あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間とは、寂しくて、悲しい生き物である(自我その59)

2019-03-15 20:16:11 | 思想
人間は、わがままに生まれてきながら、わがままを通しては、肉体的にも精神的にも生きていけず、性欲を満たすことができないから、人に合わせるしかないのである。肉体的にわがままを通すことができないのは、一人では、食糧確保ができないからである。さて、採集狩猟時代、どれだけ屈強な若者でも、病気になることもあり、必ず老いるから、食糧を独り占めできないのである。定住が始まってから現代に至るまで、人間は、皆、組織の中の細胞の一つでしかなくなったから、当然のごとく、食糧を独り占めできないのである。また、精神的にわがままを通すことができないのは、人間は、一人では、つまり、人に存在を認められないでは、寂しくて、悲しくて、生きていけないからである。人間は、自分一人では退屈だから、人に合わせて会話するのである。人間は、自分一人では寂しいから、人に合わせて仲間になるのである。人間は、自分一人ではおもしろくないから、人に合わせて冗談を言うのである。人間は、自分一人ではいじめられるかも知れないから、人に合わせていじめるのである。人間は、友人を離したくないから、その人に合わせるのである。つまり、人間は、一人でいると不安だから、人に合わせて生きているのである。だから、友人という二人を、個々に観察してみれば良くわかることであるが、彼らは、互いに、相手の性格や考え方を、ほとんど理解も同意もしていない。心の繋がりがほとんどない。また、仲間だという集団も、個々に観察してみれば良くわかることであるが、彼らも、仲間内の人の性格や考え方を、ほとんど理解も同意もしていない。心の繋がりがほとんどない。つるんでいることで安心だから、友人や仲間になっているのである。だから、何か、臨時のことや大きなことが起こると、簡単に、関係性が壊れてしまうのである。また、わがままを通しては、性欲を満たすことができないから、好きな人がいればその人の好みに合わせ、好きな人がいなければ一般に異性が好むというものに合わせるのである。だから、恋人や夫婦という二人を、個々に観察してみれば良くわかることであるが、彼らは、互いに、相手の性格や考え方を、ほとんど理解も同意もしていない。心の繋がりがほとんどない。しかし、二人には性の繋がりがある。だから、性の繋がりがある限り、心の繋がりがなくても、関係性は保てる。また、性の繋がりがあることで心の繋がりがあるように思い込むこともできる。しかし、その性に飽きたり、他の人との性に憧れたり、実際に他の人との性を味わったりすると、今までの性が疎ましく感じられるようになる。それでも、一人になるのは不安なので、相手に合わせて暮らしているが、別の人の性の確保が確実になると、恋人とは別れたり離婚したりする。もともと、心の繋がりではなく、性の繋がりで結び付いた二人なのだから、新しい性がいっそう魅力的に思え、確実に獲得できる事態になれば、恋人と別れたり離婚したりするのは当然なのである。しかし、新しく獲得した性も、いつか、壊れる可能性は十分にある。もともと、男女は、性格や考え方が異なって生まれ、互いに相手をほとんど理解も同意もできず、心の繋がりがほとんど持てないのだから、この運命から逃れることはできないのである。また、女性が化粧やダイエットをするのも、第一には、男性に好かれ、自分の好きな男性に抱かれたいためである。男性は、一般に、スリムで、美しい女性、可愛い女性を好むと思い、それに合わせているのである。男性が身だしなみを整い、体を鍛え、金儲けをするのも、女性に好かれ、自分の好きな女性を抱きたいためである。女性は、一般に、イケメン、マッチョ、金持ちを好むと思い、それに合わせているのである。さて、人間は、自分がわがままに行動したいのに、それを抑えて、人に合わせて生きているから、自由に生きているように思われる人を見ると、その人の行動の善悪を判断せず、嫉妬心から、その人を指弾する。女子校で、校則から外れた服装を一年生を上級生がいじめるのは、自分もしたいのに、勇気が無いからできないという嫉妬心からである。戦争に反対する知識人を大衆が密告したのは、自分も戦争に行きたくないが、勇気が無いからできないという嫉妬心からである。そして、逆に、自分を抑えて、人に合わせているように見える人の行動に好感を覚えるのである。高校野球の甲子園大会が人気があるのは、高校生が、自分を抑えて、監督や大人に合わせて、黙々と、プレーしているからである。軍隊のパレードが人気があるのは、軍人が、自分を抑えて、上官の指導に合わせて、ロボットのように揃って、行進しているからである。マスゲームが人気があるのも、集団が、皆、自分を抑えて、他の人に合わせて、体操やダンスをしているからである。だから、社会では、協調性、社交性、集団性が推奨されるのである。しかし、人間の人に合わせることが破綻し、わがままがむき出しの欲望になって現れる場所がある。それが戦場である。戦場では、人間は、人に合わせる必要が無い。むしろ、戦場では、上官や同位の軍人や下位の軍人たちが、自分に合わせてくれるのである。だから、殺し殺されるという戦場では、むき出しのわがままが拷問、虐殺、レイプなどになって現れるのである。第二次世界大戦でのナチスによるユダヤ人に対して、太平洋戦争での日本兵による中国人、朝鮮人に対して、末期の太平洋戦争でのソ連兵による日本人に対して、ベトナム戦争でのアメリカ兵によるベトナム人に対して行った、拷問、虐殺、レイプがその典型的な例である。このように、人間は、わがままに生まれてきながら、わがままを通しては、肉体的にも精神的にも生きていけず、性欲を満たすことができないから、人に合わせていきるしかない、寂しくて、悲しい生き物なのである。そして、人間は、自分がわがままに行動したいのに、それを抑えて、人に合わせて生きているから、自由に生きているように思われる人を見ると、その人の行動の善悪を判断せず、その人を指弾するような嫉妬深い生き物なのである。さらに、自分を抑えて、人に合わせているように見える人の非人間的な行動に好感を覚えるような、歪んだ心情を持っているのである。しかし、人間は、人に合わせる心が破綻し、わがままがむき出しの欲望になって現れると、拷問、虐殺、レイプという最悪の事態を招くことがあるのであり、わがままをいたずらに解放してはいけない、抑制すべき生き物なのである。つまり、人間とは、先天的に、矛盾した生き物なのである。この矛盾をどのように対処していくかが、個々人の思考、決断、行動に課せられているのである。