あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

深層心理、深層肉体、表層心理、表層肉体について。(自我その415)

2020-10-03 16:48:29 | 思想
人間には、深層心理、深層肉体、表層心理、表層肉体が存在する。まず、深層心理であるが、深層心理とは、人間の無意識の思考である。人間は、自ら意識することなく、思考しているのである。深層心理は、深層心理独自の意志によって、思考している。深層心理独自の意志とは、徹底的に、自我にこだわり、自我を活かそうとすることである。人間は、深層心理の意志によって、深層心理が、自我を主体にして、思考し、それによって生み出された感情と行動の指令という自我の欲望に基づいて行動している。自我とは、構造体の中で、あるポジションを得て、その務めを果たすように生きていかざるを得ない、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我と構造体の関係を具体的に言えば、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。人間は、常に、ある構造体の中で、ある自我を負って生きている。人間は、人間社会の中で生きていかざるを得ず、いつ、いかなる時でも、常に、ある人間の組織・集合体という構造体の中で、自我として、あるポジションを得て、その務めを果たすように、生きていかざるを得ないのである。人間は、常に、ある構造体の中にいて、深層心理が、ある自我を主体にして、思考し、それによって生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に基づいて行動しているのである。しかし、人間は、常に、自我の欲望を意識して行動しているわけではない。むしろ、自我の欲望を意識せずに、自我の欲望に基づいて行動していることが多い。これが、所謂、無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという同じ行動を繰り返していることに成り立っているのは、無意識による行動だからである。次に、深層肉体であるが、深層肉体とは、人間の無意識の肉体の動きである。深層肉体は、深層独自の意志によって、肉体を動かし、人間を生かしている。人間は、深層肉体の意志という肉体そのものに存在する意志によって生かされている。人間は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の意志によって生かされているのである。人間の体の内部には、肺や心臓や胃があるが、誰も、自分の意志で、肺や心臓や胃の動きを止めることはできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自らの意識した意志で行っているのではない。人間の無意識のうちに、深層肉体が呼吸をしているのである。テレビの学園ドラマで、授業中、教師に、「おまえは何をしているのだ。」と注意された生徒が、とぼけて、「息をしています。」と答えるシーンがあったが、その生徒は間違っている。誰も、意識して息をしていない。人間が意識して息をしているのならば、寝入ると同時に、息が止まり、死んでしまう。深呼吸という意識的な行為も存在するが、それは、深く吸うということを意識するだけでしかなく、常時の呼吸は無意識の行為である。呼吸は、誕生とともに、既に、人間の深層肉体に備わっている機能であるから、人間は、生きていけるのである。心臓も、人間の意志で動いているのではない。だから、止めようと思っても、止めることはできない。心筋梗塞が起こったり、人為的に、他者や自分がナイフを突き立てたりなどしない限り、止まらないのである。さらに、胃も、人間の意志によって動いているのではない。心臓や肺と同じく、誕生と同時に、深層肉体として、既に動いているのである。胃の仕組みや働きすら、今もって、ほんのわずかしか知られていない。だから、完全な人工的な胃は存在しないのは当然のことである。確かに、人工心臓は存在するが、それは、新しく作り出したのではなく、現に存在している心臓を模倣したものである。だから、人工心臓は、生来の心臓の一部の働きしかできないのである。このように、人間は、ほとんどの場合、自らの意志によって、肉体を動かしているのではなく、肉体自身が肉体を動かしているのである。それが深層肉体の意志である。次に、表層心理であるが、人間の意識しての思考である。人間の表層心理の思想の結果が、所謂、意志である。しかし、人間は、表層心理独自で思考することはできないのい。深層心理が、まず、ある心境の下で、欲動に動かされて、ある構造体の中で、ある自我を主体にして、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。心境とは、感情と同じく、情態性という心の状態を表している。深層心理は、常に、ある心境やある感情の下にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、人間の心境であり感情である。深層心理は、心がまっさらな状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境や感情に動かされているのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽悪などの、突発的に生まれる心の状態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境や感情の状態の時には、欲動は、深層心理をして、現在の状態を維持させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させるのである。人間は、不得意の心境や感情の状態の時には、欲動は、深層心理をして、現在の状態から脱却させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させるのである。つまり、深層心理は、自らの現在の心境や感情を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しいという心境や感情が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境から逃れることができれば、苦しいという感情が消すことができれば良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、欲動にとって、深層心理をして、感情や行動の指令という自我の欲望を起こさせて、自我を動かし、苦しみの心境や感情から、苦しみを取り除くことが最大の目標であるからである。つまり、欲動にとって、すなわち、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態性が大切なのである。それは、常に、心境や感情という情態性が深層心理を覆っているからである。深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。快感原則とは、スイスで活躍した心理学者のフロイトの用語であり、快楽を求め、不快を厭う欲望である。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、現実的な利得を求める視点から、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、意識して思考し、許諾するか拒否するかを決定し、その決定が意志となり、それによって行動することがあるのである。許諾すれば、それは、意志の行動となる。拒否すれば、行動の指令を抑圧し、人間は、表層心理で、意識して、別の行動を考えなければならなくなる。表層心理とは、人間の意識しての思考であるが、常に、深層心理の自我の欲望を審議するために動くのであり、自ら独立して動くことはない。つまり、人間は、常に、深層心理の思考が先にあり、それを受けて、人間は、表層心理で、意識して、思考することがあるのである。現実原則とは、フロイトの用語であり、現実的な利得を求める欲望である。つまり、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、意識して思考し、許諾するか拒否するか決定し、許諾すれば、意志として、表層肉体を使って行動し、拒否すれば、行動の指令を抑圧し、人間は、表層心理で、意識して、別の行動を考えなければならなくなるのである。往々にして、日常生活で、ルーティーンから外れたこと、すなわち、異常なことが起こると、表層心理は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令を、現実原則に基づいて、意識して思考し、行動の指令の採否を決めることがあるのである。それは、異常なことが起こると、深層心理が傷心・怒りなどの過激な感情と罵倒しろ・殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちだからである。所謂、理性とは、表層心理での思考である。人間は、表層心理で、すなわち、理性で、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を、現実原則に基づいて、意識して思考し、行動の指令のままに行動するか、行動の指令を抑圧して行動しないかを決定することがあるのである。しかし、表層心理で、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、行動しないことに決定しても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがある。それが、感情的な行動であり、後に、周囲から批判されることになり、時には、犯罪者になることがあるのである。そして、表層心理で、深層心理が出した行動の指令を抑圧した場合、代替の行動を考え出さなければならなくなる。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した傷心・怒りなどの感情が残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。自殺とは、深層心理の快感原則の基づいて生み出した自我の欲望である。深層心理は、生きている間は、苦痛から逃れられないと思考し、自殺という自我の欲望を生み出したのである。人間は、それを受けて、表層心理で、現実原則に基づいて思考し、自殺を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した苦痛の感情が強すぎるので、抑圧できず、自殺に突き進んでいくのである。しかし、自殺は、深層肉体の意志に反した行いである。なぜならば、深層肉体は、常に、心理や肉体がどんな状態に陥ろうと、人間をひたすら生かせようとしているからである。次に、表層肉体であるが、表層肉体とは、表層心理による肉体の活動である。すなわち、人間の意識しての肉体の活動、人間の表層心理での意志による肉体の活動である。表層肉体による活動は、深呼吸する、授業中挙手する、速く走る、体操するなど日常生活の中でも一部の活動である。しかし、人間は、自らの表層心理での意志よって、肉体そのものを創造できない。現に存在する肉体を模倣するしかない。肉体を創造できるのは、細胞分裂などによる肉体自身でしかないのである。確かに、人間は、自らの表層心理での意志によって、体を動かすことができる。しかし、考えてみればわかるように、それは、深呼吸する、授業中挙手する、速く走る、体操するなどの些細な動作である。しかも、その意志的な動作も、動作の初発のほんの一部にしか関わっていない。例えば、歩くという動作がある。確かに、歩こうという意志の下で歩き出すことがある。しかし、両足を交互に出すという動きは、誰も意識して行っていない。もしも、右、左と意識して足を差し出していたら、意識しての行動、つまり、表層肉体は同じことを長く続けていられないから、途中で足がこんがらがり、うまく歩けなくなるだろう。万が一、目的地まで、意識して両足を差し出して歩いて行ったとしても、疲れ果ててしまうだろう。だから、最も意識して行っていると考えられる動作の一つである歩くという行動すら、意識して行っているのではなく、無意識に、つまり、肉体自身によって行われているのである。歩きながら考えるということも、歩くことに意識が行っていないから、可能なのである。このように、人間は、ほとんど、自らの表層心理での意志によって意識的に肉体を動かしているのではなく、肉体自身が肉体を動かしているのである。つまり、人間は、深層肉体によって、生かされているのである。深層肉体の生きようとする意志は並大抵のものではない。私の父は亡くなっても、その翌日も、遺体の髪の毛も爪も伸びていた。髪の毛も爪も、つまり、深層肉体は父が亡くなったことを知らないのである。いや、知ろうとしていないと言ったほうが正確かもしれない。さて、人間は、指を少し切っただけでも、痛みを感じ、血が出る。血は、その部分を白血球で殺菌し、傷口を血小板で固め、その部分の再生を助けるために、出るのである。肉体は、自ら、再生能力を持ち、更に、痛みによって、表層心理に、そこに異状があることを意識させるのである。そして、人間は、表層心理で思考し、原因を追究し、同じ過ちを繰り返さないようにし、また、治療法も考えるのである。深層肉体は、これほどまでに、生きようとしているのである。このように、意志には、深層心理の意志、深層肉体の意志、表層心理の意志、表層肉体体の意志という四つの意志が存在し、その方向性は、おのの、異なっているのである。しかし、人間の存在の根源は、深層心理の思考と深層肉体の意志にあるのである。人間は、無意識の思考である深層心理と無意識の肉体の意志である深層肉体によって生かされているのである。しかし、深層心理の自我を活かせようとする意志と深層肉体の人間を生かそうとする意志は、その方向性は異なっている。深層肉体は人間の肉体をひたすら生かせようとする。そこには、全く、迷いは存在しない。深層心理は、徹底的に、自我にこだわり、自我を活かそうと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。深層心理が、まず、ある心境の下で、欲動に動かされて、ある構造体の中で、ある自我を主体にして、快感原則を満たそうとして、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。深層心理は欲動によって、すなわち、この四つの欲望のいずれかの欲望によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、自我の欲望に動かされて、行動するのである。快感原則を満たすということは、快楽を得、不快感を避けるということであり、それは、自我の欲望をかなえることによって、成し遂げられるのである。人間は、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を起点にして生きているのである。欲動の四つの欲望とは、自我を確保・存続・発展させたい、自我を他者・他人に認めてほしい、自我で他者・物・現象という対象を支配したい、自我を他者と理解し合うにさせたい・愛し合うようにさせたい・協力し合うようにさせたいという欲望である。まず、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、これは、別名、保身化と言われ、人間は自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないから存在するのである。この欲望は、当然のごとく、構造体を存続・発展させようという欲望に繋がっていく。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではなく、自我のために構造体が存在するのである。次に、自我を他者・他人に認めてほしいという欲望であるが、これは、別名、対他化と言われ、自我を他者に認めてもらうことによって、快感原則を満たそうとする、すなわち、快楽を得ようとするのである。次に、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望であるが、これは、別名、対自化と言われ、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で、他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとするのである。最後に、自我を他者と理解し合うにさせたい・愛し合うようにさせたい・協力し合うようにさせたいという欲望であるが、これは、別名、共感化と言われ、自我と他者が心の交流することによって、快楽を得ようとするのである。このように、深層心理は、構造体において、自我を主体にして、ある心境の下で、欲動に動かされて、保身化・対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、快感原則を満たすように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間は、まず、無意識のうちに、深層心理が動来、思考して、自我の欲望を生み出すのである。その後、多くは、人間は、表層心理で意識せずに、深層心理が生み出した感情のなかで、深層心理が生み出した行動の指令のままに、行動するのである。これが、無意識による行動である。無意識による行動は、日常生活の習慣的な行動である。それは、自我の保身化という欲望が満たされているからである。稀れには、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令を、現実原則に基づいて、意識して思考し、行動の指令の採否を決めることがあるのである。それは、日常生活において、異常な出来事が起こったからである。深層心理は、全ての感情を生み出している。もちろん、喜びの感情を生み出すことがある。人間が、満開の桜を見たり、富士山を見たり、雪景色を見たりして覚える感動は、深層心理が生み出した感情である。深層心理が、自我と満開の桜、富士山、雪景色という対象物と共感化できたから、そこに、感動という感情を生み出したのである。そして、自然に対してだけでなく、オリンピックやワールドカップで、日本人チームや日本人選手が活躍しているのを見て感動するのも、深層心理の働きである。深層心理が、日本人という自らの自我と同じく、日本という構造体に、日本人チームや日本人選手が自我として所属しているから、彼らの活躍を見て、自らの持っている日本人という自我と所属している日本という構造体が評価されているような気持ちになり、自我の保身化を満足させることによって、感動したのである。しかし、喜びの感情にずっと浸っていようと思っても、暫くすると消え、悔しい思いを忘れようとしても、なかなか消えない。それは、感情は、深層心理によって生み出され、意志という表層心理によっては、継続することも消すこともできないからである。カラオケや酒によって、気分転換をはかるのも、感情は、意志という表層心理によって生じるものではないことの現れである。カラオケに行くことや酒を飲むことは、表層心理による意志の行為であるが、感情は深層心理が生み出すものであるから、時には、気分が変わらなかったり、いっそう落ち込んだりすることがあるのである。次に、思考についてであるが、多くの人は、感情と異なり、思考は自分で意識して、意志によって為されていると考えている。しかし、そうではない。思考には、深層心理による思考と表層心理による思考があるのである。理性とは、表層心理による思考である。しかし、理性によらない思考があるのである。まず、悪口を言ったり、殴り掛かったりすることは、深層心理の思考によって生まれた行為である。理性という表層心理の思考は、悪口を言ったり、殴り掛かったりする行為を考え出さない。深層心理が、人間の無意識の中で、快感原則に基づいて思考し、怒りの感情と同時に悪口を言えや殴り掛かれなどの行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。また、誰しも、悪口を言ったり、殴り掛かったりすることは、怒りに駆られての所作だと考えているが、それは正しい。しかし、全ての人の深層心理が、怒りの感情の時に、悪口を言うことや殴りかかることの行動の指令を出すのでは無い。また、同じ人でも、深層心理が、怒った時には、常に、悪口を言うことや殴り掛かることを考え出すのでは無い。それは、意志が及ばない範囲に存在する、深層心理が、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているから、一定しないのである。だから、表層心理のできることは、意志によって、悪口を言わないようにすること、殴りかかりたいという思いを抑圧することである。しかし、深層心理の生み出した怒りの感情が強すぎると、意志の抑圧は効かず、悪口を言ったり、殴りかかってしまうのである。それでは、どうして、表層心理は、意志で抑圧しようとするのか。それは、悪口を言ったり、殴りかかってしまう後のことを考えるからである。それが、現実原則である。相手に面と向かって悪口を言えば、相手に復讐され、周囲の人に軽蔑されることを考えるからである。相手に殴り掛かれば、相手から殴り返され、周囲の人に軽蔑され、時には、逮捕されることが考えられるからである。そこから、悪口を言うことや殴り掛かることを止めさせる意志を生まれてくるのである。これが表層心理である。つまり、深層心理は短期的な快楽原則によって動き、表層心理は長期的な現実原則によって動くのである。つまり、人間の心理とは、常に、まず、深層心理が快感原則に基づいて感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのであるが、そのすぐ後に、そのまま行動することと、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、その思考通りに行動したらどのようなことになるかという思考を働らかせて、行動しようとするのである。人間は、表層心理で、思考して、深層心理の行動の指令のままに行動しても、何の問題も無いという風に判断すれば、深層心理の言う通りに行動する。しかし、深層心理の行動の指令のままに行動したら、その後、自分にとって不利益な状態に陥ると判断すれば、その行動を抑圧しようとする。しかし、表層心理が、不利益だとわかっていても、深層心理が強過ぎると、表層心理はそれを制止できず、そのまま行動してしまうことがある。それが犯罪である。だから、犯罪者の多くは、それが犯罪だとわかっているが、深層心理が生み出した感情が強過ぎたために、自らを律することができなかったのである。ストーカーと言われる人も、表層心理では、自分が行っていることはやってはいけないことだとわかっているが、深層心理が生み出した別れの悲しみが強すぎるので、すなわち、カップルという構造体が壊れ恋人という自我を失うことが辛すぎるので、深層心理の行動の指令のままに、付きまとい、相手に迷惑を掛けるのである。さて、それでは、冷静な思考、すなわち、理性は、どうであろうか。誰しも、冷静な思考、すなわち、理性だけは、表層心理で、終始、意識して、意志によって、行われているのだと思いがちである。確かに、思考しようという意志は、表層心理による意志である。しかし、思考として維持される時には、そこに、深層心理が介在してくる。思考は、全て、言葉が繋がった文によって編み出されるものだからである。人間、誰しも、自分の意志で、言葉によって構成されたもの、つまり、文章を作ることはできない。文章は、深層心理によって、編み出されてくるのであり、そこには、意志という表層心理の力添えはない。文は、作るのではなく、作られるものなのである。文は、意志で作るのではなく、意志が介在しない、深層心理によって作られるのである。文は、外部に対する反応である。外部というのは、周囲の環境、他者の存在、他者の言葉や文や文章だけでなく、自分の言葉、自分の体内の状態もそうである。つまり、反応できるものには、全て、言葉や文が生まれてくるのである。それでは、思考とは、何に反応して、形成されるのだろうか。それは、自分自身の言葉や文や文章によってである。もちろん、最初に生まれて来た言葉や文や文章は、自分の言葉や文や文章ではない。周囲の環境、他の人の存在、他の人の言葉や文や文章、自分の体内の状態などである。最も多いのは、他の人の文章である。著書である。他の人の著書を読み、それに反応して、ある思いが生じ、それが言葉や文になって、心に浮かんだり、発せられたりする。そして、その言葉や文を聞き、それに反応して、また、次の言葉や文が浮かんでくるのである。そうして、文が綴られていくのである。これらの一連の文章作成は、意志によって行われるのではなく、無意識において、つまり、深層心理において、為されるのである。つまり、文が構成されたものである限り、思考と言えども、人間の意志ではなく、深層心理によって、為されるのである。このように、我々人間の肉体も精神も、無無意識によって、動かされているのである。それ故に、私たちは、生きているのではなく、生かされていると言えるのである。しかし、人間は、自ら、生きていると感じる時がある。それは、対自化と対他化の機能を発揮し、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望を満たすとともに、他者に認めてもらいという欲望を満たそうとしている時である。自我の志向性やで、他者・物・現象という対象を支配することによって快楽を得るだけでなく、その支配している自我を他者に認めてもらうことによっても快楽を得ようとするのである。それは、現状に満足せず、自我を高めようとするのである。その状態を、作家の埴谷雄高は「自同律の不快」と呼び、ニーチェは「力への意志」と呼び、ハイデッガーは「欠如態」と読んでいる。「自同律の不快」は、単に、現状に満足することの不快感であるが、「力への意志」は力強い思想である。「力への意志」とは、「人間が自然法則を見出さなければ、自分にとって、この世界は混沌とした状態のままである。」や「自分が生きる法則を見つけなければ、自分は他者の言うがままの状態で生きることになる。」という思いで、自然法則や生きる法則を発見し、その法則の下で生きようとすることである。「力への意志」とは、ニーチェの根本思想である。「力への意志」は「権力への意志」とも言われる。そのために、「力への意志」は権力者になろうという意志のように解釈する人がいる。確かに、権力者になろうという意志は「力への意志」の一つであるが、それのみに限定すると、「力への意志」は一部の人にしか通用しないことになる。「力への意志」は全ての人に当てはまる思想なのである。「力の意志」は、一般に、「他を征服同化し、一層強大になろうという意欲、さまざまな可能性を秘めた人間の内的、活動的生命力、不断の生成のうちに全生命体を貫通する力、存在の最奥の本質、生の根本衝動。」などと説明されている。この説明の中で、「他を征服同化し、一層強大になろうという意欲。」は、他者に関わる自我の積極的な姿勢を示している。「力への意志」とは、自我の安定に満足せず、自らが発見した生きる法則の下で、自我の存在を大きくし、自我の存在を他の人から認めてもらいたいという飽くなき自我の発展への欲望なのである。また、「さまざまな可能性を秘めた人間の内的、活動的生命力、不断の生成のうちに全生命体を貫通する力、存在の最奥の本質、生の根本衝動。」という説明は、人間の自我の内からほとばしる生命の躍動的な動きを「力の意志」だとしているのである。つまり、「力への意志」とは、自らが発見した生きる法則の下での自我の積極的な力の発露であることを意味しているのである。ニーチェが「神は死んだ」と叫び、現世の自我において幸福を求めることを説いたのも当然のことである。また、ニーチェは、「人間は、力の意志を意志することはできない。」と言う。つまり、「力の意志」は意識して生み出すものではなく、無意識のうちに住みついていると言うのである。しかし、無意識と言っても、それは、無作為、無造作なものではない。人間は、無意識のうちで、思考するのである。だから、無意識の思考を深層心理と言い、人間の意識しての思考を表層心理と言うのである。深層心理が、自我を主体に立てて、「力への意志」によって、自我の安定に満足せず、自我の発展のために思考するのである。ハイデッガーの言う「欠如態」とは、人間の、常に、現在の物事や他者や自分自身の状態に満足せず(「欠如態」として見て)、次の高い段階に進もう(進ませよう)と考えている(「完全態」を追い求めている)状態を言う。人間は、一生、これを繰り返す。言わば、カミユの言う「シーシュポスの神話」である。シーシュポスは、一生、地下の石(「欠如態」)を地上に運ぶこと(「完全態」)を繰り返すのである。ハイデッガーは、「人間は、常に、物事や他者や自分自身を、欠如態として見て、その欠如が満たされた状態である完全態を求め、時にはそのようになることを期待し、時にはそのようになるように努力するあり方をしている。」と言う。これが、「全ての現象を欠如態として見るあり方」である。簡潔に、「欠如態としての見方」とも言われている。人間を「欠如態としての見方」(「全ての現象を欠如態として見るあり方」)をする動物として捉える考え方は、卓越した見識、有効な思考法であるが、一般に解説されることは少ない。ただし、サルトルは重要視し、「即自それ自体は無意味な物質的素材のあり方であり、対自はこの素材を意味づける意識のあり方である。」と述べている。サルトルはハイデッガーとは異なった言葉を使っているが、サルトルの言う「対自の意識のあり方」が、ハイデッガーの言う「全ての現象を欠如態として見るあり方」(「欠如態としての見方」)なのである。さて、人間の心は、「欠如態」を「完全態」にするという思いが叶いそうな時は希望が湧き、「欠如態」が「欠如態」のまま留まりそうな時、苦悩や絶望の状態に陥る。人間は、「全ての現象を欠如態として見るあり方」(欠如態としての見方」)に突き動かされて活動し、それが人類の歴史になったのである。人間は、生きている間、「欠如態」を満たして「完全態」にするために、馬車馬や競馬馬のように突き進むしかないのである。馬車馬は御者に操られて、競馬馬は騎手に操られて前に突き進んでいるが、人間は、深層心理(自らの心の底から湧き上がってくる思い)に操られて、「欠如態」を「完全態」にするように活動するしかないのである。そして、馬車馬は御者から離れ、競走馬は騎手から離れれば自由のようであるが、実際は、その時、彼らは殺されるのである。つまり、彼らは、生きている間、御者、騎手に操られ、前に突き進むしかないのである。人間も、表層心理(自分の意志)で深層心理(自らの心の底から湧き上がってくる思い)から離れることができれば、現在の物事や他者や自分自身の状態に満足でき、「欠如態」として見ることがなく、そのまま「完全態」として見るから、次の高い段階に進むように考えさせられ行動させられることが無いから自由であり、楽な状態になるように見える。しかし、実際は、人間の表層心理(自分の意志)は深層心理(自分の心の底から湧き上がってくる思い)に届くことが無いから、そのような自由で楽な状態は来ないのである。表層心理(自分の意志)は深層心理(自分の心の底から湧き上がってくる思い)を支配できないからである。サルトルは、「現在の物事や他者や自分自身の状態に満足し、欠如態として見ることがなく、そのまま完全態として見るあり方」を「即自の意識のあり方」と呼んでいる。そして、サルトルも、人間には「即自の意識のあり方」は身につくことはないと言っている。しかし、サルトルは、「人間は、自由へと呪われている。」とも言っている。サルトルの言う「自由」とは「表層心理(自分の意志)」という意味であり、「呪われている」とは「運命づけられている」という意味である。つまり、サルトルは、「人間は、表層心理(自分の意志)で、常に、物事や他者や自分自身を、欠如態として見て、その欠如が満たされた状態である完全態を求め、時にはそのようになることを期待し、時にはそのようになるように努力するあり方をするように運命づけられている。」と言っているのである。ここから、サルトルは、「表層心理(自分の意志)」で考え、行動したのだから、自分の行動に責任を持てと言っているのである。サルトルの責任論は潔い。しかし、物事や他者や自分自身を「欠如態」として見るのは、「表層心理(自分の意志)」ではなく、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)なのである。もしも、「表層心理(自分の意志)」で、物事や他者や自分自身を「欠如態」として見ているのならば、「欠如態」が「欠如態」のまま留まりそうに思われる時、苦悩や絶望の状態に陥る前に、自由に、これまで「欠如態」として捉えていた物事や他者や自分自身を、別の物事や他者や自分自身に換えることができるはずである。また、自由に、これまでの「完全態」を別の「完全態」に換えることができるはずである。しかし、これまでの「欠如態」も「完全態」も別の「欠如態」にも「完全態」にもできないのである。深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)で、物事や他者や自分自身を「欠如態」として見ているからである。つまり、人間は、生きている間、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)につきまとわれ、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)に操られ、自由になれないのである。つまり、人間は、生きている間、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)が捉えたように、現在の物事や他者や自分自身の状態を「欠如態」として見て、「完全態」を追い求めるしかないのである。









1 コメント

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Unknown (aki)
2020-10-03 23:18:15
憲法改正を急ぐ理由を知って下さい
突然の書込み失礼致します。
この度は皆様に知って頂きたい事があり、誠に恐縮ですが書込ませて頂きました。

マスコミが大きく報じぬ中、連日中国の日本領海侵犯が増大し、尖閣侵略を狙っている現状を、
中国に侵略虐殺を受けるチベット等の姿と重ね今多くの方にどうか知って頂きたいです。

戦後日本を弱体化させる為、アメリカが作成した日本国憲法施行後、韓国が竹島を不法占拠し、その際日本の漁船を機関銃で襲撃し、多くの船員が死傷しました。

北朝鮮は国民を拉致し、日本全土を射程に入れるミサイルを数百発配備しており、尖閣には中国艦艇が侵犯する現状でも、憲法の縛りで日本は国を守る為の手出しが何一つ出来ません。

現在まで自衛隊と米軍の前に中国や北朝鮮の侵攻は抑えられて来ましたが、米軍がいつまでも守ってくれる保証は無く、時の政権により米軍が撤退してしまえば

攻撃されても憲法により敵基地攻撃能力が無い自衛隊のみでは、日本はチベットと同じ道を辿りかねません。

9条の様に非武装中立を宣言しても、平和的で軍事力の弱かったウイグル等を武力で侵略し、現在進行形で覇権拡大を行い「日本の領海を力で取る」と明言している中国や、

核ミサイルで日本を狙う北朝鮮、内部工作を行う韓国が尖閣等から侵略の触手を進めているからこそ、GHQの画策により戦う手足をもがれた現憲法を改正し、

自立した戦力と抑止力を持たなければ国民の命と領土は守れないという事を
中韓側に立ち印象操作で国民を煽動する野党やメディアの姿と共に
一人でも多くの方に知り目覚めて頂きたいと切に思っております。
長文、大変申し訳ありません。
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