あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

芸人世界に自我の欲望の典型を見る。(欲動その7)

2024-01-30 14:27:26 | 思想
人間は誰しも自らを律しなければ常に堕落する可能性がある。それは、誰しもが快楽を求めて生きているからである。逆に言えば、不快を避け、不快から逃れ、苦痛を避け、苦痛から逃れるために生きているのである。人間の快楽を求めて生きるあり方をフロイトは快感原則と呼んだ。しかし、人間は自ら意識して快楽を求めて思考して行動しているわけではない。人間の自らを意識した精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は表層心理で快感原則で思考して行動していない。人間は無意識のうちに快楽を求めて思考して生きているのである。がから、人間は快楽を求める生き方を変えることができないのである。人間の無意識の精神の活動を深層心理と言う。すなわち、深層心理が快感原則に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我になっている人間を動かしているのである。自我とは、構造体の中で、役割を担ったポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、カップル、夫婦、国、学校、会社、店、電車、仲間、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では父・母・息子・娘などの自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では夫・妻という自我があり、国という構造体では総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、学校という構造体では校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では社長・部長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では友人という自我があり、人間という構造体では男性・女性という自我があり、男性という構造体では老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持して、他者と関わりながら、時には、他人を意識して、生きているのである。他者とは構造体の中の人々である。他者とは構造体の外の人々である。人間は自我を持つから深層心理に動かされるのである。しかし、人間は自我を持たなければ、この世に生きていけないのである。人間が社会的な存在であるとは、常に、構造体に所属して、自我を持して、他者と関わりながら、時には、他人を意識して、生きているあり方を指すのである。人間は構造体に所属して自我を持つやいなや、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かすようになるのである。すなわち、人間は自ら意識することなく思考して生み出した自我の欲望に動かされているのである。すなわち、人間が自らが自我の主体になっているのではなく、深層心理が自我を主体を立てて。欲動に基づいて快楽を求めて思考して、自我の欲望を生み出して人間を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動の四つの欲望とは、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲である。保身欲とは自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。承認欲とは自我を他者に認めてほしいという欲望である。支配欲とは自らの志向性で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。共感欲とは自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。自我の状態が欲動の四つの欲望のいずれかになったものになれば快楽が得られるので、深層心理は欲動に基づいて思考して自我の欲望を生み出して、人間を動かして、自我の状態を欲望にかなった状態にしようとするのである。欲動には、道徳観や社会規約を守るという欲望は存在しない。道徳観や社会規約を守るという志向性は表層心理に存在する。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、自我を主体に立てて、その時その場での快楽を求めて、欲動に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。つまり、人間は自ら主体的に思考して行動しているのではなく、深層心理がその時その場での快楽を求めて思考して生み出した自我の欲望に動かされているのである。だから、当然のごとく、深層心理が快感原則に基づいて思考して生み出した自我の欲望には、反道徳的なものや反社会的なものが含まれている。だから、自らの自我を守るために、他者の自我を守るために、そして、他人の自我を守るために、反道徳的な自我の欲望や反社会的な自我の欲望は表層心理の意志によって抑圧しなければならないのである。すなわち、自らの自我を律しなければならないのである。すなわち、人間は表層心理で思考して反道徳的な自我の欲望や反社会的な自我の欲望は意志によって抑圧しなければならないのである。すなわち、表層心理で思考して自らを律しなければいけないのである。もしも、深層心理が快楽を求めて思考して生み出した自我の欲望の全てをそのまま行動に移せば、他者や他人の自我は傷つけられ、自らの自我はその復讐を受けるだろう。そして、復讐の連鎖はとどまることは無いだろう。恐らく、人類は滅んでしまうだろう。だから、多くの人は、表層心理で、自らの自我の欲望を意識し、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動したならば後に自我がどのような状況に陥るかを想像し、それを道徳観や社会規約から考慮し、自我にもたらす損得の視点から、深層心理が生み出した行動の指令に従うか拒否するかを決定して行動しているのである。自我にもたらす損得の視点から思考することをフロイトは現実原則と呼んだ。深層心理は瞬間的に思考するが、表層心理での思考は、基本的に、長時間掛かかる。なぜならば、表層心理での思考は、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。道徳観を考慮するのは、反道徳的な行為や非道徳的な行為をなせば、他者から非難されるからである。社会規約を考慮するのは、社会規約に反した行為をなせば、罰せられるからである。だから、もしも、他人が見ていなければ、若しくは、後に他人に露見する恐れがなければ、多くの人は、深層心理が生み出した反道徳的な、非道徳的な、社会規約に反した行動の指令に従って行動するだろう。俗人とはそういうものである。この世のたいていの人は俗人である。しかし、人間は、表層心理で思考して、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する決定を下し、意志によってそれを抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、他人が見ていても、後に露見する可能性が高くても、そのまま実行してしまうことがあるのである。これが感情的な行動である。犯罪のほとんどは感情的な行動である。さて、週刊文春によって松本人志の性加害が暴かれた。しかし、松本人志は反省していない。なぜ、松本人志は反省していないのか。それは、俗人だからである。人間としての向上心が無いからである。夏目漱石に「こころ」という小説がある。恋敵である親友のKの求道心を利用して追い落とし、恋する人と結婚した男性の苦悩が描かれている。Kは親友に裏切られ、道に違反して恋した自らに絶望して自殺する。Kを失恋させ自殺に追いやった男性は、手紙で、彼を慕っている学生に罪の全貌を告白し自殺をほのめかす。驚いた学生は彼のもとに駆け付けようとするところで小説は終わっている。松本人志のような俗人には、道のためには恋すらもあきらめようとするK,、Kを裏切り自殺に追いやり、それを自らを慕う学生に全てを告白し、自殺に向かおうとする男性の苦悩を理解できない。芸人の松本人志は自我の欲望のままに行動し、快楽を得ることしか考えていないからである。しかし、松本人志だけでなく、人間は、往々にして、深層心理が快楽を求めて思考して生み出した自我の欲望に動かされているから、他人が見ていなければ、若しくは、他人に露見する可能性が低いと思えば、悪に走ってしまうのである。だから、誰しもが俗人に陥る危険性があるのである。人間は俗人に陥りやすいところから始まるのである。Kのように道を外して恋をした苦悩から自殺する人や親友のKを裏切った男性のように道を外した行為による苦悩から自殺に向かう人は稀なのである。たいていの人は俗人で終わるのである。特に、芸人のほとんどが俗人である。自我の欲望を満たして快楽を得ることだけを生きる目的としている人が多いからである。それが芸人の特権だと思っているのである。大衆を笑わせて人気を得れば陰で何をしても良いと思っている。弱い者いじめのネタが多いのは大衆に迎合した結果である。弱い者をいじめれば支配欲を満足させられるのである。そして、私生活で、女性を性的にいじめて支配欲を満足させているのである。すなわち、表で弱い者をいじめ、裏で女性をいじめて支配欲を満足させているのである。なぜ、松本人志は嫌がる女性に無理やりセックスをしようとしたのか。それは、女性同意のセックスより、その方が、支配欲による快楽が得られるからである。だから、自らの性情であそのる異常な性欲に身をゆだねることができたのである。
なぜ、松本人志が見も知らない女性をもてあそぶことを自分は許されていると思ったのか。芸人という構造体で君臨していたからである。天才だともてはやされ、天才の自分に抱かれた女性は自分に認められるという承認欲が満たされ幸福感に包まれるはずだと思い込でいたのである。なぜ、吉本興業の松本人志の後輩芸人である小沢一敬、黒瀬純、たむらけんじ、渡邊センスなどが若い女性たちをだまして松本人志に斡旋したのか。それは、大衆に人気があり芸人世界で絶大な権力がある松本人志に認められることによって、芸人という自我を保持、発展させたかったからである。すなわち、松本人志に対する承認欲、芸人という自我に対する保身欲からなのである。なぜ、彼らは彼女たちをだまして高級ホテルに連れ込み、スマホを取り上げ、逃げられないような卑劣なことにしたのか。それは、露見すれば罰せられるのを知っていたからである。彼らが秘密裏に事を運んだから、松本人志は遠慮会釈なく多くの女性をもてあそぶことができたのである。なぜ、長年の間、松本人志と後輩芸人たちは性加害を行ってきたのか。それは、同じ悪事を犯しているという連帯感からである。すなわち、共感欲を満たすことができたからである。なぜ、多くの女性は、芸人にだまされ、松本人志に抱かれてしまったのか。それは、ある人は芸能界に入りたく思い、ある人は芸能界にとどまりたかったからである。すなわち、保身欲からである。それほど、松本人志は芸人世界で絶大な権力があったのである。すなわち、支配力があったのである。しかし、松本人志に限らず、多くの人間は、快楽を求めて生きているから、露見しなければ、いかなる犯罪も行ってしまう可能性があるのである。俗人とはそういうものなのである。聖人君子はこの世に稀にしか存在しないのである。もちろん、松本人志、小沢一敬、黒瀬純、たむらけんじ、渡邊センスは、吉本興業という芸人世界という構造体以外の構造体に所属して、芸人以外の自我を持して行動することもある。家族という構造体に所属している時は父という自我を所有し、夫婦という構造体に所属している時は夫という自我を所有し、コンビニという構造体に所属している時は客という自我を所有し、電車という構造体に所属している時は乗客という自我を所有し、日本という構造体に所属している時は日本人という自我を所有し、東京都という構造体に所属している時は都民という自我を所有し、同窓会という構造体に所属している時は同級生という自我を所有して行動している。だから、息子や娘が彼のことを父だと思って慕い、妻は彼を夫だと思って愛していても、彼は父、夫だけでなく、家族、夫婦という構造体以外では、客、乗客、日本人、都民、同級生という自我で行動しているのである。彼は、家族という構造体では父という自我を所有しているが、他の構造体では他の自我を所有して行動しているのである。もちろん、息子や娘は彼の父以外の自我を知らず、妻は彼の夫以外の自我を知らないのである。人間は、他者の一部しか知ることができないのに、それを全体像だと思い込んでいるのである。だから、彼らの息子、娘、妻は、彼らの芸人という自我での悪事を知って、ショックを受けるのは当然なのである。さて、ドストエフスキーは神がいなければ全ては許されると言った。ニーチェは神は死んだと言った。まさしく、現代は神不在の時代である。だから、露見しなければ、若しくは、罰せられなければ、ほとんどの人間は犯罪に手を染めてしまうだろう。俗人だからである。また、バタイユは「男性にとって全てのセックスはレイプである」と言った。性欲は相手の女性を支配したいという欲動の支配欲から起こるのである。セックスは相手の女性を支配した証である。もちろん、相手の女性が納得しなければ犯罪になる。社会秩序を保つためにはレイプは罰せなければならない。しかし、男性の深層心理は相手の女性が納得していなくてもセックスという行動の指令を生み出すことがある。男性の深層心理はその場その時の快楽を求めて支配欲を満たすためにセックスという行動の指令を生み出し、男性をそそのかすのである。だから、露見しなければ、また、罰せられなければ、ほとんどの男性は、深層心理が生み出した行動の指令に従って、レイプに向かってしまう。戦場で女性がレイプされるのは、露見しても罰せられないからである。神が存在しない時代、神が死んだ時代に生きている俗人のなせる業である。しかし、カントは「あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」と言う。この根本法則に合致する行為が義務として私たちに妥当する行為であり、道徳的法則に従った者だけが良い意志を実現させると言うのである。すなわち、主体的に生きることができると言うのである。また、キルケゴールは「私にとって真理であるような真理を見出すこと、私がそのために生きかつ死ぬことができるような理念を見出すこと。それこそが大切なのである。」と言う。つまり、神不在の時代、すなわち、神の視線が存在しない時代にあって、一人一人の生き方が問われているのである。まず、深層心理が快感原則に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我になっている人間を動かそうとする。もちろん、自らの自我、他者の自我、他人の自我を傷付ける自我の欲望でなければ、それに従って行動し、快楽を得ることには、何の問題は無い。問題は、他者の自我、他人の自我を傷付ける自我の欲望である。すなわち、深層心理が、反道徳的な行為や非道徳的な行為、社会規約に反した行為を行動の指令として生み出した時、どのように対処するかである。もしも、他人が見ていたり、若しくは、後に他人に露見する恐れがあれば、人間は、表層心理で、道徳観や社会規約に照らして思考し、深層心理が思考して生み出し反道徳的な行為や非道徳的な行為、社会規約に反した行為を行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって抑圧するだろう。反道徳的な行為や非道徳的な行為をなせば他者から非難され、社会規約に反した行為をなせば罰せられ、自我が傷つけられるからである。しかし、もしも、他人が見ていなければ、若しくは、後に他人に露見する恐れがなければ、多くの人は、深層心理が生み出した反道徳的な、非道徳的な、社会規約に反した行動の指令に従って行動するだろう。これが俗人である。言うまでもなく、他人が見ていなくても、若しくは、後に他人に露見する恐れが無くても、表層心理で、道徳観や社会規約に照らして思考し、深層心理が思考して生み出し反道徳的な行為や非道徳的な行為、社会規約に反した行為を行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって抑圧しなければならないのである。それが主体的に生きるということである。Kの道、カントの道徳法則、キルケゴールの真理、理念がそれである。すなわち、一人一人が自らの道、道徳法則、真理、理念を見出し、それに従って生きることである。しかし、これが非常に難しいのである。なぜならば、人間は、深層心理が、快感原則によって、欲動の保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望に基づいて思考して生み出した自我の欲望に動かされているからである。自我の欲望に従って行動すればその場の快楽が得られるのである。しかも、自らの道、道徳法則、真理、理念に従って生きると、快楽は得られず、地位を失い、誰にも評価されず、誰も自分に従わず、仲間が一人もいないという状況に陥る可能性があるのである。自らの道、道徳法則、真理、理念に従って生きている人の得るものは、主体的に生きているという充実感だけである。しかし、主体的に生きている人には、感情的な行動は存在しない。深層心理が強い感情を生まないからである。深層心理が生み出す自我の欲望に従って快楽を求めて生きるか、充実感を求めて主体的に生きるか、一人一人にゆだねられているのである。


性加害と自我の欲望について。(提言13)

2024-01-17 13:26:02 | 思想
「人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損ない、妻子を傷つけ、友人を苦しめ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。」と、中島敦の小説『山月記』で、主人公の李徴が反省の弁を述べている。まさしく、松本人志を猛獣にした性情は異常な性欲である。しかし、李徴と異なり、松本人志は反省していない。なぜ、松本人志は反省していないのか。それは、俗人だからである。人間としての向上心が無いのである。芸人世界では、自我の欲望を満たすことだけを生きる目的としているのである。また、なぜ、松本人志は自らの性情である異常な性欲に身をゆだねたのか。それは、快楽が得られるからである。週刊文春によって松本人志の性加害が暴かれた。彼に若い女性たちをだまして斡旋していたのは、今までに発表されているところでは、吉本興業の後輩芸人である小沢一敬、黒瀬純、たむらけんじ、渡邊センスなどである。なぜ、松本人志が若い女性たちの肉体をもてあそんだのか。それは、支配欲を満たすためである。なぜ、松本人志が見も知らない女性をもてあそぶことを自分は許されていると思ったのか。芸人世界で君臨しているからである。周囲から天才だともてはやされ、天才の自分に抱かれた女性は幸福感に包まれるはずだと思い込んだのである。なぜ、松本人志が多くの女性をもてあそぶことができたのか。それは、後輩芸人たちが彼女たちをだまして高級ホテルに連れ込み、逃げられないようにしたからである。なぜ、後輩芸人たちはそのようなことをしたのか。それは、大衆に人気があり芸人世界で絶大な権力がある松本人志に認められることによって、芸人という自我を保持、発展させたいからである。すなわち、承認欲、保身欲からなのである。まぜ、長年の間、松本人志と後輩芸人たちは性加害を行ってきたのか。それは、同じ悪事を犯しているという連帯感からである。すなわち、共感欲を満たすことができたからである。なぜ、多くの女性は、芸人にだまされ、松本人志に抱かれてしまったのか。それは、ある人は芸能界に入りたく思い、ある人は芸能界にとどまりたかったからである。すなわち、保身欲からである。それほど、松本人志は芸人世界で絶大な権力があったのである。すなわち、支配力があったのである。しかし、松本人志に限らず、多くの人間は、快楽を求めて生きているから、露見しなければ、いかなる犯罪も行ってしまう可能性があるのである。俗人とはそういうものなのである。聖人君子はこの世では稀にしか存在しないのである。さて、人間は、常に、構造体に所属して、自我を持して生きている。自我とは、人間が、構造体の中で、役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属して、自我として生きているのである。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、そして、芸人世界などがある。国という構造体では、首相・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では夫と妻という自我がある。そして、芸人世界では芸人という自我があるのである。性加害という事件を起こした時、松本人志、小沢一敬、黒瀬純、たむらけんじ、渡邊センスは、吉本興業という芸人世界の構造体に所属して、芸人という自我を持して生きていた。彼らは今でも芸人世界の構造体に所属している。もちろん、彼らは、他の構造体に所属して他の自我を持して行動することもある。例えば、国という構造体に所属して国民という自我を持し、家族という構造体に所属して父という自我を持し、コンビニという構造体に所属して客という自我を持し、夫婦という構造体に所属して夫という自我を持して行動することもあるのである。彼らは吉本興業という芸人世界の構造体に所属して、芸人という自我を持していきていたからこそ、性加害事件を起こしたのである。なぜならば、人間は常に構造体に所属して自我を持して生きているが、深層心理が、自我を主体に立てて、その時その場での快楽を求めて、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするからである。深層心理とは人間の無意識の精神活動である。深層心理の思考、すなわち、無意識の思考が常に人間を動かそうとするのである。深層心理は自我の状態を欲動にかなったものにすれば快楽が得られるので、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在している保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望の集合体である。保身欲とは自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。承認欲とは自我が他者に認められたいという欲望である。支配欲とは自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。共感欲とは自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。欲動には、道徳観や社会規約を守るという欲望は存在しない。道徳観や社会規約を守るという志向性は表層心理に存在する。表層心理とは、人間の自らを意識しての精神活動である。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、自我を主体に立てて、その時その場での快楽を求めて、欲動に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。つまり、人間は自ら主体的に思考して行動しているのではなく、深層心理がその時その場での快楽を求めて思考して自我の欲望を生み出して人間を動かそうとするのである。松本人志の場合、深層心理が支配欲を満たすという快楽を求めて思考して、性加害という行動の指令を生み出し、彼をを動かしたのである。後輩芸人たちの場合、深層心理は松本人志に承認されるという快楽、芸人世界にとどまるという快楽を求めて思考して、松本人志に若い女性を斡旋しろいう命令に服することを行動の指令として生み出し、彼らを動かしたのである。松本人志と後輩芸人たちが長年の間性加害を続けてきたのは同じ悪事を犯しているという連帯感から共感欲を満たすことができたからである。松本人志、小沢一敬、黒瀬純、たむらけんじ、渡邊センスは、俗人である。深層心理が思考して生み出した自我の欲望に無反省に従って行動したからである。彼らは、吉本興業という芸人世界の構造体に所属して、芸人という自我を持して生きている(生きていた)限り、俗人である(俗人だったのである)。しかし、彼らに限らず、深層心理が自我を主体に立てて思考して人間を動かそうとするのである。人間は自我の主体になっていないのである。すなわち、人間は自ら主体的に思考して行動していないのである。それでは、なぜ、人間は自我の主体になれないのか。すなわち、なぜ、人間は主体的に思考して行動できないのか。それは、人間は、常に、構造体に所属して、自我を持して生きているが、その自我は構造体と他者によって与えられたものだからである。他者とは構造体内の人々である。人間は生きるということは自我として生きるということであり、自我は構造体と他者によって与えられるから、人間は構造体と他者の思惑を無視して主体的に自らの行動を思考することはできないのである。そうすれば、構造体から追放され、自我を失う虞があるからである。構造体から追放され、自我を失う覚悟がある者だけが、主体的に思考して行動できるのである。しかし、そのような人はこの世に何人存在するだろうか。また、そもそも、人間の表層心理での思考は、深層心理の思考の結果を受けて始まるから、人間は、最初から、正義に基づく主体的な思考はできず、自己として存在していないのである。表層心理とは、人間の自ららを意識しての精神活動だからである。人間は、深層心理が生み出した感情の下で、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動したならば自我がどのような状況に陥るか、現実的な自我の利得の視点から思考して、深層心理が生み出した行動の指令に従うか拒否するかを考えることがある。拒否する結論が出たならば、自らの意志によって深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとするのである。表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、基本的に、長時間掛かかる。なぜならば、表層心理での思考は、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実原則とは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望である。この場合、性加害が露見する可能性が高かったならば、松本人志、小沢一敬、黒瀬純、たむらけんじ、渡邊センスは、表層心理で、現実原則に基づいて、松本人志が性加害を加えたならば、後に、自我がどうなるかという、他人のの評価を気にして、将来のことを考え、松本人志の性加害を抑圧しようとしただろう。他人とは構造外の人々である。しかし、性加害が行われた場所は、高級ホテルの密室であり、若い女性たちからスマホを取り上げていたので、他人に露見しないと思ったから、松本人志は、深層心理の支配欲が生み出す行動の指令のままに、彼女たちに性を強要したのである。松本人志、小沢一敬、黒瀬純、たむらけんじ、渡邊センスに限らず、人間は露見しなければ、往々にして、深層心理の欲動に基づいたその時その場での快楽を求めて思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に従って行動するのである。これが俗人のあり方である。ところが、ほとんどの人は、主体的に生きていると思っている。このような人は、深層心理が思考して自らを動かしているのに気づいていないだけなのである。また、主体的に生きていないと思っている人は、その原因は構造体や他者による妨害だと思っているのである。だから、松本人志のように、芸人世界に君臨し、吉本興業という構造体や他の芸人たちという他者の妨害を受けることがないと思った人は、深層心理が支配欲によって見も知らない女性をもてあそぶことを行動の指令として生み出し、松本人志は嬉々としてそれに従ったのである。しかし、カントは「あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」と言う。この根本法則に合致する行為が義務として私たちに妥当する行為であり、道徳的法則に従った者だけが良い意志を実現させると言うのである。すなわち、主体的に生きることができると言うのである。また、キルケゴールは「私にとって真理であるような心理を見出すこと、私がそのために生きかつ死ぬことができるような理念を見出すこと。それこそが大切なのである。」と言う。俗人として生きるか主体的に生きるかは個人の判断によるのである。