あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

深層心理の精神疾患への逃避について。(人間の心理構造その9)

2023-01-26 14:33:49 | 思想
人間は、いつの間にか、精神疾患に陥っている。だから、人間は、誰しも、自ら意識して、精神疾患に陥ることはない。もちろん、人間は、誰しも、精神疾患になることを望まない。精神疾患に陥ると苦しいからであり日常生活をルーティーンとして送れないからである。だから、人間は、誰しも、自らの意志で、精神疾患に陥ってはいない。すなわち、人間は、表層心理で、自らを意識しながら思考して、精神疾患に陥っていない。表層心理とは、人間の自らの意識しての精神活動である。深層心理が、人間の無意識のうちに思考して、人間を精神疾患に陥らせるのである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。人間の精神活動には、表層心理と深層心理が存在するのである。深層心理という無意識の精神活動が、人間に精神疾患をもたらすのである。それでは、なぜ、深層心理動が、人間を精神疾患に陥らせるのか。それは、自我が深く傷つけられ、深層心理が自我を立て直すことができず、この状況から逃げるしかないと考えたからである。人間は無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我となった人間を動かしているが、その自我が深く傷つけられ、自我の欲望を生み出せなくなったので、この状況から逃げることを決断したのである。それでは、自我、欲動と何か。自我とは、人間が、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、構造体の中で自我を得て、初めて、人間として活動できるのである。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、夫婦という構造体には夫・妻という自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があり、男女関係という構造体には男性・女性という自我がある。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。深層心理は、欲動にかなった行動をすれば快楽が得られるので、欲動に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。欲動の四つの欲望の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。深層心理は、自我を保身化することによって、この欲望を満たして快楽を得ようとする。欲動の第二の欲望が、自我を他者に認めてほしいという承認欲である。深層心理は、自我を対他化することによって、この欲望を満たして快楽を得ようとする。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという支配欲である。深層心理は、対象を対自化することによって、この欲望を満たして快楽を得ようとする。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は、自我と他者を共感化することによって、この欲望を満たして快楽を得ようとする。つまり、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動の保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望に基づいて、快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我となった人間を動かしているが、その自我が深く傷つけられ、自我の欲望を生み出せなくなったので、この状況から逃げるために、自我を精神疾患に陥らせたのである。すなわち、人間が精神疾患に陥るほど自我が深く傷つくとは、深層心理が、自我の欲望を生み出せないほど、欲動の保身欲、承認欲、支配欲、共感欲と四つの欲望のいずれかの実現が絶望的な状況に追い込まれていることを意味するのである。自我は、すなわち、人間は、この四つの欲望がいずれも満たされて平穏に存続できるのである。言い換えれば、この四つの欲望がいずれもが満たされなければ、自我が傷つく、すなわち、人間の心が傷つくのである。しかし、一般に、精神疾患は、マイナス面しか知られていない。それに罹患すると、苦悩がつきまとったり日常生活をルーティンとして送れなかったりするからである。だから、そこに陥りたくない。陥った場合には、できるだけ早く抜け出したい気持ちになるのは当然のことである。しかし、精神疾患とは、最も差し迫った問題を解決する苦悩から逃れるために、深層心理が選択した窮極の手段だから容易に抜け出せないのである。このような深層心理の動きを、フロイトは、防衛機制と呼んだ。精神疾患に陥ることは、深層心理の意味ある動きなのである。しかし、深層心理は現在の苦悩から逃れさせるために精神疾患に陥らせるが、精神疾患に陥った人間がその後それを引きずって別の苦悩に陥るかまでは考えていないのである。精神疾患は苦悩から逃れることには一定の効果を有するが、その後は、精神疾患それ自体がその人を苦しめることになるのである。しかし、人間はは、自分の意志によって、直接的に、精神疾患に働きかけることができないのである。精神疾患は、人間の心の奥底に存在する、意識されることもなく、意志によらない精神活動である深層心理によって引き起こされるからである。さて、精神疾患には、神経症と呼ばれるものと精神病と呼ばれるものが存在する。一般に、神経症は、心理的な要因と関連して起こる心身の機能障害と説明され、神経病は、重症の精神症状や行動障害を呈する精神障害の総称と説明されている。精神病の方が神経症より重篤の症状を示すという違いはあるが、深層心理が自我を苦悩から逃れさせるために引き起こしたという点では一致している。しかし、どちらも、症状という結果しか語られず、深層心理の仕業だということが語られていない。確かに、神経症であろうと精神病であろうと、精神疾患に陥ると、恐怖感、不安感に苛まれたり、苛立ちを覚えたり、絶望感に囚われたり、幻聴が聞こえたり、幻覚を見たり、自信が失われたり、生きがいが感じられなくなったり、楽しみも喜びが感じられなくなったり、憂鬱や悲しみしか感じられなくなったりする。しかし、深層心理が苦悩から自我を解放するために精神疾患に陥らせことを理解しない限り、精神膝下について語ることはできないのである。しかし、深層心理とは、我々の意志が及ばない、人間に意識されない、人間の奥底にある心理であるから、表層心理で、自らを意識して行動していると思っている人間には、深層心理の存在も動きも働きを気付くことは無いのである。そのような人間が感じ取ることができるのは精神疾患の苦痛だけであるから、長い期間深く悩んだために、それが高じて精神疾患になったと思い込んでしまうのである。確かに、長くて深い苦悩という原因、精神疾患という結果は正しいが、自我を現在の苦境から解放するという深層心理の働きが理解されていないのである。だから、現在の状況に対する苦悩から精神疾患がもたらす苦悩へという点だけしか見られていないのである。ほとんどの人間は、深層心理の存在を知らず、表層心理のみを自分の心理や感情だと思い込んでいる。そのような考え方からは、当然、深層心理の動き・働きは考えられないから、精神疾患の現象の真実を捉えることはできないのである。人間は、誰しも、自らの意志によって、精神疾患に陥ったのではない。もしも、自らの意志によって陥ったのならば、自らの意志によって精神疾患から脱却できるはずである。しかし、それは不可能である。精神疾患は、表層心理の範疇に属していないからである。深層心理が、自らの精神を精神疾患に陥らせることによって、当面している問題の解決の苦悩から自らの精神を解放し、当面の問題から逃れようとするのである。深層心理は、自らの心理を精神疾患に陥らせることによって、自我を、現実を正視させないようにして、自我を現実から遠ざけて、その苦悩を忘れさせ、解放させようとするのである。しかし、精神疾患も、また、苦悩の状態なのである。つまり、深層心理がもたらした精神疾患は、当面している問題の苦悩とは異なった、新しい、別の苦悩を持ち込んで来るのである。深層心理は、常に、当面の問題の解決をはかれば良いと考えているから、そのような状態をもたらすのである。しかし、ほとんどの人間は、深層心理の動きに気づいていないから、表層的に、単純に、当面している問題の苦悩のために精神疾患になってしまったと思い込んでいるのである。しかし、真実は、深層心理が、言わば、毒を以て毒を制そう、すなわち、Aという毒を使ってBという毒を制圧しようとしたのである。言うまでもなく、この場合、Aという毒に当たるものが当面している問題を解決できないという苦悩であり、Bという毒に当たるものが精神疾患である。さて、精神疾患には、どのようなものが存在するか。現在、頻繁に発症するのが適応障害である。適応障害とは、職場や学校、そして家庭などの生活環境に不適応を生じ、不安や抑うつなどの症状を招くことを言う。半年から一年で寛解することが多いと言う。実例を取り上げると、四十代の男性会社員は、課長に昇進したものの、業務量が倍増し、夕方になると、疲労、倦怠、憂鬱感を覚えるようになった。業務にも些細なミスを生じるようになったので、部長に相談して、一旦降格させてもらったところ、暫くすると、症状は収まった。彼は、適応障害に罹患していたのである。彼は、課長という自我になり、深層心理は、一般会社員とは異なった業務をこなさなければいけないという価値観を持った。そして、大きなプレッシャーを感じたのである。彼の深層心理も、そのプレッシャーから逃れようとして、彼の自我に、意欲的に、色々なことを考え、やらせてみた。そして、失敗した。深層心理は、苦悩に陥った。小さな苦悩の間は、人間は、その苦悩を我慢して、そこから逃れるために、表層心理で、自らの状況を意識して、自我として、色々なことを考え、色々なことを行おうとする。それは自己正当化への道である。なぜならば、苦悩とは、自我が失敗した後、深層心理が、自己正当化の道筋が見えなかったりした時に、深層心理に、訪れるものだからである。その苦悩を、人間は、表層心理で引き受けて、自我の行動を思考し、その行動によって、自己正当化が成功したり、自己正当化の道筋が見えてきたりした時には、深層心理から苦悩が消えていくのである。ウィトゲンシュタインも、「問題の解法が見つからなくても、その問題がどうでもよくなった時、苦悩は消える。」と言う。課長に昇進した四十代の会社員も、深層心理に生まれた苦悩を、表層心理で、「誰でも失敗はあるのだ。」などと自己暗示をかけたり、酒を飲んだり、カラオケに行ったりなどして、苦悩を深層心理から除去しようとしたのである。しかし、表層心理の思考で生み出した行動では、課長という自我での職務の失敗から来る苦悩かを、深層心理から消滅させることができなかったのである。そこで、彼の深層心理は、自らの精神を適応障害に陥らせることによって、課長の職務のプレッシャーを忘れさせようとしたのである。確かに、彼の深層心理は、適応障害を招来し、彼に、疲労、倦怠、憂鬱感を覚えさせることによって、課長の職務から離れさせよう、忘れさせようとすることには効果はあった。しかし、それが、仕事への集中力を欠かせ、些細なミスを生じさせるようにしたのである。また、彼は、会社以外でも、疲労、倦怠、憂鬱感の苦痛を覚えていた。適応障害に限らず、精神疾患は、発症した構造体(この場合は、会社)だけでなく、他の構造体(この場合は、会社以外の場所、家庭、通勤電車、店など)にも、それが維持される。その後、彼は、部長に相談して、課長から一般社員に一旦降格させてもらったところ、暫くすると、適応障害の症状が消えていったのである。部長という他者の力によって、課長という自我を捨てたことが彼を救ったのである。課長という自我が適応障害をもたらしたから、課長という自我を捨てたので、適応障害の症状が消えたのである。それは、自己否定の状態から解放され、自己正当化ができるようになったからである。適応障害に限らず、精神疾患の寛解の道筋とは、自己正当化への道筋なのである。さらに、適応障害以外に、解離性障害、離人症、うつ病、統合失調症などの精神疾患がある。まず、解離性障害だが、解離性障害は、一般に、自己の同一性、記憶・感覚などの正常な統合が失われる心因性の障害、心的外傷(トラウマ)に対する一種の防衛機制と説明されている。深層心理が、自らの精神を解離性障害に陥らせ、自己の同一性、記憶・感覚などの正常な統合を失った状態にさせ、心的外傷(トラウマ)という当面している問題の苦悩から解放させようとしているのである。次に、離人症だが、離人症は、一般に、自己・他人・外部世界の具体的な存在感・生命感が失われ、対象は完全に知覚しながらも、それらと自己との有機的なつながりを実感しえない精神状態であり、人格感喪失や有情感喪失を伴うことが多いと説明されている。これも、また、深層心理が自らの精神を離人症に陥らせ、自らの精神から、自己・他人・外部世界の具体的な存在感・生命感が失わせ、それらと自己との有機的なつながりを実感しえない状態にして、当面している問題の苦悩から解放させようとしているのである。次に、うつ病だが、うつ病は、一般に、鬱状態を主とする精神状態であり、気分が沈んで何ごとにも意欲を失い、思考力・判断力が抑圧される抑鬱症に陥ることが多い。これも、また、深層心理が自らの精神をうつ病に陥らせ、自らの精神を、気分を沈ませ、何ごとにも意欲を失わせ、思考力・判断力が抑圧された状態にして、当面している問題の苦悩から解放させようとしているのである。次に、統合失調症だが、統合失調症は、一般に、妄想や幻覚などの症状を呈し、人格の自律性が障害され周囲との自然な交流ができなくなる内因性精神病と説明されている。これも、また、深層心理が自らの精神を統合失調症に陥らせ、自らの精神を、妄想や幻覚などを浮かばせ、人格の自律性を失わせ、周囲との自然な交流ができなくなる状態にして、当面している問題の苦悩から解放させようとしているのである。このように、人間は、深層心理が、常に、人間の無意識のうちに、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているが、時には、他者が自我の承認欲を傷つけることがある。そうした状態に陥った時、深層心理が、その傷心から立ち上がろうとして、プライドを傷つけた他者に対して、怒りの感情と侮辱しろ、殴れ、殺せなどの過激な行動の指令を自我の欲望として生み出し、自我である人間を動そうとする。しかし、人間は、表層心理で、過激な行動の指令通りに行動すると、後に、自我が悲劇、他者に惨劇をもたらすことを考慮して、過激な行動の指令を抑圧する。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないからである。しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続き、深層心理は、その苦悩から逃れるために、自らに、精神疾患を招き、苦悩の現実をから逃避するのである。しかし、精神疾患は、苦悩から逃れることには効果を有するが、その後は、精神疾患それ自体が、その人を苦しめることになるのである。つまり、人間は、深層心理が、自我を快楽の追求に駆り立てるから精神疾患に陥らせ、全てを統括しているのである。人間は、自らを意識して、表層心理で、思考できることは僅かなのである。それでも、その僅かなことにで何ができるか思考するしか無いのである。


誰も自らの意志で生きていない。(人間の心理構造その8)

2023-01-22 16:24:56 | 思想
誰も自らの意志で生きていない。誰も自らの意志で動いていない。恋愛も自分の意志ではない。ストーカー行為も自らの意志ではない。オリンピックやワールドカップで自国チーム、自国選手を応援するのも自分の意志ではない。殺人も自らの意志ではない。戦争も自らの意志ではない。自殺すらも自らの意志ではない。人間は無意識によって生かされ、動かされているのである。無意識の肉体の活動が人間を生かし、無意識の精神の活動が人間を動かしているのである。無意識の肉体の活動を深層肉体と言い、無意識の精神の活動を深層心理と言う。すなわち、深層肉体の意志が人間を生かし、深層心理の意志が人間を動かしているのである。まず、深層肉体であるが、深層肉体は、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという意志を持って、人間を生かしている。深層肉体は、精神や肉体がどんな状態に陥ろうと、ひたすら人間を生かせようとする。深層肉体は、深層心理独自の意志によって、肉体を動かし、人間を生かしている。人間は、深層肉体の意志という肉体そのものに存在する意志によって生かされている。人間は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の意志によって生かされているのである。そのの典型は内蔵である。人間は、誰一人として、自分の意志で、肺や心臓や胃などの内蔵の動きを止めることはできない。それは、深層肉体の意志によって動かされているからである。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。人間の無意識のうちに、深層肉体が呼吸をしているのである。かつて、テレビの学園ドラマで、授業中、教師に、「おまえは何をしているのだ。」と注意された生徒が、とぼけて、「息をしています。」と答えるシーンがあったが、その生徒は間違っている。誰も、意識して、自分の意志によって息をしていない。人間が意識して息をしているのならば、寝入ると同時に、息が止まるはずである。確かに、深呼吸という自らの意志による意識的な行為も存在するが、それは、意識して深く息を吸うということだけでしかなく、息を吸うという行為自体は自らの意志によって行われていない。常時の呼吸は無意識の行為、すなわち、深層肉体の意志による行為である。呼吸は、誕生とともに、深層肉体に備わっているあるから、人間は、無意識に呼吸して生きていけるのである。心臓もまた、人間の意志で動いているのではない。だから、止めようと思っても、止めることはできない。心筋梗塞のような異常な事態に陥ったり、自らや他者が人為的にナイフを突き立てたりなどしない限り、止まらないのである。確かに、人工心臓は存在するが、それは、新しい心臓を作り出したのではなく、現に存在している心臓を模倣したものである。だから、人工心臓は、生来の心臓の一部の働きしかできないのである。さらに、胃も、人間の意志によって動いているのではない。心臓や肺と同じく、誕生と同時に、深層肉体の意志として、既に動いているのである。深層肉体は、人間が自殺に突き進んでも、人間を生かせようとする意志を捨てることは無い。だから、自殺は深層心理の意志によるものであり、どのような自殺行為にも苦痛が伴うのである。肉体の苦悩は、常に、深層肉体の意志に背いていることが起こっているからである。つまり、人間の肉体は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の意志によって生かされているのである。次に、深層心理であるが、深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。しかし、無意識と言っても、それは、消極的な存在ではない。深層心理は思考するのである。人間は、自らは意識していないが、思考しているのである。それが深層心理である。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。「言語によって構造化されている」と言うように、深層心理が言語を使って論理的に思考しているのである。ラカンが言うように、人間は無意識のうちに、深層心理が言語を使って論理的に思考しているのである。人間は無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を得ようと論理的に思考して、感情と行動の指令と言う自我の欲望を生み出し、自我となった人間を動かしているのである。自我とは、人間が、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、構造体の中で自我を得て、初めて、人間として活動できるのである。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、夫婦という構造体には夫・妻という自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があり、男女関係という構造体には男性・女性という自我がある。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしているのである。そして、深層心理が、人間の無意識のうちに、ある自我を主体に立て、欲動に基づいて、快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令と言う自我の欲望を生み出し、自我となった人間を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。深層心理は、欲動にかなった行動をすれば快楽が得られるので、欲動に基づいて思考するのである。すなわち、欲動が、深層心理を動かしているのである。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなえば、快楽を得ることができるから、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。欲動の四つの欲望の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。深層心理は、自我を保身化することによって、この欲望を満たして快楽を得ようとする。欲動の第二の欲望が、自我を他者に認めてほしいという承認欲である。深層心理は、自我を対他化することによって、この欲望を満たして快楽を得ようとする。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという支配欲である。深層心理は、対象を対自化することによって、この欲望を満たして快楽を得ようとする。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は、自我と他者を共感化することによって、この欲望を満たして快楽を得ようとする。しかし、欲動に、道徳観や社会規約を守ろうという欲望が存在しないのである。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場でひたすら快楽を求め、不快を避けようと思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。そこに、人間の悲劇があるのである。さて、まず、欲動の第一の欲望である保身欲であるが、この欲望が日常生活を毎日同じこと繰り返すというルーティンにしているのである。人間は、大きな異常事が起きない限り、ルーティンの生活を望むのである。言い換えれば、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味するのである。それが無意識の行動である。表層心理とは、人間の自らを意識しての精神活動である。ほとんどの人の日常生活が無意識の行動によって成り立っているのは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲にかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。また、人間は、表層心理で自らを意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。だから、ニーチェの「永劫回帰」という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、ルーティーンの生活が破られそうになることがある。たとえば、高校生が同級生から馬鹿にされ、自我が傷つけられたならば、深層心理は、怒りの感情とともに相手を殴れ、時には、殺せなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出す。同級生から馬鹿にされるということは、欲動の第二の欲望である承認欲が妨げられたことを意味するのである。深層心理は、こちらの自我を馬鹿にして上位に立った相手を殴ることによって、時には、殺すことによって、自らの自我を上位に立たせようとするのである。深層心理は、怒りの感情によって、人間を動かし、暴力や殺人という過激な行動を行わせ、承認欲を妨害した相手をおとしめ、傷付いた自我を回復させようとするのである。しかし、暴力をふるえば、学校という構造体から謹慎の処分を受け、高校生という自我が傷つけられるとともにルーティーンの生活が破られる。殺人を犯せば、学校という構造体から追放され高校生という自我を失うだけにとどまらず、犯罪者という自我が与えられることになる。だから、そのような時には、まず、超自我が、ルーティーンを守るために、殴れ、殺せという過激な行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、深層心理に内在し、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望である保身欲から発している機能である。深層心理には、超自我という、毎日同じようなことを繰り返すように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとする機能も存在するのである。超自我は、これまでの構造体の中でこれまでの自我を持して暮らしたいという欲動の第一の欲望である保身欲から発した作用から発し、毎日これまでと同じように暮らしたいというルーティーン通りの行動を自我に守らせようとするのである。もしも、超自我の機能が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、自らを意識しての思考をすることになる。表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実的な利得を求めるとは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうという欲望である。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、馬鹿にした相手を殴っり殺したりしたたならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考えるという現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した相手を殴れ、殺せなどという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した殴れ、殺せなどの行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ったり殺したりしてしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。しかし、ほとんどの人の日常生活は、超自我や表層心理の抑圧に背くことなく、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲によって、深層心理は自我の欲望を生み出し、ルーティンが維持される。高校生・会社員は嫌々ながらも、生徒・会社員という自我を失いたくないから、高校・会社に行く。高校・会社という構造体から追放され、高校生・会社員という自我を失い、退学者・失業者が苦悩することを避けたいからである。裁判官が総理大臣に迎合した判決を下し、高級官僚が公文書改竄までして総理大臣に迎合するのは、何よりも自我が大切だからである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は、自殺した生徒よりも自分たちの自我を大切にするから、事件を隠蔽するのである。いじめた子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないから、いじめの事実を隠し続け、自殺にまで追い詰められたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、構造体を維持しようとするのである。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、構造体の消滅を認めるしかないから、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできずに、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令に従ってしまうである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。もちろん、人間は、愛国心、すなわち、自我の欲望を、自ら、意識して生み出しているわけではない。無意識のうちに、深層心理が愛国心という自我の欲望を生み出しているのである。つまり、世界中の人々は、皆、自らが意識して生み出していないが、自らの深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。次に、欲動の第二の欲望が自我が他者に認められたいという承認欲であるが、深層心理は、自我を対他化することによって、その欲望を満たそうとする。自我の対他化とは、深層心理が、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考することである。それは、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとして行っているのである。他者がそばにいたり他者に会ったりして他者の視線を感じると、深層心理は、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしている。深層心理は、同級生・教師や同僚・上司という他者から、生徒や会社員という自我に好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、馬鹿にされたり注意されたりして、悪評価・低評価を受け、自我が傷付くと、深層心理は、怒りの感情とともに相手を傷つける行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとすることもあるが、傷心という感情と不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとすることがある。深層心理が不登校・不出勤という行動の指令を生み出したのは、これ以上傷つきたくないからである。しかし、人間は、表層心理で、現実的な利得を求めて、傷心という感情の下で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令について思考し、行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとする。それは、登校・出勤した方が、生徒や会社員という自我を存続でき、現実的な利得を得られるからである。しかし、深層心理が生み出した傷心という感情が強いので、登校・出勤できないのである。その後、人間は、表層心理で、不登校・不出勤を指示する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとする。しかし、たいていの場合、それも上手く行かずに、苦悩に陥るのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。そして、苦悩が強くなり、自らそれに堪えきれなくなり、自殺したりするのである。つまり、同級生・教師や同僚・上司という他者の悪評価・低評価が苦悩の原因であり、襲撃や自殺は苦悩から脱出するためにあるのである。また、受験生が有名大学を目指すのも、少女がアイドルを目指すのも、自我を他者に認めてほしいという承認欲を満足させるためである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという支配欲であるが、深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。対象の対自化は、深層心理が、自我の志向性(観点・視点)で。他者・物・現象を捉えることである。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとし、物という対象を自我の志向性で利用しようとし、現象という対象を自我の志向性で捉えているということである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生まれる。有の無化とは、深層心理が、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。有の無化は、「人は自己の欲望を心象化する」という一文で言い表すことができる。無の有化とは、深層心理が、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造することである。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。自己正当化は、自我に安定感を得ようとするために行われるのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、深層心理は、自我と他者を共感化させることによって、その欲望を満たそうとする。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえば、喜び・満足感が得られるのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理がストーカーになることを指示したのは屈辱感を払うという理由である。それを、深層心理のルーティーンの生活を守ろうとする超自我や表層心理の現実的な利得を求める思考で抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、それほど屈辱感が強かったのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは、何よりも、他クラスを倒して皆で喜びを得るということに価値があるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終われば、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否するという仲の悪い状態に戻るのである。このように、人間は、自我の動物であるから、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望に動かされてしまうのである。次に、表層肉体であるが、表層肉体とは、表層心理によって動く肉体を意味する。すなわち、表層肉体とは、人間の意識しての肉体の活動、人間の意志による肉体の活動である。表層肉体は、深呼吸する、挙手をする、速く走る、体操するなど、人間の表層心理による意識しての意志による肉体の活動である。スポーツという日常生活には存在しないことができるのは、自ら意識して、自らの意志によって表層肉体の同じ活動を繰り返したからである。表層肉体の同じ活動の繰り返しが深層肉体としてに定着し、無意識のうちに体が動き、スポーツができるようになるのである。しかし、表層肉体の活動は、肉体の活動の一部しか過ぎないのである。肉体の活動のほとんどを深層肉体に負っているのである。確かに、人間の人間たる所以の一つは、表層心理で、自ら意識して、自らの意志によって、行動することにある。それが、表層肉体の行為である。しかし、表層肉体の行為と言えども、表層心理の意識や意志が関わるのは、動作の初発のほんの一部にしか過ぎないのである。例えば、歩くという表層肉体の動作がある。確かに、歩くという動作は、歩こうという意志の下で歩くという意識の下で表層心理によって始められる。しかし、両足を交互に出すという動きは、誰しも意識して行っていない。もしも、右、左と意識して足を差し出していたならば、意識することに疲れて、長く歩けないだろう。だから、最も簡単に意識して行っていると考えられる動作の一つである歩くという表層肉体の動作すら、意識して行うのはほんの一部であり、そのほとんどは、無意識に、つまり、深層肉体によって行われているのである。歩きながら考えるということが可能なのも、歩くことに意識が行っていないからである。ほとんどの肉体行動は、人間は、表層心理で、自ら意識して、自分の意志によって、行っているのではなく、すなわち、表層肉体の行為ではなく、深層肉体の行為なのである。つまり、人間は、深層肉体によって生かされ、深層心理によって動かされているのである。



人間の行動は、全て、自我の欲望の現れである。(人間の心理構造その7)

2023-01-20 16:23:40 | 思想
人間には、自分という固定したあり方は存在しない。自分という特別なあり方は無い。自分そのものは存在しない。人間は、自我となって変化するのである。人間は、誰しも、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を所有して、他者と関わりつつ、他人の存在を意識しながら、活動しているのである。他者とは同じ構造体の人々であり、他人とは別の構造体の人々である。しかし、他者も、他者そのもは存在せず、他者の自我であり、他人も、他人そのもは存在せず、他人の自我である。さて、人間は自我となって変化するから、ある人は、男女という構造体に所属している時は男性という自我を所有し、夫婦という構造体に所属している時は夫という自我を所有し、家族という構造体に所属している時は父という自我を所有し、小学校という構造体に所属している時は教諭という自我を所有し、コンビニという構造体に所属している時は客という自我を所有し、電車という構造体に所属している時は乗客という自我を所有し、日本という構造体に所属している時は日本人という自我を所有し、東京都という構造体に所属している時は都民という自我を所有して活動しているのである。だから、本当の姿は何かという問いには、彼は答えることはできないのである。本当の姿など存在しないからである。彼は、構造体によって、異なった自我を所有しているからである。だから、息子や息子が、彼を父と認めても、それは、彼の家族という構造体においての自我にしか過ぎないのである。また、ある人は、男女という構造体に所属している時は女性という自我を所有し、夫婦という構造体に所属している時は妻という自我を所有し、家族という構造体に所属している時は母という自我を所有し、銀行という構造体に所属している時は行員という自我を所有し、コンビニという構造体に所属している時は客という自我を所有し、電車という構造体に所属している時は乗客という自我を所有し、日本という構造体に所属している時は日本人という自我を所有し、東京都という構造体に所属している時は都民という自我を所有し、ママ友仲間という構造体に所属している時は友人という自我を所有している。だから、同じように、息子や息子が、彼女を母と認めても、それは、家族という構造体においての自我にしか過ぎないのである。つまり、自我とは構造体においての役割存在でしかないのである。だから、人間には、自分という固定したあり方は存在せず、自分という特別なあり方は存在せず、自分そのものは存在しないのである。人間は、構造体ごとに、異なった自我となって変化するのである。自分とは、自らを他者や他人と区別しているあり方に過ぎない。自らが自分にこだわり、自分として存在していると思い込んでいるに過ぎないのである。人間は、構造ごとに異なった自我となり、その役割を果たしているに過ぎないのである。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って、その役割を果たすように生きている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体には、家族、学校、会社、銀行、店、電車、仲間、夫婦、カップル、国、男女などがある。家族という構造体では父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では社長・課長・社員などの自我があり、銀行という構造体では支店長・行員などの自我があり、店という構造体では店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では友人という自我があり、夫婦という構造体では夫・妻の自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、国という構造体では国民という自我があり、男女という構造体では男性・女性という自我があるのである。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って、他人と関わりつ、他人を意識しながら、行動しているが、自ら意識して思考して、行動しているのではない。人間の自らを意識しての精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は、表層心理で、自らを意識しつつ思考して、行動していないのである。深層心理が思考して、人間を動かしているのである。人間の無意識の精神活動を深層心理と言う。すなわち、人間の無意識のうちに、深層心理が思考して、人間を動かしているのである。人間は構造体に所属すると、無意識に自我になり、無意識の思考によって動かされるのである。すなわち、人間が構造体に所属すると、深層心理が人間を自我にして、深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我になりきっている人間を動かすのである。さて、深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのであるが、これから、自我を主体に立てる、欲動、感情と行動の指令という自我の欲望について、順に説明しようと思う。まず、自我を主体に立てるであるが、自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。人間は、よほどの覚悟がない限り、深層心理の思考を無視して、表層心理のみで、意識して思考して、自我が主体的に自らの行動を決定するということはできないのである。そもそも、自我とは、構造体で他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。ほとんどの人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、行動の指令通りに行動すると後に自らが利益をもたらすか不利益化をもたらすかという視点で思考して、受け入れるか拒否するかを審議することだけなのである。ほとんどの人間は、表層心理独自で、思考することはできないのである。だから、自我は主体的になり得ず、深層心理の道化師であるしかないのである。次に、欲動であるが、欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動が、深層心理に感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出させ、人間を行動へと駆り立てるのである。欲動が、深層心理を内部から突き動かして、思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させているのである。深層心理は、自我が欲動に基づいた行動をすれば快楽が得られるので、感情と行動の指令という自我の欲望を思考して生み出し、自我となっている人間を行動の指令通りに動かそうとするのである。その意味で、深層心理は、欲動の道化師である。そして、人間は、深層心理の道化師である。つまり、欲動が深層心理が動かし、深層心理が人間を動かしているからである。しかし、人間は表層心理で欲動にも深層心理にも直接に働き掛けることはできないのである。さて、深層心理には欲動という四つの欲望が内在しているが、欲動の四つの欲望とは、自我を確保・存続・発展させたいという欲望、自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望であるが、深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望であるが、深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、欲動という四つの欲望に基づいて、快楽を求め不快を避けようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間を動かしているのである。まず、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用であるが、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っているのは、深層心理が、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、表層心理で思考すること無く、自我の欲望のままに行動しているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で意識して考えることがなく、無意識の行動だから可能なのである。また、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。確かに、毎日が、平穏ではない。些細な問題が起こる。たとえば、高校という構造体で、短いスカートをはいている女子高校生が生徒指導課の男性教師から激しく叱責を受ける。その時、彼女の深層心理は、傷心から怒りの感情と反論しろという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を唆す。しかし、彼女の超自我は高校生の生活を続ける、すなわち。ルーティーンを守るために、反論しろという行動の指令を抑圧しようとする。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、彼女のは、表層心理で、意識して、思考して、将来の不利益を考え、自我を抑圧しようとするのである。そして、スカート丈を長くして、高校生活を続けるというルーティーンの生活を続けるのである。彼女が短いスカートをはくのは、女子高校生という自我を、他者や他人に認めてほしいからである。それは、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望に由来している。だから、彼女は、暫くすると、こっそりと、短いスカートをはき出すのである。生徒指導課の男性教師が、彼女の短いスカート姿を注意したのは、生徒指導課の教師という自我を守るためである。ここでは、女子高校生という自我と生徒指導課の教師という自我が戦ったのである。さて、フロイトは、自我の欲望の暴走を抑圧するために、深層心理に、道徳観に基づき社会規約を守ろうという超自我の欲望、所謂、良心がが存在すると言う。しかし、深層心理は瞬間的に思考するのだから、良心がそこで働いているとは考えられない。超自我は、ルーティーンの生活を守るために、道徳観や社会規約を利用しているように思われる。超自我の働きは、ルーティーンの生活を守ることであり、そのために、道徳観や社会規約を利用しているのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が政権に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして政権に迎合するのは、立身出世のためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されたくなく友人という自我を失いたくないから、自殺寸前までいじめの事実を隠し続けたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできずに、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令には逆らえないのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用であるが、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。人間は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。すなわち、人間は他者の道化師なのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。そのために、深層心理が、怒りという感情と復讐という行動の指令という自我の欲望を生み出すことがあるのである。人間は、常に、深層心理が、自我が他者から認められるように生きているから、自分の立場を下位に落とした相手に対して、怒りの感情と復讐の行動の指令を生み出し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせるように、自我を唆すのである。しかし、深層心理の超自我のルーティーンを守ろうという思考と表層心理での現実原則の思考が、復讐を抑圧するのである。しかし、怒りの感情が強過ぎると、深層心理の超自我も表層心理での思考が功を奏さず、復讐に走ってしまうのである。そうして、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、すなわち、対象の対自化の作用であるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。対象の対自化の作用とは、深層心理が、他者という対象を支配し、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとし、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えるということである。他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその理由である。教諭の校長になろういう欲望は、深層心理が、学校という構造体の中で、教諭・教頭・生徒という他者を、校長という自我で対自化し、支配したいという欲望である。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その目的である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その目的である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できることは、物を支配していることであり、満足感が得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば、現象を支配でき、快楽を得られるのである。さらに、深層心理の対象の対自化が高じると、無の有化と有の無化の作用が深層心理に生じるのである。有の無化とは、人間は、自我を苦しめる他者・物・現象という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。借金をしている者の中には、返済するのが嫌だから、深層心理が、借金していることを忘れてしまうのである。無の有化とは、深層心理は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、この世に存在しているように創造するということである。これは、人間特有のものである。深層心理は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。自己正当化は、存在を非存在のように思い込むこと、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとしているのである。深層心理は、すなわち、人間は、自我を自己正当化できなければ生きていけないのである。次に、欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望、すなわち、自我と他者の共感化の作用であるが、それは、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを得られるのである。しかし、共感化の構造体も壊れることがある。共感化は深層心理が行う欲望であるから、人間は、表層心理の、意識しての思考、意志、理性では、構造体の創造も破壊も止めようがないのである。恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、超自我や表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感という感情に敗北したからである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」という状態である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、その理由・意味があるのである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取ろうとして、仲が悪くなるのである。深層心理の共感化による協力は、対自化による対決に変わるのである。次に、感情と行動の指令という自我の欲望であるが、深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間(自我)を動かそうとしているのである。深層心理が感情を生み出し、それによって、自我を動かそうとするのである。感情が強ければ、それだけ、自我が強く動くのである。自我は無方向に動くのではなく、深層心理が生み出した行動の方向に動くのである。それが、行動の指令である。深層心理が怒りの感情と殴れという行動の指令を自我に出せば、怒りの感情が強いほど、自我による殴るという実行性が高くなるのである。つまり、人間の行動は、全て、自我の欲望の現れなのである。だから、人間は、自己としても存在していないのである。自己とは、自我の欲望から脱却して、主体的に生きる人間を意味するが、多くの人間は自我の欲望を追って一生を送るのである。自我の欲望から脱却できない人間、自我の欲望から脱却しようとしない人間、自我の欲望にしがみついている人間、自我の欲望のみ追求している人間、自我の欲望がかなえられないと損失だと思っている人間、自らの自我の欲望をかなえるために常に他者と協力したり他者と戦ったりしている人間に、主体的な生き方は存在しない。ほとんどの人間が他者に主体性を要求するが、それは、自らは主体的に生きていると錯覚しているからである。自我の欲望を他者より多くかなえていると思い、また、他者や他人からそれを認められている人間が、自らは主体的に生きていると錯覚しているのである。さらに、自我の欲望をほとんどかなえられない人間が、自我の欲望を他者より多くかなえている人間を主体的に生きている人だと誤解しているのである。だから、ほとんどの人間は、自らは主体的に生きている、もしくは、いつでも主体的に生きることができると錯覚しているのである。しかし、自我の欲望を追求し続け、自我の欲望から離れた考えや行動は損だと思っている人間に主体的な生き方は存在しない。ほとんどの人間は自我の欲望を追求することに腐心して、そこから一歩も出ることは無いので、主体的な生き方とは無縁である。しかし、自我も自我の欲望も、生得のものでも自ら獲得したものでもない。自我は、人間が構造体に所属することによって、他者から与えられたものである。自我の欲望は、深層心理が自我になりきっている人間を動かして欲動に基づいて快楽を得ようと思考して生み出した感情と行動の指令である。しかし、ほとんどの人間は、他者から与えられた自我を自らのものと思い込み、自我の欲望を欲望を宇自ら考えだしたものだと思い込んでいるのである。それは、深層心理の存在も思考も知らず、自ら意識しながら思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らないからである。だから、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら、主体的に暮らしている、もしくは、主体的に暮らしていくことができると思い込んでいるのである。確かに、人間は、表層心理で、自ら意識して思考することがある。しかし、人間が、表層心理で自らを意識して思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を、行動の指令通り行動すれば後に自らに利益をもたらすかという視点から受け入れるか拒否するかについて審議する時だけなのである。しかも、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間の行動は、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を得ようと、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。そして、深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して、表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して生み出していず、深層心理が思考して生み出した自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自らの欲望であるから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きているのである。自我とは、構造体から与えられるポジションであるから、深層心理が、構造体の意向に従って、そのポジションに応じた行動を思考するのである。そうすれば、欲動の意向にも沿い、快楽が得られるのである。そこには、よほどの覚悟がない限り、人間は、表層心理で、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動するという、主体的なあり方は存在しないのである。ほとんどの人間は深層心理の道化師でしかないのである。



愛国心という名の自我の欲望について。(人間の心理構造その6)

2023-01-13 16:45:46 | 思想
人間は自我の動物である。人間は自我を離れて生きることができない。自我とは、構造体の中で、他者からある特定の役割を担ったポジションが与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、国民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では夫と妻という自我があり、人間という構造体では男性・女性いう自我がある。だから、世界中の人々に、皆、愛国心があるのは、国という構造体に所属し、国民という自我を持って生きているからに過ぎないのである。だから、人間は、意識して愛国心を持つのではなく、国という構造体に所属し国民という自我を持って生きていかなければならないという必然性に駆られて愛国心を持つのである。すなわち、人間は、表層心理で、意識して思考して、愛国心を持つのではなく、無意識のうちに、深層心理が思考して、愛国心を持つのである。表層心理とは、人間の意識しての精神活動であり、深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。つまり、愛国心とは、国という構造体に執着し、国民という自にを執着している深層心理のあり方である。さて、人間は、常に、構造体の中で、自我を持って生きているが、深層心理が、常に、自我を主体にして、欲動に基づいて快楽を得ようとして思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。欲動とは、自我を確保・存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望という四つの欲望の総称である。深層心理が欲動に基づいて思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して自我を動かすのは、欲動にかなった行動をすれば、自我が快楽を得られるからである。深層心理が感情と行動の指令を対にして生み出しているのは、深層心理に、感情を原動力にして行動の指令通りに人間を動かそうという意図があるからである。さて、人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って生きていかなければならないから、その構造体と自我に対して愛情を持つが、なぜ、人間は、自分の所属している構造体を愛するのか。それは、構造体が自らの存在を認めて、自我を与え、保証していてくれるからである。なぜ、人間は、自我を愛するのか。それは、自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。つまり、人間には、常に、構造体に所属していること、すなわち、自我を持つことが必要不可欠なのである。人間は、構造体に所属し、自我が与えられ、構造体の人々にその存在が認められて、初めて、自分の存在を確認し、安心できる動物なのである。それが、アイデンティティーを持つということである。アイデンティティーを持つことができるのは、自我を確保・存続・発展させたいという深層心理の欲動の第一の欲望が満たされているからである。ところが、日本では、一般に、アイデンティティーは、簡単に、「自己同一性。人格における存在証明または同一性。」などと説明されている。これでは、アイデンティティーは独りよがりなものになる。アイデンティティーは、構造体に所属し、自我を持しているだけでは得ることはできないのである。アイデンティティーは、構造体に所属し、自我を持し、その自我が構造体内の他者や構造体外の他者に認められ、自らが自らの自我に満足して、初めて得ることができるのである。つまり、アイデンティティを得るには、自らの自我に対する他者からの承認と評価を必要とし、自らが自らの自我のあり方に満足することが必要なのである。だから、自我のあり方が満足できれば、誰しも、愛国心を持っている。自分が所属している国を愛している。誰しも、愛郷心を持っている。自分が生まれ育った場所、つまり、故郷という構造体を愛している。誰しも、自分の家族という構造体を愛している。自分の帰るべき家と温かく迎えてくれる人々を愛している。誰しも、愛社精神を持っている。自分の生活を支えてくれる会社という構造体を愛している。誰しも、愛校心を持っている。自分が学んだ、学んでいる学校という構造体を愛している。誰しも、恋人を愛している。自分を恋人として認めてくれているカップルという構造体を愛している。誰しも、友人を愛している。自分を友人として認めてくれる仲間という構造体を愛している。誰しも、宗教心を持っている。自らが帰依している宗教の共同社会、つまり、教団という構造体を愛しているのである。さて、よく、愛国心の有無、強弱に関するアンケートがある。現在の日本人の愛国心についての状況を知りたいがためである。しかし、それは全く無意味である。誰でも愛国心を有するからである。それは、深層心理の欲動には、自我を確保・存続・発展させたいという第一の欲望があり、その欲望は構造体を確保・存続・発展させたいという欲望をも生み出しているからである。日本人の深層心理の欲動には、日本人という自我を確保・存続・発展させたいという第一の欲望があり、その欲望は日本という構造体を存続・発展させたいという欲望をも生み出しているからである。確かに、日本が嫌いだという日本人は存在する。しかし、それは、自分の理想とする日本と現在の日本が違っていると思うからである。決して、愛国心を失ったわけではない。もちろん、愛国心は、日本人にだけ存在するのではなく、世界の人々の心に存在している。なぜならば、世界中に、国という構造体が存在し、国民という自我が存在するからである。どの国民の深層心理の欲動にも、国民という自我を確保・存続・発展させたいという第一の欲望があり、その欲望は国という構造体を存続・発展させたいという欲望をも生み出しているからである。しかし、「俺は、誰よりも、日本を愛している。」と叫び、中国や北朝鮮や韓国などに対して敵愾心を露わにする日本人が存在する。国家主義者である。そして、自分の考えや行動に反対する人を売国奴、非国民、反日だなどと非難する。売国奴は、敵国と通じて国を裏切る者をののしって言う言葉である。非国民は、国民としての義務を守らない者をののしって言う言葉である。反日は、日本に反対すること、日本や日本人に反感をもつことという意味である。しかし、日本人には、売国奴、非国民、反日は存在しない。売国奴、非国民、反日という言葉は、日本人ならば誰しも日本に対して愛国心を持っていることを知らず、自分の愛し方だけが正しいと思い込んでいる国家主義者が生み出したのである。また、憂国という言葉も存在する。憂国とは、国家の現状や将来を憂え案ずること、国家の安危を心配することという意味である。そして、憂国の士という言葉さえ存在する。しかし、日本人ならば、誰しも、理想の日本の国家像があり、現在の日本がその国家像にそぐわないように思えれば、憂国の念を抱くのである。それ故に、憂国の念を抱く人を特別視し、憂国の士と呼ぶ必要はないのである。ところが、傲慢にも、憂国の士を自認する者は、自らが持っている理想の日本の国家像は誰にも通用するものだと思い込み、自分だけが日本の現状や将来を憂え案じていると思い込んでいる。そして、国家主義者と同様に、自らと異なった理想の日本の国家像を持っている者たちや自らと異なった日本の現状のとらえ方をしている人たちを、売国奴、非国民、反日などと非難するするのである。もちろん、中国人や韓国人にも愛国心はある。特に、中国人や韓国人は、近代において、日本に侵略された屈辱感がまだ過去のものとなっていないから、日本人が侵略・占領の過去を反省する心を失ったり、正当化するような態度が見えると、愛国心が燃え上がるのである。中国において、愛国無罪を叫んで、日本の企業を襲撃するような悪行を行った人たちもまた憂国の士である。韓国において、従軍慰安婦や徴用工を今もって問題にするのも、憂国の士である。さて、日本の国家主義者、憂国の士と中国の国家主義者、憂国の士、日本の国家主義者、憂国の士と韓国の国家主義者、憂国の士が一堂に会するとどうなるであろうか。互いに自分の言い分だけを口角泡を飛ばして言い、相手の主張を聞かないであろう。感情が高じた挙げ句、殴り合いが始まる可能性もある。愚かな政治権力者が国家主義者や憂国の士である場合、戦争に発展する可能性もある。このように、愛国心が高じると危機的な状況を招くのである。愛国心は、一般に言われているような、決して、評価すべきものではないのである。だが、国が存在する限り、国民が存在し、愛国心を必ず有している。万が一、愛国心を持てない国民が存在したならば、悲劇である。精神状態が不安定になるからである。それは、家に帰っても、家族の誰からも相手にされない父親と同じ気持ちである。日本人は、自らが日本人であることにアイデンティティーを持っているから、理想の日本の国家像を描き、現在の日本を批判し、将来の日本を憂えるのである。しかし、国家主義者、憂国の士と異なり、それを他者に無理強いしないのである。それが、日本人としての自我のあり方である。それは、中国人、韓国人朝鮮人も同様である。そのことに気付かず、日本人としての自我を強く主張すれば、中国人、韓国人朝鮮人と対峙するしかないのである。ところが、ヘイトスピーチの集団が存在する。彼らは、「在日(在日韓国人・在日朝鮮人)は、日本から出て行け。」と叫び、挙句の果てには、「在日を殺せ。」とまで言う。ヘイトスピーチをして、韓国国籍の人、北朝鮮国籍の人を日本国内から追い出そうとする人たちは、極端に日本人としての自我に強い人たちであり、排外主義者であるる。大勢の人とヘイトスピーチをすることによって、日本人のアイデンティティーを確認し合っているのである。彼らは、自らの行為を愛国心の発露だとしているだろう。彼らは、自らの行為に反対する日本人を、売国奴、非国民、反日だと思っているだろう。彼らは日本を純粋に愛しているからこのような行為をするのだと思っているだろう。しかし、なぜ、日本を愛すのだろうか。その答えは一つしかない。自分が日本という国という構造体に所属しているからである。自分に日本人という自我が与えられているからである。それは、日本人という自我を与えられている者は日本という構造体を愛し、青森県出身者という自我を与えられている者は青森県という構造体を愛し、山田家の長男という自我を与えられている者は山田家という構造体を愛し、ソニーの社員という自我を与えられている者はソニーという構造体を愛し、日本大学の出身者という自我を与えられている者は日本大学という構造体を愛しているのと同じである。人間を保証するものは、自我なのである。人間は、自我の束から、構造体に応じて、一つの自我を取り出して、活動しているのである。ある人は、日本という構造体においては日本人という自我の下で活動し、青森県という構造体においては青森県出身者という自我の下で活動し、山田家という構造体においては山田家の長男という自我の下で活動し、ソニーという構造体においてはソニーの社員という自我で活動し、日本大学という構造体においては日本大学の出身者として活動してきた、もしくは、活動しつつあるのである。それ故に、その人の自我の真の姿は決定しようと思っても、それは不可能なのである。構造体におけるその時の自我が全て真の姿である。日本という構造体の中にいれば日本人、青森県という構造体の中にいれば青森県出身者、山田家という構造体の中にいれば長男、ソニーという会社の構造体の中にいれば社員、日本大学という構造体の中にいれば日本大学の出身者である。人間の存在を保証するものはこの構造体と自我なのである。日本人は、日本人という自我を与えらえているから、日本を愛しているのである。日本人という自我を保証してくれるものは日本という国家だから日本を愛しているのである。それ故に、愛国心は国を愛しているように見えるが、真実は、自分を愛しているのである。それに気づかないから、愛国無罪のような罪を犯す人が出現するのである。しかし、愛国心とは、自分を愛していることだと認めることは、決して、愛国心の終わりではない。愛国心の始まりである。なぜならば、愛国心はエディプスの欲望と同じく、深層心理の欲動から発するからである。一般に、エディプスの欲望という言葉は使われず、精神分析の用語として、エディプス・コンプレックスが使われている。エディプスの欲望とは、父に代わって母と性的関係を結ぼうとする男児の深層心理の欲望である。エディプスの欲望は、深層心理の欲動の第三の欲望である自我で他者を支配したいという欲望から発している。エディプスの欲望は、男児の深層心理の欲動の第三の欲望である男児という自我で母という他者を支配したいという欲望である。当然、父もそれを許さず、社会もそれを許さない。それを許すと、家族関係が破綻し、社会の秩序が乱れるからである。そこで、男児は、自らの欲望を抑圧し、欲望の対象である母に代えて、やがて母と同価値を持つ性的対象を見出すことにより、主体は自ら父親になると同時に、交換という社会的システムの中に導入されることになるのである。エディプス・コンプレックスとは、男児という幼児が自らの欲望を抑圧して、大人の男性として社会に出ていくための過渡期にあるものである。愛国心もまた日本人という幼児の欲望と言うことができる。日本人は、日本人という自我を持ち、日本という国の構造体に育っていくので、必ず、日本に愛国心を抱くのである。男児の深層心理は、男児という自分の自我の存在を保証してくれるので、母を愛し、母と性的関係を結ぶことによってそれを確固とした形にしようとするのである。日本人は、日本人という自らの自我の存在を保証してくれるので、日本という国の構造体を愛すのである。しかし、男児は、父の権威が壁になり、エディプスの欲望は断念せざるを得なくなる。そして、男児は、欲望の対象を母から代えて、母と同価値を持つ性的対象を見出すことになるのである。父と社会が男児の欲望の暴走を止めるのである。男児の暴走を止めなければ、家族関係、社会体系が不都合状況に陥ってしまうのである。それでは、国家主義者や憂国の士やヘイトスピーチをする人など愛国心を強く抱いている人の暴走を止めるのは何であろうか。子供は無垢な存在だとして、男児の母親に対する欲望を許すべきではない。それと同様に、愛国心は国に対する純粋な思いだとして、愛国無罪というような犯罪を許すべきではないのである。男児の欲望が欲望の対象である母に代えて、やがて母と同価値を持つ性的対象を見出すようになるように、愛国心もまたむき出しの行為ではなく、ワールドカップやオリンピックなどで日本を応援すれば良いのである。愛国心もまたエディプスの欲望と同じように幼児の欲望なのである。それ故に、男児の欲望も愛国心も恥ずべき心情なのである。むき出しにしてはならないのである。国家主義者や憂国の士やヘイトスピーチをする人はむき出しにしたいからこそ、むき出しにしてはならないのである。むき出しにしたいのは、アイデンティティーを基本とした心情だからである。アイデンティティーを発露することは、他者の自我に対する挑戦となるからである。誰しもが、アイデンティティを持つと、それを発露したくなる。それ故に、それを実践すると争いになるのである。それ故に、大人と言える人は、発露したいという幼児の心情を恥じて、抑圧するのである。それは、愛郷心、家族を愛する心、愛社精神、愛校心でも同様である。故郷、家族、会社、学校にアイデンティティを得れば、だれでも発露したくなるのである。しかし、それを発露することは、他者も抑圧していたアイデンティティーを発露し、争いになるのである。それ故に、大人と言える人は愛国心を発露しないのである。つまり、愛国心の発露は幼児の行為なのである。子供は正直だと言う。それと、同様に、愛国心の発露も正直な心情の吐露である。しかし、それは、後先を考えない、幼児の行為である。日本人の国家主義者と中国の国家主義者の争い、日本人の国家主義者と韓国の国家主義者の争いは、幼児の争いである。幼児の悪行は大人が止めなければいけない。しかし、日本、中国、韓国の政治権力者は、それを止めるどころか、むしろ、たきつけている。彼らもまた幼児的な思考をしている、国家主義者だからである。それ故に、愛国心による批判合戦は収まる気配は一向になく、むしろ拡大している。それ故に、良識ある大人の国民が、大衆の国家主義者に対してと同様に、国家主義者の政治権力者の言動に対して批判すべきなのである。





嫉妬心について。(人間の心理構造その5)

2023-01-11 15:59:59 | 思想
人間は、無意識のうちに、感情が生み出される。また、人間は、無意識のうちに、思考している。深層心理が人間を動かしているのである。深層心理とは人間の無意識の精神活動である。人間の無意識のうちに、深層心理が、欲動に基づいて
思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているのである。人間は自らのことを自分と表現するが、自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。他人とは、構造体の外の人々である。すなわち。自分とは、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方なのである。だから、人間には、固定した自分は存在せず、自分を動かすことはできない。人間は。自我に囚われ、深層心理が思考して生み出す感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、人間は、自我に執着して生きるしかないのである。人間は、孤独であっても、孤立していたとしても、常に、構造体が所属し、自我として、他者や他人と関わりながら。暮らしているのである。つまり、人間は、誰しも、自分そのものは存在せず、別の構造体に入れば、別の自我を持ち、それに囚われて生きるのである。しかも、人間は、自分の意志では、自我を動かすこともできないのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我となった人間を動かしているのである、深層心理が欲動に基づいて思考して自我の欲望を生み出すのは、欲動にかなった行動をすれば快楽が得られるからである。欲動とは、自我を確保・存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望という四つの欲望の総称である。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている」と言う。無意識とは、無意識の思考であり、深層心理の思考を意味する。「言語によって構造化されている」とは、深層心理が言語を使って論理的に思考していることを意味する。すなわち、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。つまり、深層心理は、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。すなわち、深層心理は欲動に基づいて快楽を求めて思考し、人間は深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて生きているのである。つまり、欲動が人間を動かしているのである。さて、人間は、誰しも、嫉妬を覚えたり、怨恨を持ったりすることがある。なぜ、そうなのか。それは、自我が他者に認められたいという欲動の第二の欲望から来ている。人間の深層心理は、常に、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自分に対する他者の思いを探っているからである。深層心理は、常に、好かれたい、愛されたい、評価されたい、認められたいという思いで、自我に対する他者の思いを探っているのである。自分が、他者から、好かれたり、愛されたり、評価されたり、認められたりすれば、喜びや満足感が得られるからである。人間のこのあり方について、フランスの心理学者のラカンは、「人は他者の欲望を欲望する」という言葉で表現している。「人は他者の欲望を欲望する」という言葉の意味は、「人間は、常に、他者の思いや評価を気にしている。人間は、いつの間にか、他者のまねをしている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」である。しかし、人間は、他者から悪評価・低評価を受けることもよくあるのである。その時、深層心理は、傷付き、自我に悪評価・低評価を与えた他者、自我に悪評価・低評価を与える原因を作った他者に対して怒り、うらみ憎しみの感情を持つのである。嫉妬や怨恨とは、深層心理が、自我に悪評価・低評価を与えた他者、自我に悪評価・低評価を与える原因を作った他者に対して怒り、うらみ憎しみの感情を持ち続けることを言うのである。しかし、誰一人として、自ら意識して、嫉妬や怨恨を自らに呼び寄せていない。これらは苦痛の感情であり、誰しも、招きたくない感情だからである。だから、人間は、自ら意識して、思考して、嫉妬や怨恨の感情を生み出しているのではなく、深層心理が、それらを生み出しているのである。深層心理が、自らの心の中に、嫉妬や怨恨の感情を生み出しているから、誰しも、表層心理で、それらが、自らの心の中に起こるのを止めようが無いのである。表層心理とは、人間の意識しての精神活動である。嫉妬とは、自分より高く評価されている者に対してうらみ憎む感情、自分が愛する人が自分以外の者を愛しているのでその者に対してうらみ憎む感情である。怨恨とは、自分の心を傷付けた者に対してうらみ憎む感情である。嫉妬や怨恨が他の喜怒哀楽などという感情と異なるのは、嫉妬や怨恨が継続した感情であることである。なぜ、嫉妬や怨恨という感情が継続するのか。それは、苦痛の状況が継続しているからである。自分が下位にいるという苦痛の状況が解消されず、継続しているのである。たとえ、傍の者からは何ら問題が無いように見えてていたとしても、本人の深層心理が下位の状況にあると判断して、嫉妬や怨恨という感情を抱き続けるのである。だから、恥ずかしくて。嫉妬や怨恨を抱いている理由を、誰にも話せないのである。それでは、誰が上位にいるか。それは、自分より高く評価されている者、自分が愛する人が愛している自分以外の者、自分の心を傷付けた者である。深層心理は、嫉妬や怨恨の感情を起こして、自我より高く評価されている上位にある者、自我が愛する人が愛している自我以外の上位にある者、自我の心を傷付けた上位にある者を下位に落とし、自我が上位に立つような行動をするように、本人に仕向けているのである。嫉妬や怨恨という苦通の感情は、彼らを下位に落とし、自我が上位に立つことによって、消滅するからである。しかし、深層心理が生み出した嫉妬や怨恨という苦通の感情を消滅させるために、怒りの感情と行動の指令という自我の欲望を考え出し、人間を動かそうとしても、人間は行動の指令を容易に実行できないのである。なぜならば、それは復讐であるからである。しかし、深層心理が復讐を行動の指令として考え出しても、深層心理には、欲動の自我を確保・存続・発展させたいという第一の欲望から来る超自我という作用があり、超自我が復讐という過激な自我の欲望を抑圧しようとするのである。言い換えれば、超自我とは、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する作用である。しかし、日常生活において、あまりに異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という過激な自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我というルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する働きが功を奏さないことがあるのである。超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考して、現実的な自我の利得に反するものを抑圧しようとするのである。しかし、深層心理が嫉妬や怨恨という継続した感情を一挙に解消するためには、復讐という方法しか考え出せないのである。「江戸の敵を長崎で討つ」という諺がある。この諺の意味は、「意外なところで、また、筋違いなことで、昔のうらみをはらす。」である。復讐とは、「江戸」での出来事で、自分が下位に落とされたので、上位の者に対して、嫉妬や怨恨という感情を持ち続け、「長崎」で、機会を窺い、自分を下位に落とした上位の者を下位に落とし込み、自分は上位に立つことなのである。だから、復讐は、他者から理解されず、社会的に断罪されるのである。「江戸の敵」を「江戸」で正当に討っていないので断罪されるのである。それでは、復讐という不当な方法ではなく、正当な方法によって、自分を下位に落とした者の上位に自分が立つことはできるであろうか。また、自分が上位に立たなくても、嫉妬や怨恨という感情を消滅させることができるのであろうか。それを可能にするのが、深層心理の無の有化作用、有の無化作用、ヘーゲルの「奴隷上位思想」、ニーチェの「真理誤謬思想」、自我の他者化の思想である。まず、深層心理の無の有化作用であるが、それは、深層心理は、自らの志向性や自分の趣向性に合ったものやことが存在していなくても、それが自我の安定に絶対的に必要だと思えば、欲動の自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望の欲望が、深層心理に、それが存在しているように思い込ませるということである。それは、心理学的には、「人は自己の心象を存在化させる」ということであり、哲学的には深層心理の無の有化という作用である。深層心理が、神が存在しなければ生きていけないと思ったから、その欲望が、深層心理に神が存在しているように思い込ませたのである。また、深層心理は、正当な方法によって、自分を下位に落とした者の上位に自分が立つことはできるであろうかと深く考えたから、その欲望が、深層心理に、ライバルという立場を考え出させたのでである。深層心理は、嫉妬や怨恨という苦痛から逃れるために、自分の上位に立つ者に対して、自らをライバルという好敵手に仕立て上げ、正当な方法によって、自分を上位に立たせようとするのである。「江戸の敵」を「江戸」で討たなかった遅れを正当な方法で取り戻そうとするのである。正当な方法とは、他者に認められる方法である。それが、ライバルというあり方である。次に、深層心理の有の無化作用であるが、これも、また、欲動の自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望の欲望から来ているのである。それは、深層心理が、他者や物や現象という対象を、志向性(観点・視点)で捉えて、認識しているということである。だから、志向性が変われば、認識も変わってくるのである。そこで、自分が嫉妬や怨恨の対象とみている、自分より高く評価されている者、自分が愛する人が自分以外の者を愛しているのでその者、自分の心を傷付けた者に対して、他の志向性(観点・視点)があるか、探ってみるのである。他の志向性(観点・視点)があれば、それらの者に対する嫉妬や怨恨が消えるからである。次に、ヘーゲルの「奴隷上位思想」であるが、それは、ヘーゲルの「主人はその地位に安住しているから何も考えず、奴隷は主人に生殺与奪の権利があるから生きるためにさまざまなことを考えているので、奴隷は思想的に主人よりも上位にある。」という思想である。だから、嫉妬や怨恨という感情に苦しめられている者も、その苦痛から逃れるためにさまざまに考えるから、嫉妬や怨恨の対象者よりも、思想的に上位にあるということを意味するのである。思想的に上位にあるから、自分が下位であると悩む必要が無いということである。次に、ニーチェの「真理誤謬思想」であるが、それは、ニーチェの「人間の認識する真理とは、人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬である。もしも、深く洞察できる人がいたならば、その誤謬は、人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理の上に、かろうじて成立した、巧みに張り巡らされている仮象であることに気付くだろう。」という言葉から窺うことができる。人間の一生は、「人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬」を重ね続け、「仮象」を「巧みに張り巡らす」ことなのである。人間は嫉妬や怨恨という「真理」を「深く洞察」すれば、自らを「滅ぼしかねない」ので、ライバルという「誤謬」を「作為」し、「仮象」を「巧みに張り巡らす」しかないのである。嫉妬や怨恨という「真理」は人間の生に無用だが、ライバル心という「誤謬」は「人間の生に有用」だからである。しかし、ライバルという「誤謬」は「巧みに張り巡らされている仮象」でしかないから、何か事があると、嫉妬や怨恨という「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」が、人間の深層心理に湧き上がってくるのである。そして、惨劇、悲劇という復讐劇を生み出すのである。そこに、人間存在の矛盾と苦悩があるのである。次に、自我の他者化の思想であるが、それは、自分を他者としてみようとすることである。自分の深層心理は、自分より高く評価されている者や自分が愛する人が愛する自分以外の者や自分の心を傷付けた者に対して、下位の状況にあると判断して、嫉妬や怨恨という苦痛の感情を抱き続けるのであるが、他者から見れば問題が無いように見えるので、嫉妬や怨恨に気付かないのである。そこで、恥ずかしくて、嫉妬や怨恨を抱いている理由を、誰にも話せないのである。だから、この程度の問題なのだと思い、自分を他者に置き換えて考えてみることである。確かに、嫉妬や怨恨で苦しむような重要な問題では無いことに気付くのである。