あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

日本は、自民党という幼児とともに滅びる。(自我から自己へ1)

2021-10-25 12:52:00 | 思想
愛国心を盲目的に讃えているのは、自民党、ネット右翼、保守派の大衆である。当然のごとく、右翼、保守派の大衆は、自民党を支持する。右翼、保守派の大衆が、多数を占めているから、自民党が長期政権を続けているのである。しかし、戦後76年間、日本が戦争に参加しなかったのは、日本国憲法のお陰である。もちろん、自民党は日本国憲法を改正して、日本をすぐ戦争ができる国にしようとしている。「子供は正直だ」と言う。子供は、自我の欲望に対して正直なのである。自民党は、幼児である。もちろん、ネット右翼、保守派の大衆も幼児である。幼児だから、愛国心という自我の欲望に基づいて、盲目的に行動するのである。マルクスは、「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。」と言ったが、日本人は、一度目の太平洋戦争の悲劇で懲りずに、二度目の戦争を経験して笑いものにならない限り、日本の歩むべき道に思い至らないのかもしれない。日本人は、一度目の福島の原発事故の悲劇で懲りずに、二度目の原発事故を経験して笑いものにならない限り、日本の歩むべき道に思い至らないのかもしれない。日本を戦争のできる国にしようとし、原発を推進しているのは、自民党議員、ネット右翼、保守派の庶民である。しかし、二度目の戦争、二度目の原発事故があった時、ほとんどの日本人は、愛国心とはどういうものか、深く反省し、考え直すかもしれない。しかし、その時、日本という国は存在することができるだろうか。さて、愛国心は自我の欲望である。自我の欲望は、深層心理が思考して生み出したものである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。深層心理が思考して、自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。深層心理の思考には、社会規約を守る視点や道徳観という観点は存在しない。深層心理は、快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かそうとする。愛国心から盲目的に行動すれば、ひたすら戦争に向かっていく。それを推進しているのは、自民党議員、ネット右翼、保守派の庶民である。さて、人間は、常に、ある構造体に所属して、ある自我を持って存在し、行動している。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体の中で、他者からある特定の役割を担ったポジションが与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、国民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では夫と妻という自我がある。だから、ある人は、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では母という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って、行動しているのである。ある人は、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では夫という自我を持ち、会社という構造体では人事課長という自我を持ち、コンビニという構造体では来客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って行動しているのである。人間が行動できるのは、深層心理が、常に、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我となった人間を動かしているからである。すなわち、人間は、自らは無意識のうちに、深層心理が、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我となった人間を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在していて、深層心理を動かしている四つの欲望である。欲動には、第一の欲望として自我を確保・存続・発展させたいという欲望があり、第二の欲望として自我を他者に認めてもらいたいという欲望があり、第三の欲望として自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望があり、第四の欲望として自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。すなわち、深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動の四つの欲望に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて行動しているのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。ミャンマーの国軍兵士が、無差別に、市民を射殺しているのは、上官の命令に従っているからであり、上官の命令に背けば、兵士という自我を失うからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。そうしないと、自分の力を発揮できないのである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけず、生きる目標を失ってしまうから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できず、自分の力を発揮できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。だから、国という構造体、国民という自我に盲目的にしがみついている限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。自我の対他化とは、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。この欲望がかなえば、自我が伸張し、自分の力が発揮できたように思うのである。だから、深層心理は、自我が他者から見られていることを意識して思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理は、どのようにすれば、その人から好評価・高評価を得られるかと考えて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。ラカンに、「人は他者の欲望を欲望する」という言葉がある。それは、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」という意味である。ラカンのこの言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。他者の欲望を獲得することが、自分の力を発揮したことの現れなのである。だから、逆に、自我が他者に認められなければ、深層心理は、すなわち、人間は苦悩に陥るのである。だから、その苦悩を回避しようとして、敢えて、自我の力を知らしめ、他者に自我を認めさせようとしている者も現れるのである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、北朝鮮の金正恩による殺戮は、国民に、自我の力を知らしめるためである。自民党の外交政策が、中国、韓国、北朝鮮という構造体に敵対的なのは、日本という構造体の力を知らしめるためである。人間は、誰しも、生まれてくる国を選べない。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その国に存在しているのである。だから、現在、中国人、韓国人、北朝鮮人、日本人の中に、口角沫を飛ばして、相手国を罵っている自民党議員、ネット右翼、保守派の庶民のような人が存在するが、中国、韓国、北朝鮮、日本に生まれたのは偶然であり、当然、中国人、韓国人、北朝鮮人、日本人という自我も偶然の産物である。中国、韓国、北朝鮮、日本に生まれてくれば、中国人、韓国人、北朝鮮人、日本人韓国人という自我を持つから、相手国の短所が目に付くだけなのである。口角沫を飛ばして相手国を罵るのは自我に踊らされているだけなのである。深層心理によって自我が踊らされているのである。自民党は、幼児だから、そのことに気が付かず、自我の欲望のままに行動しているのである。また、人間にとって、最も強い感情は怒りである。深層心理が怒りの感情を生み出し、自我である人間を、深層心理の行動の指令通りに動かそうとするのである。人間は、激しい怒りの感情を抱くと、超自我や表層心理で抑圧しようとしてもできずに、他者を侮辱しろ、他者を殴れ、他者を殺せなどの深層心理の指令通りに、過激な行動を起こしてしまい、悲劇、惨劇を生むのである。さて、それでは、なぜ、深層心理が怒りの感情を生み出したのか。それは、自我が他者に叱責されたり、陰口を叩かれたり、侮辱されたり、殴られたりなどしたからである。自我が他者に叱責されたり、陰口を叩かれたり、侮辱されたり、殴られたりなどすることは、自我が他者によって下位に落とされたことを意味するのである。深層心理は、常に、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとしているから、自我が他者によって下位に落とされたので、怒りの感情を生み出したのである。つまり、プライドが傷付けられたから、怒ったのである。深層心理は、常に、自我が他者に認められたいという欲望を持っているから、それが、認められるどころか、貶され、プライドがずたずたにされたから、傷付き、その傷心から立ち上がろうとして、プライドを傷つけた他者に対して、怒りの感情と侮辱しろ、殴れ、殺せなどの過激な行動の指令を自我の欲望として生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。つまり、深層心理は、他者によって自我が下位に落とされたから、その他者に対して、怒りの感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、過激な行動の指令通りに自我を動かし、その他者を下位に落として、自我を上位に立たせようとするのである。深層心理は、常に、ひたすらその時その場で、快楽を得よう、不快を避けようとする欲望を持ち、深層心理には、道徳観や社会規約の価値観を有していない。だから、深層心理は、ひたすら快楽を得よう、不快を避けようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。自民党、ネット右翼、保守派の大衆は、中国、北朝鮮、韓国を下位に落として、日本を上位にしようとするのである。それは、中国、北朝鮮、韓国の右翼の思考を持った人もも同じである。しかし、人間が、道徳観や社会規約を考慮して思考する時がある。それは、表層心理で、自らを意識して、思考する時である。たいていの人は、どのような構造体に所属していようと、どのような自我を持していようと、道徳や社会規約を守って行動しようとする。それは、道徳や社会規約を守らなければ、他者や他人から非難され、自我の立場が悪くなり、不愉快な気分になるからである。しかし、人間は、自らを意識して、表層心理で思考しても、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出せないから、行動を起こすことはできないのである。表層心理の思考では、自我の欲望を生み出せないから、行動できないのである。人間は、自らを意識して、表層心理で、思考する時は、常に、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、自我に現実的な利得をもたらすかどうかという志向性で、許諾するか拒否するかを思考する時だけなのである。しかも、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、深層心理の超自我が抑圧しようとしても、表層心理で、思考して、深層心理が生み出した行動の指令について、拒否すること決定し、意志で抑圧しようとしても、抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、他者を侮辱したり、他者を殴ったり、時には、殺したりしてしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。それが、国家観においては、戦争になるのである。それを、無思慮に推進しているのが、自民党議員、ネット右翼、保守派の大衆である。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望である。それは、「人は自己の欲望を対象に投影する。」という一文で言い表すことができる。それは、「人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。」という意味である。深層心理は、対象の対自化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとするのである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者を支配することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、深層心理が、すなわち、人間が、喜び・満足感が得られれるのである。自民党議員、ネット右翼、保守派の大衆は、日本を、東アジアの覇権国にしたいのである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。わがままは盲目的な支配欲の現れである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、北朝鮮の金正恩による殺戮は、国民からの承認欲を満足させるためだけでなく、国民に対する支配欲を満足させるために起こしているのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば、快楽を得られるのである。自我の対他化による快楽は、自我が他者に好評価・高評価を受けることによって得られるが、対象の対自化による快楽は、自我の志向性(観点・視点)で他者・物・現象を支配することによって得られるのである。さらに、対象の対自化が高じると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生じる。まず、有の無化という作用であるが、深層心理は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、人間の無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。次に、無の有化であるが、それは、「人は自己の欲望を心象化する。」という一文で言い表すことができる。それは、深層心理は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、人間の無意識のうちに、この世に存在しているように思い込むという意味である。深層心理は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。神が存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理は、自我と他者が心の交流をすること、愛し合う、友情を育む、協力し合うようにさせることによって快楽を得るのである。自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりするのである。それがかなえば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。また、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うこともある。それが、「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象である。この欲望は、愛情、友情、協調性を大切にする思いであり、自我の立場と他者の立場は同等であるから、一般的に、歓迎されるのである。だから、この欲望は、自我の評価を他者に委ねるという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を一方的に支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うのである。「呉」の国と「越」の国の仲が悪いのは、二国は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。つまり、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。自民党議員、ネット右翼、保守派の大衆がアメリカと呉越同舟して、中国、北朝鮮と対峙しようとしているのである。しかし、共通に対自化した敵がいなくなると、自分がイニシアチブを取りたいから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。つまり、対象の対自化が自我の力が発揮できると思うから、共通の敵がいなくなると、我を張る(自我を主張する)のである。日本も、いつかは、アメリカと対峙する時が来るのである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。しかし、中学生や高校生が、仲間という構造体を作り、友人という自我で、構造体に所属していない同級生をいじめるのは、友人と連帯感ができて仲間という構造体が形成されているという快楽を得ているとともに、一人で生きている者への嫉妬心からである。カップルや夫婦という構造体にある者が、相手から別れを告げられてストーカーになり、相手を殺すことまであるのは、自分の代わりの恋人や夫に対する嫉妬心からである。自民党・公明党政府がオリンピックにこだわるのは、国民が自国の選手やチームが活躍すると、共感欲を満足し、狂喜乱舞して、政権の支持が高まるからである。自民党・公明党政府は、中国、北朝鮮、韓国を敵視することによって、国民を煽り、「呉越同舟」の現象を作り出し、支持を得て、戦争をして相手国民を殺そうと思うまでに愛国心を高めるのである。快感原則とは、フロイトの用語であり、深層心理に存在する、道徳観や社会的規約を有さず、その時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望である。感情と行動の指令という自我の欲望とは、深層心理が思考して、生み出したものである。深層心理が生み出した感情が、自我である人間に、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動させる動力になっているのである。しかし、人間には、深層心理の思考だけでなく、表層心理という意識しての思考も存在する。しかし、深層心理は表層心理よりも時間的に早く思考し、力が強いのである。人間が表層心理で思考する時は、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について実行するか抑圧するかを審議するだけなのである。人間は、表層心理独自に思考することはできないのである。しかも、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令について審議し、抑圧するという結論を出し、意志で抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、抑圧できないのである。深層心理が生み出した感情を打ち消すには、表層心理で対抗する感情を生み出さなければならないが、人間は、表層心理では、感情を生み出せないのである。感情は、深層心理でしか生まれないのである。だから、人間は、感情をコントロールできないのである。しかも、深層心理は、快楽を求めて思考しているのである。だから、快楽に繋がる善事ならば行動の指令として生み出すことはあるが、快楽に繋がらない善事ならば行動の指令として生み出さないのである。逆に、快楽に繋がる悪事ならば行動の指令として生み出すことがあるのである。もちろん、深層心理が悪事を行動の指令として生み出せば、人間は、自らを意識して、表層心理で思考して、抑圧しようとする。これが、所謂、我慢である。人間は、表層心理で、自我に現実的な利得をもたらそうとして、道徳観や社会規約に照らして、思考して、深層心理が生み出した行動の指令としての悪事を、意志で抑圧しようとするのである。すなわち、我慢しようとするのである。人間が、表層心理で、道徳観や社会規約を考慮に入れて思考するのは、道徳観や社会規約に背馳した悪事を行えば、後に、他者から顰蹙を買い、自我に現実的な利得が得られないからである。しかし、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理の超自我が抑圧しようとしても、人間は、表層心理で、思考して、意志で、深層心理が生み出した行動の指令としての悪事を抑圧しようとしても、抑圧できないのである。すなわち、我慢には、限界があるのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令としての悪事を実行してしまうのである。それが悲劇を生むのである。その最悪の者が、所謂、殺人である。国家観においては、戦争である。確かに、人間は、表層心理で思考して、意志によって、自我の欲望を抑圧することがある。しかし、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議する時だけなのである。しかも、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間の行動において、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。日常生活は、ほとんど、表層心理で意識して審議することなく、意志の下で行動するまでもない、当然の行動で成り立っているだからである。人間が、本質的に保守的なのも、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、ニーチェは、人間は「永劫回帰」(永遠に同じことを繰り返すこと)であると言うのである。人間は、表層心理で思考する時は、現実的な自我の利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動する時である。現実的な自我の利得を求める欲望は、表層心理に存在する、道徳観や社会的規約を考慮し、後に、自我に利益をもたらし不利益を避けるという、長期的な展望に立つ欲望である。人間の意識しての思考、すなわち、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、快感原則に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という過激な自我の欲望を生み出しがちである。しかし、深層心理には、超自我という作用もあり、超自我によって、過激な自我の欲望を抑圧しようとする。超自我とは、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する作用である。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないことがある。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という過激な自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という過激な自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我というルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する働きが功を奏さないことがあるのである。その時、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、思考して、意志によって、それを抑圧する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。過激な感情は、時には、他者に向かうことがある。それが、暴力、稀には、殺人という犯罪を引き起こすこともある。それは、他者から、侮辱などによって、自我が傷つけられ、自我が下位に落とされたから、その自我を復活させようとして、他者を攻撃することによって、他者を下位に落とし、自我が上位に立とうという目的で起こした、深層心理は生み出した自我の欲望によるものである。ラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。そして、深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、生み出していない自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自らの欲望であるから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きているのである。だからこそ、人間は、表層心理で思考しなければならないのである。深層心理が思考して生み出した圧倒的な自我の欲望の力の中で、表層心理で、思考し続けなければならないのである。自らの存在の証のために。








人間という自我に捕らわれた存在者の現象について。(自我その528)

2021-10-18 15:51:23 | 思想
人間は自らを意識して思考して、意志によって行動しているのではない。人間の自らを意識しての精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は、表層心理で思考して、自らの意志で行動しているのではない。人間は、深層心理に動かされている。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。一般に言われている無意識の行動とは、深層心理が思考したままに、表層心理で意識すること無く、行動することである。ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。ほとんどの人の日常生活が、毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていない証である。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。深層心理が、常に、自我を使って、人間を動かしているのである。深層心理が、常に、自我を主体に立てて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、学校、会社、店舗、施設、役所、家などがある。学校という構造体には生徒・教諭・校長などの自我、会社という構造体には社員・課長・社長などの自我、店舗という構造体には客・店員・店長などの自我、施設という構造体には所員・所長などの自我、市役所という構造体には職員・助役・市長などの自我、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我がある。人間は、自我を持って、初めて、動物から離れ、人間として暮らしていけるのである。自我を持つ前の人間は、生存欲を満足させるためだけに生きている。それは、他の動物と変わらない。他の動物は、食べて生きて行くことが満足できれば、すなわち、生存欲が満足できれば、次に、子孫を残すことに向かう。しかし、人間は、自我を持つと、生存欲が満足できても、必ずしも、子孫を残すことに向かわない。人間の性欲は、子孫を残すという目的から発揮されることは少なく、ほとんど、快楽・支配欲を満たすために使われる。人間にとって、性欲は、異性の他者(同性愛者であったとしても相手を異性の他者として見ている)に、自己の存在をアピールしようという欲望である。すなわち、性欲は、異性の他者に、自我を知らしめ、相手の心を支配することによって、快楽を得ようとすることである。セックスとは、その行為によって、相手に自我の存在を知らしめ、相手の快楽を知ることによって、相手の心を支配した証である。だから、相手の心を支配したい者は、セックスを急ぐのである。バタイユが「男性にとって、セックスとは、相手の女性が納得したものであろうと、レイプである。」と言うのは、この謂である。そして、「女性にとって、愛した男性に対してであろうと、セックスとは、売春である。」と言うことができるのである。この場合、見返りは、金銭ではなく、相手の男性の愛情である。しかし、性欲は自我の存在を知らしめるという自我の欲望であるが、自我の欲望は、性欲だけではない。むしろ、人間の欲望のほとんどは、自我の欲望なのである。しかし、生存欲は、自我の欲望ではない。生存欲は、人間にも、他の動物にも、共通して存在するからである。しかし、他の動物は、言葉を知らないから、自我を持つことができない。だから、自我の欲望は存在しないのである。確かに、他の動物も、家族のようなものを形成するが、それは、子孫を残すためだけに使われ、そこには、自我は存在しない。だから、いたずらに、他の動物は、自己の存在をアピールしない。自己の存在をアピールするのは、家族が破壊され、子孫を残すことに危機が生じた時である。人間は、他の動物と異なり、いつ、いかなる時でも、常に、構造体で、自我を持って暮らしているのである。人間は、誰しも、自我に縛られ、日々を送り、一生を終えることになるのである。人間は、自らを自分と表現し、他者や他人と峻別しているが、自分とは自我である。人間は、自我によって、自らを他者や他人と峻別しているのである。しかし、人間、誰しも、自我を作り出すことができないのである。常に、構造体の中で、自我を与えられ、与えられた自我で生きるしかないのである。自我の選択権は与えられていないのである。そもそも、人間には、自ら誕生するか否かの選択権が与えられていないのである。人間、誰しも、気が付いたら、そこに存在しているのであり、自分で選択して生まれてきたのではないのである。すなわち、人間は、誰しも、偶然、生まれてきながら、必然的に生きていくしか無いのである。だから、人間は、誰しも、家族という構造体を選択することができず、生まれるやいなや、、男に生まれてくれば息子という自我を与えられ、女に生まれてくれば娘という自我を与えられ、その構造体で、生きていくしか無いのである。もちろん、母も父も選択できない。言うまでも無く、家族の他のメンバーも選択できない。ある特定の家族という構造体に生まれ、息子、娘という自我が与えられるのである。そして、ある特定の家族という構造体に所属して、母、父という自我を持った人たちに服属して生きるしか無いのである。だから、母、父という自我を持った人たちが良い人たちであれば幸運であり、母、父という自我を持った人たちが悪い人たちであれば不運であると言うしか無いのである。しかし、不運であっても、そこで生きるしか無いのである。他の家族は引き受けてくれないからであである。つまり、子にとって、息子、娘という自我も偶然であり、母、父、家族の他のメンバーとの出会いも偶然だが、必然的に、母、父、家族の他のメンバーに服属し、その家族に所属して生きるしか無いのである。また、このことは、親に対しても言えることである。母、父も、子(息子、娘)を選択することはできない。親は、生まれてきた子(息子、娘)は、どんな子であろうと、自分たちの家族という構造体に所属させ、我が子として育てるしか無いのである。つまり、母、父も、子(息子、娘)を選択することはできないのである。母、父にとって、偶然、生まれてきた子(息子、娘)であるが、どんな子であろうと、必然的に、自分たちの家族という構造体に所属させ、我が子として育てるしか無いのである。この後、この子は、成長するにつれ、保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、会社、仲間、カップルなどの構造体に所属し、園児、生徒、学生、会社員、友だち、恋人などの自我を得るが、それらの出会いも、偶然であり、しかし、やはり、そこで、必然的に生きるしかない。なぜならば、人間は、誰しも、生まれてくる時代も場所を選選択することができないからである。もちろん、人間は、誰しも、生まれてくる国も選べない。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その国に存在しているのである。だから、現在、韓国人の中にも、日本人の中にも、口角沫を飛ばして、相手を罵っている人がいるが、韓国に生まれたのも日本に生まれたのも偶然であり、当然として、韓国人という自我も日本人という自我も偶然の産物である。韓国に生まれてくれば韓国人という自我を持つから日本人の短所が目に付き、日本に生まれてくれば日本人という自我を持つから韓国人の短所が目に付くだけなのである。口角沫を飛ばして相手を罵るのは自我に踊らされているだけなのである。深層心理が自我を踊らせているのである。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属し、自我を有しているから、常に、他者との関わりがある。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、行動するのである。多くの人は、自ら意識して、自らの意志で、つまり、表層心理で、自我を動かしていると思っている。しかし、自我をまず最初に動かすのは、人間の無意識の心の働きである、深層心理である。深層心理が、自我を主体に立てて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理が、心境の下で、構造体において、自我を主体に立てて、欲動によって、快感原則に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。これから、心境、快感原則、欲動について、説明したいと思う。まず、心境であるが、心境とは、感情と共に、深層心理の情態である。深層心理は、常に、心境の下にある。心境は、爽快、陰鬱など、長期に持続する情態である。心境は、気分とも表現される。感情は、喜怒哀楽など、瞬間的に湧き上がる情態である。感情が湧き上がれば、その時は、心境が消える。心境と感情は並び立たないのである。感情は行動の指令と同時に、深層心理によって生み出され、行動の指令を行う力になる。心境は、爽快という情態にある時は、現状に充実感を抱いているという状態を意味し、深層心理は新しく自我の欲望を生み出さず、自我に、ルーティーンの行動を繰り返させようとする。心境は、陰鬱という情態にある時は、現状に不満を抱き続けているという状態を意味し、深層心理は現状を改革するために、どのような自我の欲望を生み出せば良いかと思考し続ける。深層心理が喜びという感情を生み出した時は、現状に大いに満足しているということであり、深層心理が喜びという感情とともに生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が怒りという感情を生み出した時は、現状に大いに不満を抱いているということであり、深層心理が怒りという感情ととみに生み出した行動の指令は、現状を改革・破壊しようとするものになる。深層心理が哀しみという感情を生み出した時は、現状に不満を抱いているがどうしようもないと諦めているということであり、深層心理が哀しみという感情ととみに生み出した行動の指令は、現状には触れないものになっているのである。深層心理が楽しみという感情を生み出した時は、将来に希望を抱いているということであり、深層心理が楽しみという感情とともに生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が、常に、心境や感情という情態が覆われているからこそ、人間は、表層心理で、自分の存在を意識する時は、常に、ある心境やある感情という情態にある自分としても意識するのである。心境や感情という情態こそ自らの存在を指し示すのである。深層心理が感情を生み出しているから、人間は、表層心理で、感情を変えることができないように、心境も変えることはできない。しかし、心境が変わる時はある。それは、まず、深層心理が自らの心境に飽きた時に、心境が、自然と、変化するのである。気分転換が上手だと言われる人は、表層心理で、意志によって、気分を、すなわち、心境を変えたのではなく、深層心理が自らの心境に飽きやすく、心境が、自然と、変化したのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時、一時的に、深層心理の状態は、感情に覆われ、心境は消滅する。そして、その後、心境は回復するが、その時、心境は、変化している。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換をして、心境を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができから、何かをすることによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。しかし、そのようなことをすることによってしか、心境を変えることができないのである。だから、自分なりに、心境を変える方法を見つけ出さなければならないのである。「苦しんでいる人間は、苦しみが消えれば、それで良い。苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しみが消えたということが、問題が解決されたということを意味するのである。」とオーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタインは言う。苦しんでいる人間は、苦しみの心境から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。人間は、苦しいから、その苦しみの心境から逃れるために、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、それを除去する方法を考えるのである。苦しみの心境が消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。たとえ、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ上げ、それを問題化して、解決する途上であっても、苦しみの心境が消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。つまり、苦痛が存在しているか否かが問題が存在しているか否かを示しているのである。苦痛があるから、人間は考えるのである。苦痛が無いのに、誰が、考えるだろうか。それでは、なぜ、このようなことが生じるのか。それは、苦しみをもたらしたのは深層心理であり、その苦しみから逃れようと思考しているのは表層心理だからである。人間は、誰しも、苦しみを好まない。だから、人間は、誰しも、表層心理で、意識して、自らに苦しみを自らにもたらすことは無い。苦しみを自らにもたらしたのは、深層心理である。深層心理が、思考しても、乗り越えられない問題があるから、苦痛を生み出したのである。人間は、その苦しみから解放されるために、表層心理で、それを問題化して、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、解決の方法を思考するのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした苦痛から解放されるために、表層心理で、思考するのである。だから、苦痛という心境が消滅すれば、思考も停止するのである。次に、快感原則であるが、快感原則とは、フロイトの用語であり、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場でひたすら快楽を求め快楽を求める深層心理の欲望である。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場でひたすら快楽を求めて、思考するのである。つまり、深層心理は、快楽を得るために、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。次に、欲動であるが、欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなえば、快感原則を満たすことができる、すなわち、快楽を得ることができるのである。深層心理は欲動の四つの欲望に従えば快楽を得られるから、欲動に基づいた行動の指令を生み出し、感情によって、自我である人間を動かそうとするのである。つまり、欲動が、深層心理を動かし、自我である人間を動かしているのである。欲動の四つの欲望の第一の欲望は、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。簡潔に言えば、安心欲である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。人間が、結婚、入学、入社を祝福するのは、夫(妻)、生徒、社員という自我を確保したからである。人間が、離婚、退学、退社を嫌がるのは、夫(妻)、生徒、社員という自我の存続が絶たれ、自我を失ったたからである。人間が、会社などの構造体で昇進を祝福するのは、自我が発展したからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。また、自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、構造体の存続を自我の存続のように喜び、構造体の発展を自我の発展のように喜ぶのである。だから、高校サッカーや高校野球で、郷土チームを応援するのである。それは、一般に、郷土愛と言われているが、単なる自我愛である。また、オリンピックやワールドカップで自国選手や自国チームを応援するのである。それは、一般に、愛国心と言われている。しかし、それも、単なる自我愛である。また、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、それが発揮されるのは自我の欲望だからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望であり、自我愛である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、国家観の戦争が無くなることはないのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。簡潔に言えば、承認欲である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。それは、深層心理が、自我が他者に認められると、喜び・満足感という快楽を得られるからである。だから、人間は、誰しも、他者から認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、生きているのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉は、自我が他者に認められたいという深層心理の欲望、すなわち、自我の対他化の作用を端的に言い表している。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。だから、人間の苦悩のほとんどの原因が、他者から悪評価・低評価を受けたことである。そのために、深層心理は、時には、自らを鬱病などの精神疾患に陥らせ、時には、自我に自殺を強いるのである。深層心理が、この苦悩から脱出するために、自らを、精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにし、自我を自殺に追い立て、現実そのものを失わせるのである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象(こと)などの対象を支配したいという欲望である。簡潔に言えば、支配欲である。対象の対自化は、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。対象の対自化は、深層心理が自らの志向性(観点・視点)で他者・物・現象を捉えることなのである。つまり、深層心理が、自らの志向性で、他者・物・現象(こと)などの存在しているものを捉え、自我の下に置くことなのである。対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」という言葉で言い表すことができる。それは、「人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えようとする。」という意味である。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。最後に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という機能が生まれる。有の無化とは、人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。借金をしている者の中には、返済するのが嫌だから、深層心理が、借金していることを忘れてしまうのである。無の有化という機能は、「人は自我の欲望を心象化する」という言葉で言い表すことができる。それは、人間は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造するという意味である。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。ストーカーは、相手の心から自分に対する愛情が消えたのを認めることが辛いから、相手の心に自分に対する愛情がまだ残っていると思い込み、その心を呼び覚ませようとして、付きまとうのである。有の無化、無の有化、いずれも、深層心理が自我を正当化して心に安定感を得ようとするのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、それは、自我と他者の共感化という作用として現れる。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、それほど屈辱感が強かったのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。安倍晋三前首相は、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆を踊らせ、大衆の支持を集めたのである。「呉越同舟」を利用した、自我のエゴイスティックな行動である。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていない証である。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。しかし、日常生活において、異常なことが起こることもある。それは、ほとんどの場合、侮辱などをされ、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望が破られた時である。そのような時、深層心理が怒りの感情と侮辱した相手を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間に、相手を殴ることを促すことがある。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、それが働き、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとするのである。超自我は、深層心理に内在する欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という作用の機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する審議は、表層心理に移されるのである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。現実原則は、快感原則と同様に、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、自我に利益をもたらし、不利益を被らないないような視点から、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に思考するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を殴ったならば、後に、自我に不利益がもたらされるということを、他者の評価を気にして、将来のことを考えて、結論し、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。しかし、誰かが自我が傷つけても、深層心理は、時には、傷心の感情から解放されるための怒りの感情と相手を攻撃するという自我の欲望を生み出さず、自我をうちに閉じこもらせてしまうことがある。それは、攻撃するのは、相手が強大だからであり、攻撃すれば、いっそう。自我の状況が不利になるからである。そうして、傷心のままに、苦悩のままに、自我の内にこもるのである。それが、憂鬱という情態性である。そのような時、深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことがある。深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことによって、現実を見えないようにし、現実から逃れようとするのである。人間は、誰しも、自ら意識して、精神疾患に陥ることはない。また、人間は、誰しも、自らの意志で、精神疾患に陥ることはできない。すなわち、表層心理という意識や意志では、自らの心に、精神疾患を呼び寄せることはできないのである。深層心理という人間の無意識の心の働きが、自らの心に、精神疾患をもたらしたのである。精神疾患には様々なものがあるが、代表的なものが、鬱病である。鬱病の基本症状は、気分が落ち込む、気がめいる、もの悲しいといった抑鬱気分である。また、あらゆることへの関心や興味がなくなり、なにをするにも億劫になる。知的活動能力が減退し、家事や仕事も進まなくなる。さらに、睡眠障害、全身のだるさ、食欲不振、頭痛などといった身体症状も現れることが多い。抑鬱気分が強くなると、死にたいと考える(自殺念慮が起こる)だけでなく、実際に、自殺を図ることもある。また、鬱病に罹患している人間は、表層心理で、自らの心理状態を意識して、自らの意志で、行動を起こそうという気にならない。また、たとえ、自らの意志で、行動を起こそうとしても、肉体が動かない。深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、自らの肉体が行動を全然起こさないようにしたのである。つまり、深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、鬱病の原因が学校や会社という構造体の中での出来事ならば、自らの肉体を学校や会社に行かせないようにしたのである。つまり、学校や会社で堪えられない情況にある人間の深層心理が、自らの心を、鬱病に罹患させることによって、抑鬱気分を維持させ、学校・会社の行かせないようにするという、現実逃避よる解決法を画策したのである。しかし、人間は、鬱病に罹患すると、学校や会社に行けなくなるばかりでなく、他のこともできなくなるのである。さらに、自殺を考えたり、実際に、自殺しようとしたりするのである。鬱病は、人間を、継続した重い気分に陥らせ、何もする気も起こらなくさせ、自殺を考えさせ、実際に、自殺しようとさせたりするから、大きな問題なのである。鬱病だけでなく、他の全ての後天的な精神疾患も、深層心理によってもたらされた現実逃避よる解決法である。統合失調症は、現実を夢のように思わせ、現実逃避をしているのでる。離人症は、自我の存在を曖昧にすることによって、現実逃避しているのである。このように、現実があまりに辛く、深層心理でも表層心理でも、その辛さから逃れる方策、その辛さから解放される方策が考えることができないから、深層心理が、自らを、精神疾患にして、現実から逃れたのである。しかし、精神疾患によって、現実の辛さから逃れたかも知れないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛の心理状態が、終日、本人を苦しめるのである。だから、精神疾患に陥った人に対して、周囲のアドバイスも励ましも、無効であるか有害なのである。精神疾患に陥った人は、現実を閉ざしているのであるから、周囲の現実的なアドバイスには聞く耳を持たず、無効なのである。また、周囲の「がんばれ」という励ましの言葉は、「がんばれ」とは「我を張れ」ということであり、「自我に執着せよ」ということであるから、逆効果であり、有害なのである。自我に執着したからこそ、現実があまりに辛くなり、精神疾患に逃れざるを得なくなったからである。そして、今、現実が見えない状態であるから、現実から来る苦しみはないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛によって苦しめられているのである。さて、精神疾患の苦痛から解放するために、薬物療法とカウンセリングが多く用いられる。確かに、精神疾患そのものの苦痛の軽減・除去には、薬物療法は有効であろう。しかし、現実は、そのまま残っている。現実を変えない限り、たとえ、薬物療法で、精神疾患の苦痛が軽減されても、その人が、そのことによって、再び、現実が見えるようになると、再び、元の精神疾患の状態に陥るようになることが考えられる。そこで、重要になってくるのが、カウンセリングである。カウンセリングは、自己肯定感を持たせることを目的として、行われる。精神疾患に陥ったのは、自分が無力であるため、現実に対処できず、深く心が傷付いたからである。そこで、自己に肯定感を持たせ、自信を与え、現実をありのままに受け入れるようにするのである。しかし、自分に力が無いと思い込み、外部に関心を持たない状態に陥っている者に対して、肯定感を持たせ、自信を持たせ、現実をありのままに受け入れるようにさせることは、至難の業である。だから、カウンセリングは、長い時間が掛かるのである。自我の欲望から逃れるまでには、長い時間が掛かるのである。

学校がクラスやクラブ単位で動く限り、いじめ自殺事件は無くならない。。(自我その527)

2021-10-06 17:31:43 | 思想
なぜ、小学校、中学校、高校で、いじめによって自殺する者が跡を絶たず、大学では、いじめが原因の自殺がほとんど無いのか。それは、人間は、いついかなる時でも、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持っていなければ生きていけないからである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったポジションが与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。大学生は、講義や演習を受けるために部屋を移動し、クラブ活動は自由であるのに対し、小学生、中学生、高校生は、授業を受けるための教室が固定し、クラブに所属することが強制されている。大学生にとって、構造体は、大学であり、自我は学生であるが、小学生・中学生・高校生にとって、構造体はクラスやクラブであり、自我はクラスメートや部員である。それが、いじめの原因になっているのである。確かに、小学生、中学生、高校生にとっても、基本的な構造体は、小学校、中学校、高校であり、基本的な自我は、小学生、中学生、高校生である。しかし、彼らにとって、最も大切な構造体は、クラス、クラブ、仲間であり、最も大切な自我は、クラスメート、部員、友人なのである。彼らは、クラス、クラブ、仲間という構造体から追放されることを死ぬほど嫌がり、クラスメート、部員、友人という自我を失うことを死ぬほど嫌がっているから、追い詰められて、自殺するのである。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って行動しているのである。構造体には、家族、クラス、クラブ、仲間、国、小学校、中学校、高校、大学、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、小学校・中学校・高校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、クラスという構造体では、担任・クラスメートなどの自我があり、クラブという構造体では、顧問・部員などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、大学という構造体では、学長・教授・准教授・学生などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・男児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・女児などの自我がある。人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、他者・物・現象などの外部と関わりながら、暮らしている。しかし、人間は、自らを意識して思考して、意志によって行動しているのではないのである。人間の自らを意識しての精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は、表層心理で、自らを意識して思考して、意志によって行動しているのではないのである。人間は、無意識に思考して、行動しているのである。人間の無意識の精神活動を深層心理と言う。すなわち、深層心理が、構造体において、自我を主体にして、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。確かに、人間は、表層心理で、自らを意識して、現実的な自我の利得を求めて、思考して、意志によって行動することがある。時には、人間は、表層心理で、自らを意識して、道徳観や社会規約に照らして、思考して、意志によって行動することがある。道徳観や社会規約に照らして思考して行動するのは、現実的な自我の利得が得られるからである。しかし、人間は、表層心理の思考では、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すことはできないのである。人間は、表層心理の思考では、感情も生み出せず、初発の行動の方向性も生み出すことができないのである。すなわち、深層心理の思考無く、表層心理の思考だけでは、行動できないのである。人間は、表層心理で、思考する時には、既に、深層心理によって動かされているからである。人間は、表層心理で、自らの状態を意識して、現実的な自我の利得を求めて、思考するのは、常に、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について審議する時だけなのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実的な自我の利得を求めて、深層心理が生み出した行動指の指令のように行動したならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した行動の指令について審議するのである。深層心理が生み出した行動指の指令のように行動したならば、後に、自我が不利益が生じると思われた時には、意志によって、抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、表層心理の意志による抑圧は、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動し、他者に惨劇、自我に悲劇をもたらすのである。それが、所謂、感情的な行動である。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。しかし、深層心理が納得するような代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。さて、人間は、常に、ある構造体に所属し、自我を持って行動しているが、深層心理が、自我を主体にして、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理は、快楽を求めて思考しているのである。深層心理は、道徳観や社会規約を無視して思考するのは、道徳観や社会規約を守って行動しても、快楽が得られないと考えているからである。だから、稀に、道徳観や社会規約を守って行動すれば快楽が得られると考えて、深層心理は道徳観や社会規約に基づいて思考する時があるのである。、深層心理は、欲動にかなった行動をすれば、快楽が得られるので、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである.。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。欲動が、深層心理を動かしているのである。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなえば、快楽を得ることができるから、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理は、自我を保身化する行動の指令を生み出し、自我になった人間を動かし、その欲望を満たし、快楽を得ようとする。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。深層心理は、自我を対他化する行動の指令を生み出し、自我になった人間を動かし、その欲望を満たし、快楽を得ようとする。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。深層心理は、対象を対自化する行動の指令を生み出し、自我になった人間を動かし、その欲望を満たし、快楽を得ようとする。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。深層心理は、自我と他者を共感化する行動の指令を生み出し、自我になった人間を動かし、その欲望を満たし、快楽を得ようとする。つまり、人間は、深層心理という無意識の思考によって、保身化、対他化、対自化、共感化という志向性に導かれて行動しているのである。志向性とは、思考の観点、視点、方向性である。つまり、深層心理が、常に、構造体において、自我を主体にして、欲動の保身化、対他化、対自化、共感化の志向性によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我となった人間を動かしているのである。彼らにとって、最も大切な構造体は、クラス、クラブ、仲間であり、最も大切な自我は、クラスメート、部員、友人なのである。彼らは、クラス、クラブ、仲間という構造体から追放されることを死ぬほど嫌がり、クラスメート、部員、友人という自我を失うことを死ぬほど嫌がっているから、追い詰められて、自殺するのである。それは、小学生、中学生、高校生にとって、毎日の生活の構造体はクラス、クラブ、仲間であり、自我はクラスメート、部員、友人であるからである。毎日、閉ざされ、固定されたクラス、クラブ、仲間という構造体で、クラスメート、部員、友人と自我で暮らしているからである。毎日、同じクラスメート、部員、友人と暮らしていると、必ず、嫌いなクラスメート、部員、友人が出てくる。好きなクラスメート、部員、友人ばかりでなく、必ず、嫌いなクラスメート、部員、友人が出てくるのである。しかし、人間は、好き嫌いの感情は、自ら意識して、自らの意志で、生み出しているわけではない。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、好きなクラスメート、部員、友人と嫌いなクラスメート、部員、友人を峻別しているわけでは無い。深層心理が、共感化の志向性によって、好きなクラスメート、部員、友人と嫌いなクラスメート、部員、友人を出現させるのである。しかし、小学生、中学生、高校生は、クラス、クラブに嫌いなクラスメート、部員がいても、それを理由にして、自分が別のクラス、クラブに移ることもその嫌いなクラスメート、部員を別のクラスに移すことも許されない。わがままだと非難されるだけである。また、仲間に嫌いな友人がいても、その仲間から抜けることはできない。なぜならば、別の仲間は、新参者を入れてくれないからである。だから、現在のクラス、クラブ、仲間という構造体で、現在のクラスメート、部員、友人という自我で生きていくしか無いのである。しかし、クラス、クラブ、仲間という閉ざされ、固定された構造体で、毎日、嫌いなクラスメート、部員、友人と共に生活することは苦痛である。トラブルが無くても、そのクラスメート、部員、友人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がする。いつしか、不倶戴天の敵にしてしまう。すると、自らの深層心理が、自らに、その嫌いなクラスメートに対して攻撃を命じる。しかし、自分一人ならば、勝てないかも知れない。また、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れない。そこで、自分には、共感化しているクラスメート、友人、部員がいるから、彼らに加勢を求め、いじめを行うのである。彼らも、クラス、クラブ、仲間という構造体から、自分が放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。クラスという構造体では、担任の教師は、いじめに気付いていても、いじめている生徒たちはクラスのイニシアチブを握っていることが多く、彼らを敵に回すと、クラス運営が難しくなるから、いじめに気付いても、厳しく咎めることはせず、軽く注意するか見て見ぬふりをするのである。また、いじめられている生徒というのは、クラスメート間で力が無いからいじめられるだけでなく、往々にして、担任の教師の言うことをそのままを実行する力が無いから、担任にとっても、嫌いな生徒の部類に属し、積極的に助ける気にならないのである。往々にして、よく、いじめが原因で自殺した生徒が出ると、担任の教師はいじめられているのに気付かなかったと言う。しかし、それは、嘘である。毎日、顔を合わせているのに、知らないはずが無い。また、クラブという閉ざされ、固定した構造体においても、同じである。生徒は、毎日、同じ部員と活動していると、必ず、嫌いな部員が現れる。しかし、退部を決心しても、顧問の教師が恫喝し、担任の教師や親が反対し、他の部員たちが白い目で見るから、その部に留まるしか無いのである。しかし、クラスと同じく、クラブという閉ざされ、固定された構造体で、毎日、嫌いな部員と活動することは苦痛であり、その生徒から攻撃を受け、心が傷付けられているような気がする。すると、深層心理が、その生徒に対して攻撃を命じる。しかし、クラスと同じく、自分一人ならば、勝てないかも知れないし、周囲から顰蹙を買うかも知れないから、ためらう。そこで、自分に、仲間という構造体があり、共感化する友人たちがいるので、友人たちに話し、友人たちが加勢し、いじめが可能になるのである。顧問の教師も、同じである。毎日、同じ部員たちに接していると、必ず、嫌いな部員が出てくる。これも、自分の意志で嫌いになろうと思ってそうなるのではなく、深層心理が嫌いな部員を出現させるのである。生徒と同じく、クラブという閉ざされ、固定された空間で、毎日、嫌いな部員に接することは苦痛であり、その部員から攻撃を受け、心が傷付けられているような気がする。すると、深層心理が、その部員に対して攻撃を命じる。ここは、生徒と違い、顧問の教師は、部員に対して権力があり、クラブは鍛錬の場であるという言い訳が利くから、部員に辛く当たっても、許されると思い、表では、厳しい訓練を課し、陰では、体罰を行うのである。そして、苦痛から逃れ、心を癒やそうとするのである。しかも、クラブは、顧問の教師と部員、先輩と後輩の上下関係を中心に動いているから、顧問の教師が、嫌いな部員から、何かの形でプライドが傷付けられると、容易に、厳しい訓練や体罰の形になって、復讐心を発揮する。よく、自分の厳しい訓練や体罰が原因で自殺した部員が出ると、顧問の教師は、指導の一環だったと答える。しかし、それは、嘘である。その部員が嫌いだったから、厳しく当たり、厳しい訓練を課し、体罰を加えたのである。深層心理には、共感化の志向性があるから、人間は、いつの間にか、無意識のままに、好きになる人ができ、嫌いになる人ができている。だから、クラス、クラブ、仲間という構造体にも、嫌いな人ができるのは当然のことである。しかし、クラスという構造体にしろ、クラブという構造体にしろ、仲間という構造体にしろ、閉ざされ、固定した空間であるから、嫌いなクラスメート、部員、友人ができても、毎日顔を合わせなければいけない。そこに、問題が生じるのである。毎日顔を合わせ、その度に苦痛を感じ、心が傷付く。そして、その復讐のために、いじめを行うのである。だから、クラス、クラブ、仲間という構造体が閉ざされ、固定した空間である限り、いじめが無くなることは無いのである。小学校・中学校・高校も、大学のように、授業を受ける時は、生徒自らが教室を移動し、クラスという閉ざされ、固定した構造体で無くなれば、いじめは激減し、自殺する生徒はいなくなるだろう。クラブという構造体も、転部、退部が自由という解放された空間にすれば、いじめは激減し、自殺する生徒はいなくなるだろう。仲間という構造体も、解放すれば、友人の行き来が自由になり、いじめは無くなるだろう。しかし、日本人の多くは、小学校、中学校、高校という構造体においては、クラスやクラブを閉ざされた構造体にし、固定したクラスメートたち、固定した部員たち、固定した担任の教師、固定した顧問の教師にしなければ、有効な指導ができないと思っている。だから、クラスやクラブという構造体が解放されることは無いのである。また、ほとんどの小学生、中学生、高校生が仲間に寄りかかっているのである。それ故に、日本の小学校、中学校、高校から、いじめが激減することも、いじめによる自殺者がいなくなることも、永遠に無いのである。