あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

愛国心について

2014-07-13 16:37:01 | 思想
誰しも、愛国心を持っている。自分が属している国を愛している。誰しも、愛郷心を持っている。自分が生まれ育った場所、つまり、故郷を愛している。誰しも、自分の家族を愛している。自分の帰るべき家と温かく迎えてくれる人々を愛している。誰しも、愛社精神を持っている。自分の生活を支えてくれる会社を愛している。誰しも、愛校心を持っている。自分が学んだ場所を愛している。誰しも、恋人を愛している。自分を恋人として認めてくれている人を愛している。誰しも、友人を愛している。自分を友人として認めてくれる人を愛している。誰しも、宗教心を持っている。自らが帰依している宗教の共同社会、つまり、教団を愛している。このように、人間は自分の属している共同体を愛しているのである。なぜ、自分の属している共同体を愛するのか。それは、共同体が自らの存在を認めてくれるからである。つまり、人間は、共同体があっての人間なのである。ハイデガーの世界-内-存在の用語を借りれば、人間は、共同体-内-存在として生きている。いや、生きるしかないのである。人間は、共同体に属し、共同体の人々にその存在が認められて初めて自分の存在を確認し、安心できる動物なのである。そのことは、アイデンティティーという言葉に集約されている。広辞苑では、アイデンティティーという言葉を次のように説明している。「①人格における存在証明または同一性。ある人が一個の人格として時間的・空間的に一貫して存在している認識をもち、それが他者や共同体からも認められていること。自己同一性。同一性。②ある人や組織がもっている、他者から区別される独自の性質や特徴。」一般に、アイデンティティーは、簡単に、「自己同一性」と訳されている。しかし、そのように訳すから、意味が不明確になるのである。広辞苑では、①に記されている「それが他者や共同体から認められていること」という言葉と②に記されている「他者から区別される独自の性質や特徴」が重要である。前者の意味は、人は共同体に属しているだけではアイデンティティーを得ることはできず、他の人や共同体の中の人に存在を認められて初めて得ることができるということである。後者の意味は、人は、自らが属している組織を他の組織と区別し、自らを他の組織に属している人と区別することによって、アイデンティティーが確立し、強化されるということである。つまり、アイデンティティを得るには、自らに対する他の人からの承認と評価を必要とし、自らや自らの組織を際立たせるために他の人や他の組織を区別することを必要とするのである。そこに、アイデンティティーの悲喜劇がある。そして、愛国心の悲喜劇がある。よく、愛国心の有無、強弱に関するアンケートがある。現在の日本人の愛国心についての状況を知りたいがためである。しかし、それは全く無意味である。誰でも愛国心は存在するからである。確かに、日本が嫌いだという人がいる。しかし、それは、自分の理想とする日本と現在の日本が違っていると思うからである。決して、愛国心を失ったわけではない。愛国心は、日本人だけでなく、全世界の人々に共有されている。なぜならば、愛国心とは、人間の自我を形成しているものの一つだからである。愛郷心、家族を愛する心、愛社精神、愛校心、恋愛、友情、宗教心と同じように自我を形成しているのである。また、「俺は、誰よりも、日本を愛している。」と叫び、中国や韓国などに対して対抗心を燃やす人がいる。そして、自分の考えや行動に同調しない人を売国奴、非国民、反日だなどと言って非難する。ちなみに、明鏡国語辞典では、売国奴を「敵国と通じて国を裏切るものをののしっていう語。」、広辞苑では、非国民を「国民としての義務を守らない者」、反日を「日本に反対すること。日本や日本人に反感をもつこと。」と記している。つまり、売国奴、非国民、反日のいずれも、日本人ならば日本に対して愛国心を持っていることを知らず、自分の愛し方だけが正しいと思い込んでいる人が生み出した言葉なのである。また、憂国という言葉もある。広辞苑では、憂国を「国家の現状や将来を憂え案ずること。国家の安危を心配すること。」と記してある。そして、憂国の士という言葉さえ存在する。しかし、日本人ならば、誰しも、理想の日本の国家像があり、現在の日本がその国家像にそぐわないように思えれば、憂国の念を抱くのである。それ故に、憂国の念を抱く人を特に特別視し、憂国の士と呼ぶ必要はないのである。更に、「国家の現状や将来を憂え案ずること。国家の安危を心配すること。」とあるが、現在の日本の国家の捉え方も、個人差があり、自らの捉え方は普遍化できないはずである。ところが、傲慢にも、憂国の士を自認する者は、自らが持っている理想の日本の国家像は誰にも通用するものだと思い込み、自分だけが日本の現状や将来を憂え案じていると思い込んでいる。そして、自らと異なった理想の日本の国家像を持っている者たちや自らと異なった日本の現状のとらえ方をしている者たちを、売国奴、非国民、反日などと言って非難するのである。もちろん、中国人や韓国人にも愛国心はある。特に、中国人や韓国人は、近代において、自国が日本に侵略された屈辱感がまだ過去のものとなっていないから、日本人に侵略・占領の過去を反省する心を失ったり、正当化するような態度が見えると、愛国心が燃え上がるのである。中国において、愛国無罪を叫んで、日本の企業を襲撃するような人たちもまた憂国の士である。さて、日本の憂国の士と中国の憂国の士、日本の憂国の士と韓国の憂国の士が一堂に会するとどうなるであろうか。互いに自分の言い分を言い、相手の主張を聞かないであろう。挙句の果てには、殴り合いが始まるか、最悪の場合、戦争に発展するだろう。このように、愛国心が高じると危機的な状況を招くのである。一般に言われているような、決して、評価すべきものではないのである。だが、先の述べたように、そこに国が存在する限り、国民が存在し、愛国心を必ず有する。愛国心を持てない国民は悲劇である。精神状態が不安定になるからである。それは、家に帰っても、家族の誰からも相手にされない父親と同じ気持ちである。自らが日本人であることにアイデンティティーを持っているから、理想の日本の国家像を描き、現在の日本を批判し、将来の日本を憂えるのである。それが、日本人としての自我のあり方である。それは、中国人、韓国人も同様である。そのことに気付かず、日本人としての自我を強く主張すれば、中国人、韓国人と対峙するしかないのである。ヘイトスピーチをして、中国国籍の人、韓国国籍の人、北朝鮮国籍を日本国内から追い出そうとする人たちは、極端に日本人としての自我に強い人たちである。大勢の人とヘイトスピーチをすることによって、日本人のアイデンティティーを確認し合っているのである。彼らは、自らの行為を愛国心の発露だとしているだろう。彼らは、自らの行為に反対する日本人を、売国奴、非国民、反日だと思っているだろう。彼らは日本を純粋に愛しているからこのような行為をするのだと思っているだろう。しかし、なぜ、日本を愛すのだろうか。その答えは一つしかない。自分が日本という国に所属しているからである。自分に日本人というステータスが与えられているからである。それは、山田一郎が、日本というステータスが与えられているから日本を愛するのである。それは、青森県出身者というステータスを与えられているから青森県を愛し、山田家の長男というステータスが与えられているから山田家を愛し、ソニーの社員というステータスを与えられているからソニーを愛し、日本大学の出身者だから日本大学を愛し、杉山芙由子が恋人になってくれているから杉山芙由子を愛し、上杉五郎が友人になってくれているから上杉五郎を愛するのと同様である。我々人間を保証するものは、このステータス(社会的な位置)なのである。このステータスの束が各々の人間を形成し、各々の人間の存在を保証しているのである。そして、人間は、そのステータスの束から、時間と場所に応じて、一つのステータスを取り出して、活動しているのである。山田一郎は、ある時には日本人というステータスの下で活動し、ある時には青森県出身者というステータスの下で活動し、ある時には山田家の長男というステータスの下で活動し、ある時には日本大学の出身者として活動し、ある時には杉山芙由子の恋人として活動し、ある時には上杉五郎の友人として活動しているのである。それ故に、山田一郎の真の姿は決定しようと思っても、それは不可能である。その時のステータスが真の姿である。国籍という構造体の中では日本人、都道府県別出身者という構造体の中にいれば青森県出身者、山田家という構造体の中にいれば長男、ソニーという会社の構造体の中にいれば社員、大学別出身者という構造体の中にいれば日本大学の出身者、杉山芙由子と形成した恋愛関係という構造体の中にいれば恋人、上杉五郎と形成した友人関係という構造体の中にいれば友人である。人間の存在を保証するものはこの構造体とステータスなのである。日本人は、日本人というステータスを与えらえているから、日本を愛しているのである。自分が日本人というステータスを保証してくれるものは日本という国家だからである。それ故に、愛国心は国を愛しているように見えるが、真実は、自分を愛しているのである。それに気づかなければ、愛国無罪のような罪を犯すことになるだろう。それは、また、愛郷心、家族を愛する心、愛社精神、愛校心、恋愛、友情、宗教心も同様である。しかし、愛国心とは、畢竟、自分を愛していることだと認めることは、決して、愛国心の終わりではない。愛国心の始まりである。ところで、精神分析の用語に、エディプス・コンプレックスがある。エディプス・コンプレックスについて、岩波哲学・思想事典では次のように説明している(抄出)。「父に代わって母と性的関係を結ぼうとする無意識の欲望から生ずる観念の複合体。父への殺意と母への恋慕という感情的側面と、人間が過去の文化的遺産を引き継ぐための図式という構造的側面がある。このコンプレックスの感情的側面は、しばしば人間主体の社会的成熟と結びつけられる。母への性的欲望はまず父によって持たれたものであるから、このコンプレックスにおいて主体は父の欲望を模倣することになり、その結果彼の欲望は規範化される。また欲望の対象である母に代えて、やがて母と同価値を持つ性的対象を見出すことにより、主体は自ら父親になると同時に、交換という社会的システムの中に導入されることになる。」エディプス・コンプレックスを最初に唱えたのはフロイトだが、フロイトは母に育てられた男子は必ずこのような経験を持つと説いている。エディプスの欲望とは、男児の欲望だが、それは、「父に代わって母と性的関係を結ぼうとする無意識の欲望から生ずる観念の複合体」であるから、当然、父も許さず、社会も許さない。それを許すと、家族関係が破綻し、社会の秩序が乱れるからである。男児は、自らの欲望を抑圧し、「欲望の対象である母に代えて、やがて母と同価値を持つ性的対象を見出すことにより、主体は自ら父親になると同時に、交換という社会的システムの中に導入されることになる」のである。エディプス・コンプレックスとは、男児という幼児が自らの欲望を抑圧して、大人の男性として社会に出ていくための過渡期にあるものである。愛国心もまた幼児の欲望ということができる。日本人は、日本という国に育っていくので、必ず、愛国心を抱くのである。男子は、自分の存在を保証してくれので、母を愛すのである。日本人は、日本人という自らの存在を保証してくれるので、日本という国を愛すのである。しかし、「母への性的欲望はまず父によって持たれたものであるから」、父の権威が壁になり、男子はその思いは断念せざるを得なくなる。そして、男子は、「欲望の対象である母に代えて」、「母と同価値を持つ性的対象を見出すことに」になるのである。このように、父親と社会が男子の欲望の暴走を止める。男子の暴走を止めなければ、家族関係、社会体系が不都合状況に陥る。それでは、愛国心を強く抱いている人の暴走を止めるのは何であろうか。子供は無垢な存在だとして、男子の母親に対する欲望を許すべきではない。それと同様に、愛国心は国に対する純粋な思いだとして、愛国無罪という犯罪を許すべきではないのである。男児の欲望が「欲望の対象である母に代えて、やがて母と同価値を持つ性的対象を見出す」ようになるように、愛国心もまたむき出しの行為ではなく、ワールドカップやオリンピックなどで日本を応援すれば良いのである。愛国心もまた幼児の欲望なのである。それ故に、男児の欲望も愛国心も恥ずべき心情なのである。むき出しにしてはならないのである。むき出しにしたいからこそ、むき出しにしてはならないのである。それは、アイデンティティーを基本とした心情だからである。アイデンティティーとは、各々の共同体(構造体)において、「他者や共同体からも認められていること」や「他者から区別される独自の性質や特徴」を自認した時に生まれるものであり、それを他の人に発露することは、他の人に対する挑戦となるからである。誰しもが、アイデンティティを持つと、それを発露したくなる。それ故に、それを実践すると争いになるのである。それ故に、大人は、発露したいという幼児の心情を恥じて、抑圧するのである。それは、愛郷心、家族を愛する心、愛社精神、愛校心、恋愛、友情でも同様である。故郷、家族、会社、学校、恋人、友人にアイデンティティを得れば、だれでも発露したくなる。しかし、それを発露することは、他の人も抑圧していたアイデンティティーを発露し、争いになるのである。それ故に、大人は愛国心を発露しないのである。つまり、愛国心の発露は幼児の行為なのである。子供は正直だと言う。それと、同様に、愛国心の発露も正直な心情の吐露である。しかし、それは、後先を考えない、幼児の行為である。日本人の愛国主義者と中国の愛国主義者の争い、日本人の愛国主義者と韓国の愛国主義者の争いは、幼児の争いである。幼児の悪行は大人が止めなければいけない。しかし、日本、中国、韓国の最高指導者は、それを止めるどころか、むしろ、たきつけている。彼らもまた幼児的な思考をしているからである。それ故に、愛国心による批判合戦は収まる気配は一向になく、むしろ拡大している。それ故に、為政者を変えない限り、おさまらないだろう。