戦争は政治の延長であるという言葉がある。しかし、真実はそうではない。戦争は政治権力者の自我の欲望の延長である。人間は自我の欲望を満たすために生きている。なぜ、人間は自我の欲望を満たそうとするのか。それは、自我の欲望を満たせば快楽が得られ、それを満たさない間ば不愉快だからである。しかし、人間は自らを意識して思考して自我の欲望を生み出しているのではない。人間の意識しての精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は表層心理で思考して自我の欲望を生み出していないのである。人間は無意識のうちに思考して自我の欲望を生み出しているのである。人間は無意識の精神活動を深層心理と言う。すなわち、深層心理が思考して自我の欲望を生み出して人間を動かしているのである。自我の欲望は深層心理という心の奥底から湧き上がってくるから、人間は自我の欲望にとらわれて生きるしかないのである。しかも、自我の欲望は漠然とした欲望ではないからである。自我の欲望は感情と行動の指令から成り立っているのである。すなわち、深層心理が自らが生み出した感情の力で、自らが生み出した行動の指令通りに人間を動かしているのである。例えば、人間は人を殴るのは、深層心理が自らが生み出した怒りの感情の力で、自らが生み出した殴れという行動の指令通りに人間を動かしたからである。つまり、深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。戦争もまた自我の欲望である。戦争は、政治権力者の深層心理が怒りの感情と戦争を仕掛けろという自我の欲望を生み出し、政治権力者を動かしたから、起こるのである。ロシアのプーチン大統が自らの敵対勢力を暗殺するのは、ソ連時代に、KGB (ソ連国家保安委員会)職員として働き、保身欲によって、命令に従い、国家に反逆する者は官民を問わず暗殺することに慣れていたからである。さらに、支配欲によって、国家主義的な領土拡大に快楽を覚え、Nato寄りの政策を採るウクライナに怒りを覚えて、軍隊を侵攻させたのである。ハマスは領土を奪ったイスラエルを常に憎み、パレスチナ人の承認欲からイスラエルに侵攻したのである。イスラエル政府にとってハマスは目の上の瘤であり、常につぶそうと考えていたから、ハマスに侵攻を機に、支配欲によって、破壊を考え、徹底的に攻撃しているのである。ロシア、ウクライナの兵士や国民、イスラエル、ハマスの兵士は、軍隊、国という構造体に属しているから、保身欲のために戦っているのである。しかし、戦争は政治の敗北である。戦勝国も敗戦国である。戦争は自然に起こらない。戦争は自我の欲望に駆られた政治権力者に引き起こされるが、右翼が支持し、国民がやむを得ないと思うから、継続するのである。そして、多くの者が命を失うのである。もちろん、人間は、誰しも、一人では戦争を始めない。一人で戦争を始めれば、無勢の上に、必ず、自分が先頭に立ち、死ぬからである。だから、人間は、政治権力者になって、初めて、戦争を始めるのである。後方で指示するだけで、死ぬ可能性がほとんど無いからである。さらに、勝利すれば、英雄となり、敗北しても、ほとんど死ぬことは無いからである。万一、死ぬとしても、名も無き国民の後である。右翼も、一人では戦わない。恐いからである。だから、国民全体を巻き込むのである。国民全体を巻き込んで、自分が政治権力者と同じく指導者のつもりでいるのである。もちろん、実質的な指導者は政治権力者である。しかし、右翼は政治権力者に身も心も託すことによって、自分が指導者になった気でいるのである。しかし、戦争はゲームではない。戦争は、人間の自我の欲望をむき出しにさせ、戦場では、監視し裁く第三者がいないから、虐殺、拷問、レイプなどの残虐な行動が多発するのである。今や、戦争の目的は資源確保、食糧確保、領土確保・拡充ではない。もはや、経済闘争では無い。戦争の目的は、勝利して、支配欲や承認欲に基づく自我の欲望を満たして快楽を得ようとなのである。だから、なかなか勝利が得られない時。いらだち、その不満から、敵国の兵士や国民に対して、レイプ、拷問、虐殺を行うのである。レイプ、拷問、虐殺を行うことによって、支配欲を満たして快楽を得ようとするのである。現在、世界中の人間が、国に所属し、国民という自我を持っているから、常に、政治権力者に篭絡され、愛国心に突き動かされて、戦場に赴く可能性があるのである。いじめも、また、自我の欲望によって起こされた犯罪である。いじめは、仲間が一団になっていじめという共同作業をすることによって共感欲が満足させられるから起こるのである。いじめが続くのは、仲間内の共感欲が満たされ快楽を得続けるからである。それでは、どのような場合に、いじめは起こるのか。それは、深層心理の趣向性(好み)に合わない人が構造体に存在する場合である。人間は、毎日のように、学校や会社などの同じ構造体で暮らしていると、、必ず、自分が好きな人、自分が嫌いな人が出てくる。好きになった理由は、親切にされた、助けてくれたという明確なものばかりではない。嫌いになった理由も、悪口を言われた、物を盗まれたというような明確なものばかりではない。むしろ、漠然と好きになったり、嫌いになっている。深層心理が、趣向性に応じて、好き人嫌いな人を決めるのである。だから、多くの人は、自分でも気付かないうちに好きになったり、嫌いになったりしている。理由は後付けである。自分が好きになれば、それに相手が気づけば、相手も自分を好きになってくれる可能性が高い。自分が嫌えば、それに相手が気づけば、必ず、相手も自分を嫌う。だから、片方が嫌いになれば、相互に嫌いになるのである。自分が相手を嫌いだと意識するようになると、相手の挨拶の仕方、話し方、笑い方、仕草、雰囲気、声、容貌、他者に対する態度など、全てが嫌いになってくる。「坊主憎ければ袈裟まで憎い」である。とどのつまり、同じ構造体で、互いに、共に生活することが苦痛になってくる。互いに、その人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がしてくる。自分が下位に追い落とされていくような気がしてくる。いつしか、その人が不倶戴天の敵になってしまう。しかし、嫌いという理由だけで、その人をクラスやクラブなどの構造体から放逐できない。また、自分自身が、現在の構造体を出たとしても、別の構造体に見つかるかわからない。たとえ、見つかってもなじめるか不安であるから、現在の構造体にとどまるしかない。そのようにしているうちに、深層心理が、嫌いな人に攻撃することを指令するようになる。深層心理は、嫌いな人をいじめ、困らせることで、自我が上位に立ち、苦痛から逃れようとするのである。しかし、自分一人でいじめると反撃されるかも知れない。また、いじめが露見すると、周囲から顰蹙を買った上に、罰せられるかも知れない。そこで、友人たちを誘い、秘密裏に行うのである。自分には、仲間という構造体があり、共感化している友人たちがいるから、友人たちに加勢を求め、秘密裏にいじめを行うのである。友人たちも、仲間という構造体から放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。このように、いじめは、深層心理が生み出しているから、社会的に罰することしか無くす方法は無いのである。人間の好き嫌いは、深層心理の趣向性によるものだから、意志という表層心理ではどうすることもできないのである。いじめられていることを告発して、いじめをしている人を罰してやめさせるしかないのである。人間の組織・集合体という構造体がある限り、必ずいじめは発生する。確かに、いじめを訴えた被害者は、加害者と仲良くなれない。しかし、どれだけ話し合っても、いじめの加害者は、被害者を好きになることは無い。深層心理の趣向性の問題だからである。話し合っても、趣向性は変わらない。そもそも、嫌いな人間とは話をしたくないものである。必要性もなく、快楽も得られないからである。ストーカーの誕生も、また、自我の欲望によるのである。一般に、カップルという構造体が壊れた時、ストーカー誕生の素地ができる。カップルとは、互いに恋人という自我を持った人たちの構造体である。二人には、運命の人、赤い糸で結ばれているという思いができ、深い繋がりで結ばれているという思いがある。それが、愛し合うという現象である。互いに、唯一の恋人として認め合うのである。もちろん、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じる。互いに恋人と認め合えば、互いに共感欲を満足できたからである。しかし、残念なことに、恋愛関係が永遠に続くように思っていても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えない。必ず、未練が残り、辛い気持ちになる。それは、愛し合うという関係が崩壊することによって共感欲が阻害され、カップルという構造体が消滅し恋人という自我を失うことによって保身欲が阻害され、もう相手から恋人として見られないということで承認欲が阻害され、相手の愛を独占できなくなり支配欲が阻害されるからである。失恋の辛さから、相手に付きまとい、よりを戻そうとする者も現れるのである。ストーカーの誕生である。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、中には、相手に嫌がらせをしたり、相手を襲撃したり、相手をを殺したりしたりして、辛さから逃れようとする者もいるのである。深層心理は、カップルという構造体が破壊され恋人という恋人いう自我を失うことの屈辱感、辛いという感情を生み出し、人間にかくも愚かなことを行わせるのである。もちろん、人間は、ルーティーンの生活を送りたいという超自我の機能や表層心理の自我に利益をもたらそうという現実原則に基づいての思考によって、深層心理が生み出したストーカー行為という行動の指令を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した屈辱感、辛い感情が強過ぎる場合、超自我や表層心理での抑圧は深層心理が生み出したストーカー行為の指令を止めることができないのである。それほど、深層心理の感情が人間の行動を左右するのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという感情が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しいという感情が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。人間は、苦しいという情態から逃れるために、苦悩の原因となっている問題を解決しようとするのであるが、苦しいという感情から逃れられることができれば、苦悩の原因となっている問題を解決しようがしまいが、気にならないのである。なぜならば、深層心理にとって、苦しみの心境から抜け出すことが唯一の目的だからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの感情という情態が大切なのである。それは、深層心理は、常に、快楽を追い求め、不快感を忌避しているからである。さて、「子供は正直だ」という言葉があるが、この言葉こそ自我の欲望のままに行動する子供を的確に言い表している。この言葉は、大人は嘘をつくことがありだますことがあるからその言葉や行動を信用することはできないが、子供は嘘をつかずだますことが無いから信用できるという意味である。しかし、子供も嘘をついたりだますことがある。子供なりに、正直に言っていいか行動していいかか判断しているのである。それでも、一般に、子供は、大人に比べて、社会性に乏しいから、大人よりも、自我の欲望のままに正直に言い行動することが多いのである。大人も、自我の欲望のままに正直に言い行動したいから、子供の非社会的な言動に憧れるのである。大人の子供に対する憧れが、「子供は正直だ」いう誇張した表現を生み出したのである。しかし、子供の自我の欲望に対しての正直な言葉や行動は、子供の力が弱いから、笑って済まされるのである。しかし、子供は、些細なことで喧嘩を始めることがある。相手の気持ちを考えることなく、自我の欲望のままに、自分の権利を強く主張するから、簡単に喧嘩が始まるのである。それでも、子供は力が弱いから、大人はその喧嘩を止めることができる。しかし、大人が、子供のように、相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するとどうなるか。復讐合戦、殺し合いに成るのは、想像に難くない。大人が自我の欲望に対してむき出しに正直に言い行動するという幼児性を発揮すれば、悲劇、惨劇を生むのである。しかし、深層心理は、大人になっても、自我の欲望に対してむき出しに正直に言い行動するという幼児性を発揮するように、人間を動かそうとしているから、常に、悲劇、惨劇が生まれる可能性があるのである。さて、人間にとって自分とは自我である。自我とは、構造体の中で、ポジションが与えられ、それを自らのあり方とする存在者である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、構造体に所属し、他者と関わり、他人を意識しながら、自我として行動しているのである。他者とは、構造体内の人々である。他人とは、構造体外の人々である。構造体には、家族、学校、会社、店、電車、カップル、仲間、県、国などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、県という構造体では、知事、県会議員、県民などの自我があり、国という構造体では、総理大臣、国会議員、官僚、国民などの自我がある。たとえ、一人で暮らしていたとしても、孤独であっても、孤立していても、人間は、常に、構造体に所属し、他者と関わり、他人を意識しながら、暮らしているのである。
しかし、人間は自ら意識して思考して自分として行動していない。無意識の思考が自我を動かしているのである。すなわち、深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。しかし、ほとんどの人は、自ら意識して思考して行動していると思い込んでいるのである。ほとんどの人は、自ら意識して思考して行動していると思い込んでいるから、ますますそれが自覚できないのである。すなわち、ほとんどの人は、表層心理で思考して自ら主体的に動いていると思い込んでいるのである。確かに、人間は表層心理で思考する時がある。しかし、表層心理での思考は、常に、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を意識して、深層心理が思考して生み出した感情の下で、深層心理が思考して生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかの選択の審議なのである。つまり、人間は、表層心理独自で思考して行動できないのである。深層心理の思考が主で、表層心理での思考が従なのである。人間は、表層心理で深層心理に直接に働きかけることはできないのである。意識が無意識に直接に働きかけることができないことは当然のことである。しかし、深層心理は恣意的に思考しているのではない。深層心理は、ある心境の下で、自我を主体に立てて、他者に関わり、他人を意識しながら、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。深層心理は快楽を求めて思考して自我の欲望を生み出して人間を動かしているのである。それをフロイトは快感原則と呼んだ。それでは、自我の欲望とは何か。自我の欲望は感情と行動の指令が合体したものである。すなわち、深層心理は感情を動力として生み出し、深層心理が生み出した行動の指令通りに人間を動かし、快楽を得ようとするのである。それでは、深層心理は、自我がどのような状態になれば快楽が得られるのか。それは、欲動にかなった時である。そこで、深層心理は、自我の状態を欲動にかなったものにしようと思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。それでは、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望の集合体である。深層心理は、この四つの欲望に基づいて思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。保身欲とは自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。承認欲とは自我が他者に認められたいという欲望である。支配欲とは自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。共感欲とは自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。さて、深層心理は信用の下で思考しているが、心境とは何か。心境は感情と同じく深層心理の情態である。情態とは人間の心の状態を意味している。しかし、心境は深層心理を覆っている情態であり、感情は深層心理が生み出した情態である。心境とは、爽快、憂鬱など、深層心理に比較的長期に滞在する。感情は、喜怒哀楽や感動など、深層心理が行動の指令とともに突発的に生み出し、人間を行動の指令通りに動かす力になる。深層心理は、常に、ある心境の下にあり、時として、深層心理は、心境を打ち破って、行動の指令とともに感情を生み出すのである。つまり、心境が人間に毎日同じようなことを繰り返すルーティーンの生活を送らせ、感情がルーティーンの生活を打ち破る行動を人間に起こさせるのである。だから、心境が人間にルーティーンの生活を送らせている時は、人間は、無意識に行動しているのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、表層心理で、すなわち、自らを意識して自らの意志によって、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時には、心境は、後ろに退く。感情は、深層心理が自我の欲望を生みだす時に、行動の指令とともに生み出されるが、その時、心境は、後ろに退き、無力化するのである。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。なぜならば、心境も感情も、深層心理の範疇だからである。人間は、表層心理で、自ら意識して、嫌な心境や嫌な感情を変えることができないから、何かをすることに変えようとするのである。それが気分転換である。人間は、表層心理で、直接に、心境や感情に働き掛けることができないから、何かをすることによって、気分転換をし、心境や感情を変えようとするのである。つまり、人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境や感情を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境や感情を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境をや感情を変えようとするのである。また、人間は、心境や感情という情態によって、現在の自我の状態の良し悪しを判断する。つまり、情態の良し悪しが人間の現在の自我の状態の良し悪しを決定するのである。すなわち、爽快などの快い心境の情態の時には、自我が良い状態にあるということを意味し、深層心理は現在の状態を維持しようと思考するのである。深層心理は、ルーティーンの生活を維持しようと思考するのである。逆に、陰鬱などの不快な心境の情態の時には、悪い状態にあるということを意味するのである。そこで、深層心理は現在の状態を改善しようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動そうとするのである。しかし、よほど強い感情を生み出さない限り、超自我や表層心理での思考によって行動の指令は抑圧されるのである。そして、ルーティーンの生活が続くのである。さて、感情も、心境と同じく情態だが、そのあり方は異なっている。感情を具体的に表す四字熟語として喜怒哀楽があるが、喜楽などの快い感情の情態の時には、自我が良い状態にあるということを意味し、怒哀などの不快な感情の情態の時には、自我が悪い状態にあるということを意味する。深層心理が喜びの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、拍手喝采などの喜びの表現をし、他者に自らの存在を知らしめるのである。深層心理が怒りの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、他者を非難したり暴力を加えたりして、他者に自らの存在を知らしめるのである。深層心理が哀しみの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、泣くなどの哀しみの表現をし、他者に慰めてもらうのである。深層心理が楽しみの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、満足気などの楽し気な表情をし、他者の存在が気にならないのである。しかし、感情は、深層心理によって、自我の欲望として、行動の指令とともに生み出され、人間に行動の指令通りに行動させる動力になっているから、人間が行動の指令通りに行動すれば、その感情は消えていくのである。そして、自我の状況によって、深層心理は思考して、新しく、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。さて、深層心理が思考して自我の欲望を生み出して人間を動かしているが、人間は、常に、自我の欲望に従って行動するわけではない。自我の欲望に従って行動すれば、ルーティーンから外れた行動になる場合、まず、超自我という機能が自我の欲望を抑圧しようとする。超自我とは、深層心理に存在し、欲動の保身欲から発した、ルーティーンから外れた異常な行動を抑圧し、自我に毎日同じことを繰り返させようとする機能である。つまり、人間が、無意識のうちに、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を送るのは、深層心理に存在している超自我の機能によるのである。また、人間は、表層心理で自らを意識して思考することが無ければ楽だから、ルーティーンの生活を望むのである。つまり、人間が、無意識のうちに、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を送っているのは、深層心理に存在している超自我の機能によるのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強い場合、超自我は、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。超自我が深層心理が生み出したルーティーンから外れた行動の指令を抑圧できなかった場合、人間の表層心理に自我の欲望が意識に上り、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について許可するか抑圧するかを思考することになる。表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、結論を出すのに、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実的な利得を求めるとは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうとすることである。フロイトはこの志向性を現実原則と呼んだ。すなわち、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、行動の指令の諾否を審議するのである。表層心理での思考で行動の指令を拒否する結論が出れば、意志によって、行動の指令を、抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、表層心理の意志は、深層心理が生み出した動の指令を抑圧できず、そのまま行動してしまうのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。そうしているうちに、たいていの人は、いつしか苦悩が薄れ、心の傷も癒えるのである。しかし、ごくまれに、苦悩が続き、精神疾患に陥る人や苦悩から一挙に逃れようとして、罪を犯す人が現れるのである。深層心理が、常に、心境や感情という情態にあるから、人間は表層心理で自ら意識する時は、常に、ある心境やある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。デカルトの有名な言葉に「コギトーエルゴースム」(cogito,ero,sum)がある。略されて、コギトと言われる。一般に「我思う、故に、我あり。」と訳されている。その意味は「私はあらゆるものやことの存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在しているからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」である。ここから、デカルトは「私は確実に存在しているのだから、私は、理性によって、いろいろなものやことの存在を、すなわち、真理を証明することができる。」と主張する。なぜ、デカルトは、あらゆるあらゆるものやことの存在を疑ったのか。それは、「悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものやことを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせているかもしれない。」と考えたからである。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものやことを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間があらゆるものやことの存在を疑っていること行為自体も実際には存在せず、悪魔に疑っているようにだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、いろいろなものやことがそこに存在していることを前提にしなければ、思考することも活動することもできないのだから、それらの存在を疑うことは意味をなさないのである。人間は、存在の根源を問うことができるが、存在を疑うことはできないのである。聖書に「はじめに言葉ありき」とあるが、それは「はじめに存在ありき」を意味するのである。存在と無を対比して思考する人がいるが、その人にとって無は存在しているから、思考できるのである。人間が思考するものやことは既に存在しているのである。だから、デカルトがどのようなものやことの存在を疑って思考しても、疑いの思考自体がその存在を前提にして論理を展開しているから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。すなわち、存在の疑いの思考自体が無意味なのである。つまり、人間は論理的にいろいろなものやことの存在が証明できるからそれらが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、それらの存在を前提にして、思考し、活動しているのである。さて、人間は、深層心理が思考して超自我で抑圧できないほどの強い感情とルーティーンを破壊するような異常な行動の指令という自我の欲望を生み出した時、表層心理で、自我の欲望を意識し、強い感情の下で、異常な行動の指令の諾否を、現実原則の視点から思考するが、これ以外にも、自我の存在を意識して、表層心理で現実現原則の視点から思考する時がある。それは、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時である。なぜ、このような時にも、人間は、自我の存在を意識して、表層心理で現実現原則の視点から思考するのか。それは、自我にとって、他者の存在は脅威だからである。だから、人間は、他者の存在を感じた時には、必ず、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自らの心境・感情と姿勢・行動を意識することである。そして、自らの存在を意識すると同時に、表層心理での現実原則による思考が始まるのである。さらに、無我夢中で行動していても、突然、自らの存在を意識し、表層心理での現実原則による思考が始まることもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。そのように行動している時でも、突然、自らの存在を意識し、表層心理で思考することがあるのである。これも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。つまり、人間は、常に、他者の存在を警戒しているのである。それは、欲動から発する他者から認めrられたいという承認欲が深層心理に内在しているからである。だから、人間は、自由な動物でも理性的な動物でもないのである。人間は、独裁国家や全体主義国家に住んでいなくても誰かに支配されていなくても自由ではないのである。人間は、常に、深層心理が思考して生み出した自我の欲望に支配されているから自由ではないのである。人間は、自我に取り憑かれ、自我の欲望に動かされて生きているのである。
しかし、人間は自ら意識して思考して自分として行動していない。無意識の思考が自我を動かしているのである。すなわち、深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。しかし、ほとんどの人は、自ら意識して思考して行動していると思い込んでいるのである。ほとんどの人は、自ら意識して思考して行動していると思い込んでいるから、ますますそれが自覚できないのである。すなわち、ほとんどの人は、表層心理で思考して自ら主体的に動いていると思い込んでいるのである。確かに、人間は表層心理で思考する時がある。しかし、表層心理での思考は、常に、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を意識して、深層心理が思考して生み出した感情の下で、深層心理が思考して生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかの選択の審議なのである。つまり、人間は、表層心理独自で思考して行動できないのである。深層心理の思考が主で、表層心理での思考が従なのである。人間は、表層心理で深層心理に直接に働きかけることはできないのである。意識が無意識に直接に働きかけることができないことは当然のことである。しかし、深層心理は恣意的に思考しているのではない。深層心理は、ある心境の下で、自我を主体に立てて、他者に関わり、他人を意識しながら、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。深層心理は快楽を求めて思考して自我の欲望を生み出して人間を動かしているのである。それをフロイトは快感原則と呼んだ。それでは、自我の欲望とは何か。自我の欲望は感情と行動の指令が合体したものである。すなわち、深層心理は感情を動力として生み出し、深層心理が生み出した行動の指令通りに人間を動かし、快楽を得ようとするのである。それでは、深層心理は、自我がどのような状態になれば快楽が得られるのか。それは、欲動にかなった時である。そこで、深層心理は、自我の状態を欲動にかなったものにしようと思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。それでは、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望の集合体である。深層心理は、この四つの欲望に基づいて思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。保身欲とは自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。承認欲とは自我が他者に認められたいという欲望である。支配欲とは自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。共感欲とは自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。さて、深層心理は信用の下で思考しているが、心境とは何か。心境は感情と同じく深層心理の情態である。情態とは人間の心の状態を意味している。しかし、心境は深層心理を覆っている情態であり、感情は深層心理が生み出した情態である。心境とは、爽快、憂鬱など、深層心理に比較的長期に滞在する。感情は、喜怒哀楽や感動など、深層心理が行動の指令とともに突発的に生み出し、人間を行動の指令通りに動かす力になる。深層心理は、常に、ある心境の下にあり、時として、深層心理は、心境を打ち破って、行動の指令とともに感情を生み出すのである。つまり、心境が人間に毎日同じようなことを繰り返すルーティーンの生活を送らせ、感情がルーティーンの生活を打ち破る行動を人間に起こさせるのである。だから、心境が人間にルーティーンの生活を送らせている時は、人間は、無意識に行動しているのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、表層心理で、すなわち、自らを意識して自らの意志によって、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時には、心境は、後ろに退く。感情は、深層心理が自我の欲望を生みだす時に、行動の指令とともに生み出されるが、その時、心境は、後ろに退き、無力化するのである。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。なぜならば、心境も感情も、深層心理の範疇だからである。人間は、表層心理で、自ら意識して、嫌な心境や嫌な感情を変えることができないから、何かをすることに変えようとするのである。それが気分転換である。人間は、表層心理で、直接に、心境や感情に働き掛けることができないから、何かをすることによって、気分転換をし、心境や感情を変えようとするのである。つまり、人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境や感情を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境や感情を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境をや感情を変えようとするのである。また、人間は、心境や感情という情態によって、現在の自我の状態の良し悪しを判断する。つまり、情態の良し悪しが人間の現在の自我の状態の良し悪しを決定するのである。すなわち、爽快などの快い心境の情態の時には、自我が良い状態にあるということを意味し、深層心理は現在の状態を維持しようと思考するのである。深層心理は、ルーティーンの生活を維持しようと思考するのである。逆に、陰鬱などの不快な心境の情態の時には、悪い状態にあるということを意味するのである。そこで、深層心理は現在の状態を改善しようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動そうとするのである。しかし、よほど強い感情を生み出さない限り、超自我や表層心理での思考によって行動の指令は抑圧されるのである。そして、ルーティーンの生活が続くのである。さて、感情も、心境と同じく情態だが、そのあり方は異なっている。感情を具体的に表す四字熟語として喜怒哀楽があるが、喜楽などの快い感情の情態の時には、自我が良い状態にあるということを意味し、怒哀などの不快な感情の情態の時には、自我が悪い状態にあるということを意味する。深層心理が喜びの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、拍手喝采などの喜びの表現をし、他者に自らの存在を知らしめるのである。深層心理が怒りの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、他者を非難したり暴力を加えたりして、他者に自らの存在を知らしめるのである。深層心理が哀しみの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、泣くなどの哀しみの表現をし、他者に慰めてもらうのである。深層心理が楽しみの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、満足気などの楽し気な表情をし、他者の存在が気にならないのである。しかし、感情は、深層心理によって、自我の欲望として、行動の指令とともに生み出され、人間に行動の指令通りに行動させる動力になっているから、人間が行動の指令通りに行動すれば、その感情は消えていくのである。そして、自我の状況によって、深層心理は思考して、新しく、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。さて、深層心理が思考して自我の欲望を生み出して人間を動かしているが、人間は、常に、自我の欲望に従って行動するわけではない。自我の欲望に従って行動すれば、ルーティーンから外れた行動になる場合、まず、超自我という機能が自我の欲望を抑圧しようとする。超自我とは、深層心理に存在し、欲動の保身欲から発した、ルーティーンから外れた異常な行動を抑圧し、自我に毎日同じことを繰り返させようとする機能である。つまり、人間が、無意識のうちに、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を送るのは、深層心理に存在している超自我の機能によるのである。また、人間は、表層心理で自らを意識して思考することが無ければ楽だから、ルーティーンの生活を望むのである。つまり、人間が、無意識のうちに、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を送っているのは、深層心理に存在している超自我の機能によるのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強い場合、超自我は、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。超自我が深層心理が生み出したルーティーンから外れた行動の指令を抑圧できなかった場合、人間の表層心理に自我の欲望が意識に上り、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について許可するか抑圧するかを思考することになる。表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、結論を出すのに、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実的な利得を求めるとは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうとすることである。フロイトはこの志向性を現実原則と呼んだ。すなわち、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、行動の指令の諾否を審議するのである。表層心理での思考で行動の指令を拒否する結論が出れば、意志によって、行動の指令を、抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、表層心理の意志は、深層心理が生み出した動の指令を抑圧できず、そのまま行動してしまうのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。そうしているうちに、たいていの人は、いつしか苦悩が薄れ、心の傷も癒えるのである。しかし、ごくまれに、苦悩が続き、精神疾患に陥る人や苦悩から一挙に逃れようとして、罪を犯す人が現れるのである。深層心理が、常に、心境や感情という情態にあるから、人間は表層心理で自ら意識する時は、常に、ある心境やある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。デカルトの有名な言葉に「コギトーエルゴースム」(cogito,ero,sum)がある。略されて、コギトと言われる。一般に「我思う、故に、我あり。」と訳されている。その意味は「私はあらゆるものやことの存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在しているからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」である。ここから、デカルトは「私は確実に存在しているのだから、私は、理性によって、いろいろなものやことの存在を、すなわち、真理を証明することができる。」と主張する。なぜ、デカルトは、あらゆるあらゆるものやことの存在を疑ったのか。それは、「悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものやことを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせているかもしれない。」と考えたからである。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものやことを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間があらゆるものやことの存在を疑っていること行為自体も実際には存在せず、悪魔に疑っているようにだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、いろいろなものやことがそこに存在していることを前提にしなければ、思考することも活動することもできないのだから、それらの存在を疑うことは意味をなさないのである。人間は、存在の根源を問うことができるが、存在を疑うことはできないのである。聖書に「はじめに言葉ありき」とあるが、それは「はじめに存在ありき」を意味するのである。存在と無を対比して思考する人がいるが、その人にとって無は存在しているから、思考できるのである。人間が思考するものやことは既に存在しているのである。だから、デカルトがどのようなものやことの存在を疑って思考しても、疑いの思考自体がその存在を前提にして論理を展開しているから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。すなわち、存在の疑いの思考自体が無意味なのである。つまり、人間は論理的にいろいろなものやことの存在が証明できるからそれらが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、それらの存在を前提にして、思考し、活動しているのである。さて、人間は、深層心理が思考して超自我で抑圧できないほどの強い感情とルーティーンを破壊するような異常な行動の指令という自我の欲望を生み出した時、表層心理で、自我の欲望を意識し、強い感情の下で、異常な行動の指令の諾否を、現実原則の視点から思考するが、これ以外にも、自我の存在を意識して、表層心理で現実現原則の視点から思考する時がある。それは、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時である。なぜ、このような時にも、人間は、自我の存在を意識して、表層心理で現実現原則の視点から思考するのか。それは、自我にとって、他者の存在は脅威だからである。だから、人間は、他者の存在を感じた時には、必ず、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自らの心境・感情と姿勢・行動を意識することである。そして、自らの存在を意識すると同時に、表層心理での現実原則による思考が始まるのである。さらに、無我夢中で行動していても、突然、自らの存在を意識し、表層心理での現実原則による思考が始まることもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。そのように行動している時でも、突然、自らの存在を意識し、表層心理で思考することがあるのである。これも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。つまり、人間は、常に、他者の存在を警戒しているのである。それは、欲動から発する他者から認めrられたいという承認欲が深層心理に内在しているからである。だから、人間は、自由な動物でも理性的な動物でもないのである。人間は、独裁国家や全体主義国家に住んでいなくても誰かに支配されていなくても自由ではないのである。人間は、常に、深層心理が思考して生み出した自我の欲望に支配されているから自由ではないのである。人間は、自我に取り憑かれ、自我の欲望に動かされて生きているのである。