あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

役柄存在と構造体

2015-03-14 17:41:50 | 思想
私たちは、毎日、いついかなる時でも、何らかの役柄を演じて、暮らしている。役柄存在が、私たちの暮らし方なのである。私たちに与えられた役柄が、ステータス(社会的な位置)である。私たちは、その役柄に成りきっ、つまり、ステータスに成りきって暮らしている。ステータスに成りきって生活している時の心のあり方を、自我と言う。ドラマには、必ず、役者が登場し、その役柄に応じて演技する。私たちは、毎日、いついかなる時でも、何らかの役柄を担い、それに成りきって、暮らしている。しかし、役者と私たちとは、明確な違いがある。役者は意識して、つまり、表層心理で、その役柄を演じている。しかし、私たちは、深層心理で、役柄を演じている。しかも、役柄に成りきっているので、自分が演じているのに気付いていない。ちなみに、役者には、名優と大根役者がいる。名優とは、その役柄にはまり、演じているように感じられない人のことを言う。大根役者とは、その役柄に成りきれず、わざとらしく、演じているように感じられる人を言う。さらに、若い女性が、同じようなしぐさをしても、「かわいい」と言われる人と、「ぶりっこ」と言われる人がいる。「かわいい」と言われる人は、そのしぐさが演じているように見えない人であり、「ぶりっこ」といわれる人は、そのしぐさがいかにも演じているように見える人である。さて、これから、家族という、われわれの日常生活のおいて、最も基礎となっている組織について、構造体と役柄存在の面から、述べようと思う。家族もまた構造体の一つであり、その一員のそれぞれが、役柄を演じている。それは、テレビのホームドラマと同じである。実際の家族が、ホームドラマのようなありかたをしているから、ホームドラマが作られ、そして、テレビのホームドラマが実際の家族の在り方に影響を与えることができるのである。ホームドラマは、家族の中に起こる問題を、他の面々がどのように関わり、家族全体にどのように影響を与え、どのように変化し、どのように解決していったかを描いたドラマである。私たちの日常生活において、家族とは血縁関係を基にした構造体で、最も中心的な存在である。例えば、ここに、山田良子という女性がいたとする。山田家は、七人家族で、祖父、祖母、父、母、長男、そして、長女、次女(本人)で構成された、構造体である。彼女は、帰宅すると、山田家という構造体の下で、次女というステータスに成りきって、次女の自我(プライド)を持って、行動する。どのような構造体にも、了解事項があり、家族という構造体もその例外ではない。彼女の行動は、家族全体によって、制約されている。特に、彼女は、長女に頭が上がらない。しかし、長女は、時には、彼女をいたわり、かばってくれる。山田家の人々は、家族の一人が褒められると喜び、侮辱されると怒る。なぜならば、人間とは、構造体に所属することでしか、一人の人間として存在できないから、構造体とは一心同体の組織だと思い込んでいるからである。家族はいっそう身近な構造体だから、自我もより強く作用する。それ故に、家族の一人でも欠けると、残された者たちの心に空虚が生じる。例えば、山田家の祖父が亡くなると、良子も悲しみに暮れてしまう。今まで、七人が家族の構造体として組織され、それを当然のごとくのように思っていたので、すぐには、六人家族の日常生活が送れないからである。それでも、六人家族という構造体に慣れていく。葬式とは、祖父が家族という構造体から去り、もう二度と戻ってこないということを受け入れようとする、けじめのための積極的な儀式である。祖父は、亡き人となり、山田家の構造体に、もう、影響を及ぼすことはない。また、良子が、祖父が亡くなったのを心の底から悲しんだのは、家族という構造体の一人が欠けたというばかりでなく、祖父が孫の良子を可愛がり、良子はその愛情を快く受け入れていたからである。一般に、相手が自分を愛してくれたり認めてくれたりした(対他存在を満足させてくれた)ならば、自分も相手を愛したり認めたりする(相手の対他存在を満足させる)ものである。だから、祖父が良子可愛がってくれたので、良子も祖父を慕っていたのである。また、一般に、祖父や祖母が孫が可愛いのは、自分たちの死期が近いのを悟り、死後、この世に、自分たちの血縁関係者が存在することで安心を得るのである。つまり、死んだ後も、この世に、自分たちの生が残るという幻想から、わが子より、孫という若い者が大切に思われるのである。さて、これまで、家族の一員が欠けたことをついて述べてきたが、家族が増えた場合に、どうなるか精神分析したい。端的に言えば、やはり、心が動揺するのである。よく、母子家庭の母は、「子供たちのために、父親がほしい」と言って、再婚を望む。しかし、実際は、自分一人では育てていくことが不安だから、もしくは、自分に好きな人がいるから、そうしたいのである。更に、「子供たちが、新しいお父さんをほしがっていていたから。」と言う人は、心に何らかの疚しさを感じるので、自分の再婚を正当化しようとしているのである。たとえ、子供たちが、「新しいお父さんがほしかった。」と言ったとしても、それは、母親の思いを汲んだものであり、自分たちの本心ではない。なぜならば、子供たちは、これまでの家族とう構造体に。新しい人が加わることに不安を覚えているからである。母親は、「私を愛してくれている人ならば、子供たちも愛してくれるだろう。」と思っているかもしれないが、それは、母親の願いにしか過ぎず、往々にして、期待に反した結果を招く。男性は女性を愛しても、その女性の子供も愛する理由は存在しない。もしも、新しく父親になった人が、子供たちを可愛がったとしたら、それは、その人が元々子供好きな人であるか、子供たちの方から、新しい父親を立てている(新しい父親の自我を喜ばせている)からである。大抵の場合、前夫の間にできた子供と新しい父親の関係は上手く行かない。それは、新しい父親は、すぐに、ステータスとしての父の権威を子供たちに求める(父としての自我を満足させようとする)からである。しかし、子供たちにとって、新しい父親は、今までの母子家庭という構造体を壊す、異物なのである。馴染めないどころか、本質的には、入って来てほしくなかったのである。新しい父親に違和感を覚え、どう接して良いかわからない。こんな場合、新しい父親が、長い時間を掛けて、子供たちに優しく接して、受け入れてもらうようにするべきなのである。しかし、大抵の新しい父親は、すぐに、子供たちに自らのステータスを認知させようとするあまり、拒否され、暴力を振るったりして、ますます、心が離れていくのである。このような時、母親は子供たちをかばえば良いのであるが、新しい夫に嫌われたくないために、見て見ぬふりをすることが多い。新しい夫の共犯者になることも珍しくない。母子関係という構造体よりも夫婦関係という構造体が大切なのである。さらに、新しい父親の間に、子供が生まれると、子供たちの立場は一層みじめなものになる。それは、父子家庭の場合も同様である。もちろん、母子家庭の子供たちと新しい父親、父子家庭の子供たちと新しい母親が、上手く行く場合があるが、それは、新しい父や母が子供好きか、深い包容力のある人の時である。ちなみに、国際大会で、日本人が活躍すると、大抵の日本人が喜ぶのは、自分もまた日本という構造体に属し、日本人という自我が満足できるからである。また、「在日韓国人は韓国に帰れ。在日朝鮮人は北朝鮮に帰れ。」などと、ヘイト・スピーチをして、大通りをデモ行進をしている団体があるが、これも、日本人という自我がなせる業である。日本人という自我に囚われると、このような恥ずかしいことを集団で行ってしまうのである。悲劇的なのは、恋愛関係という構造体が壊れた時である。恋愛関係は、二人で組織されているから、一人が去ると、恋愛関係という構造体は崩壊する。それが、失恋という現象である。残された者の心の空虚、つまり、苦悩は。並大抵ではない。そこで、残された者は、心の修復を図るために、色々なことを講じる。ある人は、相手を忘れるために涙を流し続ける。涙が苦悩をいやすことがあるのである。ある人は、自分の思いを友人に聞いてもらう。人に自分の思いを聞いてもらうことで心が癒されることがあるのである。ある人は、嵐が過ぎ去るのを堪えて待つように、失恋の苦しみを忘れるために、やけ酒を浴びたり、やけ食いしたり、音楽を聴いたり、長電話をしたりする。そうしているうちに、徐々に忘れることができるのである。ある人は、そんなに好きではない人を、恋愛の対象者として受け入れ、恋愛関係の構造体を建て直して、失恋の苦悩から逃れようとする。また、一部であり、男性が多いのだが、ストーカーになる人もいる。ストーカーになる男性とは、恋愛関係という構造体の崩壊を認めることがあまりに苦しいので、それを認めることができす、去った彼女を呼び戻して、崩壊した恋愛関係という構造体を再構築するために、なりふり構わず、接近していく人である。それでも、彼女が受け入れてくれない場合、諦めきれず、時には、殺人まで犯してしまう人がいる。そうすることによって、自らが勝者の位置に付くことができるからである。つまり、恋愛関係という構造台を破壊したのは、彼女(の意志)ではなく、自ら(の意志)だとすることで、去られた(失恋した)者の苦しみ、つまり、敗者の苦しみから逃れようとするのである。だから、世間では、よく、「振られた人よりも振った人の方が辛い。」という人がいるが、それは、嘘である。やはり、振られた人の方が、断然、辛いのである。また、女性が、失恋しても(恋愛関係にあった男性に去られて構造体が壊れても)、ストーカーになることがほとんど無いのは、相手の男性を憎悪し、軽蔑して、自分の方が上位に立てるからである。つまり、精神的には、勝者の立場にあるわけである。言わば、「あんな男なんか、こっちの方から、願い下げよ。」と、心の底から、思うことができるからである。


1 コメント

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ホームページを拝見しました (つねさん)
2015-03-14 15:01:14
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