あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

戦前と戦後の繋がりについて(自我その243)

2019-10-30 16:36:06 | 思想
太平洋戦争は、日本は、大きな犠牲を被ったが、それでも、一つだけ、益をもたらした。敗戦の結果、アメリカによって、日本に、民主主義が導入されたことである。日本は、敗戦の結果、国家主義の国から、民主主義の国へと大きく転換したのである。しかし、戦後の日本は、それを生かしきれず、現在でも、アメリカに隷属し、戦前と同じく、国家主義者が日本の政治を動かしているのである。さて、我々人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体に所属して、ある関係性を築いて、ある自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。我々人間が最初に所属する構造体は家族であり、最初の関係性は家族関係であり、最初の自我は、男の子または女の子である。我々は、家族という構造体で、家族関係を築きながら、男の子または女の子という自我を持って行動し、成長していくのである。また、我々は、日本という国にも所属し、社会的な関係性を築きながら、日本人という自我を持って、行動している。さて、我々人間は、常に、思考して、行動する。しかし、それは、表層心理による思考(意識しての思考)から始まるではなく、深層心理による思考(無意識の中での思考)から始まるのである。深層心理は、一般に、無意識と表現されている。深層心理は、奥深くに隠れている心の動き・外に現れない無意識の心の働きである。我々は、まず最初に、我々の意識していないところで、すなわち、深層心理が思考するのである。自ら意識して、自らの意志で、すなわち、表層心理で思考するのは、深層心理の思考の結果を受けてのことである。表層心理は、深層心理による思考(無意識の中での思考)の結果を受けて、意識して、それを思考するのである。深層心理は、瞬間的に思考する。表層心理による思考は、短時間のものから長時間のものまで多岐にわたっているが、一般的に、深層心理による思考よりも短くなることはない。ほとんどの人は、思考と言えば、表層心理による、意識しての思考を考え、深層心理による思考が存在することに気付いていない。一般に言われる理性は、表層心理による、意識しての思考を意味する。さて、現在、日本という国の構造体が、国家主義者によって動かされているということは、我々日本人の多くの深層心理に、国家主義は残存していて、表層心理が、民主主義で取り繕っているということなのである。さて、我々人間は、まず、深層心理が、無意識のうちに、思考し、「快感原則」(快楽を得たいという欲望)に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、次に、表層心理が「現実原則」(利益を得たいという欲望)に基づいて、意識して、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令の通りに行動するか抑圧するかを考えて、行動している。つまり、日本人の多くは、深層心理は、国家主義に基づいていて思考し、表層心理は、民主主義の基づいて思考しているのである。だから、日本人の多くは、民主主義者を装いながら、何か事があると、国家主義に引きずられていくのである。それが、現在でも、日本という国の構造体が、国家主義者によって動かされているという現象を生み出しているのである。さて、現在の日本の首相である安倍晋三という国家主義者は、岸信介の孫である。岸信介は、超という接頭語を付くぐらいの、国家主義者であった。安倍晋三が、岸信介を尊敬しているのも、頷けることである。岸信介は、満州国の高官を経て、東条英機内閣が太平洋戦争を起こした時は、商工大臣になっていた。太平洋戦争中、大日本帝国は、軍部が、八紘一宇(はっこういちう・世界を一つの家にすること)を掲げて、自らの行為を正当化しつつ、中国、東南アジアの侵略し続けた。その結果、アメリカを中心とした連合国と戦争をせざるを得なくなった。また、大日本帝国は、満州国の建国理念として、五族協和(日・朝・漢・満・蒙の五族の協和。日本人、朝鮮人、漢族、満州族、モンゴル族が平等の立場で満州国を建設すること)・王道楽土(おうどうらくど・王道主義によって、各民族が対等の立場で搾取なく強権のない楽土(理想郷)を実現すること)を掲げた。しかし、八紘一宇、五族協和、王道楽土は、見せかけだけのスローガンであった。真実は、日本軍人(日本人)はアジアの諸民族を蔑視し、嫌悪していたのである。その証拠として、次のような実例を挙げることができる。日本軍(日本人)は、中国や朝鮮や東南アジアにおいて、日本の神社を拝ませ、日本語を強制し、拷問、レイプ、虐殺を行った。陸軍の細菌戦部隊である731部隊は、中国において、ペスト、コレラ、チフスなどの細菌の研究を進め、実戦に使い、中国人、ロシア人などの捕虜・抗日運動家を使って人体実験を行った。その犠牲者の数は三千人近いと言われている。日本軍(日本人)は、朝鮮において、創氏改名(朝鮮人の姓名を日本式の氏名に改めること)を強制した。日本軍人は、東南アジアにおいて、現地の若い女性をだまして、暴力的に従軍慰安婦に仕立て上げた。それは、朝鮮だけにおいてではない。占領地全てにおいてであった。太平洋戦争は終わった。日本は敗北した。しかし、日本人の中には、アジアの諸民族対する蔑視感・嫌悪感を、現在も、持ち続けている人が存在するのである。それも、決して少ない数ではない。特に、中国、韓国、北朝鮮に対して蔑視感・嫌悪感を抱いている人が多い。それは、戦前、大日本帝国が、中国、韓国、北朝鮮を侵略し、占領したからであり、多くの日本人の深層心理が、国家主義思想あるからである。「在日韓国人や在日朝鮮人は日本から出て行け。」と叫びながら、デモ行進をする在日特権を許さない市民の会という右翼集団の行動に如実に表れている。戦前の亡霊が現在まで生き残っているのである。特に、安倍晋三が首相になってから、我が意を得たりとばかり、ヘイトスピーチする集団とともに、中国・韓国・北朝鮮に対して、あからさまに非難する人が増えてきた。岸信介は、太平洋戦争中、あくどいやり方で、中国で利益を上げた。それ故に、今もって、多くの中国人に嫌われている。当然のごとく、戦後、A級戦犯として逮捕された。しかし、共産主義国であるソ連の台頭、中国の共産党の勃興、朝鮮戦争が起こりそうな機運が高まってきたので、アメリカは政治判断を下し、岸を釈放した。その後、自民党の衆議院議員になり、そして、首相にまで上り詰めた。1960年、安保条約(日米安全保障条約)を改定した。旧安保条約には、アメリカ軍が安全保障のために日本に駐留し、日本が基地を提供することなどを定めていたが、新安保条約は、それに、軍事行動に関して両国の事前協議制などを加えた。旧新ともに、安保条約は、日本がアメリカの従属国家であることを示している。また、岸信介は、旧安保条約の細目協定である日米行政協定を、新安保条約では、日米地位協定と改定した。日米地位協定には、基地・生活関連施設の提供、税の免除や逮捕・裁判に関する特別優遇、日本の協力義務、日米合同委員会の設置など、アメリカ軍人とその家族の権利が保証されている。日本人がアメリカ人の下位にあることは一目瞭然である。岸信介は、政治家を退いた後も、自主憲法やスパイ防止法の成立を目指した。安倍晋三の父である安倍晋太郎も、自民党の衆議院議員であったが、首相にはなれなかった。岸信介の実弟が佐藤栄作である。つまり、佐藤栄作は安倍晋三の大叔父に当たるのである。佐藤栄作も、自民党の衆議院議員であったが、首相となり、ノーベル平和賞を受賞した。安倍晋三は、祖父の岸信介についてはよく言及するが、父の安倍晋太郎、大叔父の佐藤栄作についてはほとんど触れることがない。それは、安倍晋三の深層心理が岸信介に繋がっているからである。安倍晋三の自我は岸信介に連なっているからである。安倍晋三が靖国神社を参拝するのは、そこに祀られているA級戦犯者の復権、延いては、A級戦犯者だった岸信介の復権を目指しているのである。安倍晋三の集団的自衛権は岸信介の対米従属外交、新安保条約、地位協定に繋がっている。自民党の憲法改正案は、岸信介の自主憲法制定の考えに連なっている。安倍晋三とは岸信介のことなのである。確かに、日本は、太平洋戦争でアメリカに敗れ、満州国は崩壊した。しかし、アジアの諸民族に対しての蔑視感・嫌悪感を残している人々がまだ存在する。特に、中国、韓国、北朝鮮に対してそうである。アメリカに対して敗北したのであって、中国や朝鮮に対しては敗北していないというのである。彼らは、日本をアメリカの従属国にしても、中国、韓国、北朝鮮と対峙しようと考えているのである。言うまでもなく、その一人が安倍晋三である。岸信介の満州国における見果てぬ夢を、安倍晋三が首相となって、今見ようとしているのである。戦前の亡霊が現在の日本を支配しようとしているのである。麻生太郎は、安倍内閣の副首相兼財務大臣である。麻生は、「ワイマール憲法も、いつの間にか、ナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。」と発言し、憲法を変えずとも、解釈によって、実質的な憲法改正の道を示唆した。それは、安倍晋三が、ほとんどの憲法学者が反対する中で、強引な憲法解釈と強行採決によって、国会で、集団的自衛権を認めさせたのと、底で繋がっているのである。麻生太郎の祖父が、吉田茂である。吉田茂は、戦前は、外交官として、日本が太平洋戦争に突き進むために、暗躍した。戦後は、首相となり、最初の安保条約(旧安保条約)を成立させた。戦前は、無鉄砲にも、日本がアメリカと戦争するように仕向け、アメリカが世界の第一の強国だとわかると、戦後は、アメリカに阿諛追従(あゆついしょう・相手に気に入られようと、こびへつらうこと)している。麻生太郎の節操のなさは吉田茂と繋がっている。確かに、吉田茂は、アメリカからの要求である日本の軍備増強を拒否した面は評価しても良い。しかし、安保条約を成立させて、日本をアメリカの属国にし、沖縄をアメリカの基地の犠牲にした基礎を造ったことは、批判しても批判しつくせるものではない。中曽根康弘は、戦前、海軍主計中尉として、インドネシアにいた時に、従軍慰安施設を作った。自叙伝でそれを自慢げに語っていたが、従軍慰安婦が問題となると、沈黙を保っている。戦後、首相となるや、日本に原発を導入し、レーガン大統領に対して、「日本列島は不沈空母」と言い、アメリカの軍事行動を全面的に支援することを約束した。防衛費の対国民生産GNP比率1%枠を突破させた。さらに、首相として、初めて、靖国公式参拝を行った。また、国家秘密法の制定、有事法制の制定、イラン・イラク戦争末期の1987年に自衛隊の掃海艇の派遣を試みたが、いずれも党内外の反対意見が強く、成功しなかった。中曽根康弘の姿勢は、常に日本のナショナリズムを喚起することであり、海軍時代と全く同じである。平沼赳夫は、郵政民営化関連法案に反対して自民党を飛び出したが、安保法案に賛成すると菅官房長官に表明し、復党を許された。また、「慰安婦は売春婦だ」と言って、物議をかもした。平沼赳夫のの養父が、平沼騏一郎である。平沼騏一郎は、1910年の大逆事件で検事を務め、冤罪で、幸徳秋水以下12名を死刑台に送り込んだ、世紀の大犯罪者である。その国家主義思想は、右翼団体の国本社を主宰するまでに至った。1939年1月から8月まで、平沼騏一郎内閣を組閣し、国民精神総動員体制の強化と精神的復古主義を唱えた。また、1945年1月から4月まで、枢密院議長として、降伏反対の姿勢で終戦工作をした。このような人物がいたために、戦争終結が遅れ、日本は、沖縄戦、本土爆撃、広島・長崎の原爆投下の大惨劇に見舞われるのである。戦後、逮捕され、A級戦犯として終身刑を下されたが、健康上の理由で仮出所を許され、その後、病死した。日本は、戦後のほとんどの内閣は、自民党によるものであった。自民党の本質は、憲法改正案に見られる通り、上意下達の全体主義なのである。それは、戦前の政治と同じである。つまり、戦前の亡霊が戦後の日本を支配しているのである。すなわち、現在でも、アメリカに隷属し、戦前と同じく、国家主義者が日本の政治を動かしているのである。

ストーカーの悲劇について(自我その242)

2019-10-29 17:24:54 | 思想
ストーカーの悲劇とは、ストーカーによって起こされた悲劇だけでなく、人間がストーカーになってしまうことの悲劇も意味する。今から、20年前、1999年10月26日、女子大生の猪野詩織さんが、JR桶川駅前の路上で刺殺されたのである。これが、桶川ストーカー殺人事件である。犯人は、風俗店の店長の久保田祥史であった。彼女のストーカーである小松和人とその兄の小松武史が多額の報奨金で、小松和人が経営する風俗店の店長の久保田祥史に依頼したのである。小松和人と猪野詩織さんは、一時、恋愛関係にあった。しかし、彼女は、乱暴で独占欲の強い小松和人が嫌になり、別れを告げた。しかし、小松和人は、彼女を諦め切れず、つきまとい、嫌がらせを繰り返すようになった。それでも、彼女の気持ちが戻らないので、小松和人は兄の小松武史に相談し、久保田祥史に殺人を依頼した。久保田祥史は、JR桶川駅前の路上で、ナイフで、詩織さんを何度も刺して殺したのである。事件の裏側が露見し、追い詰められた小松和人は、北海道に逃亡し、屈斜路湖で自殺した。小松和人の母と妹は、猪野詩織さんをなじって、和人の死に涙した。小松和人には複数の恋人とがいて、その一人は、一見、猪野詩織さんと見紛うほど、容貌がよく似ていたと言われている。この事件を契機に、ストーカー規制法が成立した。また、埼玉県上尾署の担当署員は、伊野詩織さんや家族の訴えをまともに聞こうとしなかったばかりか、訴えの事実を隠蔽・改竄したので、懲戒免職になり、裁判でも有罪判決を受けた。この事件を契機に、ストーカーという言葉が、「ある相手に対して、一方的な恋愛感情や関心を抱き、執拗に付け回して、迷惑や被害を与える人」という意味で使われ、全国に広まった。これが、桶川ストーカー殺人事件の経緯であり、そして、影響である。確かに、これは、特異な事件である。その時は、世間を賑わせたが、今は、取り上げる人はほとんどいない。しかし、ストーカーとストーカー規制法という言葉はよく耳にする。それは、現在でも、ストーカーによる犯罪が、時折、世間を賑わせるからである。そして、マスコミは、ストーカーを精神異常者のように扱う。時には、ストーカーをかばうような発言をする家族や友人をも、精神異常者のように扱う。しかし、ストーカー、ストーカーの家族、友人は、精神異常者ではない。人間は、常に、ある構造体の中で、ある関係性を築き、ある自我を持って生きるしかないのだから、誰にも、犯罪者になる可能性があるのである。さて、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体に所属して、ある関係性を築いて、ある自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間の最初の構造体は家族であり、最初の関係性は家族関係であり、最初の自我は、男の子または女の子である。恋愛関係にある者も、カップルという構造体を創造し、恋愛関係を築き、恋人という自我を持って、相手に接している。さて、人間は、常に、思考して、行動する。しかし、それは、表層心理による思考(意識しての思考)から始まるではなく、深層心理による思考(無意識の中での思考)から始まるのである。深層心理は、一般に、無意識と表現されている。深層心理は、奥深くに隠れている心の動き・外に現れない無意識の心の働きである。ラカンの「無意識は言語によって構造化されている」という言葉は、無意識、つまり、深層心理の動き・働きを的確に表現している。ラカンの言うところを簡潔に記せば、我々の深層心理が言語を介して思考しているということである。つまり、我々は、まず最初に、自ら意識して、自らの意志で思考するのではなく、我々の意識していないところで、すなわち、深層心理で思考するのである。表層心理は、深層心理による思考(無意識の中での思考)の結果を受けて、意識して、それを思考するのである。深層心理は、瞬間的に思考する。表層心理による思考は、短時間のものから長時間のものまで多岐にわたっているが、一般的に、深層心理による思考よりも短くなることはない。ほとんどの人は、思考と言えば、表層心理による、意識しての思考を考え、深層心理による思考が存在することすら気付いていない。一般に言われる理性は、表層心理による、意識しての思考を意味する。さて、人間は、自我を持って、初めて、人間として活動をすることができる。自我を持つとは、ある構造体の中で、ある関係性を築き、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態である。それは、アイデンティティーが確立された状態である。しかし、人間は、意識して、自我を持つのでは無い。深層心理という無意識が自我を持つのである。人間は、まず、無意識のうちに、深層心理が、自我を主体にして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。深層心理の思考は、常に、瞬間的に行われる。そして、すぐ後で、人間は、表層心理が、意識して、「現実原則」(自分にとって利益になること)に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令の出した行動の指令を認可するか否かを思考するのである。表層心理の思考の結果を受けて、その後、行動に移るのである。また、人間は、自我を持つと同時に、深層心理が、「快感原則」(快楽を得たいという欲望)によって、自我を主体にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。深層心理の「快感原則」(快楽を得たいという欲望)に基づいた自我の欲望には、他者に認められたい、他者を支配したい、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという三種類のものがある。深層心理は、自我を対他化することによって、他者に認められたいという欲望を生み出す。深層心理は他者を対自化することによって、他者を支配したいという欲望を生み出す。深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出す。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。このように、深層心理は、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。そして、深層心理は、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。このように、人間は、まず、無意識のうちに、深層心理が、「快感原則」に基づいて、思考する。深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。そのすぐ後、表層心理が「現実原則」に基づいて、意識して、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令の通りに行動するか抑圧するかを考えるのである。稀れには、人間は、表層心理で意識せずに、深層心理が生み出した感情のなかで、深層心理が生み出した行動の指令のままに、行動することがある。それが、無意識による行動である。しかし、たいていの場合、表層心理は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令を意識し、行動の指令の採否を考えるのである。それが理性と言われるものである。理性と言われる表層心理は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を意識し、行動の指令のままに行動するか、行動の指令を抑圧して行動しないかを決定するのである。行動の指令を抑圧して行動しないことを決定するのは、そのように行動したら、後に、自分に不利益なことが生ずる虞があるからである。しかし、表層心理が、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、行動しないことに決定しても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがある。それが、感情的な行動であり、後に、周囲から批判されることになり、時には、犯罪者になることがあるのである。そして、表層心理は、抑圧して、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、代替の行動を考え出そうとするのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さて、確かに、桶川ストーカー殺人事件は、実に悲しく、残酷な事件である。小松和人にストーカーされた挙句、小松和人とその兄の小松武史に雇われた久保田祥史に殺された猪野詩織さんはとてもかわいそうである。小松和人、小松武史、久保田祥史の残虐性は、どれだけ非難しても非難し尽くせない。特に、小松和人は、後に自殺することになったが、その罪は、それで償われるものではない。しかし、小松和人に限らず、人間とは、深層心理が、恋に陥り、相思相愛になり、カップルという構造体ができ、恋人いう自我を持ってしまうと、失恋しても相手のことを追い続けてしまう動物なのである。それは、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を失うことが非常に辛いからである。もちろん、どれだけ好きであったとしても、どれだけ失恋の痛手が大きかったとしても、相手を執拗に付け回して、迷惑や被害を与える人は、その罪を問われて当然である。しかし、誰しも、一旦、恋をすれば、失恋してしまった後も、心の中では、常に、相手を追っていて、それを行動に移したい欲望に駆られているのである。その欲望を抑えられない人が、時には、相手を執拗に付け回して、迷惑や被害を与えるのである。それがストーカーである。だから、誰しも、ストーカーになる可能性を持っているのである。しかし、ほとんどの人は、自分はストーカーになるはずがないと思っている。自分は、恋をしても、失恋しても、欲望に駆られて、相手を執拗に付け回すことは無いと思っている。確かに、多くの人は、恋をしている時は、失恋の憂き目に遭いたくないために、相手に迷惑や被害を与えるような近づき方はしないだろう。問題は、失恋した時である。なぜならば、誰しも、相手から別れを告げられても、すぐには気持ちの切り替えができず、すぐには相手のことを忘れることはできないからである。相手は自分を避けようとしているのに、自分は、依然として、相手の姿を追っている。そして、その中から、欲望に駆られて、相手の迷惑や被害を顧みずに、執拗に付け回す人が出てくる。それがストーカーなのである。それでは、ストーカーとなる欲望は、どこから生まれてくるのか。それは、自分の意志から生まれてくるのではない。自分が生み出したものではない。恋愛感情と同様である。恋愛感情もストーカーの感情も、自分の意志から生まれてはこない。すなわち、自分が生み出したものではない。もしも、自分の意志から、恋愛感情やストーカーの感情が生まれてくるのならば、自分の意志によって、それを消すことは容易にできるだろう。それは、自分の意志ではなく、自分の深層心理から生まれてくるのである。すなわち、深層心理がストーカーを生み出しているのである。深層心理は、人間の無意識のうちに、自我が失恋したことについて、「快感原則」によって、自我を対他化させて思考し、苦悩という感情を生み出し、つきまとえという行動の指令という自我の欲望を生み出す。相手に近づくことによって、失恋という現実を解消させようとするのである。表層心理は、それを受けて、「現実原則」によって、意識して思考し、相手につきまとえば、いっそう嫌われることを考慮し、つきまとえという深層心理が出した行動の指令を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した苦悩という感情が強すぎるので、深層心理が抑圧できず、つきまとってしまうのである。それでは、猪野詩織さんに失恋して、ストーカーになった小松和人の行動について、深層心理による思考と表層心理による思考の関わりの面から、説明していこうと思う。小松和人の深層心理は、人間の無意識のうちに、自我が失恋したことについて、「快感原則」によって、自我を対他化させて思考し、苦悩という感情とともに、詩織さんとよりを戻すためにつきまとえという行動の指令を出した。表層心理は、それを受けて、「現実原則」によって、意識して思考し、相手につきまとえば、いっそう嫌われることを考慮し、つきまとえという深層心理が出した行動の指令を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した苦悩という感情が強すぎるので、深層心理が抑圧できず、つきまとってしまうのである。しかし、彼は、深層心理の言うままに、執拗に詩織さんに付け回したが、詩織さんは、迷惑がるばかりで、より彼を疎んずるようになってしまった。この時、彼の表層心理は、これ以上突き進んでも無駄であり、未来においての絶望的な状況を彼に想像させたはずである。冷静に判断して、ここで思いとどまるべきであった。そうすれば、詩織さんは殺されることはなかった。小松和人自身、自殺しなくても良かった。なぜ、冷静な判断ができなかったのだろうか。それは、深層心理の苦痛が激しすぎたからである。深層心理の思考は、常に、自我の状況を施行して、感情と行動の指令を生み出す。小松和人の深層心理は、失恋を認識し、苦悩し、その失恋の苦悩から脱するために、よりを戻そうとして付きまとうように、彼に行動の指令を指示し、彼は、表層心理で、抑圧しようとしたのだが、苦悩の感情が強すぎるので、抑圧できなかった。そして、つきまとった。案の定、いっそう、詩織さんに嫌われ、絶望的な状況になっているということを彼に告げた。しかし、彼は、引き下がることを決断しなかった。あまりに、失恋の苦悩が大きかったからである。そして、彼の深層心理は、失恋の苦悩から脱するために、この世からの詩織さんの抹殺という行動の指令を出した。もちろん、表層心理は、「現実原則」によって、それが露見すれば、自ら自身が破滅することを推測し、自らの犯罪だと露見しないように、他者に託すことを考えた。それが、久保田祥史による詩織さんの殺害へと繋がっていったのである。このようにして、小松和人というストーカーの犯罪が生まれたのである。しかし、小松和人は、女性に持てなかったから、詩織さんに執着したわけではない。フォーカスの記者である清水潔さんは、小松和人には何人もの彼女がいて、詩織さんによく似た女性もいると記している。それでも、小松和人の深層心理は、詩織さんとのカップルという構造体が破壊され、恋人という自我を失うことを許さなかったのである。世の中には、一人の女性も恋人にできない男性もいる。大抵の男性は、一人の女性を恋人にして満足している。そして、大抵の男性は、失恋してストーカー的心情に陥っても、ストーカーにはならない。しかし、小松和人は、多くの女性と恋愛関係になり、詩織さんに似た人を恋人にしていても、詩織さんが去ることを許さなかった。それは、決して、詩織さんが特別な女性であったからではない。たとえ、詩織さん以外の人が、恋愛関係を解消しようとしたとしても、小松和人は許さなかっただろう。小松和人の深層心理が許さないのである。小松和人は、深層心理に、カップルという構造体、恋愛関係という関係性に執着し、恋人という自我を失うことを許さないものを持っていたのである。 確かに、小松和人は、カップルという構造体を形成し、恋愛関係という関係性を築き、恋人という自我を維持するには、不向きの人間であった。それは、小松和人の深層心理が、恋人という他者を対自化して、支配しようという欲望が強過ぎたからである。しかし、小松和人は、全ての構造体、関係性、自我に不向きであったわけではない。少なくとも、二つの構造体、関係性、自我上手くこなしていた。一つは、小松家という構造体で、家族関係という関係性を築き、小松家の次男という自我を持っていたことである。もう一つは、風俗業界という構造体で、上下関係という関係性を築き、風俗店のオーナーという自我を持っていたことである。だから、小松和人の兄の武史は、小松和人に同情し、久保田祥史に、伊野詩織さんの殺人の依頼をしたのである。そして、小松和人の母と姉は、小松和人を振った猪野詩織さんをあばずれだとなじったのである。そこには、加害者の小松和人をいたわる気持ちがあっても、被害者の猪野詩織さんをいたわる気持ちは全くない。人間性が薄い。しかし、家族という構造体はこのような存在なのである。小松和人の兄、母、姉は、家族という構造体の中で、家族関係を築き、兄、母、姉という自我に取りつかれ、小松家という家族という構造体以外の人間が、小松家という構造体に自我を持つ者を非難することを許さないのである。しかし、人間とは、このように作られた動物なのである。構造体、関係性、自我にこだわるように作られている動物なのである。次に、実行犯である久保田祥史について、触れよう。久保田祥史は、猪野詩織さんと直接の面識はない。もちろん、詩織さんから、迷惑をこうむっていない。それでも、小松和人と小松武史に頼まれただけで、詩織さんを刺殺したのはなぜか。報奨金を受け取っているが、久保田祥史はプロの殺し屋でもなく、生活に困っていた様子もない。だから、報奨金が主要因ではない。主要因は、久保田祥史にとって、小松和人が上司であったことである。久保田祥史は風俗店の店主であり、そのオーナーが小松和人であった。だから、オーナーとその兄の頼みごとを断れなかったのである。久保田にとって、小松和人と小松武史の頼みごとを断ることは、風俗店という構造体から追い出され、風俗業界との関係性を絶たれ、風俗店のオーナーという自我を失うことになるからである。それでも、久保田祥史の表層心理は、自分が犯人だと露見する可能性が高いと判断したならば、殺人行動を抑圧しただろう。自分が犯人だと露見しない可能性が極めて低いと判断したから、実行したのである。この事件だけでなく、この世の犯罪のほとんどは、深層心理が、構造体の中で、関係性、自我にこだわった行動の指令を出し、表層心理が、深層心理が生み出した感情が強すぎるので、その行動の指令を抑圧できなかった場合と、表層心理の判断が甘かった場合に起こるのである。次に、なぜ、埼玉県上尾署の担当警察官は、伊野詩織さんや家族の訴えをまともに聞こうとしなかったばかりか、訴えの事実を隠蔽・改竄したのだろうか。それは、次のような事情による。この警察官は、上尾署という構造体に属していたが、上尾署は、署内の警察官の関係性において、ストーカー被害などを扱うことに消極的な態勢だったのである。そこで、この警察官もそれに従って、伊野詩織さんや家族の訴えをまともに聞こうとしなかったのである。この警察官は、そのような行動を取っても、上尾署という構造体では、十分に警察官という自我を維持できたのである。しかし、マスコミにそれが露見されそうになったので、彼は、必死に隠蔽・改竄し、警察官という自我を守ろうとしたのである。結局、彼の行為が明らかになり、懲戒免職になり、有罪判決を受けてしまった。自業自得であり、因果応報である。しかし、誰が、この警察官を非難し、嘲笑できるだろうか。この世に、自らの所属している構造体に縛られず、関係性を客観視し、自我を離れて考えられる人は、何人存在するだろうか。我々は、毎日、色々な出来事の中で、色々な人間と関わって暮らしているのである。つまり、我々自身が、毎日、自分の属する構造体に縛られ、関係性に執着し、自我に取りついて、暮らしているのである。そこには、自我による判断はあっても、自己による主体的な判断は存在しないのである。つまり、自由が無いのである。そこには、ニーチェの言う、永劫回帰の暮らししか存在しないのである。構造体、関係性、自我を脱構築しなければ、自由は得られない。しかし、人間として、それは可能なのか。脱構築は、絵空事なのか。しかも、脱構築して、自由が得られたとしても、その自由とはどのような自由なのか。真に、自由なのか。脱構築の向こうに何があるのか。


日本の右翼と左翼について(自我その241)

2019-10-28 17:15:30 | 思想
人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。自我を持つとは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態である。それは、アイデンティティーが確立された状態である。しかし、人間は、意識して、自我を持つのでは無い。深層心理という無意識が自我を持つのである。人間は、自我を持つと同時に、深層心理が、欲望を生み出す。それ以後、人間は、人間社会において、深層心理が生み出した欲望主体に生きる。それ故に、人間の欲望は、深層心理が生み出した自我の欲望なのである。自我の欲望には、他者に認められたい、他者を支配したい、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという三種類のものがある。深層心理は自我を対他化することによって、他者に認められたいという欲望を生み出す。深層心理は他者を対自化することによって、他者を支配したいという欲望を生み出す。深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出す。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。さて、日本を国籍にしている人々は、日本という国の構造体に所属し、日本人という自我を持っている。そして、日本人は、皆、愛国心を持っている。それは、日本という国の構造体が日本人という自我を保証しているからである。つまり、日本人が、日本という国に愛国心を持っているのは、日本人という自我を愛しているからである。それは、他国民についても言えることである。韓国人、中国人、アメリカ人、ロシア人も、韓国、中国、アメリカ、ロシアという国の構造体に愛国心を持っている。世界中、国民は、皆、自国に愛国心を持っている。現代という時代は、国際化の時代であり、国ごとに独立した動きをし、国民という自我が無ければ、国の動きに参加できず、延いては、世界の動きに関与できないからである。さて、愛国心とは、文字通り、国を愛する心であるが、その愛し方は、一様ではない。国家観(国に対する見方)によって、大きく、二つに分けられる。保守的国家観と革新的な国家観である。保守的な国家観を持つ人々は、国の伝統を墨守し、国のために個人があると考える。革新的な国家観を持つ人々は、未来に向かって国を変革しようとし、個人のために国があると考える。保守的な国家観を持つ人々を右翼と言い、革新的な国家観を持つ人々を左翼と言う。日本の右翼と左翼の国家観の違いは、日本の近代史の見方において、顕著に現れる。右翼は、韓国併合は、インフラ整備も為され、併合以前よりも国は豊かになり、韓国の国民にとっても良かったと主張する。左翼は、韓国併合は、創氏改名をさせ、韓国の自治を侵し、韓国民を侮辱することになったから、容認できないと主張する。右翼は、太平洋戦争(右翼は、大東亜戦争と表現する)は、アメリカから仕掛けられてやむを得なく起こした戦争であり、日本の兵士はよく戦ったと主張する。左翼は、太平洋戦争は、中国大陸への侵略行為の連続であり、アメリカに対して勝ち目のない戦争を仕掛けたのは日本を神国だとする驕りから引き起こしたのであり、挙げ句の果てに、アジアの人々に対して残虐な行為を繰り返し、最悪の戦争だったと主張する。右翼は、南京大虐殺は、大虐殺と呼ばれるようなものではなく、戦争中によくある出来事であり、原因は、中国兵が一般市民を装って逃げようとしたことだと主張する。左翼は、南京大虐殺は、戦争中のこととは言え、日本軍が中国軍の投降兵・捕虜及び一般市民を大量虐殺し、放火・略奪・強姦などの蛮行を加えたことは、到底許すことはできないと主張する。右翼は、特攻は、自ら志願して、国のために命を捧げたのであり、その行為は称賛に値し、戦後の日本の繁栄は特攻隊員のおかげだと主張する。左翼は、特攻は、志願しているように見せかけられているが、実際は、強制されたり、志願せざるを得ないような状況に置かれたからであり、特攻隊員の苦悩を偲ぶにはあまりあると同情し、彼らが生き残っていたならばもっと日本は平和で豊かな国になっていただろうと主張する。このように、両者の主張の隔たりは大きい。当然、激論になる。右翼は、左翼は自国民に対して冷淡過ぎる、自虐史観だと批判する。右翼は、左翼は愛国心が欠如しているから、過去の日本人や日本人の行為を批判できるのだと批判し、反日だ、非国民だ、売国奴だと罵る。つまり、右翼は、左翼に対して、もっと、過去の日本や日本人の行いを評価し、過去の日本や日本人の行いを非難してくる韓国・中国・北朝鮮を批判すべきだと主張するのである。左翼は、右翼の歴史観は自慰史観だと批判する。つまり、左翼は、右翼に対して、もっと、過去の日本や日本人に対して厳しく見て、自国や自国民の過ちを潔く認め、もっと。韓国・中国・北朝鮮政府や国民が過去の日本や日本人の行いを批判することに耳を傾け、謝罪すべき所を謝罪しなければ、日本の未来は無いと主張する。さて、それでは、どうして、このように、右翼の歴史観と左翼の歴史観に大きな隔たりがあるのか。その原因は、右翼は愛国心の有無だとする。だから、右翼は、左翼的な考えをする人を反日だ、非国民だ、売国奴だと罵るのである。しかし、左翼と言えども、日本人という自我を有している限り、日本という国の構造体に愛国心が存在しないはずが無い。それでは、右翼と左翼の違いは、愛国心の多寡、深浅だろうか。右翼には、愛国心が多くある人や深い愛国心がある人がなるのだろうか。左翼には、愛国心が少ない人や浅い愛国心の人がなるのだろうか。確かに、「日本のためなら何でもできる。死ぬことさえできる。」と主張する人は、決まって、右翼である。また、「日本が好きなだけ。」と言い、ヘイトスピーチを繰り返す人も右翼である。愛国心を声高に主張する彼らには、愛国心の多さ、深さにおいては、他の日本人に決して劣ることはないという自負心があるだろう。しかし、愛国心の多寡、深浅を測ることができるのだろうか。また、本当に、右翼の言動は、愛国心の多さ、深さを表していることになるのだろうか。単に、日本人という自我に対する愛情が強いことを意味しているのではないだろうか。さらに、右翼の言動には、日本及び日本人だけではなく、他国及び他国の人々、世界及び世界の人々に対する、現在から将来へのあり方への展望があるのだろうか。そこには、普遍的な人間性への視点は存在するだろうか。しかし、右翼には、このような批判は、批判にならないだろう。なぜならば、右翼は、「日本のためなら何でもできる。死ぬことさえできる。」、「私は日本が好きなだけ。」と言い、自らが日本にだけ執心していることを誉れとしているからである。しかし、左翼は、右翼と異なり、人間性を重要視し、日本及び日本人だけではなく、他国及び他国の人々、さらには、世界及び世界の人々に対する、現在から将来へのあり方への展望を有している。だから、左翼は、右翼のみならず、現在の日本の保守政権を批判するのである。しかし、現在の日本において、左翼は右翼の勢いに圧倒されがちである。しかし、これは、現在のみならず、明治時代以降、いつも見られた光景なのである。また、それは、当然のことなのである。右翼の原動力は、理性から来る思想ではなく、愛国心という観念、わかりやすく言えば感情だからである。感情に囚われた人間は、一方向に、脇目も振らずに、後先構わず、激しく動き、他を寄せ付けない怖さを持っているのである。だから、思想を基にして行動している左翼は、右翼に圧倒されているように見えるのである。さらに、「日本のためなら戦争で死んでも良い。在日は日本にいてはいけない。反日は日本人ではない。」と言うような愛国心に囚われた自我を持っているいう右翼と対決するには相当の覚悟が必要なのである。戦前、戦後、右翼のテロに倒れた、民間人、思想家、小説家、国会議員は枚挙に暇が無い。死を覚悟してまでも自分の思想を吐露できるような左翼でない限り、それに抗することはできないのである。言い換えれば、自らの構築した思想を自我として有している左翼しか右翼に抗することはできないのである。つまり、現代日本において、左翼が右翼に圧倒されているように見えるのは、右翼に抗する発言をする、覚悟ある、左翼が少ないということを意味しているのである。さて、このように、愛国心に囚われ、愛国心を増長させた右翼と、愛国心を抱きつつそれに反省を加えている左翼は、根本的に異なったあり方をしている。だから、その方向性も違ってくるのは当然のことである。それが、過去の日本や過去の日本人に対する思いにも表れるのである。右翼には、過去の日本や過去の日本人のあり方を肯定し、そのまま繋がろうという思いがあり、左翼には、過去の日本や日本人のあり方を、時には否定し、批判的に継承し、新しく創造しようという思いがある。そのために、同じ歴史上の出来事や事件に対しても、その評価に、大きな差異が出てくるのである。同じ日本人であり、同じ日本に愛国心を持っているが、それに心を寄せることを良しとする思いとそれを超えていこうとする思いの違いが、日本のあり方に対して異なった考えを抱かせるのである。それでは、どちらのあり方が日本人として正しいのか。このような問いかけをすると、右翼の方に肩入れする人が多くなるだろう。愛国心を謳っているのが右翼であり、日本人は、皆、愛国心を持っているからである。それでは、どちらのあり方が人間として正しいか。このような問いかけをすると、左翼の方に肩入れする人が多くなるだろう。なぜならば、左翼は、日本人を超えて、他国の人々、延いては、世界中の人々のことを慮って、発言しているからである。このような面においても、愛国心に心を寄せる右翼の日本人を重んじたあり方と世界中の人々の心に向かっている左翼の人間一般を重んじたあり方の違いが鮮明に現れてくるのである。ところで、愛国心は、国という構造体に所属し、国民という自我を持つことから発生するが、愛郷心、恋愛、母性愛なども、都道府県、カップル、家族という構造体に所属し、都道府県民、恋人、母という自我を持つことから発生する。一般的には、愛は推賞される。愛は、慈しみ合う心、思いやり、かわいがること、大切にする心などを意味するからである。しかし、仏教では、愛は、煩悩として忌避される。なぜならば、人間は、愛に囚われると、苦悩し、自分を失った行動、人間性を失った行動を取ってしまうからである。愛郷心は、地元の都道府県のチームを応援することなどに現れる。高校野球の甲子園大会、高校サッカーの選手権大会、高校バレーの春高バレーなどの応援を見ればわかる。なぜ、そのチームを応援するのか。言うまでもなく、自分の出身地のチーム、もしくは、自分が住んでいる所のチームだからである。ただ、それだけの理由である。愛郷心とはそういうことである。お国自慢も、また、愛郷心の現れである。青森県民がリンゴの生産量を誇るのも、山形県民がサクランボの生産量を誇るのも、栃木県民と茨城県民が認知度を争うのも、静岡県民と山梨県民が富士山の所属を争うのも、全て、お国自慢をしたいがためである。しかし、愛郷心は地元の高校チームを応援する、お国自慢をするなどのほほえましい現象として現れているうちは良いが、それが、暴力沙汰になると笑っていられなくなる。かつて、北陸の隣県同士の暴走族が、県境で、隣の県の自動車がこちらの県に入って来ないようにするために、その運転手に暴力を振るったことがある。これは歪んだ愛郷心であるが、これもまた、愛郷心である。愛国心もそうである。日本のサッカーチームや野球チームやバレーボールチームやラグビーチームを手に汗を握って応援している様子は、ほほえましい現象である。しかし、領土を巡ってや覇権のために戦争を行うのは愚の骨頂である。しかし、これもまた、愛国心がもたらす業なのである。さて、恋愛は、誰しも、憧れるものである。相思相愛になると、生きている喜びに満たされ、明日への希望が湧いてくる。相手のために何でもしてあげようという気持ちになっている。しかし、ストーカーも、また、恋愛感情が為せる業なのである。恋愛状態に陥っていた者が、相手から別れを告げられても、どうしても、相手を忘れられなくて、付きまとってしまう時、ストーカーだと言われる。誰しも、別れを告げられると、すぐには、失恋を認めることができず、ストーカー的な心情に陥る。しかし、ほとんどの失恋者は、何かによってその気持ちから徐々に逃れていき、ストーカーにならない。しかし、ほんの一部ではあるが、失恋の苦しみから逃れることができず、相手に付きまとってしまい、ストーカーだと言われるのである。だから、誰しも、失恋すると、ストーカーになる可能性があるのである。それ故に、ストーカーは、精神に異常がある人でも、変態でもない。自分の気持ちの切り替えに失敗した人がなるのである。恋愛に溺れた者の悲劇である。それは、愛国心に溺れた者の悲劇が国家間の戦争であり、愛郷心に溺れた者の悲劇が他県の者への暴力であるのと同様である。さて、母性愛は、言うまでもなく、母親が自分の子供に対して抱く愛情を意味する。子供のためならばわが身を犠牲にすることを厭わないほどの、母親の我が子の対する強い愛情を意味している。それは、「女は弱し、されど、母は強し。」という言葉があるように、一般的に推賞されている。しかし、いじめっ子をかばう母親の気持ちも、また、母性愛の現れなのである。いじめられていた子が自殺して、いじめっ子が特定されても、その母親のほとんどは、我が子の非を認めようとしない。自殺の原因をいじめられていた子の性格やその家庭環境に求める。いじめられていた子の苦悩やその家族の悲しみを推し量ろうとはしない。いじめられて自殺した子の母親の気持ちさえ推し量ろうとしない。むしろ、対抗意識を燃やそうする。いじめっ子の母親にとって、我が子だけがかわいいからである。我が子が非難されるのが耐えられないからである。それは、自分が責められているように感じられるからである。つまり、母性愛とは自分の身を犠牲にしても我が子を守ろうという感情であるとともに、我が子に非があっても、盲目的に我が子をかばおうとする感情なのである。母性愛を褒めたたえる人は多い。しかし、非難すべき点があることを見逃してはならないのである。それは、愛国心、愛郷心、恋愛と同様である。つまり、愛国心、愛郷心、恋愛、母性愛には、常に、マイナスの要素をはらんでいるのである。この四つの愛ばかりでなく、愛とは、例外なく、マイナスの要素をはらんでいるのである。なぜならば、それは、仏教が説くように、愛に囚われると、自分を見失い、人間性を見失ってしまうからである。その中にあって、最も大きな悲劇をもたらすのが愛国心である。なぜならば、愛国心に囚われた人間は、戦争すらもためらわないからである。愛国心に囚われたた権力者やそれを支持する者たちが、自分たち以外の大勢の者を、つまり、大勢の他者を、国民という形で巻き込んで、国家間の戦争を始めるのである。国家間の戦争が始まると、国民は例外なく、戦争に参加させられるのである。愛国心を持ちながらも囚われていない者には、それは、大いなる悲劇である。しかし、愛国心に囚われたた権力者やそれを支持する者たちにとって、むしろ、それが狙いなのである。戦争ほど、国が一つにまとまること、国民が一つの方向性にあることはないからである。彼らは、日本は、戦争が始まれば、戦争に行かないという意見や戦争に反対する意見を述べる人がほとんどいなくなり、たとえ、いたとしても、非国民などと罵倒して存在性を失わせることができ、簡単に法律を成立させて逮捕できる国だと知っているからである。明治時代以降、日本国民は、皆、愛国心を抱くようになった。それは、明治時代以降、日本人は、日本という国が国際競争にさらされているということを意識するようになったからである。だから、日本国民は、皆、日本人という自我を持つようになったのである。だから、日本国民は、皆、日本に対して愛国心を持ち、日本人という自我を持っているのである。それ故に、日本人は、皆、日本という国の誉れとなることに対して感動し、恥となることには心が傷つくのである。それは、愛国心を抱きつつも愛国心に囚われるまでに至っていない日本人も、愛国心に囚われている日本人も、同様である。日本人は、皆、オリンピックやワールドカップやノーベル賞受賞などの日本人選手や日本チームや日本人の活躍に感動し、オリンピックやワールドカップなどで日本人選手や日本チームが敗れると心が傷つくのである。しかし、愛国心に囚われている人は、国が誉れを得ることにとどまらず、国が一つにまとまること、国民が一つの方向性にあることを望む。だから、愛国心に囚われた権力者やそれを支持する者たちは、戦前のように、天皇を元首として、国を一つにまとめ、マスコミまで圧迫して国民を一つの方向性に導こうとしているのである。愛国心に囚われたた権力者やそれを支持する者たちが、右翼的な権力者であり右翼の人々なのである。それに反して、国民に主権があり、その国民に様々な意見があるのを当然だと考えている人々がいる。それが、左翼である。だから、左翼の人にとって、共産主義思想が、単純に、左翼の考えを意味しない。それが国家主義、全体主義に繋がれば右翼の思想である。だから、中国や北朝鮮の共産主義国家が左翼ではないことは言うまでもない。中国や北朝鮮は、右翼の国である。権力者が愛国心を前面に押し立て、国民の大半がそれに従っている国は右翼の国である。韓国は、共産主義国家ではないが、権力者が愛国心を前面に押し立て、国民の大半がそれに従っている国であるから、右翼の国である。日本の右翼は、中国、北朝鮮、韓国と敵対するように国民を煽るが、それは、これらの国は右翼の国だからである。同じ国に所属していなければ、右翼同士は敵対するのである。自分が所属している国が最も偉大な国だという意識があるからである。ナチスとは国家社会主義ドイツ労働者党の通称である。ここに、社会主義や労働者という名称が入っているが、左翼の集団ではない。ゲルマン民族の優位性、反個人を唱え、愛国心に訴えたファシズム政党であるナチスこそ、典型的な右翼の政党である。ナチスは、第二次世界大戦とともに、消滅した。しかし、その思想が、跡形も無く、消えたわけではない。現在も生き残っている。現在、ドイツでは、ナチズムとの連続性を持つ、ネオ・ナチズムという右翼勢力が存在する。ネオ・ナチの政党やグループを結成し、動きを活発化させている。右翼は、どこの国にも、いつの時代でも存在するのである。そこに愛国心があれば存在するのである。愛国心の有しない国民は存在しないから、国民である限り、右翼思想に傾く可能性があるのである。愛国心に大きく傾き、溺れ、ナチスと同じように自国民の優越を唱え、他国民を攻撃する可能性があるのである。愛国心に溺れ、国民という自我に操られると、他国民を攻撃することに厭いもためらいも無くなるのである。むしろ、それを目的化し、積極的に行うようになるのである。そこに喜びさえ感じられるようになるのである。国民という自我に操られた人間は、その自我を守るプライドのために、無反省に他を攻撃するのである。それは、県民という自我、恋人いう自我、母親という自我であっても同様である。愛郷心に溺れた県民がそのプライドのために隣県の自動車運転手を襲い、恋愛に溺れた恋人が失恋するとそのプライドのためにストーカーになり、母性愛に溺れた母親がそのプライドのためにいじめっ子の母親になると被害者の少年にいじめの原因があると主張するのである。そして、右翼とは、国民というプライドを守るために、他国民を攻撃することを厭わず、ためらわない集団なのである。右翼とは、愛国心に操られた集団なのである。だから、国という構造体が存在し、国民という自我が存在する限り、そこに愛国心が常に存在するゆえに、誰しも、右翼に転化する可能性があるのである。そして、国民は、誰しも、愛国心を有しているから、右翼の考えや行動を支持しやすいのである。右翼は、国民の愛国心に訴えるからである。それゆえに、人類の普遍性を唱える左翼は、常に、政治権力の弾圧や右翼の暴力を受ける覚悟を持たなければ、その成立はない。また、往々にして、愛国心に訴える右翼に、国民の支持が集まり、左翼は、孤立無援状態に陥りやすい。しかし、それらを恐れて、自らに考えを言わない左翼や行動しない左翼は、左翼ではない。右翼とは、愛国心に溺れて、日本人という自我を持ち、日本のためならば死んでも良いという死の覚悟を持って、日本のためという具体的な目標に向かって行動する者たちである。左翼とは、自らが確立した思想によって、自己という自我を持ち、権力者の弾圧・右翼の暴力・国民の非難を受ける覚悟を持って、人類の普遍性という目標に向かって行動する者たちである。それ故に、右翼と左翼は、相容れないのである。国民がどちらを選ぶか。それが、国の運命を決めるのである。しかし、国民とは、大衆化しやすく、批判精神なく、右顧左眄品しながら、大勢に従い、自らの行動に責任を取らない傾向がある。だから、ニーチェは、「大衆は馬鹿だ。」と言ったのである。しかし、それでも、人類の普遍性という目標に向かって、国民に呼びかけ続けなければならないのである。それしか。方法が無いからである。


病気とは深層心理と深層肉体による防衛機制である。(自我その240)

2019-10-27 19:17:35 | 思想
病気には、精神的なものと肉体的なものがある。精神的な病気は精神疾患と呼ばれ、肉体的な病気は、そのまま、病気と呼ばれている。精神疾患の代表的なものが鬱病である。医学書には、「会社員が、毎日のように、上司に叱責されたので、気分が重くなり、何事に対してもやる気が起こらず、会社にも行けなくなったので、医者に診てもらったところ、軽度の鬱病と診断された。」と、例を挙げて、簡潔に説明されている。病気の代表的なものが風邪である。医学書には、「主に、ウィルスが原因となり、咳・発熱などの症状が起こる。」と、簡潔に説明されている。確かに、鬱病の原因は「毎日のような上司の叱責」であり、風邪の主因は「ウィルス」であるが、それらが、直接的に、「気分が重くなり、何事に対してもやる気が起こらず、会社にも行けなくなった」ことや「咳・発熱」を引き起こしたのではない。深層心理が、「毎日のような上司の叱責」を避けるために、自らの精神を鬱病という精神疾患にし、気分を重くし、何事にもやる気を起こらないようにして、会社に行けなくなるようにしたのである。深層肉体が、自ら、風邪という病気になり、咳でウィルスを体外に出そうとし、発熱でウィルスを殺そうとしているのである。つまり、深層心理や深層肉体が、自らが病気になることによって、「毎日のような上司の叱責」から逃れ、「ウィルス」を除去・殺戮しようとしているのである。つまり、病気とは、深層心理と深層肉体による防衛機制なのである。しかし、病気について、辞書では、「精神の働きや身体の生理的機能に障害が生じ、苦痛・不快感などのよって通常の生活が営みにくくなっている状態。生物の全身または一部分に生理状態の異常を来し、正常の機能が営めず、また諸種の苦痛を訴える現象。」と記されている。症状については、辞書では、「病気や怪我の状態。病気や怪我によって起こる心身の異状。病状。」と記されている。つまり、病気と症状は同じ意味で使われているのである。病気の意味が、正確に捉えられていないのである。だから、一般的に、精神疾患も(肉体の)病気も、マイナス面しか知られていないのである。確かに、精神疾患にしろ(肉体の)病気にしろ、それらには、常に苦悩がつきまとう。だから、そこに陥りたくない、陥った場合には、できるだけ早く抜け出したい気持ちになるのは当然のことである。しかし、精神疾患とは、最も差し迫った問題を解決する苦悩から逃れるために、深層心理が選択した窮極の手段なのである。このような深層心理の働きを、フロイトは、防衛機制と呼んだ。深層心理とは、無意識の動き・働きを意味する。人間が無意識に行っていることは、深層心理の、積極的な、意味ある動きなのである。しかし、深層心理は、人間を苦悩から逃れさせるために精神疾患に陥らせるが、精神疾患に陥った人間が、その後、それをどのように引きずっていくかまでは考えない。だから、精神疾患は、苦悩から逃れることには一定の効果を有するが、その後は、精神疾患それ自体が、その人を苦しめることになるのである。しかし、我々は、自分の意志によって、直接的に、深層心理を動かすことはできない。深層心理とは、我々人間の心の奥底に存在する、意識されることもなく、意志によらない、心の動き・心の働きだからである。また、精神の奥底に、深層心理が存在するように、肉体の奥底に、意志によらない動き・働きをするものが存在する。それが、深層肉体である。深層心理が、自らの精神を精神疾患に陥らせて、苦悩から人間を逃れさせるようとするように、深層肉体は、自らの肉体を病気に陥らせて、細菌やウイルスが侵入した肉体を治癒しようとする。一般に、病気とは、細菌やウイルスによって肉体に異状が生じ、弱体した姿のように捉えられている。だが、真実はそうではない。真実は、深層肉体が、肉体に侵入した細菌やウイルスに対決し、除去しよう・死滅しようとしている姿なのである。だから、誰しも、風邪を引くと、咳がしきりに出たり、熱が上がったりするのである。そうなると、多くの人は、風邪のウイルスが体内に入り、咳を生み出し、発熱させたのだと思う。しかし、真実は、そうではない。真実は、我々の深層肉体が、体内に入った風邪のウイルスを体外に出そうとして、肉体に咳をさせ、風邪のウイルスを弱らせ、殺そうとして、肉体の温度を上げているのである。もちろん、このことは、我々の無意志、無意識の下で、深層肉体によって行われている。我々の意識に上ってくるのは、咳が出そうになっている事実、咳が出た事実、熱が上がった事実である。だから、多くの人は、咳や発熱は、風邪のウイルスによって引き起こされた体の異常の状態だと誤解しているのである。さらに、肉体が損傷すると、深層肉体は、神経組織を使って、その予防策まで講じている。それが痛みである。深層心理が痛いと感じるから、我々の表層心理はは肉体の異常を知り、二度と同じ失敗をしないように対策を立てるのである。例えば、我々は、野原に出て、指に、痛みを感じた。見ると、血がにじんでいる。指に切り傷ができている。原因を考える。薄の葉に触れたからである。そこで、それ以後、薄に気を付けて、歩くようにする。このようにして、深層肉体は、表層心理を動かし、我々に、同じ失敗を繰り返させないようにさせるのである。もちろん、深層肉体は、損傷個所の修繕にもすぐに取り掛かっている。深層肉体は、出血によって損傷個所を消毒・保護し、自らの細胞増殖によって、その箇所を再生するようにするのである。また、我々は、足を骨折したり捻挫したりすると、深層肉体が、激しい痛みを感じさせるから、表層心理は表層肉体を使って、足を動かさないようにするのである。そのため、足はそれ以上ひどくならないのである。そして、その後、深層肉体が、その部分を再生させるのである。さらに、手術して、治癒できるのも、深層肉体の再生力があってのことである。このように、深層肉体は、常に、自らの肉体を維持し、治療しようとしているのである。だから、深層肉体がもたらした肉体の病気や痛みは、深層心理がもたらした精神疾患と同様に、表面的なマイナス面にとらわれず、その奥底にあるプラス面を見ることによって、初めて、真の目的を知ることができるのである。また、深層肉体が存在すれば、当然のごとく、表層肉体が存在する。表層肉体とは、我々が一般に言う、体、身体、肉体の動きのことである。表層肉体とは、我々が、自らの意志の下で、歩いたり、走ったり、立ち上がったりする動きを言う。つまり、表層肉体とは、自分が意識して、自分の意志で行う動きを言うのである。言わば、深層肉体は、我々を従えさせているのに対し、表層肉体は、我々の意志に従っているのである。さて、それでは、意志は、どこから来るのであろうか。それに対して、「我々が意志するのであり、意志の本をたどることは不可能だ。強いて言えば、我々自身は意志なのである。」と答える人がいるだろう。この人は、我々は何ものにもとらわれずに意志することができると思っているからである。それは、まさしく、我々人間には絶対的な自由が備わっていると思っているのである。自由の有無が、人間と他の生物との違いだとも思っているのである。しかし、果たして、我々人間に、自由は存在するのだろうか。我々人間は、何にもとらわれずに、自由に選択し、行動し、意志することはできるのだろうか。例えば、歩くという現象について考えてみよう。我々は歩こうと意志し、そして、歩き出す。確かに、これは、誰にであることである。この場合、確かに、歩こうという意志はあった。だが、理由なくして、意志は存在しない。歩こうと意志したのは、他の人の働きかけや自らの思いがあったからである。他の人の働きかけは、命令やアドバイスや誘いなどの形で行われる。一般に、「歩け」という命令、「歩いた方が体にいいよ」というアドバイス、「一緒に歩きましょう」という誘いなどである。我々にとって、他の人からの働きかけは、全て、言葉(文、文章)を介して行われる。身振り、手ぶり、合図など、言外の働きかけも、言葉(文、文章)に解釈して理解される。例えば、「歩け」と命令された時、歩かなかったら、叱責されたり罰せられたりするなどの場面が想像されるから、歩くのである。「歩いた方が体にいいよ」とアドバイスされた時、歩かないことで太ったり寝たきりなどの困った状態が想像されるから、歩くのである。「一緒に歩きましょう」と誘われて歩くのは、その人と歩いている楽しい姿が想像されるから、歩くのである。しかし、断ることもできる。命令さえ、罰を受ける覚悟があれば、拒否することができる。しかし、それでも、拒否せず、他の人の言葉に従ったのは何によるものなのか。この問いに対して、多くの人は、「これこそ自分の意志によるものだ」と答えるだろう。確かに、その人は断ることもできたのに歩いたのだから、歩く原因はその人の意志によるものだと結論を出しても、誤りは無いように思われる。その人は、自由な選択の下で、自分の意志によって、歩いたのだということで一件落着するように思われる。そうすると、表層心理が、自らの意志の下で、歩くということを意識して歩いたということになる。人間には自由が存在することになる。しかし、事は簡単ではない。言葉(文、文章)と想像について追究すると、この結論は危うくなる。なぜならば、言葉(文、文章)と想像は、表層心理の範疇には無く、深層心理の範疇に属しているからである。例えば、「歩け」と命令された時のことを考えてみよう。「歩け」と命令された時、歩かなかった時の叱責や罰の姿が想像されるので歩いたのだが、その想像は表層心理の働きによって為されるたのであるが、それは自由な意志ではなく、他者の命令が想像を生み出すきっかけになっているのである。そもそも、歩けという文に限らず、我々は、他の人の言葉(文、文章)を聞くや否や、それの意味する一つの状況を想像する(思い浮かべる)。深層心理が他の人の言葉(文、文章)を受けとめ、それの意味する状況を想像する(思い浮かべる)のである。もしも、深層心理が自由な存在ならば、我々は、自由にいろいろな状況を想像する(思い浮かべる)ことができるので、文意は、なかなか、定まらないだろう。深層心理が動くから、他の人の言葉(文、文章)から状況が想像されるのである(思い浮かべるのである)。深層心理の想像を受けて、表層心理が考えるのである。つまり、表層心理も自由ではないのである。つまり、他の人の働きかけ(語りかけ)があった場合、深層心理がそれを受け取り、解釈して、我々を歩くように仕向けたのである。表層心理は、深層心理のそれを受けて思考したのである。文章読解は全て、深層心理が行っている。だから、逆に、文意を誤解しても、なかなか修正できないのである。深層心理が納得して、初めて、解釈の修正が行われるから、時間が掛かるのである。ちなみに、文章作成も深層心理の働きである。言わば、文章は作るのではなく、作られるのである。例えば、話し合いの場合でも、深層心理が、他の人が語りかけた文章を解釈し、それに反応して、自らの文章を作るのである。だから、自分自身は、主語を明記するか、連用形が良いか終止形が良いかなど、意識した選択をしないのである。もちろん、作成した文章を、そのまま発表せず、修正してから発表することもあるが、その修正も、深層心理が読んで変だと思うから、表層心理が考えてそうしたのである。作成した文章を、本人がもう一度読んで、それを深層心理が聞いて、解釈して、不都合な部分に気付き、表層心理が考えて修正するのである。つまり、文章の解釈も、解釈の修正も、文章の作成も、作成した文章の修正も、全て、深層心理が最初に行っているのである。だから、心理学者のラカンは、「無意識(深層心理)は言語によって構造化されている。」と言うのである。次に、他の人の働きかけ(語りかけ)がなく、自分の思いだけで、歩き出した場合において、自由が成立するかどうかを考えてみよう。例えば、我々は、「今日は天気も良いし、散歩に持って来いだな」と思って歩き出すことがある。この場合は、一見、自分の意志による行動、自由な選択による行動と言えるように思われる。つまり、表層心理による行動が成立するのではないかと思われる。確かに、そこには、他の人からの働きかけもなく、歩かなければならない状況にも置かれていない。だから、自分が自由に選択して、自分の意志によって歩き出したと言えそうである。一見、表層心理の自由な選択による、意志の下での行動が成立したように思われる。しかし、天気が良いと判断したのは、表層心理だろうか。そうであれば、時間を掛けて、様々な天気と比べるはずである。しかし、それは、ほとんど瞬間において判断されている。つまり、天気が良いと判断したのは、深層心理なのである。それでも、ほとんどの人は、歩くという行為は、表層心理の意志の下に行われていると思っている。それは、歩こうという気持ちは意識に上り、歩くという行為は我々の見えるところで行われ、歩いている時には自分は今歩いているのだと意識されるからである。確かに、歩く過程は意識化されているのだが、歩こうと最初に思ったのは深層心理である。なぜならば、深層心理が、「今日は天気も良いし、散歩に持って来いだな」と思ったからである。どのような思いにしろ、我々は、自分の思いをコントロールできない。思いとは、意志によって作るのではなく、心の底から湧き上がってくるものだからである。つまり、思いを作るのは、深層心理なのである。しかし、その思いは深層心理によるものだとしても、実際に歩くことを選択したのは意志という表層心理ではないかという反論が予想される。しかし、たとえ、この思いが表層心理で意識化され、決断されたとしても、歩くということを意識化させたのは、深層心理なのである。だから、表層心理の自由は限定された自由なのである。そのような自由は、自由ということはできない。自由とは、何ものからも些かも束縛を受けないということだからである。さらに、歩くという行為も、意志によって為されていない。深層肉体の行為である。誰しも、右足と左足を交互に差し出して歩いている。だが、意識して足を出しているのではない。無意識のうちに、右足と左足が交互に出るのである。時として、躓くのも、無意識に(深層肉体で)歩いているからである。このように、歩くという身近な行為でさえ、深層肉体が行っている行為なのである。表層心理において為されることは、限定の中での選択と意識化(認識)だけである。歩くということが決断されたということと歩いているということの意識化(認識)だけである。つまり、我々には、表層心理の下で、絶対的に、自由に選択し、意志した行為は存在しないのである。全ての行為の最初の働きかけは、深層心理、深層肉体によるものである。表層心理や表層肉体は、意識化(認識)して、限定の中で、選択・決断しているだけなのである。ニーチェが、「意志を意志することはできない」と言うのは、この謂いである。意志が生まれてくる状況は作っているのは、表層心理ではなく、深層心理なのである。つまり、我々には、自由は存在しないのである。自由が存在するとすれば、それは深層心理の自由である。しかし、深層心理の自由を自由とは言わない。自分の意志によらない自由は自由とは言わないからである。我々が自分の意志通りに夢を見られないのは、深層心理が夢を作っているからである。稀れに、「私は自分の希望した夢を見ることができるようになった」と豪語する人が存在するが、その夢は、もはや、夢ではない。ところが、サルトルは、表層心理の優位を説く。サルトルは、「実存は本質に優先する」、「人間の全ての行為は自分の意志による」、「人間は自由へと呪われている」と言う。「実存は本質に優先する」とは、自由な選択によって自己を形づくることは、人間の本質と呼ばれているものよりも大切であるという意味である。「人間の全ての行為は自分の意志による」には、絶対的な意志の優位が説かれていて、人間が迷いの状態にあっても、それは、人間が迷うことを選択したからだと言うのである。「人間は自由へと呪われている」とは、人間は、全ての行為を自分の自由な選択によって行っているのだから、全てのことには責任を持たなければならず、その責任から逃れることはできないという意味である。サルトルは、実存、意志、自由を、全て、表層心理の範疇に属していると考えている。サルトルが自らのいかなる行為に対しても責任を取らなければならないと主張していることは、評価に値する。だが、深層心理の範疇に属していることや深層心理が出発点である、実存、意志、自由を、表層心理の範疇のみで語っているので、上滑りの主張になっているのである。レヴィ=ストロースは、サルトルの思想には、未開人の視点が無視され、近代西洋人の視点だけしか入っていない。近代西洋人の傲慢さが表れていると批判した。確かに、サルトルの実存思想は、表層心理だけの恣意的なものであった。その過ちに気づいたサルトルは、そこに、マルクスの思想を導入し、方向性を定めようとした。マルクスという外部の思想家の思想を導入した時点において、サルトルの実存思想は破綻してしまった。ハイデッガーにも、自己の決断を重んじる、実存思想が存在するが、ハイデッガーの思想には、表層心理だけでなく、深層心理も存在する。根本が深層心理なのである。そこが、サルトルと、根本的に異なっている。ハイデッガーの思想の深層心理とは、第一次大戦後のドイツの歴運(歴史性、民族性)である。しかし、ハイデッガーは、ナチスこそドイツの歴運を引き受けている政党だと誤って解釈し、全面的に協力した。そのために、第二次世界大戦後、散々に批判され、公職追放の憂き目にも遭っている。ハイデッガーの痛恨のミスである。さて、現在でも、多くの人は、我々人間は、自らの意志によって、行動のほとんどを行っていると思っている。つまり、表層心理・表層肉体の下での思考や働きによって、人間は動いていると思っている。だが、実際は、自らの意志に関わり無く、無意識の下で、深層心理や深層肉体によって行われていることがほとんどなのである。特に、我々の生命の中枢を管理しているのは、深層肉体である。心臓や血液などの循環器系、肺などの呼吸器官、胃や腸などの消化器官、毛髪や皮膚などの表皮組織、細胞分裂、細胞増殖に至るまで、深層肉体が司っている。そこには、共通して、常に、生きることへの強い意志が存在する。どんな場合でも、何としても生きようとする強い意志が存在する。その意志は、我々が求めて作り上げた意志でも、我々が意識している意志でもない。深層肉体自身が生来持っている意志である。深層肉体は、常に、生き延びることへの強い意志に基づいて行動しているのである。深層肉体が、生きることを諦めたり、死を選択したりすることは、決してない。そこには、ニーチェの言う「力への意志」が常に存在している。次に、精神疾患について、細説しようと思う。精神疾患とは、所謂、心の病である。精神疾患には、神経症と呼ばれるものと精神病と呼ばれるものが存在する。神経症について、辞書では、「心理的な要因と関連して起こる心身の機能障害。」と説明されている。精神病については、「重症の精神症状や行動障害を呈する精神障害の総称。」と説明されている。精神病の方が神経症より重篤の症状を示すという違いはあるが、方向性は同じである。しかし辞書は、マイナス面しか捉えていない。確かに、神経症であろうと精神病であろうと、精神疾患に陥ると、恐怖感、不安感に苛まれたり、苛立ちを覚えたり、絶望感に囚われたり、幻聴が聞こえたり、幻覚を見たり、自信が失われたり、生きがいが感じられなくなったり、楽しみも喜びが感じられなくなったり、憂鬱や悲しみしか感じられなくなったりする。しかし、このマイナスの現象は、副作用である。主作用は、当面している現在の苦悩から自らの精神を逃れさせることにある。深層心理が、苦悩から自らの精神を逃れさせるために、精神疾患に陥らせるのである。深層心理とは、我々の意志が及ばない、我々に意識されない、我々の奥底にある心の働きであるから、我々は、深層肉体に対してと同様に、深層心理の存在も動きも働きを気付いていない。我々が感じ取ることができるのは、深層心理がもたらした精神疾患の苦痛だけである。だから、深く悩み過ぎたために精神疾患になったと思い込んでしまうのである。そこに、深層心理の働きが介在しているのが理解されていないのである。だから、日常生活での苦悩から精神疾患の苦悩へという点だけしか見ることができないのである。さて、、深層心理が存在すれば、当然のごとく、深層心理の思考の結果を受けて思考する、表層心理が存在する。表層心理とは、我々が、ボールを投げよう、ボールを蹴ろう、椅子に座ろう、椅子から立ち上がろうなどの意志、頭痛や腹痛や味覚や触覚などの意識に上った思いや感じを言う。つまり、表層心理とは、意志、意識された思い、感じを意味するのである。一般の人は、深層心理の存在を知らず、表層心理のみを自分の心理や感情だと思い込んでいる。もちろん、一般の人には、表層心理と深層心理との区別は無い。表層心理しか存在しない。そのような視点からは、当然のごとく、深層心理の動き・働きは考えられないから、精神疾患の現象の真実を捉えることはできない。しかし、誰しも、自らの意志という表層心理によって、精神疾患に陥ったのではない。もしも、自らの意志という表層心理によって陥ったのならば、自らの意志という表層心理によって精神疾患から脱却できるはずである。しかし、それは不可能である。精神疾患は、表層心理の範疇に属していないからである。深層心理が、自らの精神を精神疾患に陥らせることによって、当面している問題の解決の苦悩から自らの精神を逃れさせ、当面の問題から逃れさせようとするのである。深層心理は、自らの心理を精神疾患に陥らせることによって、現実を正視させないようにして(我々から現実を遠ざけて)、その苦悩から解放させようとするのである。しかし、精神疾患も、また、苦悩の状態である。つまり、深層心理がもたらした精神疾患は、当面している問題の苦悩とは異なった、新しい、別の苦悩を持ち込んで来るのである。しかし、我々は、深層心理の動きに気づかず、表層的に、単純に、当面している問題の苦悩のために精神疾患になってしまったと思い込んでいるのである。しかし、真実は、深層心理が、言わば、毒を以て毒を制そう(精神疾患という毒を使って現実の苦悩という毒を制圧しよう)としたのである。次に、適応障害という精神疾患について、説明しようと思う。辞書では、「適応障害とは、職場や学校、そして家庭などの生活環境に不適応を生じ、不安や抑うつなどの症状を招くケースをさす。」と説明されている。そして、症例として、「ある男性会社員は、課長に昇進したものの、業務量が倍増し、夕方になると、疲労、倦怠、憂鬱感を覚えるようになりました。業務にも些細なミスを生じるようになったので、部長に相談して、一旦降格させてもらったところ、まもなく症状は回復しました。」と挙げられている。例に挙げられている男性会社員は、課長とは一般会社員とは異なった業務をこなさなければいけないという価値観を持っていた。そこで、自分が課長になると大きなプレッシャーを感じたのである。恐らく、その男性会社員も、その苦しみから逃れようとして、自己正当化のために、色々なことを考え、やってみたはずである。人間誰しも、苦悩に陥ると、その苦悩から逃れるために、色々なことを考え、色々なことを行って、自己正当化に励むものである。なぜならば、苦悩とは、自己正当化が失敗したり、自己正当化の道筋が見えなかったりした時に訪れるものだからである。当然のごとく、自己正当化が成功したり、自己正当化の道筋が見えてきたりした時に、消えていくのである。ウィトゲンシュタインが、「問題の解法が見つからなくても、その問題がどうでもよくなった時、苦悩は消える。」と言っているのは、その謂いである。その会社員も、「誰でも失敗はあるのだ。」などと自己暗示をかけたり、酒を飲んだり、カラオケに行ったりなどしたはずである。しかし、課長の職務というプレッシャーの苦悩から逃れることはできなかった。そこで、その会社員の深層心理は、自らの精神を適応障害に陥らせることによって、課長の業務から離れさせようとした(忘れさせようとした)のである。確かに、疲労、倦怠、憂鬱感を覚えさせることによって、課長の業務から離れさせよう(忘れさせよう)とすることには効果はあったかもしれないが、それが、仕事への集中力を欠かせ、些細なミスを生じさせたのである。さらに、この会社員は、会社以外でも、疲労、倦怠、憂鬱感の苦痛を覚えていたはずである。適応障害に限らず、精神疾患は、発症した構造体(この場合は、会社)だけでなく、他の構造体(この場合は、会社以外の場所、家庭、通勤電車、店など)にも、それが維持されるものだからである。その後、その会社員は、部長に相談して、課長から一般社員に一旦降格させてもらったところ、まもなく、適応障害の症状が消えていったとある。それは、自己否定の状態から解放され、自己正当化ができるようになったからである。課長の職務という自己否定の状態から解放されたので、適応障害が必要でなくなり、症状が消えたのである。この男性会社員にとっての苦悩とは、課長として、部下や上司に認められる仕事ができるかどうかの不安感から来ている。男性会社員がその不安感がもたらす苦悩からどうしても逃れることできなかったので、深層心理が、自らの精神に、適応障害(疲労、倦怠、憂鬱感を覚えるという症状)という精神疾患(の状態)をもたらしたのである。確かに、適応障害に陥ることによって、課長としての仕事の苦悩は薄まっていく。しかし、課長としての仕事に対する苦悩が薄まるということは課長という仕事に対する集中力も薄まっていくということに直接的に繋がるのである。それが、業務に差し障りを生じさせることになる。それが些細なミスの発現である。そして、仕事が原因で適応障害に陥ったのだが、適応障害の状態は社内だけにとどまらず、社外においても維持される。それが、精神疾患の特徴である。つまり、帰宅しても、コンビニに入っても、電車の中でも、歩いていても、疲労、倦怠、憂鬱感の苦痛を覚えるのである。さて、確かに、この会社員は、課長から一旦降格されることによって、課長というプレッシャーから解放され、適応障害の症状が消滅し、良い結果になった。しかし、一般に、このような単純な方法では、精神疾患は寛解しない。なぜならば、確かに、誰しも、課長に昇格したことが精神疾患を呼び寄せたのであるから、課長から降格させ、一般社員に戻せば、精神疾患から解放されるだろうと判断しがちである。しかし、課長から降格されると、そのことを恥辱に思い、より深く苦悩し、適応障害の症状がいっそう重くなることも考えられるのである。しかし、それは、この会社員の深層心理の決断だから、何とも言えないのである。結果的に、この会社員にとって、課長から一旦降格されたことが良かったというだけなのである。さて、精神疾患には様々なものであるが、深層心理が、現実逃避することによって、当面している問題の苦悩から精神を解放させるという目的でもたらしたということでは一致している。現実逃避の仕方が様々あり、それが精神疾患の様々な形なのである。次に、解離性障害について説明しようと思う。辞書では、解離性障害について、「自己の同一性、記憶・感覚などの正常な統合が失われる心因性の障害。心的外傷(トラウマ)に対する一種の防衛機制と考えられる。」と説明されている。まさに、深層心理が、自らの精神を、自己の同一性、記憶・感覚などの正常な統合を失った状態にさせ、心的外傷(トラウマ)という当面している問題の苦悩から解放させようとしているのである。次に、離人症についてであるが、辞書では、「自己・他人・外部世界の具体的な存在感・生命感が失われ、対象は完全に知覚しながらも、それらと自己との有機的なつながりを実感しえない精神状態。人格感喪失。有情感喪失。」と説明されている。これも、また、深層心理が、自らの精神から、自己・他人・外部世界の具体的な存在感・生命感が失わせ、それらと自己との有機的なつながりを実感しえない状態にして、当面している問題の苦悩から解放させようとしているのである。次に、統合失調症についてであるが、辞書では、「妄想や幻覚などの症状を呈し、人格の自律性が障害され周囲との自然な交流ができなくなる内因性精神病。」と説明されている。これも、また、深層心理が、自らの精神を、妄想や幻覚などを浮かばせ、人格の自律性を失わせ、周囲との自然な交流ができなくなる状態にして、当面している問題の苦悩から解放させようとしているのである。さて、人間誰しも、精神疾患に陥ると、すぐに寛解するようなことはなく、日常生活全ての場面において、その状態が続く。なぜならば、精神疾患をもたらしたのは、深層心理だからである。さて、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。自我を持つとは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態である。それは、アイデンティティーが確立された状態である。しかし、人間は、意識して、自我を持つのでは無い。深層心理という無意識が自我を持つのである。人間が最初に所属する構造体は、家族であり、最初の自我は、男児もしくは女児である。人間は、自我を持つと同時に、深層心理が、欲望を生み出す。人間は、人間社会において、深層心理が生み出した欲望主体を生きている。それ故に、人間の欲望は、深層心理が生み出した自我の欲望なのである。自我の欲望には、他者に認められたい、他者を支配したい、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという三種類のものがある。深層心理は自我を対他化することによって、他者に認められたいという欲望を生み出す。深層心理は他者を対自化することによって、他者を支配したいという欲望を生み出す。深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出す。このように、人間は、常に、深層心理は自我を対他化することによって、他者に認められたいという欲望を生み出して生きているが、他者から、悪評価・低評価を与えられたり、悪評価・低評価を与えられる可能性が大であったりしたときに、苦悩するのである。この苦悩が、全ての精神疾患の原因なのである。つまり、全ての精神疾患は、他者の視線・評価が原因なのである。だから、誰しも、精神疾患に陥る可能性があるのである。先に例に挙げた、課長に昇進した会社員が適応障害に陥ったのも、課長としての仕事を、上司や同僚や後輩などの他者から低く評価されることを恐れ、それが大きく苦悩と成ったからである。さて、それでは、どのようにすれば、精神疾患に陥らずに住むであろうか。確かに、深層心理が、精神疾患に陥らせるのであるから、深層心理の考え方が変わらない限り、精神疾患を止めようが無い。また、我々の意志という表層心理は、深層心理に直接に働きかけることはできない。しかし、ニーチェの「永劫回帰の」の思想が言うように、森羅万象は同じことを繰り返すのである。人間も、同じことを繰り返すのである。人間の思考もそうである。人間の思考も習慣化しているのである。人間の思考も習慣化し、深層心理がそれに則っているから、(表層心理の思考は長時間掛かるが)、深層心理は、瞬間的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すことができるのである。だから、我々の意志という表層心理が、精神疾患に陥らない思想を考え出し、それを心で反芻することによって、その思想を習慣化させることである。その思想が習慣化すれば、深層心理がそれに則って思考するから、精神疾患に陥らないのである。しかし、思想に限らず、習慣化するには、長時間を要する。しかし、長時間要することを覚悟して、精神疾患に陥らない思想を創造し、それを習慣化しない限り、精神疾患から逃れられないのである。さて、先に述べたように、人間が、精神疾患に陥るのは、深層心理が、自らの精神を精神疾患という苦悩の状態に置くことによって、現実の大きな苦悩から逃れるためである。精神疾患という毒をもって、現実の苦悩という毒を制しようとするのである。深層心理は、将来のことを考えず、(将来のことを考えるのは表層心理である)、現在差し迫っていることを対処することだけを考えるから、現実の大きな苦悩から逃れるために、自らの精神を精神疾患に陥らせたのである。現実が大きな苦悩となるのは、現実を過大視しているからである。現実を過大視しているから、実際に現実が報われなかったり、現実が報われないように思ったりすると、大きな苦悩を背負い込むのである。現実を大きく見るとは、深層心理による自我の対他化の力が強いということである。つまり、他者から認められたい、他者から好評価・高評価を得たいという気持ちが強いことを意味している。先に例に挙げた会社員も、課長として、上司・同僚・部下に認められたいという思いが強いから、それが叶えられない不安から、苦悩し、適応障害という精神疾患に陥ったのである。だから、現実を過大視しないことが大切なのである。つまり、他者から認められたい、他者から好評価・高評価を得たいという気持ちを強く持たないことが大切なのである。すなわち、他者の評価を期待しないことである。確かに、人間は、日常生活において、いついかなる時でも、深層心理が自我を対他化することによって、自我を認めてもらいたいという思いが存在する。自我が他者からどのように思われているか気にしながら生きている。それは、他者から好評価・高評価を得ると、喜びが得られるからである。そして、他者から悪評価・低評価を与えられると、心が傷付くのである。だから、人間は、他者から好評価・高評価を得ようと努力するのである。しかし、その期待が大きすぎるから、現実を過大視するから、他者から悪評価・低評価を与えられたり、他者から悪評価・低評価を与えられる可能性が大きい時は苦悩し、時には、精神疾患に陥るのである。もう、その悪循環を絶たなければいけないのである。しかし、他者からの視線や評価を無視することはできない。人間は、常に、構造体の中で、自我として生きているからである。だから、他者からの視線や評価を、自我を知る手段とすれば良いのである。自我を知るために他者が存在すると考えれば良いのである。

人間は自我と他者によって生かされている(自我その239)

2019-10-26 18:41:53 | 思想
人間は、他者の助力によって、窮地を逃れることができると、「自分一人で生きているのではない。他の人々によって、生かされているのだ。」と実感する。特に、愛する人、親しい人を喪い、家を失い、田畑を失い、生活基盤を全て失って、絶望の淵にさまよっていた時に、周囲の人々、遠くの人々、ボランティアの人々によって、励ましの言葉、衣食住の生活物資の援助、復興作業の支援を受けて、生きる希望を取り戻した時に、そう感じる。しかし、残念なことに、人間は、日々、他者によって、心や体が傷つけられたり、時には、殺されるたりすることがあるのも事実である。つまり、人間は、日々、他者によって生かされていると同時に、他者によって傷つけられ、時には、殺されることがあるのである。そして、、また、人間は、自分自身によっても、生かされているのである。稀れには、自分自身によって、殺されるのである。すなわち、自殺である。自分自身によって生かされているのは、人間は、自ら、意識して、意志で、生きようとしているのではないからである。人間は、無意識の心理である深層心理と無意識の肉体である深層肉体によって、生かされているのである。しかし、深層心理の生きようとする方向性と深層心理の生きようとする方向性は異なる。深層心理は快楽を求めて生きようとし、深層肉体はひたすら生きようとするのである。そして、人間は、意識しての思考である表層心理が、深層心理の感情に屈して、ひたすら生きようとする深層肉体を抑圧して、自殺することがあるのである。さて、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。自我を持つとは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態である。それは、アイデンティティーが確立された状態である。しかし、人間は、意識して、自我を持つのでは無い。深層心理という無意識が自我を持つのである。人間が最初に所属する構造体は、家族であり、最初の自我は、男児もしくは女児である。人間は、自我を持つと同時に、深層心理が、欲望を生み出す。それ以後、人間は、人間社会において、深層心理が生み出した欲望主体に生きる。それ故に、人間の欲望は、深層心理が生み出した自我の欲望なのである。自我の欲望には、他者に認められたい、他者を支配したい、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという三種類のものがある。深層心理は自我を対他化することによって、他者に認められたいという欲望を生み出す。深層心理は他者を対自化することによって、他者を支配したいという欲望を生み出す。深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出す。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではなく、自我のために構造体が存在するのである。このように、深層心理は、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。そして、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。人間は、まず、無意識のうちに、深層心理が動くのである。深層心理が動いて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。その後、表層心理が、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令を意識して思考し、行動の指令の採否を決めるのである。稀れには、人間は、表層心理で意識せずに、深層心理が生み出した感情のなかで、深層心理が生み出した行動の指令のままに、行動することがある。これが、無意識による行動である。しかし、たいていの場合、表層心理は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令を意識して思考し、行動の指令の採否を決めるのである。それが理性と言われる表層心理の思考である。理性と言われる表層心理は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を意識して思考し、行動の指令のままに行動するか、行動の指令を抑圧して行動しないかを決定するのである。表層心理が、深層心理の出した行動の指令を認可すれば、人間は、そのまま行動するのである。しかし、表層心理が、深層心理の出した行動の指令を認可せず、抑圧して、行動しないこともあるのである。行動の指令を抑圧して行動しないことを決定したのは、そのように行動したら、後に、自我に不利益なことが生ずる虞があるからである。しかし、表層心理が、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、行動しないことに決定しても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがある。それが、感情的な行動であり、後に、周囲から批判されることになり、時には、犯罪者になることがあるのである。そして、表層心理は、抑圧して、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、代替の行動を考え出そうとするのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。しかし、深層肉体のあり方は単純である。心理や肉体がどんな状態に陥ろうと、ひたすら生きようとするのである。人間は、無意識のうちに、深層肉体の働きによって生かされているのである。人間の肉体の内部には、肺や心臓や胃があるが、誰も、自分の意志で、肺や心臓や胃の動きを止めることはできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。無意識に、呼吸をしているのである。テレビの学園ドラマで、授業中、教師に、「おまえは何をしているのだ。」と注意された生徒が、とぼけて、「息をしています。」と答えるシーンがあったが、その生徒は間違っている。誰も、意識して息をしていない。人間が意識して息をしているのならば、寝入ると同時に、息が止まり、死んでしまう。深呼吸という意識的な行為も存在するが、それは、深く吸うということを意識するだけでしかなく、常なる呼吸は無意識の行為である。呼吸は、誕生とともに、既に、人間に備わっている機能である。心臓も、人間の意志で動いているのではない。だから、止めようと思っても、止めることはできない。心筋梗塞が起こったり、人為的に、他の人もしくは自分がナイフを突き立てたりなどしないと、心臓は止まらない。さらに、胃も、人間の意志によって動いているのではない。心臓や肺と同じく、誕生と同時に、既に動いているのである。胃の仕組みや働きすら、今もって、ほんの一部しか知られていない。だから、人工的な胃は存在しないのは当然のことである。確かに、人工心臓は存在するが、それは、新しく作り出したのではなく、現に存在している心臓を模倣したものである。だから、人工心臓は、生来の心臓の一部の働きしかできない。このように、人間は、ほとんどの場合、自らの意志によって、肉体を動かしているのではなく、肉体自身が肉体を動かしているのである。それが深層肉体の働きである。人間が、意識して行う肉体の活動、すなわち、表層肉体による活動は、深呼吸する、授業中挙手する、速く走る、体操するなど日常生活の中でも一部の活動である。そして、人間は、自らの意志よって、肉体そのものを創造できない。現に存在する肉体を模倣するしかない。肉体を創造できるのは肉体自身でしかないのである。確かに、我々は、自分の意志によって、体を動かすことができる。しかし、少し考えてみればわかるように、それは、深呼吸する、授業中挙手する、速く走る、体操するなどの些細な動作である。しかも、その意志的な動作も、動作の初発のほんの一部にしか関わっていない。例えば、歩くという動作がある。確かに、歩こうという意志の下で歩き出すことがある。しかし、両足を交互に出すという動きは、誰も意識して行っていない。もしも、右、左と意識して足を差し出していたら、途中でこんがらがり、うまく足を運べなくなるだろう。たとえ、目的地まで、意識して両足を差し出して歩いて行ったとしても、むしろ、必要以上に、疲れてしまうだろう。だから、最も意識して行っていると考えられる動作の一つである歩くという行動すら、意識して行っているのではなく、無意識に、つまり、肉体自身によって行われているのである。歩きながら考えるということも、歩くことに意識が行っていないから、可能なのである。このように、人間は、自分の意志によって、ほとんど、意識的に肉体を動かしているのではなく、肉体自身が肉体を動かしているのである。つまり、人間は、肉体的に、生きているのではなく、生かされているのである。それが深層肉体である。深層肉体の生きようとする意志は並大抵のものではない。私の父は亡くなっても、その翌日も、遺体の髪の毛も爪も伸びていた。髪の毛も爪も、つまり、深層肉体は父が亡くなったことを知らないのである。いや、知ろうとしていないと言ったほうが正確かもしれない。人間は、指を切っただけでも、痛みを感じ、血が出る。血は、その部分を白血球で殺菌し、傷口を血小板で固め、その部分の再生を助けるために、出るのである。肉体は、自ら、再生能力を持ち、更に、痛みによって、深層心理に、そこに異状があることを知らしめるのである。それを受けて、表層心理は思考し、原因を追究し、同じ過ちを繰り返さないようにし、治療法も考えるのである。深層肉体は、これほどまでに、生きようとしているのである。先に述べたように、深層心理も、また、深層肉体と同じく、人間の無意識の活動である。深層心理は、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、人間の無意識のうちに思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。そして、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。例えば、人間は、怒りの感情によって、相手に面と向かって悪口を言ったり、殴りかかったりしたい欲望に駆られる。それは、人間が、他者から侮辱されたり、無視されたり、セクハラ・パワハラを受けたりして、自我が悪評価・低評価を受けたからである。人間は、常に、深層心理が、自我を対他化することによって、他者に認められたい、好評価・高評価を受けたいという欲望を生み出しているが、自我が悪評価・低評価を受けたから、怒りの感情がわき上がったのである。深層心理は、傷心し、自我を取り戻そうとして、怒りの感情と相手に面と向かって悪口を言えや殴りかかれなどの行動の指令という自我の欲望を生み出したからである。もちろん、表層心理が、意識して思考し、行動した後の自我の立場に配慮して、相手に面と向かって悪口を言えや殴りかかれなどの行動の指令を抑圧するだろう。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強すぎると、表層心理の抑圧は効かず、相手に面と向かって悪口を言ったり、殴りかかったりしてしまうのである。そうして、後に悔いることになるのである。しかし、感情は、喜びももたらす。満開の桜を見たり、富士山を見たり、雪景色を見たりしての感動は、深層心理が生み出した感情である。深層心理が、自我と満開の桜、富士山、雪景色という他者と共感化できたから、そこに、感動という感情を生み出したのである。そして、自然に対してだけでなく、オリンピックやワールドカップで、日本人チームや日本人選手が活躍しているのを見て感動するのも、深層心理の働きである。深層心理が、日本人という自らの自我と同じく、日本という構造体に、日本人チームや日本人選手が自我として所属しているから、彼らの活躍を見て、自らの持っている日本人という自我と所属している日本という構造体が評価されているような気持ちになり、感動したのである。しかし、喜びの感情にずっと浸っていようと思っても、暫くすると消え、悔しい思いを忘れようとしても、なかなか消えない。それは、感情は、深層心理によって生み出され、意志という表層心理によって、継続させたり、消したりすることはできないからである。カラオケや酒によって、気分転換をはかるのも、感情は、意志という表層心理によって生じるものではないことの現れである。カラオケに行くことや酒を飲むことは、表層心理による意志の行為であるが、感情は深層心理が生み出すものであるから、時には、気分が変わらなかったり、いっそう落ち込んだりすることがあるのである。次に、思考であるが、多くの人は、感情と異なり、思考は自分の意志によって為されていると考えている。しかし、そうではない。思考には、深層心理による思考と表層心理による思考があるのである。理性とは、表層心理による思考である。だから、理性によらない思考があるのである。まず、悪口を言ったり、殴り掛かったりすることは、深層心理の思考によって生まれた行為である。理性という表層心理の思考は、悪口を言ったり、殴り掛かったりする行為を考え出さない。深層心理が、人間の無意識の中で思考し、怒りの感情と同時に行動の指令を生み出すから、悪口を言えや殴り掛かれなどの指令が生み出されてくるのである。また、誰しも、悪口を言ったり、殴り掛かったりすることは、怒りに駆られての所作だと考えているが、それは正しいが、全ての人の深層心理が、怒りの感情の時に、悪口を言うことや殴りかかることの行動の指令を出すのでは無い。また、同じ人でも、深層心理が、怒った時には、常に、悪口を言うことや殴り掛かることを考え出すのでは無い。それは、意志が及ばない範囲に存在する、深層心理(無意識の心の働き)が、感情と思考を生み出しているから、一定しないのである。だから、表層心理のできることは、意志によって、悪口を言わないようにすること、殴りかかりたいという思いを抑圧することである。しかし、深層心理の生み出した怒りの感情が強すぎると、意志の抑圧は効かず、悪口を言ったり、殴りかかってしまうのである。それでは、どうして、表層心理は、意志で抑圧しようとするのか。それは、悪口を言ったり、殴りかかってしまう後のことを考えるからである。相手に面と向かって悪口を言えば、相手に復讐され、周囲の人に軽蔑されることを考えるからである。相手に殴り掛かれば、相手から殴り返され、周囲の人に軽蔑され、時には、逮捕されることが考えられるからである。そこから、悪口を言うことや殴り掛かることを止めさせる意志を生まれてくるのである。これが表層心理である。つまり、深層心理は短期的な「快楽原則」によって動き、表層心理は長期的な「現実原則」によって動くのである。つまり、人間の心理とは、常に、まず、深層心理が感情と思考を生み出すのであるが、そのすぐ後に、表層真理が、その思考通りに行動したらどのようなことになるかという思考を働らかせるのである。誰しも、人間の心理は自然とそのように動くのである。人間は、そのように作られているのである。人間は、表層心理が、深層心理の行動の指令のままに行動しても、何の問題も無いという風に判断すれば、深層心理の言う通りに行動する。しかし、深層心理の行動の指令のままに行動したら、その後、自分にとって不利益な状態に陥ると判断すれば、その行動を抑圧する。しかし、表層心理が、不利益だとわかっていても、深層心理が強過ぎると、表層心理はそれを制止できず、そのまま行動してしまうことがある。それが犯罪である。だから、犯罪者の多くは、それが犯罪だとわかっているが、深層心理が生み出した感情が強過ぎたために、自らを律することができなかったのである。ストーカーと言われる人も、表層心理では、自分が行っていることはやってはいけないことだとわかっているが、深層心理が生み出した別れの悲しみが強すぎるので、深層心理の行動の指令のままに、付きまとい、相手に迷惑を掛けるのである。それでは、冷静な思考は、どうであろうか。誰しも、冷静な思考だけは、自分の意志によって、行われているのだと思いがちである。しかし、そうではない。冷静であろうと、思考は、全て、言葉が繋がった文によって編み出されるものだからである。人間、誰しも、自分の意志で、言葉によって構成されたもの、つまり、文章を作ることはできない。文章は、深層心理によって、編み出されてくるのであり、そこには、意志という表層心理の力添えはない。文は、作るのではなく、作られるものなのである。文は、意志で作るのではなく、意志が介在しない、深層心理によって作られるのである。文は、外部に対する反応である。外部というのは、周囲の環境、他の人の存在、他の人の言葉や文や文章だけでなく、自分の言葉、自分の体内の状態もそうである。つまり、反応できるものには、全て、言葉や文が生まれてくるのである。それでは、思考とは、何に反応して、形成されるのだろうか。それは、自分自身の言葉や文や文章によってである。もちろん、最初に生まれて来た言葉や文や文章は、自分の言葉や文や文章ではない。周囲の環境、他の人の存在、他の人の言葉や文や文章、自分の体内の状態などである。最も多いのは、他の人の文章である。著書である。他の人の著書を読み、それに反応して、ある思いが生じ、それが言葉や文になって、心に浮かんだり、発せられたりする。そして、その言葉や文を聞き、それに反応して、また、次の言葉や文が浮かんでくるのである。そうして、文が綴られていくのである。これらの一連の文章作成は、意志によって行われるのではなく、無意識において、つまり、深層心理において、為されるのである。つまり、文が構成されたものである限り、思考と言えども、人間の意志ではなく、深層心理によって、為されるのである。このように、我々人間の肉体も精神も、無無意識によって、動かされているのである。それ故に、私たちは、生きているのではなく、生かされていると言えるのである。