あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は政治家になると堕落する。(人間の心理構造その24)

2023-05-27 13:41:34 | 思想
人間は、政治権力を握ると、必ず、堕落する。それを助長しているのは大衆である。大衆が、政治権力の内実や政治家の実態に迫ることなく、好みの政党や政治家に期待するから、政治権力者は好き放題のことを行うのである。人間には誰しも支配欲があり、大衆は自分に代わる政治家に期待するから、政治権力を握った者は自分は何をやっても許されると思い、支配欲を発揮して、自我の欲望のままに行動するのである。大衆が、政治権力の内実や政治家の実態を批判的に見ようとしない限り、政治権力を握った者は、自我の欲望のままに、傲慢不遜に行動をするのである。大衆が、統一教会と一心同体の自民党と政教分離を果たしていない公明党の連立政権を支持しているから、岸田首相は膨大な予算を軍備増強に充てたのである。大衆が、国政選挙で、自民党・公明党の連立政権を大勝ちさせたから、安倍晋三元首相は、強行採決によってアメリカに自衛隊を差し出す集団的自衛権をもたらし、森友学園・加計学園・桜を見る会などで不正を行い、菅義偉は元首相は、息子が官僚接待という不正を行ったのである。「人間の不幸な運命は、わがままに生まれてきながら、わがままに生きられず、他者に合わせなければ生きていけないところにある。」と思想家の吉本隆明は言う。わがままに生きるとは、自我の欲望のままに、行動することである。自我の欲望の中には、他者を支配したいという欲望がある。他者に合わせて生きるとは、他者の評価を気にして行動することである。つまり、人間には、自分の思い通りに支配したい欲望があるが、他者の批判が気になるから、他者に合わせて行動するのである。だから、思い切り楽しめず、心から喜べないのである。だから、大衆が批判しない限り、政治権力者は好き放題のことを行うのである。大衆が批判しない限り、政治権力者の自我の欲望は果てしなく広がり、戦争をももいともたやすく行ってしまうのである。大衆が政治権力の内実や政治家の実態を批判的に見ようとせず好みによって支持している限り、政治権力者の国民に対する支配欲はを発揮することはとどまることは無いのである。ニーチェに「権力への意志」という思想がある。それは、他者の視線を自らのものとして、他者に自らの存在を見せつけようという意志である。他者からの好評価・高評価を糧にしていっそう強く生きようとするのである。そこには、現状に留まり、反省しようという意志は存在しない。また、ニーチェに「永劫回帰」という思想がある。それは、全ては永遠に同じことを繰り返すという意味である。そこには、「英雄は英雄的行動を繰り返して向上を続け、大衆は大衆を繰り返していっそう卑賤になる」と考えが基礎にある。もちろん、政治家も英雄ではない。地位は政治家だが、意識は大衆である。ニーチェの思想は政治家と大衆の関係を解き明かしている。つまり、大衆が政治家を崇拝すればするほど、政治家は増長し、国民への支配を強めていくのである。




人間は快楽と苦痛に動かされて生きている。(人間の心理構造その23)

2023-05-24 14:39:45 | 思想
人間は、先天的に、快楽を求め苦痛から逃れるために行動するようにできている。快楽があるから、それを求めて行動するのである。苦痛があるから、それから逃れようと行動するのである。しかも、快楽も苦痛も、自らの意志に関わりなく、人間の心に生まれてくるのである。さらに、自らの意志に関わりなく、快楽を求める欲望も苦痛から逃れる欲望も、人間の心に生まれてくるのである。なぜ、快楽を求める欲望が生まれてくるのか。それは、人間に、快楽を求めるような行動を起こさせるためである。なぜ、苦痛から逃れる欲望が生まれてくるのか。それは、人間に、苦痛から逃れるような行動を起こさせるためである。人間は、快楽そのものも苦痛そのものも自分で生み出すことはできないのに、快楽を求めるためにに生き、苦痛から逃れるために生きるようにさせられているのである。人間は、快楽そのものを自分で生み出すことはできないから、行動することによってそれを得ようとするのである。人間は、苦痛そのものを自分で消滅させることができないから、行動することによってそれから逃れようとするのである。快楽と苦痛が人間を動かしているのである。快楽が無ければ、人生は無味乾燥のむなしいものになるだろう。苦痛が無ければ、人間は考えようとしないだろう。人間は自らの意志では快楽も苦痛も生み出せないとすれば、何がそれらを生じさせているのか。それは、深層肉体と深層心理である。人間は自らの意志で快楽を求め苦痛から逃れようと欲望する以前に、すでに、快楽を求め苦痛から逃れようと欲望するものがあるが、それは何か。それもまた、深層肉体と深層心理である。深層肉体とは人間の無意識の肉体の活動である。深層精神とは人間の無意識の精神の活動である。深層肉体の生命意欲と深層心理の欲動がこれらを生じさせているのである。だから、人間の無意識のうちに、心の中に、これらが生まれているのである。人間は、快楽も苦痛も自分で生み出すことができないが、快楽を得ようと行動し、苦痛から逃れようと行動するのである。さて、人間は、どのような時に、快楽を得られ、どのような時に、苦痛が与えられるのか。人間は、自我の状態が生命意欲に合致していれば満足感という快楽が得られ、自我の状況が欲動に合致していれば快感という快楽が得られるのである。人間は、自我の状態が生命意欲を阻害されていれば痛みという苦痛が与えられ、自我の状況が欲動を阻害していれば苦しみという苦痛が与えられるのである。だから、人間は、自我の状態が生命意欲に合致するように、自我の状況が欲動に合致するように動こうとする。しかし、人間は、自ら意識してそのように動いているのではない。自ら意識して動く以前に、深層肉体、深層心理によって動かされているのである。まず、深層肉体であるが、そのあり方は単純である。深層肉体は、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという生命意欲を持って、人間を生かそうとしている。深層肉体は、精神や肉体がどんな状態に陥ろうと、生命意欲で、ひたすら人間を生かせようとする。深層肉体は、人間の意志によらず、深層心理独自の意志によって、肉体を動かし、人間を生かしている。人間は、深層肉体の生命意欲という肉体そのものに存在する意志によって生かされている。人間は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の生命意欲によって生かされているのである。深層肉体の生命意欲の典型は内蔵である。人間は、誰一人として、自分の意志で、肺や心臓や胃などの内蔵の動きを動かすことも止めることもできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。人間の無意識のうちに、深層肉体の生命意欲が呼吸をさせているのである。テレビの学園ドラマで、授業中、教師に、「おまえは何をしているのだ。」と注意された生徒が、とぼけて、「息をしています。」と答えるシーンがあったが、その生徒は間違っている。誰も、意識して息をしていない。人間が意識して息をしているのならば、寝入ると同時に、息が止まり、死んでしまう。深呼吸という意識的な行為も存在するが、それは、深く吸うということを意識するだけでしかなく、常時の呼吸は無意識の行為である。呼吸は、誕生とともに、既に、人間の深層肉体に備わっている機能であるから、人間は、生きていけるのである。心臓も、人間の意志で動いているのではない。だから、止めようと思っても、止めることはできないのである。心筋梗塞が起こったり、人為的に、他者や自分がナイフを突き立てたりなどしない限り、止まらないのである。さらに、胃も、人間の意志によって動いているのではない。心臓や肺と同じく、誕生と同時に、深層肉体として、既に動いているのである。胃の仕組みや働きすら、今もって、ほんのわずか知られていない。だから、人工的な胃は存在しないのは当然のことである。確かに、人工心臓は存在するが、それは、新しく作り出したのではなく、現に存在している心臓を模倣したものである。だから、人工心臓は、生来の心臓の一部の働きしかできない。このように、人間は、ほとんどの場合、自らの意志によって、肉体を動かしているのではなく、深層肉体自身が生命意欲をもって肉体を動かしているのである。確かに、人間には、意識して意志で行う肉体の活動も存在する。それが、表層肉体である。それは、深呼吸する、授業中に挙手する、速く走る、体操するなどの活動である。しかし、それは、肉体の活動の一部でしか過ぎないのである。大半は、深層肉体による活動である。例えば、歩くという動作がある。確かに、歩こうという意志の下で歩き出す。表層肉体の動きである。しかし、両足を交互に出すという動きは、誰も意識して行っていない。もしも、右、左と意識して足を差し出していたら、疲れてしまい、長い距離を歩けないだろう。だから、最も意識して行っていると考えられる動作の一つである歩くという行動すら、意識して行っている表層肉体の活動は僅かで、無意識に行っている深層肉体による活動がほとんどなのである。さらに、歩きながら考えるということも、歩くことに意識が行っていない深層肉体の動きだから、可能なのである。また、人間は、包丁で指を少し切っただけでも、痛みを感じ、血が出る。血が出るのは、深層肉体が、その部分を白血球で殺菌し、傷口を血小板で固め、その部分の再生を助けるために行うのである。深層肉体は、自ら、再生能力を持っているのである。更に、深層肉体は、痛みによって、深層心理と表層心理に、そこに異状があることを知らしめるのである。まず、最初に動くのは深層心理である。深層心理は思考して、自我の欲望として、痛いという感情を持つと同時にこの状況から逃げ出せという行動の指令を生み出し、人間を動かそうとするのである。それを受けて、人間は、表層心理で思考するのである。表層心理とは、人間の自らを意識しての精神の活動である。人間は、表層心理で、痛いという感情の下で、この状況から逃げ出せという行動の指令について考慮し、痛みの原因を追究し、治療法も考えるのである。痛みが去れば、快楽が得られるのである。さらに、深層肉体は、人間が自殺に突き進んでも、人間を生かせようとする生命意欲を捨てることは無い。だから、どのような自殺行為にも、痛みが伴うのである。つまり、人間の肉体は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の生命意欲によって生かされているのである。次に、深層心理であるが、深層心理は無意識の精神の活動を意味し、肉体に、無意識の精神の活動をある深層肉体のほかに自らを意識した肉体の活動が存在しているように、精神にも、自らを意識した精神の活動である表層心理が存在する。一般に、思考という言葉は、人間の表層心理での思考を意味している。なぜならば、ほとんどの人は、自ら意識して思考していると思い込んでいるからである。確かに、表層心理での思考は存在するが、それは思考の一部なのである。思考の大半は深層心理によるものなのである。ほとんどの人は深層心理の存在に気付いていないから、もちろん、深層心理の思考の重要性に気付くはずがないのである。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。「無意識の行動」のような使われ方で、例外的なあり方として考えられている。しかし、人間の行動は、有意識の行動は一部で、ほとんどは無意識の行動なのである。そもそも、無意識は単に意識していないということを意味するだけで、人間の行動も思考も、ほとんど、無意識のうちに行われているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。つまり、人間は、自らは意識していないが、思考しているのである。それが深層心理の思考である。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、「言語によって構造化されている」と言うように、深層心理が言語を使って論理的に思考しているのである。深層心理は、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求め苦痛から逃れようと思考して、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動しているのである。構造体と自我の関係は、次のようになる。日本という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、夫婦という構造体には夫・妻という自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、高校という構造体には校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体には店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我がある。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属しているから、常に、他者との関わりがある。他者とは構造体内の人々である。他人とは構造体外の人々である。人間は、構造体の中で、他者から役目を担わされ、自我として行動するのである。人間は、社会生活を営まないと生きていけないから、常に、他人を意識しながら暮らしているのである。人間は、何らかの構造体に属し、何らかの自我を持して暮らさざるからを得ないから、常に、他者と関わりながら暮らしているのである。デカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言いながら、「我」の定義をしなかったが、人間が、自分の存在を意識するのは、普遍的な自分としてでは無く、個別的な自我なのである。つまり、日本という構造体では国民という自我があり、家族という構造体では父という自我であり、学校という構造体では生徒という自我であり、会社という構造体で課長という自我であり、コンビニという構造体では客という自我であり、電車という構造体で客という自我であり、仲間という構造体では友人という自我であり、カップルという構造体では恋人という自我であるように、人間は常に自我として暮らしているのである。さて、深層心理は、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求め苦痛から逃れようと思考して、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのであり、欲動が深層心理を動かしているのである。欲動は四つの欲望から成り立っている。しかし、欲動には、道徳観や社会規約を守ろうという欲望は存在しない。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め苦痛から逃れようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲がある。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという承認欲がある。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという支配欲がある。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲がある。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲が深層心理を動かしているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。また、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。さらに、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないという保身欲からである。退学者・失業者が苦通を覚えるのは、学校・会社という構造体から追放され、生徒・会社員という自我を失ったからである。しかし、時には、自我が傷つけられ、ルーティーンの生活が破られそうになる時がある。それは、往々にして、他者から、馬鹿にされたり侮辱されたりなどした時に起きる。それは、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという承認欲が阻害され、苦痛が生じたからである。そのような時、深層心理は、その苦痛から逃れるために、怒りの感情と相手を侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。深層心理は、怒りの感情で人間を動かし、侮辱・暴力などの過激な行動を行わせ、自我をおとしめた他者を逆におとしめることによって、自我を高めようとするのである。しかし、そのような時には、まず、超自我が、ルーティーンを守るために、怒りの感情を抑圧し、侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の保身欲から発生した機能である。深層心理には、超自我という、毎日同じようなことを繰り返すように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとする機能も存在するのである。さらに、もしも、超自我の機能が過激な行動を抑圧できなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。人間の表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、結論を出すのに、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令に従って行動したならば後に自我の立場がどうなるかと思考し、受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実的な利得を求めるとは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうという欲望である。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実的な利得を求めて、侮辱したり殴ったりしたならば、後に、自我がどうなるかという、他者や他人の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を、意志によって、抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を侮辱したり殴ったりしてしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦痛の中での思考がが続くのである。裁判官が総理大臣に迎合した判決を下し、高級官僚が公文書改竄までして総理大臣に迎合するのは、何よりも自我が大切だという保身欲からである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は、自殺した生徒よりも自分たちの自我を大切にするという保身欲から、事件を隠蔽するのである。いじめた子の親は親という自我を守るという保身欲のために自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないという保身欲から、いじめの事実を隠し続け、自殺にまで追い詰められたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫や恋人という自我を失うのが辛いという保身欲から、相手に付きまとい、構造体を維持しようとするのである。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、構造体の消滅を認めるしかないから、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことが辛いという保身欲から発した感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできないのである。そうして、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令に従ってしまい、ヒートアップして、殺人にまで及ぶ者がいるのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。これを受けて、深層心理は、自我を他者に認めてもらって快楽を得ようと思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、承認欲を説明している。つまり、人間が、すなわち、深層心理が、自我に対する他者の視線が気になるのは、欲動の承認欲によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間が苦痛を覚えることの原因の多くは、自我が他者に認められないことである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしている。深層心理は、同級生・教師や同僚・上司という他者から、生徒や会社員という自我に好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、馬鹿にされたり注意されたりして、悪評価・低評価を受けると、苦痛を覚えるのである。そこから逃れようとして、深層心理は、不登校・不出勤という行動の指令を生み出すことがあるのである。また、受験生が有名大学を目指すのも、少女がアイドルを目指すのも、自我を他者に認めてほしいという欲望を満足させるためである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心とはこの国の国民という自我を失いたくないという保身欲から発しているのである。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。これは、承認欲から発している。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、保身欲と承認欲から発した自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、同語反復の無意味な説明である。真実は、国民という自我を失いたくないという保身欲、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという承認欲から発している自我の欲望である。人間は、すなわち、深層心理は、愛国心という自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。愛国心という自我の欲望が満たされない時には、苦痛を覚えるのである。そして、苦痛から逃れるために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。しかし、人間は、愛国心という自我の欲望を、自ら、意識して生み出しているわけではなく、無意識のうちに、深層心理が生み出しているのである。つまり、世界中の人々は、皆、自らが意識して生み出していないが、自らの深層心理が生み出した愛国心という自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという支配欲である。これを受けて、深層心理は、他者という対象を支配しようと、物という対象を自我の志向性で利用しようと、現象という対象を自我の志向性で捉えようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。まず、他者という対象の支配欲であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることが快楽が得られるのである。そのために、人間は、力を発揮したい、支配したいという思いを秘めながら、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りつつ接している。深層心理は、自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることができれば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で支配したいという支配欲からである。自分の思い通りに学校を運営できれば快楽が得られるのである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を支配したいという支配欲からである。自分の思い通りに会社を運営できれば快楽が得られるのである。さらに、わがままと言われる行動も支配欲からであり、わがままを通すことができれば快楽を得られるからである。物という対象の支配欲であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。現象という対象の支配欲であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、支配欲が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生まれる。有の無化とは、深層心理が、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。無の有化とは、深層心理が、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造することである。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。これを受けて、深層心理は、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとするのである。つまり、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりするのである。それがかなえば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手の心を支配し自分の心を支配される許し合うことによって快楽を得ている状態である。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに快楽が生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという快楽が生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで相手に身を差し出していた承認欲から来る屈辱感とこの後相手の心を支配する者への嫉妬心が、深層心理を苦しめる。誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルいう構造体が破壊され、恋人という自我を失うことの辛さから、ストーカーになることを行動の指令として生み出すのである。もちろん、深層心理に内在するルーティーンの生活を守ろうとする超自我や表層心理の現実的な利得を求める思考は、これを抑圧しようとする。多くの場合、それは成功する。しかし、一部の屈辱感や嫉妬心の強過ぎる者は、超自我や表層心理の思考で抑圧できず、深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままにストーカーになってしまうのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感欲を満たし、そこに、快楽を覚えるからである。さらに、「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感欲を受けての行動である。仲の悪い二人でも、共通の敵が現れると、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会でクラスが一つになるというのも、「呉越同舟」の現象である。他クラスという共通の敵が現れたから、クラスが一つにまとまるのである。クラスがまとまるのは、他クラスを倒して皆で快楽を得たいからである。



むなしく時が過ぎても、それで良いではないか。(人間の心理構造その22)

2023-05-16 15:29:00 | 思想
むなしいのは、希望が無いと思うからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、それは絶望も無いことを意味するからである。むなしいのは、明日も今日と同じような生活が続くと思われるからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、それは、耐えられないほどの苦悩や苦痛が現在無いことを意味するからである。むなしいのは、自分を認めてくれる人がいないと思うからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、人間は、誰しも、自分の欲望に合致している人を認めるのであり、正当な評価というものは存在しないからである。むなしいのは、自分に地位や肩書が無いと思い、引け目を感じているからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、この世には、その地位や肩書にふさわしい人は、一人もいないからである。むなしいのは、職場で業績を上げられず、馘首されるかもしれないからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、退職させられれば、新しい仕事を探せば良く、新しい出会いがあるかもしれないからである。むなしいのは、高校で成績が上がらず、名門という大学に入りそうにないからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、名門と言うのは、大学の意味を知らない大衆の評価だからである。むなしいのは、自分に友人がいないと思うからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、友人ができ仲間になると、仲間でいじめたり、罪を犯したりすることがあるからである。むなしいのは、自分に恋人がいないからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、恋人がいなければ、失恋に苦しむこともストーカーになることも無いからである。むなしいのは、優しく声をかけられることが無いからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、優しく声をかける人は、それを習慣として行っているのであり、誰も他者を心から思いやるほど余裕が無く、真に困った他者を救えないからである。むなしいのは、楽しいことが起こらないからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、楽しいことは永遠に続かず、必ず、苦しいことや悲しいことが起こるからである。むなしいのは、日々が楽しくないからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、むなしい時は、地獄を想像できないからである。むなしいのは、現状に満足していないが、それを変えようという気が起こらからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、変革に失敗すれば苦悩するからである。むなしいのは、自分が現状に満足すべきなのか不満を抱くべきなのかわからなくなっているからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、それは現状から苦痛が与えられていないということだからである。むなしいのは、夢が無いことである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、夢はかなわないことが多く、稀にかなっても、次の夢を追わなければならないからである。むなしいのは、生きがいを覚えることが無いことである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、生きがいとは他者に評価されることであり、生きがいを追うことは他者の支配下に入ることだからである。むなしいのは、恵まれない家庭に生まれたと思っているからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、恵まれた家庭に生まれても。必ず、不幸が訪れるからである。むなしいのは、明日も同じような生活が続くと思われるからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、それは、耐えられないほどの苦悩や苦痛が現在無いことを意味するからである。むなしいのは、サッカーのワールドカップや野球のWBCで自国チームが勝っても、周囲の国民と異なり、心が躍らないからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、自国チームが勝利して心躍るのは愛国心からであり、愛国心は戦争も引き起こすからである。むなしいのは、統一教会と一心同体の政党が政権を握っているからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、それは、国民の過半数が選択したことであり、ニーチェも言うように「大衆は馬鹿」であり、「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」ように、国民は自らのレベルに合った政党を選んでいるからである。むなしいのは、政府の軍備増強の方針に国民の過半数が賛成してからである。しかし、それで良いではないか。なぜならば、軍備を増強すれば、戦争の可能性が高まり、ゆくゆく、国民は兵士となって戦わなければならなくなるが、マルクスが「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として。二度目は喜劇として。」と言うように、日本国民は太平洋戦争と同じ苦痛を味わわなければ、軍備増強の陥穽に気付かないからである。むなしく時が過ぎていく。しかし、それで良いではないか。なぜならば、確かに、むなしいのは、虚無感の中にあり、それは、夢や希望が見いだせていないということを意味するが、それとともに、苦悩や苦痛が存在しないことを意味するからである。だから、たとえ、毎日がむなしく過ぎていったとしても、それで良いではないか。楽しいことがあっても、夢からさめればむなしく感じるのは当然のことなのである。だから、松尾芭蕉に「面白いうてやがて悲しき鵜舟かな」という句があるのである。人間にとって、苦悩や苦痛が存在しないことが大切なのである。人間は、苦悩や苦痛にとらわれると、自殺すら厭わなくなるのである。だから、オーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタインは「苦しんでいる人間は、苦しみが消えれば、それで良い。苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しみが消えたということが、問題が解決されたということを意味するのである。」と言うのである。それほどまでに、苦悩や苦痛は人間を損なうのである。本質的に、現実とはむなしいものである。もともと、ありのままの現実とは、無色透明、無味乾燥のものであり、むなしいものなのである。それが、深層心理の欲動に基づく思考によって、人間の現実として、色付けされているのである。だから、人間の現実とは夢なのである。夢からさめればむなしく感じるのは当然のことなのである。深層心理はありままの現実を認識できず、現実を状況化して、全ての状況を自我の現実として、自我を主体にして捉え、ある心境の下で、欲動に基づいて快感を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。すなわち、無意識の思考が人間を動かしているのである。深層心理は自我にとらわれて思考して自我の欲望を生み出すから、人間は自我にとらわれて生きるしかないのである。自我とは、人間が、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。だから、人間が言う自分とは自我を意味するのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。他者とは、構造体内の人々であり、他人とは構造体外の人々である。人間は、構造体の中で自我を得て、初めて、人間として活動できるのである。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、夫婦という構造体には夫・妻という自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があり、男女関係という構造体には男性・女性という自我がある。人間は、常に、ある構造体に所属して、ある自我として行動しているのである。構造体を離れて、自我無くして、人間は、社会生活を営むことはできないのである。すなわち、この世では、生きていけないのである。すなわち、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、自分として生きているように思っているが、その自分とは、構造体の中の自我なのである。しかも、人間は、自我として意志を持って生きているのではなく、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて生きているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている」と言う。ラカンの言う無意識とは、無意識の思考であり、深層心理の思考を意味する。「言語によって構造化されている」とは、深層心理が言語を使って論理的に思考していることを意味し、決して、恣意的に思考しているのではないことを意味しているのである。深層心理が欲動に基づいて思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動の意味、行動の目的になっているのである。さて、深層心理は、ある心境の下で、欲動に基づいて快感を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているが、心境も感情も、一般に、気持ちと表現されるが、深層心理の情態である。深層心理は心境の下で思考する。心境は、気分とも表現され、爽快、陰鬱など、比較的に長期に持続する情態である。感情は、深層心理によって行動の指令ととも自我の欲望として生み出され、人間を動かす力になっている。感情には、喜怒哀楽などがあり、人間には瞬間的に湧き上がる情態として感じられる。心境と感情は両立しない。感情が湧き上がっている時は、心境は消えている。心境は、爽快という情態にある時は、現状に充実感を抱いているという状態を意味し、深層心理は新しく自我の欲望を生み出さず、自我に、ルーティーンの行動を維持させるようにする。心境は、陰鬱という情態にある時は、現状に不満を抱き続けているという状態を意味し、深層心理は現状を改革するために、どのような自我の欲望を生み出せば良いかと思考し続ける。しかし、自我が異常な状況に陥っていない限り、深層心理が強い感情と現状を変革するような行動の指令という自我の欲望は生み出さない。しかし、深層心理が自我の状況に不満があっても、たいていの人はルーティーンの生活を続けていく。それを担っているのが超自我という機能によるのである。超自我とは、深層心理に存在し、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から発し、自我に毎日同じことを繰り返させようとし、異常な行動を抑圧する機能である。つまり、人間が、無意識のうちに、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、深層心理に存在している超自我の機能によるのである。しかし、自我が異常な状況に限り、深層心理が強い感情と現状を変革するような行動の指令という自我の欲望は生み出して、超自我が抑圧できない場合がある。その時、人間は、表層心理で、思考するのである。表層心理とは、人間の自らの状況を意識しての精神活動である。人間は、表層心理で、自らを意識して、深層心理が生み出した感情の下で、現実的な利得を求めて、道徳観や社会的規約を考慮し、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。現実的な利得を求める欲望は、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。人間は、深層心理が生み出した感情の下で、表層心理で、自らの状況を意識して、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、自我に利益をもたらし、不利益を被らないないようにしようという視点で、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考するのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎれば、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した現状を変革するような行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、行動してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動である。その結果、往々にして、他者に不幸、自我に不利益な現実が訪れるのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した強い感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、強い感情を生み出した深層心理の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。しかも、心境は、深層心理を覆っていて、深層心理も表層心理も変えることもできないのである。感情は、深層心理によって行動の指令とともに生み出される。深層心理が喜びという感情を生み出した時は、現状に大いに満足しているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が怒りという感情を生み出した時は、現状に大いに不満を抱いているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状を改革・破壊しようとするものになる。深層心理が哀しみという感情を生み出した時は、現状に不満を抱いているがどうしようもないと諦めているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状には触れないものになっている。深層心理が楽しみという感情を生み出した時は、将来に希望を抱いているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、将来に向かって現状を維持しようとするものになる。深層心理が、常に、心境や感情という情態が存在しているからこそ、人間は、表層心理で、自分の存在を意識する時は、常に、ある心境やある感情という情態にある自分を意識するのである。人間にとって、心境や感情という情態こそ自らが存在していることの証になっているのである。心境は深層心理に内在し、深層心理が感情を生み出しているから、人間は、表層心理で、自らの感情を変えることができないのである。次に、欲動であるが、欲動とは、深層心理に内在している保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望の集合体である。深層心理は、自我の状況が欲動の四つの欲望のいずれかをかなったものであれば、快感を得るのである。そして、深層心理は、自我の状況が欲動の四つの欲望のいずれかに背いていれば、不快感が与えられるのである。だから、深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、快楽を得よう不快感から逃れようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。つまり、欲動が深層心理を動かし、深層心理が生み出した自我の欲望を人間を動かしているのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・・存続・発展させたいという保身欲である。保身欲によって、深層心理は、超自我という機能で、人間を、毎日、同じようなことを繰り返させて、ルーティーンの生活を送らせているのである。また、人間は、表層心理で自らを意識して思考することが無ければ楽だから、ルーティーンの生活を望むのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。欲動の第二の欲望が、自我を他者に認めてもらいたいという承認欲である。承認欲によって、深層心理は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我が他者から見られていることを意識し、自我が他者に認められるように、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かすのである。フランスの心理学者のラカンは、「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。つまり、人間は、主体的に思考できないのである。人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩である。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという支配欲である。支配欲によって、深層心理は、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、他者・物・現象という対象を支配しようとしているのである。まず、他者に対する支配欲であるが、それは、他者の心を支配し、他者の行動を支配し、他者のリーダーとなることである。そうなれば、自我の力を発揮したことを意味するのである。そのために、深層心理は、他者の狙いや目標や目的などを探りながら、他者に接している。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなるような状態になれば、深層心理は、喜び・満足感という快楽が得られるのである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、支配欲から起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の支配欲であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、支配欲が高じると、深層心理には、無の有化と有の無化という機能が生じる。無の有化とは、深層心理は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に存在しなければ、この世に存在しているように思い込んでしまうという意味である。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を存在しているように思い込んだのである。深層心理は、すなわち、人間は、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、生きていけないのである。有の無化とは、深層心理は、実際に存在しているものやことを、存在していないように思い込んでしまうという意味である。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込んでしまうのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いから、いじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。共感欲によって、深層心理は、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うようにしているのである。共感欲は、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったり、協力し合ったりさせているのである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができ、恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えない。深層心理は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。もちろん、人間は、表層心理でストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した、承認欲が阻害され、屈辱感が強過ぎる者は、超自我や表層心理での抑圧は、深層心理が生み出したストーカー行為の指令を止めることができないのである。また、友人を作ろうとするのは、共感欲を満足させ、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするためである。中学生や高校生が、仲間という集団でいじめや万引きをすることがある。積極的にいじめや万引きに参加している者は、仲間という構造体で友人という共感欲に満足しているのである。渋々にいじめや万引きに参加している者は、仲間という構造体から追い出され友人という自我を恐れて加わっているのである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感欲が起こしているのである。協力するということは、互いに自らを相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で共通の敵に立ち向かうのである。北朝鮮の金正恩を中心とした政治権力者が、アメリカを共通の敵として、大衆に支持を求め、それが成功しているのである。日本の自民党・公明党政権は、中国、北朝鮮を共通の敵として、大衆に支持を求め、それが成功しているのである。つまり、人間は自ら思考して行動しているのではなく、深層心理が欲動に基づいて思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。現実とは、本質的に、無色透明、無味乾燥のものであり、むなしいものなのである。しかし、深層心理はありままの現実を認識できず、自我の現実として、自我を主体にして捉え、色付けしているのである。だから、人間の現実とは夢なのである。夢からさめればむなしく感じるのは当然のことなのである。



真理を求める自我の欲望について。(人間の心理構造その21)

2023-05-08 15:43:44 | 思想
人間は、いつ、いかなる時でも、常に、構造体の中で、自我を持って、暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、人間が、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間は、構造体の中で自我を得て、初めて、人間として活動できるのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、国民という自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。そして、深層心理は、常に、ある心境の下で、自我を主体にして、欲動に応じて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしている。深奥心理とは、人間の無意識の精神活動である。すなわち、人間は、無意識の思考によって動かされているのである。しかし、ほとんどの人は、自ら意識して思考して、意志によって行動していると思っている。人間の自ら意識しての精神活動を表層心理と言う。すなわち、ほとんどの人は、表層心理で思考して意志によって行動していると思っている。しかし、人間は、表層心理での思考では感情を生み出せないから、行動できないのである。感情が行動の動力になっているからである。また、人間が表層心理の思考による意志によって行動していないということは主体性を有していないことを意味しているのである。そもそも、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるから、ほとんどの人は、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。すなわち、ほとんどの人は、自己として存在できないのである。主体的に、他者の思惑を気にしないで思考し、行動すれば、所属している構造体から追放され、自我を失う虞があるからである。所属している構造体から追放され自我を失う覚悟のある人だけが自己として存在できるのである。すなわち、ほんのわずかな人が理性で主体的に思考して、それを意志として、行動できるのである。ところが、ほとんどの人は、自ら主体的に思考できず行動できないのは、すなわち、自己として存在できないのは、他者や他人から妨害や束縛を受けていることが原因だと思い込んでいるのである。他者とは同じ構造体の人々であり、他人とは別の構造体の人々である。そこで、他者や他人からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れるのである。自由であれば、表層心理で、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自らを意識して思考して、自らの意志で行動することができると思い込んでいるのである。つまり、自己として生きられると思っているのである。そして、そのような生き方に憧れるのである。しかし、人間は、自由であっても、決して、主体的になれないのである。なぜならば、深層心理が自我を主体に立てて思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望が、人間を動しているからである。だから、ほとんどの人は、主体性無く、生きているのである。しかし、それは当然のことである。なぜならば、そもそも、人間は、誰一人として、誕生の意志をもって生まれて来ていないからである。そうかと言って、誕生を拒否したのに、誕生させられたわけでもない。つまり、誰もが、気が付いたら、そこに人間として存在していたのである。だから、人間は、誰しも、主体性が無く、深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きるしか無いのである。つまり、人間は、自らの意志で誕生していないから、主体性が無く、深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。そして、稀に、自らに主体性が無いことに気付き、疑問を覚える人が現れるのである。自らの意志によって生まれてきていず、主体性が無いことは、他の動物、植物も同じである。しかし、人間には、他の動物、植物と異なるところがある。それは、言葉を持っていることである。他の動物、植物は言葉を持っていないから、深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きることも、それに気付いて疑問を覚えることも無いのである。他の動物、植物は言葉を持っていないから、思考と行動は完全に一致しているのである。しかし、人間は、言葉を持っているから、深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きていることに気付き、それに疑問を覚える人が現れるのである。しかし、その人が、主体的に生きようとしても、ほとんど、挫折するのである。なぜならば、誕生の意志をもって生まれていないのに、誕生してから主体性を持とうとしても、すなわち、主体的に生きようとしても、方向性を見いだすことは困難だからである。その上、人間は、主体性が無くても、生きていけることが拍車をかけるのである。それは驚くべきことである。それなのに、ほとんどの人はそれに対して疑問を抱かない。なぜ、疑問を抱かないのか。それは、生きる意味、生きる目的を自覚していなくても、現に、生きているからである。しかし、自覚していないことは、生きる意味、生きる目的が存在していないということを意味していない。人間は、生きる意味、生きる目的を有せずして、生きることはできない。つまり、人間は、自覚していないが、生きる意味、生きる目的を有しているのである。だから、人間は、生きる意味、生きる目的を自ら意識していなくても、すなわち、自覚していなくても、生きていけるのである。それは、先天的に、人間には、生きる意味、生きる目的が与えられているからである。人間の先天的に与えられている生きる意味、生きる目的とは、ひたすら自我の欲望をかなえようと生きることとひたすら生きるために生き続けようとすることとである。まず、人間のひたすら自我の欲望をかなえようとする無意識の意志であるが、それは、深層心理によって生み出されている。深層心理は自我を欲動の欲望にかなった状況にすれば快楽が得られるので、その状況になるように思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしている。それが、人間にとって、生きる意味、生きる目的なのである。だから、人間は、生きる意味、生きる目的を表層心理で意識せず思考しなくても生きていけるのである。自我の欲望が阻害された時だけ、深層心理が苦悩するから、人間は、深層心理から苦痛を取り除く方法を表層心理で思考するのである。次に、人間のひたすら生きるために生き続けようとする無意識の意志であるが、それは、深層肉体によって生み出されている。深層肉体とは人間の無意識の肉体の活動である。つまり、人間は、無意識のうちに、深層心理の意志によってひたすら自我の欲望をかなえようと生きようとし、深層肉体の意志によってひたすら生きるために生き続けようとするのである。深層肉体あり方は単純である。深層肉体は、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという意志を持って、人間を生かしている。深層肉体は、精神や肉体がどんな状態に陥ろうと、ひたすら人間を生かせようとする。深層肉体は、深層肉体独自の意志によって、肉体を動かし、人間を生かしているのである。深層肉体の典型は内蔵である。人間は、誰一人として、自分の意志で、肺や心臓や胃などの内蔵の動きを止めることはできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。人間の無意識のうちに、深層肉体が呼吸をしているのである。また、人間は、誰しも、風邪を引くと、咳がしきりに出たり、熱が上がったりする。そうなると、多くの人は、風邪のウイルスが体内に入り、咳を生み出し、発熱させたのだと思う。しかし、真実は、そうではない。真実は、深層肉体が、体内に入った風邪のウイルスを体外に出そうとして、肉体に咳をさせ、風邪のウイルスを弱らせ、殺そうとして、肉体の温度を上げているのである。しかし、ほとんどの人は、自らの意志によって動く肉体しか認識していない。人間の自ら意識して意志によって動く肉体の表層肉体と言う。表層肉体の動きとして、次のようなものがある。授業中、生徒が、教師の質問に答えようとして、手を挙げることである。正座していて、辛くなり、あぐらをかくことである。遅刻しそうになり、駆け足で急ぐことである。しかし、表層肉体の動きは肉体の活動の一部にしか過ぎないのである。肉体の大半の活動は深層肉体の活動である。さて、深層心理は、常に、ある心境の下で、自我を主体にして、欲動に応じて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我になっている人間を動かしているが、心境、感情とは何か。心境も感情も、深層心理の情態である。深層心理は、常に、心境の下にある。心境は、気分とも表現され、爽快、陰鬱など、比較的に長期に持続する情態である。感情は、深層心理が行動の指令とともに生み出して自我の欲望を形成し、人間を行動の指令通りに動かす力になっている。感情には、喜怒哀楽などがあり、人間には瞬間的に湧き上がる情態として感じられる。心境と感情は並び立たない。感情が湧き上がっている時は、心境は消えている。心境は、爽快という情態にある時は、現状に充実感を抱いているという状態を意味し、深層心理は新しく自我の欲望を生み出さず、自我に、ルーティーンの行動を維持させるようにする。心境は、陰鬱という情態にある時は、現状に不満を抱き続けているという状態を意味し、深層心理は現状を改革するために、どのような自我の欲望を生み出せば良いかと思考し続ける。しかし、自我が異常な状況に陥っていない限り、深層心理が強い感情と現状を変革するような行動の指令という自我の欲望は生み出さない。不満があっても、たいていの人はルーティーンの生活を続けていく。なぜならば、欲動に保身欲があり、それが深層心理をして、ルーティーンの生活を続けさせようとするからである。心境は、深層心理を覆っていて、深層心理も表層心理も変えることもできないが、感情は、深層心理によって行動の指令とともに生み出される。深層心理が喜びという感情を生み出した時は、現状に大いに満足しているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が怒りという感情を生み出した時は、現状に大いに不満を抱いているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状を改革・破壊しようとするものになる。深層心理が哀しみという感情を生み出した時は、現状に不満を抱いているがどうしようもないと諦めているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状には触れないものになっている。深層心理が楽しみという感情を生み出した時は、将来に希望を抱いているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、将来に向かって現状を維持しようとするものになる。深層心理が、常に、心境や感情という情態が存在しているからこそ、人間は、表層心理で、自分の存在を意識する時は、常に、ある心境やある感情という情態にある自分を意識するのである。人間にとって、心境や感情という情態こそ自らが存在していることの証になっているのである。心境は深層心理に内在し、深層心理が感情を生み出しているから、人間は、表層心理で、感情を変えることができないように、心境も変えることはできないのである。さて、深層心理は、常に、ある心境の下で、自我を主体にして、欲動に応じて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我になっている人間を動かしているが、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。深層心理は、自我の状況を、欲動の四つの欲望のいずれかをかなったものにすれ、快楽を得ることができるのである。だから、深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。つまり、欲動が、深層心理を動かしているのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・・存続・発展させたいという保身欲である。保身欲によって、深層心理は、人間を、毎日、同じようなことを繰り返させて、ルーティーンの生活を送らせているのである。それを担っているのが超自我という機能によるのである。超自我とは、深層心理に存在し、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から発した、自我に毎日同じことを繰り返させようとし、異常な行動を抑圧する機能である。つまり、人間が、無意識のうちに、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、深層心理に存在している超自我の機能によるのである。また、人間は、表層心理で自らを意識して思考することが無ければ楽だから、ルーティーンの生活を望むのである。さらに、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。しかし、時には、ルーティーンから外れたことが起こる。例えば、コンビニという構造体で、店員という自我の人が、客という自我の人に、対応が悪いという理由で、大声で怒鳴られる。そのような時、深層心理が思考して、怒りの感情と怒鳴った客に対して怒鳴り返せなどの行動の指令を、自我の欲望として生み出し、店員を動かそうとする。しかし、そのような時には、まず、超自我という機能が働く。深層心理には、欲動の保身欲から発した、超自我という日常生活のルーティーンから外れた異常な行動の指令を抑圧しようとする機能があるである。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、超自我は、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。その場合、次に、人間は、表層心理で、行動の指令について検討するのである。人間は、表層心理で、自らの自我の状況を認識して、深層心理が生み出した感情の下で、現実的な利得を求めて、道徳観や社会的規約を考慮し、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒否するか考えるのである。現実的な利得を求めるとは、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという志向性で考えることである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。人間は、表層心理で、自我の状況を意識し、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、自我にどのようなことが生じるかを、現実的な利得を得ようという視点で、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に思考するのである。この場合、コンビニの店員は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実的な利得を求めて、伽に対してを大声で怒鳴り返したならば、後に、自我に不利益がもたらされるということを考えて、怒鳴り返せという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した客に対して怒鳴り返せという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、怒鳴り返してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に現実的な不利益をもたらすのであまた、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した深層心理の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。承認欲によって、深層心理は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我が他者から見られていることを意識し、自我が他者に認められるように、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かすのである。フランスの心理学者のラカンは、「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。つまり、人間は、主体的に思考できないのである。人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩である。先の例で言えば、コンビニという構造体で、客が、対応が悪いという理由で、大声で店員を怒鳴ったのは、客という自我が傷付けられたからである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという支配欲である。支配欲によって、深層心理は、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、他者・物・現象という対象を支配しようとしているのである。まず、他者に対する支配欲であるが、それは、他者の心を支配し、他者の行動を支配し、他者のリーダーとなることである。そうなれば、自我の力を発揮したことを意味するのである。そのために、深層心理は、他者の狙いや目標や目的などを探りながら、他者に接している。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなるような状態になれば、深層心理は、喜び・満足感という快楽が得られるのである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、支配欲から起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の支配欲であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、支配欲が高じると、深層心理には、無の有化と有の無化という機能が生じる。無の有化とは、深層心理は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に存在しなければ、この世に存在しているように思い込んでしまうという意味である。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を存在しているように思い込んだのである。深層心理は、すなわち、人間は、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、生きていけないのである。有の無化とは、深層心理は、実際に存在しているものやことを、存在していないように思い込んでしまうという意味である。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込んでしまうのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いから、いじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。深層心理は、すなわち、人間は、自己正当化できなければ生きていけないのである。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。共感欲によって、深層心理は、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うようにしているのである。共感欲は、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったり、協力し合ったりさせているのである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができ、恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えない。深層心理は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。もちろん、人間は、表層心理でストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した、承認欲が阻害され、屈辱感が強過ぎる者は、超自我や表層心理での抑圧は、深層心理が生み出したストーカー行為の指令を止めることができないのである。また、友人を作ろうとするのは、共感欲を満足させ、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするためである。中学生や高校生が、仲間という集団でいじめや万引きをすることがある。積極的にいじめや万引きに参加している者は、仲間という構造体で友人という共感欲に満足しているのである。渋々にいじめや万引きに参加している者は、仲間という構造体から追い出され友人という自我を恐れて加わっているのである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感欲が起こしているのである。協力するということは、互いに自らを相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で共通の敵に立ち向かうのである。北朝鮮の金正恩を中心とした政治権力者が、アメリカを共通の敵として、大衆に支持を求め、それが成功しているのである。日本の自民党・公明党政権は、中国、北朝鮮を共通の敵として、大衆に支持を求め、それが成功しているのである。さて、人間は、毎日、同じようなことを繰り返して、ルーティーンの生活を送っている。それは、欲動の保身欲によって、深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間に、今日も、昨日と同じようなことをするように強いているからである。それでは、なぜ、深層心理はルーティーンの生活を強いるのか。それは、人間は、同じことを繰り返さなければ、自我に力を蓄えることができず、自我の力を発揮することができないからである。例えば、学問の進歩は、同じようなことを研究し続けることによって、技術の進歩は、同じ技を繰り返すことによってなされるのである。また、深層心理が、繰り返すことやものしか捉えられないから、人間は、世界の中で、繰り返すことやものに注目し、焦点を絞るのである。それが現象である。深層心理は、世界の出来事を永遠に繰り返すように見ることによって、世界を支配しようとしているのである。世界が支配できるように思い込んでいるのである。つまり、これは、欲動の第三の欲望の自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいというという配欲から発しているのである。世界の出来事が永遠に繰り返すように見える様態が法則である。深層心理は、法則によって、世界を支配しようとしているのである。だから、人間は、法則が無ければ、世界を見ることができないのである。天動説という法則があるから地球の周囲を太陽が回り、地動説という法則があるから太陽の周囲を地球が回るのである。プラトンがイデアという法則を生み出したから、理性によってのみ実在が存在するのである。ヘーゲルは、弁証法という法則を見出したから、全世界を理念の自己発展として認識できたのである。ハイデッガーは、世界内存在という法則を見出したから、さまざまな存在者と関わり合いながら世界の中に住みついている人間を発見したのである。畢竟、深層心理は、自ら法則を生み出し、人間をその法則の下で生かせようとしているのである。法則を生み出す原動力が志向性であり、法則によって見いだされた現象が真理である。カントは「人間は物自体を捉えることはできない」と主張する。カントは「私たちが直感する物は現象であって、私がそのように直感している物そのものではない。私たちが直感する物の間の関係は、私たちにそのように現れるとしても、物において存在している関係そのものではない。対象その物がどのような物であるか、また、それが私たちの感性のこれらの全ての受容性と切り離された場合にどのような状態であるかについては、私たちは全く知るところが無い。」と言う。つまり、カントは、「人間が認識しているのは現象であって、現象の背後にある物自体ではない。物自体は認識できない。」と主張しているのである。確かに、カントの言うように、人間は、特定の視点・観点という、特定の志向性からでしか、物を認識できないから、物自体は認識できない。志向性(視点・観点)が変われば、同じ物も、別様に見えてくる。しかし、人間は、特定の志向性(視点・観点)を持って、物を見るしかない。人間は、志向性(視点・観点)を持たずに、物を見ることができない。物を捉えるためには、特定の志向性(視点・観点)を持って物を見ることが必須条件だからである。だから、人間は、常に、志向性によって、他者・物・現象という対象を捉えて、行動しているのである。しかし、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、志向性を使って、他者・物・現象という対象を捉えているのではない。すなわち、人間は、表層心理で、志向性を使って、思考して、他者・物・現象という対象を捉えているのではない。人間は、無意識のうちに、志向性を使って、思考して、他者・物・現象という対象を捉えているのである。すなわち、深層心理が、志向性を使って、思考して、他者・物・現象という対象を捉えているのである。それは、人間は、現象を、現象のままにしておくことは不安であり、現象から真理を掴み出すことによって安心する動物だからである。正確には、真理を掴んだと思うことによって安心する動物である。近代以前のヨーロッパ諸国の人々が、天体運行の基本真理として、太陽が地球の周囲を周期的に回ると考えたのは、それが、キリスト教の教義に合致し、毎日の生活で覚える感覚と合致したために、安心できたからである。しかし、近代になると、ヨーロッパ諸国の人々は、地球が太陽の周囲を周期的に回ると考えるようになった。それは、科学的な思考を導入したからである。科学の真理が、終局的には、人間に幸福をもたらすと考えたから、それを受け入れたのである。科学的な思考に、絶対的な信頼感を置くことによって、安心感を得られるので、そのように信じているのである。このように、近代以前と近代以後において、ヨーロッパ諸国の人々は、天体の基本真理としての、地球と太陽の運行の関係について、全く逆の思考をしている。コペルニクス的転回である。しかし、現代人は、それは矛盾している、問題があるなどと非難できることではない。なぜならば、現代人も、また、現象から掴み出した真理に安心感が抱ければ、それを真理とするからである。ニーチェに「永劫回帰」という思想がある。「この世は同じ事象が永遠に繰り返す」という意味である。しかし、これは、この世の事象が全て永遠に同じことを繰り返すかどうかが問題ではない。人間は同じことを繰り返す事象しか理解できないということが眼目なのである。そして、それが永遠に繰り返すと思い込んでいるのである。そのように思い込まなければ不安だからである。言うまでもなく、同じことを繰り返す事象とは真理である。真理が生まれるプロセスが法則である。人間は、この世に真理や法則が無ければ不安だから、それらを追究するのである。真理や法則は人間の存在の安泰に与すものでなければ存在しないのである。また、ニーチェは「人間の認識する真理とは、人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬である。もしも、深く洞察できる人がいたならば、その誤謬は、人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理の上に、かろうじて成立した、巧みに張り巡らされている仮象であることに気付くだろう。」とも言うのである。まさしく、真理と言えども、人間の生に有用であり、安心をが与えてくれるから称賛されるのである。だからこそ、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」が裏に潜んでいるのである。それは、「誤謬・仮象を否定して、真理も求めても、そこに、真理は存在しない」という真理なのである。だから、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」なのである。また、「深く洞察できる人」とは、ニーチェの言う「超人」である。「超人」とは、これまでの人間である「最後の人間」を否定した人間である。「最後の人間」とは、キリスト教の教えに従い、この世での幸福を諦め、あの世での神の祝福・加護に期待を掛け、神に祈って、生活している人間たちである。だから、「超人」とは、この世に賭け、この世に生きることを肯定して、積極的に生きる人間である。「超人」が現れると、神は必要なくなるのである。だから、ニーチェは、「神は死んだ」と言うのである。「超人」とは、「誤謬・仮象を否定して、真理も求めても、そこには真理は存在しない」という「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」を認識し、敢えて、現世を肯定して生きる人間である。もちろん、新しく打ち立てた真理も、また、誤謬・仮象である。しかし、この誤謬・仮象は、キリスト教の教えに従い、この世での幸福を諦め、あの世での神の祝福・加護に期待を掛け、神に祈って、生活している「最後の人間たち」の誤謬・仮象ではない。現世を肯定して生きるための誤謬・仮象である。だから、「超人」とは、自ら、この世で「神」になることを意味しているのである。しかし、「超人」は、まだ、この世に現れていない。だから、ニーチェは、「キリスト教の神が誕生し、その神が死んだが、新しい神が、まだ、現れていない。」と言うのである。


どうして自我にこだわるのか。(人間の心理構造その20)

2023-05-03 18:04:38 | 思想
人間には、自分という一つの生き方は存在しない。人間は、常に、自我として生きている。自我とは、構造体の中での自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属して、ある自我を持って生きているのである。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、総理大事・国会銀・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では夫と妻という自我がある。だから、ある人は、日本という構造体では日本国民という自我を持ち、家族という構造体では母という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って行動しているのである。また、ある人は、日本という構造体では日本国民という自我を持ち、家族という構造体では夫という自我を持ち、会社という構造体では人事課長という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って行動しているのである。だから、息子や娘が母、父だと思っている人は、確かに、家族という構造体では母、父という自我で行動しているが、他の構造体では、他の自我を所有して行動しているのである。だから、誰しも、「あなたは何ですか。」と尋ねられると、その時、所属している構造体の自我を答えるのである。人間は、常に、ある一つの構造体に所属して、ある一つの自我として生きていて、他の構造体では、他の自我を有しているから、自分というあり方は固定していないのである。自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。他人とは、構造体の外の人々である。すなわち、自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。だから、人間は、自我の関係の中で生きていて、誰一人として、自分として独自に生きることはできないのである。なぜ、そうなのか、それは、人間は、誰しも、自分の意志によって生まれてきていないからである。そうかと言って、生まれることを拒否したのに、無理矢理、誕生させられたわけでもない。つまり、自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、そこに存在しているのである。だから、人間は、誰しも、親を選べず、家族を選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その家の子として存在しているのである。その家族を構造体として、娘、息子を自我としていきるしかないのである。しかし、親も、子を選べないのである。生まれてきた子の父、母を自我として持って育てるしか無いのである。さらに、人間は、誰しも、生まれてくる時代も選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その時代に存在からである。だから、現代日本人は、誰しも、藩という構造体に所属できず、武士という自我を持つことはできないのである。その上に、人間は、誰しも、生まれてくる国を選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その国に存在しているからである。日本という国に生まれたから、日本という構造体に所属して、日本人という自我を持つのである。そして、愛国心を持つのである。自らが所属している国だから、その国を愛するのである。もしも、中国、韓国に生まれていたならば、中国、韓国に愛国心を持つのである。だから、愛国心は声高に叫び、中国、韓国に敵が心を燃やすことは無いのである。アメリカを同盟国として尊重している日本人は多いが、アメリカ国民は、アメリカに愛国心を持ち、日本を利用しているだけなのである。人間は、構造体と自我に執着して生きているから、パスカルが、『パンセ』で、「私の人生の短い時間が、その前と後ろに続く永遠のうちに、『一日だけで通り過ぎてゆく客の思い出』のように飲み込まれ、私の占めている小さな空間、さらに、私の眺めているこの小さな空間が、私の知らない、また私を知らない無限のうちに沈んでゆくのを考える時、私はあそこにいず、ここにいるのを見て、恐れ、驚く。というのは、なぜあそこにいずここにいるのか、あの時にいず今この時にいるのか、全然その理由がないからである。誰が私をここに置いたのだろうか。誰の命令と指図によって、この場所とこの時が私のために当てがわれたのか。」と述べているように、人間は、誰しも、自らが存在していることの不安を覚える時があるのである。そこで、その不安を打ち消すために、ますます、人間は現在所属している構造体と現在持している自我に執着するのである。しかし、構造体は他者が創造したものであり、自我は他者から与えられたものであるので、人間は、誰しも、、構造体が消滅し、自我が奪われる不安は拭えないのである。一生、その不安が付きまとうのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの自我を得る必要があるからである。そのための構造体である。現在、世界は、国という構造体に分割されている。だから、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。当然、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、苦痛を覚える時もあるのである。そして、その苦痛を解消するために、国民がこぞってそのことだけを思考し、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。