あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、不安、恐怖、傷心、怒りを見つめ直さなければならない。(自我その461)

2021-01-30 17:24:49 | 思想
人間は、不安、恐怖、傷心に苦しみながら、生きている。それでは、何が、不安、恐怖、傷心を生み出して、人間を苦しめるのか。それは、人間の内なる心、深層心理である。つまり、自分が自分を苦しめているのである。深層心理とは、人間が自ら意識すること無く、心の奥底で行っている思考である。深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、不安、恐怖、傷心を生み出すから、人間は、不安、恐怖、傷心から逃れることはできないのである。深層心理が、不安、恐怖、傷心を生み出し、人間は、それらに苦しみながら、表層心理で、それらから脱却する方法を考え出そうとするのである。表層心理とは、人間の自ら意識しながら行う思考である。すなわち、深層心理が、不安、恐怖、傷心という苦痛をを生み出し、人間は、その苦痛から解放されるために、表層心理で、それらから脱却する方法を考え出そうとするのである。さて、まず、不安であるが、人間は、突然、不安に陥る。なぜ、人間は、不安に陥るのか。それは、自らの存在に必然性が無いからである。パスカルも、「私はあそこにいず、ここにいることに対して、恐れ、おののく。というのは、なぜ、あそこにいず、ここにいるのか。なぜ、あの時にいず、今この時にいるのか。全くその理由がわからないからである。」と言う。確かに、人間が、この時間、この空間にいることの必然性は存在しない。自分が選んだことでもなく、誰かに連れてこられたわけでもない。気がついたら、そこにいるのである。そこに、不安、恐怖、驚愕を覚えるのは、当然のことである。そもそも、人間の存在の必然性の無さは、誕生から始まっている。芥川龍之介の「河童」という小説には、河童の世界では、生まれる前の子供に「生まれてきたいか。」と誕生の意志を尋ね、誕生の意志を示したものだけが生まれてくることになっている。だから、生まれてきた河童には、誕生の必然性がある。しかし、人間は、誰一人として、誕生の意志を尋ねられていない。だから、誕生の必然性を有していない。母親にしても、どのような子供が生まれてくるかわからない。だから、母親の責任でもない。しかも、人間は、誰一人として、死を免れることはできない。生きたいという意志を持っていても、死は、必ず、やって来る。死は、突然かつ偶然、必然的にやって来る。つまり、人間は、意志無く誕生させられた上に、生への意志があっても死は確実に訪れるという理不尽な存在者なのである。中島敦の小説「山月記」に、主人公の李徴が、「全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押し付けられたものを大人しく受け取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。」と呟いているが、まさしく、人間は、押し付けられた人生を、自分の人生として生きるしかないのである。人間は、誰一人として、死を免れることはできず、生きたいという意志を持っていても、死は、突然かつ偶然、必ずやって来ることがあるのを知っているから、突然、不安に陥ることがあるのである。死への不安である。しかし、ハイデッガーは、死がすぐ身近にあると覚悟した者だけは不安を克服することができると言う。死がすぐ身近にあると覚悟するとは、常に自分を臨死の状態におくことである。それは、死を遠ざけるのではなく、敢えて、死を自らに引き受けて、死がいつ訪れても良いように覚悟することである。自分を常に臨死の状態におくことができれば、そこから、不安に襲われることが無くなり、覚悟ある人生が始まるとハイデッガーは言う。それが、ハイデッガーの言う、実存的な生き方である。次に、恐怖であるが、恐怖と不安は異なっている。不安は、人間の内面から襲ってくるもの、すなわち、死に対する深層心理が生み出した警戒心であるが、恐怖は、人間の外面から襲ってくるもの、すなわち、他者や他人に対する深層心理が生み出した警戒心である。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。他人とは、構造体外の人々である。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているのである。人間は、他者や他人を心から信用することがなく、常に、他者や他人に対して脅威を感じているから、実際に他者や他人が自らを襲ってくる状態でない時でも、他者や他人に対して恐怖を覚え、自らの現在の姿勢を意識する時があるのである。だから、人間が自らを意識する時は、常に、同時に、他者や他人の動向を探り、他者や他人の動向が意識に上ってくるのである。人間は、他者や他人の視線を感じた時、他者や他人がそばにいる時、他者や他人に会った時、他者や他人に見られている時に、他者や他人に対して恐怖を覚え、自らの存在を意識するのである。人間は、他者や他人の存在を感じた時、他者や他人に対して恐怖を覚え、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自我がどのような行動や思考をしているかという行動性を意識し、それと同時に、自我がどのような感情や心境という情態性の下にあるかということを意識することである。それでは、なぜ、人間は、他者や他人の存在を感じた時、自らの存在を意識し、自我の行動性と情態性を意識するのか。それは、人間は、常に、他者や他人の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じていて、他者や他人に対して警戒の念が生じたからである。さらに、人間は、無我夢中で行動していても、突然、自らの存在を意識し、自我の行動性と情態性を意識することがある。無我夢中の行動とは、無意識の行動である。人間は、そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識し、自我の行動性と情態性を意識することがあるのである。それも、また、人間は、常に、他者や他人の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じていて、他者や他人に対して恐怖を覚え、突然、他者や他人に対して警戒の念が生じたからである。だから、人間は、他者や他人を心から信用することがなく、常に、他者や他人に対して脅威を感じているから、実際に他者や他人が自らを襲ってくる時はもちろんのこと、実際に他者や他人が自らを襲ってくる状態でない時でも、他者や他人に対して恐怖を覚え、自らの現在の姿勢を意識する時があるのである。人間は、他者や他人に対しての恐怖から逃れることができないのである。なぜならば、他者や他人の心を覗き込むことができないからである。しかし、サルトルは、他者に対して、見られる姿勢から見る姿勢へと生き方を変えると、恐怖を覚えなくなると言う。サルトルは「地獄とは他者のことである。」と言う。なぜならば、人間は、他者に見られていると意識すれば、他者に見つめられていると意識すれば、他者に睨まれていると意識すれば、恐怖を感じるからである。だから、かつて、やくざが眼を付けたと言って暴力を振るうことがよく起こったのである。刑務官が死刑を執行する時に、死刑囚に覆面をするのは、死刑囚に見つめられるのが恐いからである。死刑囚に恐怖を覚えさせないようにするという思いやりからでもなく、死刑囚の最期の表情を見せないようにするという尊厳を守るためでもなく、刑務官が自らの行為を恥じているからである。レヴィナスは、人間は、他者の顔を見ると、他者の視線にあうと、良心が芽生え、自らを恥じてしまうと言う。つまり、人間は、他者の視線にあうと動揺してしまうのである。しかし、視線を送ってくる人は他者であって、他人ではない。他人とは、赤の他人という言葉があるように、構造体外の、全く関わりの無い人である。しかし、視線を送ってくる人は、関わりの無い人ではない。関わりがあるからこそ、視線を送ってくるのである。だから、視線を送ってくる人は他人であっても、その視線を意識すれば、他者になるのである。たとえ、自分が誤解して、相手が自分を見ていないのに、自分が見られていると意識すれば、その人は、それまでは他人であっても、それからは他者となるのである。なぜならば、自分がその人のことを意識することで、自分とその人に関係ができたからである。サルトルは、見られている時に感じる恐怖から脱するために、最も効果的なことは、自分もその人を見ることだと言う。つまり、見返すのである。こちらからも視線を送るのである。それでは、なぜ、自分も相手を見ることが必要なのか。それには、二つの理由がある。一つの理由は、自らの考えを取り戻すためである。そのためには、相手から見られている恐怖から脱する必要があるのである。それは、見られている恐怖を味わっている間、恐怖から解放されるためにはどのようにしたらこの状況から脱することができるだろうかという考えがとらわれ、相手にイニシアチブを握られ、自分の考えができないからである。しかし、自分も相手を見ることの危険もある。見られた相手が、その恐怖に耐えきれず、一挙に形勢を逆転しようとして、復讐心を持って、悪口雑言を浴びせたりすることがあるからである。だから、相手を見返す時には、強さが必要なのである。虚心坦懐の強さが必要なのである。相手を打ち倒そうという意欲ではなく、対話をする強さ、優しさや余裕を持った強さが必要なのである。どちらがイニシアチブを執るとか、どちらの意見を認めるかということではなく、互いの立場を認め、良い結論を導くことを目的にするのである。相手がイニシアチブを執ろうとし、一方的に自らの意見を通そうとしても、虚心坦懐に対応する強さが必要なのである。虚心坦懐の心の姿勢を体得した時、新しい人間関係が開かれるのである。次に、自分も相手を見ることが必要なもう一つの理由は、自らがイニシアチブを執ることである。こちらが相手を見続け、相手が視線を外すのを待つのである。相手が視線を外せばこちらの勝利である。相手は、こちらの視線によって、恐怖を感じるばかりでこちらを見ることができず、こちらは、相手をゆっくりと観察できるからである。そうして、イニシアチブを握るのである。しかし、相手が視線を外さず、両者が見つめ合うこともある。その時はどのようになるであろうか。両者ともに、見続けた方が勝者となり、視線を相手から外した者が敗者となると思っているから、にらみ合いが続くだろう。そうして、何かの出来事で、二人のにらみ合いは中断する。しかし、二人にわだかまりが残り、その後も、承認闘争が続くのである。しかし、相手を見続けることの危険もある。見続けられている者が、その屈辱に耐えきれず、一挙に形勢を逆転しようとして、復讐心を持って、暴力を振るったり悪口雑言を浴びせたりすることがあるからである。このように、視線の掛け合いで勝利しても、大きなしっぺ返しを食らうことがあるのである。だから、大抵の人は、サルトルの忠告に従わず、自ら、視線を外し、敗者の道を選ぶのである。しかし、サルトルは、相手を見続けるだろう。それが、サルトルの生き方だからである。しかし、人間は、他者に見つめられている時、恐怖ではなく、喜びを覚えることがある。つまり、相手の視線には見る視線と愛の視線の二種類があるのである。相手の視線が見る視線ならば、こちらは恐怖を覚え、相手の視線が愛の視線ならば、こちらは喜びを覚えるのである。そして、相手は、こちらに愛の視線を送ってくるということは、相手は自らの愛情をこちら側に気付いてほしいだけでなく、こちらからの愛情も求めているのである。人間の深層心理は、こちらが相手を愛している時には、相手にこちらの愛の存在を気付かせ、相手からの愛情を求めてやまないのである。もちろん、相手が見る視線を送っているのに、こちらはそれを愛の視線だと誤解することも時には起こる。もちろん、相手が愛の視線を送っているのに、こちらはそれを見る視線だと誤解することも時には起こる。これらは、人生における悲喜劇の原因の一つになっている。また、人間は、見る視線にせよ、愛の視線にせよ、どちらかわからない視線にせよ、相手から見つめられると、自らを反省する。自分の容貌、服装、言動、行動を省みる。自らを反省する時があるからこそ、人間は社会生活を送れるのである。人間は、実際に他者から見られる機会があるから、他者から見られることを想像できるから、自分自身を反省し、社会生活を送ることができるのである。もしも、人間は、他者から見られても反省することがなくなったら、社会生活を送れなくなる。それ故に、誰しも、他者から視線を受けると、時には、その視線に、見られているということを意識して、恐怖を覚え、時には、その視線に、愛情を感じて、喜びを覚えて、相手の存在を感じ取るが、それ以外に、他者からの視線は、自ら自身の反省を促し、社会生活を行う上での礎になっているのである。さて、それでは、なぜ、人間は、相手の視線に愛情を感じることができるのか。それは、人間は、他者から認めててもらいたい、尊敬してもらいたい、好評価・高評価を受けたい、愛してもらいたいなどの欲望の志向性を持って生きているからである。だから、逆に、人間は、他者から認めてもらえなかったり、無視されたり、軽蔑されたり、悪評価・低評価を受けたり、嫌われたり、憎まれたりすると、傷心するのである。しかし、他者から認めててもらいたい、尊敬してもらいたい、好評価・高評価を受けたい、愛してもらいたいなどの欲望の志向性は、人間が、自ら、意識して、思考して、生み出して、持っているのではない。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、持っているのではない。すなわち、人間の、他者から認めててもらいたい、尊敬してもらいたい、好評価・高評価を受けたい、愛してもらいたいなどの欲望の志向性は、深層心理の中にある志向性なのである。さて、人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているが、深層心理が、常に、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて、行動しているのである。つまり、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望が、人間を動かしているのである。深層心理は、人間の無意識の思考だから、人間は、深層心理を動かすことはできないのである。もちろん、人間の意識しての思考も存在する。それが、表層心理での思考である。しかし、人間は、表層心理で、自らを意識したり、意識して思考したりすることがあるが、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すことはできないのである。さて、深層心理は、常に、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているが、欲動とは、深層心理に内在している、四つの欲望である。欲動には、第一から第四まで、四つの欲望がある。欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。これが、深層心理には、自我の保身化という志向性での思考となって現れるのである。つまり、深層心理は、保守的な志向性の下にあるのである。深層心理は、毎日、同じような感情や気分で、同じようなことをすることを欲望する。ニーチェの「永劫回帰」(全ての事象は永遠に同じことを繰り返すという思想)を支えているのは、この深層心理の欲望なのである。つまり、深層心理の志向は、習慣的な行動なのである。ルーティーン通り、行動することなのである。それでは、なぜ、深層心理は、毎日、同じような感情や気分で、同じようなことをすることを志向するのか。それは、欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという欲望があるからである。その方が、生活が安全だからである。人間にとって、深層心理による習慣的な行動の方が安全なのである。だから、夫が会社をを辞めて新しい仕事を始めようとすると、妻は、決まって、反対するのである。ルーティーンの生活が破られるからである。そこで、妻の中には、深層心理が怒りの感情と離婚という行動の指令という自我の欲望を生み出す者も現れるのである。人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持し、アイデンティティー得なければ、深層心理が生み出す自我の欲望を満たすために生きることができないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、安定した自我あっての自我の欲望の追求であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だからこそ、安定した構造体に所属し、安定した自我を持つことを望むのである。それは、安定した構造体でなければ安定した自我が得られず、安定した自我がなければ自我の欲望を追求できないからである。欲動には、第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。これが、深層心理には、自我の対他化という志向性での思考となって現れるのである。現在、日本では、オリンピック開催の可否が問題となっている。なぜ、東京オリンピックに、マスコミも国民も期待するのか。それは、それは、日本選手も自分も、日本という構造体に所属し、日本人という自我を持っているからである。日本国民は、日本選手が金メダルを中心にしたメダルを獲得すれば、世界中の人々から、日本という国・日本人という自我の存在が認められると思うから、嬉しいのである。それが、愛国心である。愛国心とは、国民という自らの自我を愛する心なのである。しかし、選手の中には、国民の期待に潰された人も存在する。それが、円谷光吉の悲劇である。円谷光吉は、1964年の東京オリンピックのマラソン競技で銅メダルを獲得し、次回の1968年のメキシコオリンピックでも日本中から活躍を期待されていたが、腰痛や椎間板ヘルニアの手術のために、十分に走れなくなり、同年の1月、「光吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。」という遺書を残して自殺している。27歳だった。円谷光吉は、国民の愛国心に答えられなくなり、国民の怒りや落胆を恐れて、自殺したのである。欲動には、第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。これが、深層心理には、対象の対自化という志向性での思考となって現れるのである。教諭が校長になろうとするのは、学校という構造体の中で、生徒・教諭・教頭という他者を校長という自我で対自化し、支配し、充実感を得たい欲望があるからである。大工は、材木という物を対自化し、加工し、家を建てるのである。哲学者は人間と自然を対象として、哲学思想で捉え、支配しようとし、心理学者は人間を対象として、心理思想て捉え、支配し、科学者は自然を対象として、科学思想で捉え、支配しようとする。だから、校長の中には、自らに刃向かう教諭に傷心し、怒りの感情で、他校へ移動させる者がいるのである。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者との共感化という作用である。これが、深層心理には、自我の他者との共感化という志向性での思考となって現れるのである。共感化とは、自我と他者が心の交流をすること、愛し合うこと、友情を育むこと、協力し合うことである。つまり、自我の他者との共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感化の機能である。だから、逆に、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を持った者の中には、相手から別れを告げられたために、深層心理が、傷心し、その傷心から立ち直るために、怒りという感情と復讐しろという行動の指令をを生み出し、自我を、すなわち、失恋した者を復讐の行動の指令の通りにストーカーとして動かし、傷心から解放されようとする者がいるのである。このように、深層心理は、人間の無意識にうちに思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているが、深層心理自身は、欲動にかなうような結果をもたらすように思考するのである。欲動にかなった結果になれば、快楽が得られるからである。人間は、他者から認めててもらいたい、尊敬してもらいたい、好評価・高評価を受けたい、愛してもらいたいなどの欲望の志向性を持って生きているが、これらの志向性は深層心理の中にあり、欲動の四つの欲望のいずれかに合致しているのである。だから、人間は、他者から認めててもらえれば、尊敬してもらえれば、好評価・高評価を受けることができれば、愛してもらうことができれば、快楽を得ることができるのである。だから、逆に、人間は、他者から認めてもらえなかったり、無視されたり、軽蔑されたり、悪評価・低評価を受けたり、嫌われたり、憎まれたりすると、傷心するのである。さて、欲動に、道徳観や社会規約が存在しないから、深層心理の思考にも、道徳観や社会規約は存在しないのである。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、深層心理は、欲動に基づいて、快楽を求めて、過ちを犯すような行動の指令を生み出すこともあるのである。そのような時には、深層心理の超自我の機能、表層心理での現実原則による思考で抑圧しなければならないのである。だから、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、人間は、そのまま自我の欲望に基づいて行動する場合、深層心理の超自我の作用によって行動する場合、表層心理で思考して行動する場合があるのである。深層心理が生み出した自我の欲望の通りの行動が、所謂、無意識の行動である。日常生活が、ルーティーンと言われる繰り返しの生活になるのは、無意識の行動だからである。日常生活がルーティーンの生活になるのは、深層心理を揺り動かす異常なことが起こっていないからである。しかし、人間は、どのような構造体においてでも、時には、失礼なことを言われたり、失礼なことをされたりして、自我が傷つけられることがあり、その時は、誰しも、深層心理が、怒りの感情とともに相手を侮辱しろ、殴れなどの行動の指令という自我の欲望を生み出すことがあるのである。稀れには、深層心理の敏感な人や深層心理が激震した人は、深層心理が、怒りの感情とともに相手を殺せという行動の指令という自我の欲望が生み出すことがあるのである。しかし、この後、人間は、まず、深層心理の超自我というルーティーン通りの行動をしようとする機能が、他者を侮辱しろ、殴れ、殺せなどの行動の指令を抑圧しようとするのである。超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理での自我に利益をもたらそうとする現実原則に基づいて、思考して、抑圧の結論を出し、意志によって、相手を侮辱しろ、殴れ、殺せなどの行動の指令を抑圧しようとする。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動した後のことを考慮し、行動の指令を抑圧しようとするのである。しかし、その後、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考えなければならないのである。それは、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。精神疾患は、深層心理が自ら陥ることによって、現実から逃れようとしているのである。さて、人間によって、感情と行動の違いがある。それは、なぜか。それは、人間は、深層心理の感度と好みが異なっているからである。まず、深層心理の感度が異なっていることについてであるが、それは、この世には、深層心理の敏感な人と鈍感な人が存在するということである。一般に、深層心理が敏感な人が苦労するのである。深層心理の敏感な人は、深層心理が生み出す感情が強過ぎるから、心が傷付きやすいからである。深層心理の敏感な人は、深層心理の鈍感な人に比べて、保身化・対他化・対自化・共感化の全ての機能は強いのであるが、問題を起こすのは、対他化の機能の強さである。深層心理の敏感な人は、他者から悪評価・低評価を受けると、深層心理は、強い対他化の機能によって、深く傷付き、激しい怒りの感情を生み出し、相手を侮辱せよ、相手を殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を出すのである。その後、深層心理のルーティーン通りの生活を送ろうとする超自我の機能が、深層心理が生み出した過激な行動の指令を抑圧しようとするが、深層心理が生み出した過激な感情が強過ぎると、抑圧できないのである。そうなると、人間は、表層心理は、それを受けて、意識して思考し、深層心理が生み出した深い傷心・激しい怒りという感情の中で、相手を侮辱せよ、相手を殴れなどの過激な行動の指令の適否を考えるのである。表層心理は、深層心理が出した行動の指令通りままに行動すると、その後、自分が困ることになると判断し、行動の指令を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した深い傷心・激しい怒りという感情が強過ぎるので、表層心理の抑圧が功を奏さず、深層心理が出した行動の指令のままに、相手を侮辱したり、殴ったりするのである。そして、案の定、困るはめに陥り、後悔するのである。また、たとえ、表層心理が深層心理が出した行動の指令を抑圧できたとしても、表層心理は、深層心理が生み出した深い傷心・激しい怒りの感情の中で、深い傷心・激しい怒りの感情から解放されるための方法を考え出さなければいけない。苦悩の思考が長く続くのである。だから、深層心理の敏感な人は、身を処するのに、深層心理の鈍感に人よりも、苦労が多いのである。もちろん、深層心理の敏感な人は、深層心理が、常に、過激な感情と過激な行動の指令という強い自我の欲望を生み出しているわけではない。むしろ、穏やかな感情と穏やかな行動の指令という穏やかな自我の欲望を生み出していることが多い。だから、日常生活は、たいていの場合、穏便に、過ごしていけるのである。しかし、他者から侮辱されるなどの異常な出来事があると、深層心理は、常に、瞬間的に思考するから、感情は瞬間的に湧き上がり、深く傷心し、激しく怒り、行動の指令は過激なものを出しがちなのである。だから、深層心理の敏感な人にとって大切なことは、深層心理が生み出した過激な感情や行動の指令に流されず、苦悩の中でも、表層心理で、自分の感情と行動の指令は、深層心理による現象だと思いなし、現実を冷静に見つめる訓練をすることである。意識して長く時間を掛けて、現実を冷静に見つめる態度を身につけるということである。そうすれば、深層心理の動揺ほどには、現実は、大したことが起こっていないということがわかるはずである。ニーチェが「永劫回帰」(自然も人間も同じことを繰り返す)という思想で説いているように、表層心理で意識して長く時間を掛けて、冷静に現実を見つめるという態度を繰り返していると、それが習慣となるのである。そうすると、深層心理が激しい過激な感情や過激な行動の指令を生み出さなくなるのである。しかし、深層神経の敏感な人にも、良いこともある。深層神経の敏感な人は、些細なことでも感動し、その感動も大きい。そして、その感動を定着させようとして、芸術を創造するのである。だから、芸術家に、深層心理の敏感な人が多いのである。また、深層心理の敏感な人は、苦悩の中で長時間思考することが多いから、哲学者、心理学者などの思想家も多いのである。また、どの構造体においても、誰しも、自分が好きな人、自分を好きな人、自分が嫌いな人、自分を嫌いな人が存在し、それが、個々の人によって異なっていることである。好き嫌いは、表層心理で判断したことではなく、深層心理が決めることであるから、異なってくるのである。人間、誰しも、いろいろな構造体に属しているが、その構造体の中には、必ず、自分が嫌いな人、自分を嫌う人がいる。毎日のように、同じ構造体で暮らしていると、必ず、自分が好きな人、自分を好きな人、自分が嫌いな人、自分を嫌う人が出てくる。言うまでもなく、自分が好きな人、自分を好きな人については、ストーカー以外は問題ではない。問題は、自分が嫌いな人、自分を嫌うである。しかも、自分が相手を嫌いになれば、相手がそれに気付き、相手も自分を嫌いになり、相手が自分を嫌いになれば、自分もそれに気付き、自分も相手を嫌いになるものである。だから、片方が嫌いになれば、相互に嫌いになるのである。また、嫌いになった理由は、意地悪をされたからとか物を盗まれたからというような、表層心理が理解できるような、明確なものは少ない。多くは、深層心理が決めているので、自分でも気付かないうちに嫌いになっている。そして、表層心理で、嫌いになったことを意識するようになると、相手の挨拶の仕方、話し方、笑い方、仕草、雰囲気、態度、声、容貌など、全てを嫌うようになる。好き嫌いは、深層心理が決めるから、その理由がはっきりしないのである。しかし、誰しも、後に気付くことであるが、どうでも良いような、たわい無いことが原因であることが多いのである。しかし、一旦、自分が相手を嫌いだと意識すると、それが表情や行動に表れ、相手も自分も嫌いになり、同じ構造体で、共に生活することが苦痛になってくる。その人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がしてくる。自分が下位に追い落とされていくような気がしてくる。いつしか、相手が不倶戴天の敵になってしまう。しかし、嫌いという理由だけで、相手を構造体から放逐できない。また、自分が、現在の構造体を出ても、別の構造体に見つかるか不安であり、見つかってもなじめるか不安であるから、とどまるしかない。そうしているうちに、深層心理が、嫌いな人を攻撃するように命じるようになる。深層心理は、相手を攻撃し、相手を困らせることで、自我が上位に立ち、苦痛から逃れようとするのである。ここで、小学生・中学生・高校生ならば、自分一人で攻撃すると、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れないので、友人たちを誘うのである。自分には、仲間という構造体があり、共感化している友人たちがいるから、友人たちに加勢を求め、いじめを行うのである。友人たちも、仲間という構造体から放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。しかし、大人は、そういうわけには行かない。いじめが露見すれば、法律で罰せられ、最悪の場合、一生を棒に振るからである。もしも、嫌いな相手が上司で、セクハラ・パワハラのような行為があれば、訴えれば良いが、気にくわないということだけでは、上司を更迭できない。逆に、それを態度に示すだけで、上司に復讐され、待遇面で不利になる。また、同輩・後輩が嫌いな場合、陰で悪口を言いふらして憂さを晴らす方法もあるが、自分がネタ元だと露見すれば、復讐されるだろう。だから、深層心理の行動の指令のままに、相手を攻撃することはナンセンスなのである。では、どうすれば良いか。言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接すれば良いのである。しかし、それは、偽善ではないか。確かに、深層心理の行動の指令には、背いている。しかし、相手を嫌いな理由が、どうでも良い、たわい無いことだから、誰にも相談できず、訴えることもできず、一人で抱え込み、悶々と悩んでいるのである。もしも、第三者に納得できるような明瞭なものであるならば、既に、誰かに相談しているか、訴えているはずである。これ以上、悪化させないことである。相手にはこれ以上不愉快な思いをさせず、自分もこれ以上不愉快な思いをしないためには、これが最善の方法なのである。確かに、嫌いな相手に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接することは、自尊心が傷付けられるかも知れない。しかし、幼い自尊心は捨てるべきである。「子供は正直だ」と言われるが、深層心理に正直な行動は子供だから許されるのである。深層心理に正直な行動は、瞬間的には憂さは晴れるかも知れないが、後に、周囲から顰蹙を買い、相手から復讐にあい、嫌いだという不愉快な感情を超えて、自らを困難な状況に追い込んでしまうのである。また、嫌いな相手に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接しているうちに、相手が自分のことを徐々に好きになり、自分も相手に対する嫌悪感が徐々に薄まっていくことがあるのである。少なくとも、人に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接している限り、非難されることは無いのである。また、非難されても、正当に反論して良いのである。非難されるいわれは無いからである。そもそも、構造体も自我も、その存在に、必然性は無いのである。そういう意味では、人生は虚構である。人間は、虚構の中に生きているのである。しかし、虚構だから何をしても良いというのでは無い。そもそも、何をしても良いという思いは、深層心理の強い欲望であり、それは、現実密着型の人間の発想であり、人生を虚構だと考えている人からは生まれてこないのである。人間は、現実を虚構だと思い、虚構を生き抜いていけば良いのである。虚構だと思えば、自由が生まれてくるのである。自分の表層心理の意志によって、深層心理の現実密着の形而下の思考から距離を置き、形而下の思考を形而上の思考に変換させ、自分の思考によって、現実を編み直すことが大切である。そこに、自由の喜びがあるのである。




人間は、自らの精神構造を知ることによって、初めて、自らを知ることができる。(自我その460)

2021-01-25 15:27:56 | 思想
人間は、誰しも、自分で考えて行動していると思っている。しかし、人間には、自分そのものの行動は存在しない。人間は、自我として、行動しているのである。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動している。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。だから、人間には、自分そのものは存在しないのである。自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。人間は、他者を、他者の自我としてみている。他人とは、構造体外の人々である。人間は、他人を、その人が所属している構造体の中の自我としてみている。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。だから、人間には、おのおのの構造体における自我としての行動は存在するが、自分そのものの行動は存在しないのである。また、人間は、自己としても存在することもない。自己として存在するとは、自由に行動でき、主体的に思考しているということである。しかし、人間は、自我として存在し、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるから、人間は、自由になれず、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。他者の思惑を気にしないで思考し、行動すれば、その構造体から追放される虞があるからである。また、人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時に、自らの存在を意識する。人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自我がどのような行動や思考をしているかという行動性を意識し、それと同時に、自我がどのような感情や心境という情態性の下にあるかということを意識することである。それでは、なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識し、自我の行動性と情態性を意識するのか。それは、人間は、常に、他者や他人の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じていて、他者や他人に対して警戒の念が生じたからである。さらに、人間は、無我夢中で行動していても、突然、自らの存在を意識し、自我の行動性と情態性を意識することがある。無我夢中の行動とは、無意識の行動である。人間は、そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識し、自我の行動性と情態性を意識することがあるのである。それも、また、人間は、常に、他者や他人の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じていて、突然、他者や他人に対して警戒の念が生じたからである。それでも、人間が、自らに、自分の存在や自己の存在があると思い込んでいる。それは、人間は、自分の存在に執着し、自己の存在に憧れているからである。執着の念、憧憬の念が、実際には存在していないものを存在しているように思わせるのである。神の存在、来世の存在と同じ現象である。さて、人間は、常に、構造体に所属し、自我を持して行動しているが、人間は、表層心理で思考して、行動しているわけではない。表層心理とは、自らを意識することであり、自ら意識して思考することであり、自らの意志である。すなわち、人間は、表層心理で、自ら意識して思考して、自らの意志によって、行動していないのである。深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間はそれに動かされて、行動しているのである。深層心理とは、人間の無意識のうちでの思考である。すなわち、人間は、無意識のうちに、深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのである。人間は、自らの深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に捕らわれて生きているのである。自我の欲望は、感情と行動の指令の合体したものであり、感情が行動の指令を実行させる推進力になり、人間の活動の原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して生み出していない自我の欲望に動かされて生きているのである。しかし、自らが表層心理で思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、逃れることができないのである。人間は、生きている間、深層心理は感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かし続けるのである。もしも、人間が自我の欲望から逃れることができることがあったり、深層心理が自我の欲望を生み出すことがなくなるようなことが起これば、人間は生ける屍になるしかないのである。だから、人間は、自らの心に、あることをしたいという自我の欲望をどのようにしたら生み出すことができるだろうかと考えても、解答が出てこないのである。この問いかけ自体が間違っているのである。なぜならば、あることをしたいという自我の欲望は、人間は、自らの意志で、自ら意識して思考して、作り出すことができないからである。人間の心の奥底にあり、人間が意識していない、深層心理が、あることをしたいという自我の欲望を生み出しているのである。つまり、人間は、自らの意志や意識という表層心理があることをしたいという自我の欲望を生み出せず、無意識という深層心理がそれを生み出しているのである。つまり、深層心理が思考して、あることをしたいという自我の欲望を生み出しているのである。だから、受験生が勉強したいという自我の欲望が起こらなくても、自らを責めるのではなく、深層心理から勉強をするような気持ちを起こさせるようにすべきなのである。睡眠時間を増やしたり、勉強する時間帯を変えたり、勉強する場所を変えたり、部屋の環境を変えたり、机の位置を変えたりなどして、深層心理が動くようにすべきなのである。だから、確かに、人間は、自らの意志や意識という表層心理で思考して、あることをしたいという自我の欲望を生み出していると思える時があるが、表層心理で思考して生み出したと思える自我の欲望も、実際は、深層心理が生み出した自我の欲望を表層心理で修正したものであるか、深層心理が自我の欲望を生み出しやすいように表層心理が導いたものなのである。しかし、人間は、表層心理で修正した深層心理が生み出した自我の欲望も表層心理が導き深層心理が生み出した自我の欲望も、表層心理でオリジナルに生み出したと思っているから、人間は、誰しも、時には、自らの心に、怒りの感情とともに他者を侮辱しろ、殴れなどの行動の指令という自我の欲望が湧き上がってくることがあると、自らの心の醜さに驚き、自らに絶望するのである。しかし、自我の欲望は深層心理によって生み出されるから、時には、怒りの感情とともに他者を侮辱しろ、殴れなどの行動の指令という自我の欲望が生み出されることがあるのである。稀には、深層心理の敏感な人や深層心理が激震した人は、深層心理が、怒りの感情とともに他者を殺せという行動の指令という自我の欲望が生み出すのである。しかし、この後、人間は、深層心理の超自我というルーティーン通りの行動をしようとする機能や表層心理での自我に利益をもたらそうとする現時原則に基づく思考から、他者を侮辱しろ、殴れ、殺せなどの行動の指令を抑圧するのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。人間は、その自我の欲望に動かされて、行動しているのである。つまり、人間の行動は、全て、自我の欲望の現れなのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考を知らず、自らの意志によって自らを意識しながら思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らないから、自らの意志によって自らを意識しながら思考したことを意志として実行し、主体的に暮らしていると思っているのである。確かに、人間は、表層心理で、思考することがある。しかし、人間が、表層心理で、自らの意志によって自らを意識して思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議する時だけなのである。しかも、人間は、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに、表層心理で審議することなく、行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、人間の行動において、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動が多いのである。ドイツの哲学者のニーチェは「全ては永劫回帰する」と言うが、人間の日常もそれに当てはまるのである。さて、人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのであるが、自我の欲望は、時には、深層心理の超自我の機能、表層心理での現実原則に基づく思考によって、軌道修正されることがあるのである。これから、心境、欲動、快感原則、感情と行動の指令、超自我、表層心理、現実原則について、順に、説明していこうと思う。まず、心境であるが、心境は気分とも表現される。心境は、感情と同じく、情態性という心の状態を表している。深層心理は、常に、ある心境やある感情の下にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、人間の心境であり感情である。深層心理は、心が空白の状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境や感情に動かされているのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽悪などの、突発的に生まれる心の状態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境や感情の状態の時には、欲動は、深層心理をして、現在の状態を維持させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させるのである。人間は、不得意の心境や感情の状態の時には、欲動は、深層心理をして、現在の状態から脱却させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させるのである。つまり、深層心理は、自らの現在の心境や感情を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しいという心境や感情が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、深層心理にとって、苦しみの心境や感情から、苦しみを取り除くことが最大の目標であるからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態性が大切なのである。それは、常に、心境や感情という情態性が深層心理を覆っているからである。深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在してからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろな物やことの存在を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろな物やことががそこに存在していることを前提にして、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろな物やことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分や物やことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換をして、心境を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。次に、欲動であるが、欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動が、深層心理を動かしているのである。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなえば、快楽を得ることができるのである。だから、深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとしているのである。欲動の四つの欲望のうちの第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。簡潔に言えば、安心欲である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。簡潔に言えば、承認欲である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。簡潔に言えば、支配欲である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。簡潔に言えば、愛欲である。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。さて、欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、それは、自我の保身化という作用として現れる。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。退学者・失業者が苦悩するのは、生徒・会社員という自我で温かく迎えてくれる構造体が数少ないからである。裁判官が安倍前首相に迎合した判決を下し、高級官僚が公文書改竄までして安倍前首相に迎合したのは、正義よりも自我が大切だからである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は、自殺した生徒よりも自分たちの自我を大切にするから、事件を隠蔽するのである。いじめた子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないから、いじめの事実を隠し続け、自殺にまで追い詰められたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、構造体を維持しようとするのである。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、構造体の消滅を認めるしかないから、相手を殺して、その辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできずに、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令に従ってしまうである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。しかし、人間は、愛国心、すなわち、自我の欲望を、自ら、意識して生み出しているわけではなく、無意識のうちに、深層心理が愛国心という自我の欲望を生み出しているのである。つまり、世界中の人々は、皆、自らが意識して生み出していないが、自らの深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望であるが、それは、自我の対他化という作用として現れる。それは、深層心理が、自我が他者に認められることによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。さらに、自我の対他化には、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探るという作用がある。他者に認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、認められれば、評価されれば、好かれれば、愛されれば、信頼されれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。受験生が有名大学を目指すのは、教師や同級生や親から褒められ、世間から賞賛を浴びたいからである。若い女性がアイドルを目指すのは、大衆から賞賛を浴びたいからである。宇宙飛行士を目指すのは、宇宙から帰還して、国民から賞賛を浴びたいからである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉は、自我が他者に認められたいという深層心理の欲望、すなわち、自我の対他化の作用を端的に言い表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。そして、人間が苦悩に陥る主原因が、深層心理の自我の対他化の欲望がかなわず、他者から悪評価・低評価を受けたことである。そのために、鬱病などの精神疾患に陥ることがあるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から好評価・高評価を得たいと思っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なり、苦悩し、深層心理が、この苦悩から脱出するために、自らを、精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにしたのである。すなわち、現実逃避することによって苦悩から逃れようとするのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望であるが、それは、対象の対自化という作用として現れる。対象の対自化は、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化は自我が他者によって見られることならば、対象の対自化は自我の志向性(観点・視点)で他者・物・現象を見ることなのである。対象の対自化には、有の無化と無の有化という作用がある。さらに、有の無化には二つの作用がある。その一つは、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。)という一文で表現することができる。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、「人は自己の欲望を心象化する」のである。「人は自己の欲望を心象化する」には、二つの作用の意味がある。その一つは、無の有化の作用であり、もう一つは有の無化の作用である。無の有化の作用とは、「人間は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。」である。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。ストーカーは、相手の心から自分に対する愛情が消えたのを認めることが辛いから、相手の心に自分に対する愛情がまだ残っていると思い込み、その心を呼び覚ませようとして、付きまとうのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。「人は自己の欲望を心象化する」の有の無化の意味は、「人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込む。」である。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。さて、対象の対自化の作用を徹底させたのが、ニーチェの「権力への意志」という思想である。確かに、人間は、誰しも、常に、対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、他者の視線にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、それは、自我と他者の共感化という作用として現れる。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、それほど屈辱感が強かったのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは、何よりも、他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、価値があるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終われば、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否するという仲の悪い状態に戻るのである。人間は、自我の動物であるから、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望に動かされてしまうのである。政治権力者は、敵対国を作って、大衆の支持を得ようとする。安倍晋三前首相は、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆の支持を集めたのである。「呉越同舟」を利用した、自我のエゴイスティックな行動である。次に、快感原則であるが、快感原則とは、フロイトの用語であり、快楽を求め不快を避けたいという欲望である。深層心理は、欲動という四つの欲望を満たすことで、自我が快楽を得るように、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我を動かしているのである。快感原則とは、ひたすらその時その場で、欲動の四つの欲望のいずれかを満たして、快楽を得、不快を避けようという欲望であり、そこには、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。次に、感情と行動の指令という自我の欲望であるが、深層心理は、人間の無意識のうちに思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我の欲望をもって自我を動かそうとするのである。深層心理が生み出す感情の最も激しいのは怒りの感情であるが、怒りの感情それだけで生み出されることは無い。常に、相手を殴れなどの行動の指令を伴うのである。深層心理が怒りの感情と相手を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我に提出し、自我に相手を殴ることを促すのである。しかし、深層心理には、超自我という作用もあり、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧しようとするのである。超自我は、深層心理に内在する欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という作用である。フロイトによれば、超自我とは、道徳観や社会的規約によって、自我の欲望を抑圧することである。しかし、深層心理に、道徳観や社会的規約を有しない快感原則と道徳観や社会的規約を有する超自我が同居することになるから、矛盾することになるが、フロイトの言うことが正しいとしても、常に、快感原則が先に動き、超自我はそれを軌道修正するものとして、後に作用することがあるのである。なぜならば、超自我は、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する作用だからである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する審議は、表層心理に移されるのである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。自我が不利益を被らないように、行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、他者に対する配慮、道徳観、社会規約などから思考するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を殴ったならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。そして、再び、この状況から逃れるためにはどうしたら良いかという苦悩に陥るのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。しかし、誰かが自我が傷つけても、深層心理は、時には、傷心の感情から解放されるための怒りの感情と相手を攻撃するという自我の欲望を生み出さず、うちに閉じこもってしまうことがある。それは、攻撃するのは、相手が強大だからであり、攻撃すれば、いっそう。自我の状況が不利になるからである。そうして、傷心のままに、苦悩のままに、自我の内にこもるのである。それが、憂鬱という情態性である。そのような時、深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことがある。深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことによって、現実を見えないようにし、現実から逃れようとするのである。人間は、誰しも、自ら意識して、精神疾患に陥ることはない。また、人間は、誰しも、自らの意志で、精神疾患に陥ることはできない。すなわち、表層心理という意識や意志では、自らの心に、精神疾患を呼び寄せることはできないのである。深層心理という人間の無意識の心の働きが、自らの心に、精神疾患をもたらしたのである。精神疾患には様々なものがあるが、代表的なものが、鬱病である。鬱病の基本症状は、気分が落ち込む、気がめいる、もの悲しいといった抑鬱気分である。また、あらゆることへの関心や興味がなくなり、なにをするにも億劫になる。知的活動能力が減退し、家事や仕事も進まなくなる。さらに、睡眠障害、全身のだるさ、食欲不振、頭痛などといった身体症状も現れることが多い。抑鬱気分が強くなると、死にたいと考える(自殺念慮が起こる)だけでなく、実際に、自殺を図ることもある。また、鬱病に罹患している人間は、表層心理で、自らの心理状態を意識して、自らの意志で、行動を起こそうという気にならない。また、たとえ、自らの意志で、行動を起こそうとしても、肉体が動かない。深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、自らの肉体が行動を全然起こさないようにしたのである。つまり、深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、鬱病の原因が学校や会社という構造体の中での出来事ならば、自らの肉体を学校や会社に行かせないようにしたのである。つまり、学校や会社で堪えられない情況にある人間の深層心理が、自らの心を、鬱病に罹患させることによって、抑鬱気分を維持させ、学校・会社の行かせないようにするという、現実逃避よる解決法を画策したのである。しかし、人間は、鬱病に罹患すると、学校や会社に行けなくなるばかりでなく、他のこともできなくなるのである。さらに、自殺を考えたり、実際に、自殺しようとしたりするのである。鬱病は、人間を、継続した重い気分に陥らせ、何もする気も起こらなくさせ、自殺を考えさせ、実際に、自殺しようとさせたりするから、大きな問題なのである。鬱病だけでなく、他の全ての後天的な精神疾患も、深層心理によってもたらされた現実逃避よる解決法である。統合失調症は、現実を夢のように思わせ、現実逃避をしているのでる。離人症は、自我の存在を曖昧にすることによって、現実逃避しているのである。このように、現実があまりに辛く、深層心理でも表層心理でも、その辛さから逃れる方策、その辛さから解放される方策が考えることができないから、深層心理が、自らを、精神疾患にして、現実から逃れたのである。しかし、精神疾患によって、現実の辛さから逃れたかも知れないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛の心理状態が、終日、本人を苦しめるのである。だから、精神疾患に陥った人に対して、周囲のアドバイスも励ましも、無効であるか有害なのである。精神疾患に陥った人は、現実を閉ざしているのであるから、周囲の現実的なアドバイスには聞く耳を持たず、無効なのである。また、周囲の「がんばれ」という励ましの言葉は、「がんばれ」とは「我を張れ」ということであり、「自我に執着せよ」ということであるから、逆効果であり、有害なのである。自我に執着したからこそ、現実があまりに辛くなり、精神疾患に逃れざるを得なくなったからである。そして、今、現実が見えない状態であるから、現実から来る苦しみはないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛によって苦しめられているのである。さて、精神疾患の苦痛から解放するために、薬物療法とカウンセリングが多く用いられる。確かに、精神疾患そのものの苦痛の軽減・除去には、薬物療法は有効であろう。しかし、現実は、そのまま残っている。現実を変えない限り、たとえ、薬物療法で、精神疾患の苦痛が軽減されても、その人が、そのことによって、再び、現実が見えるようになると、再び、元の精神疾患の状態に陥るようになることが考えられる。そこで、重要になってくるのが、カウンセリングである。カウンセリングは、自己肯定感を持たせることを目的として、行われる。精神疾患に陥ったのは、自分が無力であるため、現実に対処できず、深く心が傷付いたからである。そこで、自己に肯定感を持たせ、自信を与え、現実をありのままに受け入れるようにするのである。しかし、自分に力が無いと思い込み、外部に関心を持たない状態に陥っている者に対して、肯定感を持たせ、自信を持たせ、現実をありのままに受け入れるようにさせることは、至難の業である。だから、カウンセリングは、長い時間が掛かるのである。自分の感情を持てあますことから逃れるまでには、長い時間が掛かるのである。しかし、自宅が火事になり、取り残された子供を助けようとして、自らの命が失われる危険を省みずに、火の中に飛び込む母親が存在するが、それも、自我の欲望による行動である。感動的な行為であるが、それは、家族という構造体の中の母親という自我がそのようにさせるのである。深層心理が生み出した自我の欲望がそうさせるのであり、表層心理の思考による、主体的な意志によるものではない。だから、同じ人も、よその家が火事ならば、消防署には連絡しても、火の中に飛び込むことはないのである。人間は、構造体の中で、自我を得て、初めて、自らの存在が意味を帯びるのである。人間は、自らの社会的な位置が定まらなければ、つまり、構造体の中で自我が定まらなければ、深層心理は、自我の欲望を生み出すことができないのである。人間の存在とは社会的な位置であり、社会的な位置とは構造体の中での自我あであるから、人間にとって、構造体と自我が重要なのである。また、人間は、構造体に所属し、構造体内の他者にその存在が認められて、初めて、自らの自我が安定するのであるが、それがアイデンティティーを得るということである。つまり、アイデンティティを得るには、自らが構造体に所属しているという認識しているだけでは足りず、構造体内で、他者から、承認と評価を受ける必要とするのである。つまり、構造体内の他者からの承認と評価が存在しないと、自我が安定しないのである。自我が安定するとは、自我の欲望が満たされているということであるから、人間は、自我の欲望を満たすために生きるのである。自我の欲望を満たすとは、自我の存在を他者に知らしめ、快楽を追求することである。だから、人間にとって、すなわち、自我にとって、他者は、自我が自らの欲望を追求するための目標、若しくは、道具としての存在なのである。なぜならば、自我の欲望とは、自我を確保しつつ、他者を支配し、他者を排除し、なおかつ、自我を他者に認めてもらいたい、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるからである。人間は、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を所有して、自我の欲望を追求しながら、一生を送るのである。自我とは、言わば、役割を果たし、役柄をこなすという役を演じている人間のあり方である。しかし、人間は、意識して、思考して、その役を演じているのではない。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、その役を演じているのではない。すなわち、人間は、主体的に思考して、自我を動かすことができないのである。人間は、無意識に、思考して、その役を演じているのである。すなわち、人間は、深層心理が、思考して、その役を演じているのである。なぜならば、自我は深層心理に浸透し、人間と自我は一体化しているからである。深層心理が、自我と一体化し、自我を主体に立てて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて行動するのである。人間は、誰しも、常に、さまざまな構造体に所属して、その構造体に応じて、さまざまな自我を所有しているが、深層心理によって生み出された感情と行動の指令という自我の欲望によって動かされる存在でしかないのである。だから、人間は、誰しも、「あなたは何。」、「あなたは誰。」と尋ねても、一定の答は返ってこないのである。時と場所によって、自我が異なるからである。構造体によって、異なった自我を所有しているからである。彼女の息子が母だと思っているのは当然だが、彼女は母だけでなく、妻、教諭、客、乗客、県民、友人という自我をも所有しているのである。彼女は、家族という構造では母という自我を所有しているが、他の構造体では他の自我を所有して行動しているのである。だから、息子は母としか知らず、彼女の全体像がわからないのである。人間は、他者の一部の自我しか知ることができないのに、それが全体像だと思い込んでいるのである。だから、殺人事件が起こると、必ず、マスコミが犯罪者の真実の姿を追及し、会社、近所、親族、高校時代の仲間などという構造体を訪ねるが、その評価は同じではないのである。構造体に応じて、異なった自我を持ち、異なった評価が与えられているからである。そのなかで、マスコミが、悪評価・低評価の自我を真実の姿だとして取り上げているだけなのである。




人間は、壊れやすい存在者である。(自我その459)

2021-01-21 15:23:13 | 思想
「君子危うきに近寄らず」という諺がある。この諺は、立派な人は身を慎み、危険なところに近寄ろうとしないものだという意味である。それでは、なぜ、君子と言えども、危険なところに行ってはいけないのか。そこへ行くと、君子が君子でなくなるからである。君子の対義語が小人であり、小人とは、徳・度量の無い人を意味する。すなわち、君子と言えども、危険なところに行けば、徳・度量の無い人になってしまうのである。つまり、人間は、壊れやすい存在者なのである。それでは、危険なところとは、どのようなところであるか。そこは、自らが危険な心の状態に陥りやすく、危険な人が存在するところである。
人間にとって、危険な心の状態とは、傷心の感情の状態、怒りの感情の状態である。深層心理の敏感な人の方が、深層心理の鈍感な人よりも、心が傷付きやすく、感情の起伏が激しいから、傷心の感情の状態、怒りの感情の状態に陥りやすいのである。すなわち、深層心理の敏感な人は、危険な心の状態に陥りやすいのである。また、危険な人とは、自らが嫌っている人、自らを嫌っている人である。人間は、自らが嫌っている人、自らを嫌っている人と同じ所にいだけで、尋常な精神状態でいられないのである。さて、人間には、深層心理の敏感な人と鈍感な人が存在する。深層心理とは、人間の無意識の心の働き、無意識の思考である。人間の精神活動は、深層心理の思考から始まるのである。人間は、意味も無く、理由もなく、怒りの感情を持つことは無い。それは、決まって、傷心から始まるのである。深層心理が傷つけられたからである。怒りは、深層心理が思考して生み出した復讐の感情である。人間は、誰しも、深層心理には、他者から認められたい、評価されたいという欲望がある。しかし、それが、認められるどころか、貶され、プライドがずたずたにされたから、心が傷付き、深層心理が、その傷心から立ち上がろうとして、怒るのである。そして、深層心理の敏感な人は、感情の起伏が激しいから、激しく罵倒したり、いきなり殴り掛かるなどの乱暴を働くことがあるのである。だから、深層心理の敏感な人は、心が傷付きやすく、その傷付いた心を早く回復させるために、怒り、傷つけた人を激しく罵倒したり、乱暴を働いたりするのである。怒りは、深層心理が生み出した感情であり、自らの心を傷つけた相手に対する復讐を実行させる力になるものである。怒りの感情が、自らの心を傷つけた相手の立場を下位に落とし、相手の心を傷つけることによって、自らの立場を上位に立たせようとするのである。それは、自らの立場が下位に落とされた、心が傷付いたからである。だから、深層心理は、怒ると、徹底的に自らの心を傷つけた相手の弱点を突こうとするのである。そこには、見境は無い。自らの心を傷つけた相手の心を深く傷つけられるのならば、何でも構わないのである。自らの心を傷つけた相手の心が最も早く最も深く傷付く方法を考え出し、そこを徹底的に攻めようとするのである。相手の心が最も傷付く言葉で侮辱したり、腕力の劣った相手ならば暴力に訴えようとするのである。怒りはその時の傷心から逃れるためのものであるから、相手の弱点を突いて下位に落とそうとするのである。女性に対しては、「ブス」、「デブ」などと侮辱したり、男性に対しては、「能なし」、「ちび」などと侮辱したり、相手が抵抗するまもなく殴ったりするのである。もちろん、復讐した後は、自らが発した侮辱の言葉や暴力によって、相手が深くうらんだり、周囲から顰蹙を買うことによって、自らの立場を危うくすることが多い。しかし、その時は、怒りに駆られて、そのことまで思いを馳せる余裕が無いのである。なぜならば、深層心理は、侮蔑の言葉や暴力によって、相手を一瞬にして討ち倒そうとすることだけを考えているからである。怒りは、復讐によってその時の傷心から逃れるための感情であるから、相手が言葉によって傷付くならば言葉を投げかけ、相手が腕力が無かったり手が出せない立場ならば平手打ちを食わせたり蹴ったりするのである。侮蔑の言葉や暴力で、一撃で相手を打ち倒そうとするのである。それでは、人間は、どのような時に、心が傷付くのか。すなわち、深層心理は、どのようなことで傷付くのか。それは、注意されたり、侮辱されたり、殴られたり、陰口を叩かれたりすることなどである。それでは、なぜ、人間は、そのようなことで、心が傷付くのか。すなわち、なぜ、深層心理は、そのようなことで、傷付くのか。それは、自らの立場が下位に落とされたからである。つまり、プライドが傷付けられたからである。換言すれば、人間は、他者に認められようと生きているのである。それが、認められるどころか、貶され、プライドがずたずたにされたから、心が傷付き、深層心理は、その傷心から立ち上がろうとして、怒るのである。怒りは、深層心理が傷付いたから、その代償を相手に求め、相手の心をずたずたにして、自らの心を癒やそうとするのである。言わば、相手によって自らの立場が下位に落とされたから、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせようとするのである。人間は、常に、自我が他者から認められるように生きているから、自らの心を傷つけた相手に対して、怒り、復讐を考えるのである。すなわち、深層心理は、常に、自我が他者から認められるように生きているから、自らの立場を下位に落とした相手に対して、怒り、復讐し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせようと考えるのである。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、学校、会社、銀行、店、電車、仲間、夫婦、カップル、日本という国などがある。家族という構造体では父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では社長・課長・社員などの自我があり、銀行という構造体では支店長・行員などの自我があり、店という構造体では店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では友人という自我があり、夫婦という構造体では夫・妻の自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、日本という国の構造体では総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我がある。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。だから、人間は、常に、他者から心が傷つけられ、怒りでもって、復讐する可能性があるのである。人間は、すなわち、深層心理は、一生、この自我にこだわって生きていくのである。しかし、傷付きやすい心を持っているか傷付きにくい心を持っているかは、すなわち、深層心理が敏感であるか鈍感であるかは、先天的なもので、本人にはどうしようもできないのである。一生変わることはないのである。なぜならば、心とは、深層心理であり、自らの意志では、どうすることもできないものだからである。深層心理の敏感、鈍感は、人間は、自らの意志によっては、どうすることもできないのである。なぜならば、深層心理とは、人間の無意識の思考だからである。つまり、人間は、心が傷付くとは、無意識という深層心理が傷付くのである。さて、人間は、深層心理だけでなく、表層心理を有している。つまり、人間には、深層心理の思考と表層心理での思考という二種類の思考が存在するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考であり、その思考の結果が意志である。ほとんどの人は、深層心理の思考に気付いていないから、ほとんどの人にとって、思考とは、表層心理での思考であり、意志とは、表層心理での意志である。しかし、人間は、表層心理での思考では、感情を生み出すことができず、表層心理での意志では、深層心理が生み出した傷心の感情や怒りの感情を消滅させることはできないのである。人間が、表層心理でできることは、意志で、深層心理心理が考え出した復讐という行動の指令を抑圧することである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考を知らず、表層心理での思考しか存在しないと思っているから、傷付きやすい自分の心を嘆き、傷付いた心からなかなか立ち直れない自分の意志の弱さを嘆き、傷付くことによって起こした復讐に対して後悔するのである。しかし、人間の心の中で、最初に動き出すのは、深層心理である。人間の無意識の中で、深層心理が思考するのである。最初に、深層心理という、本人の無意識の心が思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。つまり、人間は、深層心理が、自我を主体にして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのである。傷心という感情も傷心から立ち直るための怒りの感情も、深層心理が生み出した感情である。含まれているのである。つまり、深層心理が思考し、傷心・怒りという感情と復讐という行動の指令という自我の欲望を生み出したのである。人間は、自我の欲望に動かされて動こうとするのである。しかし、人間は、必ずしも、自我の欲望のままに行動するわけではない。人間の深層心理には超自我という毎日同じようなことを繰り返すルーティーンの生活を維持しようという機能があり、人間の表層心理での思考は自我に現実的な利益をもたらそうとする現実原則に基づく思考であるからである。つまり、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、二種類の行動のパターンがあるのである。一つは、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動するのである。所謂、無意識の行動である。ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、毎日同じようなことを繰り返すというルーティーンという現象を作り出している。毎日同じようなことを繰り返すのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、異常なことが起こらず、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動して良いからである。換言すれば、表層心理で意識して思考することが起こっていないということなのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。もう一つは、人間は、表層心理で、意識して、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒絶するか思考して行動するのである。さて、人間は、表層心理で思考するのは、どのような時か。それは、日常生活において、異常なことが起こった時である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理が、自我を主体にして、思考して、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、ルーティーンの生活を破壊するからである。その時、深層心理の超自我の機能が、ルーティーンの生活を守ろうとして、深層心理が生み出した過激な行動の指令を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した感情が過激なので、深層心理が生み出した過激な行動の指令を抑圧できないのである。その場合、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて思考して、深層心理が生み出した過激な行動の指令を受け入れるか拒絶するかを思考するのである。もちろん、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した過激な行動の指令を受け入れることに決定すれば、そのまま実行する。これも、意志による行動である。そして、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した過激な行動の指令を受け入れることを拒絶することを決定し、意志によって、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとするのである。しかし、その時も、深層心理が生み出した感情が過激ならば、意志の抵抗もむなしく、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことがあるのである。また、たとえ、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した行動の指令を拒絶することを決定し、意志によって、深層心理が生み出した過激な行動の指令を抑圧することに成功したとしても、今度は、表層心理で、深層心理が納得するような別の行動を考え出さなければならなくなるのである。しかし、なかなか考え出せない状態が多い。それが苦悩の状態である。例えば、高校という構造体で、生徒という自我を持って暮らしている者は、深層心理が、同級生・教師という他者から好評価・高評価を得たいと思っている。しかし、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。深層心理は、傷心という感情と不登校という行動の指令という自我の欲望を生み出した。その時、深層心理の超自我の機能が、ルーティーンの生活を守ろうとして、深層心理が生み出した不登校という過激な行動の指令を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した傷心という感情が過激なので、深層心理が生み出した不登校という過激な行動の指令を抑圧できないのである。その場合、生徒は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した傷心という感情の中で、深層心理が生み出した不登校という行動の指令を受け入れるか拒絶するかを思考するのである。もちろん、生徒は、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した不登校という過激な行動の指令を受け入れることに決定すれば、登校しない。そして、生徒は、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した不登校という過激な行動の指令を受け入れることを拒絶することを決定すれば、意志によって、登校しようとする。しかし、その時も、深層心理が生み出した傷心という感情が過激ならば、意志の抵抗もむなしく、深層心理が生み出した行動の指令のままに登校しないのである。また、生徒は、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した不登校という行動の指令を拒絶することを決定し、意志によって、登校することに成功したとしても、今度は、表層心理で、深層心理が納得するような別の行動を考え出し、傷心という感情が消滅させるようにしなければならなくなるのである。しかし、なかなか考え出せない状態が多い。それが苦悩の状態である。また、会社という構造体で、会社員という自我を持って暮らしている者は、深層心理が、上司という他者から好評価・高評価を得たいと思っている。しかし、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。深層心理は、怒りという感情と上司を罵倒しろという行動の指令という自我の欲望を生み出した。その時、深層心理の超自我の機能が、ルーティーンの生活を守ろうとして、深層心理が生み出した上司を罵倒しろという過激な行動の指令を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した怒りという感情が過激なので、深層心理が生み出した上司を罵倒しろという過激な行動の指令を抑圧できないのである。その場合、会社員は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した怒りという感情の中で、深層心理が生み出した上司を罵倒しろという行動の指令を受け入れるか拒絶するかを思考するのである。もちろん、会社員は、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した上司を罵倒しろという過激な行動の指令を受け入れることに決定すれば、そのまま、上司を罵倒してしまう。その後、会社にいられなくなるなどの不利益を被ることになる。そして、会社員は、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した上司を罵倒しろという過激な行動の指令を受け入れることを拒絶することを決定すれば、意志によって、沈黙しようとするとする。しかし、その時も、深層心理が生み出した怒りの感情が過激ならば、意志の抵抗もむなしく、深層心理が生み出した行動の指令のままに上司を罵倒してしまうのである。また、会社員は、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した上司を罵倒しろという行動の指令を拒絶することを決定し、意志によって、沈黙することに成功したとしても、今度は、表層心理で、深層心理が納得するような別の行動を考え出し、怒りという感情が消滅させるようにしなければならなくなるのである。しかし、なかなか考え出せない状態が多い。それが苦悩の状態である。さて、人間は、常に、構造体の中で、自我として行動しているが、構造体の中に、必ず、自分が嫌いな人、自分を嫌う人がいる。毎日のように、同じ構造体で暮らしていると、必ず、自分が嫌いな人、自分を嫌う人が出てくる。そして、自分が相手を嫌いになれば、相手がそれに気付き、相手も自分を嫌いになり、相手が自分を嫌いになれば、自分もそれに気付き、自分も相手を嫌いになるものである。だから、片方が嫌いになれば、相互に嫌いになるのである。また、嫌いになった理由は、意地悪をされたからとか物を盗まれたからというような明確なものは少ない。多くは、自分でも気付かないうちに嫌いになっていて、嫌いになったことを意識するようになってから、相手の挨拶の仕方、話し方、笑い方、仕草、雰囲気、他者に対する態度、声、容貌など、全てを嫌うようになる。好き嫌いは、深層心理が決めることだから、その理由がはっきりしないのである。自分が明白には気付かないたわい無いことが原因であることが多いのである。しかし、一旦、自分が相手を嫌いだと意識すると、それが表情や行動に表れ、相手も自分も嫌いになり、同じ構造体で、共に生活することが苦痛になってくる。その人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がしてくる。自分が下位に追い落とされていくような気がしてくる。いつしか、相手が不倶戴天の敵になってしまう。しかし、嫌いという理由だけで、相手を構造体から放逐できない。また、自分自身、現在の構造体を出て、別の構造体に見つかるか、見つかってもなじめるか不安であるから、とどまるしかない。そうしているうちに、深層心理が、嫌いな人を攻撃を命じるようになる。深層心理は、相手を攻撃し、相手を困らせることで、自我が上位に立ち、苦痛から逃れようとするのである。小学生・中学生・高校生ならば、自分一人で攻撃すると、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れないので、友人たちを誘うのである。自分には、仲間という構造体があり、共感化している友人たちがいるから、友人たちに加勢を求め、いじめを行うのである。友人たちも、仲間という構造体から放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。しかし、大人は、そういうわけには行かない。いじめが露見すれば、法律で罰せられ、最悪の場合、一生を棒に振るからである。もしも、相手が上司の場合、相手にセクハラ・パワハラがあれば、訴えれば良いが、叱責されたということだけでは、上司を更迭できない。逆に、それを態度に示すだけで、上司に復讐され、待遇面で不利になる。また、同輩・後輩が嫌いな場合、陰で悪口を言いふらして憂さを晴らす方法もあるが、自分がネタ元だと露見すれば、復讐されるだろう。だから、深層心理の言うがまに、相手を攻撃してはいけないのである。では、どうすれば良いか。言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接すれば良いのである。しかし、それは、偽善ではない。確かに、深層心理には、背いている。しかし、相手を嫌いな理由が、不明瞭であるかたわいないものであるのだから、相手には不愉快な思いをさせず、自分も迷惑を被っていないのだから、これが最善の方法なのである。もしも、第三者に納得できるような明瞭なものであるならば、既に、訴えるか、誰かに相談しているはずである。訴えることもできず、誰にも相談できないような理由だから、一人で抱え込み、悶々と悩んでいるのである。確かに、嫌いな相手に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接することは、自尊心が傷付けられるかも知れない。しかし、幼い自尊心は捨てるべきである。「子供は正直だ」と言われるが、深層心理に正直な行動は子供だから許されるのである。深層心理に正直な行動は、瞬間的には憂さは晴れるかも知れないが、後に、周囲から顰蹙を買い、相手から復讐にあい、嫌いだという不愉快な感情を超えて、自らを困難な状況に追い込んでしまうのである。また、嫌いな相手に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接していると、相手が自分のことを好きになり、自分も相手を好きになることがあるのである。少なくとも、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接している限り、誰からも、非難されることは無いのである。



ぼうっと生きている人も平和ぼけの人も存在しない。(自我その458)

2021-01-19 17:05:39 | 思想
「ぼうっと生きているんじゃないよ。」と他者を揶揄する人がいる。そして、日本は、戦争がないから、何も考えず、平和ぼけになっているという論理を展開する。しかし、何かあると、戦争で解決しようと考えることは非常に危険なことである。何があっても、戦争は起こさないという覚悟が必要なのである。なぜならば、何かあると、戦争で解決しようと考える人は、些細なことでも、戦争を始めるからである。そして、それが、戦争慣れに繋がり、戦争をしていない時でも、常に、戦闘モードでないと、落ち着かない状態に陥るのである。世界は、そのような国ばかりだから、どこかで戦争をしていて、どこにでも、いちでも、戦争が起こる可能性があるのである。ニーチェは、「全ては永劫回帰する」と言う。まさしく、人間は同じ生活を繰り返すのである。まさしく、戦争慣れをした国は、戦争を基本に、政治を考えるのである。しかし、戦争が無い国でも、国民は、ぼうっと生きているのではなく、平和ぼけに陥っている人は一人もいない。なぜならば、人間は、何もしていず、部屋でぼうっとしているように見える時でも、内なる力が動いているからである。人間は、常に、内なる生命力と内なる思考力が蠢き、自らを生かそうとしているのである。「ぼうっと生きているんじゃないよ。」と他者を揶揄する言葉は、表層的に人間を見て、発せられた言葉である。ぼうっとしているように見えている状態の時も、誰しも、徒に、ぼうっとしているわけではないのである。ぼうっとしているのには、意味と理由があるのである。内なる生命力が、敢えて、ぼうっとした状態を作りだしているのである。例えば、疲れたから、ぼうっとしているのかも知れない。休むことによって、次の活力を生み出そうとしているのである。ぼうっと、空想や妄想をることを楽しんでいるのかも知れない。空想や妄想は、人間を緊張から解放するのである。ぼうっとしているように見えて、実際は、深く思考しているのかも知れない。人間は、往々にして、しかめっ面で、追い詰められた状態では、浅い思考しかできないものである。そもそも、人間を含めて、全ての生物には、意味の無い行為など存在しない。それに思いを致さず、人間の内なる生命力の存在に気付いていないから、「ぼうっと生きているんじゃないよ。」という揶揄の言葉を浴びせかけ、言われた人も、自らの内なる生命力の存在に気付いていないから、ショックを受けるのである。だから、「ぼうっと生きているんじゃないよ。」という言葉は、無意味であるどころか、害毒である。人間の内なる生命力を否定し、人間の内なる思考力を否定しているからである。さて、それでは、常に活動している、内なる生命力と内なる思考力を担っているものは何か。それは、深層肉体と深層心理である。それらは、無意識の活動であるから、ほとんどの人は気付いていない。つまり、人間は、常に、無意識のうちに、深層肉体と深層心理が活動し、それによって生かされているのである。さて、それでは、深層肉体はどのような意志を持って活動しているのだろうか。それは、文字通り、その人を、肉体的に、生き続けさせようという意志である。これは、人間だけでなく、全ての生物に共通の意志である。心臓が伸縮・拡張を繰り返し、血液を循環させる。呼吸し、肺が活動する。飲食物を摂取し、胃腸が消化・吸収する。これらの行為は、全て、その人の無意識のうちに為され、その人を生き続けさせようという深層肉体の意志に基づいているのである。内臓ばかりではない。深層肉体は、常に、病気や怪我に対応する。例えば、体内にウイルスが入り、風邪を引くと、深層肉体は、インターフェロンを産生し、免疫系を働かせて防御し、咳でウイルスを体外に放出し、発熱でウイルスを弱らせたり殺したりする。頭痛や咳や発熱などの不快感は、表層心理にも、肉体の異状を意識させ、その警戒と対応を求めているのである。表層心理とは、人間が自らの存在を意識することであり、自らを意識しての思考であり、自らを意識しての思考である意志である。人間は、怪我をすると、深層肉体は、血液でその部分を固め、白血球で、侵入した細菌を攻め滅ばす。怪我の痛みの不快感は、表層心理にも、肉体の異状を意識させ、その警戒と対応を求めているのである。空腹やのどの渇きという欲求が起こるのは、深層肉体の、基本的には、食糧や飲み物を摂取することによって、肉体的に生きさせようという意志によってである。このように、我々は、我々の内なる深層肉体の意志によって、肉体的に生かされているのである。しかし、肉体の活動といえば、ほとんどの人間が思い浮かべるのは、深層肉体ではなく、表層肉体である。表層肉体とは、人間が自らの存在を意識して、自らの意志によって動かす肉体の活動である。それは、腕を上げる、手を叩く、歩くなどの肉体の活動である。しかし、確かに、歩くという動作は、歩こうという意志の下で歩くという意識の下で表層心理によって始められる表層肉体の活動である。しかし、両足を交互に出すという動きは、誰しも意識して行っていない。もしも、右、左と意識して足を差し出していたならば、意識することに疲れて、長く歩けないだろう。だから、最も簡単に意識して行っていると考えられる動作の一つである歩くという表層肉体の動作すら、意識して行うのはほんの一部であり、そのほとんどは、無意識に、つまり、深層肉体によって行われているのである。歩きながら考えるということが可能なのも、歩くことに意識が行っていないからである。ほとんどの肉体行動は、人間は、表層心理で、自ら意識して、自分の意志によって、行っているのではなく、すなわち、表層肉体の行為ではなく、深層肉体の行為なのである。つまり、人間の肉体は、深層肉体によって、動かされ、生かされているのである。次に、深層心理は、どのような意志を持って活動しているのだろうか。それは、自我を活かせようとする意志であり、それは、自我の欲望となって現れてくる。ニーチェの「権力への意志(力への意志)」の思想が、端的に、表している。ニーチェは、人間の心には、本質的に、他者を征服し、他者に認められ、いっそう強大になろうという意志という、心の中にある衝動に気付いたのである。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。しかし、無意識と言っても、それは、意識していないという意味であり、何もしていないということではない。人間は、自らは意識していないが、思考しているのである。それが深層心理である。深層心理について、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、論理的に思考しているということを意味する。人間の思考は、言語を使って論理的に為されるからである。つまり、深層心理は、人間の無意識のうちに、論理的に思考しているのである。それでは、深層心理は、何を主体にして、何の下に、何に基づいて、思考して、何のために、何を生み出しているか。深層心理は、自我を主体にして、心境の下に、快感原則に基づいて、思考して、自我を活かすために、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間は、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて、行動しているのである。人間は、深層心理が生み出した感情に動かされて、深層心理が生み出した行動の指令をかなえようとするのである。それでは、快感原則とは何か。快感原則とは、フロイトの用語であり、快楽を求める欲望である。自我とは何か。自我とは、構造体の中での自分のポジションである。すなわち、自我とは、構造体の中での、ある役割を担った自らの姿なのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、一つの構造体に所属し、一つの自我に限定されて、活動している。人間は、毎日、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、別の時間帯には、別の構造体に所属し、別の自我を得て、常に、他者と関わって生活をしている。すなわち、社会生活を営んでいるのである。人間は、さまざまな構造体に所属し、その構造体に応じてさまざまな自我が持って行動するのだが、代表的な構造体と自我には次のようなものがある。家族という構造体には、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、夫婦という構造体には、夫・妻の自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があり、県という構造体には、県知事・県会議員・県民などの自我があり、国という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我がある。人間は、皆、常に、ある構造体に所属し、深層心理は、自我を主体にして、心境の下に、快感原則に基づいて、思考して、自我を活かすために、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、自我の欲望に動かされて行動しようとするのである。しかし、人間は、必ずしも、深層心理が出した行動の指令のままに行動するのではない。深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と意識して考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、すなわち、表層心理で思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。ルーティーンという、同じようなことを繰り返す日常生活の行動は、無意識の行動である。だから、人間の行動において、深層心理が思考して行う行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。それは、表層心理で意識して審議することなく、意志の下で行動するまでもない、当然の行動だからである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、ニーチェは、人間は「永劫回帰」(永遠に同じことを繰り返すこと)であると言うのである。後者の場合、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。人間の意識しての思考、すなわち、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強いので抑えきれないのである。超自我は、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧することである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我というルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する働きが功を奏さないことがあるのである。その時、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、思考して、意志によって、それを抑圧する必要があるのである。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に現実的な利得をもたらせようとする欲望である。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。強い傷心感情が、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。強い怒りの感情が、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。確かに、家が火事になり、取り残された子供を助けようとして、自らの命が失われる危険を省みずに、火の中に飛び込む母親が存在する。感動的な行為であるが、それは、家族という構造体の中の母親という自我がそのようにさせるのであり、言わば、深層心理がそうさせるのであり、表層心理の思考による、主体的な意志によるものではない。だから、よその家が火事ならば、消防署には連絡しても、火の中に飛び込むことはないのである。さて、人間は、表層心理で、自らを意識するのは、いろいろな場合があるが、まず、このように、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令の可否を考える場合の時である。例えば、楽しいことがあれば、深層心理が出した笑顔を作ること、悲しいことがあれば、涙を流すことなどの行動の指令は、何の問題が無いから、表層心理で、自らを意識すること無く、行動の指令のままに行動するだろう。しかし、深層心理が出した相手を侮辱すること、殴ることなどの行動の指令を、超自我で抑圧できない場合、表層心理で、自らを意識し、思考して、それらを不可とし、行動の指令を抑圧するだろう。なぜならば、そのように行動すれば、相手から決定的に嫌われるばかりか、復讐にあったり、周囲の人からも顰蹙を買ったり、人間関係が閉ざされたり、犯罪者になったりするからである。そこで、表層心理は、深層心理が生み出した、相手を侮辱せよや殴れという行動の指針を抑圧するのである。しかし、そこでとどまることはできない。なぜならば、傷付いた心や怒りの感情は、表層心理が、深層心理の出した相手を侮辱せよや殴れの行動の指令の代わりの行動を考え出さなければ、鎮まらないからである。しかし、たいていの場合、表層心理は、なかなか、良い行動が思い浮かばない。表層心理は、傷付いた心のままで、良い行動を考え出そうとするから、苦悩する。常に、苦悩には、自らを意識しての表層心理での思考が伴うのである。だから、人間は、自らを意識する時、常に苦悩している自分、苦悩しがちな自分を思い浮かべるのである。さて、深層心理は、常に、ある心境の下にある。心境は、感情と同じく、情態性を表す。深層心理は、心境の下で自我の欲望を生み出し、ある感情を使って行動の指令を叶えようとする。人間は、心境や感情にも動かされているのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを意識するのである。人間は、得意の心境や感情の状態の時には、深層心理は現在の状態を維持しようとし、不得意の心境や感情の状態の時には、現在の状態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。人間が自我の動物であることは、深層心理が、自らの現在の心境を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、感情を使って、人間を行動の指令のままに動かそうとしているところに現れているのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境から逃れることができれば、また、苦しいという感情が消すことができれば良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、深層心理にとって、感情や行動の指令という自我の欲望を起こして、自我を動かし、苦しみの心境や感情から、苦しみを取り除くことが最大の目標であるからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態性が大切なのである。それは、常に、心境や感情という情態性が深層心理を覆っているからである。深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時などに、何もしていない自分の状態や何かをしている自分の状態を意識するのであるが、その時に、同時に、必ず、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在してからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろな物やことの存在を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろな物やことががそこに存在していることを前提にして、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろな物やことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を意識するのである。だから、人間は、常に、自らを意識しているわけではなく、自らを意識する時も、心境や感情に覆われて、あることを思考したり行動したりしている自分として意識するのである。このように、人間は、ぼうっとしているように見える時でも、常に、内なる生命力である深層肉体と内なる思考力で深層心理が蠢き、自我を生かそうとしているのである。


なぜ、人を殺してはいけないのか。」(自我その457)

2021-01-17 18:23:56 | 思想
算数の授業で、「5-3=1」と答える生徒に対して、教師は「間違っている」と言い、「5-3=2」と答える生徒に対して、教師は「正しい」と言うだろう。なぜ、教師は、「1」を誤答だとし、「2」を正答だとするのだろうか。それは、「2」という答に得心がいき、「1」という答に違和感を覚えるからである。教師の中には、「正しく計算すれば、2だとわかるはずだ。」と言い、「1」だと答えた生徒を叱る人もいるかも知れない。しかし、「1」だと答えた生徒も、正しく計算したと思っている。だから、そのように答えたのである。もちろん、それが、「間違っている」と指摘されると、計算をし直し、「2」だと答えるだろう。しかし、計算をし直しても、「1」という答が出れば、やはり、「1」だと答えるだろう。教師は、いらだって、「コンビニに行って、3円の物を買って、5円玉を出したのに、店員から、1円しかおつりをもらえなかったならば、1円損したと思わないか。」と言うかも知れない。その時、生徒は、自分が間違っていることに納得するかも知れない。また、買い物のおつりの計算と算数の計算は違ったものだと思うかも知れない。なぜ、このようになるのだろうか。計算は、おののの頭の中で行われるからである。計算の方法を習っても、計算は、おののの頭の中で行われるから、誤った答が出てくることもあるのである。計算を含めて、思考は、皆、深層心理で行われるから、誤りも生じるのである。深層心理とは、人間の意識によらず、意志の入り込めない、思考である。しかし、誤りだと指摘できるのは、計算ののような確立された方法で思考できるものだけである。しかし、それですら、生徒にしっかりと教えても、誤った答が出てくることもあるのである。まして、思考方法が確立されていず、共通理解がなされていないことでは、いろいろな答が出てくるのは当然のことである。さて、教師が、生徒から、「なぜ、人を殺してはいけないのですか。」と尋ねられた時、どのように答えるべきだろうか。「人を殺してはいけない」という結論を導く思考方法が確立されていず、当然のごとく、その思考方法に対する共通理解も存在しない。だから、生徒の深層心理から、「人を殺してはいけない」という考えに対して、疑問が生じるのは当然のことである。もちろん、教師は、「人を殺すことはいけないことだ」という志向性から、答える。なぜならば、教師は、「人を殺すことはいけないことだ」という考えに得心し、「人を殺してもかまわない」という考えに違和感を覚えるからだ。人間は、自らの深層心理が得心したことに対して、その結論に導くように論理を組み立てるものである。もちろん、教師は、「人を殺すことは法律で禁止されている」、「人を殺したら処罰される」、「人を殺すことを認めたら、世の中が乱れ、とんでもないことになる」、「おまえも殺されたくないだろう。」、「殺された人の家族の気持ちを考えろ。」、「人を殺せば、必ず、後悔する」などと言い、自らの意見を正当化するための理由を述べる。しかし、それは、補助理由でしかない。そもそも、「……してはいけない」という禁止は、禁止している者の論理であり、禁止されていることを知った者は、禁止を破ると、処罰されるから、禁止を守るのである。また、生徒が、「なぜ人を殺してはいけないのか」という疑問が持ったのは、自分自身が人を殺したいという欲望を抱いたことがあるからである。憎しみのあまり、そのような思いを抱いたのである。人間の深層心理は、夜見る夢と同じく、本人の意向にかかわらず、いろいろな欲望を生み出すのである。しかし、「なぜ、人を殺していけないのですか。」と尋ねた生徒は、人を殺すことは無い。なぜならば、人を殺すことは法律で禁止され、人を殺したら処罰されるからだ。教師の自己正当化のための補助理由が生徒の行動抑圧の理由になるのである、人間は、深層心理からいろいろな欲望が湧いてくるが、欲望通りに行動すれば、後に、自分がどのような状況に陥るか考えて、不都合な欲望は抑圧するのである。そして、「なぜ、人を殺していけないのですか。」と尋ねた生徒は、その後、同じ質問をしなくなる。それは、そのような質問を続けると、自分が、周囲の者から、いつも人を殺すことを考えているように思われるからである。このようにして、「なぜ人を殺してはいけないのか」という疑問が解かれないままに、終わってしまうのである。