あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

表層心理と深層心理の関係について(自我その18)

2019-01-31 20:06:17 | 思想
たいていの人は「人間は、常に、主体的に、自分の様子や物事のありさまや周囲の人々の様子や周囲の状況を意識し、自らの意志で思考し、判断して行動している。」と思っている。そして、「無意識のまま行動するというようなことは、虫が目に入りそうな時に瞬間的に目を閉じるという条件反射的な行動の時にしか起こらず、極めてまれである。」と思っている。つまり、たいていの人は「人間は、自分自身を含めて、常に自分や物事や周囲を意識して、主体的に行動している。無意識に行動するということは、瞬間的に身を守る時にしか起こらず、例外的である。」と思っている。つまり、「人間は、本質的に、常に、さまざまな人や物事や事柄を意識して、理性を働かせて思考し、主体的に行動する動物である。」と思っているのである。しかし、ここには、力が抜け落ちている。どのような力が意識を動かし、どのような力が理性を動かし、どのような力が主体を動かしているのかという視点が抜け落ちている。脱力の、冷静な意識、理性、主体を総称して、表層心理と言う。これに対して、ある力を伴った意識、理性、主体を総称して、深層心理と言う。次に、具体例を挙げて、表層心理、深層心理について説明しようと思う。先日、市内バスに乗っていた時、ある停留所への距離が五十メートルぐらいのところで、急停車した。そのすぐ後、運転手は、車内放送で、「すみません。自転車に乗ったおばあさんが、急に横切ったものですから。幸い、おばあさんにぶつからずにすみました。しかし、ご乗客の皆様には、ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。」と謝罪した。誰も運転手に文句を言わなかった。問題は、次に起こったことである。その停留所に降りる予定の三人がゆっくりと降り口に向かっていたが、急停車の瞬間、一番前の人はうまく吊革をつかんだが、二番目の二十代後半だと思われるOL風の女性と三番目の五十代前半だと思われるサラリーマン風の男性が将棋倒しになった。そして、二人は急いで起き上がった。すると、彼女は「どうして、私に覆い被さってきたの、あなた、痴漢なの。」と言って、いきなり、びんたした。彼は、今にも泣きそうな生気の無い顔で、「すみません。うまく立っていられなくて。」と謝った。彼女はそれでも納得していない様子であったが、運転手がその中に入り、「全ての責任は私にある」とひたすら謝って、それ以上大事にならずに、その場は何とか収まった。停留所に着きバスから降りると、彼女は彼から逃げるように駆けるように早足で歩き始め、彼はうなだれてゆっくり歩き始めた。さて、この事件をついて考えてみると、誰一人として、何の力の影響も受けていないような表層心理の下で思考し判断し行動しているのではないことがわかる。それぞれの人が、何らかの力の作用を受けて深層心理の下で思考し判断し行動している。まず、運転手であるが、彼が謝るいわれはない。むしろ、事故を回避し、自転車のおばあさんを助けたのだから、褒められてしかるべきである。また、車内に、急停車する場合があるから立っている人は常に吊革をつかんでいるようにとの注意書きがあるのだから、何ら問題は無い。それでも、謝罪したのは、大事になるとバス会社に迷惑が掛かり自分の身分が危うくなるからである。彼の深層心理にそのような力が働いたから、彼は謝罪したのである。五十代前半だと思われるサラリーマン風の男性が謝罪したのも、警察暑に連れて行かれたら、会社に知られ、自分の身分が危うくなり、家族を困らせることになるからである。私の眼前でこの事故が起こったのだから、私には、彼に非がないことがわかっている。吊革につかまっていないことで倒れたことが罪ならば、彼女も同罪である。それなのに、彼女からびんたを受けた。理不尽である。それでも謝罪したのは、彼の深層心理にそのような力が働いたからである。二十代後半だと思われるOL風の女性が怒ったのは、倒れたことの恥を糊塗するために、彼一人に罪をなすりつけようとしたものだと思われる。つまり、彼女の深層心理にそのような力が働いたから、彼女は激しく怒ったのである。しかし、彼は謝罪し、運転手も謝罪し、車内の雰囲気が彼女に同情的でなかったから、彼女は矛を収めたのである。つまり、彼女の深層心理にそのような力が働いたから、彼女は矛を収めざるを得なかったのである。さて、私についてはどうであろうか。私は、五十代前半だと思われるサラリーマン風の男性とも二十代後半だと思われるOL風の女性とも面識がなく、単なる目撃者であるから、一見、冷静に、表層心理の判断はできそうに思われる。しかし、彼が警察署に連れて行かれたら、彼をかばうつもりでいた。決して、嘘を言う気は無かった。バスの中の事件は、不可抗力であり、彼女の憎しみの表情とびんたに激しい憤りを覚えた。実を曲げて言う気は無かったが、事実を彼に有利になるように証言するつもりでいた。つまり、私にも、そのような力が、深層心理に働きかけていたのである。さて、このバスの車内の事件は、一例にしか過ぎない。しかし、人間社会に起こる全ての事象についての思考や判断や行動も、冷静な、力の入らない、表層心理によるものではなく、ある力の作用を受けた深層心理によってなされると言うことができるように思う。

本能と深層心理(自我その17)

2019-01-30 19:42:20 | 思想
人間と動物の違いを尋ねられると、一般に、「動物は本能に動かされて行動し、人間は自分の意志によって行動している。」と答えるだろう。また、「動物は、本能に動かされて無意識のまま行動している。しかし、人間は、物事を意識し、判断して行動している。その判断は意志によって行われ、無意識のまま何かに動かされて行動することは、条件反射のような、まれにしか起こらない現象である。」とより詳しく答える人もいるだろう。しかし、この答えは正しいのだろうか。確かに、動物の生態を観察してみると、同種ならば、その行動パターンに、ほとんど違いは見られない。だから、動物は本能に動かされて行動していると言えるだろう。しかし、人間についてはどうであろうか。人間は、何事も、意識し、意志によって判断して行動していると言えるだろうか。人間は、無意識のまま何かに動かされて行動することはまれであると言えるだろうか。真実は、人間は、無意識のまま何かに動かされて行動することが本質的な現象なのではないか。真実は、人間は、物事を意識し、意志によって判断して行動することがまれな現象なのではないか。この、人間が気付いていない(無意識だ)が、自分を動かす心の大きな動きが深層心理なのである。動物は本能に動かされて行動しているが、人間は深層心理に動かされて行動しているのである。確かに、人間には、自ら気付いている(意識している)意志による行動があるが、これは表層心理による行動であり、表層心理は深層心理の動きの後で起こる現象である。それ故、深層心理の動きや働きを追究することが重要なのである。深層心理は自我を動かしている。自我とは、日々の私たちの姿である、自我の満足・不満足が私たちの幸・不幸、喜び・悲しみ、誇り・自己嫌悪を決定づけているからである。

他者の目と自己意識について(自我その16)

2019-01-30 00:21:35 | 思想
1月22日、外部の弁護士などの有識者でつくる厚生労働省の第三者委員会「特別監査委員会」が、厚生労働省の統計不正に関わった職員に対する聞き取り調査をして、調査の結果報告書をまとめたが、その報告書の原案を作成したのが厚生労働省の人事課だということが露見した。さらに、その聞き取り調査に厚生労働省の幹部が同席し、その調査の一部は電話やメールで済ませていたことも露見した。そのため、「これで第三者の調査だと言えるのか。」とマスコミや野党に厳しく批判され、厚生労働大臣は再度の第三者委員会による聞き取り調査を行うことを言明した。確かに、厚生労働省の職員が厚生労働省の職員に聞き取り調査をし、報告書をまとめたのだから、第三者の調査だと言えるはずがない。厚生労働省は二度過ちを犯している。統計調査を不正に行ったこととその罪を軽くしようとして第三者委員会に介入したことである。厚生労働省に良心はあるのか。このように批判すると、必ず、不正を行ったのは不正に関わった職員は一部であり、厚生労働省の職員の大半はまじめに働いていると弁護する人が出てくる。しかし、果たして、そうだろうか。不正調査は2004年から行われていたという。そして、統計調査に関わる人は、二年ほどで異動になるという。すると、この不正に関わり、知っていた人は、数百人以上いたことになる。いや、もっと多いかも知れない。しかも、この不正の発覚は内部告発によるものではないのである。つまり、統計調査に関わった職員や統計調査の内実を知っていた職員は、皆、良心を失っていたのである。そして、不正が発覚しなかったならば、将来にわたって続けられていたはずである。むしろ、厚生労働省は不正の規模を広げようとしていたのである。なぜ、大量の職員が不正に関わり、その内実を知っていながら、止めようとしたり、告発しようとしなかったのか。それは、周囲の者が、上司を含め、皆、不正に積極的に加担していたからである。言わば、そこに他者がいなかったからである。厚生労働省は身内意識、仲間意識で動き、批判者や異端者を認めない雰囲気で動いていたのである。戦前の日本が、天皇の赤子という身内意識、仲間意識で戦争を推進し、戦争批判者を逮捕し拷問や殺すことでその存在を認めなかったのと同じである。つまり、人間の組織や集団には、他者がいなければ、堕落するのである。自分が所属している組織や集団に、他者がいない時には、自分がその他者にならなければ、自分もその組織内・集団内の人々と共に堕落するのである。そして、自分自身にも他者がいなければ、自分の現在を認識できず、自分が堕落しつつあっても、それを認識できないのである。人間は、誰しも、そばに誰かがいて、その人に見られていると思うから、自分を意識するのである。もしくは、実際に、そばに人がいなくても、人に見られていると想像したり、人に見られたことを想像したりすると、自分を意識するのである。だから、他者の視線を感じたり、他者の視線を想像したりすると、自分を意識するのである。このような人間の現象を対他化と言う。また、このような人間のあり方を対他存在と言う。それと対比して、対自化いう人間の現象がある。これは、人間が、人や物やこと見て、それを認識することを言う。もちろん、このような人間のあり方が対自存在である。そして、対他化と対自化の現象は、決して、同時に起こることはない。交互に起こる。例えば、授業中、窓際に座っている男子高校生が、窓の外の遠くに見える紅葉した山とその上の空の風景に見とれていたとする。その時、彼は対自存在のあり方をし、紅葉した山とその上の空の風景を対自化し、紅葉した山とその上の空の風景だけを認識し、自分を意識していない。自分を忘れている。しかし、教師が、それに気付き、彼に「おい、何を見ている。」と注意すると、彼は自分を意識し、自分が外の風景を見ていたことに気付き、そして、教師からは怒りを買い、生徒たちは馬鹿にして見ているだろうと想像し、穴があったら入りたい気持ちになる。この時、彼は、教師からの言葉を聞いた時点で、外の風景を見るのを止め、自分が今まで紅葉した山とその上の空の風景を見ていたことに気付き、これから教師からきつく叱られるだろう自分の姿を想像して惨めな気持ちになり、生徒たちから馬鹿にされて見られているだろうと想像し、恥ずかしい気持ちになったのである。彼は、教師に注意された時点で、対他存在のあり方をし、自らを対他化し、自らを意識し始めたのである。この場合、他者は教師と生徒たちである。彼は教師の注意で自分が外の風景を見ていたことに気付き、生徒たちの存在で馬鹿にされて見られている自らの姿を想像したのである。つまり、彼は、紅葉した山とその上の空の風景を見ている時は、教師や生徒の存在は意識に上らず、紅葉した山とその上の空の風景だけを認識していたのである。そして、教師に注意された時点で、自分が外の風景を見ていたことに気付いたのである。恐らく、教師に注意されなければ、彼はずっと紅葉した山とその上の空の風景を見ていただろう。そして、授業を放棄していただろう。また、この学校が荒れていたならば、教師の注意があっても、生徒たちは彼の仲間になり、彼をかばうから、彼やはりはずっと紅葉した山とその上の空の風景を見ていていて、授業を放棄していただろう。教師も生徒たちも、他者であったから、彼は自らを意識し、授業に戻ったのである。人間は、他者がいて、初めて、良心的な生活を送るのである。現在の厚生労働省の内部には、他者がいず、仲間ばかりだから、堕落したのである。だから、厚生労働省を立て直すには、外部に他者を置くしかない。つまり、厚生労働省に対する監査機関を新しく設置するようなことをするしかないだろう。

少女の虐待そして死亡について(自我その15)

2019-01-28 22:36:28 | 思想
2019年1月24日、千葉県野田市で、小学4年生の少女が自宅アパートで、41歳の会社員の父親に殺された。「風呂場でもみ合いになった娘が呼吸をしていない。」などと110番通報があり、警察と消防が駆けつけたところ、少女が風呂場で倒れて死亡していた。翌日、野田署は、少女の髪の毛を引っ張り、冷水シャワーを浴びせたりなどの暴行を働いたとして、傷害容疑で、父親を逮捕した。父親は、「事故だった。怪我をさせるつもりは無かった。しつけのつもりだった。」と供述している。暴行時、同アパートに、31歳の少女の母親と1歳の少女の妹もいた。野田署は、少女の体を調べると、全身に古いあざがあり、日常的に暴行を受けていたと見られた。少女は、2017年11月、小学校の先生に、父親からいじめを受けていると訴えた。そこで、学校は野田署に連絡し、野田署は虐待の疑いが濃厚だとして柏児童相談所に連絡し、柏児童相談所は一時的に少女を保護したが、家庭での養育が可能だと判断して両親の下に帰した。しかし、父親は反省することはなく、虐待を繰り返したのである。近所の人々は、「少女は、学校へはほとんど行っていなかった。数年前から、毎日のように、少女の泣き声が聞こえた。最近は、つぶれた声のようになって、恐かった。1月24日の夕方も、少女の『ぎゃー』という泣き声と父親の『うるさいって言ってんだろ』というどなり声が聞こえた。少女は、よく、夜中に外に一人で立って、寂しそうに携帯ゲームをしていた。」と話している。この事件ほど、自我に囚われた人間の残虐性を浮き彫りにしたものはない。自我とは、自分の立場に執着し、自分の立場を守るためには他の人を犠牲にすることも厭わないという人間のあり方を指す。なぜ、母親は少女を父親から守らなかったのだろうか。なぜ、父親の暴力を止めようとしなかったのだろうか。母親は外部の機関に訴えることさえ一度もしていない。子供を連れて逃げようともしていない。少女を犠牲にしてまで、今の結婚生活、今の主婦という立場を守ろうとしている。母親失格であることは言うまでもない。なぜ、柏児童相談所は少女を両親の下に帰したのであろうか。少女は児童相談所に連れてこられたのだから、母親は父親から少女を守れない頼りない人間だとわかっているはずではないか。少女は一旦児童相談所に保護されたのだから、家に戻されると、プライドが傷つけられた父親はより激しく少女を虐待することは容易に予想できることではないか。恐らく、少女を預かるのが厄介だから、家に帰したのであろう。柏児童相談所には児童相談所としての存在意義はない。かてて加えて、少女は柏児童相談所に入って、ようやく暴力から解放されたのに、大人の都合で、勝手に家に連れ戻されたのだから、少女の大人に対する不信感、家に入ることの不安感・絶望感は、想像にあまりある。少女は家に連れ戻されることが決まった時点で死んだのである。柏児童相談所の罪はあまりに重い。なぜ、少女の学校の担任や校長は動かなかったのだろうか。少女は、父親からのいじめを受けていると訴えて、柏児童相談所に保護され、そして、家に帰され、長期欠席しているのだから、父親からのいじめが再び始まったと考えるのは普通ではないか。頻繁に家庭訪問をし、少女の状態を探るのは当然のことではないか。親が会わせてくれなかったならば、警察署や児童相談所に協力を仰いで、少女に会うべきではなかったのか。やはり、担任の教諭も校長も、厄介なことに巻き込まれたくなかったのである。父親と敵対してまで少女を助けようという気概が無かったのである。小学校の教諭、校長という自分の立場だけを守ろうとしたのである。なぜ、近所の人々は、少女が毎日のように父親から暴行されているのを知っていながら、警察署や児童相談所に通報しなかったのだろうか。巷で言われている「地域で子供を育てる」という標語は画餅に過ぎないことが窺い知られる。彼らも厄介なことに関わりなかったのである。特に、少女の父親の恨みを買いたくなかったのである。だから、少女の父親が逮捕されると、安心して、マスコミのインタビューに答えているのである。彼らもまた、少女の身よりも自分の立場を大切に考えているのである。しかし、言うまでもなく、最も罪が重いのは、少女に直接暴力を振るった父親である。彼は「しつけのつもりだった。」と供述している。「しつけ」の意味を、ブリタニカ国債だ百科事典では「社会生活を適応させるために望ましい生活習慣を身につけさせること。」と記している。少女を長期に欠席させている彼に、「社会生活を適応させるために望ましい生活習慣を身につけさせる」思いがあるはずがない。彼にあるのは、「自分に適応させるために望ましい生活習慣を身につけさせる」思いだったのである、しかし、少女は彼の無理強いを拒否したと思われる。恐らく、少女は、彼に父親としての包容力も魅力も愛情も感じられず、彼の無理強いだけを感じ取って反発したので、彼は激高したのだろう。男性は、誰しも、結婚して子供を持てば父親である。しかし。これは、戸籍上の大人の世界のことであり、子供にとって父親は最初は他人である。そこが、女性と大きく異なる。女性は、誰しも、子供を持てば、戸籍上の大人の世界でも、子供にとっても最初から母親である。母親は、自分の体の一部である乳房から乳を出して子供の生命を育み、子供をいつも抱いて体を温めてやり、子供にいつも寄り添って子供に安心感を与え続けるからである。父親は父親にならなければならない。努力して父親にならなければならない。子供に父親と認められて、初めて、父親になったと言えるのである。ところが、男性の中には、勘違いしている人が多いのである。子供が成長していけば、自然と、自分を父親として尊敬し、自分の言うことを聞くと思っているのである。だから、自分を尊敬していると見えず、自分の言うことを素直に聞かない子供は、間違った方向に育ったように思い、強く、自分に合わせるような方向に軌道修正しようとするのである。その軌道修正に使われる典型的なものが暴力である。少女の父親もその一人である。しかし、一般に、父親は、待っていても、子供は父親として認めてくれない。父親が、待っていて、子供は父親として認めてくれる場合、その父親は、初めから、父親としての素養も持っているのである。やはり、一般の父親は、父親のあり方を研究し、子供のあり方を研究して、自分から父親になるようにしなければならないのである。それを全ての父親が理解しない限り、子供への暴力・暴行・いじめ・虐待はなくならないだろう。

恋愛の破局について(自我その14)

2019-01-27 21:09:40 | 思想
1月23日、さいたま市大宮区で、22歳の女性が、25歳の前橋市職員の男性に包丁で刺殺された。二人は交際していたが、昨年の9月頃に、彼女が別れ話を切り出し、その度に、彼から暴力を受けるので、警察に相談し、警察も彼に近づかないように注意し、彼も聞き入れているかのようなそぶりを見せていたという。彼は、殺害の理由を尋ねられると、「彼女と別れるのが辛かったから。」と答えているという。彼について、上司は「黙々と仕事をこなし、まじめな勤務態度だった。」と答え、高校時代同級生だった男性は「何事も一生懸命で勉強も熱心にしていた。」と答え、高校時代同じクラブだった男性は「おとなしく暗い感じがした。」と答え、近所の人は「礼儀正しくまじめな人のように見受けられた。」と答え、一様に、彼が殺人を犯したことに驚いていた。それでは、彼はどのような人なのか。まじめな人なのか。暗い人なのか。礼儀正しい人なのか。それとも、マスコミがいつも追求するように、まじめを装いながら実は裏の顔を持っているのか。しかし、一つに決められないのである。しかし、少なくとも、裏の顔を持っているということはない。人間には裏の顔など存在しないのである。全てが表の顔である。四つの顔(職場の上司に見えた顔、高校時代の同級生に見えた顔、高校時代の同じクラブの生徒に見えた顔、近所の人に見えた顔)、これら全て彼の表の顔である。彼の氏名や肉体は一つであるが、構造体(空間=場所)とその中の人間関係によって、微妙にもしくは大いに、彼の印象は異なってくるのである。すなわち、ここに見えているのは、前橋市役所という構造体の中の上司との人間関係はうまくいき、高校時代のクラスという構造体の中の友人関係はうまくいき、高校時代のクラブという構造体の仲間という人間関係では疎遠になり、近所という構造体の中の人間関係はうまくいっていたということだけなのである。だから、各構造体においての彼の顔が異なるのは当然なのである。そして、彼自身も、前橋市役所という構造体の中では職員の顔をし、高校時代のクラスという構造体の中では級友という顔をし、高校時代のクラブという構造体の中では部員という顔をし、近所という構造体の中では近所に暮らしている人という顔をして、明確に顔を使い分けているのである。だから、必然的に各構造体においての彼に対する印象が異なっているだけでなく、彼自身が異なった役割をこなしているのである。しかし、それでも、四つの構造体の人々は、一様に、彼の犯行に驚いている。それでは、この四つの構造体と恋愛という五つ目の構造体のどこが異なるのだろうか。それは、この四つの構造体は壊れていないが、恋愛という五つ目の構造体は壊れたということである。つまり、この四つの構造体から彼は追い出されていないが、恋愛という五つ目の構造体から追い出されたのである。彼は彼女を愛していて、恋愛という構造体を支えようとしていたが、彼女は愛の終わりを告げ、恋愛構造体を破壊したのである。そこで、彼には彼女が生きている間は、彼は恋愛構造体から追い出されたことの屈辱から逃れることができない辛さ、彼女をまだ愛しているのにもう二度と恋愛という構造体を彼女と築くことができないという絶望感から来る苦しさから、彼は彼女をこの世から抹殺しようと思い立ったのである。しかし、決して、彼は異常心理の持ち主ではない。彼の苦悩は失恋者共通の苦悩である。ただ、彼のように実行する人が少数なだけなのである。