あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、自分ではない自分が生み出した欲望をかなえるために生きている。(自我その311)

2020-01-30 19:51:08 | 思想
人間にとって、欲求と欲望を区別することは難しい。しかし、心理学では明確に分けている。欲求は、食欲、睡眠欲、性欲などであり、生命を維持し、子孫を残すために、存在するものである。それは、他の動物にも、共通して、存在している。しかし、欲望は、名誉欲、支配欲、愛欲などであり、それ自体が目的であり、生命を維持し、子孫を残すためには、不可欠とは言えないものである。だから、それらは、他の動物には、存在しない。しかし、人間にとって、食欲と言えども、食糧を支配したいという欲望であり、性欲は異性を支配したいという欲望であり、睡眠欲は、安定した体調や精神状態を求めたいという安らぎを求める欲望である。すると、食欲も、睡眠欲も、性欲も、欲望の範疇に属することになる。つまり、人間にとって、純粋な欲求は無く、欲求は、全て、欲望に形を変えていることになる。確かに、人間にとって、単に、食欲を満たすという行為は存在しない。食材を生のまま食べることはほとんど無い。刺身と言えども、きちんと調理され、形を整えられ、他の調理した物と共に食される。人間は、一般に、調理されていない物には食欲が湧かず、調理されている物に対してこそ食欲が湧いてくる。そこが他の動物と著しく異なっている。他の動物たち、例えば、馬が人参を、猫が魚を、犬が肉を洗うことさえしないで、生のままに食べるのと大いに異なっている。それは、人間にとって、食材を調理するとは、単に、生命の維持のために消化しやすくするためのものではなく、自然を自分の都合の良い形に変えて支配することだからである。また、人間にとって、単に、睡眠欲を満たすという行為は存在しない。他の動物たちは、安全性が確保されれば、そこで寝ることにし、眠りに落ちることが早く、不眠症も存在しない。しかし、人間は、安全性以外に、明かりや音や温度の程度・布団やベッドの硬度・抱き枕やぬいぐるみ・添い寝者の有無などの環境が自分に合わなければ、眠ることができないのである。つまり、眠る時にも、環境を自分の都合の良いものでなければ、つまり、環境を支配していなければ、眠ることができないのである。体調や精神状態に安定性を求めることができなければ、眠ることができないのである。また、人間にとって、単に、性欲を満たすという行為も存在しない。それは、他の動物が、発情期が来ると、自然に交尾し、妊娠し、出産するのと大いに違っている。
人間には、発情期は存在しない。言わば、一年中、発情期である。しかも、妊娠中も、更年期を迎えても、性欲が存在する。また、人間は、ただ単に、欲望に任せて、セックスするのではない。そこに愛情という相手への思いと相手から自分に対する愛情があるという確信が存在しなければ、基本的にはセックスしない。なぜならば、人間にとって、性欲とは、相手の愛情を求める気持ちであり、セックスができるとは、相手の愛情を手に入れたという証だからである。つまり、性欲とは、異性の心を支配したいという欲望なのであり、セックスとはその証なのである。このように、人間には、他の動物と異なり、純粋な欲求は存在しない。それは、全て、欲望に変換させられている。食欲は、自然の動植物を支配したいという欲望である。睡眠欲は、環境を支配して、体調・精神状態を安定したいという欲望である。性欲は、異性の心を支配したいという欲望である。そして、名誉欲は、他者に認められたいという欲望なのである。つまり、人間の行動は、全て、欲望が深く関わっているのである。しかし、欲望がもたらす行動には、良心が起こしたと思われる正当なものから、悪心が起こしたと思われるよこしまなものまで、さまざまなものが存在する。しかし、どのような欲望であろうと、人間は自ら意識して自らの意志で生み出しているわけではない。すなわち、人間は、意識や意志しての心の働きである表層心理で欲望を生み出しているのではない。欲望は、人間の無意識の心が生み出しているのである。すなわち、人間の無意識の心の働きである深層心理が欲望を生み出しているのである。深層心理は、精神的にも肉体的にも、相手を思いやる欲望から相手を傷付ける欲望まで、さまざまなものを生み出してくる。だから、どのような欲望を抱こうと、本人には責任はない。もしも、人間は、自らの欲望を全て相手に話してしまえば、どのように親密な人間関係でも壊れてしまうだろう。しかし、確かに、どのような欲望を抱こうと本人には責任はないが、当然のごとく、よこしまな欲望を行動に移すと、責任が生じてくるのである。さて、欲望は、人間の表層心理(意識・意志)の思考に拠らず、深層心理(無意識)の思考から生み出されているであるが、決して、無根拠のものではない。フランスの心理学者のラカンが「無意識は言葉によって構造化されている。」と言っているように、深層心理は、言語を使って論理的に思考し、欲望を生み出しているのである。それでは、深層心理は、何を求めているのか。それは、快楽である。深層心理は、快楽を求め、不快を避けて生きようと思考している。快楽を求め、不快を避けて生きようとする欲望を、スイスで活躍した心理学者のフロイトは、快感原則と呼んだ。深層心理は、快感原則に基づいて思考するから、良心・悪心の区別は存在しない。もちろん、深層心理には、道徳観や社会規約も存在しない。ひたすら、その時その場での瞬間的な快楽を求め、不快を避けようとする。だから、深層心理の思考も、瞬間的に行われる。さて、快感原則は何を主体に立てて、思考しているのか。それは、自我である。それでは、自我とは何か。自我とは、人間が、構造体の中で、ポジションを得て、それを自己のあり方として、その務めを果たすように生きている、そのあり方である。それでは、構造体とは何か。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体と構造体に属している自我には、さまざまなものがあるが、具体例を挙げると、次のようになる。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我がある。店という構造体には、店長・店員・客などの自我がある。仲間という構造体には、友人という自我がある。カップルという構造体には、恋人という自我がある。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民(日本人という庶民)という自我がある。都道府県という構造体には、都知事・道知事・府知事・県知事、都会議員・道会議員・府会議員・県会議員、都民・道民・府民・県民という自我がある。市という構造体には、市長・市会議員・市民という自我がある。町という構造体には、町長・町会議員・町民という自我がある。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、このような構造体の中で、自我として生きているのである。人間は、自己という統一された自分として生きるのではなく、構造体によって、異なった自我を持って生きるのである。確かに、人間は、名前と肉体という固有のものを常に有しているが、実際に生きていく上においては、それらは感情や行動の起点にならないのである。人間は、実際に生きていく上においては、さまざまな構造体において、さまざまな自我を有し、それが、感情や有象の起点になるのである。なぜならば、人間は、本質的に社会的な動物である、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って、他者と関わり合いながらに暮らしているからである。さて、人間は、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしているが、それが、可能なのは、深層心理が思考して、自我の欲望を生み出すからである。人間は、人間の無意識うちに、深層心理が、まず最初に、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。その後、人間は、その深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、意識して、表層心理で、思考し、行動を決めるのである。それでは、深層心理は、どのようにして、快感原則という欲望を満たそうとしているか。それは、自我の対他化、対象(他者・物・事柄)の対自化、自我と他者の共感化という志向性(観点・視点)である。まず、第一の志向性である自我の対他化とは、深層心理は、自我が他者に認められることによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我の対他化とは、言い換えると、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。他者に認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、認められれば、評価されれば、好かれれば、愛されれば、信頼されれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。オリンピックやワールドカップで、日本人選手が優勝しようと思うのは、日本という構造体で、日本人選手という自我を、日本人という大衆の他者から褒めてもらいたいからである。自我の対他化は、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。次に、第二の志向性である対象の対自化とは、深層心理は、他者や物や事柄という対象を自我で支配することによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。対象の対自化とは、言い換えると、他者という対象を自我で命令して動かすこと、物という対象を自我で利用すること、事柄という対象を自我の志向性で捉えることなのである。他者や物や事柄という対象の対自化は、「人は自我の欲望を対象に投影する」(人間は、自我の思いを他者に抱かせようとする。人間は、自我で他者を支配しようとする。人間は、自我で物を利用しようと考える。人間は、他者や物や事柄を、自我の志向性や趣向性で捉えようとする。人間は、実際には存在しないものを、自我の欲望によって創造する。)という言葉に集約されている。すなわち、他者の対自化とは、自我の力を発揮し、他者たちを思うように動かし、他者たちのリーダーとなることなのである。その目標達成のために、日々、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接している。物の対自化とは、自分の目的のために、対象の物を利用することである。事柄の対自化とは、自分の志向性で(観点・視点)や趣向性(好み)で、事柄を捉え、理解し、支配下に置くことである。国会議員が総理大臣になりたいと思うのは、日本という構造体で、総理大臣という自我で、日本人という大衆を支配したいからである。人間が神を創造したのは、この世に神が存在しなければ生きていけないと思ったからである。最後に、第三の志向性である自我と他者の共感化とは、深層心理は、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我と他者の共感化とは、言い換えると、自我の存在を確かにし、自我の存在を高めるために、他者と理解し合い、心を交流し、愛し合い、協力し合うのである。人間は、仲間という構造体を作って、友人という他者と理解し合い、心を交流し、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合い、労働組合という構造体に入って、協力し合うのである。また、敵と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の志向性である。自民党の総理大臣は、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆をあおり、大衆の支持を得ようとするのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。高校生や会社員が、その高校やその会社が嫌でも行ってしまうのは、高校生や会社員という自我を失うのが恐いからである。このように、人間は、まず、深層心理が、構造体において、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、自我の対他化、他者・物・事柄という対象の対他化、自我と他者の共感化のいずれかの志向性を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我を行動させようとする。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。そして、次に、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望結果を意識して、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを思考するのである。そして、その結果が意志となり、意志による行動となるのである。この時の人間の表層心理での思考が広義の理性である。現実原則も、フロイトの用語であり、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらせようとする欲望である。表層心理が許諾すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動となる。表層心理が拒否すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、その後、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。この時の人間の表層心理での思考が狭義の理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考するのに対して、表層心理の思考は、長時間を要するのである。感情も、深層心理が生み出すから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、人間が、表層心理の思考で、深層心理の行動の指令を抑圧すると決定するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動の指令を生み出した時である。表層心理は、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動すると、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。しかし、行動の指令を抑圧した場合、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、傷心・怒りという苦痛の感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。この時、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがあるのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理の行動の指令を意志を使って抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多い。これが、所謂、感情的な行動である。また、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに、表層心理で意識せずに、行動することがある。一般に、無意識の行動と言い、習慣的な行動が多い。これが、ルーティンとなる。それは、表層心理が意識・意志の下で思考するまでもない、当然の行動だからである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、ニーチェは、人間の生活も、「永劫回帰」(同じことを繰り返す)に当てはまると言ったのである。さて、苦悩とは、人間が、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、苦痛の感情を取り除く方法を長期にわたって苦慮している状態を言う。しかし、傷心・怒りという苦痛の感情を生み出しのは、深層心理である。深層心理が、自我が他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受けたので、快感原則に基づいて、自我に対して、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手をもっとひどく侮辱せよや相手を殴れなどの過激な行動を指令したのである。しかし、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理の行動の指令の通りに、相手を侮辱したり殴ったりすると、後で、その相手から復讐されたり、周囲に人から顰蹙を買ったり、法的に罰せられたりして、自我が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧したのである。しかし、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、自らの現実原則が納得し、さらに、深層心理の快感原則が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になるのである。この時、人間は、自らの思考の力を最大限に発揮しなければならないのである。これが、狭義の理性である。そこで、ニーチェは、「人間は、安楽の時、自分自身から離れ、苦悩の時、自分自身に近づく。」と言うのである。安楽も苦痛も深層心理がもたらした感情である。しかし、人間は、安楽の時には、表層心理で、考えることをしない。反省する必要が無いからである。人間は、苦痛の時、表層心理で、苦悩の状態に陥って深く考えるのである。だから、偉大な思想は、全て、苦悩の中から生まれているのである。狭義の理性による長期の思考が、偉大な思想を生み出したのである。デカルト、カント、ヘーゲル、キルケゴール、ニーチェ、ハイデッガーなど、全てそうである。しかし、一般的には、苦悩とは、人間が、苦しいと感情の中で、その苦しみから逃れる方法を、表層心理で案出するためにもがいている現象である。人間は、その時、自分が苦しみにあることを課題にして、苦しみがもたらされた原因を分析し、苦しみから脱却する方法を思考するのである。これも、また、狭義の理性による思考である。確かに、理性による思考によって、苦しみから脱却する方法が考え出すことができ、それを実行し、実際に、苦しみから脱却できる者も存在する。しかし、苦しみから脱却する方法を考え出すことができなくても、時間とともに、苦しいという感情が薄れゆき、苦しみから脱却する者も存在する。そして、苦しいと感情という感情が強すぎるので、また、苦しみから脱却する方法が考え出す自信がないので、他者との会話や遊びや趣味やアルコールや医薬品などに頼って、苦しみから逃れようとする者も存在する。つまり、表層心理でしっかり受け止め、理性による思考に終始する人と、表層心理で受け止めきれず、時間や気分転換に頼る者が存在するのである。しかし、後者の場合であっても、それを非難することはできない。その理由は二つある。一つは、人間の意識という表層心理で与り知らぬ所で、すなわち、無意識という深層心理が苦しいという感情を生み出しているからである。もう一つは、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した苦しい感情から脱却するための行動の指令のままに行動すると自分にとって利益の結果になると判断したから、行動の指令を抑圧したのである。つまり、人間の表層心理による所期の目標は、深層心理が生み出した苦しいという感情を消滅させることという一点だからである。だから、哲学者のウィトゲンシュタインも、「苦しいという感情が消滅すれば、苦痛の原因も解決されたということができる。」と言うのである。だから、人間の苦悩が消えるのは、必ずしも、苦悩の原因となっている問題点が解決されたからだとは言えないのである。しかし、苦悩が消えれば、人間は、所期の目標が達成できたということであり、人間は、それ以上、踏み込むことはできないのである。確かに、深層心理は、何かを対象として、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という欲望を生み出すから、その対象となるものやことが、本人の深層心理には大きな課題であるが、他者にとっては、些末であったり、偉大であったりして、玉石混淆である。しかし、他者にとっては、些末に見えることも、本人の深層心理には、課題となる大きなことだから苦痛になるのである。人間は、深層心理が生み出した、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望から逃れることはできないのである。また、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、自らの表層心理で、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、思考し、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出したと行動の指令について審議するから逃れることはできないのである。さらに、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、思考し、深層心理の行動の指令を抑圧することに成功しても、その後、表層心理の現実原則が納得し、その上、、深層心理の快感原則が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考にから逃れることはできないのである。しかし、この時、人間は、自らの理性による思考の力を最大限に発揮し、最も主体性に近づくのである。

人間は、自己によって生きているのではなく、自我によって生かされている。(自我その310)

2020-01-29 20:41:47 | 思想
人間は、自己によって生きているのではなく、自我によって生かされているのである。自我とは、構造体の中でのポジションである。人間は、構造体の中で、ポジションでが与えられ、それを自己のあり方として行動するのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。すなわち、自我とは、構造体の中での、ある役割を担った現実の自分の姿なのである。自己が自我となって、存在感を覚え、自信を持って行動できるのである。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、活動している。人間は、毎日、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、常に、他者と関わって生活し、社会生活を営んでいるのである。人間は、他の動物と同じく、世界内存在の生物であるが、人間だけが、実際に生活する際には、世界が細分化され、構造体となるのである。つまり、実際に生活する時には、世界が一つの構造体へと限定され、自己が一つの自我へと限定されるのである。世界が一つの構造体へと限定され、自己が一つの自我へと限定されるから、人間は、構造体の中で、ポジション(役目、ステータス)という自我に応じた行動ができるのである。さて、人間は、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を持つが、構造体と自我の関係については、次のようになる。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、県という構造体では県民などの自我があり、国という構造体では国民などの自我があるのである。たとえ、人間は、一人暮らしをしていても、孤独であっても、孤立していても、常に、構造体に所属し、自我を持って、他者と関わりながら、暮らしているのである。さて、人間は、常に、構造体の中で、自己が自我となり、他者と関わりながら、自我を主体として暮らしているのであるが、その自我を動かすものは、深層心理なのである。深層心理とは、人間が自らは意識していないが、心の中で行われている思考行動である。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。人間は、まず最初に、深層心理が、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。その後、人間は、表層心理で、深層心理の思考の結果である自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令の採否について思考を開始するのである。表層心理とは、人間が、意識して、思考し、その結果を、意志として行動するあり方である。もしも、人間が、自我に捕らわれず、最初から、自分で意識して考え、意識して決断し、その結果を意志として行動することができるのであれば、人間は、主体的なあり方をしていて、主体性を持していると言えるだろう。しかし、人間は、本質的に、主体的なあり方をしず、主体性を持していないのである。なぜならば、人間は、深層心理の思考の結果である自我の欲望を受けて、表層心理で、思考を開始するからである。さて、深層心理が、思考の原理としている快感原則とは、快楽を求める欲望である。それは、フロイトの用語である。ひたすら、快感原則とは、その時その場での快楽を求める欲望である。そこには、道徳観や社会規約は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求めることを、目的・目標としているのである。深層心理の働きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味する。つまり、深層心理が、快感原則に基づいて、人間の無意識のままに、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という欲望を生み出しているのである。人間が、表層心理で、意識して思考するのは、深層心理の思考の後である。人間は、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、現実原則に基づいて、自我を主体に立てて、思考し、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するか抑圧するかを決定し、それを意志として行動しようとするのである。表層心理とは、人間が、自ら意識して行う思考行為である。理性とも呼ばれている。現実原則も、フロイトの用語で、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望である。それは、長期的な展望に立ち、深層心理の瞬間的な思考とは対照を成している。しかし、人間の表層心理での思考は、常に、深層心理の結果を受けて行われ、表層心理が独自に動くことはないのである。さて、先に述べてように、人間は、まず最初に、深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求める欲望である快感原則に基づき、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのであるが、深層心理は、自我が他者に認められること、自我で対象を支配すること、自我と他者を理解し合うこと・愛し合うこと・協力し合うこという三種類の状態のいずれかを作り出すことによって、快楽を得ようとする。まず、第一の状態であるが、深層心理は、自我を対他化することによって、他者に認められたいという欲望を生み出している。これを、自我の対他化と言う。略して、対他化とも言う。自我の対他化とは、自分が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を考えることである。人間は、他者に会ったり他者がそばにいたりすると、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、その人の視線から、自分がその人にどのように思われているかを探ろうとする。この他者の視線の意識化は、自らの意志という表層心理に拠るものではなく、無意識のうちに、深層心理が行っている。だから、他者の視線の意識化は、誰しもに起こることなのである。しかし、ただ単に、他者の視線を感じ取るのではない。そこには、常に、ある思いが潜んでいる。それは、その人から好評価・高評価を得たいという思いである。つまり、人は、他者に会ったりそばにいたりすると、視線を感じ取り、その人から好評価・高評価を得たいと思いつつ、自分がその人にどのように思われているかを探ることなのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(①人は常に他者の評価を勝ち取ろうとしている。②人は他者の評価が気になるので他者の行っていることを模倣したくなる。③人は他者の期待に応えたいと思う。)という言葉は、端的に、対他化の現象を表している。大学受験者が、有名大学や偏差値の高い大学を狙うのは、合格することによって、他者に自我を認めてもらいたいという欲望があるからである。だから、その大学の内実を知っていないことが多いのである。だから、対他化とは、自我を他者の評価にさらそうとすることなのである。だから、サルトルは、「見られることに価値におくのは、敗者の態度だ。見ることの方が大切なのだ。」と言うのである。言うまでもなく、見られることに価値におくのは対他化であり、見ることに価値をおくのは対自化である。人間の主体的な思考・主体的な行動を主張するサルトルならば、当然の論理である。しかし、深層心理が、自我の対他化を行っているのであり、人間は、表層心理の思考は、深層心理の思考の結果をうけて、動き出すのであり、深層心理の思考そのものを動かすことはできないのである。次に、第二の状態であるが、深層心理は、他者・物・事柄という対象を対自化することによって、対象を支配したいという欲望を生み出している。これを、対象の対自化と言う。略して、対自化とも言う。深層心理が、対象を対自化するのは、現象を、現象のままにしておくことは不安であり、現象を対象として捉え、対象から真理を掴み出すことによって安心するからである。正確には、真理を掴んだと思うことによって安心する動物である。人間は、自我で、他者・物・事柄という対象を支配して、初めて、安心できる動物なのである。それが、対象の対自化という作用である。それは、まさしく、「人は自己の欲望を対象に投影する」((①人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。②人間は、無意識のうちに、物という対象を、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で利用しようとする。③人間は、無意識のうちに、事柄という対象を、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で捉えて、支配しようとする。④人間は、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造する。)という言葉に集約されているのである。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。日本人が、木を切ってきたのは、木を物して利用しようとしてきたからである。哲学者が、思考するのは、事柄を、自らの志向性で、捉えたいからである。対象という他者の対自化の究極のあり方が、ニーチェの言う「権力への意志」である。最後に、第三の状態であるが、深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出している。これを、自我と他者の共感化と言う。略して、共感化とも言う。自我と他者の共感化が、対他化と対自化の相克を留めるのである。共感化とは、相手に一方的に身を投げ出す対他化でもなく、相手を一方的に支配するという対自化でもない。共感化は、理解し合う・協力し合う・愛し合うという現象に、端的に、現れている。「呉越同舟」という四字熟語がある。「仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。」という意味である。仲が悪いのは、二人は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができなくても、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否し、妥協することを拒否しているからである。そこへ、共通の敵という第三者という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなるから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻ってい木、対自化し合うのである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者を共感化させ、そこに、連帯感の喜びを感じているからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差しだしていた自分には、屈辱感だけが残る。その屈辱感を払うために、ストーカー殺人という凶行に走る者がいるのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。男児は、家族という構造体から追放されないために、母親に対する恋愛感情というエディプスの欲望を抑圧したのである。ストーカーが発生するのは、自我の対他化していた相手を失うことの苦痛でもあるが、相手から別れを告げられ、カップルという構造が消滅し、恋人という自我を失うことの苦痛からでもあるのである。このように、人間は、人間の無意識のうちで、深層心理が、快感原則によって、構造体において、自我を主体に立てて、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。そして、深層心理は、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。人間は、まず、無意識のうちに、深層心理が動くのである。深層心理が動いて、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。その後、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令を意識して思考し、行動の指令の採否を考えるのである。それが理性と言われるものである。理性と言われる表層心理の思考は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を意識し、行動の指令のままに行動するか、行動の指令を抑圧して行動しないかを決定するのである。行動の指令を抑圧して行動しないことを決定するのは、そのように行動したら、後に、自分に不利益なことが生ずる虞があるからである。しかし、表層心理が、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、行動しないことに決定しても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがある。それが、感情的な行動であり、後に、周囲から批判されることになり、時には、犯罪者になることがあるのである。そして、表層心理は、意志で、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、代替の行動を考え出そうとするのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。その時、理性による思考は長く続き、それは苦悩であるが、偉大な思想を生み出すこともあるのである。偉大な思想の誕生には、常に、苦悩が伴うのである。このように、人間の行動の目標や目的は、二つ存在するのである。それは、深層心理の快楽と表層心理での利益を獲得することである。人間は、快楽と利得を獲得する欲望に動かされて生きているのである。快楽と利益は、方向性が異なるように感じられるのは、当然のことである。そして、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、その行動の指令のままに行動することがある。これが、無意識の行動である。人間の生活は無意識の行動が非常に多い。日常生活での、ルーティーンと言われる、習慣的な行動は無意識の行動である。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は同じ生活を繰り返す)と言ったのである。さて、人間は、自分の社会的な位置が定まらなければ、深層心理は、欲望は生み出すことはできないのである。自分の社会的な位置が定まるということは、自我を持つということである。人間は、自己のままでは、深層心理から、欲望が生まれてこないのである。人間が自己のままでいるとは、動物のままでいるということである。動物の深層心理が生み出すのは、欲望ではなく、食欲・性欲・睡眠欲などの欲求である。人間は、自己が自我となることによって、自己として生きることができなくなり、その代わりに、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則によって、対他化・対自化・共感化という三種類の機能によって、快楽を得ようとして、自我の欲望を生み出し、自我を動かそうとするのである。そこにおいて、主体は存在しない。主体は自我のように見えるが、深層心理が、自我を主体に立てて思考しているのであり、自我は思考していないからである。しかし、深層心理は自我を主体に立てて思考しているのであり、深層心理も主体ではない。また、深層心理が自我と一体化していると考えることもできない。なぜならば、深層心理が生み出した行動の指令が、人間の表層心理での思考によって、抑圧されることがあるからである。そして、人間の表層心理が自我と一体化していると考えることもできない。なぜならば、人間の表層心理での思考によって、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合には、行動の指令を抑圧できず、そのまま行動することがあるからである。また、人間には、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、その行動の指令のままに行動するという無意識の行動もある。だから、人間の表層心理が自我と一体化していると考えることは決してできないのである。確かに、人間は、自己によって生きているのではなく、自我によって生かされている。それは、言語持って、社会的に生きている人間の宿命である。しかし、自我が主体的に生きているのではないのである。それは、深層心理が、自我を主体に立てて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、行動させようとするからである。しかし、深層心理も主体ではないのである。確かに、深層心理が、まず最初に、自我を主体に立てて思考し、自我の欲望を生み出すが、次に、それを受けて、人間は、表層心理で、それを審理するからである。しかし、人間の表層心理の思考も主体ではないのである。なぜならば、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、抑圧できないからである。さらに、人間の表層心理で意識されず、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するという無意識の行動も存在し、しかも、それが日常生活では非常に多いのである。このように、人間は、人間になるために自己を失い、自我となり、しかも、自我が主体となることはなく、深層心理が最初に自我を主体に立てて思考し、その後、人間の表層心理の介入があり、深層心理の思考と表層心理での思考の葛藤によって、人間の行動が決まって来ることに、人間の存在の難しさがある。つまり、主体の思考をどこにも定められないところに、人間の存在の難しさがあるのである。



政治権力者、幼児、犯罪者は、皆、自我の欲望に正直である。(自我その309)

2020-01-28 17:10:29 | 思想
人間は、欲望の動物である。欲望とは、快楽を得たいという気持ちである。人間は、常に、自らの欲望をかなえたいと思って生きているのである。しかし、欲望には、道徳観や社会規約は存在しない。なぜならば、人間は、表層心理で、自ら意識して自らの意志で欲望を生み出していないからである。すなわち、人間は、自ら意識して自らの意志で思考して、欲望を生み出していないからである。人間の無意識の思考である深層心理が欲望を生み出しているのである。深層心理は、その場でのその時での快楽を得ようとして、欲望を生み出している。だから、人間が、自らの欲望のままに行動すれば、社会は悪行が横行することになる。そこで、人間社会は、道徳観や社会規約を作って、悪行に繋がる欲望を抑圧しようとしたのである。人間は、道徳観や社会規約に違反する行為を行えば、社会から批判され、時には、罰せられるので、自らの欲望を抑圧するのである。だから、逆に言えば、人間は、道徳観や社会規約に違反した行為と言えども、社会から批判されたり罰せられたりすることが無ければ、その場でのその時での快楽を得ようとして、それを行ってしまうのである。だから、秘密裏の犯罪が絶えないのである。犯罪とは、自らの所行だと社会に露見する可能性が低いと思って行った悪行、もしくは、欲望が強過ぎて自らの所行だと社会に露見することを厭わずに行った悪行である。だから、政治権力者は、大衆の批判が無ければ、いくらでも悪行を行うのである。安倍晋三首相は、森友学園・加計学園・桜を見る会で、不正に、税金を使って、身内に便宜を図っても、支持率が下がらず、大衆の批判が無いと思うから、悪行を続けるのである。このまま、支持率が下がらず、大衆の批判が無ければ、森友学園・加計学園・桜を見る会に類した悪行は続くだろう。また、恐らく、既に、秘密裏に、森友学園・加計学園・桜を見る会に類した悪行を数多く行い、森友学園・加計学園・桜を見る会はその氷山の一角だろう。しかし、これは、安倍晋三首相が特に悪人だというわけではない。人間とはこういうものなのである。俗人とはこういうものなのである。安倍晋三首相も一人の俗人だということである。政治権力者は、大衆の批判が無ければ、自らの欲望をかなえるために、いくらでも悪行を行うのである。ニーチェが19世紀に言った「大衆は馬鹿だ」という言葉が、現代社会でも、通用するのである。幼児も、大衆から批判されない政治権力者と同じように、その場でのその時での快楽を得ようとして、自らの欲望をかなえようとする。「子供は正直だ」と言われる所以である。幼児の心に、まだ、道徳観や社会的規約が備わっていないから、自らの欲望に正直なのである。しかし、幼児は、まだ、力が無く、秘密裏に欲望をかなえようとしないから、「子供は正直だ」と褒められたり許されたりするのである。大人が、幼児と同じように、その場でのその時での快楽を得ようとして、自らの欲望に正直に行動すれば、とんでもないことになることは目に見えている。そのような幼児も、道徳観や社会的規約とまで行かなくても、周囲の大人の視線によって、自らの欲望を抑圧することがある。フロイトが提唱したものの中で、人間の深層心理(無意識の心理)についての最も基本的な概念の一つに、エディプスコンプレックスなるものがある。人間は、幼児期において、異性の親に対して、欲望(近親相姦的な愛情)を抱くが、同性の親の存在の意味に気づき、同性の親を憎むようになるが、同性の親に反抗すればこの家にいられなくなることに気づき、さらに、自分の欲望は社会的に容認されていないことを知り、意識にとどめることができずに、無意識内に抑圧してしまうのである。この幼児の異性に親に対する欲望(近親相姦的な愛情)を抑圧する心理過程を、エディプスコンプレックスと言うのである。また、人間は、これから自らが行うことが犯罪だとわかっていても、自らの所行だと社会に露見する可能性が低いと思われた時や欲望が強過ぎて自らの所行だと社会に露見することを厭わない時には、それを行ってしまい、自分の所行だと社会に露見する場合があるのである。このようにして、犯罪者が誕生するのである。もしも、道徳観や社会規約に違反した行為を行うことを一度でも欲望した者が悪人だということになれば、全ての人間は悪人と言えるだろう。このように、人間は、常に、深層心理が生み出した欲望をかなえて、快楽を得たいと思って生きているのである。


感情・気分という情態性の射程の真実について。(自我その308)

2020-01-27 20:36:13 | 思想
ハイデッガーは、人間の心は、常に、何らかの情態性にあるとした。情態性とは耳慣れない言葉であるが、気持ち・心理状態の意味である。ハイデッガーが敢えてそれを情態性という言葉にしたのは、それが人間の存在のあり方に深く関わっているからである。情態性は、一時的な気持ちの高ぶりである感情と継続した心理状態である気分から成り立っている。しかし、人間は感情の発生も気分の継続・変化も、表層心理で、自ら意識して、自らの意志で、行っているわけではない。人間の深層心理が感情・気分という情態性を統括している。深層心理とは、人間が意識せず、意志できない心の働き(思考)である。表層心理とは、人間の、意識して、意志で行う思考である。だから、人間は、意識や意志という表層心理では、情態性を動かすことはできないのである。人間が、意識や意志という表層心理でできることは、感情の高まりや自我の欲望を幾分抑えるだけである。これが、フロイトの言う超自我という作用である。超自我は万能では無く、感情の大きな高まりや自我の強い欲望に会うと、それらを抑圧しきれないのである。さて、人間の心は、基本的には、継続したある気分の状態にあるが、変化することがある。それには、二つの原因がある。一つの原因は、深層心理が、あまりに長く同じ気分でいることに嫌悪感を抱くからである。すなわち、深層心理は、あまりに長く同じ気分でいると、その気分に嫌悪感を抱き、自ら、その気分を変化させようとするのである。飽きるという状態が、この、あまりに長く同じ気分でいることに嫌悪感を抱いた状態である。つまり、深層心理は、あまりに長く同じ気分でいることに飽きたから、別の気分になろうとして、ある行動をしようと欲望を起こすことがあるのである。もう一つの原因は、感情の高まりである。すなわち、人間は、心に、感情の高まりが起こると、それを起点にして、そこから気分の変化の助走が始まるのである。そして、暫くすると、気分が明確に変化し、そこから、それが継続した気分になるのである。しかし、情態性は、常に、人間が何らかの感情や抱いていたり何らかの気分の状態にいたりすることを意味していることにとどまらない。人間は、常に、自分が何らかの感情や何らかの気分の情態性にあるから、自分の存在を認識できるのである。特に、人間は、苦悩という情態性にある時、もっとも、自分の存在を感じるのである。なぜならば、苦悩から逃れようとしても、容易には逃れられない自分の存在を実感させられるからである。デカルトは、「我思う、故に我あり。」(あらゆる存在を懐疑し、意識の内容は疑うことはできても、懐疑し、意識している自分の存在は疑うことはできない。)という論理で、自分の存在を確証したが、そのような論理を駆使しなくても、人間は、自らの情態性によって、常に、自分の存在を感じ取っているのである。さて、人間は情態性によって自分の存在を感じ取っているのであるが、その自分とは何であろうか。一生、付きまとう固有名詞であろうか。それとも、命を育む肉体であろうか。しかし、固有名詞も肉体も、幼い時から存在していて、その存在は当然すぎて、自分の存在を感じ取るまでに改めて確認するようなものではない。それでは、自分の存在を確認させるものは何であろうか。それは、自我である。それでは、自我とは何か。自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。それでは、構造体とは何か。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。具体的には、構造体と自我の関係は、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属しているから、常に、他者との関わりがある。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、行動するのである。人間は、常に、社会生活を営まないと生きていけないから、常に、何らかの構造体に属し、何らかの自我を持して暮らしているのである。社会生活において、自分の存在を感じ取るとは、自我の存在を感じ取るということなのである。自我の存在を感じ取ることができれば、安心して社会生活に送ることができるから、それは必要なことなのである。しかし、それは、逆に言えば、人間は、構造体から追放され、自我を失う危険性の中で、生きているということでもあるのである。このように、人間は、常に、何らかの構造体の中で、何らかの自我を持し、ある情態性の下で生きているのである。さて、情態性とは、一般に、人間関係・芸術鑑賞・自然観賞などから起こる、喜怒哀楽・好悪・爽快・憂鬱などの感情・気分という心理状態と思われているが、これだけにとどまらない。判断もまた情態性の働きによって為されるのである。例えば、小学一年生の算数の授業で、教師が、黒板に、「8-2=?」と書く。一斉に挙手され、教師は一人の生徒を指名する。「6です。」と答える。他の生徒たちは満足する。なぜ、満足感を覚えたのか。それは、言うまでも無く、自分が出した答に自信があり、それと合致しているからである。満足感や自信は情態性である。すなわち、深層心理が生み出したものである。つまり、深層心理が計算し、深層心理が、「6」と答えた生徒が正しいと判断したのである。このように、言わば、文系の分野(教科)だけで無く、理系の分野(教科)でも、深層心理が入り込み、情態性が判断を保証しているのである。つまり、日常生活において、人間は、情態性によって、深層心理の判断を知るのである。また、ハイデッガーは、人間は情態性の中にいるから、いろいろな事象を認識できるのであると言う。人間に情態性になければ、いろいろな事象は無味乾燥になり、認識できないのである。つまり、感情や気分が、人間に、人間そのものの存在を認識させるとともに、人間の内なる現象と外なる現象を認識させるのである。つまり、感情や気分が無ければ、人間は、自己そのものも、自己の内外の現象を認識できないのである。しかし、古来、西洋では、感情を理性と対立した概念と見なし、理性が感情を克服することに人間の尊厳を見出していた。日本でも、感情について、「喜怒哀楽や好悪など、物事に起こる気持ち。精神の働きを知・情・意に分けた時の情的過程全般を指す。情動・気分・情操などが含まれる。快い、美しい、感じが悪いなどというような、主体が情況や対象に対する態度あるいは価値付けをする心的過程。」などと説明することが多い。つまり、西洋でも日本でも、感情とは、自己の外にある事象についての単なる印象にしか過ぎないと見なしているのである。このような見方をするのならば、感情を軽視するのもうなずける。しかし、感情を含む情態性の力はこのようなか弱いものではない。そして、理性についても、古来、西洋では、「本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力。真偽・善悪を識別する能力。人間だけが有し、動物は有していず、人間が動物よりも優れている根拠の一つである。」と説明している。日本も、理性に対しても、西洋古来の見方と同じである。しかし、理性についての理解も射的距離が短い。まず、理性についての説明文の「本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力。」という一文について疑問がある。「本能」とあるが、心理学者の岸田秀は、「人間は、本能が壊れている。」と言っているように、人間の本能は定義できないのである。母性愛などは本能として存在しないのである。次に、「本能や感情に支配されず」とあるが、ハイデッガーが言うように、人間は、行動している時であろうと思考している時であろうと、必ず、心の奥底に、感情や気分が存在するのである。感情や気分が行動や思考を生み出し、そして、その行動や思考が再び感情や気分を生み出しているのである。つまり、理性と感情は、支配・被支配の関係ではないのである。次に、「道理に基づいて思考し」とあるが、人間は、思考する場合、単語を重ね、文を連ねて、文章を形成していくのであるが、そこには、既に、道理が働いているのである。理性が道理を導入するのではなく、文章の形成そのものが道理そのものなのである。次に、「判断する能力」とあるが、確かに、文章を形成しながら思考していくのは、理性の働きであると言っても良いが、事象と思考が一致しているかどうかを判断するのは、深層心理なのである。深層心理が、理性による思考に納得し、事象と思考が一致していると判断したならば、心に満足感・納得感を与え、それが正しいとされるのである。つまり、道理に基づかない思考は存在せず、道理に基づかないで、単語を重ね、文を連ねて、文章を形成することはできないのである。そして、理性による思考が正しいか間違っているかを判断するのは深層心理であり、深層心理が、正しいと判断すれば、心に、満足感・納得感を与え、それで、思考は終了するのである。深層心理が、心に、満足感・納得感という快い感情を生み出さなければ、快い感情を与えられるまで思考は継続するのである。つまり、判断の最終的な決め手は感情である。次に、「真偽・善悪を識別する能力。」とあるが、この文は、理性が、何の動力も無く、何の前提も無く、独自で、真偽・善悪を識別するということを意味している。しかい、必ず、心の奥底に、感情や気分があるのである。感情や気分が動力となって行動や思考を生み出しているのである。また、表層心理の理性が動き出すまでに、既に、深層心理が、真偽・善悪を識別しているのである。深層心理が動き出し、深層心理の真偽・善悪の識別が前提になっているのである。つまり、理性が、白紙の状態で、真偽・善悪の識別に取りかかるのではないのである。表層心理が、深層心理の識別の結果に不安を覚えたから、理性を使い、深層心理の識別の結果を前提にして、もう一度、事象の真偽・善悪を判断するのである。不安を覚えたことが、表層心理の理性の力になっているのである。しかし、同じ人が判断する場合、深層心理と表層心理の位相(考え方、方向性、志向性)は同じだから、表層心理の理性による判断は最初の深層心理の判断と同じものになることがほとんどである。最後に、「古来、人間だけが有し、動物は有していず、人間が動物よりも優れている根拠の一つである。」という一文について、考えてみる。確かに、動物は言語を有していないから、理性を有していないのは当然である。理性とは、言語を駆使してなされる思考判断能力とされているからである。しかし、理性を有していることは、優位性を意味しない。動物は、同種を殺すことは稀れである。集団で殺し合うことはない。人間だけが、日常的に、同種を殺し、集団で殺し合う。日常的に、殺人があり、戦争があるのである。アドルノは、「理性が、第二次世界大戦を引き起こし、殺し合いをさせた。」と言っている。怒りという感情と憎悪という気分が、理性を使って殺し合いをさせたのである。つまり、理性と感情(気分)は対立した概念ではないのである。感情が理性を生み出し、理性が感情を生み出しているのである。まず、感情から始まるのである。それでは、日常生活において、どのようにして、感情が生まれるのであろうか。そして、どのようにして、感情から、思考が始まるのであろうか。ここでは、理性というような、なじみのない、大仰なものではなく、理性の原点である思考について述べようと思う。感情と思考の関係について述べようと思う。簡単に言えば、感情の多くは、自我と他者の関係によって生まれてくる。先に述べたように、自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションであり、構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属しているから、常に、他者との関わりがある。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、行動するのである。それでは、自我を動かす思いとは何か。その第一の思いは、他者から評価されたいという思いである。他者から評価されると、満足感・喜びという感情を得るのである。人間は、自我の働きが、他者から、好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚し、心に、快い感情が流れるのである。逆に、自我の働きが認められず、他者から、悪評価・低評価を受けると、気持ちが沈み込み、心に不快な感情が流れるのである。そして、不快な感情が心に流れた時、人間は思考するのである。人間は、上手くいっている時、考えない。上手くいかない時、考える。上手くいかない時、心に不快感が流れ、その不快感をから解放されるには、どうしたら良いかを考えるのである。たとえば、学校に行けば、同級生たちと仲良く過ごしていたり、会社に行けば、上司から信頼されていたりすれば、深層心理は、本人に、快い感情を持たせると共に学校・会社に行くようにという指針を出し、思考することを求めない。上手くいっているから、このまま、登校・出勤すれば良いのである。しかし、学校に行けば、同級生たちから継続的ないじめにあっていたり、会社に行けば、上司から毎日のように叱責されたりしていれば、深層心理は、本人に対して、苦痛を与えると共に、どうすべきか、考えさせるのである。人間は、苦痛から解放されようとして、その方策を考えるのである。本人は、その方策が考えられない場合、学校・会社に行かないということも考える。また、本人が、学校・会社に行こうとしても、深層心理が、学校・会社に行って苦痛を味わわないように、深層心理が鬱病・腹痛・頭痛などを起こして、学校・会社に行かせないようにしたり、深層心理が自ら統合失調症・離人症に罹患して、学校・会社に行っても、苦痛を味わわないようにしたりする。ところで、先に述べたように、気持ちの高揚や沈み込みの感情は、自ら、意識して、自らの意志で、生み出すことはできない。意識や意志などという人間の表層心理は、感情を生み出すことができない。人間は、自分が気付かない無意識というところで、つまり、深層心理が感情を生み出しているのである。もちろん、深層心理は、恣意的に感情を生み出すのではない。深層心理は、自我の状況を把握して、感情を生み出しているのである。つまり、人間は、自らは意識していないが、深層心理が、自我の状況を理解し、感情、それと共に、行動の指針を、本人に与えるのである。深層心理が、構造体において、自分のポジション(ステータス・地位)における役割(役目、役柄)を果たすという自我の働きが、他者から認められているかいないかを考慮しているのである。人間は、常に、自分が他者からどのように思われているか気にして生きているのも、深層心理が、常に、自我が他者からどのように思われているか配慮しているからである。このような、人間の、他者の視線、評価、思いが気になるあり方は、深層心理の自我に対する対他化の作用なのである。対他化とは、深層心理による、他者の視線、評価、思いを気にしている働きなのである。人間にとって、他者の視線、評価、思いは、深層心理が起こすから、気にするから始まるのではなく、気になるから始まるのである。つまり、表層心理の意志で気にするのではなく、自分の意志と関わりなく、深層心理が気にするから、気にしないでおこうと思っても、気になるのである。気になるという気持ちは、自分の心の奥底から湧いてくるから、気にならないようになりたい・気にしないでおこうと思っても、気になってしまうのである。特に、不快であること・苦痛であることが気になるから、そこから解放されたく、その方策を人間は考えるのである。この思考が理性であり、人間の表層心理での、自ら意識し、自らの意志による思考である。つまり、人間の理性は、常に、苦悩から始まるのである。だからこそ、人間の理性の思考は辛く、重いのであるが、苦悩を解決できた時、大いなる喜びを得るのである。人間の理性に尊厳を置いている人は、理性の底に苦悩という情態性が流れていることを認識していないから、理性の真実を知ることができないのである。しかし、人間は、理性が難くとも、そこに賭けるしかないのである。


超人とは、自らの大衆性を超越した人間である。(自我その307)

2020-01-26 18:25:35 | 思想
ニーチェは、人間は超人にならなければ自己本来の生き方はできないと言う。ニーチェは、『ツァラトゥストラはこう言った』という著書で、「全ての神々は死んだ。今や、我々は、超人が生きることを望む。」と述べている。死んだ神々を信仰しているのが大衆である。大衆とは、死んだ神々を信仰しているように、常に、非本質的なことに囚われて生きている人間である。しかし、人間は、誰しも大衆の中で育つから、大衆として育つのである。だから、人間は、誰しも、自らの深層心理(自らは意識していない心の思考)に、大衆性を持して育ち、生きていくのである。人間は、誰しも、非本質的なことに囚われて生きているのである。しかし、人間は、大衆性をを持して生きていく限り、非本質的なことに囚われて生きている限り、世事の些末なことに囚われ、それに一喜一憂して、一生を終えるのである。人間は、自らの大衆性を超越しない限り、自己本来の生き方はできないのである。超人とは、自らの大衆性を超越した人間である。ニーチェは、人間は、自らの大衆性を超越した超人にならなければ、自己本来の生き方はできず、真に、生きている充実感を得ることはできないと言うのである。大衆は、一般的には、世間一般の人々・庶民・民衆と説明され、社会学では、属性や背景を異にする多数の人々からなる未組織の集合的存在と説明されている。大衆の誕生について、歴史的には、能動的で自己の判断力を持った自立した市民によって形成されていた近代市民社会が、産業革命による資本主義社会の発達ならびにマスコミュニケーション手段の発達に伴って、バラバラで互いに匿名性をもった多数の個々人の集合体によって構成された現代社会に変質したことで、出現したものであると説明されている。つまり、大衆とは、普段はバラバラであるが、時には体制・大勢に迎合し、集団化して行動し、そして、再びバラバラに帰す、無責任な庶民の集団を指すのである。このような大衆を、ニーチェは最後の人間と呼び、ハイデッガーはひと・非本来的人間と呼んだ。ニーチェが「大衆は馬鹿だ」と批判した大衆は、このように、自らの考えを持たず、体制・大勢に迎合し、集団化して行動し、決して責任を取らない人々を指すのである。ニーチェは、最後の人間に対するものとして超人を挙げている。ハイデッガーは、ひと・非本来的人間に対するものとして本来的な人間を挙げている。簡潔に言えば、超人、本来的な人間は、孤立、孤独を恐れず、能動的で、責任感が強く、自己の判断力を持った、自律し、自立した人間である。しかし、現代においては、人間は、皆、大衆の中で、大衆として育つ。課題は、その中にあって、大衆性を持したまま一生を送るか、その大衆性から脱却するかということなのである。もちろん、大衆性を持したまま一生を送る人は、ニーチェの言う最後の人間、ハイデッガーの言うひと・非本来的人間である。大衆性から脱却した人は、ニーチェの言う超人、ハイデッガーの言う本来的人間である。しかし、自分が、最後の人間・ひと・非本来的人間に属するか、超人・本来的人間に属するかは、他者が決めることではない。自分自身が、生きる姿勢として、考えることなのである。さて、大衆の特徴が最も良く現れるのが、マスコミとの共犯性である。週刊誌に、スクープとして、よく、既婚男性と独身女性の芸能人の不倫の記事が出る。それは、不倫記事が出ると、大衆がその週刊誌をよく買うからである。たいていの場合は、二人は不倫を否定する。それを受けて、週刊誌は、第二弾、第三弾の記事を載せ、不倫の事実に説得力を持たせる。すると、大衆はますますその週刊誌を買う。すると、芸能人は、思いあまって、記者会見をして、謝罪する。その場合、不倫を認めて謝罪する芸能人と、世間に誤解を与えて申し訳ないと謝罪する芸能人がいる。誰に対して謝罪するのか。大衆に対して謝罪するのである。しかし、清潔感、誠実性のイメージで売っていた芸能人の場合は、清潔感、誠実性のイメージを崩し、嘘をついたということで、全てのテレビ番組、ラジオ番組を失い、スポンサーからコマーシャル契約を解除されることになる。しかし、男性芸能人の中には、ファンの前では迷惑を掛けたと謝罪しても、公式の場では謝罪しない者もいる。彼は、迷惑を掛けた人に謝罪するのは当然だが、何ら関係のない世間の人々に対して謝るつもりはないと言う。大衆に対して謝罪する必要は無いというわけである。言うまでもなく、不倫事件で、最も傷付いたのは、男性芸能人の奥さんである。そして、迷惑を被ったのは、芸能人の所属事務所、コマーシャルで彼らを使っていたスポンサー、番組で彼らを使っていた放送局、スポンサーである。そして、芸能人とその所属事務所は、スポンサー、放送局に違約金を支払うことになる。芸能人は、迷惑を掛けた人たちに対して、できる限り、責任を取ろうとする。独身女性芸能人の中には、相手の男性の奥さんに、謝罪の手紙を書く人もいる。しかし、やはり、テレビ番組では、何ら関係のない世間の人々に対して謝るつもりはないと言う男性芸能人に対して、ほとんどのコメンテーターが、反省が足りないと批判する。巷のインタビューでも、大衆は、コメンテーターと同じく、その男性芸能人に反省が足りないと批判している。しかし、果たして、マスコミや大衆が言うように、その男性芸能人には反省が足りないのか。その男性芸能人は大衆に対して謝罪を表明すべきなのか。それとも、男性芸能人が言うように、何ら関係のない世間の人々、すなわち、大衆に対して謝罪する必要はないのか。端なくも、芸能人の不倫騒動によって、芸能人、マスコミ、大衆の関係性が如実に表面化した。マスコミは、芸能人のスキャンダルを記事にしたり、放映したりすることによって、命脈を保っているのがわかる。なぜ、芸能人のスキャンダルを材料にするのか。それは、大衆が好むからである。ハイデッガーが言うように、大衆とは、世間話、好奇心、曖昧さの塊なのである。世間話とは、多くの人が、根も葉も無い話を無責任に語り合うことである。そこには、仲間意識があり、安心感がある。好奇心とは、上滑りに話題を取り上げ、ひたすら興味本位に追求することである。そこには探究心は存在しない。だから、疲労感が無く、長く話せるのである。曖昧さとは、責任の所在を明確にせず、行動したり、話したりすることである。無責任であるから、常に、気楽な状態にいられる。まさしく、大衆は、芸能人の不倫騒動に対しても、世間話、好奇心、曖昧さを基に楽しんでいるのである。しかし、大衆は、自らが好奇心の塊であることに気付いていない。大衆は、男性の奥さんに対しての同情の言葉を発して、自らが優しい人間だと他者にアピールする。また、自分自身、そう思い込んでいる。不倫をした芸能人を断罪することによって自らが正しい人間だと他者にアピールしている。大衆は、異口同音に、不倫した芸能人を断罪し、男性芸能人の奥さんに対しての同情の言葉を発して、大衆として、仲間意識を持ち、安心感を得ている。他の大衆と同じ意見を吐いているから、自分の言葉に責任を取る必要が無く、心強い。安心して、芸能人の不倫騒動にうつつを抜かすことができるのである。しかし、大衆が芸能人の不倫騒動をこのような形で世間話で語るように仕向けたのはマスコミである。それは、マスコミの恣意的な操作によるものなのである。マスコミは、大衆の動向を鳥瞰して嘲笑などしていない。マスコミと大衆は同じ方向性にある。マスコミも、大衆の一人なのである。マスコミは、大衆だから、大衆の気持ちがよくわかり、大衆の好みそうなものを記事に取り上げたり、放映したりするのである。マスコミは、先鞭を付けただけなのである。確かに、男性芸能人は奥さんには謝罪すべきであろうし、露見するやいなやもう既にしてしまったことであろう。しかし、本質的には、彼が言うように、何ら関係のない一般世間の人々、すなわち、大衆に対して謝罪する必要はない。だから、このまま、一般世間の人々・大衆に謝罪しないという自らの信念を押し通しても、何ら道義に違反しない。また、女性芸能人も、同様に、男性芸能人の奥さんには謝罪すべきであろうが、本質的には、何ら関係のない一般世間の人々、大衆に対して謝罪する必要はない。しかし、女性芸能人は、不倫を否定しつつ、マスコミを通じて、大衆に対して謝罪した。なぜ、男性芸能人は謝罪せず、女性芸能人は謝罪したのであろうか。それは、女性芸能人は清潔感、誠実性をて売ってきたが、男性芸能人はそれに与しなかったからである。清潔感、誠実性を売ってきた女性芸能人は、謝罪しなければ芸能界で生きていけないからである。しかし、男性芸能人は、清潔感、誠実性を売りにしていないので、ファンと関係性を築ければそれで良いと思い、ファンだけには謝罪したのである。女性芸能人は、大衆と関係性を築かなければ(人気を得なければ)、芸能人というステータスを失ってしまうのである。だから、不倫を否定しつつ、マスコミを通じて、大衆に対して謝罪したのである。しかし、それでも、その後、女性芸能人は、テレビ局から見放され、大衆から不信感を持たれ、芸能人というステータスを維持できなくなった。全てのテレビ番組、ラジオ番組を降板し、謹慎生活に入らざるを得なかった。最悪の結果になってしまった。それでは、女性芸能人は、放送業界にとどまり、芸能人というステータスを維持するためにはどうしたら良かったのだろうか。まず、最初に考えられるのは、最初に不倫の報道が出た段階で、不倫を否定するのではなく、不倫を肯定して、マスコミを通じて、大衆に対して謝罪すべきであったということである。そうすれば、逆に、放送業界や大衆からから正直者として評価され、芸能人というステータスを維持できたかもしれない。しかし、それが裏目に出て、放送業界や大衆から不倫者として非難され、一挙に、芸能人というステータスを失うかもしれない。だから、不倫を否定したのである。しかし、最初に不倫を否定したから、週刊誌が、第二、第三の矢を放ち、不倫を否定しても、放送業界や大衆は嘘つきというレッテルをはってしまったのである。むしろ、不倫を肯定して、マスコミを通じて、大衆に対して謝罪すべきであったのである。女性芸能人は賭けに失敗したのである。しかし、芸能人はなぜ不倫をするのだろうか。芸能人は、不倫が露見すれば、放送業界という構造体から追放され、タレントや俳優の自我を失い、不倫が露見すれば、家族という構造体から追放され、父や母という自我を失い、不倫が露見すれば、夫婦という構造体から追放され、夫や妻という自我を失う可能性が高いのをわかっていながら、なぜ、不倫をするのだろうか。それは、芸能人に限らず、人間は、意識や意志で恋愛するわけでは無いからである。恋愛感情は、意識や意志という表層心理でなく、人間の無意識の思考である深層心理で生まれてくるから、意志で止めることはできないのである。しかし、恋愛感情に限らず、感情は、無意識、つまり、深層心理が生み出すから、容易に止めることはできないのである。だから、不倫が露見すれば苦境に立たされるのがわかっていながら、二人の愛情は冷めることがないのである。だから、誰しも、不倫をする可能性があるのである。しかし、大衆はそれを認めない。タレントや俳優は絶対に不倫をしてはいけないと思っている。特に、清潔感、誠実性を売りにして人気を博していた女性た芸能人が不倫すると、裏切られた大衆の復讐は激しい。週刊誌も、清潔観、誠実性を売りにした芸能人が不倫した記事を載せると、大衆がよく買ってくれるので、彼らのプライバシーを徹底的に暴く。放送業界も、大衆の支持によって成り立っているから、大衆の視線を気にせざるを得ない。それは、視聴率となって現れる。だから、放送業界も、大衆の世間話、好奇心、曖昧さに迎合せざるを得ないのである。しかし、日本において、清潔感、誠実性だけで形成された芸能人は存在するのだろうか。清潔感、誠実性だけで形成された芸能人は実体のない芸能人である。果たして、実体のない芸能人は存在するのだろうか。しかし、実体のない芸能人は存在する。それは、アイドルである。アイドルとは、一般に、若手タレントの人気者を指しているが、本来の意味は、偶像である。アイドルだけでなく、清潔感や誠実性を売りにした芸能人は偶像なのである。だから、アイドルは、不倫によって、清潔感や誠実性のイメージがはぎとられると、放送業界から去り、二度と戻ることはできないのである。アイドルは、恋愛することすら許されていない。しかし、実体のない(偶像に満ちた)芸能人こそ、放送業界の重要な一翼を担っているのである。清潔感や誠実性を売りにした芸能人は実体がないから、実体を見せると、次から次へと消されるのである。そして、次から次へと消えていくから、次から次へと生まれてくるのである。その新奇さが、大衆の好奇心を満足させるのである。芸能人には、大衆の好むイメージさえあれば良く、実体が無くても良いのである。だから、我も我もと若者は芸能人になりたがるり、次から次へと生まれてくるのである。また、大衆の好むイメージには、清潔感、誠実性以外に、爽やかさ、若々しさ、清楚、可愛らしさ、美しさ、上品さ、優しさなど、様々なものがる。つまり、放送番組は、実体のない、イメージに満ちた、偶像の世界なのである。そこに、不倫という実体を持ち込んだ芸能人が現れると、去らざるを得なくなるのである。これからも、放送業界には、芸能人が、次から次へと生まれてくるだろう。そして、その新奇さが飽きられて消えていくか、実体を持ち込んだために消されていくだろう。放送業界とは、虚構の構造体なのである。芸能人は、放送業界という虚構の構造体に属し、放送業界人、マスコミ、芸能人という関係性の中で、芸能人という自我を得ている。だから、芸能人というステータス自身が虚像なのである。しかし、この世で、虚構でない構造体、変化しない関係性、虚像でないステータスは、存在するのだろうか。確かな構造体、固定した関係性、実像としてのステータスが存在しなければ、人間は不幸なのだろうか。むしろ、構造体は虚構であること、関係性は変化すること、ステータスは虚像であることを認めて、生きて行った方が幸福になれるのではないか。しかし、大衆は、確かな構造体、固定した関係性、実像としてのステータスを信じて、追い求めて、歴史を形成して来たのである。それが不幸の源泉であることに気付かないのである。大衆は、構造体は虚構であること、関係性は変化すること、ステータスは虚像であることを認めて生きていくことが、幸福に繋がることを知らないのである。構造体は虚構であること、関係性は変化すること、ステータスは虚像であることに気付き、それを受けとめて暮らしているのが、超人である。さて、ニーチェは、「人間の認識する真理とは、人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬である。もしも、深く洞察できる人がいたならば、その誤謬は、人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理の上に、かろうじて成立した、巧みに張り巡らされている仮象であることに気付くだろう。」と言っている。まさしく、天体の基本真理と言えども、人間の生に有用である限り、安心感が得られるから、真理とされるだけなのである。しかし、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」とは何であろうか。それは、「誤謬・仮象を否定して、真理も求めても、そこに、真理は存在しない」という真理である。だから、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」なのである。また、「深く洞察できる人」とは、ニーチェの言う超人である。超人とは、これまでの人間である最後の人間、すなわち、大衆を否定した人間である。最後の人間とは、キリスト教の教えに従い、この世での幸福を諦め、あの世での神の祝福・加護に期待を掛け、神に祈って、生活している人間たちである。だから、超人とは、この世に賭け、この世に生きることを肯定して、積極的に生きる人間ということになるのである。ニーチェは、「神は死んだ」と言うのは、超人が現れる時が来ていて、現代がその時代ということなのである。である。超人とは、「誤謬・仮象を否定して、真理も求めても、そこには真理は存在しない」という「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」を認識し、敢えて、自ら、新しく真理を打ち立て、現世を肯定して生きる人間である。もちろん、新しく打ち立てた真理も、また、誤謬・仮象である。しかし、この誤謬・仮象は、キリスト教の教えに従い、この世での幸福を諦め、あの世での神の祝福・加護に期待を掛け、神に祈って、生活している最後の人間たちの誤謬・仮象ではない。現世を肯定して生きるための誤謬・仮象である。だから、超人は、この世で、自らの神を打ち立てるのである。しかし、超人は、まだ、この世に現れていない。だから、ニーチェは、「キリスト教の神が誕生し、その神が死んでから、新しい神が、まだ、現れていない。」と言うのである。そして、ニーチェは、「人間は、楽しみや喜びの中にいては、自分自身の主人になることはできない。人間は、苦痛や苦悩の中にいて、初めて、自分自身の主人になる可能性が開けてくる。」と言い、苦悩の中で、自らの神を誕生させ、超人になることを勧めているのである。しかし、人間、誰しも、日常生活が上手くいかず、苦悩・苦痛があるから、それを解決しようとして、表層心理で意識して思考するが、全ての人が、自分自身の主人になれるわけではない。「権力への意志(力への意志)」を「永劫回帰(永遠回帰)」できる者、すなわち、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動するためにはどうしたら良いかと表層心理で意識して思考し続ける者だけが、自分自身の主人になれるのである。だから、無意識の思考である深層心理の支配下にあって、楽だから、同じような生活を繰り返そうという生き方をしている者は、日常生活の奴隷なのである。また、日常生活が上手くいかず、苦悩・苦痛があるから、それを解決しようとして、表層心理で意識して思考しても、思考が短時間で終わり、安易に妥協し、以前の日常生活に戻っていく者も、日常生活の奴隷なのである。つまり、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動するためにはどうしたら良いかと、表層心理で意識して思考し続ける者だけに、自分自身の主人になれる道が開け、超人になる可能性が開かれているのである。先に述べたように、ニーチェの言う超人とは、ハイデッガーの言う本来的人間である。つまり、我々の中で、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動するためにはどうしたら良いかと、表層心理で意識して思考し続ける者だけに、日常生活の奴隷から脱し、超人・本来的人間になる道が開かれているのである。「権力への意志(力への意志)」を持って、「永劫回帰(永遠回帰)」に思考する者しか、自分自身の主人になれないのである。すなわち、そして、自分自身の主人になった人、換言すれば、超人・本来的人間だけが、日常生活の些末な苦悩・苦痛から解放されるのである。