あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間の本能には、父性愛も母性愛も存在しない。(自我その145)

2019-06-30 20:32:10 | 思想
幼児虐待のニュースが途絶えることがない。あるテレビ番組のコメンテーターが、「現代の親の中には、人間が本能として持っている、父性愛や母性愛は欠落した人がいて、しかも、そういう人が増えているのではないしょうか。」と嘆いていた。しかし、人間の本能には、本来、父性愛や母性愛は存在しない。だから、父や母には、皆、幼児虐待をする可能性がある。幼児虐待は、家庭という密室で行われるから、一般の犯罪よりも、発生率が高い。父性愛や母性愛は、子を養育していくうちに生まれて来るものである。そして、子の態度、親の気分により、突然、消える時があり、突然、生まれてくることがある。そして、最後まで、生まれない者もいる。だから、父性愛の無い父、母性愛が無い母が存在したとしても、何ら、不思議なことではない。残念ながら、これが真実である。しかも、幼児虐待をする親が増えてきたのではなく、しつけと称して、それが容認されてきたから、幼児虐待が見過ごされてきただけなのである。日本では、1908年から1995年まで、子が親や祖父母を殺せば、尊属殺人罪が適用され、無期懲役か死刑に処されたが、親が子を殺しても、祖父母が孫を殺しても、それが適用されなかったのである。いかに、子供の人権が無視されてきたかがわかるのである。ところで、動物は、本能として、雄親に父性愛があるのは稀れだが、雌親には、例外なく、母性愛がある。猫などは、雌親は、子猫を守るために、体を張って、雄親すら近づけようとしない。また、祖父母の孫に対する愛も、本能ではない。老い先短い老人は、もうすぐ、この世から去ることに不安を抱いているから、血縁関係にある孫に愛情を持つのである。自分の身は死んでも、血縁を受け継いでいる孫がこの世に生きているから、自分がこの世に留まっているように感じ、孫をいとおしく思うのである。だから、血縁幻想が、孫への愛を生み出しているのであって、本能ではないのである。さて、言うまでもなく、家族という構造体は、父・母・子などから形成されている。だが、それは、学校という構造体が、校長・教諭・生徒などから形成され、会社という構造体が、社長・課長・社員などから形成され、店という構造体が、店長・店員・客などから形成され、電車という構造体が、運転手・車掌・客などから形成され、仲間という構造体が、友人たちから形成され、カップルという構造体が、恋人二人から形成されているのと同じであり、家族という構造体だけが特別な存在ではない。すなわち、どの構造体も、いろいろなポジションの人から形成されているから、父・母・子などというポジションから形成されている家族という構造体だけが、特別な存在ではないのである。それぞれの構造体にそれぞれの価値があり、その構造体に所属しているポジションにもそれぞれの価値があるのである。家族という構造体は特別な価値を有していず、父・母・子というポジションも特別な価値を有していないのである。しかし、ほとんどの人は、家族という構造体は、他の構造体と異なった、特別な価値を有し、父・母・子というポジションは、他のポジションと異なった、特別な価値を有していると思っている。それは、なぜか。それは、他の構造体のポジションは、他の人と代替できるが、家族という構造体の父・母・子というポジションは、他の人と代替できない血縁の絆があると思っているからである。子は、父と母という夫婦関係で生まれ、特に、母は、自らの肉体の一部を提供して、激しい痛みに堪えながら子を生んだから、子と父以上に、子と母に、切っても切れない、深い絆があると思っているのである。しかし、ここに、大きな落とし穴があるのである。父も母も、自分がいるからこの子はこの世に誕生でき、この世に生きていけるのだという思いから、子を対自化するとともに子を対他化するのである。対自化とは、深層心理の作用であり、「人は自己の欲望を他者に投影させる。」という言葉に集約されているように、人間は自己の欲望に他者を寄り添わせようとするのである。簡単に言えば、相手を自分の思い通りに動かそうとする行為である。しかし、人間は、一般に、他者は容易には自分の思いにならないと知っている。しかし、親は、子に対しては、自分の思い通りになると思い込み、思い通りにしようとするのである。なぜならが、親と子は血縁関係という深い絆があり、親がいるから、子はこの世に生まれることができ、この世に生きていくことができるのであるから、子は親に感謝すべきであり、言うことを聞くのは当たり前のことだと思っているからである。このような思いから、父も母も、往々にして、子を、幼児の時から、自分の思い通りに育てようとするのである。しかし、子は親の思い通りにならないのである。特に幼児の時がそうである。泣きたい時に泣き、起きたい時に起き、排泄したい時に排泄するのである。それに対して、親は、子が親を否定していると思い、子の分際で親をないがしろにしていると思って怒るのである。それが、親を、子に対して、暴力に走らせたり、冷水を浴びせたり、真夜中に家の外へ出したり、食事を与えないなどして、虐待を行わせるのである。そもそも、子は、特に、幼児は、親の立場など理解できない。親が子を養育するのは当然だと思っている。子は自分の思いだけで行動する。子にとって、親であろうと、なかろうと、血縁関係があろうとなかろうと、自分を大切に扱ってくれることが全てなのである。しかし、父や母の方では、自分が親なのだから、当然、子供は、自分の言うことを聞くべきだと思い込んでいるのである。親は、子が、自分の言うことを聞かないと、子が親を否定しているのではないか、自分に親の力量がないのではないかと思い、悩み、時には、凶行に走るのである。次に、対他化であるが、対自化と同様に深層心理の作用である。対他化は、「人は他者の欲望を欲望する。」という言葉に集約されているように、人間は、他者から好かれたいと思いで、他者に接することである。しかし、誰しも、他者の中には、自分のことを好きになってくれていない人がいることはわかっている。そういう人がいるとわかると、不愉快であるが、自分を好きになってもらうように努力するものである。ところが、親は、子に対しては、子が自分を好きでないのを許さないのである。なぜならが、親と子は血縁関係という深い絆があり、親がいるから、子はこの世に生まれることができ、この世に生きていくことができるからである。簡単に言えば、子は親に感謝すべきであり、好きになるのは当たり前のことなのである。子にとって、親であろうと、なかろうと、血縁関係があろうとなかろうと、自分を大切に扱ってくれる人が好きなのである。すると、親は、子が自分を否定しているのではないか、自分に親の力量がないのではないかと思い、悩み、時には、凶行に走るのである。しかし、それでも、子は親を慕うものである。特に、母を慕うのである。なぜならば、自らの存在の基点が母だからである。誕生の意志もなく、偶然生まれてきたから、不安であるから、それを解消するために、誕生の必然性がほしいのである。人間は、生来、寂しくて、悲しい存在者なのである。特に、両親が離婚し、母に育てられた子は、後に、必死になって、父を探し、父に育てられた子は、後に、必死になって、母を探すのである。しかし、探し出された父や母は、再婚していようとしていまいと、現在の構造体とポジションを優先するのである。会ったとしても、それ以上の関係に進もうとしないのである。どれだけ血縁関係があっても、家族という構造体があってこそ、父と子、母と子と関係が有効なのである。それは、中国の残留孤児が、日本で、実父や実母を探しても、名乗って出てこようとして来ない人が多いことからも、窺われることである。また、母子家庭の母の中には、「子供には父親が必要だから、婚活しています。」、「今、交際している人がいるのは、子供には父親が必要だからです。」、「子供のために、再婚しました。」と言う人がいるが、皆、嘘つきである。自分自身が恋人や夫を求めていたのである。しかし、恋人や夫を求めること自身は、とやかく言うことではない。異性を求めるのは人間の性だからである。しかし、子供を理由にするのは、良くない。子供にとって、平穏な家庭を乱されるのが嫌なのであり、特に、父を求めようとはしない。子は、血縁関係の父ですら嫌うことがあるのだから、血縁幻想すら存在しない、どこの馬の骨かわからない男性が突然入って来れば、ただ、戸惑い、嫌悪するばかりである。その男性が、母と愛し合っていても、子供には、慕う理由にならない。むしろ、母を奪われた嫉妬感から、憎むことが多い。また、新しく家庭に入ってきた男性も、子は親や大人に従うべきだと思い込んでいるから、自分に従わない子に対しては、暴言を吐いたり、いじめたり、暴力を振るったりする。母は、我が子をかばえば良いのに、その男性と一緒に、子供を虐待することが多い。あるテレビ番組で、女性弁護士が、「女性は、母と女とどちらを選ぶかとなると、必ず、女の方を選ぶものです。」と言っていたが、まさに、その通りである。それでも、子供は、親や新しく家庭に入り込んできた男性から、冷水を浴びせられたり、殴られたり、檻に入れられたり、食事を与えられなかったりしても、皆、「ごめんなさい。ごめんなさい。」と謝り続ける。自分が悪くないのに、ひたすら、謝り続ける。子供は、深層心理では、親や新しく入ってきた男性を嫌っているが、表層心理は、生き延びるために、謝るのである。謝罪の言葉が途切れた時、子供の生命は事切れている。

日本という構造体の状況と日本人の投企(自我その144)

2019-06-29 19:36:20 | 思想
ハイデッガーは、「現存在は、世界内存在として、生きている。」と言う。現存在とは、人間を意味する。ハイデッガーが、それを人間と表現しなかったのは、人間と表現すれば、生物学的な意味で理解されたり主観を持った存在者として理解されたり虞があるからである。ハイデッガーは、人間は、他の生物と異なり、自分の存在の本質を理解しつつ、常に、自分の生き方や行動の仕方を考慮しながら生きていると考えるから、敢えて、現存在という言葉を使ったのである。ハイデッガーの言う世界も、客観的な空間ではなく、自分の視点でとらえた、自分の周囲にある生きている空間である。そこで、ハイデッガーは、次のように述べるのである。「現存在は常に世界内存在として、事物を配慮すること及び共に存在する者に関心を向けることとして、出会ってくる人々との共存在として見られるべきもので、決してそれ自身で存立している主観として見られるべきものではない。さらに、現存在は、常に、空き地の内に立つこととして、出会ってくるものの逗留として、つまり、そこにおいて関心の的になっている出会ってくるものへの開示性として見られるべきものなのである。」つまり、ハイデッガーは、人間は、世界という自分の視点で捉えた空間の中で、いろいろなものやことや人に携わって生きていると言っているのである。そして、人間は、自らが認識した世界を、状況として捉え、状況の中で、世界に向かって働き掛ける動きをするとも言う。この、世界に向かって、みずから、働き掛けることを、ハイデッガーは投企と呼んでいる。つまり、人間は、世界に取り込まれず、常に、世界を解釈して、状況として、投企する対象として捉え、投企する方法を選択したり、決断したりして、日々、暮らしているのである。このように、世界に取り込まれず、世界を状況として解釈し、投企という世界に働きかける在り方が、自由というあり方なのである。人間が、他の生物と異なり、自由な存在であるというのは、世界を状況として解釈し、行動を選択し、決断し、自らを投企するからなのである。これが、人間が現存在として、内なる空間を世界として、すなわち、現存在が世界内存在として生きているという意味である。さて、人間は、日々の活動においては、現存在は自我になり、世界は構造体となる。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。具体的には、構造体と自我の関係は、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属しているから、常に、他者との関わりがある。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、行動するのである。それでは、自我を動かす思いとは何か。その第一の思いは、他者から評価されたいという思いである。他者から評価されると、大きな満足感・喜びを覚えるからである。人間は、自我の働きが、他者から、好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚するのである。逆に、自我の働きが認められず、他者から、悪評価・低評価を受けると、気持ちが沈み込むのである。当然のごとく、自我は、他者から、好評価・高評価を受けることを目的として、行動するようになる。他者からの評価が、絶対的なものになってくるのである。ところで、気持ちの高揚や沈み込みの感情は、自ら、意識して、自らの意志で、生み出すことはできない。意識や意志などという人間の表層心理は、感情を生み出すことができない。人間は、自分が気付かない無意識というところで、つまり、深層心理が感情を生み出しているのである。もちろん、深層心理は、恣意的に感情を生み出すのではない。深層心理は、自我の状況を把握して、感情を生み出しているのである。つまり、人間は、自らは意識していないが、深層心理が、自我の状況を理解し、感情、それと共に、行動の指針を、本人に与えるのである。だから、学校に行けば、同級生たちと仲良く過ごしていたり、会社に行けば、上司から信頼されていたりすれば、深層心理は、本人に、楽しい感情を持たせると共に学校・会社に行くようにという指針を出すのである。逆に、学校に行けば、同級生たちから継続的ないじめにあっていたり、会社に行けば、上司から毎日のように叱責されたりしていれば、深層心理は、本人に対して、嫌な感情を持たせると共に学校・会社に行かないようにという指針を出すのである。深層心理が、構造体において、自分のポジション(ステータス・地位)における役割(役目、役柄)を果たすという自我の働きが、他者から認められているかいないか考慮しているのである。人間は、常に、自分が他者からどのように思われているか気にして生きているのも、深層心理が、常に、自我が他者からどのように思われているか配慮しているからである。このような、人間の、他者の視線、評価、思いを気になるあり方は、深層心理の対他化の作用なのである。対他化とは、深層心理による、他者の視線、評価、思いを気にしている働きなのである。人間にとって、他者の視線、評価、思いは、深層心理が起こすから、気にするから始まるのではなく、気になるから始まるのである。つまり、表層心理の意志で気にするのではなく、自分の意志と関わりなく、深層心理が気にするから、気にしないでおこうと思っても、気になるのである。気になるという気持ちは、自分の心の奥底から湧いてくるから、気にならないようになりたい・気にしないでおこうと思っても、気になってしまうのである。このように、深層心理には、他者に対した時、他者を対他化し、その人が自分をどのように思っているか探っているのである。ところで、深層心理には、対他化だけでなく、対自化、共感化の機能もある。対自化とは、他者に対応するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探るのである。共感化とは、他者を、味方として、仲間として、愛し合う存在としてみることである。しかし、深層心理の働きとして、対他化が、対自化や共感化よりも、優先する。なぜならば、人間にとって、他者の存在は脅威だからである。だから、他者の自分に対する思いが最も気がかりになってくるのである。それが、また、社会的な存在としての人間を形成するのである。深層心理の対他化の働きは、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。そして、深層心理の対自化働きは、「人は自己の欲望を他者に投影させる。」(人間は、自己の欲望が他者にも存在すると感じる。人間は、自己の欲望に寄り添うかどうかで他者を判断する。人間は、自己の欲望を他者にも持たせようとする。)という言葉に集約されている。深層心理は、自我が他者より強いと思えば、他者を対自化し、自我が他者より弱いと思えば、自己を対他化し、同等の立場にあるのは共感化している時である。サルトルが、自己と他者の関わりを対自化と対他化の相克とし、対自化に持っていかなければいけないと言ったのは、当然のことである。自己と他者の関わりを相克の関係とするならば、対自化に持っていかなければいけないと考えたのは、当然のことなのである。ところで、人間は、いろいろな構造体で、自我を持ち、その構造体の現在の状態を状況として捉え、自らの行動を投企して、暮らしている。日本という構造体でも、日本人は、総理大臣・国会銀・官僚・国民などの自我を持ち、日本の現在の状態を状況として捉え、自らの行動を投企して、暮らしている。日本の現在の状況の捉え方にはいろいろあるであろう。しかし、安倍晋三総理大臣が、国家安全保障会議(NSC)を創設し、秘密保護法、集団的自衛権を強行採決で得てからは、日本は、いつでも、アメリカの指揮の下、戦争に入れる状況にあることは間違いの無いところである。安倍晋三は、内閣の支持率が低ければ、国民の目で自らを対他化して様子を窺うところであるが、支持率が高かったから、日本を戦争のできる国にしたいという自らの欲望を国民に対自化したのである。しかし、それでは、なぜ、安倍晋三は、日本をいつでも戦争できる国にしたのか。それには、三つの理由がある。一つ目の理由は、常任理事国の総理大臣になりたいがために、他の国や既にある常任理事国に、日本の軍事力を認めてもらいたかったのである。他の国や既にある常任理事国に対して、自らを対他化したのである。二つ目の理由は、自民党の憲法草案を見れば分かるように、戦前の日本のように上意下達の国にしたいからである。国民を対自化したいのである。三つ目の理由は、アメリカの力を借りて、いつでも、中国・北朝鮮・韓国と戦争できるという姿勢を見せ、敗戦を否定し、祖父の岸信介のA級戦犯・自らのA級戦犯の孫といういう汚名を返上したいからである。敗戦国という日本の構造体とA級戦犯という自我を消滅させたいのである。それでは、国民は、このような日本の状況に対して、どのように投企すべきなのだろうか。多くの国民は、安倍晋三は戦争を起こすはずがないと静観しているが、それで良いのだろうか。既に、ネット右翼、産経新聞、読売新聞、安倍晋三に共感化を示している。中国・北朝鮮・韓国を嫌悪しているからである。それとも、SEALsのように、街頭で反対運動を展開すべきなのだろうか。大江健三郎のように、自らの戦前の体験を下に、「戦後の平和・日本国憲法を守ろう。」と訴えるべきなのだろうか。それとも、武田泰淳のように、「人間は、どんな時でも、何をしてでも、生き延びようとする。いざとなったら、道徳も人道主義も吹っ飛ぶものだ。」と、人間に不信感を抱いて、行動すべきなのだろうか。それとも、大岡昇平のように、「戦争時も平和時も、人間は、変わらないものだ。いずれも、地獄のようなものだ。」と、常に、覚悟をもって行動すべきなのだろうか。いずれも、一に掛かって、自分の、状況の判断、投企の判断に掛かっている。しかし、日本の現在は、いつでも、戦争に入るという状況にあることは間違いの無いところだから、後は、自ら、判断して、投企するしかない。どれだけ状況に背を向けていても、最後には、ハイデッガーが言うように、「自らを臨死(死ぬことが逃れられないこと)の状態において、自らの投企を決断しなければならない。」という状態に追い込まれることは間違い無いだろう。いつでも戦争できる日本という構造体の状況の中での、日本人という自我の存在者の覚悟ある投企、つまり、一人一人の実存が問われる時が、必ず、訪れるのである。それも、近いうちに。

外なる空間と内なる空間について(自我その143)

2019-06-28 20:09:47 | 思想
空間は、場所、世界、宇宙と言い換えることができる。哲学では、空間は時間と共に物質界を成立させる基本形式であり、空間と時間は認識の主観的形式を担っているとされている。空間には、外なる空間と内なる空間がある。外なる空間とは、人間の周囲の環境を超えて無限に広がっていく世界を意味する。内なる空間とは、人間が慣れ親しんでいる世界、人間の周囲の環境を意味する。さて、パスカルは、自らと外なる空間の関わりについて、次のように述べている。「人間の盲目と悲惨を眺め、沈黙する全宇宙と光もなくひとり見捨てられた人間、誰が自分をそこにおいたか、何をしに自分は来たか、死んだらどうなるかも知らず、何ひとつ認識できぬまま、宇宙のこの片隅で途方に暮れているような人間を見つめるとき、私は、眠っているあいだに恐ろしい無人島に連れてこられ、目覚めると自分がどこにいるかわからず、そこから逃れる手段も無い人のように恐怖に襲われる。そして私は不思議に思う、かくも悲惨な状態であるのに、なぜ人は絶望に陥らずにいられるのかと。この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる。」パスカルは、生きるすべを与えられず、宇宙という無限の空間に放り出された人間の不安を述べているのである。そこから、次のように、「宇宙が彼をおしつぶしても、人間はかれを殺すものよりも尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢を知っているからである。宇宙は何も知らない。だから、われわれの尊厳のすべては、考えることにある。われわれが立ち上げねばならぬのはそこからであって、われわれが満たすことのできぬ空間や時間からではない。宇宙と比べれば、確かに、人間は無力である。しかし、自分の惨めさを知るが故に、偉大なのである。」と考え、考えることを自らを含めての人間の生き方の基本だと結論づけるのである。それが、有名な、「人間は、一本の葦に過ぎず。自然の中で最も弱いものである。だが、それは、考える葦である。」という言葉に、集約されている。しかし、なぜ、空間と人間を対峙させなければならないのか、なぜ、無限の空間と有限な人間として、分離して考えなければならないのか、疑問である。なぜならば、パスカルは、キリスト教徒だからである。聖書には、神が世界も人間も含めて全てこの世にあるものを創造したと記しているのだから、キリスト教徒は、人間と世界を分離して考えてはいけないのである。ヴァレリーが、パスカルの「この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる」という言葉に対して、激しく非難しているのは当然である。しかし、パスカルは、「人間は、無と無限、無価値と高貴、卑小と偉大という矛盾した二面を持ち、その二面性を知らせるのがキリスト教である。」と考え、その真摯な姿勢は一貫している。それは、パスカルが、キリスト教徒であると共に、数学者、物理学者であったから、神に対して真摯であると共に、空間や自然現象に対しても、真摯だったのである。しかし、そのような強い精神の持ち主のパスカルも、愛の存在を、自らの思考から、見出すことができず、神に頼らざるを得なかった。そして、「すべてを知っていることよりも、小さな愛の業の方が偉大である。」と説いた。最初、無限の空間よりも人間の考える行為が偉大だと説いたが、考え、知るだけでは、人間の存在の虚しさが拭えなかったからである。それは、デカルトが、「我思う、故に、我在り。」と言い、すべての存在を疑うことができるが、それを考える自己の存在だけは疑うことができないと説いたが、最終的には、自己の存在の保証を神に求めたのと同じである。愛が存在し、自己が存在するのには、神が必要だったのである。まさしく、「人は自己の欲望を他者に投影させる」のである。すなわち、人間は、愛と自己の存在の保証を求めるために神の肯定の言葉を必要とするのである。パスカルもデカルトも17世紀の人であり、17世紀には、神は教条的に天に存在することを許されず、個人の存在を保証するものとして、地上に舞い降りたのである。19世紀の小説家ドストエフスキーは、「神が存在しなければ、人間は、何もしても許される。」と言い、貧困のどん底の人間、絶望の極限の人間、悪に凝り固まった歪んだ人間の行動と心情をまざまざと描き出し、そこに、神の存在、神を必要とする人間の描き出そうとした。そこまで、人間は、追い込まれてしまったのである。そして、20世紀初年に亡くなった、ニーチェは、「神は死んだ。」と言い、神に見切りを付けた。神の不在と共に最高価値の崩落を宣言し、人間が、この世での価値を自ら生み出さなければならないと説いた。しかし、現在、まだ、それが生まれていない。神に代わるものが存在しない。神は死んだままである。そして、パスカルが、無限の空間に驚き、宇宙の広がりに畏怖し、人間は、それと真っ向から対峙できないと考え、人間の尊厳を考えることに求めたのに対し、現代人は、宇宙旅行、宇宙征服などと称して、空間を有限化し、宇宙を狭くし征服しようと目論んでいる。そこには、神を失った人間の傲慢さが如実に現れている。しかし、宇宙は地球化した果てには、そこには、絶望が広がり、待っているしかないのである。ウィトゲンシュタインは、「語り得ないものについては沈黙しなければならない。」と言ったが、現代人は、宇宙に語らせようとしているのである。それは、キリスト教徒が、神に語らせようとして、神を殺してしまったのと同じである。さて、ハイデッガーにとって内なる空間とは、世界のことである。ハイデッガーの言う世界とは、客観的な空間ではなく、自分の視点でとらえた、自分の周囲にある生きている空間を意味する。ハイデッガーは、人間を、現存在と表現する。ハイデッガーが人間を現存在と表現するのは、人間は、一般に言われているような静止的な人間像と異なり、人間は、常に、自己の存在のあり方を了解して、自己の将来に向かって、過去を反省しつつ、現在を生きていると考えているからである。ハイデッガーは、次のように述べている。「現存在は常に世界内存在として、事物を配慮すること及び共に存在する者に関心を向けることとして、出会ってくる人々との共存在として見られるべきもので、決してそれ自身で存立している主観として見られるべきものではない。さらに、現存在は、常に、空き地の内に立つこととして、出会ってくるものの逗留として、つまり、そこにおいて関心の的になっている出会ってくるものへの開示性として見られるべきものなのである。逗留は、常に、同時に何かへの振る舞いである。振る舞いにおけるわたしと『わたしの現存在』における『わたし』は、決して主観とか実体とかに関係していることとして理解してはならない。むしろ、このわたしは、純粋に、現象的に、つまり、わたしが今振る舞っているままの状態として見られるべきものなのである。誰が振る舞っているかは、まさに、わたしが今そうしている振る舞い方の中にその全てを現しているのである。」ハイデッガーは、人間は、「世界内存在」であるとして、自分の視点で捉えた空間の中で、いろいろなものやことや人に携わって生きていると言う。自分の振る舞い方の中に、自分の全てが現れていると言う。ハイデッガーにとって、そのような自分をありのままに見ることが大切なのである。人間は、世界内存在として、世界に生きている。しかし、その世界は、客観的な空間ではない。自分の視点でとらえた空間である。それ故に、人間は、世界内存在として、自分の世界に生きていると表現しているのである。しかし、人間は、視点が変化することがあり、それに応じて、世界の認識も評価も変化する。また、人間は、世界に向かって働き掛ける。この、世界に向かって、みずから、投企して働き掛ける。さらに、人間は、自らが認識した世界を、状況として捉え、状況の中で、自らの行動を選択したり、選択の迷いの末に決断することがある。つまり、人間は、世界に取り込まれず、常に、世界を解釈して、状況として、投企する対象として捉え、投企する方法を選択したり、決断したりして、日々、暮らしている。このように、世界に取り込まれず、世界を解釈し、世界に働きかける人間の在り方が、自由というあり方なのである。これが、人間が現存在として、内なる空間を世界として、すなわち、現存在が世界内存在として生きているという意味である。さて、人間は、日々の活動においては、現存在が自我になり、世界が構造体となる。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動するのである。構造体とは、人間の組織・集合体であり、例えば、家族、学校、会社、店、電車などであり、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体も構造体であ。自我とは、ある役割を担った現実の自分のあり方であり、例えば、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我がある。人間は、一人でいても、そこに、常に、他者との関わりがある。人間は、常に、ある一つの限定された構造体に所属し、ある一つの限定された自我を所持している。人間の自己がひとつの自我へと限定されるのは、おのおのの構造体において、自分の役目(ステータス、ポジション)が決まっているからである。自分の役目を、他者から認められ、自分も認めた時に、初めて、それが自我になるのである。このように、人間は、日々の具体的な営みにおいて、空間は、家族、学校、会社、店、電車、カップル、仲間などの構造体へと細分化され、おののの構造体の中で、自分の役目を担って、自我をもち、その役目に応じて活動しているのである。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、活躍することになる。自我の働きが認められ、他者から、好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚する。自我の働きが認められず、他者から、悪評価・低評価を受けると、気持ちが沈み込む。当然のごとく、自我は、他者から、好評価・高評価を受けることを目的として、行動するようになる。他者からの評価が、絶対的なものになってくるのである。構造体存在としての自我は、世界内存在としての現存在の具体化であり、他者からの評価によって動かされていると言える。人間の感情形態は、一般的に、喜怒哀楽で表されるが、喜怒哀楽は、他者の評価によって、発生する。そうして、この喜怒哀楽が、また、人間を動かしていく。このように、人間の日常生活は、自我であり、自我は、他者の評価に囚われているのである。人間は、いついかなる時でも、構造体に属し、自我を得て、自我は、他者の評価に囚われ、他者から好評価・高評価を受けることを目標に、それ繰り返して、生きているのである。我々人間は、毎日、同じことを繰り返しながら、生きている。ニーチェの言う、人間生活における、永劫回帰である。そして、いつか、予期せずして、突然、死が訪れる。人生とは、そういうものである。いつか、死が訪れるまで、毎日、同じことを繰り返しながら、生きるしかないのである。恐らく、今日と同じように、明日はやって来るだろう。そして、今日生きたように、明日も生きていくだろう。確かに、誰しも、明日がやって来ること、明日も生きていくことの確証は得ることはできない。しかし、誰しも、明日はやって来るだろう、今日と同じように、明日も生きていくだろうと思っている。意識的に、理性的に考えて、そのような結論に達したのではない。深層心理がそのように思っているから、自らも、そのように思い込んでいるのである。しかし、明日はやってこない、明日は死んでいるという確証も無いのだから、明日はやって来るだろう、明日も今日と同じように生きていくだろうと思い込んでいても、損なことはない。パスカルは、「神を信じた方が生きやすい。」と言い放ったように、明日はやって来るだろう、明日も今日と同じように生きていくだろうと思っていた方が生きやすいのである。つまり、人間が内なる空間に生きるとは、現存在が世界内存在にとして生きることであり、自我が構造体内に生きることであり、そして、毎日、それを繰り返すことなのである。そして、いつか、突然、死が訪れるのである。死が訪れるまで、永劫回帰の生活をするということが、内なる空間に生きるということなのである。何かあって、永劫回帰の生活が壊されたように見えても、いつの間にか、また、永劫回帰の生活をしていくようになるのである。死とは突然の永劫回帰の中断であるが、人類全体から見れば、それも、また、永劫回帰の一部なのである。

外なる時間と内なる時間について(自我その142)

2019-06-27 19:06:57 | 思想
時間には、外なる時間と内なる時間がある。簡潔に言えば、人間の意識に関わりなく坦々と進んでいくのが外なる時間であり、人間とともに歩むのが内なる時間である。さて、全国、至る所に廃屋という過去の遺物があり、自治体が、その処置に悩んでいる。廃屋になったのは、多くの場合、住人が亡くなったが、その家を引き継ぐ人がいず、誰も住まなくなったからである。もちろん、遺産相続人は存在するが、売れず、そうかと言って、解体するには、数百万円掛かるので放置したのである。自治体は、周辺住民の苦情もあり、景観や危険防止の面からも、解体処分しか無いと考え、遺産相続人に、それを訴えるのだが、大金が掛かるので、納得しないのである。もちろん、自治体が、解体処理費用を持つと約束すれば、遺産相続人も納得するが、本来、自治体にその義務が無い上に、住人のクレームが想像されることや予算削減の現況を考えると、二の足を踏まざるを得ないのである。そこで、全国、至る所に存在する廃屋の処分は、一向に進まないのである。しかし、同じく、過去の遺物と言っても、歴史的な建造物と呼ばれている、出雲大社、法隆寺、姫路城などを代表とする無数の過去に築かれた建物に対しては、現代の日本人は、解体処分どころか、大金を掛けて、修理・修繕しながら、残そうと考えている。それは、なぜだろうか。それは、過去の日本人が、大金を掛けて、修理・修繕しながら、残した物だからである。歴史的な建造物は、時代を超えて、生き残ったのである。言わば、歴史的な建造物は、時間に勝利したのである。だから、歴史的な建造物は、地域住民だけで無く、全国民に、魅力があるのである。歴史的な建造物は、その建物自体に魅力があるから魅力的なのではなく、時間を越えて残存するから、換言すれば、外なる時間に勝利しているから、魅力的なのである。つまり、歴史的な建造物は、その建物自体に魅力があるか否かに関わらず、魅力的なのである。現代日本人が、時間を超えて、過去の日本人と、心を通わすことができ、そのような建物を創造しなおかつ維持してきたことで、過去の日本人に誇りを持つことができ、そして、連綿と、そのような日本人の体質を受け継いできたことに喜びを感じているからである。過去が、外なる時間に打ち勝って、現代も、生きているいるから、大きな喜びを感じているのである。つまり、人間の内なる時間が外なる時間に打ち勝っているから、喜びを感じているのである。それに対して、廃屋は、住人が亡くなり、その住まいが今や朽ち果てようとし、古い時代の敗残物である。言わば、人間は外なる時間に敗北したのである。自治体や地域住民が、廃屋をできるだけ早く解体処分をしてしまおうと考えるのは、もちろん、景観や危険防止の理由もあるが、外なる時間に敗北した人間の象徴となるものを、眼前から、消去したいのである。つまり、廃屋は、外なる時間に人間が敗北していることをまざまざと見せつけるから、できるだけ早く、消去しようと考えるのである。もちろん、一般に、人間は、その事を意識していない。外なる時間だけを時間だとし、自分の内なる時間に気付いていない。だからこそ、無意識のうちに、全ての時間を内なる時間にしようとして、外なる時間と戦って、敗北し、絶望することになる。

自分を自分自身へともたらしてくれるものやこと(自我その141)

2019-06-26 18:34:28 | 思想
ハイデッガーは、実存主義の哲学者、終末期の哲学者、思想の乏しい時代の哲学者などと呼ばれ、大仰な思想を説いたように思われているが、そうではない。身近な問題を身近でない地平(視点・考え方)で考えた哲学者である。身近にある問題なのに、誰も気付いていないことを取り上げ、考え抜いた哲学者である。それ故、現代人が、「この世に、生きがいになることがあるとは考えられない。」、「生きがいになることをしたい。」、「何のために生きているのかわからない。」、「これだという真理を掴み、その真理のために生きたい。」などと悩んで、ハイデッガーの著書を繙くのは良い。しかし、ハイデッガーの思想から、有名人になる方法、他者より勝る方法、時間を有効に生かす方法、現代を情熱を持って生きる方法を見出そうとするならば、期待外れになる、ハイデッガーの著書は、自分を自分自身へともたらしてくれるものやことへの導きになることはあるが、最終的には、自分で、自分の課題を考え抜き、その解答を自分自身で見出すしかないのである。ハイデッガーは、誰にも、心には、既に課題が存在していると考えている。ハイデッガー自身、内なる課題を、自ら取り組んだのである。ハイデッガーは、自らの著書である「存在と時間」の中心命題である「現存在は、その存在において、その存在そのものが問題となっている存在者である。」について、次のように説明している。「現存在は常に世界内存在として、事物を配慮すること及び共に存在する者に関心を向けることとして、出会ってくる人々との共存在として見られるべきもので、決してそれ自身で存立している主観として見られるべきものではない。さらに、現存在は、常に、空き地の内に立つこととして、出会ってくるものの逗留として、つまり、そこにおいて関心の的になっている出会ってくるものへの開示性として見られるべきものなのである。逗留は、常に、同時に何かへの振る舞いである。振る舞いにおけるわたしと『わたしの現存在』における『わたし』は、決して主観とか実体とかに関係していることとして理解してはならない。むしろ、このわたしは、純粋に、現象的に、つまり、わたしが今振る舞っているままの状態として見られるべきものなのである。誰が振る舞っているかは、まさに、わたしが今そうしている振る舞い方の中にその全てを現しているのである。」ハイデッガーの言う「現存在」とは、端的に言えば、人間である。それを、敢えて、聞き慣れない「現存在」と表現したのは、一般に言われている人間と異なり、人間の、自己の存在を了解しつつ生きているというあり方を強調してしたいからである。ハイデッガーの言う「世界内存在」の「世界」とは、客観的な空間ではない。自分の視点でとらえた、自分の生きている空間を意味する。人間は「世界内存在」として、自分の視点で捉えた空間の中で、いろいろなものやことや人に携わって生きているのである。それが、「現存在は常に世界内存在として、事物を配慮すること及び共に存在する者に関心を向けることとして、出会ってくる人々との共存在として」の意味である。そして、自分のいろいろなものやことや人に携わり方が大切なのである。それは、他者より優れているからという理由ではない。そこに、自分の特徴が現れているからである。それが、「誰が振る舞っているかは、まさに、わたしが今そうしている振る舞い方の中にその全てを現しているのである。」の意味である。ハイデッガーにとって、自分をありのままに見ることが大切なのである。それが、「このわたしは、純粋に、現象的に、つまり、わたしが今振る舞っているままの状態として見られるべきものなのである。」の意味である。もしも、ハイデッガーに、「この世に、生きがいになることがあるとは考えられない。」、「生きがいになることをしたい。」、「何のために生きているのかわからない。」、「これだという真理を掴み、その真理のために生きたい。」などの悩みを相談をする人がいたならば、ハイデッガーは、まず、「誰しも、存在的な問題に悩むことはある。あなた一人ではない。しかし、あなたは、あなたに合った答えを導き出すことが大切なのだ。」と答えるだろう。それが、「現存在は常に、空き地の内に立つこととして、出会ってくるものの逗留として、つまり、そこにおいて関心の的になっている出会ってくるものへの開示性として見られるべきものなのである。逗留は、常に、同時に何かへの振る舞いである。」の意味である。そして、「虚心坦懐に、自分自身を見つめることだ。」とアドバイスするだろう。そして、「自分自身を見つめれば、自ずから、答えを見出せるはずだ。」と言うだろう。それが、「逗留は、常に、同時に何かへの振る舞いである。振る舞いにおけるわたしと『わたしの現存在』における『わたし』は、決して主観とか実体とかに関係していることとして理解してはならない。むしろ、このわたしは、純粋に、現象的に、つまり、わたしが今振る舞っているままの状態として見られるべきものなのである。」という言葉の意味である。しかし、虚心坦懐に自分自身を見つめようと思っても、他者の介入があると、素直に見つめることができなかったり、誤った見つめ方をしたりして、自分の存在的な課題に答えが見出せなくなる。不幸をもたらす他者が介入したために、自分の存在的な課題に答えが見出せなくなったのである。それが、ハイデッガーの言う「病気」である。不幸をもたらす他者が介入したために罹患した「病気」は、幸福をもたらす他者によって、治癒しなければいけない。幸福をもたらす他者を、ハイデッガーは「医者」と表現する。そして、ハイデッガーは、次のように言う。「人間は本質的に助けを必要としている。人間は、常に、自分を見失い、自分でどうにもならなくなる危険の中にいるからである。この危険は人間の自由に関係している。病気になり得るという問題全体が、人間のあり方の不完全さに関係している。病気は、全て、自由の喪失であり、生きる可能性の制限なのである。医者として、病人を助けようとするに当たっては、次の点に留意しなければならない。肝心の問題は、病人が実存していることなのであって、何かが機能していることではないのである。機能だけを目指しても、現存在の助けには全然ならない。現存在こそ目的とすべきものなのである。」つまり、自分の存在的な課題に答えが見出せなくなった者は、誰かの教えや著書やアドバイスを必要とする。それは、「病人」が「医者」の処方箋を必要とするのと同じである。しかし、その処方箋は、「病気」の理解や「病気」を直す参考や手引きになるかも知れないが、実際に、「病気」を治すには、「病人」が、自ら、自分の体質に合った治癒法を見つけなければいけないのである。つまり、自分の存在的な課題に答えが見出せなくなった者は、誰かの教えや著書やアドバイスを受けながらも、その答えは、自分の思考法で、自分で見つけなければならないのである。それは、カントが、「私は、哲学を教えることはできるが、哲学することを教えることができない。」と言い、学生が、自ら、「哲学すること」を編み出さなければいけないと説いたのと同じである。ハイデッガーは、自分の存在的な課題を解こうする者の基本姿勢として、次のようにアドバイスする。「最も有用なものは無用なものである。しかし、無用なものを経験すること、これこそが今日の人間にとって最も困難なことである。ここで『有用な』ものとは、直接に技術的な目的のために、つまり、何らかの効果を生み、それによって、わたしが経済をやりくりしたり生産したりできるもののために、実用的に使用できるものとして理解されている。有用なものというのは、癒やしをもたらすものという意味で、つまり、人間を人間自身へともたらしてくれるとして見なければならない。」ハイデッガーは、現代に蔓延し、中心的な、経済的な利得や便利さを追求するような思考法では、存在的な課題に答えを見出すことができないと説くのである。現代の中心的な思考法から離れて、自らの存在的な課題に沈潜し、有効な他者の思考法を導きの糸をたぐり寄せながら、自ら、存在的な課題の答えを見出さなければいけないと説くのである。存在的な課題は、本質的に、現代の中心的な経済的な利得や便利さを追求するような思考法と離反しているからである。