あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

ベッキーの不倫騒動の事件性(脱構築の向こうに何がある(その2))

2016-03-17 18:39:40 | 思想
週刊文春が、人気者のマルチタレントのベッキーが、川谷絵音という妻のあるミュージシャンと不倫関係にあると、暴き出した。ベッキーは、それを否定しつつ、謝罪会見をした。だが、後に、週刊文春が、二人のラインを暴露し、二人は反省していないどころか、結婚するつもりでいることを明らかにした。ベッキーは、清純派のイメージを崩し、嘘をついたということで、全てのテレビ番組、ラジオ番組を失い、スポンサーからコマーシャル契約を解除された。川谷絵音は、ファンの前では、迷惑を掛けたと謝罪したが、公式の場では謝罪しなかった。最近の週刊文春の取材では、迷惑を掛けた人に謝罪するのは当然だが、何ら関係のない一般世間に対して謝るつもりはないと言っている。言うまでもなく、この事件で、最も傷付いたのは、川谷絵音の奥さんである。そして、迷惑を被ったのは、ベッキーの所属事務所、コマーシャルでベッキーを使っていたスポンサーである。そして、ベッキーとベッキーの所属事務所は、スポンサーに違約金を支払う予定だと言われている。確かに、ベッキーと川谷絵音は、迷惑を掛けた人たちに対して、できる限り、責任を取ろうとしている。ベッキーは、川谷絵音の奥さんに、謝罪の手紙を書いたということである。しかし、やはり、テレビ番組では、ほとんどのコメンテーターが、何ら関係のない一般世間に対して謝るつもりはないと言う川谷絵音に対して、反省が足りないと批判している。巷のインタビューでも、大衆は、コメンテーターと同じく、川谷絵音に反省が足りないと批判している。しかし、果たして、マスコミや大衆が言うように、川谷絵音に反省が足りないのか。川谷絵音は謝罪を表明すべきなのか。それとも、川谷絵音が言うように、何ら関係のない一般世間に対して謝罪する必要はないのか。端なくも、ベッキーの不倫騒動は、芸能人、マスコミ、大衆の関係性が如実に表面化した。マスコミは、芸能人のスキャンダルを記事にしたり、放映したりすることによって、命脈を保っている。なぜ、芸能人のスキャンダルを材料にするのか。それは、大衆が好むからである。ハイデッガーが言うように、大衆とは、世間話、好奇心、曖昧さの塊なのである。世間話とは、多くの人が、根も葉も無い話を無責任に語り合うことである。そこには、仲間意識があり、安心感がある。好奇心とは、上滑りに話題を取り上げ、ひたすら興味本位に追求することである。そこには探究心は存在しない。だから、疲労感が無く、長く話せるのである。曖昧さとは、責任の所在を明確にせず、行動したり、話したりすることである。無責任であるから、常に、気楽な状態にいられる。まさしく、大衆は、ベッキーの不倫騒動に対しても、世間話、好奇心、曖昧さを基に楽しんでいるのである。もちろん、大衆は、自らが好奇心の塊であることに気付いていない。大衆は、川谷絵音の奥さんに対しての同情の言葉を発して、自らが優しい人間だとアピールしている。また、自ら、そう思い込んでいる。ベッキーと川谷絵音の不倫を断罪することによって自らが正しい人間だとアピールしている。大衆は、他の大衆と同じように、ベッキーと川谷絵音の不倫を断罪し、川谷絵音の奥さんに対しての同情の言葉を発して、他の大衆と仲間意識を持って、安心感を得ている。他の大衆と同じ意見を吐いているから、自分の言葉に責任を取る必要が無く、心強い。安心して、ベッキーの不倫騒動にうつつを抜かすことができる。しかし、大衆がベッキーの不倫騒動をこのような形で世間話を語るように仕向けたのはマスコミである。しかし、それは、マスコミの恣意的な操作ではない。マスコミは、大衆の動向を鳥瞰して、嘲笑していない。むしろ、マスコミと大衆は同じ方向性にある。マスコミも、大衆の一人なのである。マスコミは、大衆だから、大衆の気持ちがよくわかり、大衆の好みそうなものを記事に取り上げたり、放映したりするのである。マスコミは、先鞭を付けただけなのである。確かに、川谷絵音は、奥さんには謝罪すべきであろうし、もうすでにしてしまったことであろうが、本質的には、彼が言うように、何ら関係のない一般世間に対して謝罪する必要はない。だから、このまま、自らの信念を押し通しても、何ら道義に違反しない。また、ベッキーも、同様に、川谷絵音の奥さんには謝罪すべきであろうが、本質的には、何ら関係のない一般世間に対して謝罪する必要はない。しかし、ベッキーは、不倫を否定しつつ、マスコミを通じて、一般世間に対して謝罪した。なぜ、川谷絵音は謝罪せず、ベッキーは謝罪したのであろうか。それは、川谷絵音は謝罪しなくてもミュージシャンとして生きていけるが、ベッキーは謝罪しなければタレントとして生きていけなかったからである。川谷絵音は、音楽業という構造体(自分の活躍の世界)に属しているが、ファンと関係性を築ければ、ミュージシャンというステータス(自分の社会的な位置)を維持できるのである。だから、川谷絵音は、ファンだけには謝罪したのである。そして、ファンが許してくれたから、今もって、ミュージシャンとして、活躍できるのである。ベッキーは、放送業界という構造体に属しているが、大衆と関係性を築かなければ(人気を得なければ)、タレントというステータスを失ってしまうのである。だから、不倫を否定しつつ、マスコミを通じて、一般世間に対して謝罪したのである。しかし、その後、週刊文春が、二人のラインの会話文を暴露し、二人が反省することなく、結婚するつもりであることが示され、ベッキーが嘘を言っていたことがわかってしまった。そのため、ベッキーは、放送業界から見放され、大衆から不信感を持たれ、タレントというステータスを維持できなくなり、全てのテレビ番組、ラジオ番組を降板し、謹慎生活に入らざるを得なかった。最悪の結果になってしまった。それでは、ベッキーは、放送業界にとどまり、タレントというステータスを維持するためにはどうしたら良かったのだろうか。まず、最初に考えられるのは、不倫を否定するのではなく、不倫を肯定して、マスコミを通じて、一般世間に対して謝罪すべきであったということである。そうすれば、逆に、放送業界や大衆からから正直者として評価され、タレントというステータスを維持できたかもしれない。しかし、それが裏目に出て、放送業界や大衆から不倫者として非難され、一挙に、タレントというステータスを失ったかもしれない。しかし、週刊文春が、二人はホテルに同宿したり、川谷絵音がベッキーを実家に連れて行っていることを記事にしているから、ベッキーが不倫を否定しても、放送業界や大衆は信用するはずはないのである。むしろ、不倫を肯定して、マスコミを通じて、一般世間に対して謝罪すべきであったのである。ベッキーは賭けに失敗したのである。次に、考えられるのは、週刊文春が、最初の記事を出した時点で、二人は交際をやめるべきであったということである。そうすれば、週刊文春が、次の記事で、二人のラインの会話文を暴露することもなく、ベッキーが嘘を言っていたと指摘されることもなかったのである。確かに、ベッキーは不倫を否定した記者会見をしたから、一定の不信感は抱かれただろう。しかし、全てのテレビ番組、ラジオ番組から降板させられることはなかっただろう。細々と、タレント活動は続けられたはずである。そして、暫くして、噂が消えれば、活躍の舞台が再び広がるだろう。しかし、これは、無理な考えである。なぜならば、二人は愛し合っていたからである。恋愛感情が、意志で生まれるのならば、意志で止めることはできる。しかし、恋愛感情は、無意識、つまり、深層心理が生み出すから、容易に止めることはできないのである。だから、週刊文春に記事を出たぐらいでは、二人の愛情は冷めることがないのである。こうして、ベッキーは放送業界から去ることになった。それまでは、多くのテレビ、ラジオ番組で、司会者として活躍し、多くのコマーシャルでは、イメージ・キャラクターとして採用されていたが、不倫騒動で、全てを失った。しかし、本来的には、テレビ番組、ラジオ番組、コマーシャルの仕事と不倫騒動は関係が無い。しかも、ベッキーは、司会者として高い評価を受け、コマーシャルタレントとしては人気があった。さらに、不倫は刑事罰の対象項目に含まれていない。しかし、放送業界から追放されたのである。それは、ベッキーの清潔感、誠実性が崩れたからである。司会者としての才能やコマーシャルタレントとしての表現力よりも、清潔感や誠実性が重視されたのである。むしろ、清潔感や誠実性が、司会者としての才能やコマーシャルタレントとしての表現力を支えていたと言っても良い。大衆が、ベッキーに、清潔感や誠実性を求め、ベッキーがそれに応えていたから、人気を博し、放送業界の人々も、大衆のその動向を喜んでいたのである。放送業界は、大衆との深い関係性で成り立っているから、大衆の視線を気にせざるを得ないのである。それは、視聴率となって現れるのである。放送業界は、大衆の世間話、好奇心、曖昧さに迎合せざるを得ないのである。ベッキーのタレント能力は、そのような、実体のない清潔感、誠実性に支えられていたものであったから、不倫騒動で、放送業界から放出されたのである。司会やコマーシャルの仕事に直接関係がなく、刑事罰の対象にならない、不倫騒動で、放送業界から放出されたのである。しかし、それでは、日本において、実体のあるタレントは存在するのだろうか。誰しも、自信をもって、実体のあるタレントを名指すことはできないだろう。実体のないタレントならば、何人でも思い浮かんで来る。その典型なのがアイドルである。アイドルとは、一般に、若手タレントの人気者を指しているが、本来の意味は、偶像である。タレントも偶像である。ベッキーも、清潔感や誠実性にかたどられた偶像だったのである。だから、不倫と虚言によって、清潔感や誠実性のイメージがはぎとられると、放送業界から去るしかなかったのである。しかし、実体のない(偶像に満ちた)タレントこそ、放送業界の重要な一翼を担っているのではないか。タレントに実体がないから、次から次へと消えていくのである。次から次へと消えていくから、次から次へと生まれてくるのである。その新奇さが、大衆の好奇心を満足させるのである。タレントには、大衆の好むイメージさえあれば良く、実体が無くても良く、次から次へと生まれてくるから、我も我もと若者はタレントになりたがるのである。大衆の好むイメージには、清潔感、誠実性以外に、爽やかさ、若々しさ、清楚、可愛らしさ、美しさ、上品さ、優しさなど、様々なものがる。つまり、放送番組は、実体のない、イメージに満ちた、想像の世界なのである。そこに、ベッキーが、不倫や虚言という実体を持ち込んだから、去らざるを得なかったのである。これからも、放送業界には、タレントが、次から次へと生まれてくるだろう。そして、その新奇さが飽きられて消えていくか、ベッキーのように実体を持ち込んだために消されていくだろう。放送業界とは、虚構の構造体なのである。タレントは、放送業界という虚構の構造体に属し、放送業界人、マスコミ、タレントという関係性の中で、そのステータスを得ているから、タレントというステータス自身が虚像なのである。しかし、この世で、虚構でない構造体、変化しない関係性、虚像でないステータスは、存在するのだろうか。確かな構造体、固定した関係性、実像としてのステータスが存在しないから、人間は不幸なのか。むしろ、構造体は虚構であること、関係性は変化すること、ステータスは虚像であることを認めて、生きて行った方が幸福になれるのではないか。しかし、人類は、これまで、確かな構造体、固定した関係性、実像としてのステータスを信じて、追い求めて、歴史を形成して来たのではなかったか。それが幸不幸の源泉ではなかったのか。それを方向転換して、構造体は虚構であること、関係性は変化すること、ステータスは虚像であることを認めて、生きることはできるのか。構造体は虚構であること、関係性は変化すること、ステータスは虚像であることを認めることの向こうに何があるのか。それは不可能かもしれない。何もないかもしれない。しかし、これからも、追い究めてみよう。

恋愛感情とストーカー(脱構築の向こうに何がある(その1))

2016-03-14 15:20:26 | 思想
1999年10月26日、桶川ストーカー殺人事件が起こった。女子大生の猪野詩織さんが、JR桶川駅前の路上で刺殺されたのである。犯人は、小松和人と兄の小松武史が多額の報奨金で雇った、小松和人が経営する風俗店の店長の久保田祥史であった。小松和人と猪野詩織さんは一時恋愛関係にあった。だが、交際していくうちに、詩織さんは、乱暴で独占欲の強い小松和人が嫌になり、別れを告げた。しかし、小松和人は、詩織さんを諦め切れず、付き纏い、嫌がらせを繰り返した。それでも、詩織さんの気持ちが戻らないので、小松和人は兄の小松武史に相談し、久保田祥史に殺人を依頼した。久保田祥史は、JR桶川駅前の路上で、ナイフで、何度も、詩織さんを刺したのである。雑誌フォーカスの記者の清水潔さんは事件を追及し、清水潔さんや警察に追い詰められた小松和人は、北海道に逃亡し、屈斜路湖で自殺した。小松和人の母と妹は、清水潔さんを批判し、猪野詩織さんをなじって、和人の死に涙した。この事件を契機に、ストーカー規制法が成立した。また、埼玉県上尾署の担当署員は、伊野詩織さんや家族の訴えをまともに聞こうとしなかったばかりか、訴えの事実を隠蔽・改竄したので、懲戒免職になり、裁判でも有罪判決を受けた。さて、この事件を契機に、ストーカーという言葉が広まり、「ある相手に対して、一方的な恋愛感情や関心を抱き、執拗に付け回して、迷惑や被害を与える人」(明鏡国語辞典)という意味で使われるようになった。しかし、恋は、全て、一方的な恋愛感情から始まる。1976年に三木聖子が歌い、1981年、石川ひとみがカバーして大ヒットした「まちぶせ」という歌は、今でなら、ストーカーを賛美した歌だと批判されても、おかしくはない。「まちぶせ」というタイトル名にしてそうだが、現に、「偶然をよそおい、帰り道で待つわ」という歌詞の一節まである。時代性だと片づけられない問題を含んでいる。その問題とは、恋愛感情には、常に、ストーカー的な心情が伴っているということである。確かに、桶川ストーカー殺人事件は、実に悲しく、残酷な事件である。小松和人にストーカーされた挙句、小松和人とその兄の小松武史に雇われた久保田祥史に殺された猪野詩織さんはとてもかわいそうである。小松和人、小松武史、久保田祥史の残虐性は、どれだけ非難しても非難し尽くせない。特に、小松和人は、後に自殺することになったが、その罪は、それで償われるものではない。しかし、小松和人に限らず、人間とは、恋に陥ると一方的に恋愛感情を抱き、失恋しても相手のことを追い続けてしまう動物なのである。もちろん、どれだけ好きであったとしても、どれだけ失恋の痛手が大きかったとしても、相手を執拗に付け回して、迷惑や被害を与える人は、その罪を問われて当然である。しかし、誰しも、一旦、恋をすれば、失恋してしまった後も、心の中では、常に、相手を追っていて、それを行動に移したい欲望に駆られているのである。その欲望を抑えられない人が、時には、相手を執拗に付け回して、迷惑や被害を与えるのである。それがストーカーである。だから、誰しも、ストーカーになる可能性を持っているのである。しかし、ほとんどの人は、自分はストーカーになるはずがないと思っている。自分は、恋をしても、失恋しても、欲望に駆られて、相手を執拗に付け回すことは無いと思っている。確かに、多くの人は、恋をしている時は、失恋の憂き目に遭いたくないために、相手に迷惑や被害を与えるような近づき方はしないだろう。問題は、失恋した時である。なぜならば、誰しも、相手から別れを告げられても、すぐには気持ちの切り替えができず、すぐには相手のことを忘れることはできないからである。相手は自分を避けようとしているのに、自分は、依然として、相手の姿を追っている。そして、その中から、欲望に駆られて、相手の迷惑や被害を顧みずに、執拗に付け回す人が出てくる。それがストーカーなのである。それでは、その欲望は、どこから生まれてくるのか。それは、自分の意志から生まれてくるのではない。自分が生み出したものではない。恋愛感情と同様である。恋愛感情もストーカーの感情も、自分の意志から生まれてはこない。すなわち、自分が生み出したものではない。もしも、自分の意志から、恋愛感情やストーカーの感情が生まれてくるのならば、自分の意志によって、それを消すことは容易にできるだろう。それは、自分の意志ではなく、自分の深層心理から生まれてくるのである。すなわち、深層心理がストーカーを生み出しているのである。深層心理は、一般に、無意識と表現され、奥深くに隠れている心の動き・外に現れない無意識の心の働きを意味する。ラカンの「無意識は言語によって構造化されている」という言葉は、無意識、つまり、深層心理の動き・働きを的確に表現している。ラカンの言うところを簡潔に記せば、我々の深層心理が言語を介して思考しているということである。つまり、我々は、自らの意志で思考しているのではなく、我々の意識していないところで、換言すると、深層心理で思考しているのである。恋愛感情、恋愛行為、ストーカーの感情、ストーカー行為は、全て、深層心理が言語を介して思考して生み出したものなのである。そして、深層心理で思考されたことが、全て、我々に意識化されるわけではない。意識化されない場合と意識化される場合がある。意識化されない場合の思考による行動、換言すると、無意識下の行動には、習慣化された行動が多い。例えば、朝起きると、自分の部屋にも、寝ていたベッドにも疑問を抱かず、ベッドから降りるのも、洋服ダンスを開けるのも、階段を下りるのも、トイレに行くのも、顔を洗うのもスムーズに行えるのは、自分で意識して、考えて、行ってはいないからである。つまり、無意識下で行っているからである。しかし、無意識下の行動と言っても、誰も考えていないわけではない。深層心理が考えているのである。だから、どこかに、異状があったならば、つまり、習慣が破れたならば。例えば、洋服ダンスや階段に異状があったならば、深層心理がそれを感知し、思考し、意識に上らせる。そして、対応を考える。しかし、意識化される場合の思考による行動、換言すると、有意識下の行動は、無意識下の行動のようには、単純ではない。有意識下の行動とは、まず最初に深層心理が思考し、そして、それを受けて表層心理が思考し、そして、その後で、深層心理が思考して出した結果と表層心理が思考した内容の葛藤(戦い)があり、その結果、決定された行動である。ちなみに、表層心理の思考は、厳密に言えば、思考ではなく、想像である。深層心理が思考して出した結果のように行動したら、どのような事態になるか想像することなのである。それでは、猪野詩織さんに失恋して、ストーカーになった小松和人の行動について、深層心理による思考と表層心理による思考の関わりの面から、説明していこうと思う。小松和人の深層心理は、彼に、詩織さんとよりを戻すために積極的に近づくように指示したはずである。この時は、まだ、彼の表層心理は、よりを戻した後の幸福な映像を想像したかもしれない。しかし、彼は、深層心理の言うままに、執拗に詩織さんに付け回したが、詩織さんは、迷惑がるばかりで、より彼を疎んずるようになってしまった。この時、彼の表層心理は、これ以上突き進んでも無駄であり、未来においての絶望的な状況を彼に想像させたはずである。冷静に判断して、ここで思いとどまるべきであった。そうすれば、ストーカーまではならなかった。詩織さんは殺されることはなかった。小松和人自身、自殺しなくても良かった。なぜ、冷静な判断ができなかったのだろうか。それは、深層心理の苦痛が激しすぎたからである。深層心理の思考は、常に、感情とともにも生まれている。深層心理は、現状に反応し(認識し)、そして、それを受けて感情が生まれ、そして、現状認識と感情を受けて、次の行動を思考するのである。小松和夫の深層心理は、失恋を認識し、苦悩し、その失恋の苦悩から脱するために、よりを戻そうとして付き纏うように、彼に指示し、彼はそれに従ったのである。しかし、それは功を奏さなかった。その時、彼の表層心理は、彼の行動は、未来においても、絶望的な状況をもたらすということを彼に告げた。しかし、彼は、引き下がることを決断しなかった。あまりに、失恋の苦悩が大きかったからである。そして、彼の深層心理は、失恋の苦悩から脱するために、この世からの詩織さんの抹殺を思考した。もちろん、表層心理は、それが露見すれば、自ら自身が破滅することを告げた。そこで、彼は、自らの犯罪だと露見しないように、他者に託した。それが、久保田祥史による詩織さんの殺害であった。このようにして、小松和人というストーカーの犯罪が生まれたのである。さて、これまでは、深層心理と表層心理の関わりで、小松和人の心理と行動を追ってみたが、次に、それを、自我と超自我の関わりで追ってみよう。自我とは、何か。自我を定義することから始めよう。自我とよく似た意味の言葉に、我、私、自分、自己、自身などがある。いずれも一人称を指す言葉である。しかし、自我は、他の一人称を指す言葉と異なった意味を持っている。自我には二つの重要な要素がある。ステータスと欲望である。まず、自我の第一の要素である、ステータスについて、説明しよう。我々には、いついかなる時においても、常に、ステータスがあてがわれている。ステータスの無い自分は存在しない。自己独自の生き方は存在しない。他者と関わりのない生き方は存在しない。ステータスが自分なのである。ステータスとしての自分を自我と言う。同一人物でも、構造体が違えば、別の関係性の下で、別のステータスを持つ。例えば、山田一郎は、家族の中では父になり、妻と二人きりになれば夫になり、電車の中では乗客になり、コンビニに入れば客となり、会社へ行けば社員になり、同窓会に参加すれば旧友となり、ホテルに泊まれば宿泊客になるのである。父、夫、乗客、客、社員、旧友、宿泊客がステータスである。家族、妻と二人の時間、電車、コンビニ、会社、同窓会、ホテルが構造体である。家族関係、夫婦関係、電車の中での人間関係、コンビニの中での人間関係、会社の中での人間関係、同窓会の中での人間関係、ホテルの中での人間関係が関係性である。人間誰しも、ステータスを持っていなければ、生きる方向性が見いだせない。この世に生きていけない。だから、誰しも、ステータスを失うことを恐れ、ステータスが失われそうになった時や失った時には、苦悩するのである。そして、ステータスを支えているのは、構造体・関係性である。だから、誰しも、構造体・関係性が壊れることを恐れ、構造体・関係性が壊れそうになった時や壊れた時には、苦悩するのである。ちなみに、認知症の中核症状の一つの見当識障害は「時間や空間、人、場所などについて正しい認識ができなる症状」を言うが、その症状こそ、まさしく、構造体・関係性、ステータスを正しく認識できない状態にあることを意味し、だからこそ、生きる方向性が見いだせず、この世に生きていけないのである。それでは、ステータスは、どのように定義されるか。ステータスは、社会的な地位・階級、法律上の地位・身分、職業上の地位・身分と定義される。簡単に言えば、社会的な役割を意味する。小松和人の場合、生前、三つのステータスは明確に存在していた。その三つとは、恋人、風俗店のオーナー、次男である。各ステータスは、ある特定の構造体の中でしか、そして、ある特定の関係性の下でしか、機能しない。小松和人の場合、恋人いうステータスは、猪野詩織さんとの恋人同士という構造体の中で、猪野詩織さんとの恋愛関係という関係性の下で、機能していた。だから、詩織さんが、自分を避けよう、離れよう、別れようとしているのを知った時、小松和人は苦悩したのである。それは、猪野詩織さんとの恋人同士という構造体が壊れるとともに、猪野詩織さんとの恋愛関係という関係性が壊れ、恋人いうステータスを失うことを意味しているからである。その苦悩から逃れるためには、猪野詩織さんとの恋人同士という構造体を建て直し、猪野詩織さんとの恋愛関係という関係性を修復し、恋人いうステータスを取り戻す必要があった。そして、そのための行動が、執拗に付け回すという行為であった。ストーカー行為である。小松和人に、このような苦悩の感情にもたらし、このようなストーカー行為に向かわせたのは、小松和人の深層心理である。小松和人は、自らの深層心理によって、大きな過ちを犯してしまったのである。さて、人間誰しも、ステータスが無ければ、自分は存在しない。ステータスが無ければ、この世に生きていけない。ステータスが無ければ、社会的な関係は存在しない。ステータスが無ければ、人間関係は営めない。人間誰しも、ステータスとして生きているのであり、ステータス以外のところで生きることはできない。自分であるとは、ステータスとしての自分であるということであり、ステータスを除いて、自分は存在しない。しかし、ステータスは与えられたものである。自分からステータスを名乗っても、社会的にそれが認められなければ、他者からそれが認められなければ、何の意味も持たない。自分があるステータスを獲得したと思っても、社会的に認められなければ、他者から認められなければ、有名無実である。つまり、ステータスは、社会の支配下、他者の支配下に置かれているのである。生きるということは、ステータスの獲得、ステータスの維持、ステータスの承認を目的として生きているということなのである。これが、自我の第二の要素である、欲望の意味である。我々人間は、いついかなる時でも、ステータスの獲得、ステータスの維持、ステータスの承認を欲望して生きているのである。小松和人は、一時的に、伊野詩織さんと相思相愛関係になり、恋人同士という構造体を形成し、恋人というステータスを獲得し、不承認の者はいなかった。しかし、乱暴で独占欲が強かったために、詩織さんは幻滅し、恋人というステータスを捨てた。それは、言うまでもなく、恋人同士という構造体が壊れ、恋愛関係が壊れ、小松和人も恋人というステータスを捨てなければならないことを意味していた。所謂、失恋である。ここで、小松和人が潔く詩織さんを諦めていれば、何の問題も無かった。悲劇は起こらなかった。しかし、小松和人は諦めるどころか、ストーカー行為まで行った。その挙句に、惨劇である。しかし、小松和人に限らず、誰しも、簡単には失恋を認めることができない。相手に別れを告げられても、それを簡単には認めることができない。それは、非常に苦しいことだからである。恋人同士という構造体が壊れ、恋愛関係という関係性が壊れ、恋人というステータスを捨てることは、非常に苦しいことなのである。なぜならば、我々は、いついかなる時でも、ある構造体の中で、ある関係性の下で、あるステータスを得て、それに基づいて生きているからである。我々の生活は、構造体、関係性、ステータス無くしては存在しないのである。だから、恋人同士という構造体、恋愛関係という関係性、恋人というステータスでなくても、慣れ親しんだ、構造体、関係性、ステータスを簡単には捨てることはできないのである。特に、恋人同士という構造体、恋愛関係という関係性、恋人というステータスの奥底には、リピドー(性欲)が存在し、それが充実すれば、快楽をもたらすから、簡単には、失恋を認めることができないのである。小松和人の自我(深層心理)は、失恋の苦悩から逃れるために、猪野詩織さんとの恋人同士という構造体を建て直し、猪野詩織さんとの恋愛関係という関係性を修復し、恋人いうステータスを取り戻すための方法を考えた。それがストーカー行為であった。しかし、人は失恋すると、小松和人のような一部の者しか、ストーカー心情に陥るのではない。全員が、ストーカー心情に陥り、暫くは、心の中で相手の姿を追っているのである。しかし、ほとんどの人は、ストーカー行為に走ることはない。それは、なぜか。そこに、超自我という精神機能が働くからである。超自我(表層心理)とは、「社会的価値を取り入れ、あるべき行動基準によって自我を監視するもの」である。つまり、失恋者のほとんどは、ストーカー行為を働くと、社会的に罰せられるから、それが抑制されるのである。しかし、失恋者の一部は、自我(深層心理)が強過ぎるために、超自我(表層心理)の抑制が効かず、ストーカー行為に走ってしまうのである。言うまでもなく、小松和人もここに属しているのである。だから、ストーカーは、皆、自らの行為が社会的に罰せられるものだということは知っているが、自我(深層心理)が強過ぎるために、とめることができないのである。また、小松和人は、女性に持てなかったわけではない。フォーカスの記者である清水潔さんは、小松和人には何人もの彼女がいて、詩織さんによく似た女性もいると記している。それでも、小松和人の自我(深層心理)は、詩織さんとの恋愛関係が破綻することを許さなかったのである。世の中には、一人の女性も恋人にできない男性もいる。大抵の男性は、一人の女性を恋人にして満足している。そして、失恋してストーカー的心情に陥っても、ストーカーにはならない。しかし、小松和人は、多くの女性と恋愛関係になり、詩織さんに似た人を恋人にしていても、詩織さんが去ることを許さなかった。それは、決して、詩織さんが特別な女性であったからではない。たとえ、詩織さん以外の人が、恋愛関係を解消しようとしたとしても、小松和人は許さなかっただろう。小松和人の自我(深層心理)が許さないのである。小松和人は、自我(深層心理)として、恋人同士という構造体、恋愛関係という関係性に執着し、恋人というステータスを一つでも失うことを許さないものを持っていたのである。確かに、小松和人は、恋人同士という構造体を形成し、恋愛関係という関係性を築き、恋人というステータスを維持するには、不向きの人間であった。しかし、全ての構造体・関係性・ステータスに不向きであったわけではない。少なくとも、二つの構造体、関係性、ステータスを上手くこなしていた。小松家という構造体、小松家の家族関係という関係性、小松家の次男というステータスと風俗業界という構造体、風俗業界の人間関係という関係性、風俗店のオーナーというステータスは上手くこなしていた。だから、小松和人の母と姉は、小松和人を追い詰めた清水潔さんを非難し、小松和人を振った猪野詩織さんをあばずれだとなじったのである。そこには、加害者の小松和人をいたわる気持ちがあっても、被害者の猪野詩織さんをいたわる気持ちは全くない。人間性が無い。しかし、家族とはこのような存在なのである。小松和人の母と姉は、家族の自我(深層心理)に取りつかれているのである。しかし、人間とは、このように作られた動物なのである。構造体、関係性、ステータスにこだわるように作られた動物なのである。二人は小松家という構造体、小松家の家族関係という関係性、小松和人の母・姉というステータスにこだわっているだけなのである。確かに、二人は正しい判断をしていない。二人の恨みは逆恨みである。常軌を逸している。しかし、家族とは、常軌を逸した、過大評価をする存在者ではないだろうか。次に、実行犯である久保田祥史について、触れよう。久保田祥史は、猪野詩織さんと直接の面識はない。もちろん、詩織さんから、迷惑をこうむっていない。それでも、小松和人と小松武史に頼まれただけで、詩織さんを刺殺したのはなぜか。報奨金を受け取っているが、久保田祥史はプロの殺し屋でもなく、生活に困っていた様子もない。だから、報奨金が主要因ではない。主要因は、久保田祥史にとって、小松和人が上司であったことである。久保田祥史は風俗店の店主であり、そのオーナーが小松和人であった。だから、オーナーとその兄の頼みごとを断れなかったのである。久保田にとって、小松和人と小松武史の頼みごとを断ることは、風俗店という構造体から追い出され、風俗業界との関係性を絶たれ、風俗店のオーナーというステータスを失うことになるからである。もちろん、久保田祥史の行動は非難されて当然である。しかし、自分が久保田祥史の立場に立たされた時、何人の人が勇気をもって断ることができるだろうか。確かに、これは、殺人という極悪犯罪だから、言下に、断ると断言する人は多いだろう。しかし、もしも、自分が犯人だと露見しない可能性が高かったならば、どうであろうか。構造体、関係性、ステータスにこだわって、引き受けたのではないだろうか。久保田祥史も、自分が犯人だと露見しない可能性が高かったから、実行したようなのである。ちなみに、この世の犯罪のほとんどは、構造体、関係性、ステータスにこだわることによって起こっている。久保田祥史の犯罪は決して例外ではない。巷には、犯罪とまでいかなくても、構造体、関係性、ステータスににこだわることによって起こる過ちに満ち溢れている。それを端的に示しているのが、政治家、裁判官である。例えば、自民党や公明党の国会議員は、国民との関係性より、自らが属している政党との関係性を重視しているから、安倍晋三内閣が提出した安保関連法案に賛成したのである。彼らは、選挙の際だけは、国民との関係性を強調する。裁判官は、自民党との関係性が深いから、国民が反対しているのに、原発の再稼働を許すのである。彼らは、国民の生活より、政権から見た自らのステータスを守ろうとしているのである。次に、なぜ、埼玉県上尾署の担当警察官は、伊野詩織さんや家族の訴えをまともに聞こうとしなかったばかりか、訴えの事実を隠蔽・改竄したのだろうか。それは、次のような事情による。この警察官は、上尾署という構造体に属していたが、上尾署は、署内の警察官の関係性において、ストーカー被害などを扱うことに消極的な態勢だったのである。そこで、この警察官もそれに従って、伊野詩織さんや家族の訴えをまともに聞こうとしなかったのである。この警察官は、そのような行動を取っても、上尾署という構造体では、十分に警察官というステータスを維持できたのである。しかし、マスコミにそれが露見されそうになったので、彼は、必死に隠蔽・改竄し、察官というステータスを守ろうとしたのである。結局、彼の行為が明らかになり、懲戒免職になり、有罪判決を受けてしまった。自業自得であり、因果応報である。しかし、何人の人が、この警察官を非難し、嘲笑できるだろうか。この世に、自らの属している構造体に縛られず、関係性を客観視し、ステータスを離れて考えられる人は、何人存在するだろうか。最後に、雑誌フォーカスの記者の清水潔さんについて、触れよう。清水さんの意欲的な捜査があったから、猪野詩織さんの殺害の裏側がわかったのである。清水さんの尽力が無かったならば、この事件は、単なる通り魔事件として扱われ、迷宮入りしたかもしれない。なぜならば、上尾署は、自らの落ち度を隠すために、積極的にこの事件を解決しようとしていなかったからである。彼らには、上尾署という構造体、上尾署内の警察官の関係性、警察官というステータスが、何よりも大切だったのである。しかし、清水潔さんの雑誌フォーカスの記事が他のマスコミや世論を動かしたので、上尾署もストーカー事件として動かざるを得なかったのである。そして、追い詰められた小松和人は、北海道に逃亡し、屈斜路湖で自殺したのである。さて、それでは、清水潔さんを動かしたたものは何であったろうか。端的に言えば、所謂、記者根性である。何でも暴き出そうとする精神性である。やはり、雑誌記者というステータスが、清水さんを突き動かしていたのである。もちろん、正義感だとも言える。確かに、この桶川ストーカー殺人事件の場合、上尾署は自らの過ちを隠蔽するために、最初は、積極的に動こうとしなかったのだから、清水潔さんの正義感が、解決に導いたとも言える。しかし、雑誌記者が、芸能人の離婚や不倫を必死に追っているのを見れば、雑誌記者の本質は、正義感ではなく、記者根性であることがわかるだろう。もちろん、清水潔さん本人は、正義感だと思っているかもしれない。それは、一向にかまわない。桶川ストーカー殺人事件の場合、記者根性と正義感が重なったからである。何でも暴き出そうとする精神性と悪の構造を暴こうとする精神性が重なったのである。しかし、芸能人の離婚や不倫を必死に追っているのを見ると、それが悪の構造を暴こうとする精神性から来ていると、誰が信じられようか。さて、これまで、桶川ストーカー殺人事件に関わった人を見てきたわけであるが、全ての人が、自らのステータスに動かされて、行動しているということがわかるだろう。全ての人が、自分の属する構造体に縛られ、関係性に執着し、ステータスに取りついて、この事件に関わったのである。しかし、それは、決して、桶川ストーカー殺人事件、桶川ストーカー殺人事件に関わった人だけにとどまらない。我々は、毎日、色々な出来事の中で、色々な人間と関わって暮らしているのである。つまり、我々自身が、毎日、自分の属する構造体に縛られ、関係性に執着し、ステータスに取りついて、暮らしているのである。そこには、自由が無いのである。そこには、ニーチェの言う、永劫回帰の暮らししか存在しないのである。構造体、関係性、ステータスを脱構築しなければ、自由は得られない。しかし、それは可能なのか。しかも、得られたとして、その自由とはどのような自由なのか。真に、自由なのか。脱構築の向こうに何がある。これからも、色々な事件から、問うていきたい。

日常の心理構造と心理過程(精神疾患への道)

2016-03-05 15:00:47 | 思想
一般に、精神疾患も肉体の病気も、マイナス面しか知られていない。確かに、それらには、常に苦悩がつきまとう。だから、そこに陥りたくない。陥った場合には、できるだけ早く抜け出したい気持ちになるのは当然のことである。しかし、精神疾患とは、最も差し迫った問題を解決する苦悩から逃れるために、深層心理が選択した窮極の手段なのである。このような深層心理の働きを、フロイトは、防衛機制と呼んだ。深層心理とは、無意識の動き・働きを意味する。人間が無意識に行っていることは、深層心理の積極的な意味ある動きなのである。しかし、深層心理は、人間を苦悩から逃れさせるために精神疾患に陥らせるが、精神疾患に陥った人間が、その後、それをどのように引きずっていくかまでは考えない。だから、精神疾患は、苦悩から逃れることには一定の効果を有するが、その後は、精神疾患それ自体が、その人を苦しめることになるのである。しかし、我々は、自分の意志によって、直接的に、深層心理を動かすことはできない。深層心理とは、我々人間の心の奥底に存在する、意識されることもなく、意志によらない、心の動き・心の働きだからである。ちなみに、精神の奥底に、深層心理が存在するように、肉体の奥底に、意志によらない動き・働きをするものが存在する。それが、深層肉体である。深層心理が、自らの精神を精神疾患に陥らせて、苦悩から人間を逃れさせるようとするように、深層肉体は、自らの肉体を病気に陥らせて、細菌やウイルスが侵入した肉体を治癒しようとする。一般に、病気とは、細菌やウイルスによって肉体に異状が生じ、弱体した姿のように捉えられている。だが、真実はそうではない。真実は、深層肉体が、肉体に侵入した細菌やウイルスに対決し、死滅させようとしている姿なのである。例えば、誰しも、風邪を引くと、咳がしきりに出たり、熱が上がったりする。そうなると、多くの人は、風邪のウイルスが体内に入り、咳を生み出し、発熱させたのだと思う。しかし、真実は、そうではない。真実は、我々の深層肉体が、体内に入った風邪のウイルスを体外に出そうとして、肉体に咳をさせ、風邪のウイルスを弱らせ、殺そうとして、肉体の温度を上げているのである。もちろん、このことは、我々の無意志、無意識の下で、行われている。我々の意識に上ってくるのは、咳が出そうになっている事実、咳が出た事実、熱が上がった事実である。だから、多くの人は、咳や発熱は、風邪のウイルスによって引き起こされた体の異常の状態だと誤解しているのである。さらに、肉体が損傷すると、深層肉体は、神経組織を使って、その予防策まで講じている。それが痛みである。痛いと感じるから、我々は肉体の異常を知り、二度と同じ失敗をしないように対策を立てるのである。例えば、我々は、野原に出て、指に、痛みを感じた。見ると、血がにじんでいる。指に切り傷ができている。原因を考える。薄の葉に触れたからである。そこで、それ以後、薄に気を付けて、歩くようにする。このようにして、深層肉体は、我々に、同じ失敗を繰り返させないようにさせるのである。もちろん、深層肉体は、損傷個所の修繕にもすぐに取り掛かっている。深層肉体は、出血によって損傷個所を消毒・保護し、自らの細胞増殖によって、その箇所を再生するようにするのである。また、我々は、足を骨折したり捻挫したりすると、深層肉体が、激しい痛みを感じさせるから、足を動かさないようにするのである。そのため、足はそれ以上ひどくならないのである。そして、その後、深層肉体が、その部分を再生させるのである。さらに、手術して、治癒できるのも、深層肉体の再生力があってのことである。このように、深層肉体は、常に、自らの肉体を維持し、治療しようとしているのである。だから、深層肉体がもたらした肉体の病気や痛みは、深層心理がもたらした精神疾患と同様に、表面的なマイナス面にとらわれず、その奥底にあるプラス面を見ることによって、初めて、真の目的を知ることができるのである。また、深層肉体が存在すれば、当然のごとく、表層肉体が存在する。表層肉体とは、我々が一般に言う、体、身体、肉体の動きのことである。表層肉体とは、我々が、自らの意志の下で、歩いたり、走ったり、立ち上がったりする動きを言う。つまり、表層肉体とは、自分が意識して、自分の意志で行う動きを言うのである。言わば、深層肉体は、我々を従えさせているのに対し、表層肉体は、我々の意志に従っているのである。さて、それでは、表層肉体が従っている意志は、どこから来るのであろうか。それに対して、ほとんど全ての人は、「意志の本をたどること不可能だ」と答えるであろう。この答が正しいならば、我々は何ものにもとらわれずに意志することができるということになる。それは、まさしく、我々は自由を有しているということである。ちなみに、自由の有無が、人間と他の生物との違いだとも言われている。しかし、果たして、我々人間に、自由は存在するのだろうか。我々人間は、何にもとらわれずに、自由に選択し、行動し、意志することはできるのだろうか。例えば、歩くという現象について考えてみよう。我々は歩こうと意志し、そして、歩き出す。この場合、確かに、歩こうと意志が自分にはあった。だが、理由なくして、意志は存在しない。歩こうと意志した原因として、他の人の働きかけと自らの思いだけによるものとの二つのことが考えられる。他の人の働きかけは、命令やアドバイスや誘いなどの形で行われる。一般に、「歩け」という命令、「歩いた方が体にいいよ」というアドバイス、「一緒に歩きましょう」という誘いなどである。我々にとって、他の人からの働きかけは、全て、言葉(文、文章)を介して行われる。身振り、手ぶり、合図など、言外の働きかけも、言葉(文、文章)に解釈して理解される。例えば、「歩け」と命令された時、歩かなかったら、後で鞭で打たれるなどの罰の様子が想像されるから、歩くのである。「歩いた方が体にいいよ」とアドバイスされた時、歩かないことで寝たきりなどの困った状態が想像されるから、歩くのである。「一緒に歩きましょう」と誘われて歩くのは、その人と歩いている楽しい姿が想像されるから、歩くのである。しかし、断ることもできる。命令さえ、罰を受ける覚悟があれば、拒否することができる。しかし、それでも、拒否せず、他の人の言葉に従った。それは何によるものなのか。この問いに対して、多くの人は、「これこそ自分の意志によるものだ」と答えるだろう。確かに、その人は断ることもできたのに歩いたのだから、歩く原因はその人の意志によるものだと結論を出しても、誤りは無いように思われる。その人は、自由な選択の下で、自分の意志によって、歩いたのだということで一件落着するように思われる。そうすると、表層心理が、自らの意志の下で、歩くということを意識して歩いたということになる。人間には自由が存在することになる。しかし、事は簡単ではない。言葉(文、文章)と想像について追究すると、この結論は危うくなる。なぜならば、言葉(文、文章)と想像は、表層心理の範疇には無く、深層心理の範疇に属しているからである。例えば、「歩け」と命令された時のことを考えてみよう。「歩け」と命令された時、歩かなかった時の罰としての鞭打ちの姿が想像されるので歩いたのだが、その想像は深層心理の働きによって為されるのである。そもそも、歩けという文に限らず、我々は、他の人の言葉(文、文章)を聞くや否や、それの意味する一つの状況を想像する(思い浮かべる)。深層心理がそれを受けとめ、それの意味する状況を想像する(思い浮かべる)のである。もしも、表層心理がその機能を有していれば、我々は、自由にいろいろな状況を想像する(思い浮かべる)ことができるので、文意は、なかなか、定まらないだろう。深層心理が動くから、一つの状況しか想像されないのである(思い浮かんでこないのである)。つまり、他の人の働きかけ(語りかけ)があった場合、深層心理がそれを受け取り、解釈して、我々を歩くように仕向けたのである。文章読解は全て、深層心理が行っている。だから、逆に、文意を誤解しても、なかなか修正できないのである。深層心理が納得して、初めて、解釈の修正が行われるから、時間が掛かるのである。ちなみに、文章作成も深層心理の働きである。言わば、文章は作るのではなく、作られるのである。例えば、話し合いの場合でも、深層心理が、他の人が語りかけた文章を解釈し、それに反応して、自らの文章を作るのである。だから、自分自身は、主語を明記するか、連用形が良いか終止形が良いかなど、意識した選択をしないのである。もちろん、作成した文章を、そのまま発表せず、修正してから発表することもあるが、その修正も、深層心理が行うのである。作成した文章を、本人がもう一度読んで、それを深層心理が聞いて、解釈して、不都合な部分を修正するのである。つまり、文章の解釈も、解釈の修正も、文章の作成も、作成した文章の修正も、全て、深層心理が行っているのである。だから、心理学者のラカンは、「無意識(深層心理)は言語によって構造化されている。」と言うのである。次に、他の人の働きかけ(語りかけ)がなく、自分の思いだけで、歩き出した場合において、自由が成立するかどうかを考えてみよう。例えば、我々は、「今日は天気も良いし、散歩に持って来いだな」と思って歩き出すことがある。この場合は、一見、自分の意志による行動、自由な選択による行動と言えるように思われる。つまり、表層心理による行動が成立するのではないかと思われる。確かに、そこには、他からの働きかけもなく、歩かなければならない状況にも置かれていない。だから、自分が自由に選択して、自分の意志によって歩き出したと言えそうである。一見、表層心理の自由な選択による、意志の下での行動が成立したように思われる。しかし、天気が良いと判断したのは、表層心理だろうか。そうであれば、時間を掛けて、様々な天気と比べるはずである。しかし、それは、ほとんど瞬間において判断されている。つまり、天気が良いと判断したのは、深層心理なのである。それでも、ほとんどの人は、歩くという行為は、表層心理の意志の下に行われていると思っている。それは、歩こうという気持ちは意識に上り、歩くという行為は我々の見えるところで行われ、歩いている時には自分は今歩いているのだと意識されるからである。確かに、歩く過程は意識化されているのだが、歩こうと決断したのは深層心理である。なぜならば、深層心理が、「今日は天気も良いし、散歩に持って来いだな」と思ったからである。どのような思いにしろ、我々は、自分の思いをコントロールできない。思いとは、意志によって作るのではなく、心の底から湧き上がってくるものだからである。つまり、思いを作るのは、深層心理なのである。しかし、その思いは深層心理によるものだとしても、実際に歩くことを選択したのは意志という表層心理ではないかという反論が予想される。しかし、たとえ、この思いが表層心理で意識化されたとしても、意識化されたこの思いを解釈するのもやはり深層心理であるから、深層心理が歩くことを決断したのである。さらに、歩くという行為も、意志によって為されていない。深層肉体の行為である。誰しも、右足と左足を交互に差し出して歩いている。だが、意識して足を出しているのではない。無意識のうちに、右足と左足が交互に出るのである。時として、躓くのも、無意識に(深層肉体で)歩いているからである。このように、歩くという身近な行為でさえ、深層肉体が行っている行為なのである。表層心理において為されることは意識化(認識)だけである。歩くということが決断されたということと歩いているということの意識化(認識)だけである。つまり、我々には、表層心理の下で、自由に選択し、意志した行為は存在しないのである。全ての行為は、深層心理、深層肉体によるものである。表層心理は、意識化(認識)だけを行っているのである。ニーチェが、「意志を意志することはできない」と言うのは、この謂いである。意志を生み出すのは、表層心理ではなく、深層心理なのである。表層心理は、意志の内容を認識し、意識するだけなのである。つまり、我々には、自由は存在しないのである。自由が存在するとすれば、それは深層心理の自由である。しかし、深層心理の自由を自由とは言わない。自分の意志によらない自由は自由とは言わないからである。我々が自分の意志通りに夢を見られないのは、深層心理が夢を作っているからである。稀に、「私は自分の希望した夢を見ることができるようになった」と豪語する人が存在するが、その夢は、もはや、夢ではない。ところが、サルトルは、表層心理の優位を説く。サルトルは、「実存は本質に優先する」、「人間の全ての行為は自分の意志による」、「人間は自由へと呪われている」と言う。「実存は本質に優先する」とは、自由な選択によって自己を形づくることは、人間の本質と呼ばれているものよりも大切であるという意味である。「人間の全ての行為は自分の意志による」には、絶対的な意志の優位が説かれていて、人間が迷いの状態にあっても、それは、人間が迷うことを選択したからだと言うのである。「人間は自由へと呪われている」とは、人間は、全ての行為を自分の自由な選択によって行っているのだから、全てのことには責任を持たなければならず、その責任から逃れることはできないという意味である。サルトルが重んずる、実存、意志、自由は、全て、表層心理の範疇に属している。サルトルが自らのいかなる行為に対しても責任を取らなければならないと主張していることは、評価に値する。だが、深層心理の範疇に属していることを、表層心の範疇理で語っているので、上滑りの主張だというそしりは免れることはできない。レヴィ=ストロースは、サルトルの思想には、未開人の視点が無視され、近代西洋人の視点だけしか入っていない。近代西洋人の傲慢さが表れていると批判した。確かに、サルトルの実存思想は、表層心理だけの恣意的なものであった。それに気づいたサルトルは、そこに、マルクスの考えを導入し、方向性を定めようとした。外部の思想を導入した時点において、サルトルの実存思想は破綻してしまった。ハイデッガーにも、自己の決断を重んじる、実存思想が存在するが、ハイデッガーの思想には、表層心理だけでなく、深層心理も存在する。そこが、サルトルと、根本的に異なっている。ハイデッガーの思想の深層心理とは、第一次大戦後のドイツの歴運(歴史性、民族性)である。しかし、ハイデッガーは、ドイツの歴運をナチスが引き受けていると誤って解釈したために、ナチスに協力し、第二次世界大戦後、散々に批判され、公職追放の憂き目にも遭っている。ハイデッガーの痛恨のミスである。さて、現在でも、多くの人は、我々人間は、自らの意志によって、行動のほとんどを行っていると思っている。つまり、表層心理の下での行動、表層肉体の動き・働きこそが肉体の動き・働きの本質だと思っている。だが、実際は、自らの意志に関わり無く、無意識の下で行われていることがほとんどなのである。特に、我々の生命の中枢を管理しているのは、深層肉体である。心臓や血液などの循環器系、肺などの呼吸器官、胃や腸などの消化器官、毛髪や皮膚などの表皮組織、細胞分裂、細胞増殖に至るまで、深層肉体が司っている。そこには、共通して、常に、生きることへの強い意志が存在する。どんな場合でも、何としても生きようとする強い意志が存在する。その意志は、我々が求めて作り上げた意志でも、我々が意識している意志でもない。深層肉体自身が生来持っている意志である。深層肉体は、常に、生き延びることへの強い意志に基づいて行動しているのである。深層肉体が、生きることを諦めたり、死を選択したりすることは、決してない。そこには、ニーチェの言う「力への意志」が常に存在している。次に、精神疾患について、述べようと思う。精神疾患とは、所謂、心の病である。精神疾患には、神経症と呼ばれるものと精神病と呼ばれるものが存在する。神経症については、広辞苑では、「心理的な要因と関連して起こる心身の機能障害。」と説明され、神経病については、「重症の精神症状や行動障害を呈する精神障害の総称。」と説明されている。精神病の方が神経症より重篤の症状を示すという違いはあるが、方向性は同じである。しかも、広辞苑は、どちらについても、マイナス面しか言っていない。広辞苑だけでなく、他の辞書も大同小異で、マイナス面しか捉えていない。確かに、神経症であろうと精神病であろうと、精神疾患に陥ると、恐怖感、不安感に苛まれたり、苛立ちを覚えたり、絶望感に囚われたり、幻聴が聞こえたり、幻覚を見たり、自信が失われたり、生きがいが感じられなくなったり、楽しみも喜びが感じられなくなったり、憂鬱や悲しみしか感じられなくなったりする。しかし、このマイナスの現象は、副作用である。主作用は、当面している現在の苦悩から自らの精神を解放させることにある。深層心理が、苦悩から自らの精神を解放させるために、精神疾患に陥らせるのである。深層心理とは、我々の意志が及ばない、我々に意識されない、我々の奥底にある心理であるから、我々は、深層肉体に対してと同様に、深層心理の存在も動きも働きを気付いていない。我々が感じ取ることができるのは、深層心理がもたらした精神疾患の苦痛だけである。だから、深く悩み過ぎたために精神疾患になったと思い込んでしまうのである。確かに、深い苦悩という原因、精神疾患という結果は正しいが、そのプロセスに存在する、深層心理の働きが理解されていないのである。だから、苦悩から苦悩へという点だけしか見られていないのである。ちなみに、深層心理が存在すれば、当然のごとく、表層心理が存在する。表層心理とは、我々が、ボールを投げよう、ボールを蹴ろう、椅子に座ろう、椅子から立ち上がろうなどの意志、頭痛や腹痛や味覚や触覚などの意識に上った思いや感じを言う。つまり、表層心理とは、意志、意識された思い、感じを意味するのである。一般の人は、深層心理の存在を知らず、表層心理のみを自分の心理や感情だと思い込んでいる。もちろん、表層心理と深層心理との区別は無い。そのような視点からは、当然のごとく、深層心理の動き・働きは考えられないから、精神疾患の現象の真実を捉えることはできない。誰しも、自らの意志によって、精神疾患に陥ったのではない。もしも、自らの意志によって陥ったのならば、自らの意志によって精神疾患から脱却できるはずである。しかし、それは不可能である。精神疾患は、表層心理の範疇に属していないからである。深層心理が、自らの精神を精神疾患に陥らせることによって、当面している問題の解決の苦悩から自らの精神を解放し、当面の問題から逃れようとするのである。深層心理は、自らの心理を精神疾患に陥らせることによって、我々をして現実を正視させないようにして(我々から現実を遠ざけて)、その苦悩から解放させようとするのである。しかし、精神疾患も、また、苦悩の状態である。つまり、深層心理がもたらした精神疾患は、当面している問題の苦悩とは異なった、新しい、別の苦悩を持ち込んで来るのである。しかし、我々は、深層心理の動きに気づかず、表層的に、単純に、当面している問題の苦悩のために精神疾患になってしまったと思い込んでいるのである。しかし、真実は、深層心理が、言わば、毒を以て毒を制そう(Aという毒を使ってBという毒を制圧しよう)としたのである。言うまでもなく、この場合、Aという毒に当たるものが当面している問題を解決しようという苦悩であり、Bという毒に当たるものが精神疾患である。次に、精神疾患について、具体的に説明したいと思う。例えば、適応障害という精神疾患が存在する。家庭医学大事典では、「適応障害とは、職場や学校、そして家庭などの生活環境に不適応を生じ、不安や抑うつなどの症状を招くケースをさします。」と説明されている。そして、症例として、「42歳の男性会社員は、課長に昇進したものの、業務量が倍増し、夕方になると、疲労、倦怠、憂鬱感を覚えるようになりました。業務にも些細なミスを生じるようになったので、部長に相談して、一旦降格させてもらったところ、まもなく症状は回復しました。」と挙げられている。例に挙げられている男性会社員は、課長とは一般会社員とは異なった業務をこなさなければいけないという価値観を持っていた。そこで、自分が課長になると大きなプレッシャーを感じたのである。恐らく、その男性会社員も、その苦しみから逃れようとして、自己正当化のために、色々なことを考え、やってみたはずである。人間誰しも、苦悩に陥ると、その苦悩から逃れるために、色々なことを考え、色々なことを行って、自己正当化に励むものである。なぜならば、苦悩とは、自己正当化が失敗したり、自己正当化の道筋が見えなかったりした時に訪れ、自己正当化が成功したり、自己正当化の道筋が見えてきたりした時に、消えていくものだからである。ウィトゲンシュタインが、「問題の解法が見つからなくても、その問題がどうでもよくなった時、苦悩は消える。」と言っているのは、その謂いである。その会社員も、「誰でも失敗はあるのだ。」などと自己暗示をかけたり、酒を飲んだり、カラオケに行ったりなどしたはずである。しかし、課長の職務というプレッシャーの苦悩から逃れることはできなかった。そこで、その会社員の深層心理は、自らの精神を適応障害に陥らせることによって、課長の業務から離れさせようとした(忘れさせようとした)のである。確かに、疲労、倦怠、憂鬱感を覚えさせることによって、課長の業務から離れさせよう(忘れさせよう)とすることには効果はあったかもしれないが、それが、仕事への集中力を欠かせ、些細なミスを生じさせた。ちなみに、この会社員は、会社以外でも、疲労、倦怠、憂鬱感の苦痛を覚えていたはずである。適応障害に限らず、精神疾患は、発症した構造体(この場合は、会社)だけでなく、他の構造体(この場合は、会社以外の場所、家庭、通勤電車、店など)にも、それが維持されるものだからである。その後、その会社員は、部長に相談して、課長から一般社員に一旦降格させてもらったところ、まもなく、適応障害の症状が消えていったとある。それは、自己否定の状態から解放され、自己正当化ができるようになったからである。課長の職務という自己否定の状態から解放されたので、適応障害が必要なくなり、そのために、適応障害の症状が消えたのである。この場合、男性会社員にとっての苦悩とは、課長として、部下や上司に認められる仕事ができるかどうかの不安感から来ている。男性会社員がその不安感がもたらす苦悩からどうしても逃れることできなかったので、深層心理が、自らの精神に、適応障害(疲労、倦怠、憂鬱感を覚えるという症状)という精神疾患(の状態)をもたらしたのである。確かに、適応障害に陥ることによって、先の苦悩は薄まっていく。しかし、その苦悩は課長としての仕事に対するものであるから、苦悩が薄まるということは課長という仕事に対する集中力も薄まっていくということに直接的に繋がる。それが、業務に差し障りを生じさせることになる。それが些細なミスの発現である。そして、仕事が原因で適応障害に陥ったのだが、適応障害の状態は社内だけにとどまらず、社外においても維持される。それが、精神疾患の特徴である。つまり、帰宅しても、コンビニに入っても、電車の中でも、歩いていても、疲労、倦怠、憂鬱感の苦痛を覚えるのである。さて、確かに、この会社員は、課長から降格されることによって、課長というプレッシャーから解放され、適応障害の症状が消滅し、良い結果になった。しかし、これは、非常に稀なケースである。一般に、このような単純な方法では、精神疾患は寛解しない。確かに、誰しも、課長に昇格したことが精神疾患を呼び寄せたのであるから、課長から降格させ、一般社員に戻せば、精神疾患から解放されるだろうと判断しがちである。もしも、表層心理が適応障害をもたらしたのであるならば、課長から降格させれば精神疾患から解放されるだろう。しかし、適応障害をもたらしたのは、深層心理である。この会社員の深層心理は、この会社員に対して、課長というプレッシャーから解放させるために、適応障害にして、課長になったという現実を見せないようにしたのである。適応障害の症状である疲労、倦怠、憂鬱感の苦痛をして、課長になったという現実を正視させないようにしたのである。言わば、この会社員の深層心理は、この会社員を適応障害にして、現実逃避をするように仕向けたのである。ちなみに、精神疾患には様々なものであるが、現実逃避することによって、当面している問題の苦悩から精神を解放させるという目的においては一致している。現実逃避の仕方が様々あり、それが精神疾患の様々な形なのである。例えば、解離性障害、離人症、うつ病、統合失調症という精神疾患がある。解離性障害について、広辞苑では、「自己の同一性、記憶・感覚などの正常な統合が失われる心因性の障害。」と説明され、さらに、「心的外傷(トラウマ)に対する一種の防衛機制と考えられる。」と付け加えられている。まさに、深層心理が、自らの精神を、自己の同一性、記憶・感覚などの正常な統合を失った状態にさせ、心的外傷(トラウマ)という当面している問題の苦悩から解放させようとしているのである。離人症について、広辞苑では、「自己・他人・外部世界の具体的な存在感・生命感が失われ、対象は完全に知覚しながらも、それらと自己との有機的なつながりを実感しえない精神状態。人格感喪失。有情感喪失。」と説明されている。これも、また、深層心理が、自らの精神から、自己・他人・外部世界の具体的な存在感・生命感が失わせ、それらと自己との有機的なつながりを実感しえない状態にして、当面している問題の苦悩から解放させようとしているのである。うつ病について、明鏡国語辞典では、「鬱状態を主とする精神状態。気分が沈んで何ごとにも意欲を失い、思考力・判断力が抑圧される。抑鬱賞。」と説明されている。これも、また、深層心理が、自らの精神を、気分を沈ませ、何ごとにも意欲を失わせ、思考力・判断力が抑圧された状態にして、当面している問題の苦悩から解放させようとしているのである。統合失調症について、広辞苑では、「妄想や幻覚などの症状を呈し、人格の自律性が障害され周囲との自然な交流ができなくなる内因性精神病。」と説明されている。これも、また、深層心理が、自らの精神を、妄想や幻覚などを浮かばせ、人格の自律性を失わせ、周囲との自然な交流ができなくなる状態にして、当面している問題の苦悩から解放させようとしているのである。さて、人間誰しも、精神疾患に陥ると、すぐに寛解するようなことはなく、日常生活全ての場面において、その状態が続く。なぜならば、精神疾患をもたらしたのは、深層心理だからである。だから、この会社員も、社内の出来事が原因で適応障害になったのだが、社外でも、適応障害の状態にある。また、この会社員は、適応障害であるから、社内の出来事ばかりでなく社外の出来事に対しても、つまり、全ての出来事に対して正視できない状態にある。それ故に、この会社員が、降格になっても、すぐに、それを認識し、受け入れて、適応障害が治癒したとは考えられない。もしも、降格後、すぐに寛解したのならば、この会社員は、適応障害でなかったか、非常に軽い適応障害であったと考えられる。しかし、適応障害になったからと言って、全く現実が見えないわけではないから、周囲の人がプレッシャーを掛けず、温かく見守れば、この会社員は、降格という現実を徐々に理解し、徐々に適応障害が寛解していくということは十分に考えられる。しかし、ここで考えなくていけないことは、降格が裏目になる可能性があることである。この会社員が適応障害になったのは、自分が課長としての仕事を上手くこなせるかどうかの不安からである。つまり、上司や同僚や後輩などの他者の視線・評価が原因なのである。ちなみに、適応障害だけでなく、全ての精神疾患は、他者の視線・評価が原因である。そして、誰しも、常に、他者の視線・評価を気にして生きている。この人間のあり方を、哲学では、対他存在と呼んでいる。だから、誰しも、精神疾患に陥る可能性があるのである。この会社員は、降格ということになれば、上司や同僚や後輩などの他者から低く評価されることになり、上司や同僚や後輩などの他者の視線がいっそう気になり、適応障害がいっそう深化する可能性がある。つまり、降格は、適応障害の寛解に繋がる可能性もあるのだが、適応障害の深化に繋がる可能性もあるのである。降格されて、一般社員となり、プレッシャーを感じず、気楽に仕事ができるようになれば、適応障害の寛解に繋がる。しかし、降格されて、いっそう劣等感が覚え、いっそう周囲の視線・評価が気になるようになれば、適応障害がいっそう深化する。どちらになるか、わからない。それ故に、このような危険な賭けをせず、課長という地位に残して、仕事を軽減するのが一般的である。だから、この会社員には、降格が成功したからと言って、簡単に、他の人にもそれを推し進めるべきではない。裏目になる可能性が大きいからである。その人と面談したり、家族や会社の人などの周囲の人の話を聞いたりなどして、その人の性格の動向・傾向を見極めて、対策を練らなければならないのである。次に、人間が精神疾患になる過程を、日常生活の場面から捉え、説明して行きたい。そこには、三つの要素が存在である。その三つの要素とは、自我の認知の失敗、過敏な反応、自己正当化の失敗である。日常生活において、人間は、いついかなる時でも、自分を認めてもらいたいという思いが存在する。そして、自分が他の人からどのように思われているか、他の人に自分を認めてもらいたいという、人間のあり方を対他存在と言う。それでは、どのようなありかたの自分を、認めてもらいたいのか。それは、ステータスとしてのあり方である。ステータスを持たない人間は人間ではない。一動物にしかすぎない。人間は、ステータスを持ってこそ、人間社会で認められ、人間社会で暮らしていけるのである。人間は、誰しも、常に、他の人から、ステータスとしての自分を認めてもらいたいと思って、行動しているのである。それでは、ステータスとは、何か。ステータスの意味には、身分、社会的地位、社会的な階級、職業的地位、社会的な位置があるが、この場合は、社会的な位置が最も近い意味である。人間は、同一の構造体(一つのまとまった空間・一つの閉ざされた組織)には同一のステータス(社会的な位置)しか持てないが、別の構造体に移動すれば、別のステータスを持つことができる。つまり、同一人物でも、構造体ごとに、異なったステータスが与えられるのである。例えば、ある男性は、家庭という構造体では父というステータスを持ち、電車という構造体に乗れば乗客というステータスを持ち、会社という構造体に行けば部長というステータスを持ち、コンビニエンスストアという構造体に入れば客というステータスを持つのである。ある女性は、家庭という構造体では長女というステータスを持ち、道路という構造体に歩けば通行人というステータスを持ち、高校という構造体に行けば高校生というステータスを持ち、彼氏というステータスに会えば、恋人同士という構造体を形成し、彼女という恋人のステータスを持つのである。ちなみに、ステータスとしての自分を自我と言う。つまり、人間は、誰しも、常に、他の人から、自我を認めてもらいたいと思って、行動しているのである。人間には常に自分を認めてもらおうと思う気持ちがあるが、その自分とは、決して、抽象的な自分ではなく、ステータスとしての自分なのである。すなわち、自我なのである。人間は、常に、自我に最大の価値観を置いて行動しているのである。人間は、常に、他の人から褒められ、他の人から認知されて生きていれば、何の問題もない。それが、自我の認知の成功の状態である。満ち足りた気持ちで時を過ごすことができる。ところが、他の人から無視されたり、他の人から低く評価されたり、他の人から貶されたりする時がある。それが、自我の認知の失敗の時である。そんな時、誰しも、心が傷つく。自信を喪失し、自己嫌悪に陥り、これまでの自分が否定されただけでなくこれからの自分も無いような気がする。しかし、一般に、友人や家族の励まし、飲酒、カラオケ、音楽鑑賞、ケーキを食べることなどによって、次第に、心が癒されていき、自己正当化が為され、立ち直っていく。ところが、精神が過敏に反応したために、色々な手段を講じても、時間が経過しても、傷心の状態が続き、自己正当化が為されない人がいる。つまり、自己正当化の失敗である。その自己正当化に失敗したことの保障が、深層心理がもたらした精神疾患である。深層心理は、自らの精神を、当面している問題の苦悩から解放させるために、精神疾患という状態に自らを持って行くのである。例えば、ここに、成績の優秀な高校三年生の受験生がいる。いつも、教師や同級生に、成績の良さを褒められている。常に、自我の認知の成功の状態にある。しかし、確実視していた大学の受験に失敗した。自我の認知の失敗の時が訪れたのである。自信を全く喪失し、自己嫌悪に陥り、苦しくて、何もする気が無くなった。つまり、過敏に反応したのである。誰に会いたくもなく、家族の励ましがあっても、何の効果もなかった。落ち込んだ状態が長く続き、精神が回復されそうになかった。つまり、自己正当化に失敗したのである。そして、うつ病という精神疾患に陥った。深層心理が、自らの精神を、大学受験失敗という苦悩から解放させるために、うつ病に持って行ったのである。さて、精神疾患には、先に述べたように、適応障害、解離性障害、離人症、うつ病、統合失調症などがある。その原因としては、受験に失敗したこと、就職に失敗したこと、上司との折り合いが悪いこと、昇格して責任が重くなったこと、失業してしまったこと、親しい人が亡くなったこと、自分の容姿が気になること、恋人に振られたことなどを挙げることができる。次に、好きな人に振られ、自分の容姿が気になって、うつ病になった女子高校生について、取り上げ、説明してみよう。彼女は、高校3年生の時に発症した。彼女には、保育園時代から仲良しの、幼なじみの人がいた。意識し始めたのは、中学1年生の時からであるが、幼なじみのよしみで、何でも遠慮なく話すことができた。互いの気持ちを確認することはなかったが、相思相愛だと思っていた。将来の結婚も夢見ていた。ところが、高校3年生になってから、彼が彼女を避けるようになった。運が悪いことに、中学1年生から高校2年生までは同じクラスだったが、高校3年生になってからは別クラスになり、話す時間が無くなっていた。それと、期を同じくして、彼は、別の女子生徒と行動を共にするのが目に付くようになった。彼と同じクラスの生徒である。特に、6月中旬から、放課後に大学受験のための補習授業が始まると、彼はその女子生徒と一緒に帰った。図書館で、二人は、向かい合って勉強するのもよく見かけられた。彼はサッカー部に所属していたが、他の女子生徒たちから騒がれるような存在ではなかった。彼女は、それで、少し安心していたところがあった。1学年5クラスの小さな学校であった上に、彼女は吹奏楽部に所属し、その女子生徒は合唱部に所属していて、毎年2回、吹奏楽部と合唱部の合同発表会があるので行動を共にすることが多く、彼女はその女子生徒をよく知っていた。その女子生徒は、目立たなかったが、成績は良かった。合唱部の中で、最も成績が良かった。校内実力試験の成績優秀者の氏名が廊下に張り出されると、大抵、五位以内に入っていた。だから、恋愛をするような生徒には見えなかった。しかし、美人であった。色が白く、目が大きく、スタイルも良かった。これまで、彼女が知っているだけでも、五人、同級生や上級生が交際を申し込み、断られているのを知っていた。今回も、彼のほうから交際を申し込み、行動を共にするようになったと、彼女には思われた。彼女の友人たちは彼女に、彼女のほうがかわいい、と言ってくれた。しかし、全く容姿ではかなわないと思っている彼女は、それを聞くと、余計に惨めになった。交際期間が長いのだから必ず彼は戻ってくる、とも言ってくれた。しかし、互いの気持ちを確かめ合ったことはないので、交際していたと言えず、自分の片思いであったかもしれないと思った。友人たちは、彼に直接会って気持ちを聞いてあげようかとも言ったが、その結果が恐ろしいので、言下に断った。何もする気がなくなり、勉強する意欲さえわかず、受験生なのにと思う気持ちが自分をより一層苦しめた。食欲もなくなり、夜眠れない日が続き、学校に行く気がしなくなった。受験生として大切な時期だとわかっていたが、二人の姿を見るのがつらかった。彼に会っても嘲笑されるような気がした。その女子生徒には、容姿面、性格面、成績面の全てにおいて劣等感を覚え、絶望した。特に、容姿だけは、絶対にかなわないと思った。中学1年生の時から彼を思い続け、幼い時から仲良くし、友人から理想のカップルだと言われ、自分もそう思い込んでいたのに、それは一人よがりに過ぎなかったのだと思った。彼女が欠席しても、彼は様子を見に来なかった。これまでは、インフルエンザで休んでも、伝染するのを覚悟して、彼は見舞いに来てくれた。その落差は大きかった。時々、担任が様子をうかがいに来てくれたが、会いたくなく、部屋から出なかった。心が重く、何もする気がなくなり、将来に希望のない状況で、自殺を考えるようになった。彼女の母親は、彼女の失恋を薄々感づいていて、暫くすれば立ち直ると考えていて、黙って様子をみていたが、異常な状態が長く続いているのを見て、思い余って、夏休みに入るや否や、彼女を精神科に連れて行った。うつ病と診断され、休養を取るように言われ、抗うつ薬が処方された。夏休みの受験用の補習は気になったが、友人の強い勧めもあり、さらに、友人が後で一緒に勉強してくれると言ったので、欠席することにした。3週間もすると、彼女に、元気が出てきた。顔色が良くなり、睡眠時間が増えてきた。徐々に、受験勉強の対策を考え始め、大学生活に望みを託すような気持になっていた。彼女の立ち直りには、母親と友人の役割が大きかった。それまで、母親は不細工で学歴の無い専業主婦で、夫の言いなりのつまらない人間だと彼女は思っていた。父親は、大学出の県庁職員で出世コースを歩んでいるように思われ、毎朝早く出掛け、毎晩遅く帰宅していたが、友人たちからもかっこいいと言われ、彼女には、自慢であった。しかし、彼女の精神状態が危ぶまれると、父親は自分を疎んじ、母親に任せきりにしていることを彼女は感じていた。それに対して、母親は、無理強いはすることは決してなく、時々話す彼女の言葉を静かに聞いてくれた。彼女には中学3年生の弟が一人いて、小学校時代から成績が良く、両親の期待を一身に背負っているように見え、嫉妬していたのだが、自分も受験生に関わらず、姉を心配している様子を見ると、少し心強くなれた。母親と弟の優しい心遣いが彼女には好影響を与えた。さらに、友人二人が、彼女の状態に合わせて訪ねてくれたことも良かった。友人二人は、現在、両方とも恋人はいず、その一人は、昨年失恋していることも、仲間意識を持たせた。このように、家族と友人が、彼女の支えとなり、抗うつ薬とともに、うつ病寛解に大きな力となった。一般に、失恋だけでも精神疾患の原因になり、容姿に対する劣等感だけでもに精神疾患の原因になる。ところが、彼女の場合、失恋がうつ病の引き金になったが、駄目を押したのは容姿に対する劣等感である。容姿を気にしてうつ病などの精神疾患に陥るのは、女子高校生などの若い女性である。男性も年配の女性も容姿を気にするが、それによってうつ病などの精神疾患になることはない。それは、そこに、それほど大きな価値観を置いていないから、鈍感なのである。しかし、一般に、女子高校生を代表として、若い女性には、可愛さ、美しさ、綺麗さなどの外面性が要求され、彼女たちも価値観として受け入れているから、敏感に反応し、心が傷つくのである。それでは、なぜ、若い女性は、そのような価値観を持っているのか。決して、それは先天的なものではない。彼女たちは、周囲の者が、それを要求するから、それに応えようとするのである。心理学者のラカンが、「人は他者の欲望を欲望する」と言ったが、それがこの謂いである。ラカンの言葉には、二つの意味がある。一つは、人間は、他の人のまねをするという意味である。つまり、若い女性は、他の若い女性たちがおしゃれをして、可愛さ、美しさ、綺麗さをアピールしているので、それに同化して、自らも、おしゃれをして、可愛さ、美しさ、綺麗さなどをアピールしているのである。もう一つは、人間は、他の人の評価を得ようとして生きているということである。つまり、若い女性は、おしゃれをして、可愛い、美しい、綺麗だなどと言われたいのである。うつ病になった女子高校生も、いつもおしゃれに気を遣っていて、好きな男子高校生には可愛いと思われていると思っていた。だから、いつも、一緒にいてくれているのだと思っていたのである。つまり、自分の可愛さが相手に気に入られていると思い込んでいたのである。その上に、長い間、一緒にいることで気心も知れ、相性も合っているように思い、このまま関係が続き、一生、離れることはないと思い込んでいたのである。しかし、突然、彼が彼女を避けるようになり、別の可愛い子と行動を共にするようになった。その可愛い子は、成績も良く、上品な振る舞いをしていて、非の打ちどころがなかったが、最も、彼女が敗北感を味わったのは、その美貌であった。彼女自身、その少女は嫌いではなかった。彼が、その少女を選んだのも当然だと思われたのである。深い傷を負った彼女はどうして良いかわからなくなった。こんな時、誰しも、心の傷をいやすために、自己正当化して自分を慰めようとするものである。しかし、彼女には、自己正当化する材料が思いつかなった。その代わりに、彼女の友人たちが、彼女の方が可愛いと言ってくれたり、これまで長く交際していたのだから必ず彼は戻ってくると言ってくれたが、彼女には、全く、耳に入って来なかった。深い敗北感と絶望感に苛まれた彼女は、頼るところがなく、深層心理は、彼女を精神疾患にして、現実からの逃亡を図った。その精神疾患がうつ病だったのである。なぜ、うつ病だったのか。それは、深層心理の決断によるもので、表層心理ではわからないことである。だから、我々には、その理由、その必然性はわからないのである。しかし、うつ病の心の重さは、彼女から、失恋した自我、容貌の劣った自我を思い悩ませる余裕を奪っていった。深層心理は、彼女が現実を見ないようにするために、彼女の精神をうつ病という精神疾患に持って行ったのである。そもそも、恋愛関係だけでなく、我々は、いついかなる時でも、常に、何らかの構造体に所属し、何らかのステータス(社会的な位置)を得て、暮らしている。その構造体は関係性によって成り立っている。我々の日常生活は、構造体、ステータス、関係性が絶対条件なのである。そして、我々は、自分が所属している構造体が構造体の外にいる人々に認められることを望み、ステータスとしての自分が他の人に評価されることを願い、関係性がしっかりと構造体を支え維持してくれることを希求しながら、暮らしているのである。しかし、それらは、常に、安泰であるわけではない。それ故に、我々は、常に、構造体が破壊されること、ステータスを失うこと、関係性が崩れることを恐れながら暮らしているのである。例えば、山田由美は、帰宅すると、山田家という構造体に入り、母というステータスを得る。夫の一郎は、自分に対して息子の太郎や娘の一美の面倒をよく見てくれるので、家族という関係性は安泰だと満足している。高校二年生の息子太郎は素直な性格で、野球部のキャプテンで、学業成績も良く、中学三年生の娘一美も家の手伝いをよくし、担任から有名高校に合格できると言われるほど成績が良かったので、山田由美の母としてのステータスは大いに満足していた。夕食後、二人の子供が自分の部屋に行ってしまうと、残された二人は、夫婦関係という関係性の下で構造体を作る。由美は、一郎に愛されていると感じているので、妻というステータスに満足している。翌朝、由美は、出勤すると、山川株式会社という構造体の下で、営業課長というステータスを得て、会社組織という関係性に従って働く。我々には、常に、構造体、ステータス、関係性が付きまとう。そして、そこでのステータスを認めてもらうように行動する。例えば、コンビニエンスストアという構造体に入れば、客というステータスを得て、店員と客という関係性に基づき、客というステータスが認められるように行動する。だから、店員の態度が悪いと、怒るのである。失恋して、うつ病になった女子高校生も、カップルという構造体の下で、恋人というステータスを得て、恋愛関係の下で、相思相愛という満足感を覚えて、日々、過ごしていた。しかし、彼の振る舞いを見て、相思相愛というのは、自分の思い過ごしに過ぎなかったことを思い知ったのである。そこにおいて、カップルという構造体は破壊され、恋人いうステータスを失い、恋愛関係は消滅したのである。人間にとって、これほど、苦しいことはない。それは、全ての構造体、ステータス、関係性において言えることなのである。山田由美は、離婚するのを恐れるのは、山田家という構造体が崩壊し、母親というステータスを失い、家族関係が消滅することを恐れるからである。山田由美は、夫の不倫を許せないのは、妻というステータスを認めていないことに対して、我慢できないからである。山田由美が、山川株式会社の倒産を恐れるのは、毎月の給料が入って来なくなって、山田家という構造体の安定が脅かされるだけでなく、営業課長というステータスを失い、会社組織という関係性が消滅するのを恐れているからである。山田由美は、山田家という構造体、山田夫妻という構造体、山川株式会社という構造体のいずれが破壊されても、失恋した女子高校生と同じような苦悩を味わうのである。失恋した女子高校生が苦悩から、脱出するには、自己正当化しか道はない。それには、彼が戻ってくるのが最良の道だが、それは可能性がほとんどない。次善の策として、新しい恋人を作り、新しいカップルという構造体の下で、新しく恋人というステータスを得て、新しい恋愛関係を構築する方法がある。実際に、失恋の苦悩があまりに激しいので、そこから脱出しようとして、そんなに好きでもないのだが、新しく恋人を作り、新しいカップルの下で、新しい恋愛関係を構築し、失った恋人いうステータスを得る女性が存在する。しかし、彼女には言い寄ってくる男性もいず、彼一筋であったから、代理の男性を考慮する余裕も無かった。また、友人たちの、彼の新しい恋人よりも彼女が可愛いという言葉や彼は必ず戻ってくるという言葉も、彼女の心には全く響かなかった。悶々と苦しむだけだった。そこで、深層心理は、現実逃避の道として、精神にうつ病をもたらしたのである。我々は、常に、誰かから評価されたいと思って生きている。自己認知を求めて生きているのである。妻は、夫から料理を褒められると嬉しくなるのは、自己認知が成功したからである。しかし、その料理が貶されると心が傷つく。自己認知の失敗である。しかし、その反応は小さいから、何かで忘れたり、時間とともに薄れていく。しかし、失恋などの自己認知の失敗は、大きな心の傷つきを招き、反応が大きい。その中には、過敏に反応して、何かで忘れたり、時間とともに薄れていくことができない時がある。自己正当化の失敗である。そのような場合に、深層心理が、精神疾患をもたらして、精神に、現実を見せないようにして、現実から遠ざけるのである。