あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は権力を握ると必ず堕落する。大衆がその堕落を招来している。(自我その471)

2021-02-28 12:36:16 | 思想
人間は、権力を握ると、必ず、堕落する。それは、大衆が新しい権力者に期待するからである。人間には、支配欲があり、大衆が新しい権力者に期待するから、人間は、権力を握ると、自分は何をやっても許されると思い、支配欲を発揮して、自我の欲望のままに行動しようと思うのである。大衆が、それを批判しない限り、権力者は、自我の欲望のままに、わがままな行動をするのである。大衆が、国政選挙で、自民党を大勝ちさせたから、安倍晋三は森友学園・加計学園・桜を見る会などで不正を行い、菅義偉は、息子が官僚接待という不正を行ったのである。思想家の吉本隆明は、「人間の不幸は、わがままに生まれてきながら、わがままに生きられず、他者に合わせなければ生きていけないところにある。」と言っている。わがままに生きるとは、自我の欲望のままに、行動することである。自分の力を発揮し、他者を支配することである。他者に合わせて生きるとは、他者の評価を気にして行動することである。つまり、自分の思い通りに行動したいが、他者の批判が気になるから、行動が妥協の産物になると言っているのである。だから、思い切り楽しめず、喜べないというわけである。しかし、確かに、それは、権力者個人としては不幸かも知れないが、大衆や人類全体にとっては良いことなのである。なぜならば、権力者の自我の欲望を放置すれば、殺人をもいともたやすく行ってしまうからである。権力者の自我の欲望である支配欲は、果てしなく広がるからである。ニーチェの「権力への意志」という思想がある。それは、他者の視線を自らのものとして、他者に自らの存在を見せつけようという意志である。他者からの好評価・高評価を糧にしていっそう強く生きようとするのである。そこには、現状に留まり、反省しようという意志は存在しない。永遠に現在を乗り越えようとする「永劫回帰」の考えがある。そこには、「英雄は英雄的行動を繰り返して向上を続け、大衆は大衆を繰り返していっそう卑賤になる」と考えが基礎にある。だから、大衆が権力者を崇拝すれば、権力者はいっそう増長し、自省することはない。さて、人間は、常に、何かであり、誰かである。それは、人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、行動しているということである。構造体とは、人間の組織・集合体であり、自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。構造体と自我の関係を具体的に言うと、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属しているから、常に、他者との関わりがある。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、行動するのである。さて、人間は、常に、内に感情を抱き、外に心を開いているが、自ら、意識して、それを行っているのではない。人間は、無意識の思考に動かされ、それを行っているのである。深層心理という無意識の思考が、それを行っているのである。すなわち、深層心理が、外に心を開いて、思考して、感情を生み出し、行動の指令を生み出して、自我である人間を動かしているのである。だから、人間は、時間の経過と共に、外部の出来事に反応し、新しく感情を抱き、行動へと向かうことができるのである。深層心理が、構造体において、自我を主体に立てて、保身化・対他化・共感化・対自化のいずれかの機能を働かせて、自我である人間を行動に向かわせるのである。保身化とは、自我を維持することである。人間は、社会生活において、自我を持さなければ生きていけないから、深層心理は、自我にこだわるのである。また、深層心理は、構造体の存続・発展にも尽力するが、それは、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自分に対する他者の思いを探ることである。簡潔に言えば、愛されたい、認められたいという思いである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。共感化とは、自分の力を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と愛し合い、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うことである。簡潔に言えば、愛情、友情を大切にする思いである。仲も悪い者同士でも、共通の敵が存在すれば、協力するという「呉越同舟」も、共感化の現象である。対自化とは、自分の目標を達成するために、他者に対応し、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いである。「人は自己の欲望を他者に投影させる」(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、自己の視点で他者を評価する。)ということである。先に述べた、ニーチェの言う「権力への意志」とは、このような自我の盲目的な拡充を求める、深層心理の欲望なのである。それは、まさしく、権力者の欲望なのである。さて、人間は、社会的に確かに生きていくために、保身化して、自我を維持しようとする。そして、自我の力が弱いと思えば、対他化して、他者の自らに対する思いを探る。自我が不安な時は、他者と共感化して、自我の存在を確かなものにしようとするのである。しかし、自我の力が強いと思えば、対自化して、他者の思いを探り、他者を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりするのである。作家の武田泰淳は、「人間は、どんなことをしてでも、生きのびようとする。」と言っている。武田泰淳は、太平洋戦争下の中国大陸で、日本の多くの軍人が、中国の民家に押し入り、食糧を強奪し、老婆から幼女まで女性と言えばレイプし、抵抗する庶民を射殺しているのを知っている。彼らは、帝国軍隊という構造体の中で、帝国軍人という自我を持っている。中国大陸において、大日本帝国は軍事的に優位を保っていたから、中国人に対して、対自化するばかりで、対他化することは無かった。つまり、中国人を思い通りに支配し、中国人の視線を気にせず、暴虐の限りを尽くしたのである。上司は、それを見て見ぬふりをするどころか、彼らも同じことをしていたのである。日本の中国での国策映画のヒロインの李香蘭(山口淑子)も、「中国大陸での、日本軍人・民間人の威張り方を見れば、中国人が日本人を嫌いになるのも理解できる。」と言っている。そして、中国大陸で、残虐非道の行為を繰り返した帝国軍人が、敗戦後、帰還して、素知らぬ顔で、家族という構造体の中で、父親、息子という自我を持って、平穏な生活を送るのである。確かに、人間は、どんなことをしてでも、生きのびようとするのである。さて、詩人の石原吉郎は、「人間は、どんな環境にもなじむものだ。」と語っている。彼は、14年間、シベリアに抑留され、飢え、寒さ、過酷な労働、射殺の恐怖の環境に耐えて、帰国した。人間とは、常識を越えて、悪環境という構造体でも、哀れな身の上という自我でも、それに合わせて生きていけるというのである。深層心理による対自化や対他化はそこでも行われ、日常生活がそこにあり、非人間的な暮らしが人間の日常生活として繰り替えされると言っているのである。確かに、人間は、どんな環境にもなじんで生きていくのである。それは、金一族に支配されている北朝鮮、共産党に支配されている中国、戦前の日本を見れば、わかることである。しかし、当該者は、それになじんでいるから、権力の肥大化した欲望、環境の劣悪さに気付かないのである。テレビで、異様な光景をよく目にする。大衆が、安倍晋三前首相や小泉進次郎衆議院議員などの政治家が演説会場に登場すると、場内割れんばかりの拍手で迎えるのである。まるで、売れっ子アイドルや自分たちの強い味方であるような歓迎ぶりである。彼らは、確かに、アイドルのようにマスコミによく登場するが、アイドルのようには夢を売らない。口では「日本の将来を見据えて」などと夢を語るが、彼は政治家という自我を維持し、それを最大限に利用し、自らの存在をアピールするために、徹底的に現実的に行動する。彼らは、庶民の味方ではない。財界、ゼネコン、銀行、官僚の味方である。財界やゼネコンや銀行は陰に陽に資金援助をしてくれ、官僚は陰で不正なことまでして自分たちを支えてくれるからである。彼らがそうするのは、自民党が、財界やゼネコンや銀行に利益が行くように政治を行い、官僚の天下りを許し、官僚と同じ考えの下でアメリカに迎合した政治を行っているからである。しかし、大衆は政治家の本性を見抜いていない。むしろ、期待している。ニーチェの「大衆は馬鹿である」という言葉が聞こえてくる。大衆が、国政選挙で、自民党を大勝ちさせたから、自民党の政治家だけが、政治家という自我を維持し、それを最大限に利用し、自らの存在をアピールするために、徹底的に現実的に行動しようとするのである。大衆が、国政選挙で、大勝ちさせれば、政治家という政治家、権力者という権力者は、皆、このように行動するのである。しかし、政治家などの権力者だけに、「権力への意志」が存在するのではない。人間、誰しも、心の中に、「権力への意志」が存在する。しかし、誰しも、周囲の人や他の人に評価されたいと思いつつ、自分がどのように見られているか気遣うという対他化のあり方が心の中にあるから、人間はわがままなことをしないのである。対自化のあり方から来る、他の人に自分の力を誇示したいという欲望を抑圧できるのである。しかし、誰しも、権力を持つと、「権力への意志」を、思う存分、発揮する権利を得たと思い込んでしまうのである。本来、人間はわがままな動物である。人間は、自我に応じて、深層心理がいろいろな欲望を生み出してくる。人間は政治家になると、つまり、政治家という権力者としての自我を持つと、深層心理が、庶民の時と異なった、欲望を生み出してくる。庶民の時にも、深層心理がいろいろな欲望を生み出してくるが、対他化がそれを抑圧している。「権力への意志」が心の中にあるが、それを発揮すると、周囲の顰蹙を買い、人間関係が閉ざされるから、心の奥底にとどめておく。しかし、誰しも、政治家などの権力者になると、「権力への意志」という欲望が頭をもたげ始め、対他化の気遣いがなりを潜めるのである。また、政治家になると、周囲には、阿諛追従する人が列をなすから、ますます、「権力への意志)」という欲望が肥え太るのである。安倍晋三前首相は「権力への意志」の権化である。安倍政権になって、暮らしが良くなったか。庶民は以前より貧しくなっている。安倍政権になって、日本の外交がうまく行っているか。中国、韓国、北朝鮮とは関係がより悪化し、アメリカへの属国化を進めているだけである。民主党政権より良くなったという思いは、官僚、産経新聞、読売新聞、田崎史郎などのお友達評論家や八代英輝などのお友達コメンテーターによって作られた幻想である。民主党政権は、官僚、産経新聞、読売新聞、週刊誌によって葬り去られた。特に、官僚の裏切りはひどかった。官僚たちは民主党議員の秘密を週刊誌にリークし、外務省官僚を中心に鳩山由紀夫政権の普天間基地移転を妨害し、東京地検特捜部は冤罪で小沢一郎を逮捕し、小沢一郎の政治力を微弱なものにした。民主党の首相たちは、首相という自我を守るために、官僚たちの軍門に下った。彼らは、最初は、国民寄りの政治を行おうとしたが、官僚の妨害に遭うと、首相という自我を守るために官僚の言うままに政治を行った。彼らに覚悟がなかった。それでも、大衆は、権力者に夢を託す。テレビドラマで、「水戸黄門」、「西郷どん」などが高視聴率を記録する。しかし、徳川光圀は、諸国を漫遊したことが無いばかりか、場内で家臣を斬殺し、身持ちが悪かったから、庶民でも、若い女性は警戒した。西郷隆盛は、鳥羽伏見の戦いで勝利し、幕府軍追討のために赤報隊を利用したが、用が無くなると、隊長の相楽総三などを処刑した。しかし、水戸光圀、西郷隆盛、そして、安倍晋三が異常なのではない。権力者とは、こういう者なのである。権力者とは、常に、「権力への意志」の権化になるのである。だから、大衆が、権力者を批判し続けなければ、「権力への意志」の欲望はとどまることはないのである。


人間は壊れ物として存在している。(自我その470)

2021-02-26 12:43:05 | 思想
人間は壊れ物として存在している。それは、人間は心が壊れやすいというだけでなく、心が壊れた状態が人間をして人間として出発させるという意味である。人間は心が壊れやすいということは、人間は傷付きやすいことを意味している。なぜ、人間は傷付きやすいのか。それは、他者の評価を気にして暮らしているからである。しかし、人間は、意識して、他者の評価を気にしているのではない。人間は、無意識のうちに、他者の評価を気にしているのである。だから、意識しようと意識しまいと、人間は他者の評価を気になるのである。だから、気にするなと言われても、気になるのである。人間は、無意識のうちに、他者の評価を気にしているから、気にしないでおこうとしても、気になるのである。人間の無意識の思考を深層心理と言う。すなわち、深層心理が他者の評価を気にしているから、人間は、他者の評価が低いと、心が傷付くのである。それでは、人間は、どんなことに対して、他者の評価が低いと、心が傷付くのか。それは自我である。人間は、自我に対する他者の評価が低いと、心が傷付くのである。それでは、自我とは何か。自我とは、構造体の中で、役割を担ったポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、国、県、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなど、大小さまざまなものがある。自我も、その構造体に所属して、さまざまなものがある。国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我がある。県という構造体では、知事・県会議員・県民などの自我がある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我がある。店という構造体では、店長・店員・客などの自我がある。電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我がある。仲間という構造体では、友人という自我がある。カップルという構造体では恋人という自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動している。それと同時に、深層心理が、自我を主体に立てて、他者の評価を気にして生きているのである。自我を主体に立てるから、他者の評価が気になるのである。深層心理が、他者の評価を気にするから、人間は、他者の評価が気になるのである。つまり、人間は、常に、深層心理から始まり、深層心理は自我を主体に立てて、自我に対する他者からの評価を意識することから始まるのである。深層心理が傷付けば人間は心が傷付き、深層心理が気にすれば人間は気になり、深層心理が満足すれば人間は喜び、深層心理が怒れば人間は怒り、深層心理が哀しめば人間は哀しむのである。深層心理が思考して生み出した感情が人間の感情になるのである。しかし、人間は、自らを意識して、自らの意志で、深層心理を動かすことができないのである。すなわち、人間は、表層心理での思考で、深層心理を動かすことができないのである。表層心理での思考とは、人間が自らを意識すること、人間が自らの状態を意識すること、人間が自らを意識して思考することである。人間が表層心理での思考で生み出したものが、所謂、意志である。人間は表層心理での思考で深層心理を動かすことができないが、深層心理が思考して生み出したものを表層心理で意識することがあるのである。さて、人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて行動しているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかを叶うことができれば、快楽が得られるので、欲動の四つの欲望に従って思考するのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。簡潔に言えば、自我という社会的な地位や社会的な位置を守りたいという欲望である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。簡潔に言えば、好かれたい・評価されたいという欲望である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望であるが、簡潔に言えば、自我の思い通りにしたいという欲望である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。簡潔に言えば、理解し合いたい・愛し合いたい・仲良くしたいという欲望である。深層心理は、快楽を求めて、欲動の四つの欲望のいずれかが叶うように、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。深層心理が快楽が得られなければ、傷付くのである。すなわち、人間は心が傷付くのである。そして、傷付いた心を癒やそうとしたり傷付いた心から解放されようとして、心の傷とともに心を傷付けた人や物やことに対して気にするのである。心の傷は、深層心理が思考して生み出したものであり、人間が表層心理で自らを意識して思考して生み出したものではないから、表層心理の意志ですぐに治すことができないのである。そこで、人間は、傷付いた心を癒やすための方法を、若しくは、傷付いた心から解放される方法を見出すために、表層心理で自らを意識して思考するのである。冒頭に述べた、心が壊れた状態が人間をして人間として出発させるとは、人間は傷付いて、初めて、表層心理で自らを意識して思考するということを意味しているのである。さて、深層心理が思考して生み出した自我の欲望は感情と行動の指令が合体したものになっていて、感情が動力となって行動の指令のままに行動するように自我である人間に促しているのである。人間の最も強い感情は怒りである、例えば、人間は他者から罵倒されると、深層心理が怒りという感情と相手を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出すことがある。その時、自我である人間は、怒りの感情に動かされ、表層心理で相手を殴れという行動の指令を抑圧できずに、相手を殴ってしまうことがあるのである。さて、人間は深層心理が常に他者の評価を気にして生きているのであるが、それは、他者の評価が高ければ、欲動の四つの欲望の全てが叶い、深層心理が満足し快楽を得られるからである。深層心理が満足し快楽を得るということは人間が満足し快楽を得ているということを意味しているから、人間は、常に、他者の評価を気にして生きているのである。言うまでも無く、他者の評価が高ければ、自我を確保・存続させたい、すなわち、自我という社会的な地位や社会的な位置を守りたいという欲動の第一の欲望が叶うから、深層心理が満足し快楽を得るのである。すなわち、人間が満足し快楽を得るのである。他者の評価が高ければ、それにとどまらず、会社という構造体などにおいては、立身出世という自我の発展に繋がるのである。だから、他者の自我に対する評価が高いということは、欲動の第一の欲望を叶えるための絶対条件なのである。また、他者の評価が高ければ、自我が他者に認められたいという、すなわち、自我が他者に好かれたい・評価されたいという欲動の第二の欲望が叶うから、深層心理が満足し快楽を得るのである。すなわち、人間が満足し快楽を得るのである。小学生が勉強するのは、教師や親から褒められるからである。受験生が有名大学を目指すのは、教師や同級生や親から褒められ、世間から賞賛を浴びたいからである。若い女性がアイドルを目指すのは、大衆から賞賛を浴びたいからである。宇宙飛行士を目指すのは、宇宙から帰還して、国民から賞賛を浴びたいからである。だから、他者の自我に対する評価が高いということは、欲動の第二の欲望を叶えるための絶対条件なのである。また、他者の評価が高ければ、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したい、すなわち、自我の思い通りにしたいという欲動の第三の欲望が叶うから、深層心理が満足し快楽を得るのである。すなわち、人間が満足し快楽を得るのである。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。だから、他者の自我に対する評価が高いということは、欲動の第三の欲望を叶えるための絶対条件なのである。また、他者の評価が高ければ、他者と心の交流を図りたい、すなわち、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・仲良くしたいという欲動の第四の欲望が叶うから、深層心理が満足し快楽を得るのである。すなわち、人間が満足し快楽を得るのである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きが悪いことだとわかっていても行うのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるからである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。だから、他者の自我に対する評価が高いということは、欲動の第四の欲望を叶えるための絶対条件なのである。しかし、逆に、他者の自我に対する評価が低ければ、深層心理は、容易に、傷付くのである。人間は、心が傷付きやすく、壊れやすいのである。例えば、次のようなことである。長年勤めた会社をいきなり馘首される。家庭で、子が親に成績のことで叱られる。学校で、同級生たちから嫌われ無視される。学校の職員会議で、教諭たちの意見を聞かず、校長が独断で何事も決める。会社で、社員が業績が上げられず上司に叱られる。恋人から別れを切り出される。妻から離婚してほしいと言われる。自分はどのような賞も受賞していないのに、大学で同期の物理学がノーベル賞を受ける。同じ分野を研究しているのに、自分はどのようなテレビ番組にも呼ばれないのに、年齢が下の医者が複数のテレビ番組に呼ばれ積極的に意見を述べている。このようなことがあると、人間は心が壊れるのである。すなわち、人間は傷付くのである。そして、深層心理は起こったことを気にし、人間は、起こったことが気になるのである。しかし、人間は、表層心理で、気になることで、初めて、表層心理で、自らを意識して、起こったことに対して思考することになるのである。苦痛が、人間を、表層心理で、自らを意識して、思考させるのである。逆に言えば、苦痛が無ければ、人間は自ら思考しないのである。これが、心が壊れた状態が人間をして人間として出発させるという意味である。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていない証である。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。しかし、日常生活において、異常なことが起こることもある。それは、上記の例のように、自我が他者に高く評価してほしいという欲望が破られた時である。そのような時、ある時は、深層心理が怒りの感情と侮辱した相手を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間に、相手を殴ることを促し、復讐の行動によって傷付いた心を回復させようとする。ある時は、深層心理が傷心の感情と積極的に行動しないようにせよという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間に、積極的に行動しないようにすることを促し、これ以上心が傷付かないようにするのである。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、それが働き、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、深層心理に内在する欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という作用の機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する審議は、表層心理に移されるのである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求めて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果、すなわち、理性による思考の結果が意志である。現実的な利得を求めての思考とは、自我が不利益を被らないように、行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などから思考するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を殴ったならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。しかし、誰かが自我が傷つけても、深層心理は、時には、傷心の感情から解放されるための怒りの感情と相手を攻撃するという自我の欲望を生み出さず、うちに閉じこもってしまうことがある。それは、攻撃するのは、相手が強大だからであり、攻撃すれば、いっそう。自我の状況が不利になるからである。そうして、傷心のままに、自我の内にこもって、現在の状況から身を離し、自らを哀れみ、傷心が癒えるのを待つのである。それが、深層心理が思考して生み出した哀しいという感情と無行動という行動の指令という自我の欲望に従った状態である。このように、人間は壊れ物として存在している。壊れ物として存在しているとは、心が壊れやすいということである。心が壊れやすいということは、心が傷付きやすいことを意味している。人間は、深層心理が他者の評価を気にして、暮らしいるから、心が傷付きやすいのである。しかし、人間は、心が傷付かなければ、表層心理で、自らを意識して、思考しないのである。だから、心が壊れた状態が人間をして人間として出発させるのである。確かに、心が傷付かなければ、表層心理で自らを意識して思考しない人間は、哀しい存在である。しかし、人間は、この哀しみを踏みしめて生きていくしかないのである。

なぜ、学校や会社に行くのが嫌なのか。なぜ、嫌でも、学校や会社に行くのか。(自我その469)

2021-02-23 18:15:55 | 思想
朝、起きると、たいていの人は、憂鬱になる。それは、学校や会社に行かなければならないからである。それでは、なぜ、学校や会社に行くのが嫌なのか。学校や会社は楽しくないからである。それでは、なぜ、嫌でも、学校や会社に行くのか。学校や会社に行かないと不安だからである。他の人と異なったことをするのが不安なのである。フランスの心理学者のラカンは、「人は他者の欲望を欲望する」と言う。この言葉は、「人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。」ということを意味している。つまり、人間は、主体的に自らの行動を思考できないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。だから、他の人が学校や会社に行くから自分も行き、周囲の人が学校や会社に行くことを望んでいるから自分は行くのである。そして、学校や会社に行くことに必要性を感じているからである。人間の行動の動機は、登校・出勤に限らず、快楽、恐怖・不安、必要性の三点である。人間は、快楽を求めて行動し、恐怖・不安を覚えて行動し、必要性を感じて行動するのである。しかし、快楽を求め、恐怖・不安を覚えるのは深層心理であり、必要性を感じるのは表層心理でのことである。深層心理とは人間の無意識の思考である。一般に、無意識と言われている。表層心理とは人間の自らを意識しての思考である。快楽を求めること、恐怖・不安を覚えることは感情に属するから深層心理の範疇にあり、必要性を感じることは現実的な利得に関することだから表層心理の範疇にあるのである。すなわち、人間には、深層心理の思考と表層心理での思考という二種類の思考が存在するのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考に気付いていないのである。深層心理に対しては、無意識の行動と言うように、一部の行動にしかその存在を認めていないのである。思考の中心は表層心理でのものだと思っているのである。そして、自ら意識して、主体的に思考して、自らの意志で行動していると思い込んでいるのである。それは、主体的に生きたいと思っているからである。人間は、深層心理が、強く、主体的に生きたいと思っているから、自ら意識して、主体的に思考して、自らの意志で行動していると思い込んでいるのである。これは、深層心理の無の有化という作用から来ているのである。無の有化という作用は、深層心理の欲望が強過ぎると、実際には存在しないものやことを、存在しているように思い込むことである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。人間は、消滅するのが恐いから、あの世を創造し、死後は、あの世で生き続けることで、消滅のが恐怖から逃れようとしているのである。さて、人間は、朝、起きると、学校や会社に行かなければならないと考えて、憂鬱になるように、自ら意識して思考する前に、無意識のうちに思考しているのである。すなわち、人間は、表層心理で、自らを意識して、思考する前に、既に、深層心理が思考しているのである。表層心理で、現実的な利得を求めて、思考する前に、既に、深層心理が、快楽を求めて、思考しているのである。会社員や生徒は、表層心理で、必要性から、会社や学校を行くことを思考する前に、深層心理が、快楽を求めて思考し、会社や学校で嫌なことを待っていることを思い、憂鬱になるのである。しかし、ほとんどの人は、無意識のうちに思考したことでも、すなわち、深層心理が思考してしたことでも、それを意識することがあれば、意識しての思考、すなわち、表層心理で思考したものだと思い込んでしまうのである。しかも、人間の表層心理での思考は、常に、深層心理の結果を受けて始まるのであり、表層心理独自で思考を始めることはできないのである。つまり、人間の自らを意識しての思考は、無意識の思考を受けて始まるのである。しかも、人間は、自らを意識して思考することなく、すなわち、表層心理で思考することなく、無意識のうちに思考して、すなわち、深層心理が思考して、そのまま行動していることが多いのである。この、表層心理で思考することなく、深層心理の思考のままに行動することが、所謂、無意識の行動なのである。ほとんどの人の日常生活がルーティーンという繰り返しの行動になるのは、無意識の行動だから可能なのである。さて、人間は、ある時は、家族という構造体に所属して、父・母・息子・娘などの自我を持して生き、ある時は、学校という構造体に所属して、校長・教諭・生徒などの自我を持して生き、ある時は、会社という構造体に所属して、社長・課長・会社員などの自我を持して生きているように、常に、構造体に所属して、自我を持して生きている。人間は、構造体に所属せずに生きられず、自我を持たずに生きられないのである。人間が社会的な動物であるという意味は、常に、構造体に所属して、自我を持して、他者に関わって生きているということである。そして、人間は、まず、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのである。つまり、深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、自我の欲望を生み出し、人間は、その自我の欲望にとらわれて生きているのである。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。人間は、深層心理も表層心理でも、自我を自分だと思い込み、自我を中心に考えるのである。それが、自我を主体に立てるという意味である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って行動しているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・会社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。欲動とは、深層心理に内在し、深層心理を動かしている四つの欲望である。欲動には、第一の欲望として自我を確保・存続・発展させたいという欲望があり、第二の欲望として自我を他者に認めてもらいたいという欲望があり、第三の欲望として自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望があり、第四の欲望として自我と他者で心の交流を図りたいという欲望がある。すなわち、深層心理が、常に、まず、構造体の中で、自我を主体に立てて、四つの欲望に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて生きているのである。だから、生徒や会社員という自我を持った者が、学校や会社という構造体に行くことを考えると、憂鬱になるのは、そこへ行くと、快楽が得られず、苦痛が与えられるだろうと思うからである。学校や会社に行くには行くが、楽しくないのである。すなわち、学校や会社という構造体に行っても、生徒や会社員という自我を他者に認めてほしいという第二の欲望も、自我と他者で心の交流を図りたいという第四の欲望もかなわず、快楽が得られないばかりか、苦痛が与えられると思うから、憂鬱になるのである。生徒という自我を持った者は、学校に行っても、教師に叱られ、同級生にいじめられてばかりいて、親しい友人がいなければ、深層心理は、憂鬱という感情と登校拒否という行動の指令を生み出し、生徒に、不登校を促すのである。会社員という自我を持った者は、会社に行っても、上司や先輩に叱られてばかりいて、親しい同僚がいなければ、深層心理は、憂鬱という感情と出勤拒否という行動の指令を生み出し、会社員に、出勤しないようにを促すのである。しかし、超自我という毎日同じこと繰り返すというルーティーンを守るための深層心理の機能が、自我の欲望を抑圧し、学校や会社へ行かせようとするのである。超自我とは、深層心理の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化の作用の機能である。なぜ、深層心理に、超自我というルーティーンを守ろうとする機能が存在するのか。その一つは、ルーティーンを守っている限り、自我と構造体が確保されるからである。人間は、構造体に所属せずに生きられず、自我を持たずに生きられないから、深層心理は、ルーティーンを守ることにこだわるのである。ルーティーンを守っている限り、自我と構造体が保証されるからである。それは、逆に言えば、一つの自我を失えば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、深層心理に、超自我というルーティーンを守ろうとする機能が存在するのである。そして、超自我という深層心理の機能が、学校や会社に行かないと不安という気持ちを生み出し、自我の欲望を抑圧し、学校や会社へ行かせようとするのである。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、自らを意識して、思考して、現実的な利得を求めて、将来のことを考え、自我の欲望を抑圧して、学校や会社へ行こうとするのである。人間は、表層心理での思考では、学校や会社に行くことに必要性を感じているからである。しかし、稀に、深層心理の生み出した憂鬱の感情が強過ぎる場合があり、その時は、超自我の機能と表層心理での思考が、自我の欲望を抑圧できず、人間は、深層心理が生み出した登校拒否や出勤拒否の行動の指令のままに、学校に行かなかったり会社へ行かなかったりするのである。登校拒否や出勤拒否に限らず、深層心理の生み出した感情が強過ぎる場合、超自我の機能と表層心理での思考が自我の欲望を抑圧できず、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、行動するのである。しかし、学校に行かなかったり会社へ行かなかったりしても、問題が解決したわけではないのである。確かに、学校や会社へ行くことで起こる、教師に叱られたり同級生にいじめられたりする嫌な思いや上司や先輩に叱られる嫌な思いを味わわないで済む。しかし、学校や会社へ行けなかった屈辱感があるからである。引き続いて、憂鬱の中にいるのである。そして、憂鬱の感情は長期化し、憂鬱の気分へと、人間の深層心理に深く沈潜するのである。そこで、人間は、憂鬱の気分の下で、自らを意識して、表層心理で、この憂鬱な気分から逃れる方策を編み出そうと思考するのである。しかし、深層心理が納得するような方法を考え出さなければならないのである。なぜならば、憂鬱の気分は、深層心理によって生み出されたものだからである。そうしないと、屈辱感という心の傷は癒えないのである。しかし、人間は、憂鬱の気分の下で、憂鬱な気分から逃れる方策を編み出そうと思考するのであるから、深層心理が納得するような有効な方法を考え出せるはずがないのである。長期にわたって、憂鬱の下での思考が続くのである。そのような時、深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことがある。人間は、誰しも、表層心理で、自らを意識して、自らの意志で、精神疾患に陥ることはできない。深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことによって、現実を見えないようにし、現実から逃れようとするのである。精神疾患には様々なものがあるが、代表的なものが、鬱病である。深層心理が、自らの心に、鬱病という精神疾患をもたらし、抑鬱気分にすることにより、現実を見えないようにし、現実から逃れようとするのである。鬱病の基本症状は、気分が落ち込む、気がめいる、もの悲しいといった抑鬱気分である。また、あらゆることへの関心や興味がなくなり、なにをするにも億劫になる。知的活動能力が減退し、家事や仕事も進まなくなる。さらに、睡眠障害、全身のだるさ、食欲不振、頭痛などといった身体症状も現れることが多い。抑鬱気分が強くなると、死にたいと考える(自殺念慮が起こる)だけでなく、実際に、自殺を図ることもあるのである。このように、学校や会社での構造体において、自我が傷つけられたので、深層心理が、自らの心に、鬱病という精神疾患をもたらすことによって、抑鬱気分にし、学校や会社での現実を見えないようにし、現実から逃れようとしたのであるが、抑鬱気分は、学校や会社の構造体以外においても、継続され、人間を苦しめるのである。もちろん、鬱病に罹患している人間は、表層心理で、自らの心理状態を意識しても、自らの意志で、鬱病を寛解させることはできない。また、抑鬱気分に支配されているから、表層心理で、自らの心理状態を意識しても、鬱病を寛解させる方法を考え出す余裕も無い。深層心理が、自らの心に、鬱病をもたらしたからである。人間は、表層心理で、深層心理に直接に働き掛けることはできないのである。しかし、少数の人は、朝、起きると、高校や会社という構造体に行かなければならないから憂鬱になり、高校や会社に行くのが嫌になる日が続くと、深層心理が生み出した自我の欲望に従い、深層心理が生み出した行動の指令のままに、高校や会社に行くのをやめ、退学したり退社したりして、これまでの高校や会社という構造体を脱退し、これまでの高校生や会社員という自我を捨て、新しく、構造体を求め、自我を求めようとする。もちろん、人間には、誰しも、超自我というルーティーンを守るための深層心理の機能が存在する。このような少数派の人にも、超自我という深層心理の機能は存在する。多数派の超自我の機能は、どのような気持ちになろうと、毎日同じ高校や会社という構造体へ行き、同じこと繰り返して、ルーティーンを守り、高校生や会社員という自我を存続させようとするのであるが、少数派の超自我のルーティーンを守るという機能は、常に、不愉快な気分になる構造体ならば脱退し、自我を捨て、新しく、構造体を求め、自我を求めようとするように働くのである。少数派の表層心理での思考も、辛い思いをしてこれまでの構造体にいて自我を維持しているよりも、新しい構造体と新しい自我に賭けることを希望にして、現実的な利得を求めようとする。もちろん、このような少数派は、多数派から、職を転々としている、我慢が足りない、腰が軽いなどと批判される。しかし、常に、少数派は、多数派から、大声で批判されるものである。少数派は、批判される覚悟を持って、行動することが必要である。いつの時代でも、どのようなことにおいても、少数派は、常に、多数派から、大声で批判されるものである。いつの時代でも、どのようなことにおいても、少数派は、常に、多数派から、大声で批判されるものである。知識人も、いつの時代でも、常に、政治権力者や大衆から、大声で批判されるものである。それでも、自らが正しいと思えば、政治権力者や大衆に異議を唱え続けなければならない。それが、知識人の存在意義である。少数派も、自らがそれで良いと思えば、自らの生き方を貫けば良いのである。しかし、稀に、多数派とも少数派とも異なり、構造体に所属して、自我を維持したままで、自らに屈辱を与える他者に対して、反抗したり戦ったりする人が存在する。言わば、僅少派である。僅少派の高校生という自我を持った者は、高校という構造体へ行って、教師に叱られると、反論する。同級生にいじめられると、戦う。僅少派の会社員という自我を持った者は、会社という構造体に行って、上司や先輩に叱られると、反論する。しかし、高校という構造体においても、会社という構造体においても、理解者ほとんどいない。なぜならば、ほとんどの人の日常生活は、毎日同じことを繰り返すルーティーンになっていて、無意識の行動によって成り立っているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、深層心理が、第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、表層心理で思考すること無く、自我の欲望のままに行動しているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で意識して考えることがなく、無意識の行動だから可能なのである。それは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。だから、ルーティーンの生活を守るために、僅少派の行動を無視したり、時には、僅少派を虐げたりするのである。だから、僅少派は、早晩、高校という構造体や会社という構造体から出なければいけないことになるのである。たとえ、公的機関に訴えて、自己主張が認められても、構造体の他者の視線は冷たく、構造体から出なければいけないことになるのである。しかし、僅少派は、屈辱感にさなまれることも無く、鬱病に罹患することも無く、自己の存在意義を示すことはできるのである。


人間は、深層心理によって、自我の欲望を追求するように動かされている。(自我その468)

2021-02-19 14:58:52 | 思想
フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆるものの存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在しているからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができる。」と主張する。なぜ、デカルトはあらゆるものの存在を疑うのか。それは、悪魔が人間をだまして、真実は存在していないのに存在しているように思わせたり、真実は別の姿なのに現在のような姿のように見せたり、真実は別のあり方であるべきなのにそのような現在のように見せたりしているかも知れないからである。しかし、自分は確実に存在していることがわかったので、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろな物やいろいろなことの存在の真実のあり方を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、デカルトの疑いも実際には存在していず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分だけでなく、他者、物、ことががそこに存在していることを前提にして、思考し、活動をしているのであるから、自分、いろいろな物、いろいろなことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑ったとしても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その結論によって、存在が消滅することは無く、疑うこと自体が無意味なのである。つまり、人間は、論理的に、自分、他者、物、ことの存在を証明できるから、自分、他者、物、ことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、それらの存在を前提にして、思考して、活動しているのである。なぜならば、人間は、深層心理が、直接、それらの存在を感じ取り、思考して、活動しているからである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。デカルトの疑いは表層心理での思考である。表層心理とは、人間の意識しての精神活動である。つまり、デカルトが、表層心理で、自分の存在を疑う前に、深層心理は既に自分の存在を意識しているのである。深層心理の意識だから、人間は、それに気付いていないのである。また、自分の存在を意識するとは自分を意識することである。自分が存在しなければ意識できないからである。深層心理は、人間は表層心理で自分を意識していない時に、自分を意識して、思考しているのである。しかし、人間の表層心理には、深層心理の意識のあり方や深層心理の思考のあり方が、見えていないのである。人間は、時として、表層心理で、自分を意識する時があるのである。すなわち、人間は、時として、表層心理で、自分の存在を意識する時があるのである。デカルトは、それでは、自分の存在が不安を覚え、自分の存在に確信を持ちたいから、論理によって、存在証明をしようと思ったのである。つまり、デカルトは、自分の存在に確信が無いことに苦痛を感じたから、表層心理で、論理によって、存在証明をしようとしたのである。人間の思考は、常に、苦痛を解消するために、若しくは、快楽を求めるために、行われるのである。しかし、デカルトが、表層心理で思考し、論理を展開して、自らの存在の確信を得ようとしても、深層心理が既に自らの存在を確信して思考しているのであるから、デカルトが、表層心理で、どのように論理を展開しようと、「我あり」の結論になるように、思考が導かれるのである。さて、それでは、人間は、表層心理で、どのような時に、自分の存在を意識するのか。人間は、他者の視線を感じた時、他者や他人がそばにいる時、他者や他人に会った時、他者や他人に見られている時に、自分の存在を意識する。人間は、他者や他人の存在を感じた時、自分の存在を意識するのである。それでは、なぜ、人間は、他者や他人の存在を感じた時、自分の存在を意識するのか。それは、人間は、常に、深層心理が、他者や他人の存在に脅威を感じ、自分の存在に危うさを感じているが、他者や他人の存在を身近に感じると、深層心理が、他者や他人に対して警戒の念が生じ、それが、表層心理の意識のまで上ってきたからである。さらに、人間は、無我夢中で行動していても、突然、自らの存在を意識することがある。無我夢中の行動とは、無意識の行動である。人間は、そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識することがあるのである。それも、また、人間は、常に、深層心理が、他者や他人の存在に脅威を感じ、自分の存在に危うさを感じているが、突然、深層心理が、他者や他人に対して警戒の念が生じ、それが、表層心理の意識のまで上ってきたからである。それでは、人間は、表層心理で、どのような形で、自分の存在を意識するのか。多くの人は、誰しも、自分の存在を意識する時は、何かを考えている自分、若しくは、何かをしている自分として意識すると思っている。しかし、それだけでは、不十分なのである。すなわち、人間は、行動性や志向性の面から自分を意識するだけでなく、情態性の面からも自分を意識するのである。人間は自分の存在を意識する時は、常に、何かを考えている自分、何かをしている自分として意識するだけでなく、ある心境の状態にある自分、若しくは、ある感情の状態にある自分としても意識するのである。深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分の存在を意識する時は、常に、ある心境やある感情という情態性にある自分としても意識するのである。情態性とは、心の状態である。心境は、気分とも表現される。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する情態性である。感情は、喜怒哀楽悪などの、突発的に生まれる情態性である。人間は、自分を意識する時は、常に、心境や感情によって、得意の状態にある自分、若しくは、不得意の状態にある自分として意識するのである。さて、人間は、誰しも、自分で、思考して、行動していると思っている。すなわち、人間は、誰しも、表層心理で、自ら意識して、自分で考えて行動していると思っている。しかし、それは、思い込みである。深層心理が、人間の無意識のうちに、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、その自我の欲望に動かされて、行動しているのである。つまり、人間の無意識のうちに、深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとしている。深層心理は、感情を動力にして、自我である人間に、行動の指令を実行させようとするのである。確かに、人間は、表層心理で思考することもあるが、それは、常に、深層心理の思考の後であり、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、行われるのである。人間は、表層心理独自で思考することはできないのである。人間が主体的に思考できないのはここに由来しているのである。さて、深層心理が、人間の無意識のうちに、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているが、自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って行動しているのである。だから、人間には、自分そのものの行動は存在しないのである。人間は、自我として、行動しているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。だから、人間には、自分そのものは存在しないのである。自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。人間には、おのおのの構造体における自我としての行動は存在するが、自分そのものの行動は存在しないのである。また、人間は、自己としても存在することもない。自己として存在するとは、自由に行動でき、主体的に思考しているということである。しかし、人間は、自我として存在し、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるから、人間は、自由になれず、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。他者の思惑を気にしないで思考し、行動すれば、その構造体から追放される虞があるからである。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。人間は、他者を、他者の自我としてみている。すなわち、他我である。他人とは、構造体外の人々である。人間は、他人を、その人が所属している構造体の中の自我としてみている。これも、また、他我である。さて、深層心理は、常に、ある心境の下に思考し、人間は、常に、ある感情に動かされて行動する。もちろん、深層心理の心境や感情は、人間の心境であり感情である。深層心理は、心が空白の状態で思考しているわけではなく、心境の下に思考するのである。また、人間は、自分で動いているのではなく、感情に動かされて行動しているのである。感情が動力になっているのである。人間は、爽快などの得意の心境の時には、欲動は、深層心理をして、現在の状態を維持させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させるのである。人間は、陰鬱などの不得意の心境の状態の時には、欲動は、深層心理をして、現在の状態から脱却させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させるのである。つまり、深層心理は、自らの現在の心境を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦悩の状態にある人間は、苦しいという心境が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しいという心境が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、深層心理にとって、苦しみの心境から解放されることが最大の目的であるからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境という情態性が大切なのである。だから、深層心理は、現在の苦悩の状態から自我を脱却させようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。さて、人間、誰しも、自ら、意識して、思考して、すなわち、表層心理で、思考して、心境を変えることはできない。まず、深層心理が自らの心境に飽きた時に、心境が、自然と、変化する時がある。気分転換の上手な人は、表層心理で、意志によって、気分を、すなわち、心境を変えたのではなく、深層心理が自らの心境に飽きやすく、心境が、自然と、変化したのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換をして、心境を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。さて、深層心理は、現状を解釈して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。深層心理が喜び・楽しみという感情を生み出した時は、現状に満足しているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状を積極的に維持しようとするものになる。深層心理が怒りという感情を生み出した時は、現状に大いに不満を抱いているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状を改革・破壊しようとするものになる。深層心理が哀しみという感情を生み出した時は、現状に不満を抱いているがどうしようもないと諦めているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状に触れず自我を慰めるものになっている。さて、深層心理が、人間の無意識のうちに、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、その自我の欲望に動かされて、行動しているのであるが、快感原則とは、ひたすらその時その場で、快楽を得、不快を避けようという欲望である。そこには、道徳観や社会規約は存在しない。人間が、道徳観や社会規約を考慮するのは、表層心理で、現実原則を満たそうとして、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考する時だけである。さて、深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかを満たせば、快感原則を満たすことができる、すなわち、快楽を得られるのである。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、欲動に基づいて、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動が、深層心理を動かしているのである。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなえば、快楽を得ることができるのである。だから、深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとしているのである。欲動の四つの欲望の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。簡潔に言えば、安心欲である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。人間が、結婚、入学、入社を祝福するのは、夫(妻)、生徒、社員という自我を確保したからである。人間が、離婚、退学、退社を嫌がるのは、夫(妻)、生徒、社員という自我の存続が絶たれたからである。人間が、会社などでの昇進を祝福するのは、自我が発展したからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。また、自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、構造体の存続を自我の存続のように喜び、構造体の発展を自我の発展のように喜ぶのである。だから、高校サッカーや高校野球で自県チームを応援するのである。それは、一般に、郷土愛と言われている。また、オリンピックやワールドカップで自国選手や自国チームを応援するのである。それは、一般に、愛国心と言われている。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、国家観の戦争が無くなることはないのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。簡潔に言えば、承認欲である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。それは、深層心理が、自我が他者に認められると、喜び・満足感という快楽を得られるからである。だから、人間は、誰しも、他者から認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、生きているのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉は、自我が他者に認められたいという深層心理の欲望、すなわち、自我の対他化の作用を端的に言い表している。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。だから、人間の苦悩のほとんどの原因が、他者から悪評価・低評価を受けたことである。そのために、深層心理は、時には、自らを鬱病などの精神疾患に陥らせ、時には、自我に自殺を強いるのである。深層心理が、この苦悩から脱出するために、自らを、精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにし、自我を自殺に追い立て、現実そのものを失わせるのである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象(こと)などの対象を支配したいという欲望である。簡潔に言えば、支配欲である。対象の対自化は、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。対象の対自化は、深層心理が自らの志向性(観点・視点)で他者・物・現象を捉えることなのである。対象の対自化には、有の無化と無の有化という作用がある。有の無化とは、深層心理が、自らの志向性で、他者・物・現象(こと)などの存在しているものを捉え、自我の下に置くことなのである。さて、有の無化という作用には、二つの機能がある。有の無化の機能の一つは、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。)という機能である。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。最後に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、「人は自己の欲望を心象化する」のである。「人は自己の欲望を心象化する」には、二つの作用がある。その一つは、無の有化の作用であり、もう一つは有の無化の作用のもう一つの機能である。無の有化の作用とは、「人間は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。」である。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。ストーカーは、相手の心から自分に対する愛情が消えたのを認めることが辛いから、相手の心に自分に対する愛情がまだ残っていると思い込み、その心を呼び覚ませようとして、付きまとうのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。次に、有の無化の作用のもう一つの機能であるが、それは、「人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込む」ことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。さて、ニーチェの「権力への意志」という思想であるが、それは、対象の対自化の作用を徹底課させたものである。人間は、誰しも、深層心理が、常に、対象の対自化を行っているから、ニーチェの言うように、「権力への意志」の保持者になる可能性があるのである。しかし、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、他者の視線にあうと、その人の視線を気にし、他者という対象を対自化することをやめ、自我を対他化するからである。だから、思想家の吉本隆明も、「人間の不幸は、わがままに生まれてきながら、わがままに生きられず、他者に合わせなければ生きていけないところにある。」と言うのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、それは、自我と他者の共感化という作用として現れる。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、それほど屈辱感が強かったのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである安倍晋三前首相は、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆の支持を集めたのである。「呉越同舟」を利用した、自我のエゴイスティックな行動である。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていない証である。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。しかし、日常生活において、異常なことが起こることもある。それは、ほとんどの場合、侮辱などをされ、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望が破られた時である。そのような時、深層心理が怒りの感情と侮辱した相手を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間に、相手を殴ることを促すのである。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、それが働き、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとするのである。超自我は、深層心理に内在する欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という作用の機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する審議は、表層心理に移されるのである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。自我が不利益を被らないように、行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などから思考するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を殴ったならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。しかし、誰かが自我が傷つけても、深層心理は、時には、傷心の感情から解放されるための怒りの感情と相手を攻撃するという自我の欲望を生み出さず、うちに閉じこもってしまうことがある。それは、攻撃するのは、相手が強大だからであり、攻撃すれば、いっそう。自我の状況が不利になるからである。そうして、傷心のままに、苦悩のままに、自我の内にこもるのである。それが、憂鬱という情態性である。そのような時、深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことがある。深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことによって、現実を見えないようにし、現実から逃れようとするのである。人間は、誰しも、自ら意識して、精神疾患に陥ることはない。また、人間は、誰しも、自らの意志で、精神疾患に陥ることはできない。すなわち、表層心理という意識や意志では、自らの心に、精神疾患を呼び寄せることはできないのである。深層心理という人間の無意識の心の働きが、自らの心に、精神疾患をもたらしたのである。精神疾患には様々なものがあるが、代表的なものが、鬱病である。鬱病の基本症状は、気分が落ち込む、気がめいる、もの悲しいといった抑鬱気分である。また、あらゆることへの関心や興味がなくなり、なにをするにも億劫になる。知的活動能力が減退し、家事や仕事も進まなくなる。さらに、睡眠障害、全身のだるさ、食欲不振、頭痛などといった身体症状も現れることが多い。抑鬱気分が強くなると、死にたいと考える(自殺念慮が起こる)だけでなく、実際に、自殺を図ることもある。また、鬱病に罹患している人間は、表層心理で、自らの心理状態を意識して、自らの意志で、行動を起こそうという気にならない。また、たとえ、自らの意志で、行動を起こそうとしても、肉体が動かない。深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、自らの肉体が行動を全然起こさないようにしたのである。つまり、深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、鬱病の原因が学校や会社という構造体の中での出来事ならば、自らの肉体を学校や会社に行かせないようにしたのである。つまり、学校や会社で堪えられない情況にある人間の深層心理が、自らの心を、鬱病に罹患させることによって、抑鬱気分を維持させ、学校・会社の行かせないようにするという、現実逃避よる解決法を画策したのである。しかし、人間は、鬱病に罹患すると、学校や会社に行けなくなるばかりでなく、他のこともできなくなるのである。さらに、自殺を考えたり、実際に、自殺しようとしたりするのである。鬱病は、人間を、継続した重い気分に陥らせ、何もする気も起こらなくさせ、自殺を考えさせ、実際に、自殺しようとさせたりするから、大きな問題なのである。鬱病だけでなく、他の全ての後天的な精神疾患も、深層心理によってもたらされた現実逃避よる解決法である。統合失調症は、現実を夢のように思わせ、現実逃避をしているのでる。離人症は、自我の存在を曖昧にすることによって、現実逃避しているのである。このように、現実があまりに辛く、深層心理でも表層心理でも、その辛さから逃れる方策、その辛さから解放される方策が考えることができないから、深層心理が、自らを、精神疾患にして、現実から逃れたのである。しかし、精神疾患によって、現実の辛さから逃れたかも知れないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛の心理状態が、終日、本人を苦しめるのである。だから、精神疾患に陥った人に対して、周囲のアドバイスも励ましも、無効であるか有害なのである。精神疾患に陥った人は、現実を閉ざしているのであるから、周囲の現実的なアドバイスには聞く耳を持たず、無効なのである。また、周囲の「がんばれ」という励ましの言葉は、「がんばれ」とは「我を張れ」ということであり、「自我に執着せよ」ということであるから、逆効果であり、有害なのである。自我に執着したからこそ、現実があまりに辛くなり、精神疾患に逃れざるを得なくなったからである。そして、今、現実が見えない状態であるから、現実から来る苦しみはないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛によって苦しめられているのである。さて、精神疾患の苦痛から解放するために、薬物療法とカウンセリングが多く用いられる。確かに、精神疾患そのものの苦痛の軽減・除去には、薬物療法は有効であろう。しかし、現実は、そのまま残っている。現実を変えない限り、たとえ、薬物療法で、精神疾患の苦痛が軽減されても、その人が、そのことによって、再び、現実が見えるようになると、再び、元の精神疾患の状態に陥るようになることが考えられる。そこで、重要になってくるのが、カウンセリングである。カウンセリングは、自己肯定感を持たせることを目的として、行われる。精神疾患に陥ったのは、自分が無力であるため、現実に対処できず、深く心が傷付いたからである。そこで、自己に肯定感を持たせ、自信を与え、現実をありのままに受け入れるようにするのである。しかし、自分に力が無いと思い込み、外部に関心を持たない状態に陥っている者に対して、肯定感を持たせ、自信を持たせ、現実をありのままに受け入れるようにさせることは、至難の業である。だから、カウンセリングは、長い時間が掛かるのである。自我の欲望から逃れるまでには、長い時間が掛かるのである。しかし、自宅が火事になり、取り残された子供を助けようとして、自らの命が失われる危険を省みずに、火の中に飛び込む母親が存在するが、それも、自我の欲望による行動である。感動的な行為であるが、それは、家族という構造体の中の母親という自我がそのようにさせるのである。深層心理が生み出した自我の欲望がそうさせるのであり、表層心理の思考による、主体的な意志によるものではない。だから、同じ人も、よその家が火事ならば、消防署には連絡しても、火の中に飛び込むことはないのである。人間は、構造体の中で、自我を得て、初めて、自らの存在が意味を帯びるのである。人間は、自らの社会的な位置が定まらなければ、つまり、構造体の中で自我が定まらなければ、深層心理は、自我の欲望を生み出すことができないのである。人間の存在とは社会的な位置であり、社会的な位置とは構造体の中での自我あであるから、人間にとって、構造体と自我が重要なのである。また、人間は、構造体に所属し、構造体内の他者にその存在が認められて、初めて、自らの自我が安定するのであるが、それがアイデンティティーを得るということである。つまり、アイデンティティを得るには、自らが構造体に所属しているという認識しているだけでは足りず、構造体内で、他者から、承認と評価を受ける必要とするのである。つまり、構造体内の他者からの承認と評価が存在しないと、自我が安定しないのである。自我が安定するとは、自我の欲望が満たされているということであるから、人間は、自我の欲望を満たすために生きるのである。自我の欲望を満たすとは、自我の存在を他者に知らしめ、快楽を追求することである。だから、人間にとって、すなわち、自我にとって、他者は、自我が自らの欲望を追求するための目標、若しくは、道具としての存在なのである。なぜならば、自我の欲望とは、自我を確保しつつ、他者を支配し、なおかつ、自我を他者に認めてもらいたい、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望から発しているからである。人間は、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を所有して、自我の欲望を追求しながら、一生を送るのである。自我とは、言わば、役割を果たし、役柄をこなすという役を演じている人間のあり方である。しかし、人間は、意識して、思考して、その役を演じているのではない。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、その役を演じているのではない。すなわち、人間は、主体的に思考して、自我を動かすことができないのである。人間は、無意識に、思考して、その役を演じているのである。すなわち、人間は、深層心理が、思考して、その役を演じているのである。なぜならば、自我は深層心理に浸透し、人間と自我は一体化しているからである。深層心理が、自我と一体化し、自我を主体に立てて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて行動するのである。人間は、誰しも、常に、さまざまな構造体に所属して、その構造体に応じて、さまざまな自我を所有しているが、深層心理によって生み出された感情と行動の指令という自我の欲望によって動かされる存在でしかないのである。だから、人間は、誰しも、「あなたは何」と尋ねられても、同じ答を返せないのである。時と場所によって、自我が異なるからである。構造体によって、異なった自我を所有しているからである。彼女の息子が母だと思っているのは当然だが、彼女は母だけでなく、妻、教諭、客、乗客、県民、友人という自我をも所有しているのである。彼女は、家族という構造では母という自我を所有しているが、他の構造体では他の自我を所有して行動しているのである。だから、息子は母としか知らず、彼女の全体像がわからないのである。人間は、他者の一部の自我しか知ることができないのに、それが全体像だと思い込んでいるのである。だから、殺人事件が起こると、必ず、マスコミが犯罪者の真実の姿を追及し、会社、近所、親族、高校時代の仲間などという構造体を訪ねるが、その評価は同じではないのである。構造体に応じて、異なった自我を持ち、異なった評価が与えられているからである。そのなかで、マスコミが、悪評価・低評価の自我を真実の姿だとして取り上げているだけなのである。



ストレスの無い人間、ストレスの無い社会は存在しない。(自我その467)

2021-02-15 17:29:43 | 思想
人間は、誰しも、ストレスなく、暮らしたいと思っている・しかし、毎日、大なり小なり、ストレスを感じている。なぜならば、生きていくために、自らの欲望を抑圧しているからである。なぜ、自らの欲望を抑圧するのか。それは、自らの欲望通りに行動すると、後に、自らの立場が危うくなるからである。例えば、会社や学校で、社員や生徒が、上司や教師に、叱責される。悔しいから、反論したくなる。しかし、反論すると、後に、自らの立場が危うくなるから、恭順の意を表すのである。つまり、自らの立場を守るために、自らの欲望を抑圧するのである。そして、それがストレスになるのである。特に、現代社会はストレス社会だとよく言われる。ほとんど全ての人が何らかのストレスを抱えているからである。現代は、これまでの時代に比べてストレスが感じることが多い社会だと思われているのである。それでは、なぜ、ストレスが感じることが多いのだろうか。むしろ、現代は、これまでの時代には無いような、自由な時代ではないのか。しかし、誰もが現代は自由な時代であると思っていることがストレス社会を作り出しているのである。自由とは、自分の思い通りに行動できるということである。自由な社会とは、自分の実力が十分に発揮できる社会である。自由な社会の最大のメリットは、自分の思い通りに、自分の力を存分に発揮でき、それが、他者から好評価・高評価を受けることにあるのである。しかし、逆に、自分の思い通りに行動できず、自分の力を発揮できず、他者から悪評価・低評価を受けると、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めるのである。それが、ストレスになるのである。自分の欲望が満たされないことがストレスになるのである。現代社会がストレス社会であるとは、自分の欲望が満たされないために、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めている人が非常に多いことを意味しているのである。見方を変えると、それほど、現代社会において、人間は、自分に賭けているのである。さて、人間が、賭けるほど執着している自分とは何であろうか。しかし、それを考えると、袋小路に入り込んでしまうのである。なぜならば、人間には、自分という実態は存在しないからである。人間には、自分そのものは存在しないのである。人間が自分だと思っているものは自我なのである。それでは、自我とは何か。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。人間は、自我を自分だと思い込んでいるのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って行動しているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。つまり、自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我というあり方に過ぎないのである。他者とは、同じ構造体の中での自我以外の人々である。人間は、他者を、同じ構造体の中での、他者が持っている自我としてみている。すなわち、他我である。他人とは、構造体外の人々である。人間は、他人を、その人が所属している構造体の中で持っている自我としてみている。これも、また、他我である。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。だから、人間には、構造体における自我としての行動は存在するが、自分そのものの行動は存在しないのである。また、人間は、自己としても存在できない。自己として存在するとは、主体的に思考して、自分の思い通りに行動できるということである。しかし、人間は、自我として存在し、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるから、人間は、自由になれず、主体的に思考して行動できないのである。なぜならば、他者の思惑を気にしないで思考し、行動すれば、その構造体から追放される虞があるからである。だから、人間は、常に、他者の思惑を気にして思考し、行動しているのである。さて、人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って行動しているが、深層心理が、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、この自我の欲望に動かされて行動しているのである。深層心理とは、人間の無意識のうちの思考を意味する。深層心理は、一般に、無意識と言われている。しかし、人間は、誰しも、自ら意識して思考し、自らの意志で行動していると思っている。人間の意識しての思考を表層心理と言う。人間の表層心理での思考の結果が意志である。すなわち、人間は、誰しも、表層心理で、自ら意識して思考し、自らの意志で行動していると思っている。しかし、人間は、表層心理で、自ら意識して思考する前に、無意識のうちに思考しているのである。すなわち、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満たすように、人間の無意識のうちの思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、この自我の欲望に動かされて行動しているのである。そして、人間は、自ら、自我の欲望を抑圧し、自我の欲望のままに行動できない時に、ストレスを感じるのである。それでは、なぜ、人間は、自ら、自我の欲望を抑圧し、自我の欲望のままに行動しないのか。それは、自我の欲望通りに行動すると、後に、自我が危うくなるからである。つまり、自我を守るために、自我の欲望を抑圧するのである。それでは、深層心理は、時には、抑圧しなければいけないような自我の欲望を生み出すのか。それは、深層心理は、快感原則を満たすように、思考して、自我の欲望を生み出すからである。快感原則とは、スイスで活躍したフロイトの用語であり、快楽を求める欲望である。ひたすら、その時その場での、瞬間的な快楽を求め不快を避けたいという深層心理の欲望である。そこには、道徳観や社会規約や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や社会規約や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその時その場での瞬間的な快楽を求め、不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。もしも、人間は、表層心理で、自ら意識して思考して、自我の欲望を生み出していたならば、後に抑圧しなければならないようなものを生み出すはずがないのである。たとえ、人間が、表層心理で、自ら意識して思考して、誤って、後に抑圧しなければならないような自我の欲望を生み出したとしても、人間は、表層心理の意志で、容易に抑圧することができ、ストレスを感じないだろう。人間は、表層心理で、自ら意識して思考して、自我の欲望を生み出していたならば、意志で、抑圧できるだけでなく、消滅させることも容易にできるだろう。深層心理が生み出した自我の欲望だから、抑圧が容易ではなく、抑圧すると、ストレスを感じるのである。しかし、深層心理が生み出した自我の欲望と言えども、自らの欲望であり、人間は自我として生きるしかなく、自らを動かすものはそれしか無いから、それに動かされて行動するのである。さて、人間は、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満たすように、人間の無意識のうちの思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて行動しているのであるが、欲動とは、何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかを叶えれば、快楽が得られるので、欲動の四つの欲望に従って、思考するのである。深層心理に内在している欲動には、四つの欲望がある。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。簡潔に言えば、安心欲である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。高校生・会社員という自我を持している者が嫌々ながらも学校・会社という構造体に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍前首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍前首相に迎合したのは、身分保証という自我の確保・存続のためばかりでなく、立身出世という自我の発展のためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめた子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されたくなく、友人という自我を失いたくないから、自殺寸前までいじめの事実を隠し続けるのである。それは、一つの自我を失えば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。簡潔に言えば、承認欲である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。人間は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。若い女性がアイドルになろうとするのは、大衆から賞賛を浴びたいからである。受験生が有名大学を目指すのは、身近な人や世間から賞賛を浴びたいからである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。簡潔に言えば、支配欲である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。教諭が校長になろうとするのは、学校という構造体の中で、生徒・教諭・教頭という他者を校長という自我で対自化し、支配し、充実感を得たい欲望があるからである。大工は、材木という物を対自化し、加工し、家を建てるのである。哲学者は人間と自然を対象として、哲学思想で捉え、支配しようとし、心理学者は人間を対象として、心理思想て捉え、支配し、科学者は自然を対象として、科学思想で捉え、支配しようとするのである。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。簡潔に言えば、愛欲である。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。つまり、自我の他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感化の機能である。だから、若い人は、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を持って、自我の存在を確かなものにするのである。為政者が、敵国を作って、国民と「呉越同舟」の関係を作って、自分に対する批判をかわそうとするのである。このように、深層心理は、自我を主体に立てて、快楽を求めて、欲動の四つの欲望のいずれかが叶うように、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。欲動には、道徳に従う、社会規約に従う、法律を守るという欲望は存在しないから、深層心理は、道徳観や社会規約や法律厳守の価値観を持たずに、思考して、自我の欲望を生み出すから、そこには、抑圧しなければならないものが存在するのである。そして、実際に、それを抑圧して、ストレスを感じてしまうのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動によって成り立っているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、深層心理が、第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、表層心理で思考すること無く、自我の欲望のままに行動しているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で意識して考えることがなく、無意識の行動だから可能なのである。それは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、詳細に見れば、人間の生活は、誰一人として、毎日が、平穏ではない。何かしら、些細な問題が起こる。たとえば、家族という構造体で、息子が父親から勉強をしないでゲームばかりしていると叱責を受けると、息子の深層心理は、傷心から怒りの感情と反論しろという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を唆す。しかし、息子の超自我がルーティーンを守るために自我の欲望を抑圧し、ポーズだけにしろ机に向かうのである。その時、超自我は、自我の欲望を抑圧したから、息子はストレスを感じるのである。超自我とは、深層心理の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化の作用そのものである。超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、意識して、思考して、現実原則に基づいて、将来のことを考え、自我の欲望を抑圧するのである。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に現実的な利得をもたらせようとする欲望である。さて、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。その典型が、怒りという感情と復讐という行動の指令という自我の欲望である。人間は、常に、深層心理は、自我が他者から認められるように生きているから、自分の立場を下位に落とした相手に対して、怒りの感情と復讐の行動の指令という自我の欲望を生み出し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせるように、自我を唆すのである。しかし、深層心理の超自我のルーティーンを守ろうという思考と表層心理での現実原則の思考が、復讐を抑圧するのである。しかし、怒りの感情が強過ぎると、深層心理の超自我と表層心理での思考が功を奏さず、復讐に走ってしまうのである。そうして、自我に悲劇、相手に惨劇をもたらすのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いので、深層心理がこの辛い気持ちにさせた相手に怒りの感情と相手に付きまとえという嫌がらせという復讐の行動の指令という自我の欲望を生み出したからである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が強いので、超自我や表層心理での思考でストーカー行為を抑圧しようとしてもできずに、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令には逆らえないのである。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、相手に暴力を振るい、相手を困らせ、相手の自我を下位に落として、一挙に辛さから逃れようとするのである。さらに、ストーカー行為は、深層心理の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望が破れたことが原因であるとも言えるのである。人間は、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うためであり、超自我や表層心理の思考で、ストーカー行為を抑圧しようとしても、屈辱感が強く、怒りの感情は強過ぎたからである。カップルという構造体が破壊され、恋人という自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さがあるのである。さて、人間は、深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、超自我にも表層心理にも引っかからずにすぐに行動するという第一の場合、超自我で抑圧するという第三の場合、表層心理で考えてから行動するという第三の場合がある。第一の場合は、所謂、無意識の行動である。第三の場合は、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動することになる。これがが、理性の思考による行動、すなわち、意志の行動である。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。それがストレスである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。心に安らぎは訪れない状態がストレスであり、苦悩である。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。確かに、この時はストレスは起こらないが、犯罪の多くはこの時に起こるのである。ストレス以上の苦悩が始まるのである。だから、ストレスの無い人間、ストレスの無い社会は存在しないのである。もしも、ストレスの無い人間が存在したならば、それはわがままの人間であり、最後には、犯罪者として収監されるだろう。もしも、ストレスの無い社会が存在したならば、それは無秩序の社会であり、犯罪者が蔓延し、早晩、消滅するだろう。