あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人生をゲームのように考えられるか。(人間の心理構造12)

2023-02-22 18:41:52 | 思想
人間は、誰しも、心が傷付くことがある。言うまでもなく、誰しも、心が傷付くのを望んでいない。なぜならば、心が傷付くと、悲しみに重く沈み込み、傷付けた人がなぜそのように言ったのか行動したのかと気になり、自分に自信が持てなくなるからである。また、自分でもどうでも良いことだと思われることで心が傷付くこともある。たとえば、父が小学生の子とゲームをし、負けて、「下手だなあ」と言われた時などである。自分でも「ゲームなのだから」、「子供の言ったことだから」と思うのだが、心は傷付き、気になるのである。なぜ、自分でも求めていないのに、心が傷付くのか。また。なぜ、自分でもどうでも良いと思われることで、心が傷付くのか。それは、深層心理が傷付いているからである。深層心理とは人間の無意識の精神活動である。だから、人間は、自分の意志にかかわりなく、無意識のうちに、心が傷付いているのである。それでは、深層心理はなぜ傷付いたのか。それは、自我が傷付けられたからである。自我が傷付けられると、深層心理も傷付くのである。先の例でいえば、父という自我が子によって傷付けられたから、深層心理が傷付いたのである。それでは、自我とは何か。自我とは、構造体の中で、他者からポジションが与えられ、そのポジションを自分とするあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。他者とは、構造体内の人々である。日本という構造体では、政治家・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、銀行という構造体では、支店長・行員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻の自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。人間は、常に、構造体に所属して、自我として生きているのである。そして、深層心理が、常に、自我を主体にして、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。だから、人間は、自ら意識して考えて、自らの意志によって行動していないのである。人間の意識した精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は、表層心理で、自らを意識して思考して、自らの意志によって行動していないのである。なぜならば、行動に常に感情が伴うが、人間は表層心理では感情を生み出せないからである。確かに、人間は、時には、表層心理で思考することもあるが、常に、深層心理が生み出した自我の欲望の中で行われるのである。人間は、表層心理で、常に、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について審議するのである。人間は、表層心理で思考して傷心を生み出していないから、表層心理の意志では傷心を消すことができないのである。深層心理が生み出した傷心に悩まされ、その対処に追われるしかないのである。それでは、どのような時に、深層心理が傷付くのか。それは、欲動が阻害された時である。深層心理は常に自我を主体にして欲動によって快楽を求めて思考しているから、欲動が阻害されると、深層院理が傷付くのである。すなわち、心が傷付くのである。それでは、欲動と何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動の四つの欲望とは、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲である。欲動の第一の欲望である保身欲は自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第二の欲望である承認欲は自我が他者に認められたいという欲望であるが、深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第三の欲望である支配欲は自らの志向性で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望であるが、深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第四の欲望である共感欲は自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理は、自我が欲動にかなうような行動をすれば快楽が得られるので、欲動に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を思考して生み出し、自我となっている人間を動かそうとするのである。つまり、欲動が深層心理が動かし、深層心理が人間を動かしているのである。人間は常に構造体に属して自我を所有して生きているが、深層心理は常に欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。自我の欲望は、深層心理が、自我となった人間を動かすために思考して生み出した感情と行動の指令とが一体化したものであるが、感情が動力になり、行動の指令通りに、自我となった人間を動かしているのである。だから、深層心理は欲動に動かされ、人間は深層心理に動かされているのである。欲動が、深層心理に感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出させ、人間を行動へと駆り立てるのである。欲動が、深層心理を内部から突き動かして、思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させているのである。深層心理は、常に、自我を主体にして、欲動の四つの欲望の保身欲、承認欲、支配欲、共感欲に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我となった人間を動かしているから、欲動の四つの欲望のいずれが阻害されると、自我が傷つけられ、深層心理は傷付き、苦悩するのである。すなわち、人間が心を傷つけられ、苦悩するのである。先の例でいえば、家族という構造体で、父は小学生の子にゲームに負けたので、支配欲が阻害され、心が傷付いたのである。また、子に「下手だなあ」と言われ、その子だけでなく妻にも実力を認めてもらえず、承認欲が阻害されたので、心が傷付いたのである。また、高校という構造体で、高校生が校長から退学を言い渡されて心が傷付くのは、保身欲、承認欲が阻害されたからである。彼は、高校という構造体で、高校生という自我を保身しようとしていたが、それを失ったから、保身欲が阻害され、心が傷付いたのである。また、彼は、校長から退学を言い渡されて、周囲の人たちから認めてもらえないと思ったから、承認欲が阻害され、心が傷付いたのである。また、カップルという構造体で、男性が女性から別れを切り出されて心が傷付くのは、保身欲、承認欲、共感欲が阻害されたからである。彼は、カップルという構造体で、恋人という自我を保身しようとしていたが、それを失ったから、保身欲が阻害され、心が傷付いたのである。また、彼は、別れを切り出されて、彼女からも周囲の人たちからも恋人として相応しい人間だと認めてもらえないと思ったから、承認欲が阻害され、心が傷付いたのである。さらに、彼は、別れを切り出されて、彼女と愛し合うという承認欲が阻害され、心が傷付いたのである。これからもわかるように、日常生活において、欲動の四つの欲望のうち、最も多く阻害されるのは承認欲である。それは、また、人間は、日常生活において、常に、他者から評価を受けようと、自らを対他化して捉えているということを意味しているのである。人間は、毎日のように、家族という構造体から出て、学校や職場などの構造体へ行くが、そこでは、必ず、注意されたり、侮辱されたり、陰口を叩かれたり、時には、殴られたりする人がいる。そのような時、児童、生徒、学生、会社員、店員、工員などの自我を持った者は、心がが傷付く。自我が下位に落とされ、プライドが傷付けられたからである。すなわち、承認欲が阻害されたからである。深層心理は、自我を主体にして、他者に認められて承認欲を満たそうと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我となった人間を動かそうとしているが、それが、認められるどころか、貶され、プライドがずたずたにされたから、深層心理が傷付いたのである。その時、深層心理は、傷付いた心を一挙に回復させようとして、怒りの感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我となった人間を動かそうとする。つまり、深層心理は、傷心から立ち上がろうとして、怒るのである。怒りは、心が傷付いたから、深層心理は、その代償を相手に求め、相手の心を傷付けて、自我の心を癒やそうとするのである。言わば、相手によって自我が下位に落とされたから、相手を下位に落とし、自我を上位に立たせようとするのである。深層心理は、時には、怒りの感情とともに過激な行動の指令を自我の欲望として生み出し、自我となっている人間を動かし、相手を下位に落とし、自我を上位に立たせようとする。例えば、高校という構造体で、生徒が同級生に侮辱されたり、会社で社員が上司に激しく叱責されたりする。その時、生徒、社員の深層心理は、怒りの感情と同級生、上司を殴れという行動の指令を生み出し、生徒、社員を動かそうとする。しかし、そのような時は、無意識のうちに、超自我が、殴れという行動の指令を抑圧しようとする。超自我とは、深層心理に内在し、欲動の保身欲から発したルーティーンの生活を守ろうとする機能である。もしも、超自我が抑圧できなかったならば、生徒、社員は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、同級生、上司を殴ったならば、後に、自我がどうなるか、同級生、上司に復讐されるのではないか、高校をやめさせられるのではないか会社を首になるのではないかと、将来のことを考え、深層心理が生み出した殴れというの行動の指令を、意志によって抑圧しようと考えるのである。生徒、社員が、表層心理で、道徳観や社会規約を考慮して思考するのも、長期的な展望に立って、自我に現実的な利得をもたらそうと考えているからである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我による抑圧も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、同級生、上司を殴ってしまい、悲劇を生むのである。それが、感情的な行動の顚末である。また、たとえ、生徒、社員が、表層心理の意志で、深層心理が生み出した殴れという行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した苦痛という心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩するのである。これは、深層心理の思考が表層心理での思考の上位にあることの悲劇である。もしも、表層心理での思考が深層心理の思考よりも上位にあれば、表層心理の意志で深層心理が生み出した行動の指令を容易に抑圧できるのである。そうであれば、人間は主体的に思考して行動していると言うことができ、理性的な動物であると言えるのである。しかし、怒りの感情が強い場合、表層心理の意志は行動の指令を抑圧できないのである。だから、人間は、主体的な存在でも理性的な動物でもないのである。それ故に、怒りの感情に振り回されて、人間は、過ちを犯し続けているのである。その典型が、殺人、戦争である。さて、多くの人は、誤解していることがある。感情の起伏が激しくいきなり殴り掛かるなどの乱暴を働く人を心が強い人だと思っている。そうではなく、乱暴な人ほど心が傷付きやすく、深層心理がその傷付いた心を早く回復させるために乱暴を働かせたのである。しかし、傷付きやすい心を持っている、傷付きにくい心を持っているかは、先天的で、本人にはどうしようもできず、一生変わることはないのである。なぜならば、心とは、深層心理であり、表層心理の意志では、どうすることもできない範疇にあるからである。深層心理の敏感、鈍感は、人間は、意志によっては、どうすることもできないのである。なぜならば、深層心理とは、人間の無意識の心の働きだからである。しかし、多くの人は、表層心理での思考しか存在しないと思っているから、傷付きやすい自分の心を嘆き、傷付いた心からなかなか立ち直れない自分の意志の弱さを嘆き、傷付くことによって起こした犯罪を意志で止められなかったことを嘆くのである。しかし、人間の心の心の中で、最初に動き出すのは、深層心理である。人間の無意識の中で、深層心理が思考するのである。最初に、深層心理という、本人の無意識の心が、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。その感情の中に、心が傷付くという現象すなわち傷心という感情も含まれているのである。しかし、深層心理は、傷付いても、怒りという感情を起こさず、哀しみという感情を起こして、現況をあきらめて、これ以上、傷付かないようにすることがある。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は欲動の承認欲によって、同級生・教師や同僚や上司という他者から好評価・高評価を得たいと思っている。しかし、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なる。その時、深層心理は、怒りでなく、哀しみという感情と不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出すことがある。その時は、まず、ルーティーン通りの生活を行おうとする深層心理内にある超自我という機能が、不登校・不出勤という行動の指令を抑圧しようとする。しかし、哀しみという感情が強すぎると抑圧できないのである。そこで、今度は、人間は、表層心理で、それを受けて、哀しみという感情の下で、自我に現実的な利得をもたらそうという志向性で思考し、意志によって、不登校・不出勤という行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようと考える。言うまでもなく、不登校・不出勤という行動を取れば、後に、自我が現実的な不利益を被るからである。しかし、深層心理が生み出した哀しみの感情が強ければ、深層心理が生み出した不登校・不出勤という行動を取ってしまうのである。そして、後に、悔やむのである。しかし、表層心理で、意志によって、登校・出勤できたとしても、学校や会社の状況が変わらない限り、同級生・教師や同僚や上司という他者から好評価・高評価を得ることはできず、哀しみの感情が続くのである。そして、早晩、再び、深層心理は不登校・不出勤という行動の指令を生み出すのである。そして、また、人間は、表層心理で、哀しみの感情から逃れるために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開し、不登校・不出勤を指示する深層心理を説得しようとするのだが、たいていの場合、それが上手く行かずに、苦悩に陥るのである。そして、精神疾患に陥る者も現れるのである。行動を起こして、学校や会社の状況が変え、同級生・教師や同僚や上司という他者から好評価・高評価を得ない限り、哀しみの感情が続くのである。つまり、深層心理が、傷付いて、怒りという感情を起こさず、哀しみという感情を起こして、現況をあきらめて、これ以上、傷付かないことを選んだ人間は、表層心理で、深層心理に追随しない限り、この運命から逃れることができないのである。すなわち、表層心理でも、不登校・不出勤を認めない限り、哀しみの感情は続くのである。さて、先に述べたように、人間の深層心理の感度、すなわち、人間の性格は、生まれつきのもので、一生、変わることはない。だから、自分の性格を見ないようにしたり、ただ嘆いたりするのではなく、自分の性格を知ることによって、自分の深層心理の感度を知ることが大切なのである。深層心理の敏感な人は、心が傷付けられ、心のバランスを失いそうな場所には近寄らないことが大切である。また、深層心理の敏感な人は、他者から悪評価・低評価を受け続けている環境にいるならば、即刻、環境を換えることである。確かに、人間は、ある程度は、表層心理で、逆境に堪えることができる。しかし、深層心理の敏感な人の感情の揺れは、揺さぶり続けられたならば、精神疾患に陥らなければ堪えられないほど、高まるからである。日本は、これまで、「克己」、「根性」、「大和魂」、「逃げるのは卑怯者のすることである」、「逃げるのは恥ずべき行為だ」などの言葉で、国民を我慢させて、そこに居続け、今までと同じことを繰り返すことを強要してきた。それは、政治権力者、資本家、教師などの上に立つ者が、大衆、労働者、生徒を、自らの意図の下に支配したいという、他者を対自化しようという意図の下で行ってきたのである。しかも、彼らの魂胆によって、それらが美徳として誤って解釈されてきたのである。しかし、「君子危うきに近寄らず」である。環境を換えること、逃げることは、決して、卑怯者のすることでも恥ずべき行為でもない。最も良いのは、深層心理の仕組みを知り、他者の評価に囚われないことである。表層心理で、「たかが他者の思いではないか」と思い続けるべきである。表層心理で、「人生はゲームのようなものだ」と考え続けるべきなのである。それを繰り返して、深奥心理に影響を与えることが大切なのである。そうすれば、次第に、深層心理の縛りが弱くなり、表層心理の思考の力を発揮できるようになるのである。どのような競技でもそうであるが、最初、意識して技を行うが、繰り返せば、無意識のうちにその技が出るようになるのである。決して、欲動の承認欲から来る、深層心理の自我の対他化に、全面的に身を委ねてはいけないのである。


偽善者で良いではないか。(人間の心理構造その11)

2023-02-18 07:03:47 | 思想
自分は一人ではない。しかし、ここでは、巷で言われるような人間は常に誰かに支えられて生きているという人情的な意味で使っていない。文字通り、自分の奥底にもう一人の自分が存在するということを言っているのである。人間は、もう一人の自分に動かされ、自分のの意志に関係なく、生きているのである。だから、時には、人を殺し、戦争を起こすのである。もう一人の自分とは、深層心理と深層肉体である。深層心理とは、人間の無意識の精神の活動である。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。たとえば、ダイエットをしている女性が無意識のうちにケーキを食べていたというふうに使われる。しかし、彼女は気付いていなかったかもしれないが、深層心理が欲望を生み出してケーキを食べるように仕向けたのである。深層肉体とは、人間の無意識の肉体の活動である。胃や心臓などの内臓の動き、プロスポーツ選手の試合の時の動きなどは、無意識のうちに、深層肉体が動いているのである。人間は、もう一人の自分である深層心理と深層肉体に動かされて生きているのである。しかし、ほとんどの人は、自分で考えて自分で体を動かして生きていると思っている。確かに、そのような自分も存在する。それは、表層心理と表層肉体によって動く自分である。表層心理とは、人間の自らを意識しての精神の活動である。会社員が社内の自らの評価の低さに思い悩み、会社を辞めるかとどまるか迷っている時、それは、表層心理で思考されているのである。表層肉体とは、人間の表層心理で自らを意識しての思考による肉体の活動である。生徒が授業中挙手して答える、体育の時間教師に促されて深呼吸するのは、表層肉体の動きである。しかし、人間は、表層心理で自らを意識して思考し肉体を動かす以前に、無意識のうちに、深層心理が思考し、深層肉体が動いているのである。深層心理は自我を主体に思考して自我の欲望を生み出して人間を動かし、深層肉体は人間の命を守るために動いているのである。確かに、日常生活において、人間は表層心理での思考や表層肉体の動きがある。しかし、これらは、人間の活動の一部にしか過ぎないのである。まず、深層肉体であるが、深層肉体は、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという意志を持って、人間を生かそうとする。深層肉体は、精神や肉体がどんな状態に陥ろうと、ひたすら人間を生かせようとする。深層肉体は、独自の意志によって、肉体を動かし、人間を生かしている。人間は、深層肉体の意志という肉体そのものに存在する意志によって生かされているのである。人間は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の意志によって生かされているのである。深層肉体の典型は内蔵である。人間は、誰一人として、自分の意志で、肺や心臓や胃などの内蔵の動きを止めることはできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この大切な呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。人間の無意識のうちに、深層肉体の肺が呼吸をしているのである。テレビの学園ドラマで、授業中、教師に、「おまえは何をしているのだ。」と注意された生徒が、とぼけて、「息をしています。」と答えるシーンがあったが、その生徒は間違っている。誰も、意識して息をしていない。人間が意識して息をしているのならば、寝入ると同時に、息が止まるはずである。確かに、深呼吸という表層心理の意志による表層肉体行為も存在するが、それは、一時的な行為でしかなく、常時の呼吸は無意識の行為、すなわち、深層肉体の行為である。呼吸は、誕生とともに、深層肉体に備わっているから、人間は、生きていけるのである。心臓も、人間の意志で動いているのではない。だから、止めようと思っても、止めることはできないのである。心筋梗塞のような異常な事態に陥ったり、自らや他者が人為的にナイフを突き立てたりなどしない限り、止まらないのである。さらに、胃も、人間の意志によって動いていない。心臓や肺と同じく、誕生と同時に、深層肉体の意志として、既に動いているのである。誰が、意識して、胃液を出すことができるだろうか。深層肉体には自殺の意志はない。人間が自殺に突き進んでも、深層肉体は、人間を生かせようとする意志を捨てることは無い。だから、どのような自殺行為にも、苦痛が伴うのである。つまり、人間の肉体は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体独自の意志によって生かされているのである。次に、深層心理は自我を主体に思考して自我の欲望を生み出して人間を動かしているが、自我とは何か。自我とは、人間が、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。だから、人間が言う自分とは自我を意味するのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、構造体の中で自我を得て、初めて、人間として活動できるのである。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、夫婦という構造体には夫・妻という自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があり、男女関係という構造体には男性・女性という自我がある。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしているのである。すなわち、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、自分として生きているようにおもっているが、その自分とは、構造体の中の自我なのである。しかも、人間は、自我として意志を持って生きているのではなく、深層心理が、人間の無意識のうちに、ある心情の下で、ある自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている」と言う。ラカンの言う無意識とは、無意識の思考であり、深層心理の思考を意味する。「言語によって構造化されている」とは、深層心理が言語を使って論理的に思考していることを意味し、決して、恣意的に思考しているのではないことを意味しているのである。深層心理は、常に、人間の無意識のうちに、ある心境の下で、ある構造体の中である自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。深層心理が思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動の意味、行動の目的になるのである。さて、深層心理が、常に、心境の下で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているが、それでは、心境、感情とは何か。心境も感情も、深層心理の情態である。深層心理は、常に、心境の下にある。心境は、気分とも表現され、爽快、陰鬱など、比較的に長期に持続する情態である。感情は、深層心理が行動の指令とともに生み出して自我の欲望を形成し、人間を行動の指令通りに動かす力になっている。感情には、喜怒哀楽などがあり、人間には瞬間的に湧き上がる情態として感じられる。心境と感情は並び立たず、。感情が湧き上がっている時は、心境は消えている。心境は、爽快という情態にある時は、現状に充実感を抱いているという状態を意味し、深層心理は新しく自我の欲望を生み出さず、自我に、ルーティーンの行動を維持させるようにする。心境は、陰鬱という情態にある時は、現状に不満を抱き続けているという状態を意味し、深層心理は現状を改革するために、どのような自我の欲望を生み出せば良いかと思考し続ける。しかし、自我が異常な状況に陥っていない限り、深層心理が強い感情と現状を変革するような行動の指定という自我の欲望は生み出さないので、不満があっても、たいていの人はルーティーンの生活を続けていく。心境は、深層心理を覆っていて、深層心理も表層心理も触れることも変えることもできないが、感情は、深層心理が行動の指令とともに生み出している。深層心理が喜びという感情を生み出した時は、現状に大いに満足しているということであり、深層心理が喜びという感情とともに生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が怒りという感情を生み出した時は、現状に大いに不満を抱いているということであり、深層心理が怒りという感情とともに生み出した行動の指令は、現状を改革・破壊しようとするものになる。深層心理が哀しみという感情を生み出した時は、現状に不満を抱いているがどうしようもないと諦めているということであり、深層心理が哀しみという感情ととみに生み出した行動の指令は、現状には触れないものになっている。深層心理が楽しみという感情を生み出した時は、将来に希望を抱いているということであり、深層心理が楽しみという感情とともに生み出した行動の指令は、将来に向かって現状を維持しようとするものになる。深層心理が、常に、心境や感情という情態が存在しているからこそ、人間は、表層心理で、自分の存在を意識する時は、常に、ある心境やある感情という情態にある自分としても意識するのである。人間にとって、心境や感情という情態こそ自らが存在していることの証になっているのである。心境は深層心理に内在し、深層心理が感情を生み出しているから、人間は、表層心理で、感情を変えることができないように、心境も変えることはできないのである。しかし、心境が変わることもある。その原因として、四つのことが考えられる。第一の原因は、他力である。他者や他人が自我の状況が変えたことである。他者は構造体内の人々であり、他人は構造体外の人々である。だから、自我が自ら状況を変えたのではなく、他者や他人によって力ずくで状況を変えられたから、それに応じて心境が変化したのである。第二の原因は、自我の欲望である。深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した時、深層心理は、感情に引きずられ、心境は消滅する。そして、その後、感情が収まると、心境は回復するが、その時、心境は、変化しているのである。第三の原因は。心境それ自身の変化である。心境が自らの心境に飽きた時に、心境が、自然と、変化するのである。気分転換が上手だと言われる人は、表層心理で、意志によって、気分を、すなわち、心境を変えたのではなく、その人の心境がが自らの心境に飽きやすく、心境が、自然と、変化したのである。第四の原因は、気分転換である。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換をして、心境を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができから、何かをすることによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。人間は、表層心理で、心境に直接働きかけることはできず、そのようなことをすることによってしか、心境を変えることができないのである。だから、自分なりに、心境を変える方法を見つけ出さなければならないのである。それほどまでに、心境は人間のあり方に影響を与えているのである。苦悩という心境に陥ると、自殺すら厭わなくなる人が出るほどである。だから、オーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタインは「苦しんでいる人間は、苦しみが消えれば、それで良い。苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しみが消えたということが、問題が解決されたということを意味するのである。」と言うのである。人間は、苦しいから、その苦しみの心境から逃れるために、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、それを除去する方法を考えるのである。それが、人類の発展に寄与してきたことも事実である。しかし、苦しみの心境から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。苦しみの心境が消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。たとえ、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ上げ、それを問題化して、解決する途上であっても、苦しみの心境が消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。つまり、苦痛が存在しているか否かが問題が存在しているか否かを示しているのである。苦痛があるから、人間は考えるのである。苦痛が無いのに、誰が、考えるだろうか。人間が苦痛がないのに考えているといるとすれば、それは、考えるという行為ではなく、思うという行為である。それでは、なぜ、人間は苦しみの下で考えなければならないのか。それは、苦しみをもたらしたのは深層心理であり、その苦しみから逃れようと思考しているのは表層心理だからである。人間は、誰しも、苦しみを好まない。だから、人間は、誰しも、表層心理で、意識して、自らに苦しみを自らにもたらすことは無い。苦しみを自らにもたらしたのは、深層心理である。深層心理が、思考しても、乗り越えられない問題があるから、苦痛を生み出したのである。人間は、その苦しみから解放されるために、表層心理で、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、解決の方法を思考するのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした苦痛から解放されるために、表層心理で、思考するのである。だから、苦痛という心境が消滅すれば、思考も停止するのである。さて、深層心理は欲動に基づいて快楽を求めて思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し人間を動かしているが、快楽を求めるとはどのような欲望であり、欲動とは何か。快楽を求める欲望とは、その時その場でひたすら快楽を求め、不快を避けようとする欲望である。スイスで活躍した心理学者のフロイトは、それを、快感原則と呼んだ。深層心理は、欲動に基づいて、その時その場でひたすら快楽を求め不快を避けようと思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理は、欲動に呼応した自我の状況をもたらせば快楽を得ることができるので、欲動に基づいて思考して自我の欲望を生み出すのである。それでは、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなえば、快楽を得られるから、欲動に基づいた行動の指令を生み出し、感情によって、自我である人間を動かそうとするのである。つまり、欲動が、深層心理を動かし、自我である人間を動かしているのである。欲動には、道徳観や社会規約を守るという欲望自体は存在しない。しかし、道徳観や社会規約に則った行動をすれば他者から評価され承認欲が満たされ、快楽得られので、時には、深層心理は、道徳観や社会規約を手段として、ひたすらその場での瞬間的な快楽を得ることを目的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとすることがあるのである。しかし、そもそも、欲動に道徳観や社会規約を守るという欲望は存在しないから、深層心理は、往々にして、道徳観や社会規約を無視して、社会生活を営む上で不都合を生じる虞がある自我の欲望を生み出して人間を動かそうとするのである。しかし、そのような時、ルーティーンの生活を守ろうとする超自我という機能が深層心理に存在するし、それを抑圧しようとするのである。超自我が抑圧できなければ、人間が、表層心理で、自我に現実的な利益をもたらそうと、道徳観や社会規約に基づいて思考し、それを抑圧しようとするのである。なぜならば、道徳観や社会規約を守らなければ、周囲や社会から顰蹙を買ったり罰せられたりして、自我に現実的な不利益をもたらすからである。しかし、深層心理が生み出した感情が強すぎる場合、超自我の機能や表層心理の思考による抑圧は功を奏さず、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動してしまうのである。そして、惨劇、悲劇が起こるのである。さて、欲動には四つの欲望があると言ったが、の第一の欲望は、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。人間が、結婚を祝福するのは、二人が夫婦という構造体を形成し、夫・妻という自我を確保したからである。高校生が退学を恐れるのは、高校という構造体から追放され、生徒という自我を失うからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、自我は構造体が存在している時だけ存在するからである。だから、世界中の人々が自国に愛国心を抱いているのである。人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるから、保身欲があるのである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。また、自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、構造体の存続を自我の存続のように喜び、構造体の発展を自我の発展のように喜ぶのである。だから、高校サッカーや高校野球で、郷土チームを応援するのである。それは、一般に、郷土愛と言われているが、単なる自我愛である。また、オリンピックやワールドカップで自国選手や自国チームを応援するのも愛国心からだが、それも、単なる自我愛である。愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、それが発揮されるのは感情と行動の指令という自我の欲望だからである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。深層心理は、自我が他者に認められると、喜び・満足感という快楽を得られるのである。だから、人間は、誰しも、他者から認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、生きているのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉は、自我が他者に認められたいという承認欲を端的に言い表している。受験生が他者から認められようとして有名大学を目指し、少女が大衆から脚光を浴びたいからアイドルを目指すのである。日常生活においても、人間、誰しも、構造体の中で、他者から認められよう、非難を受けないようにしようと行動しているのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。だから、人間の苦悩のほとんどの原因が、他者から悪評価・低評価を受けたことである。そのために、深層心理は、時には、自らを鬱病などの精神疾患に陥らせて、時には、自我に自殺を強いて、苦悩から逃れようとするのである。深層心理が、この苦悩から脱出するために、自らを、精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにし、自我を自殺に追い立て、現実そのものを失わせようとするのである。欲動の第三の欲望が、他者・物・現象などの対象を支配したいという支配欲である。深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。対象の支配は、深層心理が自らの志向性で他者・物・現象を捉えることから始まり、自我の下に置くことで完成するのである。志向性とは対象を捉える方向性である。他者という対象に対する支配とは、文字どおり、自我が他者を支配すること、構造体のリーダーとなることである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、構造体のリーダーとなることができれば、深層心理は喜び・満足感という快楽が得られるのである。すなわち、人間が喜び・満足感という快楽が得るのである。教師が校長になろうとするのは、深層心理に、学校という構造体の中で、校長という自我で、教師・教頭・生徒という他者を支配したいという欲望があるからである。自我の思い通りに学校という構造体を運営できれば充実感が得られるからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理に、社長という自我で、会社という構造体の中で、会社員という他者を支配したいという欲望があるからである。自我の思い通りに会社を運営できれば充実感が得られるからである。さらに、わがままも、他者を支配したいという欲望から起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。人間、誰しも、自我のわがままを通したいが、そうすると、他者から非難されるので遠慮しているのである。次に、物に対する支配欲であるがが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用し、物を支配するという快楽を得るのである。最後に、現象という対象に対する支配欲であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば満足感・充実感という快楽を得るのである。さらに、支配欲が高まると、深層心理には、有の無化と無の有化という機能が生まれるのである。有の無化とは、人間は、自我を苦しめる他者・物・現象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。借金をしている者の中には、返済するのが嫌だから、深層心理が、借金していることを忘れてしまうのである。次に、無の有化という機能であるが、それは、人間は、自我の志向性に合った、他者・物・現象が実際には存在しなくても、深層心理が、この世に存在しているように思い込むのである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、深層心理が、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめ自殺事件があると、いじめた子の親たちは親という自我を傷付けられるのが辛いから、自殺の原因はいじめられて自殺した家族にあるとするのである。有の無化、無の有化、いずれも、深層心理が自我を正当化して心に安定感を得ようとするために行うのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲であるが、それは、深層心理が、自我と他者が理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることで、喜び・満足感・充実感という快楽得ようとするのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に支配されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができ、恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えない。深層心理は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。もちろん、人間は、表層心理でストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した屈辱感が強過ぎる者は、表層心理では、深層心理が生み出したストーカー行為の指令を止めることができないのである。また、友人を作ろうとするのは、共感欲を満足させ、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするためである。中学生や高校生が、仲間という集団でいじめや万引きをすることがある。積極的にいじめや万引きに参加している者は、仲間という構造体で友人という共感欲に満足しているのである。渋々にいじめや万引きに参加している者は、仲間という構造体から追い出され友人という自我を恐れて加わっているのである。さらに、「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感欲から来ている。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会という行事でクラスが一つになるというのは、「呉越同舟」の現象である。他クラスという共通の敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。日本がアメリカに隷属しているのも、「呉越同舟」の現象であり、中国・ロシア・北朝鮮という共通の敵国が存在するからである。さらに、自民党が、それを利用して、国民を右傾化に導き、それが成功し、支持を集めているのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から来ているのである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で自らを意識して思考することなく、深層心理が生み出した自我の欲望のままに、無意識のままに行動しているから可能なのである。逆に、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていない証である。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。しかし、日常生活において、異常なことが起こることもある。それは、ほとんどの場合、侮辱などをされ、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという承認欲が傷付けられた時である。そのような時、深層心理が怒りの感情と侮辱した相手を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間に、相手を殴ることを促すことがある。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、それが働き、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとするのである。超自我は、深層心理に内在する欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から来ている機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する審議は、表層心理に移されるのである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、思考するのである。人間は、表層心理で、自らを意識して、深層心理が生み出した感情の下で、現実的な利得を求めて、道徳観や社会的規約を考慮し、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。現実的な利得を求める欲望は、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望であり、フロイトは現実原則と呼んだ。人間は、表層心理で、自らを意識して、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、自我に利益をもたらし、不利益を被らないないようにしようという現実原則の視点で、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に思考するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を殴ったならば、後に、自我に不利益がもたらされるということを、他者の評価を気にして、将来のことを考えて、結論し、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。しかし、人間は、深層心理が過激な感情と過激な行動を生み出し、超自我がそれを抑圧できなかった時だけでなく、平穏な日常生活を送っている時にも、自らを意識し、表層心理で思考する時がある。人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時に、自らの存在を意識する。人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自らの行動や思考を意識することである。そして、自らの存在を意識すると同時に、思考が始まるのである。それが、表層心理での現実原則に基づいた思考である。それでは、なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識し、自らの行動や思考を意識するのか。それも、また、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。さらに、無我夢中で行動していて、突然、自らの存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識することがあるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じた時、表層心理で、自らの存在を意識して、現実原則の視点から、思考するのである。ニーチェは「意志は意志できない」と言う。同じように、人間は、思考も意志できないのである。深層心理の思考が人間の意志によって行われないように、表層心理の思考も人間の意志によって始まらないのである。人間が自らの存在を意識すると同時に、表層心理での思考が始まるのである。それは、深層心理が過激な感情と過激な行動という自我の欲望を生み出し、超自我がそれを抑圧できなかった時だけでなく、深層心理が生み出した自我の欲望に関与せず、平穏な日常生活の中で、自らの存在が意識された時にも、表層心理で現実的な利得を求めて、道徳観、社会規約などを考慮して、他者の思惑をを気にして、現在の自らの行動を反省し、行動を中止することがある。確かに、表層心理での思考は本心ではない。本心は深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望である。しかし、深層心理は、自我を主体にして、ひたすら自我に快楽をもたらすように思考して自我の欲望を生み出すから、行動の指令の中には悪事も入り込んでいるのである。人間が、深層心理が思考して生み出した行動の指令の悪事をそのまま実行すれば、他者に悲惨劇をもたらし自我に悲劇をもたらすのは必然である。だから、本心は深層心理の思考だとしても、従ってはならないのである。ところが、この世に、偽善者という言葉がある。決まって、他者を非難する時に使用する。本心ではなく見せかけで善事を行っていると言うのである。しかし、偽善者で良いではないか。本心が悪事を行う気持ちならば、みせかけでも善事をおこなえば良いではないか。他者に喜ばれ、自我も承認欲が満たされるのだから、誰も困らない。確かに、欲動の共感欲から発しているならば、深層心理が生み出した行動の指令は本心である。共感欲から発した行為は、基本的に、他者にとって善事をもたらす。他者に愛情を持ち、喜ばれようと思ってするからである。しかし、人間は、誰に対しても愛情を持てるわけではない。嫌いな人間も存在する。そのような人たちは共感欲を阻害するから、深層心理は、時には、そのような人たちに対して悪事を働くことを行動の指令として生み出す。この場合、悪事を働くことが本心である。だから、偽善者と言われようと、みせかけでも善事をおこなえば良いのである。さて、「子供は正直だ」という言葉がある。大人は嘘を言ったり偽りの行動をしたりすることがあるから信用できないが、子供は正直だから信用できるという意味である。もちろん、子供の言動や行動を褒めた言葉である。しかし、子供が正直であるのは、ただ単に、子供は社会性が乏しく、表層心理の抑制や反省の成長が十分ではないので、深層心理の行動の指令ままに言動したり行動したりしていることを意味するのである。だから、時として、子供は、大人以上に残酷なことをするのである。その最たるものが、いじめである。大人の世界にもいじめは存在するが、子供の比ではない。残酷ないじめ自殺事件は、自分の心に正直に言動したり行動したりした時に、つまり、表層心理の抑えが無く、深層心理の生み出した行動の指令のままに言動したり行動したり時に、起こるのである。だから、正直であることを簡単に評価すべきではないのである。正直であるとは、深層心理が自我に執着し欲動に基づいて思考して生み出した行動の指令のままに言ったり行ったりすることだからである。だから、偽善者であって良いのである。正直に言動せず行動しない、すなわち、本心で言動せず行動しない方が良いのである。






日本は若者から壊れ始めている。(提言その8)

2023-02-10 21:11:24 | 思想
現代は閉塞した歪んだ時代である。国民が国民を襲うことによって、快楽を得ようとし、物品を奪おうとし、時には、命まで奪う。闇バイトに応募しての強盗事件(強盗殺人事件)、回転寿司店、うどん店、カレー店、牛丼屋の経営を揺るがすほどの不愉快ないたずら、カラオケ店で火事を誘発する可能性のあるいたずらなど,若者を中心に、安易に現金を求めようとしたり憂さを晴らそうとしたりしている。なぜ、このようなことをするのか。それは、多くの者が現代に絶望し、将来が思い描けないからである。就職しようとしても、低賃金の非正規雇用がほとんどである。老人のほとんどが定額の年金生活であえいでいる。若者に至っては、定額を支払っても、将来、生活できる年金が与えられないだろう。政治が貧困なのである。誰がこんな日本を作ったのか。自民党・公明党政権である。「衣食足りて礼節を知る」と言う。生活が安定しなければ心も安定しないのである。しかし、自民党議員は、自助努力、自己責任を謳い、国民の貧困の責任を国民に押し付けてきたのである。そして、自民党・公明党政権は生活を保証する国を作ってこなかったのである。小泉純一郎元首相が竹中平蔵氏を使って、多様な働き方を題目に構造改革を行い、非正規労働者を大量に誕生させ、労働組合が作れない会社や店にしたのである。自民党・公明党政権が企業側に有利な政策を行使するのは、政治献金をもらい、選挙に協力してもらうためである。戦う労働組合が無ければ、給料が上がらないのは当然のことである。労働組合として残存しているのは、企業と癒着した連合などに加盟している有名無実の労働組合である。連合の考えは経営者と同じだから、国民が期待しても必ず裏切られるのである。しかし、日本がこのような悲惨な状況に陥ったことに、国民に全く罪が無いか。それが、大いにあるのである。確かに、日本のこのような悲惨な状況を作り出したのは自民党・公明党政権だが、その自民党・公明党政権の後押ししたのが国民だからである。ニーチェは「大衆は馬鹿だ」と言った。誰がニーチェに反論できるだろうか。小泉純一郎元首相が、竹中平蔵氏を使って、多様な働き方を題目に構造改革を行い、非正規労働者を大量に誕生させ、労働組合が作れない会社や店にしても、国民は小泉純一郎元首相を支持したのである。安倍晋三元首相が、集団的自衛権を強行採決で通してアメリカに明確に日本を売り、桜を見る会、森友学園、加計学園で私利私欲に徹しても、庶民は安倍晋三元首相を国民したのである。自民党の国会議員や地方議員の多くが、長年、自らの政治理念が韓国発祥の統一教会と一致しているため、統一協会が日本で暗躍できるように積極的に動き、統一教会が求める政策で日本の政治が動くように暗躍し、その見返りに、統一教会に選挙協力してもらうために、日本と日本人を売ってきたのに、国民は今も自民党を支持しているのである。「野党がだらしないから国民の支持が得られないのだ」とよく言われる。しかし、そうではない。真実は「国民がだらしないから野党を支持しないのだ」。庶民には、どの政党が自らに幸福をもたらすのか気が付いていないのである。日本の悲惨な現況は、国民が自民党・公明党政権を支持してきたことがもたらしたものである。自業自得である。岸田文雄現首相は、増税をして軍備を増強しようとしている。国民はますます貧しく、ますます不安になることになる。岸田文雄現首相は、国民に知らせ、国会に諮る以前に、アメリカに行って、バイデン大統領に、自衛隊員をアメリカ軍に差し出し、アメリカの兵器を大量に買うことを約束している。ふざけた話だが、国民が自民党・公明党の絶対多数政権を作り出したから、岸田文雄現首相は、閣議決定だけで、好き放題にできるのである。早晩、徴兵制が敷かれ 戦争への道が開かれるだろう。平和ボケから戦争慣れの国になるのである。しかし、それでも、国民は、自民党・公明党政権を支持するだろう。なぜならば、異常に、中国、ロシア、韓国、北朝鮮を憎んでいるからである。それは、中国とは尖閣諸島の帰属問題、ロシアとは北方領土の帰属問題、韓国とは竹島の帰属問題、北朝鮮とは拉致問題でもめているからである。この四か国と対抗するには、自民党・公明党政権が必要なのである。特に、自民党は、国民の愛国心に訴えて、日本の正当性に主張し、これらの問題を長引かせつつ、自党を支持するように誘導しているのである。まんまとそれが成功し、国民は、自民党に賛同し、北方領土、尖閣諸島、竹島を自国の領土だとし、拉致された日本人を返してもらえと、自民党の後押ししているのである。しかし、当然のごとく、中国、ロシア、韓国、北朝鮮の国民にも、愛国心があり、自国の正当性を主張して、一歩も引かず、収拾のつかない状況に陥っているのである。問題が長引けば長引くほど、各国の右派勢力は国民から後押しを受け支持されるのである。しかし、愛国心は国を愛する心というように美しく見えるが、実際は、国民という自我から来る保身欲、承認欲、支配欲という欲望なのである。自我の欲望だから、それが動かす力が強いのである。そこで、国民に、右翼的主張をする者、保守派が多くなり、それが自民党を支持し、自民党・公明党政権を支持しているのである。言うまでもなく、国には、右翼的主張をする者があれば左翼的主張をする者があり、保守派がいれば革新派がいる。日本もその例外ではない。しかし、日本では、現在、国民に、右翼的主張をする者、保守派が鳴りを潜め、立憲民主党、共産党、社会民主党の支持が伸び悩み、政治家の数も少ない。しかし、それは、ここ最近のことではない。50年以上にわたって続いているのである。それは、なぜか。左翼、革新の夢が破れたからである。左翼の革新運動は、60年安保闘争、70年安保闘争で挫折した挙句、連合赤軍の同志内のリンチ殺人事件、革マル派と中核派の内ゲバ殺人事件が起こったので、反体制運動が終息したのである。暗殺、リンチ殺人、人内ゲバ殺人は、戦前から、国家主義者、やくざ、体育会家の大学のクラブなど、右翼が行うことであったが、それを左翼が行ったので夢破れたのである。そこに、自民党が、国民の愛国心を利用して、中国、ロシア、韓国、北朝鮮を敵視することによって、党勢を拡大したのである。そして、公明党が、寄らば大樹の陰の論理で、自民党に野合し、自民党・公明党政権を作ったのである。創価学会は、身を犠牲に、身を粉にして、自民党・公明党政権維持のために選挙活動をするから、現在の自民党・公明党の絶対政権ができたのである。しかし、自民党・公明党政権は、小泉純一郎元首相から岸田文雄現政権まで、日本を壊し続けのである。それが、若者の壊れ始めた姿で現在目の当たりにしているのである。「敵は本能寺にあり」である。日本の本当の敵は、中国、ロシア、韓国、北朝鮮ではなく、自民党、公明党なのである。自民党・公明党政権を倒さない限り、日本は再生できず、若者は生活を取り戻せず、将来像を思い描けないのである。連合赤軍、革マル派、中核派などの観念的な革命運動ではなく、リベラリスト、市民主義者による地道な反体制運動が必要なのである。右翼による戦争ととに左翼による革命も不要である。







感情が自分の存在に気付かせる。(人間の心理構造その10)

2023-02-07 15:22:06 | 思想
デカルトの有名な言葉に「コギトーエルゴースム」(cogito,ero,sum)がある。略されて、コギトと言われる。一般に「我思う、故に、我あり。」と訳されている。その意味は「私はあらゆるものやことの存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在しているからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」である。ここから、デカルトは「私は確実に存在しているのだから、私は、理性によって、いろいろなものやことの存在を、すなわち、真理を証明することができる。」と主張する。なぜ、デカルトは、あらゆるあらゆるものやことの存在を疑ったのか。それは、「悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものやことを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせているかもしれない。」と考えたからである。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものやことを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間があらゆるものやことの存在を疑っていること行為自体も実際には存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、いろいろなものやことがそこに存在していることを前提にしなければ、思考することも活動することもできないのだから、それらの存在を疑うことは意味をなさないのである。人間は、存在の根源を問うことができるが、存在を疑うことはできないのである。聖書に「はじめに言葉ありき」とあるが、それは「はじめに存在ありき」を意味するのである。存在と無を対比して思考する人がいるが、その人にとって無は存在しているから、思考できるのである。人間が思考するものやことは既に存在しているのである。だから、デカルトがどのようなものやことの存在を疑って思考しても、疑いの思考自体がその存在を前提にして論理を展開しているから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。すなわち、存在の疑いの思考自体が無意味なのである。つまり、人間は論理的にいろいろなものやことの存在が証明できるからそれらが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、それらの存在を前提にして、思考し、活動しているのである。それでは、人間は、自らの存在を何として捉えているか。それは、自我である。深層心理が、自我の存在を前提にして、自我を主体にして思考にして、人間を動かしているからである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。つまり、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体にして思考にして、人間を動かしているのである。しかし、ほとんどの人間は、それを明確に理解していない。ほとんどの人間は、自ら主体的に思考して、意志によって行動していると思い込んでいるのである。人間の自ら意識しての精神活動を表層心理と言う。すなわち、ほとんどの人間は、表層心理で、自らを意識して思考して、意志によって行動していると思い込んでいるのである。しかし、実際は、人間は深層心理の自我を主体にした思考によって動かされているのである。確かに、人間は自ら意識して表層心理で思考することはある。しかし、表層心理の思考は深層心理の思考の結果を受けて始まり、人間は、表層心理独自に思考できず、表層心理の思考だけでは行動できないのである。さて、人間は深層心理の自我を主体にした思考によって動かされているが、それでは、自我とは何か。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているのである。そして、深層心理が、自我を主体にして、ある心境の下で、快感や満足感を求めて、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。それでは、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動の四つの欲望とは、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲である。欲動の第一の欲望である保身欲は自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。ほとんどの人間が、毎日、同じことを繰り返すルーティーの生活をしているのはこの欲望による。裁判官が首相の評価を得ようとして迎合した判決を下し、官僚が首相の意向に公文書を改竄するのもこの欲望による。欲動の第二の欲望である承認欲は自我が他者に認められたいという欲望であるが、深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。生徒は、この欲望から、親や教師や同級生から評価されようと勉強して成績を上げようとするのである。欲動の第三の欲望である支配欲は自らの志向性で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望であるが、深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。プーチン大統領が兵士を動かしウクライナに侵攻したこと、人間が樹木を伐採して家を建てること、ニュートンが万有引力の法則を発見したなどはこの欲望による。欲動の第四の欲望である共感欲は自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。カップル、仲間の成立はこの欲望による。欲動が、深層心理に感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出させ、人間を行動へと駆り立てるのである。欲動が、深層心理を内部から突き動かして、思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させているのである。深層心理は、自我が欲動にかなうような行動をすれば快感や満足感が得られ、不快感や不満足から逃れられるので、欲動に呼応して、感情と行動の指令という自我の欲望を思考して生み出し、自我となっている人間を動かそうとするのである。つまり、欲動が深層心理が動かし、深層心理が人間を動かしているのである。次に、感情と行動の指令という自我の欲望とは何か。感情と行動の指令は、深層心理が自我の欲望として一体化して生み出したものである。深層心理は、感情を動力にして、行動の指令通りに自我となっている人間を行動させようとしているのである。つまり、感情とは行動のへの強さであり、行動の指令は具体的な行動を指し示しているのである。例えば、感情の最も強いものは怒りである。深層心理が怒りという感情と殴れという行動の指令を生み出せば、怒りという強い感情は殴るという具体的な行動の力になり、自我となっている人間に殴ることを強く促すのである。しかし、そのような時、まず、無意識のうちに、超自我が、深層心理が生み出した殴れという行動の指令を抑圧しようとする。超自我とは、深層心理に内在する欲動の凱一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から発したルーティーンの生活を守ろうとする作用である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強すぎる場合、深層が生み出した殴れという行動の指令を、超自我は抑圧できないのである。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、自らを意識して思考して、抑圧しようとする。表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議するから、当然のごとく、殴れという行動の指令は抑圧する結論になるのである。現実的な利得を求めるには二つの意味がある。一つは、殴った後、相手という他者から、どのような復讐をされるかを考慮して抑圧することになるのである。もう一つは、殴った後、第三者という他人から、道徳観や社会的規約から、どのように非難され罰せられるかを考慮して抑圧することになるのである。他者とは構造体内の限定された人々である。他人とは構造体外の無限の人々である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我の抑圧の機能も表層心理での思考による抑圧の意志も、深層心理が生み出した殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、相手という他者を殴り、相手を傷付け、自らは社会という他人の世界から非難や処罰を受けるのである。次に、心境とは何か。心境は感情と同じく深層心理の情態である。情態とは人間の心の状態を意味している。しかし、心境は深層心理を覆っている情態であり、感情は深層心理が生み出した情態である。心境とは、爽快、憂鬱など、深層心理に比較的長期に滞在する。感情は、喜怒哀楽や感動など、深層心理が行動の指令ととに突発的に生み出し、人間を行動の指令通りに動かす力になる。深層心理は、常に、ある心境の下にあり、時として、心境を打ち破って、行動の指令とともに感情を生み出すのである。つまり、心境が人間にルーティーンの生活を送らせ、感情がルーティーンの生活を打ち破る行動を人間に起こさせるのである。深層心理が、常に、心境や感情という情態を伴っているから、人間は表層心理で自ら意識する時は、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や心の中に生まれた感情に気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、後ろに退く。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、快感や満足感を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出されるが、心境は、後ろに退き、意味をなさなくなるのである。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。なぜならば、心境も感情も、深層心理の範疇だからである。人間は、表層心理で、自ら意識して、嫌な心境や感情を変えることができないから、気分転換によって、変えようとするのである。人間は、表層心理で、直接に、心境や感情に働き掛けることができないから、何かをすることによって、心境や感情を変えようとするのである。つまり、人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境や感情を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境や感情を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境をや感情を変えようとするのである。また、人間は、心境や感情という情態によって、現在の自我の状態の良し悪しを判断する。つまり、情態が人間の状態を決定するのである。爽快などの快い心境の情態の時には、良い状態にあるということを意味するのである。そこで、深層心理は現在の状態を維持しようと思考するのである。そして、ルーティーンの生活を維持するのである。逆に、陰鬱などの不快な心境の情態の時には、悪い状態にあるということを意味するのである。そこで、深層心理は現在の状態を改善しようと思考するが、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かさない限り、改善できないのである。たとえ、深層心理が、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かし、現在の陰鬱などの不快な心境の情態、状態を改善しようとしても、よほど強い感情を生み出さない限り、超自我や表層心理での思考によって行動の指令は抑圧されるのである。そして、ルーティーンの生活が続くのである。もちろん、感情も心境と同じく情態だが、そのあり方は異なるのである。確かに、喜楽などの快い感情の情態の時には、自我が良い状態にあるということを意味し、怒哀などの不快な感情の情態の時には、自我が悪い状態にあるということを意味する。しかし、感情は行動の指令とともに自我の欲望として深層心理が生み出しているから、感情は行動の途上にあるのである。深層心理が喜楽などの快い感情を生み出した時にも怒哀などの不快な感情を生み出した時にも、行動の指令通りに人間が行動すれば、早晩、その感情は消えていくのである。しかし、内実は異なっている。深層心理が喜びの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、拍手喝采などの喜びの表現をし、他者に自らの存在を知らしめるのである。深層心理が楽しみの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、満足気などの楽し気な表情をし、他者の存在が気にならないのである。深層心理が怒りの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、他者を非難したり暴力を加えたりして、他者に自らの存在を知らしめるのである。深層心理が哀しみの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、泣くなどの哀しみの表現をし、他者に慰めてもらうのである。人間は、心境や感情という情態によって、自分が良い状態にあるか悪い状態にあるかを自覚するから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しいという心境や感情が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、深層心理が思考するのは、自我になっている人間を動かし、苦しみの心境や感情から苦しみを取り除くことが最大の目標であるからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態が大切なのである。それは、常に、心境という情態に深層心理が覆われ、行動の指令とともに感情という情態を生み出して、人間を行動の指令通りに動かそうとしているからである。深層心理が、常に、心境という情態性が覆われ、時として、心境を打ち破り感情という情態を生み出すから、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理にあるから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者や他人に面した時、他者や他人を意識した時、他者や他人の視線にあったり他者や他人の視線を感じた時などに、自分の心を覆っている心境や心に起こっている感情を実感しつつ、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、表層心理での思考が始まるのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心に存在するのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。


自我の欲望ではなく、自己の意志で生きるために。(自我から自己へ16)

2023-02-04 19:53:35 | 思想
なぜ、この世から、殺人や戦争が無くならないのか。それは、人間は、自己の意志で行動せず、自我の欲望によって動かされているからである。しかし、そもそも、人間に、本質的に、自分の意志は存在しないのである。平穏な日常生活も残虐な犯罪も、自我の欲望がもたらしているのである。だから、他者や他人の犯罪に対しては正義感から怒りを覚える人が同じような犯罪を行ってしまうのである。他者や他人の犯罪に対する怒りも自らが為した犯罪も自我の欲望から発されているのである。だから、自我の欲望をコントロールできない限り、誰しも、犯罪を行う可能性があるのである。それでは、自我とは何か。そして、自我の欲望とは何か。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。言わば、自我とは自らの社会的な位置である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間にとって、自分とは、自らの自我であり、他者や他人と峻別したあり方に過ぎないのである。他者とは同じ構造体の人々である。他人とは別の構造体の人々である。人間は、常に、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を持って、他者と関わりながら、他人の存在を感じつつ、生きているのである。人間は、常に、構造体に属して、自我を所有しなければ人間として生きていけないのである。人間が社会的な存在であるとは人間のそのような宿命的な在り方を示しているのである。だから、ある人は、ある時は男性になり、ある時は夫になり、ある時は父になり、ある時は教諭になり、ある時は客になり、ある時は乗客になり、ある時は日本人になり、ある時は都民になる。彼は、男女という構造体に所属している時は男性という自我を所有し、夫婦という構造体に所属している時は夫という自我を所有し、家族という構造体に所属している時は父という自我を所有し、小学校という構造体に所属している時は教諭という自我を所有し、コンビニという構造体に所属している時は客という自我を所有し、電車という構造体に所属している時は乗客という自我を所有し、日本という構造体に所属している時は日本人という自我を所有し、東京都という構造体に所属している時は都民という自我を所有して活動しているのである。だから、小学生は彼を先生と呼ぶが、それは、小学校という構造体においての彼の自我にしか過ぎないのである。また、ある人は、ある時は女性になり、ある時は妻になり、ある時は母になり、ある時は行員になり、ある時は客になり、ある時は乗客になり、ある時は日本人になり、ある時は都民になる。彼女は、男女という構造体に所属している時は男性という自我を所有し、夫婦という構造体に所属している時は夫という自我を所有し、家族という構造体に所属している時は父という自我を所有し、小学校という構造体に所属している時は教諭という自我を所有し、コンビニという構造体に所属している時は客という自我を所有し、電車という構造体に所属している時は乗客という自我を所有し、日本という構造体に所属している時は日本人という自我を所有し、東京都という構造体に所属している時は都民という自我を所有して活動しているのである。だから、息子や娘は彼女をお母さんと呼ぶが、家族という構造体においての彼女の自我にしか過ぎないのである。だから、彼らは、本当の姿は何かと尋ねられると、答えることはできないのである。本当の姿など存在せず、彼らは、構造体によって、異なった自我を所有するからである。さて、人間は、常に、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を持って、他者と関わりながら、他人の存在を感じつつ、生きているが、どのような自我の時も、自我の欲望によって動かされているのである。深層心理が、自我を主体にして、欲動に基づいて快感や満足感を得よう、不快感や不満足を避けようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。それでは、深層心理とは何か。深層心理とは人間の無意識の精神活動である。すなわち、人間は、無意識の思考によって動かされているのである。それでは、自我の欲望とは何か。自我の欲望とは、深層心理が、自我となった人間を動かすために思考して生み出した感情と行動の指令である。深層心理は、感情を動力にして、行動の指令通りに、自我となった人間を動かしているのである。しかし、人間は深層心理に動かされているが、深層心理も欲動に動かされているのである。人間はさまざまな構造体に属してさまざまな自我を所有して生きているが、深層心理は欲動に基づいてその自我に適応した自我の欲望を思考して生み出し、人間を動かしているのである。それでは、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動の四つの欲望とは、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲である。欲動の第一の欲望である保身欲は自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第二の欲望である承認欲は自我が他者に認められたいという欲望であるが、深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第三の欲望である支配欲は自らの志向性で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望であるが、深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第四の欲望である共感欲は自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動が、深層心理に感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出させ、人間を行動へと駆り立てるのである。欲動が、深層心理を内部から突き動かして、思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させているのである。深層心理は、自我が欲動にかなうような行動をすれば快感や満足感が得られ、不快感や不満足から逃れられるので、欲動に呼応して、感情と行動の指令という自我の欲望を思考して生み出し、自我となっている人間を動かそうとするのである。つまり、欲動が深層心理が動かし、深層心理が人間を動かしているのである。しかし、欲動に、道徳観や社会規約を守ろうという欲望が存在しないのである。道徳観や社会規約を守ろうという欲望は表層心理で使われるのである。表層心理とは、人間の自らを意識しての精神活動である。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場でひたすら快感や満足感を求め、不快感や不満足を避けようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。その行動の指令が犯罪行為であっても、感情が強ければ、人間は、表層心理の思考で止めることができないのである。欲動は深層心理に内在しているから、人間は表層心理で深層心理に直接に働き掛けることはできないのである。つまり、感情が強ければ、人間は、欲動に応じて思考する深層心理の意のままに思考し行動するしかないのである。そこに、人間の悲劇があるのである。さて、深層心理が、自我を主体にして、欲動に基づいて快感や満足感を得よう、不快を避けようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているが、それでは、自我を主体に立てるとは何か。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我の行動について考えるということである。つつまり、人間は、自らが主体となって、思考し行動していないのである。だから、人間は自己として存在し難いのである。自己とは、人間が表層心理で常に正義に基づいて思考して行動するあり方である。つまり、自己とは、人間が、正義に基づいて、自ら意識して考え、意識して決断し、その結果を意志として行動する生き方である。だから、人間が、表層心理で正義に基づいて思考して、その結果を意志として行動しているのであれば、自己として存在していると言えるのであるが、常に、深層心理が思考して生み出した自我の欲望に動かされているので、自己として存在していると言えないのである。自己として存在していないということは、自由な存在でもなく、主体的なあり方もしていず、主体性も有していないということを意味するのである。そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、人間は他者の思惑を無視して主体的に自らの行動を思考することはできないのである。そうすれば、構造体から追放され、自我を失う虞があるからである。また、そもそも、人間の表層心理での思考は、深層心理の思考の結果を受けて始まるから、人間は、本質的に、正義に基づく主体的な思考はできないのである。さて、人間は、無意識のうちに、深層心理が、欲動という四つの欲望に基づいて、快感や満足感を得よう、不快感や不満足を避けようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間を動かしているのであるが、欲動という四つの欲望のうち、最も重要なのは、第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。人間は、構造体に所属して、自我を有して、初めて、人間として活動できるからである。ほとんどの人間の日常生活は、無意識の行動によって成り立っているのは、深層心理が、保身欲によって、自我の保身化を図ろうと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、無意識のうちに、それに従って行動しているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、人間は表層心理で自らを意識して考えることがなく、無意識の行動だから可能なのである。また、日常生活がルーティーンになっているのは、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままに行動して良く、表層心理で自らを意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。また、人間は、表層心理で自らを意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、毎日が、平穏というわけではない。自我を傷つけることが起こることがある。そのような時、深層心理が過激な感情と過激な行動という自我の欲望を生み出して、人間を動かし、傷ついた自我をいやそうとする。たとえば、高校という構造体で、男子高校生が生徒指導課の男性教師から、制服が校則に違反しているとして、正座させられ、激しく叱責を受ける。その時、彼の深層心理はら怒りの感情と生徒指導課の男性教師を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を唆す。しかし、まず、彼の超自我は高校生活を無難に続けさせるために、深層心理が生み出した生徒指導課の男性教師を殴れという行動の指令を抑圧しようとする。超自我とは、深層心理に内在する欲動の凱一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から発したルーティーンを守ろうとする作用である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強すぎる場合、深層が生み出したと生徒指導課の男性教師を殴れという行動の指令を、超自我は抑圧できないのである。もしも、超自我の機能が功を奏さなかったならば、彼は、表層心理で、自らを意識して思考することになる。一般に、表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実的な利得を求めるとは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうという欲望である。道徳観や社会規約を考慮するのは、それらを無視すると、世間から指弾され、欲動の第二の欲望である承認欲が得られないからである。彼は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、生徒指導課の男性教師を殴ったならば、後に、自分にどのような処罰が下されるかということを考え、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した生徒指導課の男性教師を殴れという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した反抗しろという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに反抗し、生徒指導課の男性教師を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、次に、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。つまり、深層心理も表層心理も自我の欲望から出ることは無いのである。深層心理の自我の欲望で人間を動かそうとする思考にしろ、表層心理での現実の利得を求めて自我の欲望を抑制しようとする思考にしろ、自我中心に行っているのである。人間は、自我の欲望に支配されている限り、自己として存在できず、殺人や戦争などの犯罪行為や自我が傷つけられた苦悩を免れることはできないのである。人間にとって、自我の欲望に支配されない唯一のあり方は自己である。自己とは、人間が表層心理で正義に基づいて思考して行動するあり方である。それは、欲動の第三の欲望である自らの志向性で自我を対象化する支配欲から発している。すなわち、自らの志向性とは正義に基づいて思考することなのである。自己とは、正義に基くという志向性で、自我の現況を対象化して思考して、行動するのである。一般に、人間は自我を傷つけられた時、深層心理が過激な感情と過激な行動という自我の欲望を生み出して人間を動かし傷ついた自我をいやそうとする。そのような時、超自我が、ルーティーンの生活を守るために、過激な行動を抑圧するように作用する。超自我が破られた時、人間は、表層心理で、自らを意識して、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した過激な感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議する。これが自我にこだわった人間の心理のプロセスである。これを、現実的な利得ではなく、正義に基づいて思考するのである。それが、自己のあり方である。すなわち、表層心理で、自らを意識して、正義に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議するのである。そもそも、自己とは、自我にこだわらないあり方だから、深層心理は感情も行動の指令も過激なものを生み出すことは無い。だから、表層心理での正義に基づいた思考は透徹したものになる。先の例でいえば、生徒指導課の男性教師から制服が校則に違反しているとして正座させられ激しく叱責を受けた男子高校生は、自分が正しいと思えば、校則、正座の不当性を訴えるべききである。それが、正義に基づいた自己のあり方である。その時、生徒指導課の男性教師の深層心理は怒りの感情と殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、彼の自我を唆すかもしれない。深層心理に内在する欲動の第二の欲望である我が他者に認められたいという承認欲がが傷つけれたからである。しかし、そのような自我の欲望があっても、彼の超自我という機能や表層心理での思考は、教師という自我を維持するために、男子高校生に体罰を加えることをやめさせるだろう。そして、彼は、男子高校生の指導を、担任や校長にゆだねるだろう。それでも、男子高校生は、自己として生きたいのならば、担任や校長にも自らの正当性を訴えて、制服を直さないだろう。すると、やはり、承認欲を傷つけられた校長は、怒りを持って職員会議を開き、制服を直さない限り登校を認めないという処分を科すかもしれない。それでも、男子高校生は自分が正しいと思えば、弁護士などの他人に訴えるべきである。校長や教師は男子高校生と同じ高校という構造体内で他者として存在するが、弁護士はを高校という構造体に所属していないから有効なのである。その高校という構造体に自我を有していないから、自我の欲望に動かされず、思考し行動できるのである。一般社会でも、他人の集団である第三者委員会が正当な判断を下すとみなされている。しかし、たとえ、弁護士の力で彼の処分を撤回させられたとしても、彼は、その高校にとどまる限り、教師たちから白眼視されるだろう。自己として正義に徹して生きている人は、必ず、構造体の他者から白眼視されたり、迫害されたり、構造体から追放されたりするのである。自己として正義を貫く人は、その覚悟が必要なのである。さて、深層心理が、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのが、これから、その四つの欲望の一つ一つ吟味していこうと思う。まず、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望である保身欲であるが、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、誰しも、愛国心を持っているのである。それは、国という構造体に所属し、国民という自我を持っているからである。だから、自国チームや自国選手を応援できるオリンピックが楽しめるのである。よく、日本国民の個々の愛国心の有無を問う者がいるが、それは全く無意味である。日本人には、誰でも愛国心は存在するからである。確かに、日本が嫌いだという人がいる。しかし、それは、自分の理想とする日本と現在の日本が違っていると思うからであり、決して、愛国心が存在しないわけではない。愛国心は、日本人だけでなく、全世界の人々に共有されている。なぜならば、全世界の人々が、いずれかの国に所属しているからである。愛国心とは、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている者が生み出す、欲動の保身欲、承認欲という欲望から来る自我の欲望である。国という構造に所属して、国民という自我を持つから、深層心理は、欲動の保身欲から、愛国心という自我の欲望を生み出すのである。国という構造に所属して、国民という自我を持つから、深層心理は、欲動の保身欲から、愛国心という自我の欲望を生み出すのである。人間は、国という構造体に所属し、国民という自我を所持しなければ、現在の世界に生きていけないから、深層心理は、保身欲から、愛国心という自我の欲望を生み出すのである。国という構造に所属して、国民という自我を持つから、深層心理は、欲動の承認欲から、愛国心という自我の欲望を生み出すのである。である。人間は、国という構造体に所属し、国民という自我を所持ているから、深層心理は、自国のすばらしさを他国の人々に認めてほしいという承認欲から、愛国心という自我の欲望を生み出すのである。愛国心と同様に、深層心理は、自我が郷土という構造体に所属しているから愛郷心を、家族という構造体に所属しているから家族愛を、会社というという構造体に所属しているから愛社精神を、学校という構造体に所属しているから愛校心を、カップルという構造体に所属しているから恋愛感情を、仲間という構造体に所属しているから友情を、宗教団体という構造体に所属しているから信仰心という自我の欲望を生み出すのである。さて、「俺は、誰よりも、日本を愛している。」と叫び、中国や韓国などに対して対抗心を燃やす人がいる。そして、自分の考えや行動に同調しない人を売国奴、非国民、反日だなどと言って非難する。売国奴とは敵国と通じて国を裏切る者を罵って言う言葉であり、非国民とは国民としての義務を守らない者であり、反日とは日本の利益に反する行為、日本や日本人に反感を持つ人のことを言う。しかし、日本人ならば誰しも日本に対して愛国心を持っているので、売国奴、非国民、反日のいずれも、自分の愛し方だけが正しいと思い込んでいる者が生み出した誤った言葉なのである。また、憂国という言葉がある。憂国とは国家の現状や将来を憂え案ずることや国家の安危を心配することという意味である。そして、憂国の士という言葉さえ存在する。しかし、日本人ならば、誰しも、理想の日本の国家像があり、現在の日本がその国家像にそぐわないように思えれば、憂国の念を抱くのは当然のことである。だからに、憂国の念を抱く者を特別視し、憂国の士と呼ぶ必要はないのである。さらに、憂国は国家の現状や将来を憂え案ずることや国家の安危を心配することという意味であるが、現在の日本の国家の捉え方も、個人差があり、自らの捉え方は普遍化できないはずである。ところが、傲慢にも、憂国の士を自認する者は、自らが持っている理想の日本の国家像は誰にも通用するものだと思い込み、自分だけが日本の現状や将来を憂え案じていると思い込んでいるのである。そして、自らと異なった理想の日本の国家像を持っている者たちや自らと異なった日本の現状のとらえ方をしている者たちを、売国奴、非国民、反日などと言って非難するのである。もちろん、隣国の中国や韓国という構造体に所属する人々にも愛国心はある。特に、中国人や韓国人は、近代において、自国が日本に侵略された屈辱感がまだ過去のものとなっていないから、日本人に侵略・占領の過去を反省する心を失ったり、正当化するような態度が見えると、愛国心が燃え上がるのである。中国において、愛国無罪を叫んで、日本の企業を襲撃するような人たちもまた憂国の士である。もちろん、彼らは犯罪者である。さて、日本の憂国の士と自称する者と中国の憂国の士と自称する者、日本の憂国の士と自称する者と韓国の憂国の士と自称する者が一堂に会するとどうなるであろうか。互いに自分の言い分を言い、相手の主張を聞かないであろう。挙句の果てには、殴り合いが始まるか、最悪の場合、戦争に発展するだろう。このように、愛国心が高じると危機的な状況を招くのである。一般に言われているような、決して、過大に評価すべきものではないのである。なぜならば、国という構造体が存在する限り、国民という自我を有する者が存在し、そこには愛国心という自我の欲望が必ず存在するからである。ただ、それだけのことなのである。それを認識して、自分の考えを言い、相手の主張を聞きながら、折り合いをつけるのが自己としての生き方である。さて、よく、「子供は正直である」と言われる。この言葉の真意は、大人は嘘をつくことがあるから言ったことの全部を信用することはできないが、子供は嘘を言わないから言ったことの全部を信用できるということである。言うまでもなく、子供に対して好意的な言葉である。しかし、「子供は正直である」からこそ、些細なことで喧嘩するのである。子供は、互いに、相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、喧嘩が絶えないのである。自分の権利だけを主張することは、自我の欲望に忠実であるということである。子供は、自我のあり方しかできず、自己として生きられないから、喧嘩が絶えないのである。つまり、愛国心の発露も幼児の行為なのである。日本人の愛国主義者と中国の愛国主義者の争い、日本人の愛国主義者と韓国の愛国主義者の争いは、幼児の争いである。幼児の悪行は大人が止めることができる。しかし、日本、中国、韓国の政治権力者は、それを止めるどころか、むしろ、たきつけている。彼らもまた政治権力者としての自我の欲望に忠実に言動しているのである。だから、愛国心による国際紛争は収まる気配は一向になく、むしろ拡大しているのである。政治権力者、国民、共に、愛国心という自我の欲望に従順である限り、この世から、戦争は無くならないのである。収まらないのである。しかし、愛国心だけで無く、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から起こる犯罪は枚挙に暇が無い。ミャンマーの国軍兵士が、無差別に、市民を射殺しているのは、上官の命令に従っているからであり、上官の命令に背けば、兵士という自我を失うからである。正義という志向性で思考して自己と存在するならば、このような残虐なことはできないはずである。よく兵士とは国を守るための重要な存在だと言われるが、そうではない。この世には、守るべき国も、破壊すべき国も存在しない。国を守るということを金科玉条に言い立てる人は、愛国心という自我の欲望に埋没している国家主義者か支配欲という自我の欲望をかなえようとしている政治権力者である。自衛隊員を含めて兵士が政治権力者や上官の国を守るとか治安のためとかの理由による命令で人を殺すことができるのは保身欲から来る自我の欲望に動かされているからである。また、裁判官が首相に迎合した判決を下し、高級官僚が公文書改竄までして首相に迎合するのは、立身出世という保身欲から来る自我の欲望がなせる業である。裁判官や公務員という公明正大であるべき身分の人々が自己としての正義に基づいて思考しないのである。この点が日本の最大の欠点である。次に、欲動の自我が他者に認められたいという欲動の第二の欲望である承認欲であるが、深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。自我の対他化とは、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快感や満足感を得よう、不快感や不満足を避けようとすることである。この欲望がかなえば、自我が伸張し、自分の力が発揮できたように思うのである。だから、深層心理は、自我が他者から見られていることを意識して思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理は、どのようにすれば、その人から好評価・高評価を得られるかと考えて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとする。ラカンは「人は他者の欲望を欲望する」という言葉がある。それは、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。他者の欲望を獲得することが、自分の力を発揮したことの現れなのである。だから、逆に、自我が他者に認められなければ、深層心理は、怒りの感情と他者に対する攻撃の指令という自我の欲望を生み出し、人間を行動の指令通りに動かし、他者に認められなかった傷心から解放されようとするのである。つまり、人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。つまり、人間は他者の欲望を欲望しているのである。他者の欲望を獲得することが、自我の目標となっているのである。学生や生徒が勉強するのは、成績を上げて、教師や同級生や親から褒められたいからである。会社員が懸命に働くのは、業績を上げて、上司や先輩や同輩に褒められたいからである。だから、逆に、自我が他者に認められないと、深層心理は、すなわち、人間は苦悩に陥るのである。だから、その苦悩から逃れようとして、他者に自我の力を知らしめようとするのである。人間は、いついかなる時でも、自我が他者に認められるように行動しているのである。他者を攻撃することがあるのは、他者が自我を認めてくれないばかりか、貶めたからである。下位に貶められた自我を上位にもっていこうとして、他者を攻撃するのである。人間が苦悩に陥る主原因は、深層心理の自我の対他化による自我の欲望がかなわなかったことである。しかし、自己として主体的に生きる人は、自我に他者に認められない時には、それを受け入れて、自らを反省し、自らが誤っていると思えば自らを正そうとし、自らが正しいと思えば、ある時には、それを押し通し、ある時には、冷静に反論するのである。次に、欲動の第三の欲望が支配欲である。深層心理は、自らの志向性で自我・他者・物・現象という対象を支配することによって、すなわち、対自化することによって、快感や満足感を得ようとするのである。志向性とは、対象を捉える方向性である。端的に言えば、観点・視点である。人間は、常に、志向性によって、自我・他者・物・現象という対象を捉えて、行動している。しかし、人間は、表層心理で、自ら意識して、自らの意志によって、志向性を使って、他者・物・現象という対象を捉えているのではない。人間は、無意識のうちに、志向性を使って、思考して、他者・物・現象という対象を捉えているのである。すなわち、深層心理が、志向性を使って、思考して、他者・物・現象という対象を捉えているのである。これが、深層心理の対象への対自化という志向性というあり方である。それは、人間は、無意識のうちに、深層心理が、志向性で、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、志向性で、物という対象をで利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、志向性で、現象という対象を捉えているということを意味しているのである。深層心理は、志向性で、対象の対自化して、支配欲を満たして、快感や満足感を得ようとするのである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、深層心理が、すなわち、人間が、快感や満足感が得られれるのである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快感や満足感が得られるのである。わがままは盲目的な支配欲の現れである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、ウクライナ侵攻、北朝鮮の金正恩による無差別の殺戮は、支配欲を満足させるために起こしているのである。もちろん、それは。自己のあり方ではない。自我の欲望の仕業である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという満足感が得られるのである。今、ようやく、それに対して反省し、自然を収奪するだけの自我の欲望のあり方から、自然と共生する自己のあり方へと転換が始まっている。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば、快感や満足感が得られるのである。さらに、対象の対自化が高じると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生じる。まず、有の無化という作用であるが、深層心理は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、深層心理が、人間の無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。次に、無の有化であるが、それは、深層心理は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、人間の無意識のうちに、この世に存在しているように思い込むという意味である。深層心理は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。神が存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。最後に、欲動の第四の欲望である自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲であるが、深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理は、自我と他者が心の交流をすること、愛し合う、友情を育む、協力し合うようにさせることによって快楽を得るのである。この欲望は、自我の評価を他者に委ねるという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うのである。自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりするのである。それがかなえば、快感や満足感が得られるのである。カップルという構造体は、恋人という二人の自我によって成り立っている。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人として自我を認め合うことができれば、自らの存在を実感でき、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。また、仲間という構造体は、友人という二人以上の自我によって成り立っている。友情という現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。人間が友人を作ろうとするのは、仲間という構造体を形成し、友人という自我を認め合うことができれば、そこに安心感が生じるからである。友人いう自我と友人いう自我が共感すれば、そこに、信頼感が生じ、一人の自我で受ける孤独感から解放され、力がみなぎって来るのである。しかし、人間、誰しも、誰を恋人にするか、誰を友人にするかは、表層心理で、自らを意識して思考して決めているわけではない。深層心理が、趣向性によって、選んでいるのでいる。趣向性とは、好みという感性である。人間は、意識して感性に入ることはできないのである。感性は、深層心理の範疇に属しているのからである。また、呉越同舟という共通の敵がいたならば仲が悪い者同士も仲良くすることも、共感化の現象である。二人の仲が悪いのは、二人の趣向性が異なり、そこで、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。つまり、協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで一つになるということも、共感化の現象である。そこに共通の対自化した敵がいるからである。しかし、試合が終わると、共通の対自化した敵がいなくなり、自分がイニシアチブを取りたいから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。つまり、対象の対自化で自我の力が発揮しようと思うから、共通の敵がいなくなると、我を張る(自我を主張する)ようになるのである。しかし、小学校、中学校、高校で、自我の深層心理の趣向性が合わないために、いじめが起こる。いじめの原因は、毎日、閉ざされ、固定されたクラス、クラブという構造体で、クラスメート、部員という自我で暮らしていることである。毎日、同じクラスメート、部員と暮らしていると、必ず、嫌いなクラスメート、部員が出てくる。好きな部員、友人ばかりでなく、必ず、嫌いなクラスメート、部員が出てくるのである。しかし、人間は、好き嫌いの感情は、自ら意識して、自らの意志で、生み出しているわけではない。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、好きなクラスメート、部員と嫌いなクラスメート、部員を峻別しているわけでは無い。深層心理が、共感化の趣向性がそれを出現させるのである。しかし、小学生、中学生、高校生は、クラス、クラブに嫌いなクラスメート、部員がいても、それを理由にして、自分が別のクラス、クラブに移ることもその嫌いなクラスメート、部員を別のクラスに移すことも許されない。わがままだと非難されるだけである。だから、現在のクラス、クラブという構造体で生きていくしか無いのである。しかし、クラス、クラブという閉ざされ、固定された構造体で、毎日、嫌いな人と共に生活することは苦痛である。トラブルが無くても、嫌いな人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がする。いつしか、不倶戴天の敵にしてしまう。すると、自らの深層心理が、自らに、その嫌いなクラスメートに対して攻撃を命じる。しかし、自分一人ならば、勝てないかも知れない。また、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れない。そこで、自分には、共感化している友人がいるから、彼らに加勢を求め、いじめを行うのである。彼らも仲間という構造体から、自分が放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。クラスという構造体では、担任の教師は、いじめに気付いていても、いじめている生徒たちはクラスのイニシアチブを握っていることが多く、彼らを敵に回すと、クラス運営が難しくなり、担任教師という自我の力量が問われるから、いじめに気付いても、厳しく咎めることはせず、軽く注意するか見て見ぬふりをするのである。また、カップルという構造体で恋人という自我にある者が、相手から別れを告げられてストーカーになり、相手を殺すことまでするのは、カップルという構造体が壊れ、恋人という自我を失うのが辛いからである。いじめている生徒も担任教師も、良心に目覚め、正義に基づく自己として生きない限り、いじめやストーカーは絶えることは無いのである。このように、深層心理が、欲動の自我を確保・存続・発展させたいという保身欲、自我が他者に認められたいという承認欲、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという支配欲、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲という四つの欲望のいずれかに基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているが、それに無反省に従っている限り、犯罪は絶えることは無く、それが殺人や戦争にまで及ぶのである。確かに、一般に、自我を傷つけられた人間が殺人事件や戦争を引き起こす。人間は自我を傷つけられると、深層心理が過激な感情と過激な行動という自我の欲望を生み出して人間を動かし傷ついた自我をいやそうとする。自我を傷つけられた人間の中には、深層心理が激しい怒りの感情と傷つけた人間を殺せという自我の欲望を生み出して、傷ついた人間を殺人へと駆り立てるのである。自我を傷つけられた政治権力者の中には、深層心理が激しい怒りの感情と傷つけた政治権力者を倒せという自我の欲望を生み出して、傷ついた政治権力者を戦争へと駆り立てるのである。そのような時、超自我が、ルーティーンの生活を守るために、過激な行動を抑圧するように作用する。超自我とは、深層心理に内在する欲動の凱一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から発したルーティーンを守ろうとする作用である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強すぎる場合、深層が生み出した行動の指令を、超自我は抑圧できないのである。もっとも、プーチン大統領のような、KGB(ソ連国家委員会)に所属して、人殺しがルーティーン化している人間には、超自我は働かない。自我の欲望に動かされ、殺人や戦争を引き起こす。一般に、超自我が破られた時、人間は、表層心理で、自らを意識して、深層心理が生み出した過激な感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動すれば現実的な利得を得られるかという視点で受け入れるか拒否するかを審議する。現実的な利得には、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我の欲望がかなうことが含まれている。道徳観や社会規約を考慮するのは、それらを無視すると、世間から指弾され、欲動の第二の欲望である承認欲が得られないからである。だから、殺人や戦争は、現実的には自我に損失を与えるから、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した殺人や戦争の行動の指令を、意志によって抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強すぎる場合、人間は、表層心理の思考の結果である意志では、深層が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。そして、殺人を引き起こすのである。深層心理が生み出した怒りの感情が強すぎる場合、政治権力者は、表層心理の思考の結果である意志では、深層が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。そして、戦争を引き起こすのである。自我を傷つけられた政治権力者の中には、深層心理が激しい怒りの感情と傷つけた政治権力者を倒せという自我の欲望を生み出して、傷ついた政治権力者を戦争へと駆り立てるのである。これが、殺人や戦争などの犯罪に向かう人間の心理のプロセスである。つまり、深層心理が生み出した感情が強ければ、ルーティーンの生活を維持しようとする超自我の機能も、現実的な利得を求める表層心理の思考も、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。超自我も表層心理での思考も、深層心理の思考と同じく、自我中心に行っているからである。人間は、自我中心に生きている、自我の欲望に支配され、自我が傷つけられた苦悩や殺人や戦争などの犯罪行為を免れることはできないのである。人間にとって、自我の欲望に支配されない唯一のあり方は自己である。自己とは、人間が表層心理で正義に基づいて思考して行動するあり方である。それは、欲動の第三の欲望である自らの志向性で自我を対象化する支配欲から発している。すなわち、自らの志向性とは正義に基づいて思考することなのである。自己とは、正義に基づくという志向性で、自我の現況を対象化して思考して、行動するのである。