あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

「愛国」を標榜し、「反日」という言葉で他を批判する者たちの幼児性

2016-12-23 14:33:38 | 思想
人間の存在基盤の感情は、愛情である。愛が、人間を動かしているのである。人間が愛を動かしているのではなく、愛が人間を動かしているのである。つまり、愛が、人間世界の悲喜劇を生み出しているのである。それ故に、「愛は地球を救う」という言葉は、人間の願望を表したものでしかない。むしろ、心理学者の岸田秀が言うように、「愛は地球を滅ぼす」という言葉が、人間社会の真実を突いているのである。人間とは、愛する動物である。そして、それに執着する動物である。つまり、人間とは、愛着する動物なのである。それでは、人間は何を愛し、愛着するのだろうか。それは、自分に所属し、自分が所属するものに対してである。つまり、愛情とは、自己愛なのである。そして、自己とは、自分の肉体だけでなく、自分の心、自分の家、自分の学校、自分の会社など、自分に所属し、自分が所属するもの全てから形成されているのである。そして、自己愛とは、自分がそれらのものに所属し、自分がそれらのものを所属しているだけでは満足しない感情なのである。それらのものが、他の者から承認されて、初めて満足する感情なのである。だから、人間は、自分の容貌を褒められると喜ぶだけでなく、自分の心が理解されていないと言って嘆き、自分の家を自慢し、自分が通った学校がスポーツ大会や文化行事で活躍すると喜び、自分が勤めている会社のスポーツチームを応援するのである。愛国心も、また、同じ心情から発している。日本人は、日本という国に所属しているから、日本という国を愛し、日本という国に愛着の念を抱くのである。つまり、愛国心とは、自己愛に過ぎないのである。だから、日本人は、誰しも、オリンピックで日本人選手が活躍すると、我が事のように喜ぶのである。しかし、考慮しなければならないことは、他国の人も、その国に所属しているから、その国を愛し、その国に愛着の念を抱いているということである。幼児性の強い人たちは、他国の人の愛国心に思いを馳せようとしない。その具体的な事例が、竹島、尖閣諸島、北方領土の帰属問題である。現在のような幼児性の強い政治権力者とそれを支える国民が存在する限り、竹島、尖閣諸島、北方領土の帰属問題は、永遠に解決しない。本来、それらの島の帰属を問題にするのは、各の国民が自らの愛国心に執着し、他国民の愛国心に思いを馳せていないからであり、その状態から抜け出さない限り、世界から、現在のような国という形体が消滅しない限り、帰属問題は消滅しない。また、どの国民も愛国心を持っていると言っても、その愛情の持ち方は一様ではない。ところが、いつの時代で、どこの国でも、自らの愛国心こそ真の愛国心だと主張し、他の愛国心の形態を認めようとしない者たちが存在する。愛国主義者という幼児性の強い者たちである。日本にも、存在する。戦前にも存在し、現在でも存在する。彼らは、自らの愛国心の形態を絶対化し、自らとは異なる愛国心の形態を抱く者を、反日だと非難する。それは、家族愛があると言いつつ、自分の言うことに素直ではない子供だけを虐待する親に似ている。その親も、また、親に成りきれない、幼児性の強い親である。

コップの中の嵐、七人の落ち武者

2016-12-13 11:24:34 | 思想
先の都知事選で、自民党東京都連の通達を無視して、小池百合子を応援した七人の自民党都議を、マスコミは七人の侍と呼んで、褒めそやしている。自民党都連に楯突いた行動が、侍のように潔いと思っているからであろう。しかし、そうであろうか。彼らは、離党届を出さなかった。自民党から離れたくないからである。自民党本部の方も、世論を配慮して、穏便に事を済ませようとして、宴会の席を設けたりして、彼らの方からわびを入れてくるのを待っていたが、彼らは強情を張り、それらを無視し続けた。その結果、自民党から除名処分された。小池百合子は、自分が自民党から除名されていないのに、なぜ彼らが除名されるのかと、異議を唱えている。しかし、彼らの除名処分は遅すぎたくらいである。都知事選が終わった時点で、除名処分が下されて当然のことなのである。また、小池百合子も、自分が所属している自民党の意向に反して、都知事選に立候補したのだから、その時点で除名処分されて当然のことなのである。さらに、小池百合子も、自分から離党届を出すべきなのである。しかし、いまだに、除名されていず、離党届も出されていない。なぜ、そうなのか。自民党は、世論が恐いからである。小池百合子は、自民党を抜けるのが恐いからである。何のことはない。七人の自民党都議、小池百合子、自民党都連、自民党本部で茶番を演じているのである。自民党というコップの中の嵐の出来事なのである。七人の自民党都議は七人の侍ではない。七人の落ち武者である。マスコミが作り上げた偶像である。


大衆は馬鹿だ(その4)

2016-12-02 13:23:51 | 思想
ニーチェが「大衆は馬鹿だ」と言ったのは19世紀のことである。しかし、その馬鹿さ加減は、二世紀経った21世紀の日本においても、猖獗を極めている。ハイデッガーは、大衆の特徴として、好奇心・世間話・無責任の三点を挙げている。現在の日本の大衆が、まさしく、それである。ベッキーと川谷絵音の不倫、アスカの覚醒剤など、マスコミが取り上げ、大衆が関心を寄せる話題は、好奇心・世間話・無責任の産物以外の何物でもない。テレビ番組で発言するコメンテーターという大衆も、街頭インタビューに答えている大衆も、ネット発信をしている大衆も、正義感ぶっているが、ただ、マスコミに煽られているだけである。彼らは、それに気付いていない。いや、元々、気付こうとしていない。なぜならば、正義の名を借りて、自らを絶対多数の強者の立場に置いて、絶対少数の弱者を責めるのは楽しいからである。絶対に負けることがない上に、そこに、大衆の連帯感が生まれるからである。それは、学校において、絶対多数の強者が絶対少数の弱者一人を攻める「いじめ」と同じ構造である。「敵は本能寺に在り」である。大衆の真の敵は、恋愛感情に囚われた者や国家権力に捕らわれた者ではなく、国家権力そのものである。安倍自民党政権である。しかし、それは、安倍晋三、自民党国会議員だけが異常ということではなく、権力を握った者は、権力者という自我に囚われて、異常に走りやすいのである。安倍自民党政権の異常の向かうところ、それは戦前である。戦前回帰である。安倍自民党政権は、日本を、天皇を中心に国会議員と軍人が絶対的な権力を握り、戦争ができ、アジアの覇権を握った時代に戻そうとしているのである。それは、自民党の憲法草案にも明瞭に現れている。安倍自民党政権は、既に、国家安全保障会議、特別秘密保護法、安保法を成立させ、自衛隊による海外での戦争を可能にした。後は、日本国憲法を改正して、徴兵制を導入するだけである。かてて加えて、高速増殖原型炉もんじゅが全く機能せず、税金の無駄遣いになり、現在、成功のめどが全く立っていないのに、新たに、莫大な金額で、もんじゅを継続した施設を作ろうとしている。カジノ法案も、近いうちに、自民党・公明党・日本維新の会の強行採決によって、成立するだろう。安倍自民党政権は、自民党・公明党の国会議員の絶対多数を笠に着て、好き放題なことを行っている。しかし、国会議員に、絶対多数の自民党・公明党議員を選んだのは大衆である。さらに、最近の世論調査では、安倍自民党政権の支持率は6割あるという。大衆の馬鹿さ加減にも程がある。しかし、誰しも、大衆の中で、大衆として育つ。それ故に、自己という本来的な自分を取り戻すためには、好奇心・世間話・無責任に満ちた大衆という非本来的な自分から脱却しなければならない。そのためには、国家権力と大衆のあり方に対して、異議を唱えなければいけない。それは、誰のためでもなく、自分自身のためである。自分の存在を自分で認めるためである。ガンジーは次のように言っている。「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでも、しなくてはならない。世界を変えるためではなく、世界によって、自分が変えられないようにするためである。」ガンジーの言葉は至言である。