あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人の目が気になる人間(自我その53)

2019-03-08 20:33:46 | 思想
人は、皆、人の目を気にして生きている。より正確に言えば、人の目が気になるのである。意識して(表層心理の働きで)気にするのではなく、無意識のうちに(深層心理の働きで)気になるのである。だから、AがBに「Cの言ったことは気にするな。」と言っても、今度はBはAの裏の思いまで忖度するようになり、Cの言ったことが一層気になって来ることがあるのである。しかし、実際に、Aがそのように言ったことで、Bの心が軽くなることもあるのである。それは、Aの言葉がBの深層心理を刺激して、心を軽くしたのである。つまり、Aの言葉がBの心を軽くするか一層重くするかは、Bの深層心理しだいなのである。Bの性格しだいなのである。だから、善意であろうとも、安易に気休めの言葉を掛けてはならないのである。Bの性格を的確に掴んで、どのような言葉を掛けるか考え、若しくは、声を掛けないでおくべきかを決めるべきなのである。誰しも、深層心理に傾向があり、それが、その人の性格を表すのである。だから、自分の性格を変えようと思っても、それは意志の働きであり、意志は表層心理の範疇にあり、性格は深層心理の範疇にあるから、できないのである。さて、誰しも、人の目を気にして生きているが、人の目を気にし過ぎているように思われる人を、神経質な人、繊細な人、気の小さい人だとマイナス的に言い、人の目を全然気にしていないと思われる人を、自分勝手な人、無礼な人、傲慢な人だと非難し、過大に人の目を気にすることも過小に人の目を気にすることも批判される。つまり、過大・過小の傾きのない、中庸の、適度な人の目の気に仕方が、巷では、推奨されているのである。その方が、互いの心を傷つけず、人間関係がスムーズに動くからである。しかし、現実には、過大、中庸、過小のいずれに属するかは決められないのである。なぜならば、客観的に人の目の気に仕方を測ることはできず、標準の人の目の気に仕方をしている人は存在しないからである。だから、心理学者のラカンも「標準的な性格というものは存在しない。人は、皆、性格に傾き、特徴を持っている。」と言っているのである。それでも、自分自身のことを人の目を気にし過ぎている勇気の無い人間だと思っている人の中には、全く人の目を気にしないで行動しているように見える人に憧れ、自分の性格を嘆き、そのような性格になろうと努力する人がいる。しかし、それは不可能なのである。なぜならば、性格は、深層心理の範疇にあり、意志という表層心理の範疇に属していないからである。もしも、本当に、自分の生き方や性格を直したいのならば、ハイデッガーの言うように
「自分を常に臨死の状態におい(死の状態におく、死がすぐ身近にあると覚悟し)て、最初から、自分を見つめ直す」ことが必要である。しかし、それには、相当な覚悟とそれを維持する相当な時間が要求され、一般大衆には不可能である。そもそも、この世には、全く人の目が気にせずに生きている人は存在しないのである。もしも、全く人の目が気にならなくなったならば、人は、暑い時には、裸になって外出するだろう。自分の気に入らないことがあれば、相手にとことん悪口雑言を浴びせるだろう。自分の主張を認めてくれるまで、殺人を犯してでも、それを通そうとするだろう。確かに、時には、人の目が全く気にしないような人を見かけることはある。バスの中で大声で話したり、電車の席に無理に割り込んだり、大勢の人がいる前である特定の人のプライバシーを暴いたり、アパートで早朝から大音量で音楽を流したり、自分の敷地だと言って通行人に危害を加えたりする人などである。彼らは、人の目が気にならなくなったのではない。自分にはこのようなことをする権利があり、これらの行為はしても許されると思って行うのである。だから、彼らも他の行為は人の目が気になるから、常識的に振る舞うのである。このように、人は、人の目を気にするから、世の秩序が守られているのである。犯罪は、常に、犯人が自分の正体を隠して行うのは、人の目が気になるからである。犯人は、最初は被害者を殺す意図がなくても、自分の顔が被害者に見られてしまうと、殺してしまうのは、被害者に証言され、後の世間という人の目が気になってのことである。親が幼児を虐待するのも、自分にこれをすることは許されていると思っているか、幼児が人と見なされていない、つまり、人以下に見なされているかのどちらかが理由である。時には、両方の思いを持って虐待する親も存在する。ナチスが第二次世界大戦でユダヤ人を虐殺したのも、日本兵が太平洋戦争でアジア人や欧米人を虐殺したのも、アメリカ兵がベトナム戦争でベトナム人を虐殺したのも、止める人もいず、自分にはそうすることが認められていると思い、且つ、被害者を人以下に見なしていたから行ったのである。人間は欲望の動物である。常に、自分の意志に関係なく、深層心理から欲望が湧き上がってくる。常軌を逸した欲望も次々に湧き上がってくる。人間は、人の目が気になるから、常軌を逸した欲望を実行に移さないのである。戦争とは、人の目が存在しない状態なのである。味方兵は人の目にならない。残虐な行為を止めることは無い。敵兵や敵住民も、人以下に見なされているから、人の目にならないのである。敵兵や敵住民を、人以下に見なすから、殺すことができるのである。兵士は、敵兵や敵住民を人間だと思うと、彼らの目が気になって殺すことができなくなるので、敢えて、敵兵や敵住民に対して、怒りや憎悪を燃やすようにして、人以下に見なし、殺すことができるように自らを仕向けるのである。しかし。人の目が気にならなくとも、神の目が気になれば、残虐の行為や人を殺すことはできないはずである。しかし、世界の全ての人には、神の目は存在しないのである。自分に都合の良い神しか存在しないのである。それを表して、ニーチェは、「神は死んだ」と言ったのである。安倍晋三首相が、森友学園・加計学園で不正を行ったのも、沖縄を犠牲にしてアメリカに媚びを売っているのも、中国・韓国・北朝鮮に喧嘩を売っているのも、支持率が高いので、このような常軌を逸した欲望を実行することを大衆から許されていると思っているからである。彼は、支持率が高いから、大衆の目を気にせず、自らの欲望のままに行動できるのである。安倍晋三に限らず、国会議員から町会議員まで、隙あらば、常軌を逸した欲望を実行しようと、虎視眈々と狙っているのである。権力を持った俗人とはそういうものである。だから、大衆は、国会議員から町会議員まで監視し、彼らが大衆の目を常に気にするようにしなければならないのである。しかし、日本だけで無く、世界の大衆は権力者に媚びを売り、「お友だち」になろうとしているから、一向に政治は良くならないのである。ニーチェが「大衆は馬鹿だ」と言ったのも、もっともである。プラトンは、高邁な思想と精神を持ち、常軌を逸した欲望には目もくれず、真と美と善に合った政治を行う権力者の政治を「哲人政治」と呼んだが、世界には「哲人」は存在せず、「哲人政治」が行われている国は存在しない。さて、これまで、自らを監視する役割としての人の目について述べてきたが、人間は、自ら、積極的に、人の目を呼び込もうとすることがある。それは、愛の告白である。人は、ある人を愛すると、必ず、相手にも自分を愛してほしいのである。「片思いでいい」と言っている人は、それほど愛していないか、愛を告白して断られるのが恐いからである。愛を告白するのは、相手からも愛の視線を受けたいからである。愛を告白して、相手がそれを受け取ってくれれば、それ以後、相手の目は人の目では無くなり、愛の目になる。恋愛成就とは、互いに、人の目を捨て、愛の視線を送り合うことである。そこに、人間は至上の幸福感を得ることができるのである。人が恋愛に憧れるのは、至上の幸福感が得られるからである。このように、人間は人の目が気になるからこそ、人間になることができ、人間として、暮らしていけるのである。