していることを意味する。つまり、ラカンは、人間は無意識のうちに、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、欲動に基づいて言語を使って論理的に思考して自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。人間が毎日同じようなことを繰り返すというルーティンの生活を送ることができるのも、深層心理が欲動の保身欲に基づいて思考して生み出した自我の欲望に従って行動しているからである。さて、深層心理は心境の下で思考するが、心境とは何か。心境とは、感情と共に、深層心理の情態である。心境は、気分とも表現される。深層心理は、常に、心境の下にある。心境はルーティンの生活を維持しようとし、感情はそれを打ち破ろうとする。深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出せば、すなわち、心に感情が湧き上がれば、心境は後に退く。心境と感情は並び立たないのである。心境は、爽快、陰鬱など、深層心理に長期に持続する情態であり、感情は、喜怒哀楽など、瞬間的に湧き上がる情態である。感情は、深層心理の思考によって、行動の指令と同時に生み出されて自我の欲望になり、人間を深層心理の行動の指令通りに動かす動力になる。爽快な心境にある時は、現状に充実感を抱いているという情態を意味し、深層心理は新しく自我の欲望を生み出さない。自我に、ルーティーンの行動を繰り返させようとする。陰鬱な心境にある時は、現状に不満を抱き続けているという情態を意味し、深層心理は現状を改革するために、どのような自我の欲望を生み出せば良いかと思考し続ける。深層心理が喜びという感情を生み出した時は、現状に大いに満足しているということであり、深層心理が喜びという感情とともに生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が怒りという感情を生み出した時は、現状に大いに不満を抱いているということであり、深層心理が怒りという感情ととみに生み出した行動の指令は、現状を改革・破壊しようとするものになる。深層心理が哀しみという感情を生み出した時は、現状に不満を抱いているがどうしようもないと諦めているということであり、深層心理が哀しみという感情ととみに生み出した行動の指令は、現状には触れないものになっているのである。深層心理が楽しいという感情を生み出した時は、将来に希望を抱いているということであり、深層心理が楽しいという感情とともに生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が、常に、心境や感情という情態に覆われているからこそ、人間は自分の存在を意識する時は、常に、自我の状況を意識すると同時に、心境や感情という情態にある自我を意識するのである。人間にとって、現在の自我の状況が良いか悪いかの判断は、常に、心境や感情という情態の状態によるのである。心境や感情という情態が良い時、自我の状況が良いように思えてくるのである。すなわち、人間にとって、自我の状況が良いのである。深層心理は、ほとんどの時間、心境の情態の下にあり、時に、感情という情態の下にある。深層心理は、ほとんどの時間、ある心境の下にあり、時として、心境を打ち破って、行動の指令とともに感情を生み出す。つまり、心境が人間にルーティーンの生活を送らせ、感情がルーティーンの生活を打ち破る行動を人間に起こさせるのである。深層心理は、ほとんどの時間、心境という情態に覆われていて、時として、心境を打ち破り感情という情態を生み出し、行動の指令によって、ルーティーンの生活を打ち破る行動を人間に起こさせるのである。深層心理は、常に、心境や感情という情態にあるから、人間は表層心理で自分を意識する時は、常に、自我の状況とともに、ある心境の情態にある自我やある感情の情態にある自我を意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理にあるから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自我やある感情の情態にある自我を意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の情態にある自我やある感情の情態にある自我に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、心境や感情が、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。人間は、一人でいてふとした時、他者や他人に面した時、他者や他人を意識した時、他者や他人の視線にあったり他者や他人の視線を感じた時、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して人間を動かそうとしている時などに、何かを考えている自我、何かをしている自我、何かの状態にある自我を意識するのである。そして、同時に、自我の心を覆っている心境や心に起こっている感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が、深層心理に、すなわち、心に存在するのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在しているからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろな物やことの存在まで、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろな物やことががそこに存在していることを前提にして、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろな物やことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、これらの存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、これらの存在は疑わしいという結論が出たとしても、これらの存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は常に確信を持って自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分や物やことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。また、人間は、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した時だけでなく、平穏な日常生活を送っている時にも、突然、自我を意識し、表層心理で思考する時がある。人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時に、自我の心境とともに自我の状態と自我を取り巻く状況を意識して、表層心理で思考するのである。なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自我の心境とととに自我の状態と自我を取り巻く状況を意識するのか。それは、自我にとって、他者の存在は脅威であり、自我の存在を危うくさせる可能性があるからである。人間は、常に、他者に対して、警戒心を怠らないのである。人間は、一人でいても、無我夢中で行動していても、突然、自分の存在、すなわち、自我の心境、自我の状態と自我を取り巻く状況を意識することもあるのも、それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自分の存在に危うさを感じたからである。しかし、人間は、表層心理で、すなわち、自らを意識して自らの意志によって、心境も感情も変えることはできないのである。なぜならば、心境も感情も、深層心理の範疇にあるからである。心境は深層心理に過去から流れているものであり、感情は深層心理が現在生み出したものである。だから、人間は、表層心理で、心境も感情も変えることはできないのである。つまり、人間は自らの意志で心境も感情も変えることはできないのである。しかし、心境が変わる時はある。それは、まず、深層心理が自らの心境に飽きた時に、心境が自然と変化するのである。だから、原因もわからず、爽快から陰鬱へ、陰鬱から爽快へ変わることがあるのである。気分転換が上手だと言われる人は、表層心理で意志によって心境を変えたのではなく、その人の深層心理が自らの心境に飽きやすいから、心境が自然と変化するのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時、一時的に、深層心理の情態は感情に覆われ、心境が感じられなくなる。その後、心境は回復するが、その時、心境は、以前のものとは異なったものになっている。人間は、表層心理で意志によって陰鬱な心境を変えることができないから、何かをすることによって変えようとするのである。それが、気分転換である。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。人間にとって、これほどまでに、感情や心境などの情態が決定的な意味を持っているのである。だから、オーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタインは「苦しんでいる人間は、苦しみが消えれば、それで良い。苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しみが消えたということが、問題が解決されたということを意味するのである。」と言うのである。苦しんでいる人間にとって、苦しみから逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。人間は、苦しいから、その苦しみから逃れるために、表層心理で。苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、それを除去する方法を考えるのである。だから、苦しみが消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。たとえ、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ上げ、解決する途上であっても、苦しみが消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。つまり、苦痛が存在しているか否かが問題が存在しているか否かを示しているのである。苦痛があるから、人間は考えるのである。苦痛が無いのに、人間は、誰も、考えることは無いのである。苦痛が無い思考とは思うことである。思いとは、楽しいことを思い浮かべることである。過去の楽しかったことなどを思うのである。さて、欲動であるが、深層心理は自我の状態を欲動にかなったものにすれば快楽が得られるので、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。人間の快楽を得ることを主として思考し行動するあり方を、フロイトは、快感原則と呼んだ。もちろん、逆に、深層心理は、不快や苦痛を逃れようと思考して自我の欲望を生み出し、人間を動かそうともする。つまり、快楽、快感、不快、苦痛などの感情が、深層心理を、すなわち、人間を、動かしているのである。人間は表層心理で思考して、意志によって、快楽、快感という感情を生み出すことができないのである。自我の状態が欲動にかなったものになれば、深層心理に、すなわち、人間の心に、快楽、快感が生まれてくるのである。逆に、自我の状態が欲動を阻害したものであれば、深層心理に、すなわち、人間の心に、不快、苦痛が生まれてくるのである。そこで、深層心理は、欲動に基づいて思考して、もしくは、欲動に背かないように思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動の第一の欲望が自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。欲動の第二の欲望が自我が他者に認められたいという承認欲である。欲動の第三の欲望が自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという支配欲である。欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。欲動には、道徳観や社会規約を守るという欲望は存在しない。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場での快楽を求めて、欲動に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。人間が、毎日、同じ構造体で、同じ他者に会い、同じ自我を持って、同じようなことをして、ルーティーンの生活をしていけるのは、深層心理が自我を確保・存続・発展させたいという保身欲に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているからである。しかし、時には、自我が傷つけられ、ルーティーンの生活が破られそうになる時がある。それは、往々にして、他者から、侮辱されたりなどして、自我が他者に認められたいという承認欲が阻害されたからである。そのような時、深層心理は、怒りの感情と相手を殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。深層心理は、怒りの感情で人間を動かし、暴力などの過激な行動を行わせ、承認欲を阻害した相手をおとしめることによって、自らの自我を高めようとするのである。しかし、そのような時には、まず、超自我が、ルーティーンを守るために、怒りの感情を抑圧し、殴れなどの過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。深層心理には、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から発した超自我という機能が存在するのである。超自我は、人間が毎日同じようなことを繰り返すように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとするのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強い場合、超自我は、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。そして、もしも、超自我の機能が過激な行動を抑圧できなかったならば、人間は、自らの状態を意識して、深層心理が生み出したも感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について許可するか抑圧するかを思考することになる。すなわち、表層心理で思考することになる。人間の表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、結論を出すのに、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実的な利得を求めるとは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうという欲望である。それを、フロイトは現実原則と呼んだ。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、行動の指令の諾否を審議するのである。侮辱された人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、侮辱した相手を殴ったならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した殴れの行動の指令を、意志によって、抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強い場合、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した殴れという行動の指令を抑圧できず、侮辱した相手を殴ってしまうのである。さらに、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎる、超自我は機能せず、表層心理での思考が行われないままに侮辱した相手を殴ってしまうのである。これが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。それほどまでに、感情の力が大きいのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。そこから、鬱病などが発するのである。精神疾患は、深層心理が現実から逃れるために自らにもたらしたのである。これほどまでに、感情、心境という情態が、深層心理に対して、すなわち、人間に対して、大きな力を持っているのである。また、高校生・会社員が嫌々ながらも高校・会社という構造体に通学・通勤するのは、生徒・会社員という自我を失えば不安に追いいると思うからである。退学者・失業者が苦悩するのは、学校・会社という構造体から追放され、生徒・会社員という自我を失い不安に陥っているったからである。裁判官が総理大臣に迎合した判決を下し高級官僚が公文書改竄までして総理大臣に迎合するのも、裁判官という自我を守りさらに上級裁判所の裁判官になりたいという保身欲からである。学校でいじめ自殺事件があると、教育委員会、校長、担任教諭は自殺した生徒よりも自分たちの自我を守ろうという保身欲だけでなく、非難されることが辛いという承認欲が阻害されることから来る感情が原因で、事件を隠蔽するのである。いじめた子の親も親という自我を守ろうという保身欲だけでなく、非難されることが辛いという承認欲が阻害されることから来る感情が原因で、自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないという保身欲からいじめの事実を隠し続け自殺にまで追い詰められたのである。さらに、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心は、国民という自我に対する保身欲からきているのである。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。自国選手や自国チームが勝利すれば楽しいという感情が得られるのである。逆に、自国選手や自国チームが敗北すれば悔しいという感情が得られるのである。同じ国に住んでいるということだけで、オリンピックやワールドカップの結果に一喜一憂するのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという承認欲から来る自我の欲望である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。さて、人間は、常に、他者の思いを推し量りながら生きている。それは、深層心理に欲動から発した他者に自我を認めてもらいたいという承認欲があるからである。承認欲が満たされれば、深層心理が、すなわち、人間が、快楽が得られるのである。快楽という感情が、深層心理を、すなわち、人間を動かしているのである。だから、人間は、他者から褒められたい、好かれたい、存在を認められたいという思いで生き、行動しているのである。他者に認められる行動をするのは当然のように思っている人が多いが、欲動に承認欲があるからであり、それが無ければ、他者に対する思いなど存在しないだろう。欲動に承認欲があるから、深層心理は、すなわち、人間は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。フランスの心理学者のラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、承認欲の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、承認欲の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理に内在する欲動から発した承認欲の作用によって起こるのである。例えば、中学生・高校生はは、学校のクラブという構造体に所属して、部員という自我を持っていて暮らしている。彼らの深層心理は、監督や他の部員という他者から、好評価・高評価を得たいという欲望を持っている。しかし、連日、彼らから馬鹿にされたり注意されたりして、悪評価・低評価を受け、自我が傷付くと、深層心理は、傷心という感情と退部という行動の指令という自我の欲望を生み出すことがある。しかし、中学生・高校生の超自我はルーティーンの生活を維持させようとして、退部を思いとどまらせる。しかし、傷心の思いが強ければ、超自我の機能では防ぎきれず、表層心理に上ってくる。中学生・高校生は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した傷心という感情の下で、深層心理が生み出した退部しろというが行動の指令について思考し、退部を思いとどまらせる。それは、部に残った方が周囲からの評価が高く、退部した後のことが考えられないからである。しかし、深層心理が生み出した傷心という感情が強すぎる場合、部に行けないのである。その後、人間は、表層心理で、傷心の下で、退部を指示した深層心理を説得するために、部に行く理由を探したり論理を展開しようとする。しかし、たいていの場合、それも上手く行かずに、苦悩に陥るのである。つまり、層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。そして、苦悩が強くなり、自らそれに堪えきれなくなり、自殺する者も現れるのである。つまり、承認欲が満たされないことが苦悩の原因でなのである。また、受験生が有名大学を目指すのも、少女がアイドルを目指すのも、自我を他者に認めてほしいという承認欲を満足させるためである。次に、欲動の支配欲であるが、それは、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望である。まず、他者という対象に対する支配欲であるが、それは、自我が他者を支配したい、他者のリーダーになりたいという欲望である。この欲望から、人間は、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接している。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。国会議員が総理大臣になろうとするのは、深層心理が、日本という構造体の中で、国民という他者を総理大臣という自我で支配したいからである。教諭が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で支配したいからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいのである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で支配したいという欲望からである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、支配欲から起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の支配欲であるが、それは、自我の目的のために物を利用することである。山の樹木を伐採すること、物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば満足感が得られるのである。さらに、対象の支配欲が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生まれる。有の無化とは、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在している時、無意識のうちに、深層心理がこの世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。無の有化とは、深層心理が、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しない時、無意識のうちに、深層心理がこの世に存在しているように思い込むことである。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。有の無化、無の有化によって、深層心理は、自我を正当化し、心に安定感を得ようとしているのである。最後に、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合えば快楽が得られるので、自我の状態をそのようになるようにする。自我と他者が共感化できれば、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにすることができるのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだしつつ、相手の愛を独占することを許し合うことである。恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、恋人という自我が相手に認めてもらいたいという承認欲が阻害されたことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、未練が残る。カップルという構造体が壊れ、恋人いう自我を失うのが辛いのである。保身欲から起こる現象である。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理が失恋者にストーカーになることを指示したのは、カップルという構造体が壊れ、恋人いう自我を失うのが辛からである。もちろん、表層心理で現実原則に基づいて思考し、ストーカー行為を抑圧しようとするが、屈辱感が強過ぎると、抑圧できないのである。つまり、ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという保身欲が阻害されたことの辛さだけでなく、恋人という自我を相手に認めてもらえないという承認欲が阻害された辛さ、相手の愛情を支配したいという支配欲が阻害された辛さ、愛し合うというという共感欲が阻害された辛さがるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者の共感欲が生まれ、そこに、連帯感の喜びを感じるからのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感欲が生み出したものである。仲の悪い二人も、共通の敵が現れると、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で共通の敵に立ち向かうことである。共感欲が満たされ、快楽が得られるのである。自民党議員は、中国・ロシア・北朝鮮を共通の敵国とすることで、共感欲を懐かせ、国民から支持を受けているのである。そして、そのような政治姿勢で、国民をコントロールし、支配欲を満足させ、満足感という快楽を得ているのである。このように、人間は、感情に動かされて生きている。しかし、感情を生み出すこともできず、感情に直接t的に働きかけることも、感情を変えることもできない。しかし、感情は行動の動力になっている。感情の圧倒的な力の中で、人間の自らを意識した思考、すなわち、表層心理での思考の力が試されているのである。表層心理での思考の力を高めない限り、人間は自我の欲望の餌食になり、人間世界から、戦争、殺人は消滅することは無いのである。




人間はなぜ死を恐れ、なぜ殺人を犯すのか。(自我から自己へ23)

2024-07-19 01:07:10 | 思想
人間はなぜ死を恐れるのか。誰一人として、死を恐れようと思って恐れているのではない。死に対する恐怖は心の底から湧き上がってくるのである。つまり、深層心理が死を恐れているから人間は死を恐れているのである。深層心理とは人間の無意識の精神活動である。だから、人間は、我知らず、死を恐れのである。それゆえ、全ての人間に死の恐怖があるのである。しかし、誰も死を知らない。もちろん、深層心理も死を知らない。それなのに、なぜ死を恐れるのか。ギリシアの快楽主義の始祖エピクロスは「死は、諸々の悪の中でも最も恐ろしいものとされているけれども、それは我々にとって何ものでもないのである。なぜなら、我々が存在しているときには、死は我々のもとにはないし、他方、死が傍らにきているときには、我々はもう存在しないからだ。」と言う。つまり、エピクロスは死を恐れることは無意味だと言うのである。確かに、エピクロスの言うように、死を知らないのに死を恐れることは無意味かも知れない。しかし、エピクロスの分析は表層心理で行ったものである。表層心理とは人間の自らを意識しての精神活動である。人間は表層心理で思考して死を恐れることは無意味だと結論を出しても、それが深層心理に届かないのである。やはり、深層心理は死を恐れるのである。だから、人間は死は恐れる必要のない出来事だと考えようとしても、やはり、死を恐れてしまうのである。死に対する恐怖は消えないからである。そこで、人間は死んでも生きていると思うことによって死の恐怖から逃れようとし、死後の世界の存在を案出したのである。死の恐怖が強ければそれが気になり日常生活を落ち着いて営めないから当然の結果である。死後の世界がさまざまあるのは、人間が表層心理で思考して生み出したからである。宗教がそれを担ったのである。だから、宗教によって異なった死後の世界が存在するのである。しかし、人間は、来世を想定することによって死の恐怖から逃れようとするばかりでなく、現世では、死の恐怖の根源を突き止めることによって死の恐怖から逃れようとする。そして、死の恐怖は肉体の喪失に対する恐怖、肉体の苦痛に対する恐怖、全ての自我を失うことから来る恐怖であることを突き止めたのである。肉体の喪失に対する恐怖は、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒において顕著である。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では、肉体が残っていなければ、死後、復活できないからである。火あぶりの刑を受けた者には死後の世界が存在しないのである。だから、火あぶりの刑は、肉体的に苦痛を与えるだけでなく、精神的にも苦痛を与えるから、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒に対して有効な刑罰になっているのである。火あぶりの刑は、肉体の喪失に対する恐怖、肉体の苦痛に対する恐怖、精神的な恐怖を与えるのである。ドストエフスキーは「どれだけ死を覚悟した者でも、大きな岩石に押しつぶされて死ぬことには耐えられないだろう。」と言う。肉体の苦痛に対する恐怖だけでなく肉体の喪失に対する恐怖があるからである。人間が癌を恐れるのは、癌は死に直接的につながり、苦しみながら死ぬと思っているからである。肉体の苦痛に対する恐怖である。しかし、その考えは、医師から吹き込まれた嘘である。癌の侵攻は人々が想像する以上に遅く、手術などの治療をしなければ、最期を苦しまずに迎えられるのである。医師は癌に対する恐怖を煽ることで、癌患者を手術などの治療に向かわせ、実験台として自らの技術を磨き、受診代、手術代、入院費、薬代などで済的な利益を得ようとしているのである。医師の患者に対する支配欲による自我の欲望がなせる業である。癌患者が手術などの治療を受けても生きながらえば、医師の手柄になる。医師としての承認欲が満たされるのである。癌患者が手術などの治療を受けて亡くなれば、医師は手遅れの状態だった言う。医師としての保身欲が阻害されないようにするためである。病室という密室がなせる業である、しかし、医師だけが支配欲、承認欲、保身欲に動かされた自我の欲望てよって非人間的な行為を行うのではない。政治家、官僚、警察官、教師など全ての人が、密室においては、支配欲、承認欲、保身欲に動かされた自我の欲望てよって非人間的な行為を行うのである。密室においては、非人間的な行為こそ人間的な行為なのである。なぜならば、人間は自我の欲望に動かされて行動する動物だからである。人間は自我の欲望に動かされて行動する動物だから、殺人まで犯す人が存在するのである。それでは、自我とは何か。自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、他者と関わりつつ、他人を意識しながら行動している。他者とは、構造体内の人々である。他人とは、構造体外の人々である。構造体と自我の関係は、次のようになる。日本という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、夫婦という構造体には夫・妻という自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、高校という構造体には校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・課長・社員などの自我があり、病院という構造体には病院長・医師・看護師・患者などの自我があり、コンビニという構造体には店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我がある。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属し、自我を持して、他者との関わりを想定しつつ、他人を意識しながら暮らしている。人間が社会的な存在であるとは、常に、何らかの構造体に属し、何らかの自我を持して、他者と関わつつ、他人を意識しながら暮らしていることを意味しているのである。さて、デカルトは「我思う、故に、我あり。」と言ったが、「我」の定義をしなかった。しかし、人間が、自分の存在を意識するのは、普遍的な自分としてでは無く、個別的な自我なのである。つまり、ある人は、日本という国の構造体では国民という自我であり、家族という構造体では父という自我であり、会社という構造体で課長という自我であり、コンビニという構造体では客という自我であり、電車という構造体で客という自我である。また、別のある人は、日本という国の構造体では国民という自我であり、家族という構造体では娘という自我であり、学校という構造体では生徒という自我であり、コンビニという構造体では客という自我であり、電車という構造体で客という自我であり、仲間という構造体では友人という自我であり、カップルという構造体では恋人という自我であるつまり、人間は構造体ごとに異なった自我を得て暮らしているのである。だから、人間は自らを指して自分と言うが、自分の姿は自我として刻々と変化しているのである。だから、自我の存在は確信できても、どこにも、普遍的な自分は存在しないのである。死の恐怖とは、これらの自我を一挙に失う恐怖なのである。それは、死後、人々から自分の存在が忘れ去られる恐怖なのである。人間は常に自我として生きているから、自我を失えば、自分の存在が雲散霧消化するのである。特に、家族という構造体での父・母・息子・娘などの自我を心の拠り所にしている人が多いから、死者も残された家族も残された家族による葬儀を望むのである。それは、死後も残された家族の心の中では死者の自我が残っていることを意味するからである。人間は死ねば肉体は朽ちていくのを知っている。だから、人間は関係性を拠り所にしているのである。関係性と、構造体における自我と自我のつながりである。家族という構造体を拠り所にするのは、自我と自我が最も強いと思っているからである。しかし、家族という構造体の中に自我といえども、深層心理が欲動に基づいて思考して生み出した感情と行動という自我の欲望が動かされているのである。そもそも、人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、他者と関わりつつ、他人を意識しながら行動しているが、表層心理で思考して行動しているのではないのである。深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求め苦痛から逃れようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは深層心理の思考である。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、「言語によって構造化されている」のである。つまり、深層心理が言語を使って論理的に思考しているのである。深層心理は、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。それでは、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという支配欲である。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。欲動が深層心理を動かしているのである。深層心理は、自我の状態を欲動の四つの欲望のいずれかに叶えたものにすれば、快楽が得られるので、欲動に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。フロイトは、深層心理の快楽を求め不快から逃れようと思考するあり方を快感原則と呼んだ。さて、欲動の第一の欲望が保身欲であるが、それは、構造体にしがみつき、自我という地位、位置を守りたいという欲望である。深層心理は、常に、自我を保身化してこの欲望を満たそうとしている。ほとんどの人の日常生活が無意識の行動によって成り立っているのは、深層心理が、欲動の保身欲、すなわち、自我の保身化の作用によって思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は無意識にそれに従って行動しているからである。日常生活が毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、深層心理が保身欲によって思考して生み出した自我の欲望に従って行動しているからである。すなわち、ルーティーンの生活は、表層心理で思考することなく、無意識のままに行動しているから可能なのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ルーティンの生活は、ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想に合致しているのである。しかし、人間の生活は、必ずしも、毎日が、平穏ではない。嫌なことが起こる。それは、たいていの場合、承認欲が阻害されたことである。高校のクラスという構造体でいじめにあい、同級生として認めてほしいという承認欲が阻害される。会社という構造体で上司に営業成績が悪いと罵倒され、社員として認めてほしいという承認欲が阻害される。それでも、高校、会社に行く。それは、深層心理に保身欲から発した超自我という機能があり、ルーティーンの生活を守ろうとするからである。だから、承認欲を阻害された深層心理が傷心の感情と高校、会社に行くのをやめろという行動の指令の自我の欲望を生み出し、高校生、会社員を欠席、欠勤に持っていこうとしても、超自我という機能がそれを抑圧し、登校、出勤させるのである。さらに、もしも、深層心理の超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で思考して、自我の欲望を抑圧し、そして、明日も、また、高校や会社へ行き、ルーティーンの生活を続けようとするのである。また、深層心理は、日常生活において、道徳観や社会的規約に縛られることなく、その時その場で快楽を求め苦痛から逃れようと瞬間的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。欲動に、道徳観や社会的規約を守るという欲望が存在しないからである。異常なことが起こると、深層心理は、その時その場で苦痛から逃れようと瞬間的に思考して、平常と異なった感情とルーティンから外れた行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。すなわち、高校生、会社員の深層心理は、傷心の感情と高校、会社に行くのをやめろという行動の指令の自我の欲望を生み出し、欠席、欠勤させようとする。深層心理によっては、怒りの感情と殴れという行動の指令の自我の欲望を生み出して、高校生、会社員に暴力を指示することもある。そのような場合、いずれも、深層心理に内在する超自我がこの自我の欲望を抑えて、高校生、会社員という自我を保身させ、ルーティンの生活を守ろうとする。しかし、感情が強い場合、超自我が自我の欲望を抑えきれない時があるのである。超自我が自我の欲望を抑圧できない場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した強い感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求めて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。現実的な利得を求める欲望とは、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。これは、フロイトは現実原則と呼んでいる。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、自我に利益をもたらし不利益を被らないないような視点から、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に思考し、異常な行動の指令を抑圧しようとするのである。抑圧が成功すれば、ルーティーンの生活が続くのである。しかし、感情が過いと、表層心理で思考して、意志によっても、過激な行動の指令を抑圧できず、そのまま行動してしまうのである。さらに、感情が強過ぎる場合、超自我も機能せず、表層心理での思考も行われないままに、深層心理が思考して生み出した行動の指令に従って、人間は行動するのである。そして、悲劇、惨劇を生むのである。また、たとえ、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が思考して生み出した行動の指令を拒否することを決め、意志によって、深層心理が出した行動の指令を抑圧できたとしても、次に、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、深層心理には、まだ、深層心理が生み出した傷心の感情や怒りの感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。強い傷心の感情が、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。強い怒りの感情が、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。そして、それが国という構造体の政治権力者同士の争いになれば、戦争になるのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではなく、自我のために構造体が存在するのである。また、多くの人が家族という構造体を拠り所にするのは、血縁幻想があるからである。血がつながっているから、親子、兄弟姉妹の自我の結び付き強いと思っているからである。だから、人間にとって最も強い保身欲は、家族という構造体と祖母・祖父・父・母・息子・娘などの自我に対してである。次に、欲動の第二の欲望の自我が他者に認められたいという承認欲であるが、簡単に言えば、人間は、常に、好かれたい・評価されたいという欲望である。深層心理は、常に、自我を対他化してこの欲望を満たそうとしている。自我の対他化とは、他者から自我を評価されたいと思いつつ、他者から自我がどのように思われているか探ることである。深層心理は、自我が他者に認められ、承認欲が満たされて楽が得られるので、常に、他者から認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、他者の気持ちを探っているのである。フランスの心理学者のラカンは「人は他者の欲望を欲望する」と言う。この言葉は「人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。」という意味である。この言葉は、自我が他者に認められたいという深層心理の欲望、すなわち、自我の対他化の作用を端的に言い表している。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。だから、人間の苦悩のほとんどの原因が、他者から悪評価・低評価を受けたことである。内縁の夫が子供も殺すのは子供たちが自分になじまないからである。子供たちにとって内縁の夫は異物なのである。家族という構造体にの中に異物が入ってきたから、子供たちは拒否するのである。母親と愛し合っているから子供たちも自分を父親と慕うだろうと内縁の夫は勘違いしているのである。しかし、子供たちにはこれまでの家族という構造体の中での子という自我に対する保身欲が強く、内縁の夫という他人が拒否するのである。無知な内縁の夫が父親として無理に承認されようとして心を傷つけられ怒りの感情が生み出され、時には子供たちを殺すことまであるのである。内縁の夫の父という自我に対する承認欲が子供たちを地獄に突き落とすのである。次に、欲動の第三の欲望が自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという支配欲であるが、それは、対象を、自我の思い通りにしたいという欲望である。深層心理は、常に、自らの志向性で自我・他者・物・現象という対象を支配することによって、すなわち、対自化することによって、快感や満足感などの快楽を得ようとしている。自らの志向性で自我・他者・物・現象という対象を捉えることを対自化と言う。志向性とは、対象を捉える方向性である。端的に言えば、観点・視点である。人間は、表層心理で、対象を捉えているのではなく、深層心理が、人間の無意識のうちに、志向性を使って、他者・物・現象という対象を捉えているのである。人間は、無意識のうちに、深層心理が、志向性で、他者という対象を支配しようとし、物という対象をで利用しようとし、現象という対象を捉えているのである。深層心理は、志向性で、対象を対自化して、支配欲を満たして、快感や満足感を得ているのである。さて、まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることができれば、深層心理が、すなわち、人間が、快感や満足感が得られれるのである。会社という構造体で社員という自我の者がが社長という自我になりたいと思い、学校という構造体で教諭という自我の者がが校長という自我になりたいと思うことのは支配欲を満たしたいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快感や満足感が得られるのである。わがままは盲目的な支配欲の現れなのである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、ウクライナ侵攻、北朝鮮の金正恩による無差別の殺戮は、支配欲を満足させるために起こしているのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという満足感が得られるのである。しかし、現在、世界中に、自然を収奪するだけの自我の欲望を満たすあり方を反省し、自然と共生するあり方へと転換の運動が起こっている。しかし、自然と共生するあり方と言っても、志向性が変化しただけであり、志向性自体は残り、支配欲を満たすことは変わらないのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば、快感や満足感が得られるのである。さらに、対象の対自化が高じると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生じる。まず、有の無化という作用であるが、深層心理は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していれば、深層心理が、人間の無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。次に、無の有化であるが、それは、深層心理は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、人間の無意識のうちに、この世に存在しているように思い込むことである。深層心理は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。神が存在しているように思い込むことによって心に安心感を得ようとするのである。さて、明治時代に制定された民法では、「一家の首長で、家族を統括しこれを扶養する者」として、戸主が存在していた。この戸主こそ支配欲の権化である。誰にも支配欲があるが、戦前において、政府は、父を戸主として、家族の支配を認めたのである。それは、天皇が国民を臣民として支配したのと同じである。戦前は、公は、支配被支配の関係で成り立っていたのである。天皇が国民を支配して支配欲を満足させ、父親が家族を支配して支配欲を満足させたのである。政治家になろうとするのは国民の上に立ちたいからであり、総理大臣になろうとするのは国民を支配したいからである。政治家になってより支配欲を満足させたいから、総理大臣になろうとするのである。しかし、支配欲を満たした瞬間から、人間の堕落が始まるのである。なぜならば、深層心理は保身欲に振り回されるからである。深層心理は、自我の保身化だけに自我の欲望を生み出し、人間を手練手管を駆使させ、なりふり構わず行動させるからである。最後に、欲動の第四の欲望が共感欲であるが、それは、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。わかりやすく言えば、他者と理解し合いたい、愛し合いたい、仲良くしたいという欲望である。深層心理は、常に、趣向性によって、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとしている。趣向性とは、わかりやすく言えば、好みである。趣向性は、深層心理に属しているので、人間は、意志では変えられないのである。趣向性に変化があったとすれば、変えたのではなく、変わったのである。深層心理は、自我が趣向性が合った他者と愛し合ったり友情を育んだり協力し合ったりして心の交流ができれば快楽を得られるのである。共感化とは、自我の評価を他者に委ねるという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を支配するという対象の対自化でもなく、、互いに、理解し、愛し、協力することなのである。人間は、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心の交流を図ろうとするのである。それがかなえば、快感や満足感だけでなく、安心感も得られるのである。カップルという構造体は、恋人という二人の自我によって成り立っている。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人として自我を認め合うことができれば、自らの存在を実感でき、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係になり、カップルという構造体を構築し、恋人言う自我を得ても、相手から別れを告げられることがある。失恋した人は、誰しも、一時的にしろ相当の時間にしろ、ストーカー的な心情に陥る。誰しも、すぐには失恋を認めることができない。相手から別れを告げられた時、誰一人として、「これまで交際してくれてありがとう。」とは言えない。失恋を認めることは、あまりに苦しいからである。相手を恨むことがあっても、これまで交際してくれたことに対して礼など言う気には決してならない。失恋を認めること、相手の自分に対する愛が消滅したこと、二人の恋愛関係が瓦解したことを認めることはあまりに苦しいからである。相手から、自分に対する愛が消滅したからと言われて、別れを告げられても、自分の心には、恋愛関係に執着し、相手への愛がまだ残っている。しかし、相手との恋愛関係にはもう戻れない。このまま恋愛関係に執着するということは、敗者の位置に居続けることになる。失恋したということは、敗者になり、プライドが傷付けられ、下位に落とされたということを意味するのである。ずたずたにされたプライドを癒し、心を立て直すには、自分で自分を上位に置くしか無い。そのために、失恋した人は、いろいろな方法を考え出す。第一の方法は、すぐには、自分を上位に置くことはできないので、相手を元カレ、元カノと呼び、友人のように扱うことで、失恋から友人関係へと軟着陸させ、もう、相手を恋愛対象者としてみなさないようにすることである。これは、相手との決定的な別離を避けることができるので、失恋という大きな痛手を被らないで済むのである。第二の方法は、相手を徹底的に憎悪し、軽蔑し、相手を人間以下に見なし、自分が上位に立つことで、ずたずたにされた自分のプライドを癒すのである。これは、女性が多く用いる方法である。第三の方法は、すぐに、別の人と、恋愛関係に入ることである。新しい恋人は、別れた人よりも、社会的な地位が高く、容貌が良い人である方が、より早く失恋の傷は癒やされる。しかし、失恋の傷が深く、失恋の傷を癒やす方法を考えることができない人も存在する。それは、相手に別れを告げられ、相手が自分に対する愛を失っても、相手を忘れること、相手を恋人として見なさないようにすることができない人である。そのような人の中で、相手につきまとう人が出てくる。それがストーカーと呼ばれる人である。ストーカーは、男性が圧倒的に多い。彼は、失恋を認めることがあまりに苦しく、相手を忘れる方法が考えることさえできず、相手から離れることができずに、いつまでも付きまとってしまうのである。中には、相手がどうしても自分の気持ちを受け入れてくれないので、あまりに苦しくなり、その苦悩から解放されようとして、相手を殺す人までいる。確かに、ストーカーの最大の被害者は、ストーカーに付きまとわれている人である。しかし、ストーカーも、また、深層心理が愛という自我の欲望に取り憑かれた被害者なのである。人間は、誰しも、失恋すると、ストーカーの感情に陥るが、多くの人は、何らかの方法を使って、相手を忘れること、相手を恋人として見なさないことに成功したから、ストーカーにならないだけなのである。カップルという恋愛関係の構造体は、恋人という自我があり、恋愛感情という愛があるから、相思相愛の時は、「あなたのためなら何でもできる。」と言いながら、相手が別れを告げると、相手のことが忘れられず、誰しも、ストーカー心情に陥り、時には、実際に、ストーカーになる人が現れるのである。それは、相思相愛で、カップルという恋愛関係の構造体を形成している時は、あまりに大きな快楽を得ていたから、カップルという恋愛関係の構造体が破壊された上に、相手が、別の人とカップルという恋愛関係の構造体を形成し、その人と快楽を得ること想像すると、嫉妬心で堪えられないからである。相手がこの世から消えない限りこの辛さから逃れられないと思うから殺人まで犯すのである。また、仲間という構造体は、友人という自我によって成り立っている。友情という現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。人間が友人を作ろうとするのは、仲間という構造体を形成し、友人という自我を認め合うことができれば、そこに安心感が生じるからである。友人いう自我と友人いう自我が共感すれば、そこに、信頼感が生じ、一人の自我で受ける孤独感から解放され、力がみなぎって来るのである。しかし、人間、誰しも、誰を恋人にするか、誰を友人にするかは、表層心理で、自らを意識して思考して決めているわけではない。深層心理が、趣向性によって、選んでいるのでいる。趣向性とは、好みであり、共感性という感性である。人間は、意識して好み、感性に入ることはできないのである。好み、感性は、深層心理の範疇に属しているからである。また、共通の敵がいたならば仲が悪い者同士も仲良くする呉越同舟という現象も共感化によって起きるのである。二人の仲が悪かったのは二人の趣向性が異なっているからである。互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから、いがみ合いの現象が起きるのである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。協力するということは、共通の敵に立ち向かうために、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞くのである。チームが試合で一つになるということも、共感化の現象である。相手チームという共通の対自化した敵がいるからである。しかし、高校の球技大会や体育祭で、クラスがまとまるのも呉越同舟の現象である。しかし、球技大会や体育祭が終わると、共通の対自化した敵がいなくなり、自分がイニシアチブを取りたいから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。つまり、対象の対自化で自我の力が発揮しようと思うから、共通の敵がいなくなると、我を張る、すなわち、自我を主張するようになるのである。また、小学校、中学校、高校のクラス、クラブという構造体では、趣向性が合わないために、いじめという現象が起こるのである。いじめの原因は、毎日、閉ざされ、固定されたクラス、クラブという構造体で、クラスメート、部員という自我で暮らしていることである。毎日、同じクラスメート、部員と暮らしていると、必ず、嫌いなクラスメート、部員が出てくる。好きな部員、友人ばかりでなく、必ず、嫌いなクラスメート、部員が出てくるのである。しかし、人間は、好き嫌いの感情は、自ら意識して、自らの意志で、生み出しているわけではない。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、好きなクラスメート、部員と嫌いなクラスメート、部員を峻別しているわけでは無い。深層心理がの趣向性がそれを出現させるのである。しかし、小学生、中学生、高校生には、クラス、クラブに嫌いなクラスメート、部員がいても、それを理由にして、自分が別のクラス、クラブに移ることは許されない。わがままだと非難されるだけである。だから、現在の構造体で生きていくしか無いのである。しかし、クラス、クラブという閉ざされ、固定された構造体で、毎日、嫌いな人と共に生活することは苦痛である。トラブルが無くても、嫌いな人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がする。いつしか、不倶戴天の敵になってしまう。共感欲を阻害された深層心理は、自我の欲望として、憎悪の感情といじめの行動の指令を生み出し、その嫌いなクラスメート、部員に対して攻撃を命じる。しかし、自分一人ならば、勝てないかも知れない。そこで、共感化してい仲間に加勢を頼むのである。彼らも仲間という構造体から放逐され友人という自我を失うのが辛いから、保身欲によっていじめに加担するのであ。そして、担任の教師はいじめに気付いていても、いじめている生徒たちはクラスのイニシアチブを握っていることが多く、彼らを敵に回すと、クラスという構造体の運営が難しくなるので、保身欲から、厳しく咎めることはせず、軽く注意するか見て見ぬふりをするのである。このように、深層心理は、欲動の四つの欲望、すなわち、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲、自我が他者に認められたいという承認欲、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという支配欲、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲という四つの欲望のいずれかに基づいて思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているから、人間世界から犯罪は絶えることは無く、それが殺人や戦争にまで及ぶのである。人間は自我を傷つけられると、深層心理が過激な感情と過激な行動という自我の欲望を生み出して人間を動かし傷ついた自我をいやそうとするからである。自我を傷つけられた政治権力者の中には、深層心理が激しい怒りの感情と傷つけた政治権力者を倒せという自我の欲望を生み出して、戦争へと駆り立てるのである。人間は、自己として生きない限り、自我の欲望に従って生きるしかないのである。自己として生きるということは正義に基づいて行動することである。しかし、正義に基づいて行動するとは自我の欲望にとらわれないことを意味するから、それは至難の業である。なぜならば、人間は自我として生き、常に、自我の欲望に動かされて生きているからである。しかし、自己に目覚めない限り、人間は深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて他者を殺すことすらあるのである。しかし、確かに、自己として生きている人間は他者を殺すことは無い。しかし、自我の欲望に駆られた他者に自我を奪われるばかりか殺されることがあるのである。




深層心理の圧倒的な力を前にして人間は何ができるか。(自我から自己へ22)

2024-07-08 08:13:40 | 思想
街には、多くの人が歩いている。誰かに会うために、何かをするために、どこかに行くために歩いている。しかし、自分の意志で会う人を決めていない。自分の意志ですることを決めていない。自分で意志で行く場所を決めていない。そして、自分の意志で歩いていない。確かに、人間は、自分が誰に会うかを意識し、自分が何をするかを意識し、自分がどこに向かっているかを意識することはある、そして、自分が歩いていることを意識することはある。しかし、人間は、初めから、意識してこれらのことを行っていない。初めに自我の欲望があるのである。自我の欲望が街を歩かせているのである。つまり、人間は、自我の欲望に動かされて行動しているのである。深層心理が思考して自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理とは人間の無意識の精神活動である。つまり、無意識の思考が自我の欲望を生み出して人間を動かしているのである。人間の自らを意識した精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は表層心理で思考して意志によって動いているわけではないのである。人に会う時もそうである。深層心理が思考して自我の欲望を生み出して会うように仕向けているのである。しかし、深層心理は突拍子もないことを自我の欲望として生み出さない。深層心理には保身欲があり状況に応じて会う人を決めているのである。また、深層心理には承認欲があり、会った時には、嫌われないような態度をとるのである。礼儀正しく接するのはそれである。中にも、横暴な態度で接する人がいるが、支配欲が強いからである。深層心理には、支配欲もあるのである。友人に会う時には、心が躍る。友人とは、互いに趣向性が合ったがなるからである。深層心理には共感欲があり、友人はそれを満たしてくれるのである。このように、人間は人に会う時も、深層心理が、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲によって態度を着決めているのである。つまり、深層心理は恣意的に思考して自我の欲望を生み出して人間を動かしているわけではないのである。深層心理は、自我を主体に立てて、他人を意識しつつ他者と関わりながら、快感原則によって、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。他人とは構造外の人々である。他者とは構造内の人々である。自我とは、構造体の中で、ポジションを得て、それを自分だとして行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、構造体に所属して、自我を持って、初めて、人間として行動できるのである。自我を持たない人間は、抽象的な存在であり、人間として暮らしていけないのである。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って、他人を意識しつつ他者と関わりながら、行動しているのである。構造体には、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなどがあるが、それに伴って、次のような自我がある。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。人間は、一人でいても、孤独であっても、孤立していても、常に、構造体に所属し、自我を持って、暮らしている。人間は、引きこもりの生活をしている人や服役している人などの人以外は、一日のうちでも、複数の構造体に所属し、複数の自我を持って行動する。しかし、同時に、複数の構造体に所属することも、複数の自我を持つことはできない。例えば、街中を仲間と連れだって友人という自我を持って歩いている男子高校生は、偶然、母親に出会うと、仲間には、友人という自我で母親を紹介し、母親には、息子という自我で仲間を紹介する。友人という自我と息子という自我を同時に持つことはできない。コンビニという構造体に入れば、高校生という自我ははぎ取られ、一人の客という自我で行動することになる。つまり、人間は、常に、一つの構造体に限定されて所属させられ、一つの自我を限定されて持たせられて、暮らしているのである。快感原則とは、ひたすらその場での快楽を求め不快を忌避する志向性である。これはフロイトの用語である。深層心理は、自我の状態を欲動にかなえたものにすれば快楽が得られ、自我の状態を欲動に背いたものにすれば不快感がもたらされるので、欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かそうとするのである。つまり、欲動が深層心理を動かし、深層心理が人間を動かしているのである。欲動とは、四つの欲望から成り立っている欲望の集合体である。欲動には、第一の欲望として自我を確保・存続・発展させたいという保身欲、第二の欲望として自我が他者に認められたいという承認欲、第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという支配欲、第四の欲望として自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲がある。人間は、自らは意識していないが、深層心理は、常に、この四つの欲望を基にして、自我の状況を洞察して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。しかし、欲動には、道徳観や社会規約を守ろうという欲望は存在しない。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め苦痛から逃れようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。道徳観や社会規約を守ろうという志向性は、表層心理での思考に存在するのである。人間は、深層心理が生み出した感情の下で、表層心理で、道徳観や社会規約に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令の認否を思考する時があるのである。道徳観や社会規約を無視した行動は周囲の人々の承認が得られず、自我が批判されるからである。さて、ほとんどの人は毎日同じようなことを繰り返すルーティーンの生活をしている。それは、保身欲にかなっているからである。ルーティーンの生活をしている限り、自我は安泰だからである。つまり、ルーティーンの生活が続くのは、深層心理が、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲によって思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているからである。だから、ほとんどの人は、自らの状況を意識して思考することなく、すなわち、表層心理で思考することなく、無意識に行動しているのである。だから、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っているのである。つまり、毎日同じようなことを繰り返すルーティーンの生活は、無意識の行動だから可能なのである。また、日常生活がルーティーンの生活になるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。さらに、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの森羅万象は永遠に同じことを繰り返すという永劫回帰の思想は、人間の生活にも当てはまるのである。高校生・会社員が、毎日、嫌々ながらも高校・会社という構造体に行くのも、高校生・会社員は自我を失いたくないという保身欲からである。だから、高校生・会社員は、退学者・失業者という高校生・会社員という自我を失った状態を恐れるのである。裁判官が総理大臣に迎合した判決を下し、高級官僚が公文書改竄までして総理大臣に迎合するのは、何よりも自我を維持することが大切だという深層心理の保身欲からである。裁判官・高級官僚はは保身欲によって悪事を犯した政治権力者をかばい、自らも悪人になるのである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は、自殺した生徒よりも自分たちの自我を大切にするという深層心理の保身欲から、事件を隠蔽するのである。いじめた子の親は親という自我を守るという保身欲のために自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。校長、担任教諭、いじめた子の親の保身欲から非人間的な行為を行うのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないという保身欲から、いじめの事実を隠し続け、自殺にまで追い詰められたのである。ストーカーになるのは、カップルという構造体が消滅し、恋人という自我を失うのが辛いという保身欲から、相手に付きまとい、構造体を維持しようとする行為である。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、カップルという構造体の修復不可能、恋人という自我の喪失だと悟り、その苦しみか一挙に逃れようとして、相手を殺してしまうこともあるのである。相手を殺してしまえば、自分を苦しめるものが消滅するからである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した恋人という自我を失うことが苦しいという保身欲から発した感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできないのである。さらに、恋人という自我を失うことの苦しい感情が強過ぎる場合、超自我や表層心理は、ストーカー行為を抑圧しようとする機能も思考も働かないのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。しかし、時には、自我が傷つけられ、自ら、ルーティーンの生活が破りそうになる時がある。例えば、高校という構造体では同級生という他者から馬鹿にされたり、会社という構造体では上司からという他者から侮辱されたりなどした時、高校生・会社員の深層心理は、自我が他者に認められたいという承認欲が阻害され、苦痛を覚える。その苦痛から逃れるために、深層心理は、怒りの感情と同級生・上司を殴れなどの過激な行動の指令を、自我の欲望として生み出し、高校生・会社員という自我を持つ人間を動かそうとする。深層心理は、怒りの感情で高校生・会社員を人間を動かし、暴力などの過激な行動を行わせるのである。自我をおとしめた同級生・上司の他者の自我を逆におとしめることによって、自我を高めようとするのである。しかし、そのような時には、まず、超自我が、ルーティーンの生活を守るために、怒りの感情を抑圧し、殴れなどの過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、深層心理に存在している、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の保身欲から発生した機能である。深層心理には、超自我という、毎日同じようなことを繰り返すように、ルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとする機能も存在するのである。さらに、もしも、超自我の機能が、感情が強くて、過激な行動を抑圧できなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。人間は、表層心理で、現実原則に従って、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒否するかを審議する。現実原則とは、フロイトの用語である。現実的な利得を求めることを何よりも優先させ、深層心理が生み出した行動の指令に従って行動したならば、自我の立場がどのようになるかを考慮するのである。人間の表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、結論を出すのに、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、現実原則とは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうという欲望だからある。つまり、高校生・会社員は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に従って、同級生・上司という他者を殴ったならば、後に、自我がどうなるかという、他者や他人の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した殴れという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。表層心理の結論が意志である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強い場合、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。これが、、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないからである。しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦痛の中での思考がが続くのである。しかも、深層心理が生み出した怒りの感情が強すぎる場合、超自我や表層心理は、殴る行為を抑圧しようとする機能も思考も働かないのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。深層心理は、自我が他者に認めてもらえば快楽が得られるので、自我をそのような状態にしようと思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。ラカンに「人は他者の欲望を欲望する。」という言葉がある。「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」という意味である。端的に、承認欲を説明している。人間は誰しも自我に対する他者の視線を気にしているが、それは、深層心理にある欲動の承認欲によるものなのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて思考しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間が苦痛を覚えることの原因の多くは、自我が他者に認められないことなのである。受験生が有名大学を目指すのも、少女がアイドルを目指すのも、自我を他者に認めてほしいという承認欲を満足させるためである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心とはこの国の国民という自我を失いたくないという保身欲とこの国を他国の人々に認めてほしいという承認欲から発しているのである。愛国心に承認欲があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心に承認欲があるからこそ、オリンピックやワールドカップでの自国選手や自国チームの結果が気になるのである。しかし、自国チームや自国選手が勝利すると喜び、敗北すると悲しむのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、保身欲と承認欲から発した自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、真実は、国民という自我を失いたくないという保身欲、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという承認欲から発している自我の欲望である。人間は、すなわち、深層心理は、愛国心という自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。愛国心という自我の欲望が満たされない時には、苦痛を覚えるのである。そして、苦痛から逃れるために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。つまり、苦痛を消滅させるために、戦争を起こすのである。しかし、愛国心という自我の欲望は、人間が自ら意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、生み出しているわけではなく、無意識のうちに、深層心理が思考して生み出しているから、人間世界には常に戦争が勃発する可能性があるのである。つまり、世界中の人々は、皆、自らが意識して生み出していないが、自らの深層心理が生み出した愛国心という自我の欲望に動かされて生きているから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、戦争が無くなることはないのである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという支配欲である。深層心理は、これら志向性で捉えて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。志向性とは、観点、視点などの思考の方向性を表している。しかし、人間は表層心理で志向性を意識することはあるが、変えることはできない。志向性は深層心理に存在するからである。志向性は変わるのである。さて、他者という対象の支配欲であるが、それは、自我が他者たちを支配しよう、他者たちのリーダーとなりたいという欲望である。これが実現すれば、満足感、充実感という快楽が得られるからである。深層心理は、常に、自我の力を発揮して他者たちを支配したい、他者たちを支配して自我の力を発揮したいという欲望を秘めながら、他者のたちを観察しているのである。深層心理は、自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることができれば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。教諭が校長になろうとするのは、深層心理に、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者たちを校長という自我で支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば快楽が得られるのである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、社長になって、会社という構造体の中で、会社員という他者を支配したいという支配欲からである。自分の思い通りに会社を運営できれば快楽が得られるのである。だから、自分の言うこと聞かない教諭・会社員がいれば、支配欲が阻害されるので、パワハラで、校外や社外に追放するのである。さらに、また、わがままと言われる行動も支配欲からであり、わがままを通すことができれば快楽を得られるからである。次に、物という対象の支配欲であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。そこには、物を対象として利用しようという志向性があるのである。次に、現象という対象の支配欲であるが、それは、自我の志向性で事を現象を捉えることである。志向性とは思想である。他者、他人、時にも自分自身という人間を対象として捉えること、世界情勢を対象として捉えること、日本の政治の動向を対象として捉えることなどは、いずれも支配欲による。深層心理の中にある思想という志向性で、現象を捉えることができれば満足感、充実感が得られるのである。さらに、支配欲が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生まれる。有の無化とは、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、この世に存在していないように思い込んでしまうことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込んでしまうのである。無の有化とは、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、この世に存在しているように創造することである。自我の存在の保証に神が必要だから、深層心理は、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめの加害者である子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめの被害者の子やその家族に求めるのである。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は、趣向性によって、相手を決める。その相手と、理解し合う・愛し合う・協力し合うような状態を作り、快楽を得ようとする。自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、相手と心を交流したり、愛し合ったりするのである。それがかなえば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手の心を支配し自分の心を支配される許し合うことによって快楽を得るのである。恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに快楽が生じるからである。恋人という自我とと恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという快楽が生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手が嫌になり別れを告げたり、相手から嫌われて別れを告げられることがある。なぜ、嫌になったのかはわからない。なぜ好きになったのかがわからないのと同様である。趣向性という感性は、深層心理の範疇に属するから、表層心理で思考してもわからないのである。推測するしかないのである。別れを告げられた者は、誰しも、突然、奈落の底に突き落とされる。恋人という自我の保有欲が阻害され、相手に恋人して認められていた承認欲が阻害され、相手の愛情を独占していたという支配欲が阻害され、愛し合っているという共感欲が阻害されるので、奈落の底に突き落とされ、深層心理は、すなわち、人間はどうして良いかわからず、苦悩するのである。誰しも、相手に未練が出てきて、よりを戻したくて、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないる。深層心理の中には、カップルいう構造体が破壊され、恋人という自我を失うことの辛さから、ストレスから逃れるために、ストーカーになることを行動の指令として生み出す者もいるる。もちろん、深層心理に内在するルーティーンの生活を守ろうとする超自我や表層心理の現実的な利得を求める思考は、これを抑圧しようとする。しかし、苦悩が強過ぎる場合、超自我や表層心理の思考では抑圧できず、、深層心理が生み出した行動の指令のままにストーカーになってしまうのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感欲を満たし、そこに、快楽を覚えるからである。さらに、「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感欲を受けての行動である。仲の悪い二人でも、共通の敵が現れると、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会でクラスが一つになるというのも、「呉越同舟」の現象である。他クラスという共通の敵が現れたから、クラスが一つにまとまるのである。クラスがまとまるのは、他クラスを倒して皆で快楽を得たいからである。しかし、大会が終わると、承認欲、支配欲に基づく、人間闘争が始まるのである。戦前の軍人、政治家は、国民を「呉越同舟」状態にして、アメリカを日本共通の敵として、戦ったのである。それが、戦後になると、アメリカの代わりに、中国、北朝鮮、韓国、ロシアが成ったのである。このように、人間は、日常生活の全ての場面において、最初に、深層心理が動く。深層心理は、瞬間的に、欲動の保身欲、承認欲、支配欲、共感欲に基づいて、快楽を求め、不快感から逃れようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。深層心理が思考して生み出した行動の指令がルーティーンの生活から逸脱する場合、深層心理の中に存在する超自我が、人間の無意識の中で、まず、抑圧しようとする。超自我が抑圧できなかった場合、人間は、表層心理で、時間を掛けて、深層心理が生み出した感情の下で、自我に現実的な利得をもたらせようという志向性の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかを決める。受け入れると決めた場合、意志によって行動の指令を実行し、拒否すると決めた場合、意志によって行動の指令を抑圧しようとする。しかし、感情が強い場合、超自我で抑圧しようとしても、表層心理での思考によって意志で抑圧しようとしても、抑圧できず、行動の指令のままに実行してしまうのである。感情が強すぎる場合、最初から、超自我は機能せず、表層心理で思考することなく、行動の指令のままに実行してしまうのである。人間は、このような圧倒的な深層心理の思考を前にして、表層心理で思考して、何ができるか、どこまでできるか、どのようにできるか。