あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は存在そのものが悪である。(人間の心理構造その19)

2023-04-30 15:43:54 | 思想
人間を定義する言葉は幾つもある。人間は考える動物であるという意味である。人間は道具を作る動物であるという意味である。人間は遊ぶ動物であるという意味である。人間は象徴化する動物であるという意味である。人間は言葉を使う動物である、人間は火を使う動物である、などがある。いずれも、人間は他の動物と比べて優れていると考えている。しかし、もう、自画自賛をするのはやめた方が良い。人間は存在そのものが悪である動物であると定義すべきである。なぜならば、人間は、人類そのもに悪であるばかりでなく、他の動植物にも害毒を与え続けている動物だからである。だから、今や、コロナウィルスは、人類を絶滅しないままに、表舞台から消え去ろうとしているが、それは、人間にとっては幸福なことであるが、人間以外の地球上の生物にとっては不幸なことなのである。これからも、人間だけが、地球に、回復できないような害毒をもたらし続けるのである。有史以来、人間によって滅ぼされた生物は、数限りない。現代においても、毎年、百種類ぐらいの生物が、人間によって絶滅させられているという。日本でも、20世紀において、ほ乳類だけでも、エゾオオカミ、ニホンオオカミ、コウノトリ、トキ、ニホンカワウソ、エゾカワウソなどが、滅ぼされている。多くの人間は、ライオン、虎などの肉食動物が草食動物を襲っているのを見ると、目を覆う。しかし、肉食動物は、生きるために狩りをするのであって、鷹狩り、狐狩りなど、快楽のために狩りをするのは、人間だけである。地球上で、人間が、最も残酷な動物なのである。送り狼という言葉があるが、狼はレイプをしない。狼は、子孫を残すためだけに、交尾する。人間だけが、欲望のためにレイプし、快楽のためにセックスをするのである。公害という言葉があるが、企業活動だけではなく、人間の活動そのものが、公害なのである。地球に優しくという標語があるが、人間の活動そのものが、環境にも地球上の生物にも厳しいものとなっているのである。地球上の生物の中で、人間だけが、他の生物に対してだけでなく、同種の人間に、悪事を、しかも、突出した悪事を行っているのである。だから、人間は、道徳という思想を造り出して、人として踏み行うべき道を説いてきたのである。すなわち、道徳にかなうことを善として推奨し、道徳に背くことを悪として忌避してきたのである。最大の悪が、他者の命を奪うことである。すなわち、個人間の殺人であり、国家間の戦争である。しかし、人間の歴史は、殺人も戦争も抑制に向かわず、むしろ、猖獗を極めるほうに向かっているのである。人間は、環境に対しても敵である。オゾン層を破壊したのは人間である。公害も人間が作り出したものである。地球温暖化も作り出したのは人間である。つまり、人間は、自然界、動物界、人間界の最大の破壊者なのである。人間は、自然を破壊し、無数の動物を絶滅させることに飽き足らず、日常的に、人間をも殺しているのである。世界は、人殺しに満ち溢れている。個人が個人を殺すという殺人、個人が集団を殺すという殺人、集団が個人を殺すという殺人、集団が集団が殺すという戦争、集団が個人を殺すという戦争に満ち溢れている。更に、自分が自分を殺すという自殺に満ち溢れている。大規模に、計画的に、個人が個人を殺し、個人が集団を殺し、集団が個人を殺し、集団が集団が殺し、自分が自分を殺すという行為は、他の動物には、見られないことである。人間の特徴である。これらの残虐な行為は、道具を作る、遊ぶ、象徴化する、言葉を使う、火を使うとともに、人間の特徴である。後者が前者に利用されているのである。これが、霊長類最高の動物だと自負しているもののすることであろうか。かつて、殺人や戦争などの残虐な行為は、その原因は経済的なものだと考えられていた。いや、現在でも、そのように考えている人が多く存在する。確かに、実際に、そういうことが原因であった場合もあり、現在でも、そういうことが原因である場合もある。食糧を奪うために、金品を奪うために、財産を奪うために、土地を奪うために、資源を奪うために、労働力を奪うためにという経済的な要因である。マルクスも、そのように考え、経済的な要因を取り除くために、マルクス主義(共産主義)を打ち立て、共産主義革命という階級闘争を提唱した。共産主義革命という階級闘争において、プロレタリアート(労働者階級)が勝利し、プロレタリアート(労働者階級)が独裁体制を敷き、計画経済を行えば、資本家が消滅し、国民の貧富の格差・身分の格差が消滅し、国民全体が、平和に、幸福に暮らせ、国家間の戦争も無くなると考えたのである。しかし、共産主義革命が成功したソ連、中国、北朝鮮は、どうなっただろうか。国家権力が国民を大量に餓死させ、独裁者が敵対勢力を大量に粛清し、戦争も無くなるどころか、むしろ、自国から仕掛けるようなありさまである。これでは、資本主義国家と、何ら、変わらない。むしろ、状況はいっそう残虐を極めている。確かに、マルクスは、天才である。資本主義社会の分析においては、マルクスは、唯一無二の思想家である。しかし、マルクスは、経済的な要因に捕らわれすぎた。確かに、経済的な要因が、人間個人を動かし、国家を動かすことはある。しかし、最も強く人間を動かすのは欲望である。深層心理が生み出す自我の欲望なのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。ラカンの言う「無意識」とは、深層心理を意味する。深層心理とは、人間の無意識の精神の動きである。深層心理の思考は、一般に、無意識と呼ばれている。つまり、人間は、自らは意識していないが、思考しているのである。それが深層心理の思考である。「言語によって構造化されている」とは、深層心理が言語を使って論理的に思考していることを意味する。つまり、ラカンは、人間は無意識のうちに、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、言語を使って論理的に思考していると言うのである。人間にとって、表層心理での思考よりも、深層心理の思考が重要なのである。人間の意識しての精神の動きを、表層心理と言う。深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているから、表層心理での思考よりも深層心理の思考の方が重要なのである。ところが、ほとんどの人間は、自ら意識して思考し、その思考の結果を意志として行動していると思っているのである。つまり、ほとんどの人間は、表層心理で思考して、自らの意志によって行動していると思い込んでいるのである。確かに、人間は、表層心理で、思考する時がある。しかし、表層心理での思考は、常に、深層心理の思考の結果を受けて、行われるのである。人間は、表層心理での思では、自我の欲望を生み出すことができないのである。すなわち、表層心理の思考は、自我である人間を動かすことができないのである。深層心理が、常に、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。それでは、自我とは何か。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなどがある。日本という国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我がある。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動しているのである。次に、快感原則とは何か。快感原則とは、フロイトの用語であり、その時、その場で、自我に、ひたすら快楽をもたらそうとする深層心理の姿勢である。快感原則には、道徳観や社会規約による判断は存在しない。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に基づくことなく思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。次に、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動が、深層心理を動かしているのである。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなえば、快楽を得ることができるのである。だから、深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとしているのである。人間による自然破壊、人間による動物の絶滅、人間世界に殺人が横行し、個人が個人を殺すという殺人、個人が集団を殺すという殺人、集団が個人を殺すという殺人、集団が集団を殺すという戦争、集団が個人が殺すという戦争、自分が自分を殺すという自殺という行為の全ては、深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かした結果である。まず、欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。保身欲である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。退学者・失業者が苦悩するのは、生徒・会社員という自我で温かく迎えてくれる構造体が数少ないからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。また、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を形成しているのである。毎日の生活がルーティーンになっているのは、欲動の保身欲からから発した深層心理のしこうのままに、表層心理で意識することなく、無意識に行動しているから可能なのである。さらに、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェは、「永劫回帰」という言葉で、森羅万象は永遠に同じことを繰り返すという思想を唱えたが、それは、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、人間は、誰しも、朝起きると、時には、学校・職場に行くことを考えて不快になる。この、学校・職場に行くことを考えて不快になったのは、人間の意識しての表層心理の思考の結果ではなく、無意識の深層心理が思考して生み出したのである。表層心理での思考からは感情は生まれないのである。人間が、無意識のうちに、深層心理が思考して、自我の欲望として、不快な感情と学校・職場に行くなという行動の指令を生み出すのである。しかし、たいていの場合、不快な気持ちを振り切り、登校・出勤する。それは、超自我という機能が働いたからである。超自我とは、自我にルーティーンを守らせる機能である。深層心理には、超自我という機能も存在するのである。超自我が、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとするのである。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。表層心理での思考は、長く時間が掛かる。それは、深層心理は快楽を求める思考だから、瞬間的に行われるが、表層心理での思考は、現実原則に基づくからである。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望である。人間が、表層心理で、自らを意識して思考する時は、自我に現実的な利得をもたらそうという志向性で思考するのである。人間は、表層心理で、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利得をもたらそうと思考するのである。道徳観や社会規約を考慮せずに行動すると、後に、他者から顰蹙を買う可能性があるからである。しかし、人間は、表層心理独自に思考することはできない。人間の表層心理での思考は、常に、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという自我の将来のことを考え、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかについて思考するのである。もしも、超自我が、深層心理が生み出した学校・職場に行くなという行動の指令を抑圧できなかったなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになるのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した不快な感情の下で、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、学校・職場に行かなかったならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した学校・職場に行くなという行動の指令をついて受け入れるか拒否するかについて思考するのである。そして、たいていの場合、深層心理が生み出した学校・職場に行かないでおこうという行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、深層心理が生み出した学校・職場に行かないでおこうという行動の指令を抑圧しようとするのである。しかし、深層心理が生み出した不快な感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志も、深層心理が生み出した学校・職場に行くなという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、学校・職場に行かないのである。その後、人間は、自宅で、表層心理で、この不快な感情と学校・職場に行くなという行動の指令から逃れるためにはどうしたら良いかと思考するのである。なぜならば、学校・職場に行かないことは、自我に現実的な利得をもたらさないからである。そして、たいていの場合、良い方法が思い浮かばず、苦悩するのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した学校・職場に行かないでおこうという行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧でき、学校・職場に行くことができたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した不快な感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、すぐには不快な感情は消えることがないからである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、不快な感情のままに、毎日、学校・職場に行くのである。そして、ルーティーンの生活に紛れて不快な感情は消えていけば良いが、不快な感情が積み重なると、その不快な感情から逃れるために、深層心理が自らに鬱病などの精神疾患をもたらすことがあるのである。深層心理は、鬱病などの精神疾患に罹患して、現実から逃れようとするのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。承認欲である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚・上司という他者から生徒や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、悪評価・低評価を受けると、心が傷付くのである。その傷心から解放されるために、深層心理が怒りの感情を生み出すのである。人間にとって、最も強い感情は怒りである。深層心理が怒りの感情を生み出し、自我である人間を、深層心理の行動の指令通りに動かして、傷心の感情から解放されようとするのである。深層心理は、自我を傷つけた他者に対して、怒りという過激な感情と侮辱しろ・殴れ・殺せなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。人間は、過激な怒りの感情を抱くと、深層心理の超自我や表層心理の意志で抑圧しようとしてもできずに、他者を侮辱しろ、他者を殴れ、他者を殺せなどの深層心理の指令通りに、過激な行動を起こしてしまい、悲劇、惨劇を生むのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。支配欲である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。ロシアのプーチン大統領や北朝鮮の金正恩最高指導者が、敵対勢力である政治家やジャーナリストを弾圧したり殺害したりするのは、この支配欲からである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理には、有の無化、無の有化という二つの機能が生まれる。有の無化とは、この世に、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象が存在していると、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。自己正当化によって、心に安定を得ようとするのである。もう一つは、無の有化という機能である。さて、この世に、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象が存在しなければ、深層心理が、存在しているように思い込むというということである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定を得ようとするのである。次に、欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。共感欲である。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理は、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとするのである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。さらに、敵とする者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。北朝鮮の金正恩を中心とした政治権力者が、アメリカを共通の敵として、大衆に協力を求め、それが成功しているのである。日本の自民党政権は、中国、北朝鮮を共通の敵として、大衆に協力を求め、それが成功しているのである。また、人間が友人が作るのは、一人の自我で行動するのは不安だから、同じ境遇の他者を仲間とし、その結果、友情という快楽を得るのである。つまり、友情があるから友人になるのではなく、一人の自我では不安だから友人を作り、仲間という集団を作り、友情を育むのである。そして、学校では、仲間という集団で、ある一人をターゲットにして敵としていじめ、友情という共感感情という快楽を得るのである。ターゲットになるのは、女子生徒、弱い男子生徒、弱い教師である。仲間で勝利という共感感情を得たいから、ターゲットになるのは、常に、弱小の個人である。また、ターゲットに恨みはなくても、仲間という構造体から離れ、友人という自我を失うことが不安だから、仲間と一緒になって、嫌がらせをしたり暴力を加えたりするのである。そして、自殺に追い込むことがあるのである。また、若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことだからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、相手から別れを告げられると、ストーカーになる人が現れる。ストーカーになるのは、カップルという構造体が消滅し、夫や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとうのである。そして、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙にその辛さから逃れようとする者も現れるのである。このように、深層心理は、自我に執着するあまり、人間に、かくも愚かなことを行わせるのである。自然破壊、動物殺戮、殺人・戦争は、深層心理が、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしている限り、消滅することは無いのである。


政治家が起こした戦争に国民は参加しなければならないのか。(提言11)

2023-04-28 13:41:40 | 思想
現在の日本に平和につながる未来への希望はあるのか。日本国憲法では戦争放棄をうたっている。だから、国民には兵役の義務はない。しかし、自民党の麻生太郎副総裁は、4月17日、福岡市で講演し、北朝鮮の弾道ミサイル発射や台湾有事の可能性に触れ、「今までの状況と違う。戦える自衛隊に変えていかないと、我々の存立が危なくなる。」と述べた。自衛隊員が戦死すれば、日本は、必ず、徴兵制を導入する。なぜならば、国会議員では自民党、公明党、日本維新の会、国民民主党を中心に、マスコミでは日本テレビ、フジテレビ、読売新聞、産経新聞、週刊新潮、週刊文春を中心に、「自衛隊員だけ死なせて良いのか。」という大々的なキャンペーンを張り、同調圧力の強い日本は、短時間の国会の審議で採決され、圧倒的な多数によって、徴兵制が導入されるのは確実だからだ。しかし、北朝鮮の狙いはアメリカに経済封鎖を解いてもらうことにある。中国の狙いは台湾を実質的に統制下に置くことである。日本には直接には関係は無い。自民党議員は、何かの口実を設けて、日本を戦争のできる国にしたいのである。しかし、自衛隊員も国民の一人である。戦争にならないようにすべきなのである。それでも、政治家が戦争を起こしたならば、国民は参加しなければならないのか。政治権力者の始めた戦争に、国民として、戦わなければならないのか。プーチン大統領は、急遽、徴兵を逃れようとしている若者の国外脱出を食い止めるための法律を成立させている。法を重んじる者は、ソクラテスが言ったとされる「悪法も法なり」と言葉を持ち出すだろう。しかし、ソクラテスはこの言葉を語っていない。プーチン大統領が正しいのか若者たちが正しいのか。もちろん、若者のほうが正しい。あるロシアン人は「プーチンは我々の命を蟻程度のものとしか思っていない」と言う。その通りである。プーチン大統領は、ウクライナに勝つためにも、何人でもロシア人を犠牲にしても惜しまないのだ。それは、ゼレンスキー大統領も同じである。ゼレンスキー大統領は、ロシアに勝つためには、何人でもウクライナ人を犠牲にしても惜しまないのだ。日本でも、明治七年の徴兵令、昭和二年の兵役法で、政府が勝手に国民を軍人に仕立てた。新聞紙条例、讒謗率でマスコミを抑え、治安維持法で国民を抑え、戦争に突き進んだ。国権を軍事力で伸長しようとする国はどの国もそうなるのである。戦争が始まれば、ロシア兵がウクライナ国民、ウクライナ兵に対して行っているように、敵兵士、敵国民を拷問し、虐殺し、レイプし、敵国土が破壊されるのは目に見えている。ウクライナ兵も、ロシア兵に対して、拷問し、虐殺しているのである。日本人も、他の国民と同じように、戦争になれば残虐性を発揮することは、歴史が教えてくれる。日本は、太平洋戦争を起こし、日本兵や日本人は、アジアの人々を虐殺、レイプしただけでなく、インドネシアにいたオランダ人女性をレイプし、慰安婦にするなど、残虐の限りを尽くした。戦争になると、どの民族も、残虐の限りを尽くすのである。ロシア兵に殺されたウクライナ兵、国民、レイプされた女性、ウクライナ兵に殺されたロシア兵の犠牲は、戦争が終わるまでの一過程に過ぎないのである。プーチン大統領とゼレンスキー大統領のプライドの犠牲者である。誰しも、ロシアの法律によって、ロシア国民は、ウクライナ戦争に参加しなければならないと思っている。誰しも、ウクライナの法律によって、ウクライナ国民は、ウクライナ戦争に参加しなければならないと思っている。しかし、大統領の命令で国民が戦争に参加しなければならないという法律は悪法である。民主主義に背馳しているからである。悪法には従う必要はない。








青森放火殺人事件、岸田首相暗殺未遂事件の容疑者の心理構造。(人間の心理構造その18)

2023-04-21 19:05:51 | 思想
4月13日午前1時頃、青森県六戸町で、住宅が全焼し、5人の遺体が発見された。92歳の男性が、妹一家に放火し、4人が焼死し、自身も焼死したと見られている。4月15日午前11時過ぎ、和歌山市の雜賀崎で、岸田文雄首相が補選の応援の街頭演説を始める前に、24歳の男性が筒状の物を投げ込み、爆発した。首相は怪我は無く、24歳の男性は逮捕された。この二つの事件の原因は何だったの。前者は、事件を起こす前、妹一家に農地を奪われて恨んでいると近所の人々に語っていたという。後者は、岸田文雄首相が安倍晋三元首相を国葬にしたこと、年齢などを理由に昨年の参院選に立候補できなかったことに不満を持っていたという。それにしても、なぜ、このような自暴自棄の行動を行ったのだろうか。冷静に考えれば、目的を達成したとしても、その後は、悲惨な末路をたどることは、誰にでも容易に想像されるのである。しかし、人間は自我が傷付けられると、その修復のために自暴自棄の行動を行うことがあるのである。なぜならば、人間は、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて行動する動物だからである。92歳の高齢者は、妹一家に自我が傷付けられたから、深層心理は、その修復のために、怒りの感情と放火という行動の指令を出し、彼を動かしたのである。24歳の若者は、岸田首相と国に自我が傷付けられたから、深層心理は、その修復のために、怒りの感情と暗殺という行動の指令を出し、彼を動かしたのである。たとえ、妹一家に92歳の高齢者の自我を傷付けた覚えがなくても、岸田首相に24歳の若者の自我を傷付けた覚えがなくても、彼らの深層心理に覚えがあれば、事件は成立するのである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望が人間を動かしているのである。深層心理は、感情を動力にして、人間を、行動の指令通りに動かそうとするのである。つまり、人間は、無意識の思考である深層心理の思考によって動かされているのである。もちろん、人間には、自らを意識しての思考もある。それは、表層心理での思考である。冷静に考えるとは、表層心理での思考である。表層心理での思考の結論が意志である。しかし、深層心理が生み出した感情が強ければ、意志では、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できず、それに従って行動するしか無いのである。深層心理が生み出した感情があまりに強過ぎる場合、人間は表層心理で思考する余裕すらなく、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するのである。それほど、深層心理が自我に執着して生み出した自我の欲望の力は大きいのである。だから、92歳の高齢者も24歳の若者も、表層心理の意志で深層心理の指令を抑圧できないほど非常に怒りの感情が強かったか、表層心理で思考できる余裕が無いほど異常に怒りの感情が強かったのである。それでは、自我とは何か。自我とは、構造体において、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我などがあり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員という自我などがあり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。だから、ある人は、時には、日本という構造体の中で日本人という自我を持し、時には、家族という構造体の中で父という自我を持し、時には、会社という構造体の中で営業課長という自我を持し、時には、コンビニという構造体で客という自我を持し、時には、夫婦という構造体で夫という自我を持して暮らしていているのである。ある人は、時には、日本という構造体の中で日本人という自我を持し、時には、家族という構造体の中で母という自我を持し、時には、銀行という構造体の中で行員という自我を持し、時には、電車という構造体で乗客という自我を持し、時には、夫婦という構造体で妻という自我を持して暮らしていているのである。人間は、常に、ある構造体の中で、ある自我として、他者と関わりつつ、他人の視線を意識しながら、暮らしているのである。他者とは構造体内の人々である。他人とは構造体外の人々である。92歳の高齢者は、親戚という構造体の中で、伯父という自我で、妹一家と関わりつつ、近所の人に不満を述べながら、暮らしていたのである。24歳の若者は、日本という構造体の中で、国民という自我で、岸田文雄首相とマスコミを媒介として関わりつつ、世間の視線を意識しながら、暮らしていたのである。さて、人間は、常に、ある構造体の中で、ある自我で、他者と関わりつつ、他人の視線を意識しながら、暮らしているが、表層心理で自我を意識して思考して意志によって行動しているのではない。人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、快感原則を満たそうとして、欲動によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて行動しているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。深層心理は、思考して、感情と行動の指令を生み出すのである。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言っているのである。つまり、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、快感原則を満たそうとして、欲動によって、言語を使って、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。人間の行動までのプロセスは三通りある。一つは、表層心理で思考することなく、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望の通りに行動するのである。これが、所謂、無意識の行動である。もう一つは、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、そのまま実行するか抑圧するかを思考して行動するのである。これが、自らの意志による行動である。しかし、深層心理が生み出した感情が非常に強ければ、意志で抑圧しようとしても、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動してしまうのである。最後の一つは、表層心理で深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識しているが、感情が異常に強いので、表層心理で思考する余裕がなく、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動してしまうのである。これらが感情的な行動であり、惨劇、悲劇を招くのである。92歳の高齢者の放火殺人事件、24歳の若者の岸田首相暗殺未遂事件は、まさしく、感情的な行動である。さて、人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、快感原則を満たそうとして、欲動によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて行動しているが、深層心理、構造体、自我については、既に触れているので、これから、自我を主体に立てる、心境、快感原則、欲動について順に説明していこうと思う。まず、自我を主体に立てるであるが、自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我の行動について思考して、感情と行動という自我の欲望を生み出しているということである。つまり、人間は、表層心理で、自ら意識して思考して、行動を決められないのである。なぜならば、人間は、表層心理で、自ら意識して思考しても、感情を生み出せないからである。感情を生み出すのは、深層心理であり、しかも、行動の指令とともに生み出すのである。感情の伴わない行動は、机上の空論にしか過ぎず、動けないのである。感情という動力があって、初めて、行動は行動となって動き出すのである。確かに、人間は、表層心理で、行動について思考するが、それは、常に、深層心理が生み出した行動の指令について、それに従うかそれを抑圧するかの審議であり、表層心理独自に行動の指針を思考することはできないのである。しかし、ほとんどの人は、主体的に、自らの状況を意識して思考して、自らの意志で行動を決めて、それに基づいて、行動していると思い込んでいるのである。それは、そのような生き方に憧れているからである。深層心理の無の有化作用がそのように思い込ませているのである。深層心理の無の有化作用とは、欲望が強い場合、深層心理は、実際には存在しないものやことを、存在しているように思い込むことである。すなわち、深層心理の無の有化作用が、人間をして、自ら主体的に意識して考えて自らの意志で行動しながら暮らしていると思い込ませているのである。そして、ほとんど人は、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動しながら暮らしていると思っているのである。そして、もしも、自分が、主体的に行動できないとすれば、それは、他者からの妨害や束縛があるからだと思うのである。そこで、他者からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れるのである。自由であれば、自分は、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自ら意識して思考して、自らの意志で行動することができると思い込んでいるのである。しかし、それは大きな誤解である。人間は主体的ではないのである。人間は、自由であっても、主体的になれないのである。なぜならば、深層心理が自我を主体に立てて思考して生み出した自我の欲望が人間を動かしているからである。だから、人間は自己として存在し難いのである。自己とは、人間が表層心理で常に正義に基づいて思考して行動するあり方である。つまり、自己とは、人間が、正義に基づいて、自ら意識して考え、意識して決断し、その結果を意志として行動する生き方である。だから、人間が、表層心理で正義に基づいて思考して、その結果を意志として行動しているのであれば、自己として存在していると言えるのであるが、常に、深層心理が思考して生み出した自我の欲望に動かされているので、自己として存在していると言えないのである。自己として存在していないということは、自由な存在でもなく、主体的なあり方もしていず、主体性も有していないということを意味するのである。そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、人間は他者の思惑を無視して主体的に自らの行動を思考することはできないのである。そうすれば、構造体から追放され、自我を失う虞があるからである。さらに、そもそも、人間の表層心理での思考は、深層心理の思考の結果を受けて始まるから、人間は、本質的に、正義に基づく主体的な思考はできないのである。もちろん、92歳の高齢者も24愛の若者も、正義に基づく主体的な思考をしていない。92歳の高齢者の深層心理は、親戚という構造体の中で、伯父という自我を主体に立てて、妹一家に農地を奪われて恨んでいたのである。24歳の若者の深層心理は、日本という構造体の中で、国民という自我を主体に立てて、岸田文雄首相が安倍晋三元首相を国葬にしたこと、年齢などを理由に昨年の参院選に立候補できなかったことで、岸田文雄首相を恨んでいたのである。次に、心境であるが、心境は感情と同じく深層心理の情態である。情態とは人間の心の状態を意味している。しかし、心境は深層心理を覆っている情態であり、感情は深層心理が生み出した情態である。心境は、爽快、憂鬱など、深層心理に比較的長期に滞在する。感情は、喜怒哀楽、感動など、深層心理が行動の指令ととに突発的に生み出し、人間を行動の指令通りに動かす力になる。深層心理は、常に、ある心境の下にあり、時として、心境を打ち破って、行動の指令とともに感情を生み出す。つまり、心境が人間にルーティーンの生活を送らせ、感情がルーティーンの生活を打ち破る行動を人間に起こさせるのである。深層心理が、常に、心境や感情という情態を伴っているから、人間は表層心理で自ら意識する時は、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあった時、他者の視線を感じた時などに、自分の心を覆っている心境や心の中に生まれた感情に気付くと同時に、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、表層心理で、すなわち、自らを意識して自らの意志によって、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理が自我の欲望を生みだす時に、感情は行動の指令とともに生み出されるが、その時、心境は、後ろに退き、無力化する。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。なぜならば、心境も感情も、深層心理の範疇だからである。人間は、表層心理で、自ら意識して、直接的に、嫌な心境や嫌な感情を変えることができないから、何かをすることによって間接的に変えようとするのである。それが気分転換である。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境をや感情を変えようとするのである。また、人間は、心境や感情という情態によって、現在の自我の状態の良し悪しを判断する。つまり、情態の良し悪しが人間の現在の自我の状態の良し悪しを決定するのである。すなわち、爽快などの快い心境の情態の時には、自我が良い状態にあるということを意味し、深層心理は現在の状態を維持しようと思考するのである。深層心理は、ルーティーンの生活を維持しようと思考するのである。逆に、陰鬱などの不快な心境の情態の時には、悪い状態にあるということを意味するのである。そこで、深層心理は現在の状態を改善しようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動そうとするのである。しかし、よほど強い感情を生み出さない限り、超自我や表層心理での思考によって行動の指令は抑圧されるのである。そして、ルーティーンの生活が続くのである。さて、感情も、心境と同じく情態だが、そのあり方は異なっている。感情を具体的に表す四字熟語として喜怒哀楽があるが、喜楽などの快い感情の情態の時には、自我が良い状態にあるということを意味し、怒哀などの不快な感情の情態の時には、自我が悪い状態にあるということを意味する。深層心理が喜びの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、拍手喝采などの喜びの表現をし、他者に自らの存在を知らしめるのである。深層心理が怒りの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、他者を非難したり暴力を加えたりして、他者に自らの存在を知らしめるのである。深層心理が哀しみの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、泣くなどの哀しみの表現をし、他者に慰めてもらうのである。深層心理が楽しみの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、満足気などの楽し気な表情をし、他者の存在が気にならないのである。しかし、感情は、深層心理によって、自我の欲望として、行動の指令とともに生み出され、人間に行動の指令通りに行動させる動力になっているから、人間が行動の指令通りに行動すれば、その感情は消えていくのである。そして、自我の状況によって、深層心理は思考して、新しく、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。さて、人間は、心境や感情という情態によって、自分が良い状態にあるか悪い状態にあるかを自覚するから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しいという心境や感情が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、深層心理が思考するのは、自我になっている人間を動かし、苦しみの心境や感情から苦しみを取り除くことが最大の目標であるからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態が大切なのである。92歳の高齢者の深層心理は、伯父という自我が妹一家に農地を奪われて苦悩していたのである。そこで、その苦悩から逃れるために、放火したのである。24歳の若者の深層心理は、国民という自我が、岸田文雄首相が安倍晋三元首相を国葬にしたこと、年齢などを理由に昨年の参院選に立候補できなかったことで苦悩していたのである。そこで、その苦悩から逃れるために、岸田首相の暗殺を企てたのである。次に、快感原則についてであるが、快感原則とは、スイスで活躍した心理学者のフロイトの用語であり、ひたすら、その時その場で、自我に快楽をもたらし、不快を避けようという深層心理に備わっている欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを、目的・目標としているのである。キリスト教で、悪事を犯したことや悪なる欲望を抱いたことがある者が、神の代理とされる司祭に、それを告白し、許しと償いの指定を求める懺悔という儀式がある。しかし、悪なる欲望を抱いただけで罪人であるなら、人間全員が懺悔しなければならなくなる。当然のごとく、司祭自身も、懺悔しなければならないことになる。なぜならば、深層心理は、快感原則を満たそうとして自我の欲望を生み出すので、全ての人間の自我の欲望には、必ず、悪なるものが生み出されるからである。92歳の高齢者の深層心理は、伯父という自我が妹一家に農地を奪われたという不快感から逃れる逃れるために、放火殺人という自我の欲望を生み出したのである。24歳の若者の深層心理は、国民という自我が、岸田文雄首相が安倍晋三元首相を国葬にしたという不快感、年齢などを理由に昨年の参院選に立候補できなかったという不快感から逃れるために、岸田首相の暗殺という自我の欲望を生み出したのである。次に、欲動についてであるが、欲動とは、深層心理を内部から突き動かしている欲望である。フロイトは、欲動をリピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギーを挙げている。ユングは、リピドーとして、生命そのもののエネルギーを挙げている。しかし、フロイトが挙げているリピドーは狭小であり、ユングが挙げているリピドーは漠然としていて、曖昧である。欲動とは、深層心理の中に存在して、深層心理を動かしている、四つの欲望の集合体である。深層心理は、自我の状況を、欲動に応じたものにすれば、快感が得られるのである。そこで、深層心理は、欲動に従って思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。すなわち、欲動が深層心理を動かしているのである。欲動の第一の欲望が、自我を存続・発展させたいという保身欲である。それは、自我を現在の構造体にとどまらせようとする作用、すなわち、自我の保身化という作用を行う。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。それは、他者から見た自我を意識し、他者に認められようとする作用、すなわち、自我の対他化の作用を行う。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという支配欲である。それは、ある対象をある志向性(視点・観点)で捉え、意のままにしようとする作用、すなわち、対象の対自化の作用を行う。欲動の第四の欲望が、自我が他者と心の交流を図りたいという共感欲が存在する。それは、他者を趣向性(好み)で捉え、趣向性に合った他者ならば、心の交流を図りたいという作用、すなわち、自我の他者との共感化という作用を行う。人間は、無意識のうちに、深層心理が、欲動の保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲であるが、日常生活が維持できるのは、深層心理が、自我を保身化することによって、この欲望を満たそうとしているからである。高校生・会社員が嫌々ながらも、毎日高校・会社に行くのは、高校生・会社員という自我を失いたくないからである。退学者・失業者が苦悩するのは、高校・会社という構造体から追放され、高校生・会社員という自我を失ったからである。裁判官が総理大臣に迎合した判決を下し、高級官僚が公文書改竄までして総理大臣に迎合するのは、正義よりも自我が大切だからという保身欲からである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は、自殺した生徒よりも自分たちの自我を大切にするから、事件を隠蔽するのである。いじめた子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないから、いじめの事実を隠し続け、自殺にまで追い詰められてしまったのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、構造体を維持しようとするのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるから、戦争を起こし、戦場では、拷問、虐殺、レイプなどの残虐な行為を行うのである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望である。国民は、愛国心という自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である保身欲にかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で自らを意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。だから、ニーチェの「永劫回帰」という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、時には、ルーティーンの生活が破られることがある。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしている。深層心理は、同級生・教師や同僚・上司という他者から、生徒や会社員という自我に好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、馬鹿にされたり注意されたりして、悪評価・低評価を受け、プライドがズタズタにされると、深層心理は、傷心という感情と不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出すことがある。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、深層心理に内在する自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から発した、自我の保身化という機能である。しかし、深層心理が生み出した傷心の感情が非常に強い場合、超自我は、深層心理が生み出した不登校・不出勤という行動の指令を抑圧できないのである。その場合、人間は、表層心理で思考することになる。表層心理で、自らの状態を意識して、傷心という感情の下で、不登校・不出勤という行動を取ったならば、後に、自我がどうなるかという、周囲の他者の評価を気にして、不登校・不出勤という行動の指令について、許諾るか拒否するか、思考するのである。つまり、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、自らを意識して(自らの状態を意識して)、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、将来の現実的な利得を考慮して、許諾するか拒否するか、思考するのである。人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮して思考するのも、他者の評価が気になるからである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、超自我の抑圧も、表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。この場合、傷心の感情が強すぎると、不登校・不出勤に陥ってしまうのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、深層心理の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。この場合、登校しても勉強に身が入らず、出勤しても業務に身が入らないのである。さらに、深層心理が思考して生み出した感情や行動の指令という自我の欲望が、超自我で抑圧できなかった場合だけでなく、人間は、表層心理で、現実的自我の利得を求めて、思考する時がある。それは、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時である。その時、人間は、表層心理で、自らの存在を意識して(自らの現在の状態を意識して)、現実的自我の利得を求める志向性から、これからの自我の行動を思考するのである。つまり、人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識し、それと同時に、思考が始まるのである。それが、表層心理での思考である。それでは、なぜ、他者の存在を感じた時、人間は、自らの存在を意識して思考するのか。それは、人間にとって、他者の存在は常に脅威であり、自我の存在を危くさせるものだからである。さらに、人間は、無我夢中で行動していても、突然、自らの存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識することがあるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じた時、表層心理で、自らの存在を意識して、現実的な利得を求めて、思考するのである。そして、人間は、自らを意識する時は、自らの状態を意識する(自らの行動や思考を意識する)だけでなく、自らの情態も意識するのである。情態とは、心境や感情などの心の状態である。情態が、自我の外の状況を知らしめ、自我の内の状態を知らしめるとともに、自らの存在を認識させるのである。92歳の高齢者の深層心理は、親戚という構造体で、伯父という自我を維持しようと思っていたが、妹一家に農地を奪われたので、親戚という構造体から追放され、伯父という自我を失ったと思い込み、その不快感から逃れるために、放火殺人を行動の指令として生み出したのである。24歳の若者の深層心理は、国民という自我が持っているが、岸田文雄首相が安倍晋三元首相を国葬にしたことや年齢などを理由に昨年の参院選に立候補できなかったということで、国民という自我が維持できないと思い、その不快感から逃れるために、岸田首相の暗殺を行動の指令として生み出したのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、充実感・快感という快楽を得ようとすることである。自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。受験生が有名大学を目指し、少女がアイドルを目指すのも、自我を他者に認めてほしいという欲望を満足させたいからである。男性が身だしなみを整えるのも、女性が化粧をするのも、自我が他者に認められたいという欲望を満足させるために行っているのである。92歳の高齢者の深層心理は、親戚という構造体で、伯父という自我を持って暮らしていたが、妹一家に農地を奪われたので、伯父という自我を認められていないと思い込み、その不快感から逃れるために、放火殺人を行動の指令として生み出したのである。24歳の若者の深層心理は、国民という自我が持って暮らしていたが、岸田文雄首相が安倍晋三元首相を国葬にしたことや年齢などを理由に昨年の参院選に立候補できなかったということで、国民という自我が認められていないと思い、その不快感から逃れるために、岸田首相の暗殺を行動の指令として生み出したのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという支配欲である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、この欲望を満たそうとする。対象の対自化は、深層心理が、自我の志向性(観点・視点)で。他者・物・現象を捉えることである。対象の対自化とは、「深層心理が、他者という対象を支配しようとする。深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。」ということである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快感が得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生まれる。有の無化とは、深層心理が、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。いじめ自殺事件が起こると、いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いから、わが子のいじめが自殺の原因はわが子のいじめではないと思い込むのである。無の有化とは、深層心理が、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、この世に存在しているように創造することである。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめ自殺事件が起こると、いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いから、自殺の原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。深層心理は、有の無化、無の有化によって、自我を正当化して、安定感を得ようとするのである。92歳の高齢者の深層心理は、親戚という構造体で、伯父という年長者の志向性で妹一家に接していたが、農地を奪われたので、裏切られたと思い込み、その不快感から逃れるために、放火殺人を行動の指令として生み出したのである。24歳の若者の深層心理は、国民という志向性で国に参画していたが、岸田文雄首相が安倍晋三元首相を国葬にしたことや年齢などを理由に昨年の参院選に立候補できなかったということで、裏切られたと思い、その不快感から逃れるために、岸田首相の暗殺を行動の指令として生み出したのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は、自我と他者を共感化させることによって、この欲望を満たそうとする。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快感を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえば、喜び・満足感が得られるのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、仲の悪い者同士も、一時的に仲良くし、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは、他クラスを倒して皆で喜びを得るということに価値があるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終われば、再び、互いに相手を対自化して自我を主張し、仲が悪くなるのである。92歳の高齢者の深層心理は、親戚という構造体で、伯父という自我で妹一家と交流しようと思っていたが、農地を奪われたので、共感欲が傷付き、その不快感から逃れるために、放火殺人を行動の指令として生み出したのである。24歳の若者の深層心理は、国民という自我で国や首相と心の交流を図ろうとしていたが、岸田文雄首相が安倍晋三元首相を国葬にしたことや年齢などを理由に昨年の参院選に立候補できなかったということで、共感欲が傷付き、その不快感から逃れるために、岸田首相の暗殺を行動の指令として生み出したのである。




戦争になれば、日本人も悪魔になる。(自我から自己へ19)

2023-04-16 16:04:29 | 思想
世界は、今や、大衆が立ち上がって、残虐非道な政治権力者を打ち倒して、民主義国家を建設するという革命の夢は絶たれた。多くの国が、相も変わらず、政治権力者が、軍部と警察を統率して、大衆を、暴力によって、支配している。日本のように、たとえ、民主主義が与えられても、大衆がそれを生かせず、絶対的な政治権力者を待望し、再び、全体主義国家になろうとする国もある。ニーチェは「大衆は馬鹿だ」と言った。毛沢東は「大衆に学べ」と言って、大衆を利用して、革命に成功し、全体主義国家を作った。日本の大衆の多くは、岸田政権のロシア、中国、北朝鮮に対抗するための軍備予算増大を支持している。確かに、ロシアのプーチン大統領、中国共産党の習近平、北朝鮮の金正恩の独裁政治は脅威である。しかし、アメリカを後ろ盾にして、これらの国と戦争をしても、勝てないばかりか、国民が拷問され、虐殺され、レイプされ、国土が破壊されるだけである。戦争になれば、勝利しても、敗戦国である。現在のウクライナ戦争を見れば一目瞭然である。確かに、プーチン大統領は大悪党である。しかし、ゼレンスキー大統領も悪党である。屈辱的な条約を結ばさせられようとも、戦争を回避すれば、国民は一人たりとも殺されることはなかったからである。日本国民も、岸田政権の軍微増強を認めず、外交政策による戦争回避を求めるべきなのである。じれったくても、それしか無いのである。日本国民は、尖閣諸島、竹島、北方四島に執着して目先の利益を追うのではなく、戦争回避、平和維持のためには何をすればよいかと考えるべきなのである。日本人は、自らをおもてなしの国民だと称しているが、戦争が始まれば、ロシア兵がウクライナ国民、ウクライナ兵に対して行っているように、敵兵士、敵国民を拷問し、虐殺し、レイプし、敵国土が破壊するのは目に見えている。ウクライナ兵も、ロシア兵に対して、拷問し、虐殺しているのである。日本人も、他の国民と同じように、戦争になれば残虐性を発揮することは、歴史が教えてくれる。日本は、太平洋戦争を起こし、日本兵や日本人は、アジアの人々を虐殺、レイプしただけでなく、インドネシアにいたオランダ人女性をレイプし、慰安婦にするなど、残虐の限りを尽くした。しかし、アメリカの反撃にあい、全国各地が爆撃され、挙げ句の果てに、広島、長崎に、原子爆弾を落とされ、惨敗を喫した。しかし、戦後、太平洋戦争は、アメリカに引きずり込まれたやむを得ない戦争だと主張として、自らの責任を回避している。このような意識が、政治家、国民の大半にある限り、日本は、早晩、戦争をすることになるであろう。日本人は、「日本は神の国だから危機に陥ると神が助けてくれる」という傲慢な考えでアメリカに戦いを挑んだが、アメリカにこっぴどくやられると、すっかり自信を失い、戦後は、逆に、アメリカの子分になった。だから、日本が、戦争を仕掛けるのではない。アメリカが仕掛けた戦争に巻き込まれるのである。太平洋戦争の言い訳として使っていたアメリカに引きずり込まれた戦争を、文字通り、実践するのである。正確に言えば、アメリカは、自らが引き起こした戦争に、日本を引きずり込み、自衛隊を前線に立たせて戦わせるのである。アメリカ大統領は、自国の兵士が亡くなるのを極端に嫌がる。それは、途端に支持率が下がり、政権交代の可能性が出てくるからである。ドローン攻撃を開発したのも、自国兵士を殺させたくないからである。しかし、ドローン攻撃は、一点集中攻撃であり、一人の敵兵の暗殺や一つの建物の破壊は可能だが、占領地の拡充には効果が薄い。どうしても、兵士による占領地の制圧・拡充が必要になってくる。そのために、駆り出されるのが自衛隊である。アメリカにとって都合の良いことに、安倍晋三首相は、国会での強行採決によって、集団的自衛権を確保した。アメリカの戦争に、自衛隊を使うことに何の支障も無くなった。さらに、吉田茂が首相の時に、既に、密約を結んで、アメリカと日本の兵隊が共同で戦う場合、日本の軍隊はアメリカの指揮の下で動くことになった。かてて加えて、日頃から、アメリカ軍の指揮官の下で、アメリカの軍隊と日本の自衛隊の連合軍が訓練を行っている。アメリカが自衛隊を使うのは容易である。さらに、アメリカは、でっち上げによって、気に入らない国に簡単に攻め込む国である。ブッシュ大統領は、実際には存在しない大量破壊兵器を理由に、イラクに攻め込み、フセイン大統領を殺した。北朝鮮が、核兵器を開発し、なかなか手放そうとしないのは、イラクの二の舞になるのを恐れてのことである。アメリカが容易に戦争する国だということは、日本も、集団的自衛権によって、容易に戦争に加担させられる国になったということである。つまり、自衛隊員が、アメリカの戦争に巻き込まれて、戦死する可能性が高くなったということである。自衛隊員が戦死すれば、日本は、必ず、徴兵制を導入する。なぜならば、国会議員では自民党を中心に、マスコミでは日本テレビ、フジテレビ、読売新聞、産経新聞、週刊新潮、週刊文春などを中心に、「自衛隊員だけ死なせて良いのか」という大々的なキャンペーンを張り、短時間の国会の審議で強行採決され、圧倒的な多数によって、徴兵制が決定されるのは確実だからである。日本人は幼稚な国民である。太平洋戦争で、大きな被害をアジア諸国を中心に与え、大きな被害を被っているのに、全く反省していない。靖国神社で祀られている戦死者に対して、「日本のために良く戦った」と褒め称えている。誰でも、兵士になって戦地に行くと、死にたくないから、良く戦うのである。国民にとって、戦争を起こさないように、自分が戦地に行かなくても良いような政治が必要なのである。また、特攻隊員に対して、「特攻隊員の死があったから、現在の日本の繁栄があるのだ。」と感謝の念を吐露する人がいる。しかし、特攻死した人のほとんどが二十歳前後の若者であったから、彼らが生き残っていたならば、もっと日本は繁栄したはずである。特攻隊員の死をほめそやすのではなく、彼らを死に追いやった軍部を批判すべきなのである。大岡昇平は、『俘虜記』で、「戦争は嫌だが、この戦争の反対しなかった自分には、批判する資格がない。」と言う。まったく、その通りである。日本人にとって太平洋戦争は自業自得である。それでも、共産主義者、共産党、自由主義者、一部の作家、一部の政治評論家、一部の宗教者は戦争に反対した。しかし、彼らは警察や憲兵に拘束され、その多くは拷問死、リンチ死、獄死などに遭った。国民の多くは、戦争に反対している人が近所にいると、警察や憲兵に密告した。彼らはそれが正しいと信じていたのである。幼稚なのである。現代でも、アメリカが主導し、自民党政府が、戦争が始めよう、徴兵制を導入しようとすると、日本維新の会や国民の大半が賛成し、一部の国民は反対するだろう。そして、一部の国民の運命は、やはり、拷問死、リンチ死、獄死であることは想像に難くない。戦後の国民の大半が幼稚なのだから、戦前、戦中のほとんどの国民は幼稚だった。天皇陛下のために生きそして死ぬことを良しと考えていた。だから、戦時中、軍人が自らの背後に天皇がいるとにおわせ、軍人勅諭で兵士が捕虜になることを許さなかった。病気の兵士や怪我を負っている兵士を自決に追い込んだ。戦闘に足手まといになる国民を抹消した。沖縄では、母親に我が子を殺させた。中国やサイパンなどの各地で、民間人を老若男女を問わず、毒薬や手榴弾で自決させたのである。戦後の国民も、太平戦争を正当化し、アメリカに忠誠を誓っている自民党に政権を委ねているのを見てもわかるように、幼稚である。だから、アメリカが引き起こした戦争に、集団的自衛権の下、日本が引きずり込まれるのは確実である。反戦論者、非戦論者の人間には、自民党、日本維新の会を支持している大衆には、期待できない。残されているのは、自分自身がどのように行動するかである。日本に徴兵制が導入されたり、日本が戦争に参加したならば、自分自身がどのように行動するかである。もちろん、徴兵制の動き、戦争の動きがあった時点で、反対野意思表示をすべきである。しかし、組織的な運動は、自民党、日本維新の会が、警察や自衛隊を使って弾圧するだろう。言論は、日本テレビ、フジテレビ、読売新聞、産経新聞、週刊新潮、週刊文春などによって、かき消されるだろう。徴兵制が導入されれば、早晩、全成人に徴兵検査の案内が来るだろう。それに行かなかったならばどうなるだろう。まず、警察が逮捕に来るだろう。その時、それに従うことはできない者、すなわち、反戦論者、非戦論者は、死ぬ、狂う、故意に病気になる、逃げる、戦うかするだろう。まず、死ぬということであるが、言うまでもなく、死ぬとは自殺することである。徴兵検査という体制に屈するよりその方が良いと考える者もいるだろう。次に、狂うであるが、狂うとは精神疾患に陥るということである。精神疾患に陥るのは、徴兵検査や戦地での殺す殺されるという現実から逃避するためである。確かに、徴兵検査や戦地での殺す殺されるという恐怖の念が強すぎるあまり、深層心理が精神疾患を招き入れることは大いに考えられる。しかし、深層心理は自分の意志ではないから、実際に精神疾患に陥るかどうかは誰にもわからないことである。次に、故意に病気になるであるが、確かに、徴兵検査に合格しないために、また、戦地に行かないために、故意に、自傷や仮病を起こすことも考えられる。しかし、それはすぐに見破られるだろう。それならば、持病を悪化させた方が良いだろう。だから、持病がない者には、実現性は乏しいだろう。次に、逃げるであるが、狭い日本のこと、国内逃亡はすぐに見つかるから、実現性は乏しい。もっとも、国内逃亡して、警察に逮捕されるような事態になったら、自殺するのも一計だろう。最も良いのは、日本が戦争に巻き込まれそうになったり、徴兵制が導入されそうになったならば、海外に移住することである。しかし、それには、さまざまな準備と国選びの困難が伴う。最後に、戦うであるが、拳銃をもって複数でやって来る警察と一人向き合って戦っても勝ち目は無い。武器を装備している警察や自衛隊に対して戦うことは、言うまでもなく、犬死である。最後の方法として、組織的に、戦うのである。同志を募り、若しくは、同意見の集団に参加して戦うのである。もちろん、敗北死をする可能性が高い。しかし、おめおめ、徴兵検査を受け、戦地に行かされ、したくもない戦争で死ぬよりは良いと思う。さて、日本国憲法は、戦争放棄をうたっている。だから、徴兵制や交戦権を国家権力は有していない。しかし、自民党や日本維新の会は、日本国憲法の改正によって、もしくは、日本国憲法の拡大解釈による強行採決によって、徴兵制や交戦権を導入することは大いに考えられる。国民の選挙によって選ばれた国会議員であり、その国会によって決まった徴兵制、戦争なのだから、国民はそれに従うのは当然だと言う者は多いが、私は、内閣や国会には戦争を回避する義務があり、国民を戦争に強制する権利は無いと思っている。哲学者の鶴見俊輔は「太平洋戦争時、戦地で銃を持たせられたら、自殺するつもりだった。」と言い、戦地では通信係だったから自殺しなかったと言う。鶴見俊輔の考えも、一考に値すると思う。さて、暗殺された国家主義者の安倍晋三元首相はは、岸信介元首相の孫である。岸信介は、超という接頭語を付くぐらいの、国家主義者であった。安倍晋三が、岸信介を尊敬しているのも、頷けることである。岸信介は、満州国の高官を経て、東条英機内閣が太平洋戦争を起こした時は、商工大臣になっていた。太平洋戦争中、大日本帝国は、軍部が、八紘一宇(はっこういちう・世界を一つの家にすること)を掲げて、自らの行為を正当化しつつ、中国、東南アジアの侵略し続けた。その結果、アメリカを中心とした連合国と戦争をせざるを得なくなった。また、大日本帝国は、満州国の建国理念として、五族協和(日・朝・漢・満・蒙の五族の協和。日本人、朝鮮人、漢族、満州族、モンゴル族が平等の立場で満州国を建設すること)・王道楽土(おうどうらくど・王道主義によって、各民族が対等の立場で搾取なく強権のない楽土(理想郷)を実現すること)を掲げた。しかし、八紘一宇、五族協和、王道楽土は、見せかけだけのスローガンであった。真実は、日本軍人(日本人)はアジアの諸民族を蔑視し、嫌悪していたのである。その証拠として、次のような実例を挙げることができる。日本軍(日本人)は、中国や朝鮮や東南アジアにおいて、日本の神社を拝ませ、日本語を強制し、拷問、レイプ、虐殺を行った。陸軍の細菌戦部隊である731部隊は、中国において、ペスト、コレラ、チフスなどの細菌の研究を進め、実戦に使い、中国人、ロシア人などの捕虜・抗日運動家を使って人体実験を行った。その犠牲者の数は三千人近いと言われている。日本軍(日本人)は、朝鮮において、創氏改名(朝鮮人の姓名を日本式の氏名に改めること)を強制した。日本軍人は、東南アジアにおいて、現地の若い女性をだまして、暴力的に従軍慰安婦に仕立て上げた。それは、朝鮮だけにおいてではない。占領地全てにおいてであった。太平洋戦争は終わった。日本は敗北した。しかし、日本人の中には、アジアの諸民族対する蔑視感・嫌悪感を、現在も、持ち続けている人が存在するのである。それも、決して少ない数ではない。特に、中国、韓国、北朝鮮に対して蔑視感・嫌悪感を抱いている人が多い。それは、戦前、大日本帝国が、中国、韓国、北朝鮮を侵略し、占領したからであり、多くの日本人の深層心理が、国家主義思想あるからである。「在日韓国人や在日朝鮮人は日本から出て行け。」と叫びながら、デモ行進をする在日特権を許さない市民の会という右翼集団の行動に如実に表れている。戦前の亡霊が現在まで生き残っているのである。特に、安倍晋三が首相になってから、我が意を得たりとばかり、ヘイトスピーチする集団とともに、中国・韓国・北朝鮮に対して、あからさまに非難する人が増えてきた。岸信介は、太平洋戦争中、あくどいやり方で、中国で利益を上げた。それ故に、今もって、多くの中国人に嫌われている。当然のごとく、戦後、A級戦犯として逮捕された。しかし、共産主義国であるソ連の台頭、中国の共産党の勃興、朝鮮戦争が起こりそうな機運が高まってきたので、アメリカは政治判断を下し、岸を釈放した。その後、自民党の衆議院議員になり、そして、首相にまで上り詰めた。1960年、安保条約(日米安全保障条約)を改定した。旧安保条約には、アメリカ軍が安全保障のために日本に駐留し、日本が基地を提供することなどを定めていたが、新安保条約は、それに、軍事行動に関して両国の事前協議制などを加えた。旧新ともに、安保条約は、日本がアメリカの従属国家であることを示している。また、岸信介は、旧安保条約の細目協定である日米行政協定を、新安保条約では、日米地位協定と改定した。日米地位協定には、基地・生活関連施設の提供、税の免除や逮捕・裁判に関する特別優遇、日本の協力義務、日米合同委員会の設置など、アメリカ軍人とその家族の権利が保証されている。日本人がアメリカ人の下位にあることは一目瞭然である。岸信介は、政治家を退いた後も、自主憲法やスパイ防止法の成立を目指した。安倍晋三の父である安倍晋太郎も、自民党の衆議院議員であったが、首相にはなれなかった。岸信介の実弟が佐藤栄作である。つまり、佐藤栄作は安倍晋三の大叔父に当たるのである。佐藤栄作も、自民党の衆議院議員であったが、首相となり、国民は非核三原則をうたいながら、アメリカと核密約を結び、いつでもどこでも、アメリカ軍が日本に核兵器を持ち込むことを許した。それが露見しなかったために、ノーベル平和賞を受賞した。安倍晋三は、祖父の岸信介についてはよく言及するが、父の安倍晋太郎、大叔父の佐藤栄作についてはほとんど触れることがない。それは、安倍晋三の深層心理が岸信介に繋がっているからである。安倍晋三の自我は岸信介に連なっているからである。安倍晋三が靖国神社を参拝するのは、そこに祀られているA級戦犯者の復権、延いては、A級戦犯者だった岸信介の復権を目指しているのである。安倍晋三の集団的自衛権は岸信介の対米従属外交、新安保条約、地位協定に繋がっている。自民党の憲法改正案は、岸信介の自主憲法制定の考えに連なっている。安倍晋三とは岸信介のことなのである。確かに、日本は、太平洋戦争でアメリカに敗れ、満州国は崩壊した。しかし、アジアの諸民族に対しての蔑視感・嫌悪感を残している人々がまだ存在する。特に、中国、韓国、北朝鮮に対してそうである。アメリカに対して敗北したのであって、中国や朝鮮に対しては敗北していないというのである。彼らは、日本をアメリカの従属国にしても、中国、韓国、北朝鮮と対峙しようと考えているのである。言うまでもなく、その一人が安倍晋三である。岸信介の満州国における見果てぬ夢を、安倍晋三が首相となって、今見ようとしたのである。戦前の亡霊が現在の日本を支配しようとしているのである。麻生太郎は、安倍内閣の副首相兼財務大臣である。麻生は、「ワイマール憲法も、いつの間にか、ナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。」と発言し、憲法を変えずとも、解釈によって、実質的な憲法改正の道を示唆した。それは、安倍晋三が、ほとんどの憲法学者が反対する中で、強引な憲法解釈と強行採決によって、国会で、集団的自衛権を認めさせたのと、底で繋がっているのである。麻生太郎の祖父が、吉田茂である。吉田茂は、戦前は、外交官として、日本が太平洋戦争に突き進むために、暗躍した。戦後は、首相となり、最初の安保条約(旧安保条約)を成立させた。戦前は、無鉄砲にも、日本がアメリカと戦争するように仕向け、アメリカが世界の第一の強国だとわかると、戦後は、アメリカに阿諛追従している。麻生太郎の節操のなさは吉田茂と繋がっている。確かに、吉田茂は、アメリカからの要求である日本の軍備増強を拒否した面は評価しても良い。しかし、安保条約を成立させて、日本をアメリカの属国にし、沖縄をアメリカの基地の犠牲にした基礎を造ったことは、批判しても批判しつくせるものではない。たとえ、そこには、昭和天皇の暗躍があったとしても。中曽根康弘は、戦前、海軍主計中尉として、インドネシアにいた時に、従軍慰安施設を作った。自叙伝でそれを自慢げに語っていたが、従軍慰安婦が問題となると、沈黙を保っている。戦後、首相となるや、日本に原発を導入し、レーガン大統領に対して、「日本列島は不沈空母」と言い、アメリカの軍事行動を全面的に支援することを約束した。防衛費の対国民生産GNP比率1%枠を突破させた。さらに、首相として、初めて、靖国公式参拝を行った。また、国家秘密法の制定、有事法制の制定、イラン・イラク戦争末期の1987年に自衛隊の掃海艇の派遣を試みたが、いずれも党内外の反対意見が強く、成功しなかった。中曽根康弘の姿勢は、常に日本のナショナリズムを喚起することであり、海軍時代と全く同じである。平沼赳夫は、郵政民営化関連法案に反対して自民党を飛び出したが、安保法案に賛成すると菅官房長官に表明し、復党を許された。また、「慰安婦は売春婦だ」と言って、物議をかもした。平沼赳夫のの養父が、平沼騏一郎である。平沼騏一郎は、1910年の大逆事件で検事を務め、冤罪で、幸徳秋水以下12名を死刑台に送り込んだ、世紀の大犯罪者である。その国家主義思想は、右翼団体の国本社を主宰するまでに至った。1939年1月から8月まで、平沼騏一郎内閣を組閣し、国民精神総動員体制の強化と精神的復古主義を唱えた。また、1945年1月から4月まで、枢密院議長として、降伏反対の姿勢で終戦工作をした。このような人物がいたために、戦争終結が遅れ、日本は、沖縄戦、本土爆撃、広島・長崎の原爆投下の大惨劇に見舞われるのである。戦後、逮捕され、A級戦犯として終身刑を下されたが、健康上の理由で仮出所を許され、その後、病死した。日本は、戦後のほとんどの内閣は、自民党によるものであった。自民党の本質は、憲法改正案に見られる通り、上意下達の全体主義なのである。それは、戦前の政治と同じである。つまり、戦前の亡霊が戦後の日本を支配しているのである。すなわち、現在でも、アメリカに隷属し、戦前と同じく、国家主義者が日本の政治を動かしているのである。また、日本人は、戦前、戦中、ナチス以上に、国内においてだけでなく、中国、朝鮮においても、残虐なことを行っているのである。大日本帝国の軍人たちは、中国を侵略し、十五年戦争(1931年~1945年)において、侵略した村々において、全食糧を奪い、抵抗した男性は試し斬り、若しくは、軍用犬に食わせ、女性は六歳の幼児から七十歳以上の老女まで全てレイプし、妊婦を殺して胎児を取り出し、無抵抗になった村人を赤ん坊や幼児や老人を含めて一カ所に集めて、銃で皆殺しにしてきたのである。この世で考えられる残虐な行為を、大日本帝国の軍人たち、いや、日本人が中国において行ってきたのである。その残虐ぶりは南京事件が有名であるが、南京事件は氷山の一角である。全ての村々において、南京事件と同様に、いや、それ以上に、残虐な殺戮を行ったのである。日本は、朝鮮を植民地として統治してきた期間(1910年~1945年)、朝鮮を日本に同化させようとし、食糧・原料供給地とし、一切の言論・集会・結社の自由を奪い、農民に飢餓輸出を強い、創氏改名させ、労働者として日本に強制連行し、若い女性を慰安婦にし、21万の青年を戦場に送っているのである。この時代だけに、大日本帝国の軍人・日本人に、異常な欲望が湧いてきたのではない。明治維新以来、ほとんどの大日本帝国軍人・日本人が、異常な欲望を持っていたのである。さらに、戦争末期になり、戦況の不利を悟り、戦闘機・戦艦・武器などが少なくなると、若い兵士や学徒出陣の学生・生徒たちに強要し、「自分も後に続くから。」と言って、六千人以上を特攻という苦悶の死を与えたが、ほとんどの上官は後に続かなかった。そして、戦後、彼らは、特攻の責任を、自決した大西瀧次郎海軍中将などに押しつけ、「特攻を希望した若者たちは立派だった。彼らの名誉ある死があるから、現在の日本の繁栄があるのだ。」と言って、自らの責任を回避した。特攻によって命を散らされた若者が生きていたならば、日本は現在もっと繁栄しているだろう。軍部の上官たちは、行動が詐欺師であるばかりでなく、言動まで詐欺師である。特攻のほとんどは、希望ではなく、軍部の上官による強要である。軍部の上官たちは、自らの保身のために、若者たちを犠牲にし、若者たちは、臆病者だと言われたくないために、特攻死したのである。現代においても、愛国心が日本と中国が尖閣諸島という無人の島々の領有権を、日本と韓国が竹島という無人島の領有権を戦争も辞さない態度で臨んでいるのも、愛国心という自我の欲望に正直だからである。しかし、それは、幼児の思考、行動である。無人島の尖閣諸島や竹島を巡る攻防など、まるで子供の喧嘩である。また、従軍慰安婦も問題になっているが、従軍慰安婦は、軍隊が直接に関与したかどうかが問題ではない。(実際に、軍部が直接関与している。)日本が、朝鮮半島を占領し、そこの住民が日本軍の慰安婦として行ったことが問題なのである。些事に拘泥せず、きちんと、謝罪すべきである。南京大虐殺も、殺された人数が問題ではない。無抵抗の民間人がレイプされ、虐殺されているのは事実なのだから、きちんと、謝罪すべきなのである。特に、中国においては、ハルビンで、731部隊が、中国人・ロシア人などの捕虜・抗日運動家を使って、三千人以上の人体実験を行っていたのも事実であるから、言い訳は許されないのである。さて、日本の安倍晋三政権が、韓国に対して、徴用工問題に対抗して、半導体材料の輸出を規制したのも、韓国民が、日本製品の不買運動を起こしたのも、愛国心という自我の欲望に正直だからである。愛国心という深層心理から湧き上がる自我の欲望を、表層心理が抑圧しない限り、このような子供じみた正直さが行動となって現れるのである。日本でも、韓国でも、中国でも、愛国心という深層心理から湧き上がる自我の欲望を、表層心理が抑圧しない人が多数を占めるようになったのである。それは、アメリカも、ロシアも、ヨーロッパも、同じ傾向にあるのである。このまま、各国民が愛国心という自我の欲望に正直に突き進めば、第三次世界大戦になるだろう。そして、最後には、核戦争になるから、人類は、必ず、滅びるだろう。核抑止力という言葉があるが、深層心理から湧き上がる憎しみが強ければ、人間は、核を使うことをを厭わないものである。さて、日本の陸軍・海軍は、太平洋戦争中、二十歳前後の若者を召集し、大半が操縦技術が未熟なのに、約六千人を特攻死させたのであるが、特攻死のほとんどは、日本の敗北決定の中に行われたのである。つまり、戦いが目的ではなく、若者を死に追いやることが目的だったのである。幹部軍人たちは、若者の生殺与奪の権利を握り、実際に死に追いやることで、他者の生命を支配するという自我の欲望を満足できたのである。だから、飛行機の故障で生還した特攻隊員に向かって、特攻死を命じた上官のほとんどが、慰めるどころか、「特攻が成功するか失敗するかは問題ではない。特攻死することが意味があるのだ。臆病者め。」と怒鳴りつけたのである。そこで、生還した特攻隊員の多くは、次期の出撃で、何が何でも特攻死しようとしたのである。中には、恥じて、自殺した者までいる。戦艦大和の最期も沖縄への片道燃料の特攻死であった。アメリカ軍は、特攻隊を恐れた。勇気があるから恐れたのではない。戦争とは言え、人間が行うことではなく、理解不能の行動だったから恐れたのである。日本人は人間ではないと蔑視したのは当然である。それでも、軍人幹部でも、美濃部正中尉など、特攻に反対する者はいた。しかし、ほとんどの幹部軍人は特攻を推進した。フィリピン戦で特攻を導入し、特攻隊の創設者と言われている大西瀧治郎中将は、「特攻に反対する奴は、俺が叩き斬ってやる。」とまで言った。しかし、彼は、敗戦決定の翌日、責任を感じて、「特攻隊員に申し訳ない。」と言って、自決した。しかし、若者に特攻死を命じた上官のほとんどは、「君たちの後に自分も続くから。」と言いながら、戦後も生き延びた。戦後、「特攻隊員は、皆、自分で志願したのだ。」と言って、責任逃れをしている。しかも、特攻は、太平洋戦争緒戦の真珠湾攻撃で、既に採用されていたのである。日本軍の国民の生命を軽視する非人間性は、戦いの形勢如何に関わらず、緒戦で既に現れているのである。しかし、権力者とは、こういうものなのである。権力者の自我の欲望は国民の生殺与奪の権利を握ることだからである。このような欲望は、権力者ならば誰でも心に持っているものである。太平洋戦争を起こした東条英機首相は、陸軍大将であり、「生きて虜囚の辱めを受けず。」(捕虜になって生き延びるような恥ずかしいことをするな。)という言葉で有名な戦陣訓を全陸軍に下したことでも、日本の軍人の生命軽視の自我の欲望が窺われる。しかも、特攻を、マスコミも国民も昭和天皇も賞賛したのである。誰一人として、特攻を批判しなかったのである。それは、なぜか。それは、日本人全員が皇国史観という愛国心に酔い、アメリカ憎し、アメリカに勝利しようという自我の欲望に凝り固まっていたからである。戦争に反対した知識人は、殺されているか、刑務所に入っているかして、特攻に反対できなかったのである。日本人全体から、アメリカに勝利するという自我の欲望の前には、特攻という生き残る希望がゼロという作戦で若者の命が失われるという残酷さ・悲劇性は無視されたのである。マスコミも国民も昭和天皇も自我の欲望の虜になっていたのである。そして、戦後、生き残った昭和天皇や軍人たちや政治家たちや官僚たちや大衆は、「太平戦争での尊い犠牲によって、戦後日本の繁栄があるのだ。」と異口同音に言う。しかし、この言葉は、戦死者に対する供養に見せかけて、負け戦だとわかっているのに戦争を起こした責任、戦争に賛成した責任、戦争に反対しなかった責任、戦いによる死より餓死・病死が多いことの責任、特攻によって約六千もの若者を死なせた責任、後に続くと言いながら生き残った責任、連合国に対して国体護持(天皇制維持)を確約してもらうために無条件降伏を受け入れようとせずに広島・長崎に原爆を落とされた責任、完膚なきまでに日本全土を攻撃された責任を回避しようとしているのである。しかも、昭和天皇は、退位しなかったばかりか、日本の共産主義化が恐くて、裏で手を回し、象徴性を逸脱し、アメリカに、半永久的に、沖縄でのアメリカ軍基地の提供を確約したのである。昭和天皇を止める者がいないから、天皇家の安泰という自我の欲望と、日本人を支配しているという自我の欲望が結びついてここまでさせたのである。しかし、自我の欲望が高じると、人間は、このような卑劣なことを行うのである。さらに、大衆の心の中にも、自我の欲望のままに行動したいという気持ちがあり、その欲望の実現可能な権力者が現れたり多数派がその欲望の虜になったりすると、失敗しても、孤立化したり顰蹙を買ったり罰せられたりする虞が無いから、自我の欲望を実現するために、積極的に行動するのである。そして、その欲望実現が失敗に終わると、懲りることなく、次の欲望実現に向かうのである。マルクスは、「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として。二度目は喜劇として。」と言ったが、日本人は、歴史の失敗を何度でも繰り返すのである。そして、戦争や大虐殺が繰り返されるのである。それは、自我の欲望は、深層心理によってもたされ、それが、高じて、強い欲望になると、表層心理(意志)はそれをコントロールできないからである。強い欲望が発生すると、表層心理は、その欲望を処理できず、そのまま行うしか無いのである。だから、日本は、アメリカに負けるとわかっていても、皇国史観という愛国心が深層心理の中で強くて、自我の欲望が高まり、太平洋戦争を起こしたのである。少数の表層心理が強い知識人は、戦争に反対したが、大多数の国民の反対に遭い、警察・憲兵の拷問に遭い、戦争賛成に転向させられたのである。それでも、戦争反対を唱え続けた者がいたが、殺されたのである。拷問死させられた者は百人を超えている。それでも、大衆は、日本は神国だから負けないと思い、神風が吹くから負けないと思っていたのである。幼児思考であるが、自我の欲望の虜になった人間は、現実すらも、その欲望に沿って、その欲望に合わせて見るようになるのである。さて、暗殺された安倍晋三元首相は、国家安全保障会議(NSC)を創設し、秘密保護法、集団的自衛権を強行採決で得て、いつでも、日本が戦争できる国にした。自我の欲望実現がいつでも可能になったのである。権力者の夢が叶ったのである。それは、大衆の多くが、心の中に、中国・韓国・北朝鮮を攻撃したいという自我の欲望があり、その欲望の実現可能な安倍晋三首相という権力者が現れ、彼を支持したからである。日本は、今、岸田文雄首相・自民党議員・官僚・大衆が中国・韓国・北朝鮮を攻撃したいという欲望で一致し、危機的な状況にある。それでも、彼らには、戦争をする能力も度胸も無いから、一応安心できる。しかし、尖閣諸島・竹島・拉致問題などで、事が起こると、いつ戦争になるかわからないのである。日本が、まず、今、為すべきことは、岸田文雄首相・自民党議員・日本維新の会議員・官僚・大衆の考えとは異なり、日米安全保障条約を廃棄して、真の同盟関係を築くべく、新たな平和条約を結ぶことである。日米安全保障条約、そして、それに付随した日米地位協定によって、日本は、アメリカの家来、もしくは、アメリカの奴隷になっているのである。現在の日米関係は、決して、同盟関係では無いのである。そして、日本軍や日本人が、太平洋戦争中において、中国、韓国、北朝鮮などのアジア諸国において、行った犯罪を謝罪し、平和条約を結び、友好関係を築くべきである。いつまで、日本は、距離的に最も近い、中国、韓国、北朝鮮と喧嘩しているつもりなのだろうか。無人島の尖閣諸島や竹島を巡る攻防など、まるで子供の喧嘩である。従軍慰安婦は、軍隊が直接に関与したかどうかが問題ではない。(実際には、直接に関与している。)日本が、朝鮮半島を占領し、そこの住民が日本軍の慰安婦として行ったことが問題なのである。些事に拘泥せず、きちんと、謝罪すべきである。南京大虐殺も、殺された人数が問題ではない。無抵抗の民間人が虐殺されているのは事実なのだから、きちんと、謝罪すべきなのである。特に、中国においては、ハルビンで、731部隊が、中国人・ロシア人などの捕虜・抗日運動家を使って、三千人以上の人体実験を行っていたのも事実であるから、言い訳は許されないのである。しかし、現在の日本の政治状況は、絶望的な状態にある。安倍政権は、特定秘密保護法、安保関連法(集団的自衛権)を成立させ、アメリカ軍から来た情報を隠し、アメリカ軍に自衛隊を差し出すことの権利を得て、ますます、アメリカ従属を深めている。官僚は、鳩山由起夫を裏切って政治生命を絶ち、小沢一郎を冤罪で起訴して政治権力を衰弱させて、アメリカからの独立を志向した政治家に反旗を翻し、戦後以来のアメリカ一辺倒を貫いている。日本会議という、旧生長の家の幹部たちや神道系の人たち、自民党議員、日本維新の議員が、日本国憲法を改正して、戦前の大日本帝国憲法や教育勅語の復活を画策している。産経新聞、読売新聞、週刊新潮などは、自民党の広報活動を積極的に行っているだけでなく、野党をおとしめ、野党議員の失脚を謀っている。民間の似非右翼は、ネットを使って、盛んに、日本を持ち上げ、中国、韓国、北朝鮮を非難し、在日韓国人、在日朝鮮人、在日中国人を誹謗中傷し、ことあるたびに、「日本から出て行け」と叫んでいた。似非右翼が、盛んに日本を持ち上げるので、愛国心につられて、一般大衆の中から、似非右翼の考えに賛同する者が増えている。戦前も、日本を持ち上げる書物が増えるのに呼応して、日中戦争・太平洋戦争に突き進んでいったのである。このような似非右翼の広がりをどのように止めたら良いだろうか。似非右翼の幼児的な思考を「反知性主義」と呼んで、批判している書物もある。しかし、似非右翼が「反知性主義」者ならば、書物を読まないだろうから、彼らには効果がないだろう。また、一般大衆も、似非右翼の言葉は、愛国心をくすぐるから、深謀遠慮なく、無反省に、それを受け入れる可能性が高い。残された道は、インド建国の父と言われながら暗殺されたガンジーと青春を駆け抜けて惨殺された日本の革命家三人の生き方である。ガンジーは、「自分の言動は、政治を変えることはできないかもしれない。しかし、自分が言動している限り、自分は政治によって変えさせられることはない。だから、自分は言動し続けるのだ。」という意味のことを言っている。そして、彼は、覚悟を持って、その言葉を実行し、インドをイギリスから独立させた。戦前の日本の革命家三人である、幸徳秋水、大杉栄、小林多喜二は、死を覚悟しつつ、天皇制に反対し、戦争反対を唱えた。幸徳秋水は、大逆事件という冤罪裁判で死刑になった。大杉栄は、関東大震災の際に、何もしていないのに、憲兵によって捕らえられえられ、すぐに殺された。小林多喜二は、共産党員として、非合法活動中に逮捕され、東京帝国大学卒業の特高警察の安倍源基の命令によって、拷問・虐殺された。現在の似非右翼の台頭の中で、人間らしく生き抜くためには、ガンジーのような強い思い、幸徳秋水、大杉栄、小林多喜二のような死の覚悟を持って、似非右翼に抗する発言をし、行動するしかないのである。特に、現在、戦後最大の危機にある。安倍晋三元首相が、戦前回帰を願い、大日本帝国憲法、治安維持法の復活を目論んでいたからである。彼は、太平洋戦争を引き起こした東条内閣の閣僚だった祖父の岸信介を尊敬しているだから、当然の行動である。彼は、祖父と同じく、民主主義社会の破壊者である。国民は、まだ、そのことに気付かないのだろうか。秘密保護法、安保関連法、森友学園・加計学園、桜を見る会、検察庁改定問題など、安倍晋三元首相の悪行は、数知れない。国民は、安倍晋三が民主主義社会の破壊者であったことに気付かないのだろうか。マルクスは、「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として。二度目は喜劇として。」と言ったが、国民は、もう一度戦争、もう一度原発事故が起こらないと、似非右翼の深謀遠慮のなさ、無反省、幼児性に気付かないのだろうか。ニーチェは、「大衆は馬鹿だ。」と言っている。どうやら、ニーチェの言うとおりのようである。似非右翼に抗し、大衆になじまず、人間らしく生き抜くためには、ガンジーのような強い思い、幸徳秋水、大杉栄、小林多喜二のような死の覚悟を持って、現在の政治状況に抗する発言をし、行動するしかないように思われる。



人間は自我の欲望に従って生きるかしか無いのか。(自我から自己へ18)

2023-04-11 12:47:38 | 思想
人間は、自我の欲望に従って行動すれば、快感を得たり不快感感から解放されたりする。だから、自我の欲望に従って行動したいと思う。しかし、自我の欲望は善事から悪事まで多岐にわたっている。なぜならば、自我の欲望は、深層心理によって生み出され、深層心理には道徳観や社会規約を守るという視点が存在しないからである。だから、人間は、自らの意志によって、深層心理が生み出した悪事に関わる自我の欲望を抑圧しなければならないが、深層心理が生み出した感情が高まっている時には、抑圧できないのである。それが感情的な行動であり、惨劇、悲劇を引き起こすのである。「子供は正直だ」という言葉がある。子供に対して好意的な言葉である。しかし、子供が正直であるのは、大人に対してではなく、自我の欲望に対してなのである。子供は、人の心を思いやる心が無く、自我の欲望に正直だから、店内で駄々をこね、菓子やおもちゃを離そうとしないのである。些細なことが原因で喧嘩をし、学校で、嫌いな人を集団でいじめるのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。一般に、愛国心は、国を愛する気持ちと説明されているが、真実は、世界中の人々に、自分が所属している国の存在を認めてほしいという自我の欲望である。人間は、自分が所属している国の存在が認められると、自分が認められたような気になり、快感を得るのである。だから、愛国心に取りつかれた政治権力者や国民の一部は、相手国に自国の存在を認めさせようとして、戦争を引き起こすのである。愛国心という自我の欲望に取りつかれた者たちには、自国の兵士、国民、相手国の兵士、国民の命が目に入らないのである。相手国の国民にも自我があり、愛国心という自我の欲望があることに思いを馳せないのである。ひたすら、自らの愛国心という自我の欲望を達成することで快感を得ようとしているのである。自らの愛国心という自我の欲望を達成しないことは屈辱であり、相手国に喜びを与えることになると思っているのである。また、多くの人は、毎日、家庭という構造体から、学校や会社という構造体に通っている。その時、自我が傷付けられ(プライドが傷付けられ)、自我が下位に落とされたような気持ちになることがある。家庭で配偶者に日ごろの行動を非難されたり、学校で生徒が同級生に悪口を言われたり、会社で社員が叱責されたりすることがある。その時、深層心理は、その苦痛から解放されるために、自我を傷つけた相手に対して、自我の欲望として、怒りの感情と相手を侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を生み出し、人間を動かそうとすることがある。しかし、その人は、そのように行動したら、相手から反撃されたり、周囲の者から顰蹙を買ったり、処罰されることはわかっているから、意志で、自我の欲望を抑圧しようとする。しかし、感情が強過ぎると、そのように行動してしまうのである。そして、予想通り、相手に惨劇、自らに悲劇を招くことがあるのである。だから、アメリカなどの銃社会では、容易に、殺人事件が起こるのである。そして、殺人事件の中でも、最も悲劇的なものの一つがストーカーによるものである。加害者と被害者は、一時的にしろ、愛し合っていたからである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に恋愛感情を支配されることを許し合うことである。人間が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手と愛し合っていたから喪失感、相手に身を差し出していたから屈辱感を覚える。そこで、失恋した者の中には、深層心理が相手に付きまとうように自我の欲望を生み出して人間を動かそうとする者がいる。これが犯罪だと誰しもわかっている。しかし、喪失感、屈辱感が強過ぎる者は、付きまとい行為を抑圧できないのである。ストーカーの誕生である。しかし、付きまとえば付きまとうほど相手の心は離れていき、より辛くなる。すると、ストーカーの深層心理は、その辛さから逃れるために、自我の欲望として、相手を殺すことを指示する。ストーカーも、殺人が大犯罪であり、社会から糾弾されるのはわかっている。だから、いろいろな方法で、この自我の欲望の実行を回避する者もいる。しかし、辛い感情が強すぎると、実行してしまうのである。そして、社会からの糾弾を恐れて、自殺する者もいるのである。しかし、ほとんどの人は、毎日同じことを繰り返すというルーティーンの生活をしている。それは、無意識の行動だから可能なのである。無意識の行動と言っても、思考せずに行動しているわけでは無い。人間は、自らは意識していないが、思考しているのである。人間は、誰しも、自ら意識して思考しなくても、無意識のうちに、ひたすら快感を求め不快感から逃れようと思考して、活動しているのである。人間の無意識の精神活動を深層心理と言う。すなわち、人間は自らは気付いていないが、深層心理が、快感を求め不快感から逃れようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。ほとんどの人が毎日同じことを繰り返して生活しているのは、深層心理が、安定感という快感を求め不安定感という不快感を避けようと、昨日と同じように思考して、自我の欲望として、昨日と同じような感情と昨日と同じようなことをしろという行動の指令を生み出して、人間を動かしているからである。人間が、自らを意識して思考し、意志によって行動しようとするのは、いつもと違うことが起こった時、換言すれば、ルーティーンの生活を打ち破るような事が起こった時である。人間の自らを意識しての精神活動を表層心理と言う。すなわち、ルーティーンの生活を打ち破るような事が起こり、深層心理が、思考して、昨日と異なる感情と昨日と異なる行動の指令という自我の欲望を生み出した時、人間は、表層心理で思考して、自らの意志で行動しようとするのである。すなわち、いつもと違うことが起こらなければ、人間は、表層心理で思考して、自らの意志で思考することが無いのである。つまり、無意識のルーティーンの生活が続くのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている」と言う。無意識とは、無意識の思考であり、深層心理の思考を意味する。しかし、深層心理は恣意的に思考しているのではない。「言語によって構造化されている」と言うように、言語を使って論理的に思考しているのである。深層心理が、論理的に思考して、人間を動かしているのである。すなわち、人間は自らは意識ていないが、すなわち、無意識のうちに、深層心理が、ある心境の下で、自我を主体に立てて、他者に関わりながら、欲動に基づいて、快感を求め不快感を避けようと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。深層心理が自我を主体に立てて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。深層心理は、自らが生み出した感情を動力にして、自らが生み出したと行動の指令通りに、人間を動かそうとするのである。人間は自らが主体となって思考して意志によって行動していないのである。そこに、人間の存在の根本的な問題があるのである。それでは、自我を主体に立てるや自我の欲望と言うが、自我とは何か。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属して、ある自我を持って、行動しているのである。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、国民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では夫と妻という自我がある。だから、ある人は、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では母という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って行動しているのである。また、ある人は、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では夫という自我を持ち、会社という構造体では人事課長という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って行動しているのである。だから、息子や娘が母、父だと思っている人は、確かに、家族という構造体では母、父という自我を所有しているが、他の構造体では、国民、妻、夫、教諭、人事課長、客、乗客、妻などの自我を所有して行動しているのである。しかし、息子や娘は母、父という一つの自我しか知ることができないのである。人間は、自らが所属している構造体におけるその人の自我しか知らないのである。その人の一つの自我しか知ることができないのに、往々にして、それを全体像のように思い込んでしまうのである。しかし、人間は、「あなたは何。」と尋ねられると、その時に応じて、所属している構造体と自我を答えるしかないのである。人間は、ある時は、ある一つの構造体に所属して、ある一つの自我として活動していて、別の時には、他の構造体に所属して、他の自我として活動しているから、自分というあり方は固定していないのである。しかし、ほとんどの人は、自らは自分として固定して存在しているように思っているのである。しかし、自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、構造体内の人々である。他人とは、構造体外の人々である。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。さて、深層心理は、ある心境の下で、自我を主体に立てて、他者に関わりながら、欲動に基づいて、快感を求め不快感を避けようと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているが、それでは、心境とは何か。心境は感情と同じく深層心理の情態である。情態とは人間の心の状態を意味している。しかし、心境は深層心理を覆っている情態であり、感情は深層心理が生み出した情態である。心境とは、爽快、憂鬱など、深層心理に比較的長期に滞在する。感情は、喜怒哀楽や感動など、深層心理が行動の指令ととに突発的に生み出し、人間を行動の指令通りに動かす力になる。深層心理は、常に、ある心境の下にあり、時として、心境を打ち破って、行動の指令とともに感情を生み出すのである。つまり、心境が人間にルーティーンの生活を送らせ、感情がルーティーンの生活を打ち破る行動を人間に起こさせるのである。深層心理が、常に、心境や感情という情態を伴っているから、人間は表層心理で自ら意識する時は、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあった時、他者の視線を感じた時などに、自分の心を覆っている心境や心の中に生まれた感情に気付くと同時に、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、表層心理で、すなわち、自らを意識して自らの意志によって、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時には、心境は、後ろに退く。感情は、深層心理が自我の欲望を生みだす時に、行動の指令とともに生み出されるが、その時、心境は、後ろに退き、無力化するのである。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。なぜならば、心境も感情も、深層心理の範疇だからである。人間は、表層心理で、自ら意識して、嫌な心境や嫌な感情を変えることができないから、何かをすることに変えようとするのである。それが気分転換である。人間は、表層心理で、直接に、心境や感情に働き掛けることができないから、何かをすることによって、気分転換をし、心境や感情を変えようとするのである。つまり、人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境や感情を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境や感情を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境をや感情を変えようとするのである。また、人間は、心境や感情という情態によって、現在の自我の状態の良し悪しを判断する。つまり、情態の良し悪しが人間の現在の自我の状態の良し悪しを決定するのである。すなわち、爽快などの快い心境の情態の時には、自我が良い状態にあるということを意味し、深層心理は現在の状態を維持しようと思考するのである。深層心理は、ルーティーンの生活を維持しようと思考するのである。逆に、陰鬱などの不快な心境の情態の時には、悪い状態にあるということを意味するのである。そこで、深層心理は現在の状態を改善しようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動そうとするのである。しかし、よほど強い感情を生み出さない限り、超自我や表層心理での思考によって行動の指令は抑圧されるのである。そして、ルーティーンの生活が続くのである。さて、感情も、心境と同じく情態だが、そのあり方は異なっている。感情を具体的に表す四字熟語として喜怒哀楽があるが、喜楽などの快い感情の情態の時には、自我が良い状態にあるということを意味し、怒哀などの不快な感情の情態の時には、自我が悪い状態にあるということを意味する。深層心理が喜びの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、拍手喝采などの喜びの表現をし、他者に自らの存在を知らしめるのである。深層心理が怒りの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、他者を非難したり暴力を加えたりして、他者に自らの存在を知らしめるのである。深層心理が哀しみの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、泣くなどの哀しみの表現をし、他者に慰めてもらうのである。深層心理が楽しみの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、満足気などの楽し気な表情をし、他者の存在が気にならないのである。しかし、感情は、深層心理によって、自我の欲望として、行動の指令とともに生み出され、人間に行動の指令通りに行動させる動力になっているから、人間が行動の指令通りに行動すれば、その感情は消えていくのである。そして、自我の状況によって、深層心理は思考して、新しく、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。さて、人間は、心境や感情という情態によって、自分が良い状態にあるか悪い状態にあるかを自覚するから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しいという心境や感情が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、深層心理が思考するのは、自我になっている人間を動かし、苦しみの心境や感情から苦しみを取り除くことが最大の目標であるからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態が大切なのである。さて、深層心理は、ある心境の下で、自我を主体に立てて、他者に関わりながら、欲動に基づいて、快感を求め不快感を避けようと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているが、それでは、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。深層心理は、自我の状況を、欲動に応じたものにすれば、快感が得られるのである。そこで、深層心理は、欲動に従って思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。すなわち、欲動が深層心理を動かしているのである。

欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。深層心理は、自我を保身化することによって、この欲望を満たそうとする。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。退学者・失業者が苦悩するのは、学校・会社という構造体から追放され、生徒・会社員という自我を失ったからである。裁判官が総理大臣に迎合した判決を下し、高級官僚が公文書改竄までして総理大臣に迎合するのは、何よりも自我が大切だからである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は、自殺した生徒よりも自分たちの自我を大切にするから、事件を隠蔽するのである。いじめた子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないから、いじめの事実を隠し続け、自殺にまで追い詰められたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、構造体を維持しようとするのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望である。国民は、愛国心という自我の欲望を満たすことによって快感を得ているのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である保身欲にかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で自らを意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。だから、ニーチェの「永劫回帰」という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、ルーティーンの生活が破られることがある。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしている。深層心理は、同級生・教師や同僚・上司という他者から、生徒や会社員という自我に好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、馬鹿にされたり注意されたりして、悪評価・低評価を受け、プライドがズタズタにされると、深層心理は、傷心という感情と不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出すことがある。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、深層心理に内在する自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という機能である。しかし、深層心理が生み出した傷心の感情が強過ぎると、超自我は、深層心理が生み出した不登校・不出勤という行動の指令を抑圧できないのである。その場合、人間は、表層心理で、自らの状態を意識して、傷心という感情の下で、不登校・不出勤という行動を取ったならば、後に、自我がどうなるかという、周囲の他者の評価を気にして、不登校・不出勤という行動の指令について、許諾るか拒否するか、思考するのである。つまり、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、自らを意識して(自らの状態を意識して)、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、将来の現実的な利得を考慮して、許諾するか拒否するか、思考するのである。人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮して思考するのも、他者の評価が気になるからである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、超自我の抑圧も、表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。この場合、傷心の感情が強すぎると、不登校・不出勤に陥ってしまうのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、深層心理の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。この場合、登校しても勉強に身が入らず、出勤しても業務に身が入らないのである。さらに、深層心理が思考して生み出した感情や行動の指令という自我の欲望が、超自我で抑圧できなかった場合だけでなく、人間は、表層心理で、現実的自我の利得を求めて、思考する時がある。それは、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時である。その時、人間は、表層心理で、自らの存在を意識して(自らの現在の状態を意識して)、現実的自我の利得を求める志向性から、これからの自我の行動を思考するのである。つまり、人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識し、それと同時に、思考が始まるのである。それが、表層心理理での思考である。それでは、なぜ、他者の存在を感じた時、人間は、自らの存在を意識して思考するのか。それは、人間にとって、他者の存在は常に脅威であり、自我の存在を危くさせるものだからである。さらに、人間は、無我夢中で行動していても、突然、自らの存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識することがあるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じた時、表層心理で、自らの存在を意識して、現実的な利得を求めて、思考するのである。そして、人間は、自らを意識する時は、自らの状態を意識する(自らの行動や思考を意識する)だけでなく、自らの情態も意識するのである。情態とは、心境や感情などの心の状態である。情態が、自我の外の状況を知らしめ、自我の内の状態を知らしめるとともに、自らの存在を認識させるのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいとい承認欲である。深層心理は、自我を対他化することによって、この欲望を満たそうとする。自我の対他化は、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快感を得ようとすることである。自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。受験生が有名大学を目指すのも、少女がアイドルを目指すのも、自我を他者に認めてほしいという承認欲を満足させるためである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという支配欲である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、この欲望を満たそうとする。対象の対自化は、深層心理が、自我の志向性(観点・視点)で。他者・物・現象を捉えることである。対象の対自化とは、「深層心理が、他者という対象を支配しようとする。深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。」ということである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快感が得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生まれる。有の無化とは、深層心理が、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。無の有化とは、深層心理が、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、この世に存在しているように創造することである。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。深層心理は、有の無化、無の有化によって、自我を正当化して、安定感を得ようとするのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は、自我と他者を共感化させることによって、この欲望を満たそうとする。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快感を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえば、喜び・満足感が得られるのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、仲の悪い者同士も、一時的に仲良くし、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは、他クラスを倒して皆で喜びを得るということに価値があるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終われば、再び、互いに相手を対自化して自我を主張し、仲が悪くなるのである。
さて、人間には、深層心理、表層心理以外に、深層肉体、表層肉体が存在する。表層肉体とは、表層心理による肉体の活動である。すなわち、表層肉体とは、人間の意識しての肉体の活動、人間の意志による肉体の活動である。表層肉体は、深呼吸する、挙手をする、速く走る、体操するなど、人間の表層心理による意識しての意志による肉体の活動である。スポーツという日常生活には存在しないことができるのは、自ら意識して、自らの意志によって表層肉体の同じ活動を繰り返したからである。表層肉体の同じ活動の繰り返しが深層肉体としてに定着し、無意識のうちに体が動き、スポーツができるようになるのである。表層肉体の行為と言えども、表層心理の意識や意志が関わるのは、動作の初発のほんの一部にしか過ぎないのである。例えば、歩くという表層肉体の動作がある。確かに、歩くという動作は、歩こうという意志の下で歩くという意識の下で表層心理によって始められる。しかし、両足を交互に出すという動きは、誰しも意識して行っていない。もしも、右、左と意識して足を差し出していたならば、意識することに疲れて、長く歩けないだろう。だから、最も簡単に意識して行っていると考えられる動作の一つである歩くという表層肉体の動作すら、意識して行うのはほんの一部であり、そのほとんどは、無意識に、つまり、深層肉体によって行われているのである。歩きながら考えるということが可能なのも、歩くことに意識が行っていないからである。ほとんどの肉体行動は、人間は、表層心理で、自ら意識して、自分の意志によって、行っているのではなく、すなわち、表層肉体の行為ではなく、深層肉体の行為なのである。つまり、人間の肉体は、深層肉体によって、動かされ、生かされているのである。深層肉体のあり方は単純である。深層肉体は、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという意志を持って、人間を生かしている。深層肉体は、精神や肉体がどんな状態に陥ろうと、ひたすら人間を生かせようとする。深層肉体は、人間の意志によらず、深層心理独自の意志によって、肉体を動かし、人間を生かしている。人間は、深層肉体の意志という肉体そのものに存在する意志によって生かされているのである。人間は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の意志によって生かされているのである。深層肉体の典型は内蔵である。人間は、誰一人として、自分の意志で、肺や心臓や胃などの内蔵の動きを止めることはできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。人間の無意識のうちに、深層肉体が呼吸をしているのである。テレビの学園ドラマで、授業中、教師に、「おまえは何をしているのだ。」と注意された生徒が、とぼけて、「息をしています。」と答えるシーンがあったが、その生徒は間違っている。誰も、意識して息をしていない。人間が意識して息をしているのならば、寝入ると同時に、息が止まるはずである。確かに、深呼吸という意志による意識的な行為も存在するが、それは、意識して深く息を吸うということだけでしかなく、常時の呼吸は無意識の行為、すなわち、深層肉体の行為である。呼吸は、誕生とともに、人間の深層肉体に備わっているあるから、人間は、生きていけるのである。心臓も、人間の意志で動いているのではない。だから、止めようと思っても、止めることはできない。心筋梗塞のような異常な事態に陥ったり、自らや他者が人為的にナイフを突き立てたりなどしない限り、止まらないのである。確かに、人工心臓は存在するが、それは、新しい心臓を作り出したのではなく、現に存在している心臓を模倣したものである。だから、人工心臓は、生来の心臓の一部の働きしかできないのである。さらに、胃も、人間の意志によって動いているのではない。心臓や肺と同じく、誕生と同時に、深層肉体の意志として、既に動いているのである。深層肉体は、人間が自殺に突き進んでも、人間を生かせようとする意志を捨てることは無い。だから、どのような自殺行為にも、苦痛が伴うのである。つまり、人間の肉体は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の働きによって生かされているのである。