あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、深層心理によって動かされ、深層心理のために動く。(自我その325)

2020-02-29 16:46:33 | 思想
人間は、誰しも、自由の中で、主体的に生きることに憧れている。自由とは「他者から強制や命令を受けること無く自分の思い通りにできるさま」という意味である。たいていの人は、この自由の意味に納得するだろう。なぜならば、そこには、自由の眼目である「自分の思い」が存在しているからである。自由にとって最も大切なことは「自分の思い」なのである。しかし、この「自分の思い」は、ほとんど、人間は、自ら、意識して、考えて生み出したものでは無いのである。つまり、人間が、表層心理で、意識して、考えて、生み出したものでは無いのである。深層心理が、人間の無意識のうちで、考えて生み出したのである。人間は、深層心理が人間の無意識のうちで考えて生み出したものを、「自分の思い」のように思い込んでいるのである。確かに、稀れに、「自分の思い」の中には、人間が表層心理で意識して考えて生み出したものも存在する。しかし、人間が表層心理で意識して考えて生み出したものが「自分の思い」となるには、深層心理の認可が必要なのである。つまり、人間が表層心理で意識して考えて生み出したものに関して言えば、深層心理が納得したものだけが「自分の思い」となるのである。それでは、人間が表層心理で意識して考えて生み出したものが、深層心理で認可されず、「自分の思い」とならなかったら、人間はどうするのだろうか。その時には、人間は、表層心理で意識して考えて、深層心理で認可され、「自分の思い」となるようなものを生み出さなければならないのである。つまり、人間の表層心理での意識しての思考は続くのである。それが、迷いという状態である。ちなみに、「他者から強制や命令を受けること無く自分の思い通りにできるさま」が自由という意味であることに納得したのも深層心理である。つまり、人間の全ては、深層心理によって動かされ、深層心理のために動くのである。また、主体的とは「他者から指導や教示を受けること無く自分の意志によって行うさま」という意味である。たいていの人は、この主体的の意味に納得するだろう。なぜならば、そこには、主体的の眼目である「自分の意志」が存在しているからである。主体的にとって最も大切なことは「自分の意志」なのである。しかし、この「自分の意志」は、ほとんど、人間は、自ら、意識して、考えて生み出したものでは無いのである。ニーチェが「人間は、意志を意志できない。」と言うのも、この謂である。つまり、「自分の意志」も、人間が、表層心理で、意識して、考えて、生み出したものでは無いのである。深層心理が、人間の無意識のうちで、考えて生み出したのである。人間は、深層心理が人間の無意識のうちで考えて生み出したものを、「自分の意志」のように思い込んでいるのである。確かに、稀れに、「自分の意志」の中には、人間が表層心理で意識して考えて生み出したものも存在する。しかし、人間が表層心理で意識して考えて生み出したものが「自分の意志」となるには、深層心理の認可が必要なのである。つまり、人間が表層心理で意識して考えて生み出したものに関して言えば、深層心理が納得したものだけが「自分の意志」となるのである。それでは、人間が表層心理で意識して考えて生み出したものが、深層心理で認可されず、「自分の意志」とならなかったら、人間はどうするのだろうか。その時には、人間は、表層心理で意識して考えて、深層心理で認可され、「自分の意志」となるようなものを生み出さなければならないのである。つまり、人間の表層心理での意識しての思考は続くのである。それが、迷いという状態である。ちなみに、「他者から指導や教示を受けること無く自分の意志によって行うさま」が主体的という意味であることに納得したのも深層心理である。つまり、人間の全ては、深層心理によって動かされ、深層心理のために動くのである。さて、言うまでもなく、人間は人間社会の中で生きているから、人間なのである。人間が、人間社会の中で生きるとは、いつ、いかなる時でも、常に、構造体に所属し、自我を持って活動しているということである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、その構造体の中で、ポジションが与えられ、それを自らのあり方として行動する主体である。すなわち、自我とは、ある役割を担った現実の自らの姿なのである。人間は、自己が自我となって、他者の期待を担って、存在感を覚えて、行動できるのである。しかし、人間は、人間になり、人間社会の中で生きていくことになった時点で、自己が自我になり、自由は奪われ、主体的な生き方は失われてしまうのである。しかし、それは、他者から強力な「強制や命令」や「指導や教示」にあったからでは無い。他者からの「強制や命令」や「指導や教示」があろうと無かろうと、人間は、自我を得た時点で、自由は奪われ、主体的な生き方は失われてしまうのである。なぜならば、人間は、自我を得た時点で、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それ以来、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望によって動かされて生きることになるからである。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語で、快楽を求める欲望である。ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求める欲望である。そこには、道徳観や社会規約厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や社会規約厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求めることを目的・目標としているのである。しかし、人間は、誰しも、他者からの「強制や命令」が無ければ、自らは主体的に考え、自由に行動して、生きることができると思っている。人間は、誰しも、表層心理で、意識して、思考し、判断し、行動しなければいけない時、他者からの「強制や命令」が無ければ、自分が主体となり、自由にそれができると思っている。人間は、他者からの「強制や命令」が無ければ、自分は、自ら考え、自ら判断して、自らの意志で行動できると思っている。そして、自分が自由に自由に主体的に考えて行動できない時があるとすれば、他者からの「強制や命令」があり、それに抗するだけの実力が自分に無い時だと思っている。そして、他者の「強制や命令」という妨害に抗することができない無力な自分、無力だから目的・目標を達成することができない自分を嘆き、苦悩するのである。自分のプライドが粉々にうち砕かれ、嘆き、苦悩するのである。しかし、果たして、その目的・目標は、自分が、表層心理で、意識して、自由に主体的に思考して得た目的・目標であろうか。人間が、表層心理で、意識して、自由に主体的に思考して得た、目標であろうか。それは、深層心理が思考して生み出した自我の欲望では無いのか。なぜならば、人間は、人間社会の構造体の中で生きていかなければならず、その時点で、自己を捨て、自我に捕らわれ、自由な思考・生き方や主体的な思考・生き方は失われ、深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きるしかないからである。人間が、自由で主体的な思考・生き方だと思い込んでいる生き方は、深層心理が生み出した自我の欲望に動かされている思考・生き方なのである。人間は、自己を捨て、自我を得た時点で、自由で主体的な思考・生き方を失ったのである。つまり、人間は、他者からの「強制や命令」という妨害に遭ったから、自由で主体的な思考・生き方を失ったのではなく、自己を捨て、自我を得た時点から、深層心理が思考して、自我の欲望を生み出し、人間は、自我の欲望に動かされて生きるようになったのである。それでは、なぜ、人間は、自由で主体的な思考・生き方ができる自己を捨て、自我の欲望に動かされて生きる自我として生きていかざるを得なくなったのだろうか。それは、人間には、常に、ある構造体の中で、ある自我を負って生きることしか生き方が存在しないからである。つまり、人間は、人間社会の中で生きていかざるを得ないのであるから、いつ、いかなる時でも、常に、ある人間の組織・集合体という構造体の中で、あるポジションを得て、その務めを果たすように、自我として生きていかざるを得ないのである。深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きるしかないのである。深層心理の働きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味する。つまり、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、人間の無意識のままに、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という欲望を生み出しているのである。この後、人間は、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を、表層心理で意識せずに、行動の指令のままに行動することがある。これが、無意識の行動である。人間の生活は無意識の行動が非常に多い。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は同じ生活を繰り返す)と言ったのである。ルーティーンと言われる、日常生活での習慣的な行動は無意識の行動である。しかし、稀れには、人間は、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令について意識して思考し、許諾して行動の指令のままに行動するか、拒否して行動の指令を抑圧するかを決定するのである。現実原則とは、心理学者のフロイトの用語で、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望である。それは、長期的な展望に立っている。しかし、人間が、表層心理で、意識して思考するのは、深層心理の思考の後である。人間の表層心理による思考は、自ら自身から動き出すことはなく、常に、深層心理の結果を受けて行われるのである。人間は、表層心理で、意識して思考して、深層心理が生み出した行動の指令を許諾することを決定すれば、そのまま行動することになる。それが、意志による行動である。しかし、深層心理が生み出した行動の指令を拒否して、抑圧することを決定した場合、別の行動を考え出さなければならない。人間の表層心理での意識しての思考が理性と言われるものである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否して、それを抑圧することにを決定しても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことになる。これが、所謂、感情的な行動である。後に、他者に惨劇をもたらし、自我に悲劇をもたらすことが多い。さて、人間が最初に所属する構造体は家族であり、最初に持つ自我は男児・女児である。そして、男児・女児は、エディプスの欲望を抱くのである。エディプスの欲望とは、男児・女児の深層心理が、本人の無意識のうちに、異性の親に対して恋愛感情という自我の欲望を生み出し、それ故に、自分と同性である親に敵意を抱く感情である。エディプス・コンプレックスとは、フロイトの思想である。それは、エディプスの欲望が抑圧される心理過程、そして、抑圧された後の心理現象について述べたものである。さて、男児・女児は、無意識のうちに、深層心理が、エディプスの欲望を生み出すが、表層心理で、意識して思考し、エディプスの欲望は、同性の親と社会に容認されず、それを行動に移せば家族という構造体から追放されるので、抑圧することにする。そして、家族という構造体の中で、男児・女児という自我を持って、生きのびるために、同性の親の欲望を模倣する。その後、欲望の対象として、異性の親に代えて、異性の親と同価値を持つ性的対象である異性を見出すことになる。そして、恋愛をし、結婚をし、親になるとともに、社会的システムの中に組み入れることになるのである。つまり、エディプスコンプレックスとは、男児・女児は、家族という構造体で、男児・女児という自我を持つと、深層心理は、異性の親に対して恋愛感情という自我の欲望を生み出すが、同性の親と社会的がそれを許さないために、家族という構造体から追放されたくないから、異性の親に対する恋愛感情という自我の欲望を抑圧する。それと同時に、異性の親のような人と恋愛をし、結婚をし、同性の親のような存在になることができるという意識を持つことによって、それに納得する。その後、実際に、異性の親と似ている人に恋愛感情を抱き、結婚をし、同性の親と同じような存在になる。このような過程をたどり、男児・女児の自我の欲望は、変化して、社会的なシステムに組み込まれていくのである。エディプス・コンプレックスは、多くの人に知れ渡っているが、一般に、成長とともに消滅していく、男児・女児の異性の親に対する報われない恋愛感情として理解され、そこにおける、精神の葛藤、自己正当化、そして、その後の考え方・生き方に及ぼす影響について深く考慮されることはほとんど無いのである。ただ、単に、人間の幼児期における一過性の一心理状態のように扱われているのである。しかし、エディプス・コンプレックスは、人間の幼児期における心理現象であるが、人間の心理のあり方を解く大きな鍵が隠されている。それは、深層心理が、まず、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。快感原則とは、快楽を求める欲望であり、ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求める欲望であるから、そこには、道徳観や社会規約厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の生みだした行動の指令の中には、当然のごとく、非道徳的なものや社会規約違反のものが含まれている。それ故に、人間は、表層心理で、意識して思考し、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令について吟味しなければならないのである。しかし、非道徳的な欲望であろうとものや社会規約違反の欲望であろうと、深層心理が快感原則に基づいて生み出した行動の指令であるから、それを実行すれば快楽が得られるのである。人間が、表層心理で、現実原則に基づいて思考し、深層心理が快感原則に基づいて生み出した行動の指令を抑圧しようと決断するのは、行動の指令のままに行動すれば、他者・社会から批判を受けることが予想されるからである。他者・社会から批判を受ける可能性が無かったり低かったりすれば、ほとんどの人間は、非道徳的な行動や社会規約違反の行動を為す。他者・社会から批判を受ける可能性が無かったり低かったりしても、道徳観や社会規約の則った行動をするのは、聖人君子である。しかし、この世には、聖人君子は存在するのは稀れである。だから、聖人君子は、大衆の憧れの対象なのである。大衆はこの世に自分たちの夢を叶えてくれる理想的な人が存在していると思っているから、往々にして、過ちを犯すのである。の憧れのほとんどの人間が他者・社会から批判を受ける可能性が無かったり低かったりすれば非道徳的な行動や社会規約違反の行動を為すのは、それは、深層心理が快感原則に基づいて生み出した行動の指令のままの行動であり。快楽が得られるからである。幼児は、まだ、道徳観や社会的規約の存在を知らないから、他者・社会の視線の中でも、真相心理が生み出した行動の指令のままに行動し、その場でのその時での快楽を得ようとする。しかし、幼児は、まだ、力が無く、大っぴらに自我の欲望をかなえようとするから、「子供は正直だ」と褒められたり許されたりするのである。安倍晋三首相は、森友学園・加計学園・桜を見る会で、不正に、税金を使って、身内に便宜を図ったのは、支持率が下がらず、大衆の批判が弱いと思うからである。それでは、なぜ、安部晋三首相がどれだけ悪事を犯しても、大衆の支持率が下がらないのか。それは、大衆は、常に、国を富まし、国を強くし、国民を救う、強大な政治権力者の存在を求めていて、安部晋三首相がその人のように錯覚したからである。それは、まさしく、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、自らの志向性(寒天・視点)や趣向性(好み)で、他者や物や事柄という対象を捉えているのに、それが、万人に共通な、正しくて客観的なものだと思い込んでいる。人間は、自己の思いを他者という対象に抱かせようとする。人間は、他者という対象を支配しようとする。人間は、物という対象を利用しようとする。人間は、事柄という対象を自らの志向性で捉えようとする。人間は、実際には存在しないものを、自己の欲望によって、実際に存在しているように思い込む。人間は、自己に不都合な存在者や存在物や存在事を、自己の欲望によって、実際には存在していないように思い込む。)という現象の「人間は、実際には存在しないものを、自己の欲望によって、実際に存在しているように錯覚する。」に合致するのである。政治権力者は、大衆の批判が弱ければ、どれだけでも、悪行を犯すのである。このまま、支持率が下がらず、大衆の批判が弱ければ、安倍晋三首相の森友学園・加計学園・桜を見る会に類した悪行は続くだろう。また、恐らく、既に、秘密裏に、森友学園・加計学園・桜を見る会に類した悪行を数多く行い、森友学園・加計学園・桜を見る会はその氷山の一角だろう。しかし、これは、彼が特に悪人だというわけではない。人間とはこういうものなのである。ほとんどの人間は俗人であるが、俗人とはこういうものなのである。安倍晋三首相も一人の俗人だということである。安倍晋三首相に限らず、政治権力者は、大衆の批判が弱ければ、自らの欲望をかなえるために、いくらでも悪行を犯すのである。ニーチェが19世紀に言った「大衆は馬鹿だ」という言葉が、現代社会でも、生きているのである。人間は、自我の欲望の動物である。自我の欲望とは、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて生みだした、感情と行動の指令である。人間は、常に、自らの欲望をかなえたいと思って生きているのである。しかし、自我の欲望には、道徳観や社会規約は存在しない。人間の無意識の思考である深層心理が欲望を生み出しているからである。深層心理は、その場でのその時での快楽を得ようとして、自我の欲望を生み出しているのである。だから、人間が、自らの自我の欲望のままに行動すれば、社会は悪行が横行することになる。そこで、人間社会は、表層心理で、意識して思考し、道徳観や社会規約を作って、悪行に繋がる自我の欲望を抑圧しようとしたのである。人間は、道徳観や社会規約に違反する行為を行えば、社会から批判され、時には、罰せられるので、自らの欲望を抑圧するのである。だから、逆に言えば、人間は、道徳観や社会規約に違反した行為と言えども、秘密裏に行ったり、公然のものでも社会から批判されたり罰せられたりすることが無ければ、その場でのその時での快楽を得ようとして、それを行ってしまうのである。だから、犯罪が絶えないのである。犯罪とは、自らの所行だと社会に露見する可能性が低いと思って行った悪行、悪行だと社会から批判されない悪行、もしくは。深層心理が生みだした傷心・怒り・恨みなどの感情が強過ぎて自らの所行だと社会に露見することを厭わずに行った悪行である。だから、政治権力者は、大衆の批判が無かったり弱かったりすれば、どれだけでも悪行を行うのである。人間は、幼児期において、異性の親に対しての近親相姦的な愛情という自我の欲望を抑圧するのは、同性の親と社会から批判されるのを、暗に気付いているからである。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って活動している。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、その構造体の中で、ポジションが与えられ、それを自らのあり方として行動する主体である。すなわち、自我とは、ある役割を担った現実の自らの姿なのである。人間は、自己が自我となって、存在感を覚え、自信を持って行動できるのである。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、活動している。人間は、常に、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、別の時間帯には、別の構造体に所属し、別の自我を得て、他者と関わって生活し、社会生活を営んでいる。人間は、世界内存在の生物であるが、このように、実際に生活するうえでは、世界が細分化され、構造体となるのである。つまり、実際に生活する時には、世界が構造体へと限定され、自己が自我へと限定されるのである。世界が構造体へと限定され、自己が自我へと限定され、構造体の中で、自分のポジション(役目、ステータス)が決まり、その自我に沿って行動するのである。自分のポジションを自他共に認めたあり方が自我なのである。世界が構造体へと細分化されると、構造体は、世界のような漠然とした広いものではなくなり、家族、学校、会社、店、電車、カップル、仲間、県、国などへと具体的に狭くなり、人間も、その構造体の中で、自分のポジション(役目、ステータス)を担って、自我をもち、それぞれの人がその自我に応じて行動するようになるのである。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、県という構造体では県民などの自我があり、国という構造体では国民などの自我があるのである。たとえ、人間は、一人で暮らしていたとしても、孤独であっても、孤立していても、常に、構造体に所属し、自我を持って、他者と関わりながら、暮らしているのである。さて、人間は、常に、構造体の中で、自己が自我となり、他者と関わりながら、自我を主体として暮らしているのであるが、最初に、その自我を動かそうとするものは、表層心理ではなく、深層心理である。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。深層心理は、人間が自らは意識していないが、心の中で、思考活動を行うのである。表層心理とは、人間が、自ら意識して行う思考行為である。その思考結果による行動は、一般に、意志と呼ばれている。表層心理は、深層心理の思考の結果を受けて、思考を開始するのである。表層心理とは、人間が、意識して、思考することであり、その結果が、意志による行動となって現れるのである。人間に、主体的な活動や主体性という性質が存在するのならば、それは、無意識という深層心理の思考活動ではなく、人間の、意識して行う、表層心理での思考活動に存在する。しかし、もしも、主体的な活動や主体性が、人間の、最初から、自分で意識して考え、意識して決断することを意味するならば、人間は、本質的には、主体的なあり方をしていず、主体性を持していないことになる。なぜならば、表層心理は、深層心理の思考の結果を受けて、思考を開始するからである。人間は、まず、深層心理が、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語で、快楽を求める欲望である。ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求める欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求めることを目的・目標としているのである。人間は、まず、深層心理が、快感原則に基づき、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。快感原則とは、快楽を求める欲望だが、それは、自我が他者に認められたいという欲望、自我によって他者・物・事柄という対象を支配したいという欲望、自我と他者が理解し合うようにしたい・愛し合うようにしたい・協力し合うようにしたいという欲望という三種類の欲望を満足させることによって得ることができる。深層心理は、自我が他者に認められたいという欲望によって、自我を対他化する。深層心理は、自我によって他者・物・事柄という対象を支配したいという欲望によって、他者・物・事柄という対象を対自化する。深層心理は、自我と他者が理解し合うようにしたい・愛し合うようにしたい・協力し合うようにしたいという欲望によって、自我を他者と共感化させるのである。さて、まず、自我の対他化であるが、それは、端的に言えば、自分が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を考えることである。人間は、他者に会うと、まず、その人から好評価・高評価を得たいと思いで、その人の視線から、自分がどのように思われているかを探ろうとする。これが、自我の対他化である。この他者の視線の意識化は、自らの意志という表層心理に拠るものではなく、無意識のうちに、深層心理が行っている。だから、自動的な行為のように思われがちである。それは、深層心理が行っているからである。だから、他者の視線の意識化は、誰しもに起こることなのである。しかし、ただ単に、他者の視線を感じ取るのではない。そこには、常に、ある思いが潜んでいる。それは、その人から好評価・高評価を得たいという思いである。つまり、人は、他者に会うと、視線を感じ取り、その人から好評価・高評価を得たいと思いつつ、自分がその人にどのように思われているかを探ることなのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人は常に他者の評価を勝ち取ろうとしている。人は他者の評価が気になるので他者の行っていることを模倣したくなる。人は他者の期待に応えたいと思う。)という言葉は、端的に、対他化の現象を表している。オリンピックで、日本人選手が、日本人全体の期待に応えて活躍したいという思いを持つのは、日本という構造体の中で、日本人全体という他者に日本人選手という自我を認めてもらいたいという欲望から、日本人選手という自我を対他化したからである。対他化とは、ある意味では、自ら、敢えて、自我の評価を他者に任せようということである。日本人選手は、日本人全体に、自らの自我の評価を任せたのである。サルトルが、「対他化とは、見られているということであり、敗者の態度だ。」と言っているのも、頷けることである。当然のごとく、サルトルは、「見られることより見ることの方が大切なのだ。」ということになる。見るとは、対自化である。次に、他者・物・事柄という対象の対自化であるが、端的に言えば、対自化とは、自らの視線で見るということである。深層心理は、他者・物・事柄という対象を対自化するのは、それらを支配することによって快楽を得たいからである。すなわち、深層心理は物・事柄という対象を対自化することによって、その物を利用し、その事柄を自分の志向性(観点・視点)で捉えとうとするのである。そして、深層心理は、他者という対象を対自化することによって、他者がどのような思いで何をしようとしているのか、つまり、その人の欲望を探ろうとするのである。それは、ただ漠然と行うのではなく、自らの欲望と対比しながら他者の欲望を探るのである。その人の欲望が、自分の欲望と同じ方向にあるか、逆にあるかを探るのである。つまり、他者が味方になりそうか敵になりそうか探るのである。この行為が、「人は自己の欲望を他者に投影する」ということなのである。そして、その人の欲望が自分の欲望と同じ方向にあり、味方になりそうならば、自らがイニシアチブを取ろうと考える。また、その人の欲望が自分の欲望と異なっていたり逆の方向にあったりした場合、味方になる可能性がある者と無い者とに峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。つまり、他者という対象を見るという姿勢、つまり、他者を対自化するとは、自我中心の姿勢、自我主体の姿勢なのである。戦国大名が、日本を統一しようと考えたのは、深層心理が、日本という構造体の中で、日本を支配したいという欲望があるから、戦国大名という自我で他者である戦国大名たちを他自化したからである。しかし、他者に対する対自化が高じると、敗れることを想定せず、勝つまで、最後まで戦うという姿勢に達するのである。だから、多くの戦国大名は滅んだのである。これが、ニーチェの言う「権力への意志」である。しかし、誰しも、常に、他者・物・事柄という対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫く人は、稀れである。なぜならば、ほとんどの人は、誰かの反対にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。だから、サルトルは、「対自化とは、見るということであり、勝者の態度だ。」と言っているが、その態度を貫く「権力への意志」の保持者は稀れなのである。誰しも、サルトルの「見られることより見ることの方が大切なのだ。」という言葉は理解するが、それを貫くことは難しいのである。また、他者を対自化し、その人の欲望が自分の欲望と同じ方向にあり、味方になりそうならば、一般には、自らがイニシアチブを取ろうと考えるものであるが、時には、その人にイニシアチブを委ねることがある。その人の方が、社会的なステータスが高く、欲望を実現しやすいと判断したからである。その際は、その人に従うのである。日本人のほとんどが、安倍晋三首相の悪行に気付いているが、それでも、支持率が高く、首相の座に長く即いていられるのは、安倍晋三首相の中国・韓国・北朝鮮に対する敵愾心と独裁者による国の安定化という欲望が、大衆の自我の欲望と合致しているからである。安倍晋三首相が、大衆に対して、中国・韓国・北朝鮮に対する敵愾心を煽ったことがまんまと成功したのである。さて、次に、自我と他者の共感化であるが、それは、他者の評価に自我の身を投げ出す対他化でもなく、他者・物・事柄という対象を支配するという対自化でもない。それは、自我と他者が理解し合うようにしたい・愛し合うようにしたい・協力し合うようにしたいという欲望が生み出す現象象に、端的に、現れている。「呉越同舟」という四字熟語がある。「仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。」という意味である。仲が悪いのは、二人は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができなくても、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否し、妥協することを拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、敵に立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなるから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者を共感化させ、そこに、連帯感の喜びを感じているからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差しだしていた自分には、屈辱感だけが残る。その屈辱感を払うために、ストーカー殺人という凶行に走る者がいるのである。また、一般者の愛の喜びとは、互いに対他化することの喜び、つまり、互いに自らの身を投げ出し、相手から愛の対象者として評価されることの喜びである。しかし、サディストは、相手を対自化して、つまり、相手を支配して喜ぶのである。マゾヒストは、相手から対自化されて、つまり、相手から支配されて喜ぶのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。男児・女児は、家族という構造体から追放されないために、異性の親に対する恋愛感情というエディプスの欲望を抑圧したのである。ストーカーが発生するのは、相手から別れを告げられ、カップルという構造が消滅し、恋人という自我を失うことの苦痛からである。オリンピックで、日本人が、日本人選手を応援するのは、自らと同じく日本という構造体に所属し、自らと同じく日本人という自我を持っているからである。このように、人間は、人間の無意識のうちで、深層心理が、快感原則によって、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。そして、深層心理は、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。人間は、まず、無意識のうちに、深層心理が動くのである。深層心理が動いて、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。つまり、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、人間の無意識のままに、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という欲望を生み出すのである。この後、人間は、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を、表層心理で意識せずに、行動の指令のままに行動することがある。これが、無意識の行動である。人間の生活は無意識の行動が非常に多い。ルーティーンと言われる、日常生活での習慣的な行動は無意識の行動である。しかし、稀れには、人間は、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令について意識して思考し、許諾して行動の指令のままに行動するか、拒否して行動の指令を抑圧するかを決定するのである。人間は、表層心理で、意識して思考して、深層心理が生み出した行動の指令を許諾することを決定すれば、そのまま行動することになる。それが、意志による行動である。しかし、深層心理が生み出した行動の指令を拒否して、抑圧することを決定した場合、別の行動を考え出さなければならない。人間の表層心理での意識しての思考が理性と言われるものである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否して、それを抑圧することにを決定しても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことになる。また、人間は、表層心理で、意識して思考し、行動の指針を抑圧して行動しないことを決定するのは、そのように行動したら、後に、自分に不利益なことが生ずる虞があるからである。人間は、表層心理の意志で、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、代替の行動を考え出さなければいけなくなる。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した傷心・怒り・恨みという感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。その時、理性による思考は長く続き、それは苦悩であるが、偉大な思想を生み出すこともあるのである。偉大な思想の誕生には、常に、苦悩が伴うのである。



日常と苦悩について。(自我その324)

2020-02-26 14:32:10 | 思想
人間、誰しも、今日生きたように、明日も生きていくだろう。それが、習慣化された日常、すなわち、ルーティーンである。しかし、人間、誰しも、明日がやって来ること、明日も生きていくことの確証は得ることはできない。それでも、人間は、明日がやって来ること、明日も生きていくことを信じている。もちろん、人間は、表層心理で、意識して考えて、そのような結論に達したのではない。すなわち、理性の思考からそのような結論を導き出したのでは無い。人間は、深層心理(無意識)がそのように信じなければ生きていけないから、人間は、明日もやって来て、明日も今日のように生きていくことができると思い込んでいるのである。それは。神や来世の存在と同じである。人間は、深層心理(無意識)が神や来世が存在しないと不安で生きていけないから、深層心理(無意識)が神を創造したのである。それは、まさしく、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、他者を支配しようとする。人間は、物を利用し、事柄を自らの志向性で捉えようとする。人間は、実際には存在しないものを、自己の欲望によって創造する。)という現象である。つまり、人間は、自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)によって、他者や物や事柄を捉える。人間は、自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)に応じた他者や物や事柄が実際に存在しなくても、存在しているように思い込むという現象である。すなわち、人間は、明日がやって来ること、明日も生きていくことの確証を得られなくても、深層心理(無意識)がそのように信じなければ不安で生きていけないから、明日もやって来て、明日も今日のように生きていくことができると思い込んでいるのである。それが、ニーチェの言う「永劫回帰」(全てのものは同じことを繰り返す)という思想である。ほとんどの人間は、「永劫回帰」しているのである。すなわち、ほとんどの人間は、自分には、明日はやって来るだろう。そして、今日生きたように、明日も生きていくという日常を繰り返されるだろうと思い込んでいるのである。しかし、人間には、誰しも、ある時、突然に、日常生活が崩れる時がある。その時、人間、誰しも、「自分は何のために生きているのか。」と苦悩する。苦悩とは苦痛の感情の中での思考である。人間は、苦痛という感情から解放されたいから思考するのである。しかし、苦痛という感情は、人間が、自ら、意識して、生み出したものではない。誰が、苦痛という感情を、意識して、自ら招請するだろうか。人間は、苦痛という感情だけでなく、全ての感情を、意識して、生み出すことはできない。人間は、意識しての思考である表層心理で、苦痛という感情を生み出していない。人間の無意識の思考である深層心理が、苦痛という感情を生み出したのである。それでは、なぜ、深層心理が、苦痛という感情を生み出したのか。それは、深層心理が傷付いたからである。一般に、心が傷付くと表現されている心とは深層心理である。それでは、人間は、どのような時、心が傷付くのか。すなわち、深層心理が傷付くのか。それは、自我が他者から悪評価・低評価を受けた時である。それでは、なぜ、自我が他者が悪評価・低評価を受けた時、深層心理が傷付くのか。それは、深層心理が、常に、自我が他者から好評価・高評価を受けるために、自我を動かそうとしているからである。自我が他者から好評価・高評価を受けると、深層心理が快楽を得られるのである。人間は、深層心理が快楽を得るために、生きているのである。深層心理が快楽を得るということは、人間の心が快楽を得るということなのである。もちろん、人間は、意識して、すなわち、表層心理で、快楽を得るために生きているのではない。人間は、自ら、表層心理で、意識する前に、既に、深層心理で快楽を得るために生きているのである。しかも、深層心理は、常に、自我を主体に立てて、快楽を得ようとしているのである。さて、深層心理は、一般に、無意識を言い換えたものとして考えられている。無意識は、あることをしながら自分のしていることに気付かないことや本人は意識していないが日常の精神に影響を与えている心の深層という意味である。しかし、これらの意味では、深層心理の本質を突くことはできない。深層心理は無意識に日常の精神に影響を与えている程度の弱小の存在ではなく、日常の精神の中心を成すほどの強大な存在なのである。なぜならば、人間の心、すなわち、人間の精神は、深層心理の思考によって、初めて、動き出すからである。深層心理が、人間の無意識のうちで、まず、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を動かそうとするのである。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我などがあり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員という自我などがあり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。快感原則とは、フロイトの用語で、快楽を求める欲望である。深層心理は、自我が他者から好評価・高評価を受けること、自我が対象を支配すること、自我が他者と心の交流をすることによって、快楽を得ようとしているのである。快感原則とは、ひたすら、その時、その場での、瞬間的な快楽を求める欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求めることを、目的・目標としているのである。さて、人間の最初の構造体は、家族であり、最初の自我は、男児もしくは女児である。フロイトが提唱した精神分析の思想に、エディプス・コンプレクスがある。それは、家族という構造体で、男児という自我を持った者は、深層心理が、母親という他者に対して、男性という好評価・高評価を受けて快楽を得ようとして、近親相姦的な愛情というエディプスの欲望を抱き、敵対者として、父親を憎むようになるが、父親や社会がそれに反対し、家族という構造体から追放される虞があるので、表層心理で、抑圧してしまう精神現象である。男児は、家族という構造体の中で、男児という自我を持ったから、深層心理がエディプスの欲望(母親に対する近親相姦的な愛情)という自我の欲望を生み出したのである。しかし、家族という構造体から追放される虞があるので、男児は、表層心理で、エディプスの欲望(母親に対する近親相姦的な愛情)を抑圧したのである。このように、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動せず、表層心理で、意識して、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出し行動の指令の採否を思考し、その結果を、意志として行動することがあるのである。現実原則も、フロイトの用語であり、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらそうとする欲望である。深層心理の働きについて、ラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言っているのである。深層心理が、人間の無意識のうちで、まず、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を動かそうとするのである。確かに、自我を動かす思考の母体は、無意識という深層心理であるから、深層心理による思考が存在するといっても、その実体を明示することはできない。しかし、深層心理の思考、すなわち、無意識の思考があるから、それによって、自我の精神(心)が動かされ、人間は、行動できるのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すから、人間は、行動できるのである。このように、人間は、常に、深層心理が生み出す自我の欲望によって動かされているのである。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、組織・集合体という構造体の中で、ポジションを得て、それを自我として、その務めを果たすように、自我の欲望を満たすように生きている。自我の欲望は、人間が自我を持った時から、深層心理が生み出してくるのである。一般に、思考とは、人間が、表層心理で、意識して行うことを指しているが、実際には、人間が生活する上では、人間は、まず、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それによって人間は、動き出すのである。人間の表層心理での思考、すなわち、意識しての思考は、常に、深層心理の思考が生み出した自我の欲望を受けて行われるのである。確かに、深層心理とは、人間の無意識の心の働きであるが、決して、無作為の動きでも本能的な動きでもない。深層心理は、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、思考するのである。深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理は、長時間、思考するのである。つまり、深層心理は、人間の無意識のままに、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、意識して、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の採否を思考することがあり、その結果が、意志による行動である。快感原則とは、フロイトの用語であり、道徳観や社会的な規約を有さず、ひたすらその場でのその時での快楽を求め、不快を避けようとする欲望である。現実原則とは、フロイトの用語であり、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらそうとする欲望である。さて、深層心理は、三種類の機能を使って、快感原則を満たそうとする。深層心理は、自我が他者から好評価・高評価を受けること、自我が対象を支配すること、自我が他者と心の交流をすることによって、快楽を得ようとする。第一の機能として、深層心理は、自我が他者から好評価・高評価を受けること、すなわち、自我が他者に認められることによって、快楽を得ようとする。それが、自我に対する対他化という機能である。自我の対他化を細説すると、次のようになる。他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。認められたい、愛されたい、信頼されたいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、評価されること、好かれること、愛されること、認められること、信頼されることができれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。自我の対他化は、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。受験生が有名大学を目指すこと、少女がアイドルを目指すこと、いずれもこの機能による。第二の機能として、深層心理は、自我が対象を支配すること、すなわち、自我が他者・物・事柄という対象を支配することによって、快楽を得ようとする。それが、対象に対する対自化の機能である。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。教諭が校長を目指すこと、社員が社長を目指すこと、いずれもこの機能による。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの機能による。最後に、事柄という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で、事柄を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの機能による。他者・物・事柄という対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、他者を支配しようとする。人間は、物を利用し、事柄を自らの志向性で捉えようとする。人間は、実際には存在しないものを、自己の欲望によって創造する。)という言葉に集約されている。特に、「人間は、実際には存在しないものを、自己の欲望によって創造する。」という対象の対自化は、人間特有のものである。 人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むこと、いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めること、いずれもこの機能による。第三の機能として、深層心理は、自我が他者と心の交流をすること、すなわち、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとする。それが、自我と他者の共感化である。自我と他者の共感化とは、他者と理解し合いたい、愛し合いたい、協力し合いたいと思いで、他者に接することである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の機能である。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。すなわち、自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。ストーカーは、カップル・夫婦という構造体が消滅し、恋人・夫(妻)という自我が失われることに困窮した者がなるのである。さて、人間は、明日も、今日と同じように、学校、会社、店舗、施設、役所などの構造体に行くだろう。そして、明日も、今日と同じように、家という構造体に帰ってくるだろう。人間が生きていくとは、いつ、いかなる時でも、常に、学校、会社、店舗、施設、役所、家などの構造体で、自我を得て暮らし続けるということなのである。高校という構造体では一年生・二年生・三年生・教諭・校長などの自我を得て、会社という構造体では社員・課長・社長などの自我を得て、店舗という構造体では客・店員・店長などの自我を得て、施設という構造体では所員・所長などの自我を得て、市役所という構造体では職員・助役・市長などの自我を得て、家という構造体では父親(父)・母親(母)・男児(息子)・女児(娘)などの自我を得て、暮らし続けるのである。人間は、自我を得て、初めて、人間となるのである。自我を得るとは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態である。それは、アイデンティティーが確立された状態である。しかし、人間は、意識して、自我を得るのでは無い。深層心理という無意識が自我を持つのである。人間は、自我を得ると同時に、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すようになるのである。人間の自我の欲望は、表層心理で意識して生み出したものではなく、深層心理が、人間の無意識のうちに、生み出したものなのである。人間は、人間社会において、深層心理が生み出した自我の欲望主体に生きている。男児が母親に恋愛感情を抱くのも、深層心理が生み出した自我の欲望である。高校生が学校に行くのも嫌がるのも、深層心理が生み出した自我の欲望である。会社員が会社に行くのも嫌がるのも、深層心理が生み出した自我の欲望である。社長が嬉々として会社に出掛けるのも、深層心理が生み出した自我の欲望である。構造体に喜んで行くのは、その構造体には快楽が待っていて、構造体に行くのを嫌がるのは、その構造体には不快が待っているからである。さて、人間は、まず、深層心理は、構造体において、自我を主体にして、自我の対他化・対象の対自化・自我と他者の共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。しかし、深層心理が生み出した行動の指令のままに、必ずしも、行動するのではない。人間は、表層心理で、深層心理の結果を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令をそのまま行動するか、行動の指令を抑圧するかを思考し、その結果、行動することもあるのである。しかし、多くの場合、人間は、表層心理で意識せずに、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令のままに、行動するのである。それが、無意識による行動である。高校生や会社員が、無意識に、高校や会社に行くのは、表層心理で意識せずに、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動しているのである。それは、無意識の行動であり、考えることもなく当然のことだからである。しかし、人間は、無意識の行動ではなく、稀れには、表層心理は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令を意識し、行動の指令の採否を考えて、行動することがあるのである。それが理性で思考した行動である。理性と言われる人間の表層心理での思考は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を意識し、行動の指令のままに行動するか、行動の指令を抑圧して行動しないかを決定するのである。人間が、表層心理で、行動の指針を抑圧して行動しないことを決定するのは、現実原則に基づいて、そのように行動したら、後に、自分に不利益なことが生ずる虞があるからである。高校生が嫌々ながら学校に行くのは、高校という構造体から追放されることを恐れてのことなのである。会社員が嫌々ながら会社に行くのは、会社という構造体から追放されることを恐れてのことなのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、行動しないことに決定しても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがある。引きこもりの高校生や会社員は、表層心理で、深層心理が出した学校や会社に行かないという行動の指令を抑圧して、学校や会社に行くことに決定しても、深層心理が生み出した苦痛という感情が強過ぎるので、抑圧が功を奏さず、学校や会社に行かないことになるのである。また、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、深層心理が出した行動の指令のままに行動しないことを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。不登校の高校生が、表層心理で、思考して、深層心理が出した学校に行くと同級生からいじめられるから行かないという行動の指令を抑圧して、学校に行くことにするためには、表層心理で、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出したいじめられた時の屈辱感という苦痛の感情がまだ残っていて、代替の行動が、その感情が消さない限り、心に安らぎは訪れず、学校に行く気になれないのである。同じように、不出勤の会社員が、表層心理で、思考して、深層心理が出した会社に行くと上司から叱責を受けるから行かないという行動の指令を抑圧して、会社に行くことにするためには、表層心理で、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した叱責された時の屈辱感という苦痛の感情がまだ残っていて、代替の行動が、その感情が消さない限り、心に安らぎは訪れず、会社に行く気になれないのである。その時、不登校の高校生も不出勤の会社員も、「自分は何のために生きているのか。」と苦悩するまでに至るのである。苦悩とは屈辱感という苦痛の感情の中での思考である。不登校の高校生も不出勤の会社員も、屈辱感という感情から解放されたいから思考するのである。しかし、ほとんどの場合、不登校の高校生も不出勤の会社員も、屈辱感という感情から解放されるための代替の行動を考え出すことができず、退学や退社を考えるまでに至るのである。しかし、それは、最終的な解答にはならない。なぜならば、一つの高校や一つの会社という構造体から脱退し、高校生や会社員という自我を失えば、新しい構造体に所属し、新しい自我を得なければならないが、新しい構造体の所属にも新しい自我の獲得にも、何の保証も無く、不安だからである。そして、不登校の高校生も不出勤の会社員も、代替の行動が思いつかず、屈辱感という苦痛の感情が強まり、鬱病などの精神疾患に陥ることが多いのである。時には、自殺することもあるのである。明治36年、藤村操は、「人生は、不可解なり。」という遺書を残し、華厳の滝に投身自殺した。彼は、16歳の旧制一高の学生であったから、マスコミは、「やはり、一高生は、考えることが違う。」と褒めそやした。確かに、藤村操は、人生そのものに対して疑問を抱き、人生の意味について深く思考した。しかし、人生が不可解である段階で自殺するのは、思考を途中で放棄したことになる。人生は無意味であるという結論を出してからの自殺ならば、納得できる。果たして、人生は不可解であるという理由で、人間は、自殺できるものなのだろうか。藤村操は、本当に、それを理由に自殺したのだろうか。後に、この疑問は氷解することになる。藤村操の手紙が発見されたからである。そこには、自殺直前の失恋の苦悩が綴られていた。つまり、藤村操は、人生の意味を解けないことから来る苦悩から自殺したのではなく、失恋という自我の苦悩から逃れるために自殺したのである。藤村操は、失恋を機に、なぜ失恋したのだろうか、なぜ失恋の苦悩から逃れられないのだろうか、なぜ人は愛するのだろうか、なぜ自分は愛されなかったのか、自分は愛されるに値しない人間なのかなど自我に対する疑問が次々と湧き上がり、苦悩の中で自我の存在の意味を問い直し続け、それでも、自我の存在の意味が見いだせず、苦悩から脱却できなかったから、自殺したことは大いに考えられる。単に、人生の意味とは何か、人生は生きるに値するかという問題を考えるならば、人生は不可解なりという段階はもちろんのこと、たとえ、それが結論だったにせよ、万が一、人生は無意味である、人生は生きるに値しないという結論が出ても、誰一人として、自殺しないだろう。それは、人間の普遍的な課題だからである。失恋という自我の苦悩の中にいるから、失恋という苦悩から脱却できなかったから、人生は不可解なりという遺書を残して自殺したのである。藤村操にとって、失恋という自我の苦悩から脱却することが最大の課題であり、人生の意味とは何か、人生は生きるに値するかという問題を解くことは、失恋の苦悩から脱却するための手段だったのである。しかし、それは、誰しも、経験することであり、失恋に限らず、人間の思考は、自我の苦悩から始まり、人間の普遍的な課題へと迫るのである。さて、ほとんどの人間は、今日も、喜んでにしろ、嫌々ながらにしろ、無意識的にしろ、昨日と同じ構造体に行き、昨日と同じ自我を持ち、昨日と同じようなことをするのである。ほとんどの人間は、明日も、喜んでにしろ、嫌々ながらにしろ、無意識的にしろ、意識的にしろ、今日と同じ構造体に行き、今日と同じ自我を持ち、今日と同じようなことをするのである。ニーチェの言う「永劫回帰」の思想が、人間が生きていくということにおいても言えるのである。それでも、ニーチェは、「人生を、もう一度行ってもいい。」と言うのである。生きることそれ自体に価値を見出しているのである。
確かに、高校という構造体にしろ、会社いう構造体にしろ、掛け替えのない構造体ではない。そもそも、掛け替えのない構造体はこの世には存在しない。高校生という自我にしろ、会社員いう自我にしろ、掛け替えのない自我ではない。そもそも、掛け替えのない自我はこの世には存在しない。しかし、人間は、その掛け替えのある構造体と自我に、自己の存在を賭けて生きるしかないのである。

現代は、死を覚悟しなければ、政権批判ができない時代になりつつある。(自我その323)

2020-02-22 18:54:36 | 思想
数日前、「現代は、死を覚悟しなければ、政権批判ができない時代になりつつある。」という記事が新聞に出た。何を甘ったれたことを言っているのだろうと思う。インド建国の父と言われているガンジーは、「自分の行動は全ては取るに足らないことかも知れない。しかし、自分が行動したというそのことが重要なのである。」と言っている。その意味は、自分の言動だけでは、政治を変えることはできないかもしれないが、自分が言動している限り、少なくとも、自分だけは政治によって変えられることはないということである。現代日本の政治に限らず、政治は、大衆の意見によって変化し、大衆の考えが変わらない限り、政治は変わらない。しかし、ニーチェが言うように「大衆は馬鹿だ」から、自ら思考しようとせず、
政治権力や右翼マスコミや周囲の大衆右翼から与えられた因循姑息の政治意識から離れようとしない。それは、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)と言うように、大衆は、政治権力や右翼マスコミや周囲の大衆右翼いう他者の欲望を欲望するからである。確かに、自分の言動は大衆の大半の政治意識を変えることはできないかも知れない。しかし、大衆の幾人かには響くかも知れない。何よりも、自分が言動している限り、少なくとも、自分だけは政治によって変えられることはないのである。自分の言動が大衆の大半の政治意識を変えることはできないといういらだちが、70年安保闘争の全共闘闘争が連合赤軍などの直接行動を呼び起こし、悲劇・惨劇を呼び起こしたのである。確かに、自分がどのように言動しようと、大衆の大半の政治意識は変わらない。しかし、それでも、言動し続けるのである。それが、自分がこの世に生きている証だからである。戦前、幸徳秋水、大杉栄、小林多喜二は、常に、国家権力の監視を受けながら、死を覚悟しつつ、戦争反対を唱えた。そして、国家権力によって、不当に逮捕され、虐殺された。平沼騏一郎は、1910年の大逆事件で検事を務め、冤罪で、幸徳秋水以下12名を死刑台に送り込んだ、世紀の大犯罪者である。その国家主義思想は、右翼団体の国本社を主宰するまでに至った。1939年1月から8月まで、平沼騏一郎内閣を組閣し、国民精神総動員体制の強化と精神的復古主義を唱えた。また、1945年1月から4月まで、枢密院議長として、降伏反対の姿勢で終戦工作をした。平沼赳夫のの養父が、平沼騏一郎である。平沼赳夫は、郵政民営化関連法案に反対して自民党を飛び出したが、安保法案に賛成すると菅官房長官に表明し、復党を許された。また、「慰安婦は売春婦だ」と言って、物議をかもした。甘粕正彦は、1923年9月16日、東京麹町憲兵分隊長の時、関東大震災の混乱に乗じて、無政府主義者の大杉栄、妻で婦人運動家の伊藤野枝、甥の6歳の橘宗一を連行し、絞殺した。軍法会議で懲役10年の刑を受けたが、3年後、釈放された。1930年、中国に渡り、1931年の満州事件以後、軍の謀略・工作活動に携わり、満州国建設に関わり、満州映画協会理事長を歴任した。1945年8月20日、敗戦の報を受けて、満州でピストル自殺した。安倍源基は、東京帝大法学部法律学科卒業であるが、戦前の特高部長時代、小林多喜二など、数十人を拷問死させている。戦前の旧東大法学部卒の特高の幹部だった安倍源基は、部下を指揮して、小林多喜二を初めとして、数十人の共産主義者や自由主義者を拷問で殺している。戦後、従三位勲一等に叙位・叙勲された。戦後の日本は、アメリカ(GHQ)が作成した日本国憲法によって、民主国家として、出発した。しかし、国民の大半は、戦前と同じく、国家主義者である。民主主義者を標榜しているが、本質的には、国家主義者である。戦後も、戦前と同じく、国民の大半は、国家主義者なのでである。それは、戦後の政治的な大事件が右翼によって引き起こされ、現在の首相である国家主義者の安倍晋三が、どれだけ悪事を働いても、国民から高い支持を受けていることからも理解できる。戦後、右翼によって引き起こされた政治的事件を挙げてみよう。一つ目の例は嶋中事件である。深沢七郎の小説『風流夢譚』」が雑誌『中央公論』に掲載され、右翼が「皇室に対する冒瀆で、人権侵害である。」として中央公論社に抗議をしていたが、大日本愛国党の少年は、1961年2月1日、同社社長宅に侵入し、応接に出た同社長夫人をナイフで刺して重傷を負わせ、制止しようとした同家の家事手伝いの女性を刺殺した。二つ目の例は浅沼事件である。日本社会党委員長の浅沼稲次郎が、1960年10月12日午後3時頃、東京日比谷公会堂で演説中、少年に刺殺された。彼は、一時、赤尾敏が総裁である大日本愛国党に入党していた。「日本の赤化は間近い。」という危機感を抱き、容共的人物の殺害を考え、街頭ポスターで演説会を知り、犯行に及んだのである。後に、少年鑑別所の単独室で、壁に『七生報国』『天皇陛下万歳』と書き残して、自殺した。大江健三郎は、この事件に触発されて、「政治少年死す」という小説を書き、17歳の少年が類似した事件を起こし、自殺するまでを描いた。第2部を発表したところ、出版社及び著者に右翼から脅迫が行われ、第2部は、初出誌以外に収録されていない。戦前戦後を通じて、体制批判をする者は、政治権力者、官僚、右翼マスコミ、大衆右翼によって弾圧を受け、逮捕され、拷問され、あまつさえ命まで狙われてきたのである。明治から現代に至るまで、無数の者が弾圧され、命を奪われたのである。深層心理が生み出す自我の欲望に正直な幼稚な人間は、他者の命まで奪うのである。体制批判をする者は、自我の欲望に正直な幼稚な政治権力者、官僚、右翼マスコミ、大衆右翼によって弾圧を受け、逮捕され、拷問され、命を奪われてきたのである。さて、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体に所属して、ある関係性を築いて、ある自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間が最初に所属する構造体は、一般に、家族であり、最初の関係性は家族関係であり、最初の自我は、男の子または女の子である。我々は、家族という構造体で、家族関係を築きながら、男児もしくは女児という自我を持って行動し、成長していくのである。保育園という構造体で園児という自我、幼稚園という構造体で園児という自我、小学校という構造体で小学生という自我、中学校という構造体で中学生という自我。高校という構造体で高校生という自我、大学という構造体で学生という自我、会社という構造体で社員という自我、店という構造体で店員という自我、仲間という構造体で友人という自我、カップルという構造体で恋人という自我、夫婦という構造体で夫もしくは妻という自我ヲ持って行動するのである。また、我々は、日本という国にも所属し、社会的な関係性を築きながら、日本人という自我を持って、行動している。さて、人間は、常に、思考して、行動する。無意識の行動も習慣的な行動も、深層心理が思考しての行動である。深層心理は、一般に、無意識と表現されている。深層心理は、奥深くに隠れている心の動き・外に現れない無意識の心の働きである。我々は、まず最初に、我々の意識していないところで、すなわち、深層心理が思考するのである。自ら意識して、自らの意志で、すなわち、表層心理で思考するのは、深層心理の思考の結果を受けてのことである。表層心理は、深層心理による思考(無意識の中での思考)の結果を受けて、意識して、それを思考するのである。深層心理は、瞬間的に思考する。人間の表層心理による思考は、短時間のものから長時間のものまで多岐にわたっているが、深層心理による思考よりも短くなることはない。しかし、ほとんどの人は、思考と言えば、表層心理による、意識しての思考を考え、深層心理による思考が存在することに気付いていない。一般に言われる理性は、表層心理による、意識しての思考を意味する。しかし、自我を動かすものが、深層心理である。深層心理とは、人間の無意識の心の思考である。無意識の心の思考と言っても、決して、無作為の動きをすることことでも、本能的な動きをすることでもない。深層心理は、思考するのである。深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理は、長時間、思考するのである。ラカンが「無意識は言語によって構造化されている。」と言っているのは、その謂である。ラカンの言う「無意識」とは、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、深層心理が論理的に思考しているということを意味する。人間の思考は、言語を使って論理的に為されるからである。つまり、深層心理は、自我を主体に立てて、人間の無意識のままに、感情原則に基づいて、論理的に思考し、感情と行動の指令を生み出しているのである。深層心理が自我にもたらした感情と行動の指令を、自我の欲望と言う。快感原則とは、フロイトの用語であり、快楽を得たいという欲望である。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属しているから、常に、他者との関わりがある。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、深層心理によって、行動するのである。深層心理が、人間の無意識のうちで、まず、動くのである。深層心理は、構造体において、自我を主体に立てて、快楽を得ようという欲望に基づいて、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を行動させようとする。人間は、表層心理で、意識して、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令の適否を考えるのである。その後で、人間は、行動するのである。また、深層心理は、自我が存続・発展するように、そして、構造体が存続・発展するように、自我を動かす。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。日本人にとって、日本人という自我を存続・発展させるために、日本という構造体が必要なのである。だから、日本人は、日本にこだわるのである。郵便局員がかんぽ生命保険の不正な販売をしたのは、郵便局員という自我の存続・発展のためである。官僚が安倍晋三首相の森友学園・加計学園の不正に荷担したのは、官僚という自我の存続・発展のためである。さて、深層心理は、構造体において、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を主人にして、人間を行動させようとしている。それでは、対他化とは、何か。対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自分に対する他者の思いを探ることである。簡潔に言えば、好かれたい、愛されたい、認められたいという思いで、他者の自らの思いを探ることである。それを、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉で集約している。次に、対自化とは、何か。対自化とは、自分の目標を達成するために、他者に対応し、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いから他者を見ることである。「人は自己の欲望を他者に投影する」(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、自己の視点で他者を評価する。)ということである。ニーチェの言う「力への意志」とは、このような自我の盲目的な拡充を求める、深層心理の欲望なのである。最後に、共感化とは、何か。共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。また、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うことである。「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くする)がそれである。支持率の下がった国家権力者が、自国民からの支持を高めようと思い、他国を自国民との共通の敵にするのもそれである。だから、共感化とは、簡潔に言えば、愛情、友情、協調性を大切にする思いである。さて、人間は、自我の力が弱いと思えば、対他化して、他者の自らに対する思いを探り、迎合する。人間は、安心できる人や理解し合う人や愛し合うことができる人ならば、共感化する。人間は、自我が不安な時は、共感化できる人がいたならば交わり、自我の存在を確かなものにしようとする。人間は、自我の力が強いと思えば、対自化して、他者の思いを探り、他者を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりする。だから、サルトルは、人間は対他化と対自化の相克であり、対自化を目指さなければならないと言ったのである。そして、思想家の吉本隆明は、「人間の不幸は、わがままに生まれてきながら、わがままに生きられず、他者に合わせなければ生きていけないところにある。」と言っている。わがままに生きるとは、他者を対自化して、自分の力を発揮し、支配し、思うままに行動することである。他者に合わせて生きるとは、自我を対他化し、他者の評価を気にして行動することである。つまり、自分の思い通りに行動したいが、他者の評価が気になるから、行動が妥協の産物になり、思い切り楽しめず、喜べないということになるのである。このようにして、人間は、まず、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。人間は、表層心理は、意識して、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令の適否を考え、そして、行動するのである。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に現実的な利益をもたらそううという欲望である。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が出した行動の指令を、全て、意識するわけではない。深層心理が出した行動の指令を、人間は、意識せずに、その行動の指令通りに行動することがある。これが、所謂、無意識の行動である。また、表層心理が、深層心理が出した行動の指令を意識し、その行動の指令を抑圧し、行動しない時がある。これが、所謂、我慢、辛抱である。しかし、この後、表層心理は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令とは別の行動を考え出さなければいけない。表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、対他化によって、傷心・怒りの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。人間は、表層心理で、後のことを考慮し、行動の指令を抑圧する。しかし、その後、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考えなければならないのである。それは、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。しかし、表層心理が考え出した行動で行動できれば、それは、意志による行動と言われる。そして、もちろん、表層心理が、深層心理が出した行動の指令を意識し、その行動の指令の通りに行動する時もある。これも、また、意志による行動と言われる。表層心理が意識した行動は、皆、意志による行動と言われるのである。しかし、人間は、表層心理が、深層心理が出した行動の指令を意識し、その行動の指令を抑圧し、行動しないように決めても、行動してしまう時がある。深層心理が生み出した感情が強過ぎるので、表層心理の抑圧が功を奏さず、深層心理が出した行動の指令のままに行動してしまうのである。これが、所謂、感情的な行動である。先の例で言えば、表層心理は、深層心理からの相手を殴れという行動の指令を、後のことを考慮し、抑圧しようとするのだが、深層心理が生み出した傷心・怒りの感情が強過ぎるので、抑圧できず、そのまま、相手を殴ってしまうのである。この行動は、犯罪になることもあり、後悔することが多い。このように、人間は、構造体に属し、自我を持ち、深層心理はが、まず、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、思考し、構造体と自我の存続・発展ために自我を動かし、対他化・対自化・共感化の機能によって、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。後に、人間は、それを受けて、表層心理で、意識して、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、思考し、そして、行動するのである。これが、人間に共通の傾向である。つまり、人間の現象である。さて、深層心理には、社会的な道徳心が無いから、快楽を得るために(「快感原則」のために)、いろいろな自我の欲望を生み出す。すなわち、深層心理が生み出した自我の欲望は、良心的な欲望、実現可能性の高い欲望、理想的な欲望から、不道徳な欲望、無謀な欲望、かなえてはいけない欲望まで、さまざまな欲望がある。人間、誰もが、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動すれば、人類はすぐに滅びるだろう。人間は、表層心理で、意識して思考が、自我の存続のために(「現実原則」によって)、社会的な道徳心に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令を審査し、良心的な行動の指令、実現可能性の高い行動の指令、理想的な行動の指令を許諾し、不道徳な行動の指令、無謀な行動の指令、かなえてはいけない行動の指令を抑圧するから、自我は安泰なのである。人間が、表層心理で、不道徳な行動の指令、無謀な行動の指令、かなえてはいけない行動の指令を意志を使って抑圧できるのは、自我がこれらの悪事を行えば、他者に露見し、悪評価・低評価を受け、顰蹙を買ったり、処罰されたりして、自我が傷付けられるからである。それでは、人間は、自我がこれらの悪事を行っても、他者に、自我が特定される可能性が低かったらなかったらば、どうするであろうか。つまり、人間は、自分が犯人だと特定される可能性が低くても、悪事を犯さないかということである。もちろん、そこには、自分が犯人だと特定される可能性の大小、深層心理が生み出した感情の強弱、悪事の大小が原因し、簡単には、決められないだろう。しかし、もしも、それが、自分が犯人だと特定される可能性が小さく、他者に共感する者が大勢いることが想定され、深層心理が生み出した感情が強く、悪事そのものが小さく、自我が傷付けられる可能性が小さいと思われることならば、人間は、その悪事を犯すのではないか。人間は、表層心理で、他者に共感する者が大勢いることで大衆性を頼み、自分が犯人だと特定される可能性が低いから自我が傷付けられる可能性が低く、また、小さな悪事だから自分が犯人だと特定されても自我が傷付けられることが小さいから、深層心理の生み出した自我の欲望のままに行動するのである。これが、人間の大衆性である。それが、ハイデッガーの言う、世間話・好奇心・曖昧性に満ちた人間のあり方である。ハイデッガーは、世間話・好奇心・曖昧性に満ちた状態を「現存在の頽楽」(人間の堕落した状態)だと言う。世間話・好奇心・曖昧性に満ちた生活とは、大衆の生活であり、それは、好奇心のままに、そこにいない人や事柄を話題に取り上げ、誰が言ったのかもその根拠も示さず、無責任に、語り合って、日々を送る生活である。それは、芸能人の不倫というスキャンダルに端的に現れる。芸能人の不倫という世間話は、他者と話題を共有できるから、深層心理の他者との共感化が築け、満足感が得られるのである。また、自分が得意げに話し、他者が興味を持って聞いてくれるから、自我の対他化が満足できるのである。好奇心は、芸能人のプライバシーにまで入っていけるから、深層心理の自我の対自化をを満足させるのである。曖昧性は、芸能人の不倫というスキャンダルについて無責任に話せるから、深層心理の自我の対他化が傷つけられず、むしろ、対自化を満足できるのである。世間話・好奇心・曖昧性に満ちた生活は、大衆が大衆という他者ととに、ある他者を対自化し、ある他者について共感化できるから、楽しいのであるのである。さて、日本人は、日本という構造体で、日本人という自我を持って生活している。日本人の深層心理は、快楽を得るために(「快感原則」に基づいて)、日本人という自我を対他化・対自化・共感化して、また、日本人という自我の発展、日本という構造体の発展のために、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。これが、愛国心である。特に、日本人という自我の発展、日本という構造体の発展のための自我の欲望が、日本人の愛国心である。だから、日本人ならば、誰にでも、愛国心は存在する。だから、売国奴や反日などと言って、他の日本人を非難する人が存在するが、実際には、売国奴や反日は存在しない。もちろん、アメリカ人にも、中国人にも、ロシア人にも、韓国人にも、全て、愛国心が存在する。さて、日本人の深層心理は、快楽を得るために(「快感原則」に基づいて)、日本人という自我を対他化・対自化・共感化して、また、日本人という自我の発展、日本という構造体の発展のために、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているが、当然、行動の指令の中には、不道徳な行動の指令、無謀な行動の指令、かなえてはいけない行動の指令などの悪事を行うことの指令が存在する。しかし、大衆性に満ちた日本人は、もしも、それが、自我が犯人だと特定される可能性が小さく、他者に共感する者が大勢いることが想定され、深層心理が生み出した感情が強く、自我が傷付けられる可能性が小さいと思われることならば、実行するのである。そして、集団となって、街頭で、「在日は出ていけ。」と叫び、インターネットで、「在日の女優」、「反日日本人の正体」、「日本を駄目にした日本人」、「韓国に日本を売った日本人の正体」などと流すのである。右翼の国家主義者の狙い目はそこにあるのである。日本人の愛国心を深層心理から強く動かすことなのである。つまり、日本人の多くは、深層心理は、国家主義に基づいていて思考し、表層心理は、民主主義の基づいて思考しているのである。だから、日本人の多くは、民主主義者を装いながら、何か事があると、国家主義に引きずられていくのである。それが、現在でも、日本という国の構造体が、国家主義者によって動かされているという現象を生み出しているのである。さて、現在の日本の首相である安倍晋三という国家主義者は、岸信介の孫である。岸信介は、超という接頭語を付くぐらいの、国家主義者であった。安倍晋三が、岸信介を尊敬しているのも、頷けることである。岸信介は、満州国の高官を経て、東条英機内閣が太平洋戦争を起こした時は、商工大臣になっていた。太平洋戦争中、大日本帝国は、軍部が、八紘一宇(はっこういちう・世界を一つの家にすること)を掲げて、自らの行為を正当化しつつ、中国、東南アジアの侵略し続けた。その結果、アメリカを中心とした連合国と戦争をせざるを得なくなった。また、大日本帝国は、満州国の建国理念として、五族協和(日・朝・漢・満・蒙の五族の協和。日本人、朝鮮人、漢族、満州族、モンゴル族が平等の立場で満州国を建設すること)・王道楽土(おうどうらくど・王道主義によって、各民族が対等の立場で搾取なく強権のない楽土(理想郷)を実現すること)を掲げた。しかし、八紘一宇、五族協和、王道楽土は、見せかけだけのスローガンであった。真実は、日本軍人(日本人)はアジアの諸民族を蔑視し、嫌悪していたのである。その証拠として、次のような実例を挙げることができる。日本軍(日本人)は、中国や朝鮮や東南アジアにおいて、日本の神社を拝ませ、日本語を強制し、拷問、レイプ、虐殺を行った。陸軍の細菌戦部隊である731部隊は、中国において、ペスト、コレラ、チフスなどの細菌の研究を進め、実戦に使い、中国人、ロシア人などの捕虜・抗日運動家を使って人体実験を行った。その犠牲者の数は三千人近いと言われている。日本軍(日本人)は、朝鮮において、創氏改名(朝鮮人の姓名を日本式の氏名に改めること)を強制した。日本軍人は、東南アジアにおいて、現地の若い女性をだまして、暴力的に従軍慰安婦に仕立て上げた。それは、朝鮮だけにおいてではない。占領地全てにおいてであった。太平洋戦争は終わった。日本は敗北した。しかし、日本人の中には、アジアの諸民族対する蔑視感・嫌悪感を、現在も、持ち続けている人が存在するのである。それも、決して少ない数ではない。特に、中国、韓国、北朝鮮に対して蔑視感・嫌悪感を抱いている人が多い。それは、戦前、大日本帝国が、中国、韓国、北朝鮮を侵略し、占領したからであり、多くの日本人の深層心理が、国家主義思想あるからである。「在日韓国人や在日朝鮮人は日本から出て行け。」と叫びながら、デモ行進をする在日特権を許さない市民の会という右翼集団の行動に如実に表れている。戦前の亡霊が現在まで生き残っているのである。特に、安倍晋三が首相になってから、我が意を得たりとばかり、ヘイトスピーチする集団とともに、中国・韓国・北朝鮮に対して、あからさまに非難する人が増えてきた。岸信介は、太平洋戦争中、あくどいやり方で、中国で利益を上げた。それ故に、今もって、多くの中国人に嫌われている。当然のごとく、戦後、A級戦犯として逮捕された。しかし、共産主義国であるソ連の台頭、中国の共産党の勃興、朝鮮戦争が起こりそうな機運が高まってきたので、アメリカは政治判断を下し、岸を釈放した。その後、自民党の衆議院議員になり、そして、首相にまで上り詰めた。1960年、安保条約(日米安全保障条約)を改定した。旧安保条約には、アメリカ軍が安全保障のために日本に駐留し、日本が基地を提供することなどを定めていたが、新安保条約は、それに、軍事行動に関して両国の事前協議制などを加えた。旧新ともに、安保条約は、日本がアメリカの従属国家であることを示している。また、岸信介は、旧安保条約の細目協定である日米行政協定を、新安保条約では、日米地位協定と改定した。日米地位協定には、基地・生活関連施設の提供、税の免除や逮捕・裁判に関する特別優遇、日本の協力義務、日米合同委員会の設置など、アメリカ軍人とその家族の権利が保証されている。日本人がアメリカ人の下位にあることは一目瞭然である。岸信介は、政治家を退いた後も、自主憲法やスパイ防止法の成立を目指した。安倍晋三の父である安倍晋太郎も、自民党の衆議院議員であったが、首相にはなれなかった。岸信介の実弟が佐藤栄作である。つまり、佐藤栄作は安倍晋三の大叔父に当たるのである。佐藤栄作も、自民党の衆議院議員であったが、首相となり、ノーベル平和賞を受賞した。安倍晋三は、祖父の岸信介についてはよく言及するが、父の安倍晋太郎、大叔父の佐藤栄作についてはほとんど触れることがない。それは、安倍晋三の深層心理が岸信介に繋がっているからである。安倍晋三の自我は岸信介に連なっているからである。安倍晋三が靖国神社を参拝するのは、そこに祀られているA級戦犯者の復権、延いては、A級戦犯者だった岸信介の復権を目指しているのである。安倍晋三の集団的自衛権は岸信介の対米従属外交、新安保条約、地位協定に繋がっている。自民党の憲法改正案は、岸信介の自主憲法制定の考えに連なっている。安倍晋三とは岸信介のことなのである。確かに、日本は、太平洋戦争でアメリカに敗れ、満州国は崩壊した。しかし、アジアの諸民族に対しての蔑視感・嫌悪感を残している人々がまだ存在する。特に、中国、韓国、北朝鮮に対してそうである。アメリカに対して敗北したのであって、中国や朝鮮に対しては敗北していないというのである。彼らは、日本をアメリカの従属国にしても、中国、韓国、北朝鮮と対峙しようと考えているのである。言うまでもなく、その一人が安倍晋三である。岸信介の満州国における見果てぬ夢を、安倍晋三が首相となって、今見ようとしているのである。戦前の亡霊が現在の日本を支配しようとしているのである。麻生太郎は、安倍内閣の副首相兼財務大臣である。麻生は、「ワイマール憲法も、いつの間にか、ナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。」と発言し、憲法を変えずとも、解釈によって、実質的な憲法改正の道を示唆した。それは、安倍晋三が、ほとんどの憲法学者が反対する中で、強引な憲法解釈と強行採決によって、国会で、集団的自衛権を認めさせたのと、底で繋がっているのである。麻生太郎の祖父が、吉田茂である。吉田茂は、戦前は、外交官として、日本が太平洋戦争に突き進むために、暗躍した。戦後は、首相となり、最初の安保条約(旧安保条約)を成立させた。戦前は、無鉄砲にも、日本がアメリカと戦争するように仕向け、アメリカが世界の第一の強国だとわかると、戦後は、アメリカに阿諛追従(あゆついしょう・相手に気に入られようと、こびへつらうこと)している。麻生太郎の節操のなさは吉田茂と繋がっている。確かに、吉田茂は、アメリカからの要求である日本の軍備増強を拒否した面は評価しても良い。しかし、安保条約を成立させて、日本をアメリカの属国にし、沖縄をアメリカの基地の犠牲にした基礎を造ったことは、批判しても批判しつくせるものではない。中曽根康弘は、戦前、海軍主計中尉として、インドネシアにいた時に、従軍慰安施設を作った。自叙伝でそれを自慢げに語っていたが、従軍慰安婦が問題となると、沈黙を保っている。戦後、首相となるや、日本に原発を導入し、レーガン大統領に対して、「日本列島は不沈空母」と言い、アメリカの軍事行動を全面的に支援することを約束した。防衛費の対国民生産GNP比率1%枠を突破させた。さらに、首相として、初めて、靖国公式参拝を行った。また、国家秘密法の制定、有事法制の制定、イラン・イラク戦争末期の1987年に自衛隊の掃海艇の派遣を試みたが、いずれも党内外の反対意見が強く、成功しなかった。中曽根康弘の姿勢は、常に日本のナショナリズムを喚起することであり、海軍時代と全く同じである。平沼赳夫は、郵政民営化関連法案に反対して自民党を飛び出したが、安保法案に賛成すると菅官房長官に表明し、復党を許された。また、「慰安婦は売春婦だ」と言って、物議をかもした。平沼赳夫のの養父が、平沼騏一郎である。平沼騏一郎は、1910年の大逆事件で検事を務め、冤罪で、幸徳秋水以下12名を死刑台に送り込んだ、世紀の大犯罪者である。その国家主義思想は、右翼団体の国本社を主宰するまでに至った。1939年1月から8月まで、平沼騏一郎内閣を組閣し、国民精神総動員体制の強化と精神的復古主義を唱えた。また、1945年1月から4月まで、枢密院議長として、降伏反対の姿勢で終戦工作をした。このような人物がいたために、戦争終結が遅れ、日本は、沖縄戦、本土爆撃、広島・長崎の原爆投下の大惨劇に見舞われるのである。戦後、逮捕され、A級戦犯として終身刑を下されたが、健康上の理由で仮出所を許され、その後、病死した。日本は、戦後のほとんどの内閣は、自民党によるものであった。自民党の本質は、憲法改正案に見られる通り、上意下達の全体主義なのである。それは、戦前の政治と同じである。つまり、戦前の亡霊が戦後の日本を支配しているのである。すなわち、現在は、アメリカに隷属しながら、戦前と同じく、国家主義者が日本の政治を動かしているのである。さて、ハイデッガーは、世間話・好奇心・曖昧性に満ちた人間を「ひと(ひと的存在)」と言う。ニーチェは、「大衆」、「最後の人間」と言う。わかりやすく言えば、世間話・好奇心・曖昧性に満ちた人間性が、大衆性である。世間話・好奇心・曖昧性に満ちた生活を送り、それに満足しているのが大衆なのである。ハイデッガーは、「ひと(ひと的存在)」を「非本来的な人間」と言い、そこから脱却し、「本来的な人間」になるためには、「自らを臨死性に置く」(自らを死に臨む状態に置く)という覚悟を持たなければならないと説いているが、「本来的な人間」の内実を説明していない。ニーチェも、「大衆性」に対峙するものとして「貴族性」を挙げているが、その内実を説明していない。一般に、ハイデッガーやニーチェの思想は、「実存」と呼ばれている。サルトルは、「実存が、本質に優越する。」と言っている。サルトルによれば、「実存とは、衆人におもねらず、個人が自ら思考し、決断し、行動することである。」ということになる。しかし、やはり、「実存」を詳述していない。ハイデッガーは、自らの思考を「存在への思考」とし、サルトルの自らの思想理解を嫌ったが、「実存」に関する限り、サルトルの考え方は、一考に値すると思う。しかし、ハイデッガーの「本来的な人間」にしろ、ニーチェの「貴族性」にしろ、サルトルの「実存」にしろ、もしも、「大衆性」から脱却しようと思うのならば、自ら、思考するしかないことを説いている。「大衆性」は共通した考え方・生き方だが、ハイデッガーの「本来的な人間」の考え方・生き方にしろ、ニーチェの「貴族性」の考え方・生き方にしろ、サルトルの「実存」の考え方・生き方にしろ、一人一人が思考し、決断し、自ら責任を取るである。それ故に、困難で、誉れ高いのである。











力への意志と法則(自我その322)

2020-02-20 18:00:55 | 思想
人間とは、「力への意志」を持した動物である。「力への意志」とは、「人間が自然法則を見出さなければ、自分にとって、この世界は混沌とした状態のままである。」や「自分が生きる法則を見つけなければ、自分は他者の言うがままの状態で生きることになる。」という思いで、自然法則や生きる法則を発見し、その法則の下で生きようとすることである。「力への意志」とは、ニーチェの根本思想である。「力への意志」は「権力への意志」とも言われる。そのために、「力への意志」は権力者になろうという意志のように解釈する人がいる。確かに、権力者になろうという意志は「力への意志」の一つであるが、それのみに限定すると、「力への意志」は一部の人にしか通用しないことになる。「力への意志」は全ての人に当てはまる思想なのである。「力の意志」は、一般に、「他を征服同化し、一層強大になろうという意欲、さまざまな可能性を秘めた人間の内的、活動的生命力、不断の生成のうちに全生命体を貫通する力、存在の最奥の本質、生の根本衝動。」などと説明されている。この説明の中で、「他を征服同化し、一層強大になろうという意欲。」は、他者に関わる自我の積極的な姿勢を示している。「力への意志」とは、自らが発見した生きる法則の下で、自我の存在を大きくし、自我の存在を他の人から認めてもらいたいという飽くなき欲望なのである。また、「さまざまな可能性を秘めた人間の内的、活動的生命力、不断の生成のうちに全生命体を貫通する力、存在の最奥の本質、生の根本衝動。」という説明は、人間の自我の内からほとばしる生命の躍動的な動きを「力の意志」だとしているのである。つまり、「力への意志」とは、自らが発見した生きる法則の下での自我の積極的な力の発露であることを意味しているのである。ニーチェが「神は死んだ」と叫び、現世の自我において幸福を求めることを説いたのも当然のことである。また、ニーチェは、「人間は、力の意志を意志することはできない。」と言う。つまり、「力の意志」は意識して生み出すものではなく、無意識のうちに住みついていると言うのである。しかし、無意識と言っても、それは、無作為、無造作なものではない。人間は、無意識のうちで、思考するのである。だから、無意識の思考を深層心理と言い、人間の意識しての思考を表層心理と言うのである。ラカンが「無意識は、言語のように構造化されている。」と言うのは、深層心理は言語を使って思考しているという意味である。もちろん、「力への意志」は深層心理に住みついている。深層心理が、自我を主体に立てて、「力への意志」によって思考するのである。自我とは、構造体の中で、与えられ、それを自らのあり方として行動するポジションである。すなわち、自我とは、ある役割を担った現実の自らの姿なのである。人間は、自己が自我となって、初めて、存在感を覚え、自信を持って行動できるのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。一般に、人間の最初の構造体は家族であり、最初の自我は息子・娘である。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って活動しているのである。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、活動しているのである。人間は、常に、ある時間帯には、ある構造体に所属して、ある自我を得て活動し、別の時間帯には、別の構造体に所属して、別の自我を得て、他者と関わりながら、社会生活を営んでいるのである。だから、ある人は、ある一日、家族という構造体で父親という自我、電車という構造体で乗客という自我、会社という構造体で社員という自我、コンビニという構造体で客という自我、電車という構造体で乗客という自我、家族という構造体で父親という自我を持って暮らしている。また、ニーチェに「永劫回帰」という思想がある。一般に、「永劫回帰」とは世界は永遠に円環運動を繰り返すことだと説明されている。人間の日常生活も同じことの繰り返しである。人間の生活も「永劫回帰」すると説明されている。しかし、それは、逆である。人間は、永遠に円環運動を繰り返すことが世界として見えてくるのである。人間は、同じことを繰り返すことが日常生活として見えてくるのである。人間は、自ら、恒常の自然法則や恒常の生きる法則を発見し、それが深層心理に住みつき、深層心理が、その法則によって思考し、人間を動かすようになれば、「力への意志」によって生きていると言えるのである。人間は、恒常の法則を発見し、深層心理にそれが住つき、人間が、その法則の下で生きようとし、その法則に照らすことによって生きることができるようになって、初めて、「力への意志」によって生きていると言えるのである。さて、人間は、無意識のままに、毎日、同じことを繰り返しながら生活している。誰に脅迫されているわけでもなく、誰に見張られているわけでもないのに、まるで神にでも導かれたように、人間は、無意識のうちに、同じ生活を送っているのである。もちろん、人間が同じ生活を送ろうとするのは、人間の「意志」による。しかし、この「意志」は、人間の表層心理での熟慮による決断の意志ではない。深層心理の「意志」である。深層心理の「意志」であるから、人間は、自らの心に、このような「意志」があることを意識していない。このような自ら意識していない「意志」こそ、深層心理の「意志」である。つまり、人間は、自らの深層心理に導かれて、毎日、同じことを繰り返しながら生活しているのである。なぜ、深層心理は、そのように、人間を導くのか。それは、人間は、同じことを繰り返せば、自我を安定させ、自我に力を蓄えることができるからである。しかし、一般に、人間は、自らが生み出した生きる法則によって、「永劫回帰」の日常生活を送っていない。他者に与えられた生きる法則によって、「永劫回帰」の日常生活を送っているのである。ラカンが「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言うように、人間は、無意識のうちに、自ら、他者の支配下に入っているのである。だから、人間が、自ら、生きる法則を見出すためには、日常生活に挫折し、苦悩しなければならないのである。人間は、日常生活に挫折すると、苦悩し、表層心理で、苦悩からら解放されるための方法を考えなければならないことになる。苦悩の中で、苦悩から解放される思考は長時間に及ぶこともある。この時、人間は、自らの思考の力を最大限に発揮しなければならないのである。これが、理性である。そこで、ニーチェは、「人間は、安楽の時、自分自身から離れ、苦悩の時、自分自身に近づく。」と言うのである。安楽も苦痛も深層心理がもたらした感情である。しかし、人間は、安楽の時には、表層心理で、考えることをしない。反省する必要が無いからである。人間は、苦痛の時、表層心理で、苦悩の状態に陥って深く考えるのである。だから、人間の自ら生きる法則は、全て、苦悩の中から生まれているのである。それが普遍化し、偉大な思想となったものも、全て、苦悩の中から生まれているのである。デカルト、カント、ヘーゲル、キルケゴール、ニーチェ、ハイデッガーの思想など、全てそうである。理性が、自ら生きる法則や偉大な思想を生み出したのである。そして、自ら生きる法則や偉大な思想が、深層心理に住みついて、「力への意志」となって力を発揮し、それに基づいて、「永劫回帰」の日常生活を送るのである。しかし、ほとんどの人は、苦悩が去ると、他者の支配下に入り、以前のような「永劫回帰」の日常生活を送るようになるのである。確かに、理性による思考によって、自ら生きる法則を見出し、苦しみから脱却する方法が考え出すことができ、それが深層心理に住みつく人が、稀れながら、存在する。しかし、ほとんどの人は、苦しみから脱却する方法を考え出すことができなくても、時間とともに、苦しいという感情が薄れゆき、苦しみから脱却して、他者の支配下に入り、以前のような「永劫回帰」の日常生活を送るようになる。もしくは、苦しいと感情という感情が強すぎるので、また、苦しみから脱却する方法が考え出す自信がないので、他者との会話や遊びや趣味やアルコールや医薬品などに頼って、苦しみから逃れ、他者の支配下に入り、以前のような「永劫回帰」の日常生活を送るようになるのである。つまり、表層心理でしっかり受け止め、理性によって、自らの生きる法則を見出す人と、表層心理で受け止めきれず、時間や気分転換に頼り、以前に戻る人が存在するのである。さて、先に述べたように、人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って活動している。自我とは、構造体の中で、与えられ、それを自らのあり方として行動するポジションである。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体と自我の関係は、次のようになる。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我などがあり、家族という構造体には父親・母親・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員という自我などがあり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。先に述べたように、深層心理とは、人間の無意識の思考である。つまり、人間は、深層心理が、無意識のうちに、自我を主体に立てて思考するのである。深層心理の働きについて、ラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言っているのである。思考の母体は、無意識という深層心理であるから、実体を明示することはできないのである。しかし、深層心理が、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すから、行動できるのである。快感原則とは、フロイトの用語で、快楽を求める欲望である。ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求める欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求めることを、目的・目標としているのである。深層心理の思考の後、人間は、表層心理で意識せずに、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動する場合と、表層心理で意識して、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて思考する場合がある。前者の場合が、無意識の行動である。日常生活は、毎日同じこと繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動であり、人間は、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。この時、人間は、他者の支配下に入り、「永劫回帰」の日常生活を送っている。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識し、現実原則に基づいて、自我を主体に立てて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて思考するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。人間の表層心理での思考による行動が意志なのである。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちなので、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかについて、意識して思考する必要があるのである。深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考するので、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちなので、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望である。人間は、侮辱などの悪評価・低評価を受けると、深層心理が、傷心・怒りという感情と殴れなどの行動の指令を出すので、行動の指令について、意識して思考する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。犯罪は、怒りや憎悪の感情が強いので、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できなかったから起こるのである。このように、人間は、深層心理も表層心理での思考も、自我を主体に立てて行っているのであり、表層心理で意識して思考するのは、常に、深層心理が生み出した自我の欲望についてであり、表層心理独自で、思考できず、しかも、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうから、決して、主体的な存在ではないのである。しかも、深層心理の快感原則による行動であれ、表層心理での現実原則による行動であれ、人間は、深層心理の理性で、自らの日常生活を反省し、自ら生きる法則を見出し、それが、深層心理に住みつかない限り、人間は、自ら、無意識のうちに、他者の支配下に入り、「永劫回帰」の日常生活を送るしかないのである。さて、人間は、まず、深層心理(人間の無意識の心の働き)が、自我を主体に立てて、快楽を得ようという快感原則に基づき、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。深層心理は、自我の対他化、対象の対自化、自我と他者の共感化という三つの機能を使って、快感原則を満たそうとする。これらの機能は同時に働くことはなく、その場に応じて、いずれかの一つが機能している。第一の機能としての自我の対他化であるが、それは、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化とは、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を考えることである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。人間が苦悩に陥る原因の一つが、深層心理の自我の対他化の機能による。すなわち、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から好評価・高評価を得たいと思っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なると苦悩するのである。この時、人間は、表層心理でしっかり自らの苦悩を受け止め、理性によって、学校や会社での生活を反省し、自らの生きる法則を見出し、それが深層心理に住みつき、後に、それに基づいて「力への意志」によって生きる人と、表層心理で自らの苦悩を受け止めきれず、時間や気分転換に頼り、他者の支配下に入り、以前の日常生活に戻る人が存在するのである。ほとんどの人は後者である。第二の機能としての対象の対自化であるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・事柄という対象を支配することによって、上位に立ち、快楽を得ようとすることである。対象の対自化とは、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、物という対象を、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、事柄という対象を、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で捉えている。人間は、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造する。)という言葉に表れている。自分の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)であるが、志向性(観点・視点)と趣向性(好み)は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性(観点・視点)は冷静に捉え、趣向性(好み)は感情的に捉えていることである。言わば、自我の対他化は自我が他者の視点によって見られることならば、対象の対自化は自分の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者・物・事柄を見ることなのである。深層心理は、自我で他者を支配するために、他者がどのような思いで何をしようとしているのかその欲望を探ろうとする。しかし、他者の欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自らの欲望と対比しながら行うのである。その人の欲望が、自分の欲望と同じ方向にあるか、逆にあるかを探るのである。つまり、他者が味方になりそうか敵になりそうか探るのである。そして、その人の欲望が自分の欲望と同じ方向にあり、味方になりそうならば、自らがイニシアチブを取ろうと考える。また、その人の欲望が自分の欲望と異なっていたり逆の方向にあったりした場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。これが、「人は自己の欲望を他者に投影する」ということの他者に対する積極的な意味である。これを徹底したものが、ニーチェの言う「力への意志」である。しかし、人間、誰しも、常に、対象の対自化を行っているから、「力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、誰かの反対にあうと、その人の視線を気にし、妥協するからである。だから、一生戦うことを有言実行したサルトルは、「対自化とは、見るということであり、勝者の態度だ。」と言っているが、その態度を貫く「力への意志」の保持者はまれなのである。誰しも、サルトルの「見られることより見ることの方が大切なのだ。」という言葉は理解するが、それを貫くことは難しいのである。大衆は、他者という対象を、無意識のうちに、自分の趣向性(好み)で捉えることが多い。だから、大衆の行動は、常に、感情的なのである。また、神が存在するのも、人間にとって、神が存在しなければ不安だからである。人間は、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象が実際には存在しなくても、無意識のうちに、存在しているように創造することがあるのである。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、坂本龍馬、板垣退助、江藤新平などの勤王の志士という歴史上の人物は、テレビドラマで、「国民のため、新しい日本を作るために、立ち上がるのだ。」と叫んでいる。しかし、彼らは、国民のために新しい日本を作ろうとして立ち上がったのではない。彼らのほとんどは、外様大名の下級の武士であったり、郷士であったりするので、江戸幕府が続く限り、立身出世が望めないばかりか、一生、貧窮の生活を送らなければいけない。そんな彼らが、ペリー来航以来、弱体を露わにした徳川幕府に対して、打倒に向かうのは当然のことである。彼らは、朝廷(天皇家)のためではなく、外様大名の下級武士・郷士という自我を捨て去り、新しい自我を求めて、命を賭けて、徳川幕府と戦ったのである。大衆は、彼らを、国民のために新しい日本を作ろうとして立ち上がった勤王の武士と思いたいから、テレビドラマで、「国民のため、新しい日本を作るために、立ち上がるのだ。」と叫ばせたのである。かつて、視聴率の高いテレビドラマに、「水戸黄門」という時代劇があった。水戸黄門が、身をやつし、身分を隠して、助さんと格さんを引き連れて、諸国を漫遊し、悪大名、悪代官、悪商人を成敗する物語である。悪人たちと立ち回りになり、悪人たちが、打ちのめされた頃合いに、助さんか格さんが、葵の紋の印籠を掲げて、「さきの副将軍、水戸光圀公であらせられるぞ。」と言うと、悪人一味は、土下座し、平伏して、降伏を宣する。大衆は、庶民を救う権力者が欲しいから、「水戸黄門」というテレビドラマの時代劇を作ったのである。しかし、水戸黄門は、水戸からほとんど出ず、女癖が悪く、城内で、大した理由もなく、家臣を斬殺しているのである。現代政治においても、大衆は、庶民を救う権力者を求めている。だから、安倍晋三や森田健作に支持が集まったのである。しかし、安倍晋三首相は、強行採決を繰り返して日本を私物化し、森友学園・加計学園・桜を見る会で自分の信奉者・友人に、不正な優遇をし、「桜を見る会」を私物化し、公私混同した。森田健作千葉県知事が千葉県の台風被災に際して、仕事を放り出し、被災地よりも自分の家の被災状況を見て回った。現在、視聴率の高い、テレビ朝日のテレビドラマに、「相棒」という刑事ドラマがある。東大法学部を卒業した、キャリアの杉下右京警部が、警視庁特命係という、仕事らしき仕事のない部署で、相棒の部下を一人従えて、強引に難事件に首を突っ込み、解決していくというドラマである。東大法学部卒などのキャリアと呼ばれる官僚たちは、安倍晋三のために、公文書を改竄し、嘘の答弁をし、都合良く健忘症になる。戦前の旧東大法学部卒の特高の幹部だった安倍源基は、部下を指揮して、小林多喜二を初めとして、数十人の共産主義者や自由主義者を拷問で殺している。大衆は、高学歴の人間に、ありもしない夢を抱いているのである。権力者や高学歴の人間が、いつか、自分たちを救ってくれるのではないかと期待を抱いているのである。そして、自分たちは、何もせず、そのような人が現れるのを待っているのである。それが、両ドラマを高視聴率に導いているのである。しかし、大衆が、どれだけ待とうと、権力者や高学歴の人間は、大衆の意を酌んでくれない。彼らは、その権力や高学歴を生かして、自分たちの利益を最大限に求め続ける。それは、集団的自衛権の国会成立、原子力発電所の再稼働に、如実に現れているではないか。世論調査で、圧倒的に、集団的自衛権の成立に反対・原子力発電所の再稼働に反対の結果が出ても、自民党を中心とした勢力は、強引にそれを推し進めたのである。しかし、それでも、大衆は、権力者や高学歴者が、自らを救うの待ち続けるであろう。人間は、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象が実際には存在しなくても、無意識のうちに、存在しているように創造するからである。大衆は、特に、そうなのである。ニーチェの「大衆は馬鹿だ」の声が聞こえてくる。また、父親(義理の父親が多いが)が幼児を虐待死させるのは、幼児かを対自化して支配しようとするのだが、幼児を支配できない傷心から起こるのである。幼児を支配できない父親は、深層心理が、傷心・怒りという感情と幼児に対する暴力という行動の指令を生み出し、表層心理で、傷心という感情の中で、幼児に対する暴力という指令に対して思考し、たとえ抑圧しようとしても、傷心・怒りの感情が強かったから、虐待に向かったのである。さて、「力への意志」という自らの法則の下で生きよう生き方とこの対象の対自化は、自分の志向性(観点・視点)で対象を捉えるという面で共通点がある。しかし、「力への意志」の対象は自我や自らの日常生活であり、対自化の対象は他者・物・事柄であるということで異なっている。また、対自化は自我が他者・物・事柄という対象を支配することで、上位に立ち、快楽を得ようとすることであるが、「力への意志」は自ら発見した法則の下で自我が生かすことによって充実感を得ることであり、そこに、上下関係、支配被支配の関係性は存在しない。第三の機能としての自我と他者の共感化であるが、それは、深層心理が、自我が他者と理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。自我と他者の共感化は、自我を他者に一方的に身を投げ出すという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を一方的に支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うということで、現象に、端的に、現れている。「呉越同舟」(仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。)という四字熟語があるが、これもまた、自我と他者の共感化である。仲が悪いのは、二人は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなるから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じているからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。深層心理は、その屈辱感を払うために、ストーカーになることを指示し、表層心理で、審理しても、屈辱感が強いので、ストーカーになってしまったのである。このように、人間は、深層心理が、自我を主体にして、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。深層心理が、傷心・怒りという強い感情を生み出さなければ、人間は、表層心理で、深層心理の行動の指令について、冷静に思考でき、過激な行動の指令ならば、抑圧することができる。だから、人間は、表層心理で、深層心理が強い傷心・怒りの感情を生み出さないように、身を処すことが大切である。そのためには、自らの深層心理の傾向を知ることが大切なのである。しかし、「力への意志」による自ら発見した法則での生き方をしている人は、決して、いじめに加担すること無く、ストーカーになることは無い。なぜならば、他者の支配下にいないからである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。しかし、「力への意志」による自ら発見した法則での生き方をしている人は、決して、構造体や自我に拘泥しない。なぜならば、他者の支配下にいないからである。








永劫回帰と法則(自我その321)

2020-02-18 18:00:29 | 思想
人間の日常生活は同じことの繰り返しである。人間は、無意識のままに、毎日、同じことを繰り返しながら生活しているのである。誰に脅迫されているわけでもなく、誰に見張られているわけでもないのに、まるで神にでも導かれたように、人間は、無意識のうちに、同じ生活を送っているのである。もちろん、人間が同じ生活を送ろうとするのは、人間の意志による。しかし、この意志は、熟慮による決断でもなく、意識しての決断でもない。人間は、このような意志があることをすら意識していない。このような意識していない意志を深層心理と言う。つまり、人間は、自らの深層心理に導かれて、毎日、同じことを繰り返しながら生活しているのである。しかし、時には、いつも行っている学校や職場に行くことが嫌になったので、行くか行かないでおこうかと考える。そうすると精神的に疲れる。もちろん、この時の思考は意識の下で行われる。意識の下での思考を表層心理と言う。人間は、表層心理で意識して考えると、常に疲れる。なぜならば、自ら意識して、意志を動員して行うからである。それに対して、深層心理の働きによる思考は疲れない。なぜならば、自分の気付かない心の奥底で行われ、意識して意志の力を使う必要が無いからである。人間は、表層心理で、意識して思考することを厭い、深層心理が、同じことの繰り返しを望むから、人間の日常生活は同じことの繰り返しになるのである。人間の日常生活が同じことの繰り返しになれば、深層心理は満足し、心が安定するのである。言わば、人間は、深層心理の意のままに、同じことを繰り返して生きているのである。しかし、時には、いつも行っている学校や職場に行くことが嫌になったので、行くか行かないでおこうかと考える時がある。嫌になったのは深層心理である。感情は、常に、深層心理の生み出すのである。もちろん、深層心理が生み出した嫌になったという感情のままに動けば、当然、行かないでおこうということになる。しかし、本質的に、深層心理には、同じことを繰り返す安定志向の傾向があり、それは、行くことを望む。その結果、深層心理は、行くという深層心理の安定志向と行かないでおこうという深層心理の感情が対立することになる。そこで、どちらかに決めるためには、人間は、意識的に考えることが必要になってくる。そこで、表層心理の登場ということになる。人間は、表層心理で、意識して、深層心理が納得する方法を考えるのである。しかし、たいていの場合、人間は、表層心理で、意識して、深層心理が納得する方法を考え出すまでに、嫌だという感情が薄れ、学校や職場に行くことになるのである。それほどまでに、人間は、同じことを繰り返すことによって、心の安定を図っているのである。いわば、同じことを繰り返す生活が、生きる法則になっているのである。さて、人間は、日常生活において、何を繰り返して生きているか。それは、自我と構造体である。自我とは、構造体で自分のポジションが与えられ、その役目・役割に沿って行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。日本という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体」は校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員という自我などがあり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。人間は、常に、ある構造体の中で、ある自我を持して、暮らしていて、それを、毎日、繰り返して生きているのである。ニーチェに、「永劫回帰」という思想がある。世界の出来事は円環運動を行って永遠に繰り返すというものである。まさしく、人間の日常生活も、毎日、自我と構造体を繰り返す「永劫回帰」の生活なのである。しかし、人間が、「永劫回帰」の生活を送っているのは、深層心理がそれを望んでいるからである。深層心理は、人間が「永劫回帰」の生活を送れば人間を支配できるから、「永劫回帰」の生活を送らせているのである。その法則が、自我と構造体の存在である。人間の深層心理は、自我と構造体の法則によって、人間の日常生活を支配しているのである。これと同様に、深層心理が、世界の出来事は円環運動を行って永遠に繰り返すことを望んでいるから、世界の出来事は円環運動を行って永遠に繰り返すように見えてくるのである。深層心理は、世界の出来事は円環運動を行って永遠に繰り返すように見ることによって、世界を支配しようとしているのである。世界の出来事は円環運動を行って永遠に繰り返すように見える様態が法則である。深層心理は、法則によって、世界を支配しようとしているのである。だから、人間は、法則が無ければ、世界を見ることができないのである。天動説という法則があるから地球の周囲を太陽が回り、地動説という法則があるから太陽の周囲を地球が回るのである。プラトンがイデアという法則を生み出したから、理性によってのみ実在が存在するのである。ヘーゲルは、弁証法という法則を見出したから、全世界を理念の自己発展として認識できたのである。ハイデッガーは、世界内存在という法則を見出したから、さまざまな存在者と関わり合いながら世界の中に住みついている人間を発見したのである。畢竟、人間の実存とは、自ら法則を生み出し、その法則の下で生きることなのである。