あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

戦争は政治の延長ではない。(欲動その9)

2024-02-21 02:02:30 | 思想
戦争は政治の延長であるという言葉がある。しかし、真実はそうではない。戦争は政治権力者の自我の欲望の延長である。人間は自我の欲望を満たすために生きている。なぜ、人間は自我の欲望を満たそうとするのか。それは、自我の欲望を満たせば快楽が得られ、それを満たさない間ば不愉快だからである。しかし、人間は自らを意識して思考して自我の欲望を生み出しているのではない。人間の意識しての精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は表層心理で思考して自我の欲望を生み出していないのである。人間は無意識のうちに思考して自我の欲望を生み出しているのである。人間は無意識の精神活動を深層心理と言う。すなわち、深層心理が思考して自我の欲望を生み出して人間を動かしているのである。自我の欲望は深層心理という心の奥底から湧き上がってくるから、人間は自我の欲望にとらわれて生きるしかないのである。しかも、自我の欲望は漠然とした欲望ではないからである。自我の欲望は感情と行動の指令から成り立っているのである。すなわち、深層心理が自らが生み出した感情の力で、自らが生み出した行動の指令通りに人間を動かしているのである。例えば、人間は人を殴るのは、深層心理が自らが生み出した怒りの感情の力で、自らが生み出した殴れという行動の指令通りに人間を動かしたからである。つまり、深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。戦争もまた自我の欲望である。戦争は、政治権力者の深層心理が怒りの感情と戦争を仕掛けろという自我の欲望を生み出し、政治権力者を動かしたから、起こるのである。ロシアのプーチン大統が自らの敵対勢力を暗殺するのは、ソ連時代に、KGB (ソ連国家保安委員会)職員として働き、保身欲によって、命令に従い、国家に反逆する者は官民を問わず暗殺することに慣れていたからである。さらに、支配欲によって、国家主義的な領土拡大に快楽を覚え、Nato寄りの政策を採るウクライナに怒りを覚えて、軍隊を侵攻させたのである。ハマスは領土を奪ったイスラエルを常に憎み、パレスチナ人の承認欲からイスラエルに侵攻したのである。イスラエル政府にとってハマスは目の上の瘤であり、常につぶそうと考えていたから、ハマスに侵攻を機に、支配欲によって、破壊を考え、徹底的に攻撃しているのである。ロシア、ウクライナの兵士や国民、イスラエル、ハマスの兵士は、軍隊、国という構造体に属しているから、保身欲のために戦っているのである。しかし、戦争は政治の敗北である。戦勝国も敗戦国である。戦争は自然に起こらない。戦争は自我の欲望に駆られた政治権力者に引き起こされるが、右翼が支持し、国民がやむを得ないと思うから、継続するのである。そして、多くの者が命を失うのである。もちろん、人間は、誰しも、一人では戦争を始めない。一人で戦争を始めれば、無勢の上に、必ず、自分が先頭に立ち、死ぬからである。だから、人間は、政治権力者になって、初めて、戦争を始めるのである。後方で指示するだけで、死ぬ可能性がほとんど無いからである。さらに、勝利すれば、英雄となり、敗北しても、ほとんど死ぬことは無いからである。万一、死ぬとしても、名も無き国民の後である。右翼も、一人では戦わない。恐いからである。だから、国民全体を巻き込むのである。国民全体を巻き込んで、自分が政治権力者と同じく指導者のつもりでいるのである。もちろん、実質的な指導者は政治権力者である。しかし、右翼は政治権力者に身も心も託すことによって、自分が指導者になった気でいるのである。しかし、戦争はゲームではない。戦争は、人間の自我の欲望をむき出しにさせ、戦場では、監視し裁く第三者がいないから、虐殺、拷問、レイプなどの残虐な行動が多発するのである。今や、戦争の目的は資源確保、食糧確保、領土確保・拡充ではない。もはや、経済闘争では無い。戦争の目的は、勝利して、支配欲や承認欲に基づく自我の欲望を満たして快楽を得ようとなのである。だから、なかなか勝利が得られない時。いらだち、その不満から、敵国の兵士や国民に対して、レイプ、拷問、虐殺を行うのである。レイプ、拷問、虐殺を行うことによって、支配欲を満たして快楽を得ようとするのである。現在、世界中の人間が、国に所属し、国民という自我を持っているから、常に、政治権力者に篭絡され、愛国心に突き動かされて、戦場に赴く可能性があるのである。いじめも、また、自我の欲望によって起こされた犯罪である。いじめは、仲間が一団になっていじめという共同作業をすることによって共感欲が満足させられるから起こるのである。いじめが続くのは、仲間内の共感欲が満たされ快楽を得続けるからである。それでは、どのような場合に、いじめは起こるのか。それは、深層心理の趣向性(好み)に合わない人が構造体に存在する場合である。人間は、毎日のように、学校や会社などの同じ構造体で暮らしていると、、必ず、自分が好きな人、自分が嫌いな人が出てくる。好きになった理由は、親切にされた、助けてくれたという明確なものばかりではない。嫌いになった理由も、悪口を言われた、物を盗まれたというような明確なものばかりではない。むしろ、漠然と好きになったり、嫌いになっている。深層心理が、趣向性に応じて、好き人嫌いな人を決めるのである。だから、多くの人は、自分でも気付かないうちに好きになったり、嫌いになったりしている。理由は後付けである。自分が好きになれば、それに相手が気づけば、相手も自分を好きになってくれる可能性が高い。自分が嫌えば、それに相手が気づけば、必ず、相手も自分を嫌う。だから、片方が嫌いになれば、相互に嫌いになるのである。自分が相手を嫌いだと意識するようになると、相手の挨拶の仕方、話し方、笑い方、仕草、雰囲気、声、容貌、他者に対する態度など、全てが嫌いになってくる。「坊主憎ければ袈裟まで憎い」である。とどのつまり、同じ構造体で、互いに、共に生活することが苦痛になってくる。互いに、その人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がしてくる。自分が下位に追い落とされていくような気がしてくる。いつしか、その人が不倶戴天の敵になってしまう。しかし、嫌いという理由だけで、その人をクラスやクラブなどの構造体から放逐できない。また、自分自身が、現在の構造体を出たとしても、別の構造体に見つかるかわからない。たとえ、見つかってもなじめるか不安であるから、現在の構造体にとどまるしかない。そのようにしているうちに、深層心理が、嫌いな人に攻撃することを指令するようになる。深層心理は、嫌いな人をいじめ、困らせることで、自我が上位に立ち、苦痛から逃れようとするのである。しかし、自分一人でいじめると反撃されるかも知れない。また、いじめが露見すると、周囲から顰蹙を買った上に、罰せられるかも知れない。そこで、友人たちを誘い、秘密裏に行うのである。自分には、仲間という構造体があり、共感化している友人たちがいるから、友人たちに加勢を求め、秘密裏にいじめを行うのである。友人たちも、仲間という構造体から放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。このように、いじめは、深層心理が生み出しているから、社会的に罰することしか無くす方法は無いのである。人間の好き嫌いは、深層心理の趣向性によるものだから、意志という表層心理ではどうすることもできないのである。いじめられていることを告発して、いじめをしている人を罰してやめさせるしかないのである。人間の組織・集合体という構造体がある限り、必ずいじめは発生する。確かに、いじめを訴えた被害者は、加害者と仲良くなれない。しかし、どれだけ話し合っても、いじめの加害者は、被害者を好きになることは無い。深層心理の趣向性の問題だからである。話し合っても、趣向性は変わらない。そもそも、嫌いな人間とは話をしたくないものである。必要性もなく、快楽も得られないからである。ストーカーの誕生も、また、自我の欲望によるのである。一般に、カップルという構造体が壊れた時、ストーカー誕生の素地ができる。カップルとは、互いに恋人という自我を持った人たちの構造体である。二人には、運命の人、赤い糸で結ばれているという思いができ、深い繋がりで結ばれているという思いがある。それが、愛し合うという現象である。互いに、唯一の恋人として認め合うのである。もちろん、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じる。互いに恋人と認め合えば、互いに共感欲を満足できたからである。しかし、残念なことに、恋愛関係が永遠に続くように思っていても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えない。必ず、未練が残り、辛い気持ちになる。それは、愛し合うという関係が崩壊することによって共感欲が阻害され、カップルという構造体が消滅し恋人という自我を失うことによって保身欲が阻害され、もう相手から恋人として見られないということで承認欲が阻害され、相手の愛を独占できなくなり支配欲が阻害されるからである。失恋の辛さから、相手に付きまとい、よりを戻そうとする者も現れるのである。ストーカーの誕生である。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、中には、相手に嫌がらせをしたり、相手を襲撃したり、相手をを殺したりしたりして、辛さから逃れようとする者もいるのである。深層心理は、カップルという構造体が破壊され恋人という恋人いう自我を失うことの屈辱感、辛いという感情を生み出し、人間にかくも愚かなことを行わせるのである。もちろん、人間は、ルーティーンの生活を送りたいという超自我の機能や表層心理の自我に利益をもたらそうという現実原則に基づいての思考によって、深層心理が生み出したストーカー行為という行動の指令を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した屈辱感、辛い感情が強過ぎる場合、超自我や表層心理での抑圧は深層心理が生み出したストーカー行為の指令を止めることができないのである。それほど、深層心理の感情が人間の行動を左右するのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという感情が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しいという感情が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。人間は、苦しいという情態から逃れるために、苦悩の原因となっている問題を解決しようとするのであるが、苦しいという感情から逃れられることができれば、苦悩の原因となっている問題を解決しようがしまいが、気にならないのである。なぜならば、深層心理にとって、苦しみの心境から抜け出すことが唯一の目的だからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの感情という情態が大切なのである。それは、深層心理は、常に、快楽を追い求め、不快感を忌避しているからである。さて、「子供は正直だ」という言葉があるが、この言葉こそ自我の欲望のままに行動する子供を的確に言い表している。この言葉は、大人は嘘をつくことがありだますことがあるからその言葉や行動を信用することはできないが、子供は嘘をつかずだますことが無いから信用できるという意味である。しかし、子供も嘘をついたりだますことがある。子供なりに、正直に言っていいか行動していいかか判断しているのである。それでも、一般に、子供は、大人に比べて、社会性に乏しいから、大人よりも、自我の欲望のままに正直に言い行動することが多いのである。大人も、自我の欲望のままに正直に言い行動したいから、子供の非社会的な言動に憧れるのである。大人の子供に対する憧れが、「子供は正直だ」いう誇張した表現を生み出したのである。しかし、子供の自我の欲望に対しての正直な言葉や行動は、子供の力が弱いから、笑って済まされるのである。しかし、子供は、些細なことで喧嘩を始めることがある。相手の気持ちを考えることなく、自我の欲望のままに、自分の権利を強く主張するから、簡単に喧嘩が始まるのである。それでも、子供は力が弱いから、大人はその喧嘩を止めることができる。しかし、大人が、子供のように、相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するとどうなるか。復讐合戦、殺し合いに成るのは、想像に難くない。大人が自我の欲望に対してむき出しに正直に言い行動するという幼児性を発揮すれば、悲劇、惨劇を生むのである。しかし、深層心理は、大人になっても、自我の欲望に対してむき出しに正直に言い行動するという幼児性を発揮するように、人間を動かそうとしているから、常に、悲劇、惨劇が生まれる可能性があるのである。さて、人間にとって自分とは自我である。自我とは、構造体の中で、ポジションが与えられ、それを自らのあり方とする存在者である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、構造体に所属し、他者と関わり、他人を意識しながら、自我として行動しているのである。他者とは、構造体内の人々である。他人とは、構造体外の人々である。構造体には、家族、学校、会社、店、電車、カップル、仲間、県、国などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、県という構造体では、知事、県会議員、県民などの自我があり、国という構造体では、総理大臣、国会議員、官僚、国民などの自我がある。たとえ、一人で暮らしていたとしても、孤独であっても、孤立していても、人間は、常に、構造体に所属し、他者と関わり、他人を意識しながら、暮らしているのである。
しかし、人間は自ら意識して思考して自分として行動していない。無意識の思考が自我を動かしているのである。すなわち、深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。しかし、ほとんどの人は、自ら意識して思考して行動していると思い込んでいるのである。ほとんどの人は、自ら意識して思考して行動していると思い込んでいるから、ますますそれが自覚できないのである。すなわち、ほとんどの人は、表層心理で思考して自ら主体的に動いていると思い込んでいるのである。確かに、人間は表層心理で思考する時がある。しかし、表層心理での思考は、常に、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を意識して、深層心理が思考して生み出した感情の下で、深層心理が思考して生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかの選択の審議なのである。つまり、人間は、表層心理独自で思考して行動できないのである。深層心理の思考が主で、表層心理での思考が従なのである。人間は、表層心理で深層心理に直接に働きかけることはできないのである。意識が無意識に直接に働きかけることができないことは当然のことである。しかし、深層心理は恣意的に思考しているのではない。深層心理は、ある心境の下で、自我を主体に立てて、他者に関わり、他人を意識しながら、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。深層心理は快楽を求めて思考して自我の欲望を生み出して人間を動かしているのである。それをフロイトは快感原則と呼んだ。それでは、自我の欲望とは何か。自我の欲望は感情と行動の指令が合体したものである。すなわち、深層心理は感情を動力として生み出し、深層心理が生み出した行動の指令通りに人間を動かし、快楽を得ようとするのである。それでは、深層心理は、自我がどのような状態になれば快楽が得られるのか。それは、欲動にかなった時である。そこで、深層心理は、自我の状態を欲動にかなったものにしようと思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。それでは、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望の集合体である。深層心理は、この四つの欲望に基づいて思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。保身欲とは自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。承認欲とは自我が他者に認められたいという欲望である。支配欲とは自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。共感欲とは自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。さて、深層心理は信用の下で思考しているが、心境とは何か。心境は感情と同じく深層心理の情態である。情態とは人間の心の状態を意味している。しかし、心境は深層心理を覆っている情態であり、感情は深層心理が生み出した情態である。心境とは、爽快、憂鬱など、深層心理に比較的長期に滞在する。感情は、喜怒哀楽や感動など、深層心理が行動の指令とともに突発的に生み出し、人間を行動の指令通りに動かす力になる。深層心理は、常に、ある心境の下にあり、時として、深層心理は、心境を打ち破って、行動の指令とともに感情を生み出すのである。つまり、心境が人間に毎日同じようなことを繰り返すルーティーンの生活を送らせ、感情がルーティーンの生活を打ち破る行動を人間に起こさせるのである。だから、心境が人間にルーティーンの生活を送らせている時は、人間は、無意識に行動しているのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、表層心理で、すなわち、自らを意識して自らの意志によって、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時には、心境は、後ろに退く。感情は、深層心理が自我の欲望を生みだす時に、行動の指令とともに生み出されるが、その時、心境は、後ろに退き、無力化するのである。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。なぜならば、心境も感情も、深層心理の範疇だからである。人間は、表層心理で、自ら意識して、嫌な心境や嫌な感情を変えることができないから、何かをすることに変えようとするのである。それが気分転換である。人間は、表層心理で、直接に、心境や感情に働き掛けることができないから、何かをすることによって、気分転換をし、心境や感情を変えようとするのである。つまり、人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境や感情を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境や感情を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境をや感情を変えようとするのである。また、人間は、心境や感情という情態によって、現在の自我の状態の良し悪しを判断する。つまり、情態の良し悪しが人間の現在の自我の状態の良し悪しを決定するのである。すなわち、爽快などの快い心境の情態の時には、自我が良い状態にあるということを意味し、深層心理は現在の状態を維持しようと思考するのである。深層心理は、ルーティーンの生活を維持しようと思考するのである。逆に、陰鬱などの不快な心境の情態の時には、悪い状態にあるということを意味するのである。そこで、深層心理は現在の状態を改善しようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動そうとするのである。しかし、よほど強い感情を生み出さない限り、超自我や表層心理での思考によって行動の指令は抑圧されるのである。そして、ルーティーンの生活が続くのである。さて、感情も、心境と同じく情態だが、そのあり方は異なっている。感情を具体的に表す四字熟語として喜怒哀楽があるが、喜楽などの快い感情の情態の時には、自我が良い状態にあるということを意味し、怒哀などの不快な感情の情態の時には、自我が悪い状態にあるということを意味する。深層心理が喜びの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、拍手喝采などの喜びの表現をし、他者に自らの存在を知らしめるのである。深層心理が怒りの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、他者を非難したり暴力を加えたりして、他者に自らの存在を知らしめるのである。深層心理が哀しみの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、泣くなどの哀しみの表現をし、他者に慰めてもらうのである。深層心理が楽しみの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、満足気などの楽し気な表情をし、他者の存在が気にならないのである。しかし、感情は、深層心理によって、自我の欲望として、行動の指令とともに生み出され、人間に行動の指令通りに行動させる動力になっているから、人間が行動の指令通りに行動すれば、その感情は消えていくのである。そして、自我の状況によって、深層心理は思考して、新しく、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。さて、深層心理が思考して自我の欲望を生み出して人間を動かしているが、人間は、常に、自我の欲望に従って行動するわけではない。自我の欲望に従って行動すれば、ルーティーンから外れた行動になる場合、まず、超自我という機能が自我の欲望を抑圧しようとする。超自我とは、深層心理に存在し、欲動の保身欲から発した、ルーティーンから外れた異常な行動を抑圧し、自我に毎日同じことを繰り返させようとする機能である。つまり、人間が、無意識のうちに、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を送るのは、深層心理に存在している超自我の機能によるのである。また、人間は、表層心理で自らを意識して思考することが無ければ楽だから、ルーティーンの生活を望むのである。つまり、人間が、無意識のうちに、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を送っているのは、深層心理に存在している超自我の機能によるのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強い場合、超自我は、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。超自我が深層心理が生み出したルーティーンから外れた行動の指令を抑圧できなかった場合、人間の表層心理に自我の欲望が意識に上り、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について許可するか抑圧するかを思考することになる。表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、結論を出すのに、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実的な利得を求めるとは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうとすることである。フロイトはこの志向性を現実原則と呼んだ。すなわち、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、行動の指令の諾否を審議するのである。表層心理での思考で行動の指令を拒否する結論が出れば、意志によって、行動の指令を、抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、表層心理の意志は、深層心理が生み出した動の指令を抑圧できず、そのまま行動してしまうのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。そうしているうちに、たいていの人は、いつしか苦悩が薄れ、心の傷も癒えるのである。しかし、ごくまれに、苦悩が続き、精神疾患に陥る人や苦悩から一挙に逃れようとして、罪を犯す人が現れるのである。深層心理が、常に、心境や感情という情態にあるから、人間は表層心理で自ら意識する時は、常に、ある心境やある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。デカルトの有名な言葉に「コギトーエルゴースム」(cogito,ero,sum)がある。略されて、コギトと言われる。一般に「我思う、故に、我あり。」と訳されている。その意味は「私はあらゆるものやことの存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在しているからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」である。ここから、デカルトは「私は確実に存在しているのだから、私は、理性によって、いろいろなものやことの存在を、すなわち、真理を証明することができる。」と主張する。なぜ、デカルトは、あらゆるあらゆるものやことの存在を疑ったのか。それは、「悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものやことを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせているかもしれない。」と考えたからである。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものやことを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間があらゆるものやことの存在を疑っていること行為自体も実際には存在せず、悪魔に疑っているようにだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、いろいろなものやことがそこに存在していることを前提にしなければ、思考することも活動することもできないのだから、それらの存在を疑うことは意味をなさないのである。人間は、存在の根源を問うことができるが、存在を疑うことはできないのである。聖書に「はじめに言葉ありき」とあるが、それは「はじめに存在ありき」を意味するのである。存在と無を対比して思考する人がいるが、その人にとって無は存在しているから、思考できるのである。人間が思考するものやことは既に存在しているのである。だから、デカルトがどのようなものやことの存在を疑って思考しても、疑いの思考自体がその存在を前提にして論理を展開しているから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。すなわち、存在の疑いの思考自体が無意味なのである。つまり、人間は論理的にいろいろなものやことの存在が証明できるからそれらが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、それらの存在を前提にして、思考し、活動しているのである。さて、人間は、深層心理が思考して超自我で抑圧できないほどの強い感情とルーティーンを破壊するような異常な行動の指令という自我の欲望を生み出した時、表層心理で、自我の欲望を意識し、強い感情の下で、異常な行動の指令の諾否を、現実原則の視点から思考するが、これ以外にも、自我の存在を意識して、表層心理で現実現原則の視点から思考する時がある。それは、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時である。なぜ、このような時にも、人間は、自我の存在を意識して、表層心理で現実現原則の視点から思考するのか。それは、自我にとって、他者の存在は脅威だからである。だから、人間は、他者の存在を感じた時には、必ず、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自らの心境・感情と姿勢・行動を意識することである。そして、自らの存在を意識すると同時に、表層心理での現実原則による思考が始まるのである。さらに、無我夢中で行動していても、突然、自らの存在を意識し、表層心理での現実原則による思考が始まることもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。そのように行動している時でも、突然、自らの存在を意識し、表層心理で思考することがあるのである。これも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。つまり、人間は、常に、他者の存在を警戒しているのである。それは、欲動から発する他者から認めrられたいという承認欲が深層心理に内在しているからである。だから、人間は、自由な動物でも理性的な動物でもないのである。人間は、独裁国家や全体主義国家に住んでいなくても誰かに支配されていなくても自由ではないのである。人間は、常に、深層心理が思考して生み出した自我の欲望に支配されているから自由ではないのである。人間は、自我に取り憑かれ、自我の欲望に動かされて生きているのである。




人間は何のために生きているのか。(欲動その8)

2024-02-11 16:00:42 | 思想
たいていの人は、一生のうちに、何度か、自分は何のために生きるているだろうと自問する。いったい、人間は何のために生きているのか。
端的に言えば、快楽を得るために生きているのである。しかし、人間は意識して快楽を求めて思考して行動していない。無意識に行っているのである。人間の無意識の精神活動を深層心理と言う。すなわち、深層心理が快楽を求めて思考して自我の欲望を生み出して人間を動かしているのである。それをフロイトは快感原則と呼んだ。深層心理の動きだから、人間はそれに無自覚なのである。さらに、ほとんどの人は、自ら意識して思考して行動していると思い込んでいるから、ますますそれが自覚できないのである。人間の自ら意識してのの精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は、表層心理で思考して自ら主体的に動いていると思い込んでいるから、ますます、深層心理が快感原則に基づいて思考して生み出した自我の欲望に動かされていることを自覚できないのである。だから、ほとんどの人は自らが深層心理に動かされていることに気付いていないだけでなく、気付こうとしていないのである。なぜならば、深層心理の思考が自らを動かしていることを認めると自らの主体性を否定することになるからである。同様に、ほとんどの人は、自らが快楽を求める自我の欲望に動かされていることに気付いていないだけでなく、気付こうとしていないのである。なぜならば、自らが快楽を求める自我の欲望に動かされていることを認めると自らは俗なる存在になるからである。次に、なぜ、既に生きているのに何のために生きているのかという疑問が生じるのか。それも、一生のうちに、何度もこのような疑問を繰り返すすのか。これも、また、人間は自ら意識して思考して行動していないからである。言い換えれば、人間は無意識の思考に動かされているからである。だから、無意識の思考、すなわち、深層心理の思考が難問に突き当たり解決の方向性が見出せず、さらに、自らを意識した思考、すなわち、表層心理の思考でも解決の方向性が見出せない時、自我の存在基盤が緩み、生きていること自体に疑問を覚え、自分は何のために生きているのだろうと自問するのである。解決の方向が見いだせないとは快楽を得るための自我の欲望を生み出せないことを意味する。すなわち、深層心理の思考も表層心理での思考も快楽を得るための自我の欲望を生み出せず、自らの存在が危うく感じられた時、人間は自我に自信を失い、何のために生きているのだろうと生きていることに疑問を覚えるのである。それでは、深層心理は、すなわち、人間はどのような状態になれば快楽が得られるのか。それは、自我の状態が欲動にかなったものになった時である。そこで、深層心理は、自我の状態を欲動にかなったものにしようと思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。つまり、深層心理は、自我を主体に立てて、快楽を求めて、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。それでは、感情と行動の指令という自我の欲望とは何か。自我の欲望は感情と行動の指令が合体したものである。すなわち、深層心理は感情を動力として生み出し、自らが生み出した行動の指令通りに人間を動かそうとしているのである。次に、自我とは何か。自我とは、構造体の中で、役割を担ったポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、国、県、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなど、大小さまざまなものがある。自我も、その構造体に所属して、さまざまなものがある。国という構造体では、総理大臣・国会議員・国家公務員・国民などの自我がある。県という構造体では、知事・県会議員・地方公務員・県民などの自我がある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我がある。店という構造体では、店長・店員・来客などの自我がある。電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我がある。仲間という構造体では、友人という自我がある。カップルという構造体では恋人という自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我として行動しているのである。人間は、構造体に所属し、自我を持つことによって、自分の役割・役目を認識し、それに沿って行動しているのである。社会的に生きている人間にとって、自分と自我である。肉体は同じだが、所属する構造体ごとに、異なった自我を持つて、人間は自我として行動するのである。すなわち、自分とは自我なのである。次に、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望の集合体である。深層心理は、この四つの欲望に基づいて思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。保身欲とは自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。承認欲とは自我が他者に認められたいという欲望である。支配欲とは自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。共感欲とは自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。しかし、欲動には、道徳観や社会規約を守るという欲望は存在しない。道徳観や社会規約を守るという志向性は表層心理の思考に存在しているのである。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、自我を主体に立てて、その時その場での快楽を求めて、欲動に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。しかし、人間は、必ずしも、自我の欲望に従って行動しない。自我の欲望に従って行動すれば、ルーティーンから外れた行動になる場合、まず、超自我という機能が自我の欲望を抑圧しようとする。つまり、人間が、無意識のうちに、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を送っているのは、深層心理に存在している超自我の機能によるのである。さらに、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強い場合、超自我は、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。超自我が深層心理が生み出したルーティーンから外れた行動の指令を抑圧できなかった場合、人間の表層心理に自我の欲望が意識に上り、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について許可するか抑圧するかを思考することになる。表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、結論を出すのに、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実的な利得を求めるとは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうとすることである。フロイトはこの志向性を現実原則と呼んだ。すなわち、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、行動の指令の諾否を審議するのである。表層心理での思考で行動の指令を拒否する結論が出れば、意志によって、行動の指令を、抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、表層心理の意志は、深層心理が生み出した動の指令を抑圧できず、そのまま行動してしまうのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。そうしているうちに、たいていの人は、いつしか苦悩が薄れ、心の傷も癒えるのである。しかし、ごくまれに、苦悩が続き、精神疾患に陥る人、苦悩から一挙に逃れようとして、罪を犯す人がいる。その端的な例が失恋である。言うまでもなく、失恋は、恋人がいた者にしか訪れない。数年前、ストーカー殺人事件の犯人として、男性が逮捕された。三年間交際し、彼が結婚を申し込もうと思っていた矢先、彼女から、「好きな人ができたから、別れてほしい。」と言われた。彼は説得を試みたが、彼女の気持ちは変わらなかった。諦められない彼は彼女に付きまとった。身の危険を感じた彼女は警察に相談した。警察は、彼を呼び、注意した、彼が謝罪し、納得したようなので、警察はそれ以上踏み込もうとしなかった。その三日後、会社帰りの彼女が、近所のスーパーで買い物し、アパートに入ろうとしているところを、彼が、包丁で、背後から襲い、刺殺した。なぜ、彼は彼女を殺したのか。それは、深層心理が強い怒りの感情と彼女を殺せという行動の指令を生み出したからである。失恋という傷心の苦悩から逃れるために、深層心理が強い怒りの感情と彼女を殺せという行動の指令を生み出し彼を動かしたのである。なぜ、深層心理は傷心という苦悩のるつぼにはまり込んだのか。それは、欲動の保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望全てが阻害されたからである。彼女から別れを告げられ、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという保身欲が阻害されたからである。彼女から別れを告げられ、恋人という自我を認めてもらいたいという承認欲が阻害されたからである。彼女から別れを告げられ、彼女の愛情を独占したいという支配欲が阻害されたからである。彼女から別れを告げられ、愛し合うという共感欲が阻害されたからである。深層心理は、傷心という苦悩から脱するためにはカップルという構造体を復活するさせるしか無く、様々な付きまとい方を行動の命令と生み出し、彼を動かしたが、その試みがことごとく失敗し、より嫌われ、カップルという構造体を復活するさせることはできないと思い知ったから、強い怒りの感情と彼女を殺せという行動の指令を生み出し、彼を動かしたのである。もちろん、深層心理が生み出した行動の指令であるストーカー行為も殺人も、ルーティーンから外れ、後に、処罰される行動である。だから、深層心理に内在するルーティーンを維持しようという超自我の表層心理での現実原則による思考によって抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した傷心という苦悩や怒りの感情が強過ぎる場合、超自我も表層心理の思考も抑圧できないのである。しかし、後に処罰されると表層心理でわかっているから、ストーカー行為は他人に知られないように行い、殺人はそのあと逃げ出したりその場に呆然とたたずんでいたりするのである。また、失恋が原因で精神疾患に陥る人も稀にいる。ドイツの詩人ヘルダーリンは、愛するゼゼッテが亡くなったので、精神疾患に陥り、40年間を精神的薄明のうちに過ごし、亡くなった。一般に、精神疾患は、マイナス面しか知られていない。そこには、常に、苦悩がつきまとったり、尋常な精神状態で日常生活が送られなかったりするからである。だから、誰しも、そこに陥りたくない。陥った場合には、できるだけ早く抜け出したい気持ちになるのは当然のことである。しかし、精神疾患とは、最も差し迫った問題を解決する苦悩から逃れるために、深層心理が選択した窮極の手段なのである。このような深層心理の働きを、フロイトは、防衛機制と呼んだ。しかし、深層心理は、人間を苦悩から逃れさせるために精神疾患に陥らせるが、精神疾患に陥った人間が、その後、それをどのように引きずっていくかまでは考えない。だから、精神疾患は、苦悩から逃れることには一定の効果を有するが、その後は、精神疾患それ自体が、その人を苦しめることになるのである。しかし、人間は、表層心理で、自らの意志によって、直接的に、深層心理を動かすことはできない。深層心理とは、人間の心の奥底に存在する、意識されることもなく、意志によらない、心の動き・心の働きだからである。だから、人間、誰しも、精神疾患に陥ることをを止めることができないのである。また、失恋の傷を癒やすために、自分探しの旅に出る者もいる。なぜ、自分探しをする必要があるのか。それは、恋人の愛を失ったこどで、自我に自信を失ったからである。それほどまでに、人間は、他者の評価に身を委ねて暮らしているのである。承認欲を満足させることが人生の大きな目的になっているのである。失恋し、深層心理は、自己嫌悪や自信喪失に苛まれ、この重い気分から逃れるために、人間を旅に出させ、確固たる自我を見つけさせようとするのである。すなわち、自分探しの旅とは、確固たる自我発見への旅なのである。しかし、自分探しは、必ず、失敗する。なぜならば、確固たる自我は存在していないからである。この世には、確固たる自我で生きている人は存在しないのである。人間は、皆、自我の欲望を満足させるために、生きているのである。しかし、旅は、自己嫌悪や自信喪失に苛まれ重い気分に圧迫されていた深層心理を解放させることがあるのである。なぜならば、旅は、深層心理をルーティーンの生活から解放させ、深層心理に旅人という自我を得させることによって、深層心理は、遠くから、ルーティーンの構造体や自我を見ることができるからである。そうして、深層心理は、すなわち、人間は、清新な気持ちで、日常生活に戻っていくのである。再び、ルーティーンの生活が始まるのである。そして、人間は、常に、構造体に所属し、自我として行動するのである。さらに、深層心理は、自我を主体に立てて、快楽を求めて、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かすのである。そして、深層心理の思考も表層心理での思考も快楽を得るための自我の欲望を生み出せず、自らの存在が危うく感じられた時、人間は自我に自信を失い、何のために生きているのだろうと生きていることに疑問を覚えるのである。この繰り返しで生きているのである。



神に人間を裁く資格は無い。(欲動その2)

2024-02-04 15:51:28 | 思想
多くの宗教は、神が人間をこの世に誕生させたと言う。もしそうならば、なぜ、同種同士が殺し合うような残酷な動物に創造したのか。なぜ、自らを意識しての思考による意志では行動できず、無意識のうちに思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて行動する動物に創造したのか。人間の自らを意識しての精神活動を表層心理と言う。人間の無意識の精神活動を深層心理と言う。人間は表層心理の思考による思考で行動していず、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて行動しているのである。個人間の殺し合いである殺人も、国家の殺し合いである戦争も、深層心理が思考して生み出した自我の欲望に動かされて起こした行動なのである。人間は、時には、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を、表層心理での思考の結論である意志によって抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した感情が強ければ、表層心理の意志では抑圧できず、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。その最大の悲劇が個人間の殺人であり、国家間の戦争である。プーチンの命令でロシア兵がウクライナに攻め込んで人々を殺した。ウクライナ兵は、それに応戦し、ロシア兵を殺した。戦争が始まれば、ロシア兵がウクライナ国民、ウクライナ兵に対して行っているように、どの国の兵士も、敵兵士、敵国民を拷問し、虐殺し、レイプし、敵国土が破壊するのは目に見えている。ウクライナ兵も、ロシア兵に対して、拷問し、虐殺している。今もって、戦争は終わらず、ゼレンスキーもプーチンも国民を徴兵している。彼らはは、大統領という自我の欲望を満たすためには、国民の命を犠牲にすることをいとわない。ハマスがイスラエルに侵攻し、人々を殺し、捕虜としてガザ地区に連れかえり、地下壕にの閉じ込めた。イスラエルは、復讐のために、ガザ地区に侵攻し、爆撃を加えている。ハマスも、応戦し、イスラエルを爆撃している。両国の死者は一万人を超えている。ガザ地区に追い詰められたパレスチナの人々の怒りがハマスをして残酷なことをさせたのだが、イスラエルの国民の復讐心は激しく、空からそして地上からガザ地区を焼き尽くすように攻撃している。ハマスも残酷だが、イスラエルも残酷である。しかし、残酷なのは、ロシア兵、ウクライナ兵、ハマス、イスラエル兵だけではない。日本人も、同じように、戦争になれば残虐性を発揮することは、歴史が教えてくれる。日本は、太平洋戦争を起こし、日本兵や日本人は、アジアの人々を虐殺、レイプしただけでなく、インドネシアにいたオランダ人女性をレイプし、慰安婦にするなど、残虐の限りを尽くしたのである。人間は、どこで平穏に暮らしていても、いきなり、攻められ、拷問され、レイプされ、殺される。戦いに参加したくなくても、いきなり、戦場に駆り出され、敵国の兵士や人々というだけで、殺すように仕向けられる。そして、自らも、また、見知らぬ敵国の兵士に拷問され、レイプされ、殺される。このような時代状況の中で、いったい、どのように生きていけば良いのか。まったく、五里霧中の状態で生きているのが現代の人間である。ハイデッガーは「存在の呼び声に答えた時代は存在したことが無い」と言う。有史以来、人類は戦い、拷問し合い、レイプし合い、殺し合ってきたのである。「時には娼婦のように」という歌がある。その歌詞に、「バカバカしい人生より、バカバカしいひと時がうれしい」という一節がある。まさしく、理不尽なことに満ちている世の中に生きている時には、刹那的な快楽を得ることが得策のように思われるのは当然のことである。なぜ、人間は、これほどまでに残酷になれるのだろうか。まるで、戦争であることが日常で、平穏な生活は非日常のように思われてしまう。まさしく、人間は狂気を抱えて生きているのである。正気はすぐに狂気に陥るのである。なぜならば、人間は自我の動物であり、自我の欲望に動かされて生きているからである。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、構造体の中で、自我を持って、暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、人間が、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。プーチンはロシア国という構造体で大統領という自我を持っている。ゼレンスキーはウクライナ国という構造体で大統領という自我を持っている。ハマスはガザ地区という構造体で戦闘員という自我を持っている。ネタニヤフはイスラエル国という構造体で首相という自我を持っている。人間は、構造体の中で自我を得て、初めて、人間として活動できるのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、大統領・総理大臣・国会議員・県会議員・市会議員・国民などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、自我に応じて行動する。しかし、自ら意識して思考して行動していない。人間の自ら意識した精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は表層心理で思考して意志によって行動しているのではない。人間は、無意志のうちに思考して行動しているのである。人間の無意識の精神活動を深層心理と言う。すなわち、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて行動しているのである。すなわち、深層心理が、常に、ある心境の下で、自我を主体にして、欲動に応じて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。それでは、心境、感情とは何か。心境も感情も、深層心理の情態である。深層心理は、常に、心境の下にある。心境は、気分とも表現され、爽快、陰鬱など、比較的に長期に持続する情態である。感情は、行動の指令とともに、深層心理によって瞬間的に生み出される。感情は行動の指令とともに自我の欲望を形成し、人間を行動の指令通りに動かす力になっている。感情には、喜怒哀楽などがあり、人間には内部から瞬間的に湧き上がってくる情態として感じられる。感情が湧き上がってくる時は、心境は消えている。心境は、爽快という情態にある時は、現状に充実感を抱いているという状態を意味し、深層心理は新しく自我の欲望を生み出さず、自我に、ルーティーンの行動を維持させるようにする。心境は、陰鬱という情態にある時は、現状に不満を抱き続けているという状態を意味し、深層心理は現状を改革するために、どのような自我の欲望を生み出せば良いかと思考し続ける。しかし、自我が異常な状況に陥っていると深層心理が判断しない限り、深層心理が強い感情と現状を変革するような行動の指令という自我の欲望は生み出さない。そのために、不満があっても、たいていの人はルーティーンの生活を続けていく。それほど、欲動の保身欲は強いのである。心境は、深層心理を覆っていて、深層心理も表層心理も変えることもできない。深層心理が喜びという感情を生み出した時は、現状に大いに満足しているということであり、深層心理が同時に生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が怒りという感情を生み出した時は、現状に大いに不満を抱いているということであり、深層心理が同時に生み出した行動の指令は、現状を改革・破壊しようとするものになる。深層心理が哀しみという感情を生み出した時は、現状に不満を抱いているがどうしようもないと諦めているということであり、深層心理が同時に生み出した行動の指令は、現状には触れないものになっている。深層心理が楽しみという感情を生み出した時は、将来に希望を抱いているということであり、深層心理が生み出した同時に行動の指令は、将来に向かって現状を維持しようとするものになる。深層心理に、常に、心境や感情という情態が存在しているからこそ、人間は、表層心理で、自分の存在を意識する時は、常に、ある心境やある感情という情態にある自分を意識するのである。人間にとって、心境や感情という情態こそ自らが存在していることの証になっているのである。心境は深層心理に内在し、感情は深層心理が生み出しているから、人間は、表層心理で、心境も感情を変えることができないのである。次に、深層心理が自我を主体に立てるとは何か。人間が自我になるという意味である。自我とは、構造体において他者や他人から与えられたポジションである。だから、自我は自らが作り上げたものではない。それなのに、なぜ、人間は自我にこだわって生きているのか。それは、深層心理が自我を自らの存在とするからである。自我を主体に立てるとは自我を自らの存在とすることなのである。だから、深層心理の思考は自己判断ではなく自我判断なのである。人間の思考は常に深層心理から始まるから自我判断から始まるのである。それでは、自我判断とは、何か。自我判断とは、自我の欲望を満たすために判断することを意味する。それは、深層心理が、快楽を得るために、自我の状況を欲動に応じたものにしようとして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かすことである。だから、深層心理は自己判断ができない。自己判断とは、自らの良心に従って、主体的に判断することを意味する。主体的とは、自我から離れ、そして、他者や他人によって導かれるのではなく、自らが自らの主体となって、思考や行動をすことを言う。まさしく、自我から離れ、純粋な立場の位置に自らをおかなければ、主体的な判断がはできないのである。言うまでもなく、日常生活において行われている判断は、深層心理が自我を主体に立てた自我判断である。それでは、自我判断とは、何か。自我判断とは、自我の欲望を満たすために、判断することを意味する。それでは、自我の欲望とは何か。自我の欲望とは、自我の保存・評価(他者からの評価)・発展、そして、構造体の保存・評価(他者からの評価)・発展に向かって行動することである。人間は、自我に囚われているから、そのポジションの役目を果たそうとする自我の行動とその自我が職属している構造体の存在価値を、他者から認めてほしく思っているのである。これが、自我の欲望である。つまり、自我判断とは、自我の欲望を満たすためにあるのである。そして、その欲望が満たされない時、苦しみや苦悩がもたらされるのである。しかし、人間は、自我の苦しみを自己の苦しみへと偶像化・普遍化するから、自我の苦悩を自己の苦悩へと偶像化・普遍化するから、論点がずらされ、一向に、苦しみや苦悩が解決されないのである。次に、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。深層心理は、自我の状況を、欲動の四つの欲望のいずれかをかなったものにすれ、快楽を得ることができるので、これらの欲望のいずれかに基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。つまり、深層心理は欲動に動かされているのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・・存続・発展させたいという保身欲である。深層心理は、保身欲に動かされて、人間を、毎日、同じようなことを繰り返させ、ルーティーンの生活を送らせているのである。それを担っているのが超自我という機能である。超自我とは、深層心理に存在し、欲動の保身欲から発した、異常な行動を抑圧し、自我に毎日同じことを繰り返させようとする機能である。つまり、人間が、無意識のうちに、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を送るのは、深層心理に存在している超自我の機能によるのである。また、人間は、表層心理で自らを意識して思考することが無ければ楽だから、ルーティーンの生活を望むのである。さらに、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。しかし、時には、ルーティーンから外れたことが起こる。例えば、コンビニという構造体で、店員という自我の人が、客という自我の人に応対が悪いと怒鳴られる。そのような時、店員の深層心理が思考して、怒りの感情と怒鳴った客に対して怒鳴り返せなどの行動の指令を、自我の欲望として生み出し、店員を動かそうとする。しかし、そのような時、まず、超自我という機能が働く。深層心理には、欲動の保身欲から発した、超自我という日常生活のルーティーンから外れた異常な行動の指令を抑圧しようとする機能があるである。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、超自我は、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。その場合、人間の表層心理に自我の欲望が意識される。そして、人間は、表層心理で、表層心理が生み出した感情の下で表層心理が生み出した行動の指令について検討するのである。人間は、表層心理で、自我の状況を認識して、深層心理が生み出した感情の下で、現実的な利得を求めて、道徳観や社会的規約を考慮し、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒否するか考えるのである。現実的な利得を求めるとは、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという志向性で考えることである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。人間は、表層心理で、自我の状況を意識し、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、自我にどのようなことが生じるかを、現実的な利得を得ようという視点で、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に思考するのである。この場合、コンビニの店員は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実的な利得を求めて、客に対してを怒鳴り返したならば、後に、自我に不利益がもたらされるということを考えて、怒鳴り返せという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、もしも、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎるならば、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した客に対して怒鳴り返せという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、怒鳴り返してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、後に、自我に現実的な不利益な結果をもたらすのである。また、たとえ、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した深層心理の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。さらに、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、政治権力者たちは、自国の人々を犠牲にしても、その地位にしがみつくのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。承認欲によって、深層心理は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我が見られていることを意識し、自我が認められるように、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かすのである。フランスの心理学者のラカンは、「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。つまり、人間は、主体的に思考できないのである。人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が認められない苦悩である。先の例で言えば、コンビニという構造体で、客が、対応が悪いという理由で、店員を怒鳴ったのは、客という自我が傷付けられたからである。それに対して、店員は、客に怒鳴られたから、店員としての自我が傷付けられたのである。政治権力者たちは、自国民、敵国の政治権力者、人々、そして、世界中の人々に認められようとして、戦争を起こすのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという支配欲である。支配欲を満たそうとして、深層心理は、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、他者・物・現象という対象を支配しようとしているのである。まず、他者に対する支配欲であるが、それは、他者の心を支配し、他者の行動を支配し、他者のリーダーとなることである。そうなれば、自我の力を発揮したことを意味するのである。そのために、深層心理は、他者の狙いや目標や目的などを探りながら、他者に接している。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなるような状態になれば、深層心理は、喜び・満足感という快楽が得られるのである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。政治権力者にも、自国民を支配し、他国の政治権力者、国民を支配したという欲望があるから、戦争を起こすのである。さらに、わがままも、支配欲から起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の支配欲であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の支配欲であるが、それは、自我の志向性(観点・視点)で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、支配欲が高じると、深層心理には、無の有化と有の無化という機能が生じる。無の有化とは、深層心理は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に存在しなければ、この世に存在しているように思い込んでしまうという意味である。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を存在しているように思い込んだのである。深層心理は、すなわち、人間は、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、生きていけないのである。有の無化とは、深層心理は、実際に存在しているものやことを存在していないように思い込んでしまうという意味である。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込んでしまうのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いから、いじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。深層心理は、すなわち、人間は、自己正当化できなければ生きていけないのである。次に、欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。共感欲によって、深層心理は、自我と他者が理解し合い、愛し合い、協力し合うようにしているのである。共感欲は、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、自我を他者と心を交流したり、愛し合ったり、協力し合ったりさせているのである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができ、恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えない。深層心理は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。もちろん、人間は、表層心理でストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した、承認欲が阻害され、屈辱感が強過ぎる者は、超自我や表層心理での抑圧は、深層心理が生み出したストーカー行為の指令を止めることができないのである。また、友人を作ろうとするのは、共感欲を満足させ、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするためである。中学生や高校生が、仲間という集団でいじめや万引きをすることがある。積極的にいじめや万引きに参加している者は、仲間という構造体で友人という共感欲に満足しているのである。渋々にいじめや万引きに参加している者は、仲間という構造体から追い出され友人という自我を恐れて加わっているのである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感欲が起こしているのである。政治権力者たちは、戦争をすることによって、自国民に共感欲を起こし、自らはその頂点板立つことによって支配欲を満足させ、勝利することによって自国民、敵国の政治権力者、民衆、世界中の人々から承認されようと思っているのである。このように、人間は、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて行動しているのである。個人間の殺し合いである殺人も、国家の殺し合いである戦争も、深層心理が思考して生み出した自我の欲望に動かされて起こした行動なのである。だから、人間は、どこで平穏に暮らしていても、いきなり、攻められ、拷問され、レイプされ、殺される。戦いに参加したくなくても、いきなり、戦場に駆り出され、敵国の兵士や人々というだけで、殺すように仕向けられる。そして、自らも、また、見知らぬ敵国の兵士に拷問され、レイプされ、殺される運命にあるのである。この運命から逃れるすべは現在のところ存在しない。偶然の幸運を待望するしかない。神に祈るのか。神がこのような人間を作ったのだから、神に祈っても無駄である。