あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間の精神の動きについて。(欲動その12)

2024-03-25 17:30:11 | 思想
人間は苦痛があるから考えるのである。苦痛は自我が異常な状態にあることを示している。苦痛には肉体的なものと精神的なものがあり、肉体的な苦痛は肉体的に異状があることを、精神的な苦痛は精神的に異状があることを示しているのである。だから、苦痛は単なる感覚ではない。苦痛は人間をして肉体的な異状や精神的な異状の除去を考えるように強制するのである。苦痛があるからこそ、人間は、肉体的な異状や精神的な異状の原因を考え、苦痛から解放される方法を考えるのである。苦痛がある間、人間は肉体的な異状や精神的な異状を改善する方法を考え続けるのである。さて、考えるという精神的な行動と同じような精神的な行動に思うがある。しかし、考えるは思うと同じではない。考えるということは、自我に差し迫ってくる事象を苦痛に感じ、その苦痛から解放されるための方法を考えている状態である。思うということは、自らの欲望がかなった状態にある自我を思い描いている状態である。だから、思うということの対象の中には、自我に差し迫ってくるような事象は存在せず、期待通りの事象が存在する。それ故に、考えるということには常に苦痛の中で行うが、思うということには常に快楽の中で行うのである。思想という言葉があるが、思考と異なり、思も想も同じ意味である。思想は思うことであり、懸想は異性に思いを掛けることであり、想像は良いことを思い浮かべることであり、理想は自分が期待通りのすばらしい状態にあることを思い描くことであり、空想は現実にはあり得ないすばらしいことをいろいろと思いめぐらすことである。だから、考える対象は苦痛の現実であるが、思う対象は空想、理想の対象なのである。人間にとってありのままの対象は存在せず、考える苦痛の対象になっているか思う喜びの対象になっているかなのである。さて、言うまでもなく、誰しも、快楽を歓迎し、苦痛を忌避する。それでも、苦痛があるのはなぜか。それは、深層肉体と深層心理が苦痛を生み出し、意志の及ばないところで生み出しているからである。深層肉体とは人間の無意識の肉体の活動であり、深層心理とは人間の無意識の精神の活動である。もちろん、肉体的な苦痛は深層肉体が生み出し、精神的な苦痛は深層心理が生み出している。深層肉体は欲求が阻害された時、苦痛を生み出すのである。欲求とは、深層肉体に内在し、ひたすら生きようという深層肉体を動かす意志である。深層心理は欲望が阻害されたから苦痛を生み出したのである。欲動とは、深層心理に内在し、深層心理の思考を動かす、四つの欲望である。欲動の第一の欲望が自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。欲動の第二の欲望が自我が他者に認められたいという承認欲である。欲動の第三の欲望が自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという支配欲である。欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は欲動の四つの欲望のいずれかが阻害された時、苦痛を生み出すのである。苦痛は、深層肉体・深層心理という無意識によって生み出されるから、人間はその誕生を阻止できないのである。苦痛は人間に苦しみをもたらすから、人間はその除去の方法を表層心理で考えるのである。表層心理とは、人間の自らを意識しての精神の活動である。すなわち、苦痛が起こると、人間は自らの状態を意識して、その除去の方法を考えるのである。しかし、深層肉体、深層心理は、苦痛をして、肉体の異状、精神の異状を人間に、知らせ、その対処を求めるだけでなく、自らもその治癒に励むのである。だから、人間は苦痛に耐え続ければ、ほとんどの異状は治癒し、苦痛がなくなるのである。苦痛のの消滅が治癒の証なのである。しかし、人間には、たいていの苦痛に耐えきれず、それが永遠に続くように思われるので、表層心理で、自らの状態を意識して、その除去の方法を考えるのである。そして、苦痛が収まれば、再び、人間はルーティーンという毎日同じことを繰り返す生活を始めるのである。つまり、肉体的にしろ精神的にしろ、苦痛が無ければ、人間はルーティーンという毎日同じことを繰り返す生活を維持し、苦痛が起こると、ルーティーンという平穏な生活が打ち破られ、人間は表層心理でその除去の方法を考えるのである。例えば、指に苦痛が走る時がある。それはルーティーンの生活が打ち破られたことを意味する。すると、人間は、その指を見つめ、怪我していことに気づき、苦痛のの原因とそれから解放される方策を考えるのである。人間は、料理をしている時、誤って、包丁で指を切る時がある。指に痛みが走ったから、指を見つめ、出血し、怪我したことに気付き、表層心理で、傷の治療を考えるのである。指に痛みが無ければ、指を見つめることもなく、そのままの調子で包丁を使い続ける。しかし、表層心理で思考して、治療しなくても、深層肉体は、血小板が血液を固めて傷口を塞ぎ、白血球が細菌を殺し、怪我をした個所に向かう。そうして、暫くすると、損傷した個所は復元するのである。しかし、指の苦痛は非日常的なことだから、苦痛があると、表層心理で、指の傷をみつめ、それを意識して、応急手当を考えるのである。逆に言えば、苦痛が無いことは、人間にとって、異常な状態では無いことを意味しているのである。もちろん、苦痛は肉体だけではなく、精神にも起こる。例えば、人間は、他者に侮辱されて、心に痛みを感じることがある。自我が下位に落とされ、心が傷付いたから、痛みを感じたのである。傷付くと同時に心に痛みが生じるのである。深層心理が他者の言葉を侮辱と捉え、自我が他者に認められたいという欲動の第二の欲望である承認欲が阻害されたから、傷付き、苦痛を覚えたのである。そのような時、深層心理は、自我の欲望として、怒りという感情と殴れなどの行動の指令を生み出し、人間を動かそうとする。深層心理は、心を傷つけた他者を殴るなどの復讐をすることによって他者の自我を貶め、貶められた自らの自我を復位させようとするのである。深層心理は、常に、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、感情を動力として、行動の指令通りに人間を動かそうとしているのである。感情の最も強いものは怒りである。深層心理が怒りという感情と殴れという行動の指令を生み出せば、怒りという強い感情は強い動力となり、自我となっている人間に殴ることを強く促すのである。しかし、そのような時、まず、無意識のうちに、超自我が、深層心理が生み出した殴れという行動の指令を抑圧しようとする。超自我とは、深層心理に内在する欲動の凱一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から発したルーティーンの生活を守ろうとする機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強すぎる場合、深層が生み出した殴れという行動の指令を、超自我は抑圧できないのである。そのような場合、すなわち、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、自らを意識して思考して、行動しようとする。人間が、表層心理で自我の状態を意識して思考するのは、深層心理がルーティーンの生活を打ち破ろうとする怒りの感情を生み出し、超自我が行動の指令を抑圧できなかったからである。人間は、表層心理で思考して、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議する。表層心理の現実的な利得を求めて思考するあり方を、フロイトは現実原則と呼んだ。現実原則からすれば、当然のごとく、殴れという行動の指令は抑圧する結論になる。抑圧する理由は二つある。一つは、殴った後、他者から、どのような復讐を受けるかわからないからである。もう一つは、殴った後、構造体という他者の集団から顰蹙を買い、社会という他人の集団から非難され罰せられる可能性が高いからである。他者とは構造体内の人々であり、他人とは構造体外の人々である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我の抑圧の機能も表層心理での思考による抑圧の意志も、深層心理が生み出した殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、他者を殴り、構造体から顰蹙を買い、社会から非難や処罰を受けるのである。このように、肉体的な苦痛や精神的な苦痛があれば、人間は、表層心理で、自らの状態を意識して思考し、肉体的にも精神的にも苦痛が無ければ、人間は、無意識のうちに、ルーティーンの生活を続けるのである。それでは、人間の日常生活の精神はどのような状態にあるか。深層心理が、常に、心境の下で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとしているのである。それでは、自我とは何か。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属して、自我として生きているのである。構造体には、学校、会社、店舗、施設、市役所、夫婦、家族、仲間、カップルなどがある。学校という構造体には生徒・教諭・校長などの自我、会社という構造体には社員・課長・社長などの自我、店舗という構造体には客・店員・店長などの自我、施設という構造体には所員・所長などの自我、市役所という構造体には職員・助役・市長などの自我、夫婦という構造体には夫・妻という自我、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我、仲間という構造体には友人という自我、カップルという構造体には恋人いう自我がある。人間は、自我を持って、初めて、動物から離れ、人間として暮らしていけるのである。自我を持つ前の人間は、深層肉体の生きようという欲求を満足させるためだけに生きているのである。次に、心境とは何か。心境とは、感情と共に、深層心理の情態である。心境は、気分とも表現される。深層心理は、常に、心境の下にある。心境はルーティンの生活を維持しようとし、感情はそれを打ち破ろうとする。感情が湧き上がれば、その時は、心境が消える。心境と感情は並び立たないのである。心境は、爽快、陰鬱など、長期に持続する情態であり、感情は、喜怒哀楽など、瞬間的に湧き上がる情態である。感情は、深層心理によって、行動の指令と同時に生み出され、行動の指令を行う動力になる。深層心理が爽快という心境にある時は、現状に充実感を抱いているという状態を意味し、深層心理は新しく自我の欲望を生み出さず、自我に、ルーティーンの行動を繰り返させようとする。深層心理が陰鬱という心境にある時は、現状に不満を抱き続けているという状態を意味し、深層心理は現状を改革するために、どのような自我の欲望を生み出せば良いかと思考し続ける。深層心理が喜びという感情を生み出した時は、現状に大いに満足しているということであり、深層心理が喜びという感情とともに生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が怒りという感情を生み出した時は、現状に大いに不満を抱いているということであり、深層心理が怒りという感情ととみに生み出した行動の指令は、現状を改革・破壊しようとするものになる。深層心理が哀しみという感情を生み出した時は、現状に不満を抱いているがどうしようもないと諦めているということであり、深層心理が哀しみという感情ととみに生み出した行動の指令は、現状には触れないものになっているのである。深層心理が楽しみという感情を生み出した時は、将来に希望を抱いているということであり、深層心理が楽しみという感情とともに生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が、常に、心境や感情という情態が覆われているからこそ、人間は、表層心理で、自分の存在を意識する時は、常に、ある心境やある感情という情態にある自分としても意識するのである。心境や感情という情態こそが自らが存在していることを指し示すのである。しかし、心境も感情も、意志に左右されないのである。心境は、深層心理に存在しているから、人間は、表層心理の意志ではそれも変えることはできないのである。感情も、深層心理によって生み出されるから、人間は、表層心理の意志ではそれを変えることはできないのである。しかし、心境は変わる時がある。それは、まず、深層心理が自らの心境に飽きた時に、心境が、自然と、変化するのである。気分転換が上手だと言われる人は、表層心理で、意志によって、気分を、すなわち、心境を変えたのではなく、深層心理が自らの心境に飽きやすく、心境が、自然と、変化したのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時、一時的に、深層心理の状態は、感情に覆われ、心境は消滅する。その後、感情が収まり、心境は回復するが、その時、心境は、変化する。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。心境がおのずから変化し、感情がおのずから収まるのを待つしかないのである。それでも、人間は、嫌な心境を、表層心理の意志で意識して変えようとする。それが気分転換である。何かをすることによって、心境を変えようとするのである。つまり、人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができから、何かをすることによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。それほどまでに、心境は人間を大きく動かすのである。オーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタインは「苦しんでいる人間は、苦しみが消えれば、それで良い。苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しみが消えたということが、問題が解決されたということを意味するのである。」と言う。苦しんでいる人間は、苦しみの心境から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。人間は、苦しいから、その苦しみの心境から逃れるために、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、それを除去する方法を考えるのである。苦しみの心境が消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。たとえ、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ上げ、それを問題化して、解決する途上であっても、苦しみの心境が消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。つまり、苦痛が存在しているか否かが問題が存在しているか否かを示しているのである。苦痛があるからこそ、人間は考えるのである。楽しい時に、誰が、考えるだろうか。楽しい時は、考えているるのではなく、思っているのである。次に、欲動であるが、先に述べたように、欲動とは、深層心理に内在し、深層心理の思考を動かす、四つの欲望である。四つの欲望とは、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲、自我が他者に認められたいという承認欲、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという支配欲、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は、自我の状態が欲動の四つの欲望のいずれかにかなったものであれば、快楽を得ることができるから、欲動の四つの欲望に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我になっている人間を動かすのである。欲動には、道徳観や社会規約を守ろうという欲望は存在しない。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場でひたすら快楽を求めて、思考するのである。それを、フロイトは快感原則と呼んだ。人間が、道徳観や社会規約を意識するのは、表層心理で思考する時である。さて、欲動の第一の欲望は自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。深層心理は自我う保身化して、がルーティンの生活を維持しつつ自我を発展させようとしているのである。欲からである。人間が、結婚、入学、入社を祝福するのは、夫(妻)、生徒、社員という自我を確保したいという保身欲からである。人間が、離婚、退学、退社を忌避するのは、夫(妻)、生徒、社員という自我を失うのを恐れているからである。人間が、会社などの構造体で昇進を喜ぶのは、自我を発展させたいという保身欲が満たされたからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。また、自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、構造体の存続を自我の存続のように喜び、構造体の発展を自我の発展のように喜ぶのである。また、高校サッカーや高校野球で郷土チームを応援するのもオリンピックやワールドカップで自国選手や自国チームを応援するのも、郷土愛からだとか愛国心からだとか言われているが、郷土愛や愛国心は保身欲から生まれているのである。そして、郷土愛や愛国心は承認欲、支配欲、共感欲を誘発するのである。郷土チーム、自国選手、自国チームが勝利すれば、自我が承認されたように嬉しく、自我が相手チーム、相手選手を支配したように嬉しいのである。さらに、郷土チーム、自国選手、自国チームとともに戦っているような共感欲もわいてくるのである。しかし、郷土愛、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。郷土愛、愛国心と言えども、それが発揮されるのは自我の欲望だからである。人間は、自我の欲望を満たせば快楽を得ることができ、自我の欲望が満たすことができなければ不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、戦場では、日常では起こさない残虐な行為を犯すのである。戦場で、新たな自我の欲望が生まれてくるからである。だから、郷土、国という構造体が存在する限り、郷土愛、愛国心という自我愛が存在し、人類は、戦争を引き起こし、戦場において残虐な行為を犯し続けるのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。深層心理は、自我が他者に認められると、喜び・満足感という快楽を得られるのである。深層心理は、自我を対他化して、その欲望を満たそうとする。自我の対他化とは、他者から評価認められたいという思いで自分がどのようにみられているかを探ることである。人間は、誰しも、常に、他者から認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、他者の気持ちを探っているのである。フランスの心理学者のラカンは「人は他者の欲望を欲望する」と言う。この言葉は「人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。」という意味である。この言葉は、自我が他者に認められたいという深層心理の欲望、すなわち、自我の対他化の作用を端的に言い表している。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。だから、会社でいつも優しく接してくる上司、高校でいつもほめてくれる教師の期待に応えようとして、営業、勉強に励もうと思うのである。しかし、会社でいつも𠮟りつける上司、学校で怒ってくる教師がいると、承認欲を傷付けられた深層心理は、怒りの感情と上司や教師を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、会社員や高校生を動かそうとする。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、それが働き、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとするのである。超自我が抑圧できなかった場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則の下で、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。会社員や高校生は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を殴ったならば、後に、自我に不利益がもたらされるということを、他者の評価を気にして、将来のことを考えて、結論し、深層心理が生み出した上司や教師を殴れという行動の指令を抑圧しようと考える。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、上司や教師を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、たとえ、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象(こと)などの対象を支配したいという支配欲である。深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとするのである。深層心理が自らの志向性(観点・視点)で他者・物・現象を捉えることを対象の対自化と言う。つまり、対象の対自化とは、対象を志向性で自我の支配下に置くことなのである。対象の対自化とは、「人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えようとする。」という意味である。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。最後に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という機能が生まれる。有の無化とは、人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。借金をしている者の中には、返済するのが嫌だから、深層心理が、借金していることを忘れてしまうのである。無の有化という機能は、深層心理は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造するという意味である。人間は、自らの存在を保証する絶対的なものが必要だったから、深層心理は、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。ストーカーは、相手の心から自分に対する愛情が消えたのを認めることが辛いから、相手の心に自分に対する愛情がまだ残っていると思い込み、その心を呼び覚ませようとして、付きまとうのである。有の無化、無の有化、いずれも、深層心理が自我を正当化して心に安定感を得ようとするために行うのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。それは、自我と他者の共感化という作用として現れる。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという承認欲が失われたことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことが辛いから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、それほど屈辱感が強かったのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという保身欲がかなわなくなったことの辛さだけでなく、恋人としての自我を相手に認めてほしいという承認欲がかなわなくなったことの辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいという支配欲から起こるがが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。自民党や右翼が、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆を踊らせ、大衆の支持を集めたのである。「呉越同舟」を利用した狡猾な行動である。


人間は深層心理が生み出した自我の欲望によって動かされている奇妙な動物である。(欲動その11)

2024-03-09 15:17:45 | 思想
ドイツの哲学者のアドルノは「現代の理性は方向を誤り、第二次世界大戦、アウシュビッツの悲劇を生み出した。」と述べた。理性が、第二次世界大戦を引き起こし、ヒットラー率いるナチス党によるユダヤ人大虐殺の引き起こしたと言うのである。理性とは、人間の自らを意識しての思考である。人間の自らを意識しての精神活動を表層心理と言う。すなわち、理性とは、人間の表層心理での思考である。しかし、第二次世界大戦、ユダヤ人の大虐殺は、理性が生み出したものではなく、自我の欲望によって引き起こされたのである。無意識の思考が自我の欲望を生み出し、第二次世界大戦を引き起こし、ユダヤ人の大虐殺を行うように人間を仕向けたのである。人間の無意識の精神活動を深層心理と言う。すなわち、深層心理が思考して、自我の欲望を生み出し、第二次世界大戦を引き起こし、ユダヤ人の大虐殺を行うように人間を仕向けたのである。理性は自我の欲望を抑圧しきれないどころか、それに積極的に従ったのである。自我の欲望を満たすことに理性が寄与したのである。爆撃機、戦車、原子爆弾の発明、ユダヤ人の計画的な殺戮計画そして実行、広島長崎への核攻撃は、理性が積極的に自我の欲望に協力したことを示している。現在も続いているウクライナ戦争は、西欧寄りの政策をとるウクライナにロシアの大統領のプーチン大統領が兵を向けたのが発端である。ロシアを嫌っているゼレンスキー大統領はそれに真っ向から対抗した。数多くのロシア兵、ウクライナ兵、ウクライナ国民へが亡くなっても、まだ戦闘が続いている。プーチンのロシアの大統領としての自我の欲望、ゼレンスキーのウクライナの大統領としての自我の欲望が、無益であるばかりか残酷な戦争を継続させているのである。ハマスとイスラエルとの戦争も、イスラム教とユダヤ教、アラブ人とユダヤ人との自我の欲望の戦いである。20世紀から21世紀にかけて起きたミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領によるウクライナ侵攻、北朝鮮の金正恩による殺戮も、自我の欲望によって起こされたものである。岸田文雄内閣総理大臣が、軍備増強をしたのも、戦争の際には、自衛隊員、そうて、国民を兵士として、自ら指揮を執ることを夢見ているからである。戦争で指揮を執ることができれば、総理大臣としての自我の欲望が満たされるのである。しかし、戦争や殺人だけでなく、人間の全ての行動は自我の欲望によって引き起こされるのである。すなわち、人間は、常に、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて行動しているのである。理性は自我の欲望を抑圧できないばかりか、時には、自我の欲望に協力するのである。なぜならば、理性で思考しても、それは行動する力を持っていないからである。理性は感情を生み出せず、理性で行動しても快楽が得られないのである。だから、人間世界には、飽きもせず、戦争や殺人が繰り返されるのである。それは、人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って、他者と関わりながら、他人を意識しつつ、行動しているからである。他者とは構造体の内の人々であり、他人とは構造体外の人々である。そして、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているから、人間世界には、戦争や殺人が無くならないのである。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなどがある。日本という国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我がある。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動しているのである。だから、ある人は、家族という構造体では母という自我を持ち、日本という構造体では日本国民という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って行動しているのである。また、ある人は、日本という構造体では日本国民という自我を持ち、家族という構造体では夫という自我を持ち、会社という構造体では人事課長という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って行動しているのである。だから、息子や娘が母、父だと思っている人は、確かに、家族という構造体では母、父という自我で行動しているが、他の構造体では、他の自我を所有して行動しているのである。だから、誰しも、「あなたは何ですか。」と尋ねられた場合、その時、所属している構造体の中での自我を答えるのである。人間は、常に、ある一つの構造体に所属して、ある一つの自我として生きていて、他の構造体では、他の自我を有しているから、自分というあり方は固定していないのである。自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。他人とは、構造体の外の人々である。すなわち、自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人の自我と自らの自我を区別しているあり方が自分なのである。だから、人間は、自我と自我との関係の中で生きていて、誰一人として、自分として独自に生きることはできないのである。人間が最初に所属する構造体は家族であり、人間が最初に持つ自我は娘、息子である。しかし、親がちゃという流行語があるように、娘、息子は、家族を選べず、母、父という親を選べないのである。なぜならば、人間は、誰しも、自分の意志によって生まれてきていないからである。そうかと言って、生まれることを拒否したのに、無理矢理、誕生させられたわけでもない。つまり、自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、そこに存在しているのである。だから、人間は、誰しも、自分の意志に関わりなく、誕生させられ、当然のごとく、親を選べず、気が付いた時には、その家の子として存在しているのである。そして、与えられた家族という構造体に所属して、与えられた娘、息子を自我として生きるしかないのである。しかし、親も、子を選べないのである。どのような子が生まれてくるのかわからないのである。子がちゃである。生まれてきた娘、息子の母、父を自我として生きるしか無いのである。人間の悲劇とは、必然性無く所属させられた家族、必然性無く与えられた娘、息子という自我であるが、それから逃れられないということである。さらに、家族にアイデンティティ、娘、息子にアイデンティティを持つことができなければ生きていけないのである。人間は、構造体に所属し、自我が与えられ、構造体の人々にその存在が認められて、初めて、自らの存在を確認し、安心できる動物なのである。それが、アイデンティティーを持つということである。ところが、日本では、一般に、アイデンティティーは、簡単に、「自己同一性。人格における存在証明または同一性。」などと説明されている。これでは、アイデンティティーは独りよがりなものになる。アイデンティティーは、構造体に所属し、自我を持しているだけでは得ることはできないのである。アイデンティティーは、構造体に所属し、自我を持し、その自我が構造体内の他者や構造体外の他者に認められ、自らが自らの自我に満足して、初めて得ることができるのである。つまり、アイデンティティを得るには、自らの自我に対する他者からの承認と評価を必要とし、自らが自らの自我のあり方に満足することが必要なのである。すなわち、人間は自我として生き、自我の欲望を満たすために生きているのである。つまり、人間の行動は、全て、自我の欲望の現れなのである。それは、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているからである。深層心理が自我を主体に立ててて思考して自我の欲望を生み出して人間を動かしているということは、人間は、自己として存在していないこと、主体的に生きていないことを意味するのである。自己とは、自我の欲望から脱却して、主体的に生きる人間を意味する。しかし、ほとんどの人間は自我の欲望を追って一生を送るのである。自我の欲望から脱却できない人間、自我の欲望から脱却しようとしない人間、自我の欲望にしがみついている人間、自我の欲望のみ追求している人間、自我の欲望がかなえられないと損失だと思っている人間、自らの自我の欲望をかなえるために他者と協力したり他者と戦ったりしている人間に、主体的な生き方は存在しない。しかし、ほとんどの人間が他者に主体性を要求する。それは、自らは主体的に生きていると錯覚しているからである。自我の欲望を他者や他人より多くかなえようと思い、また、それを社会的に認められていると思っている人間こそ、自らは主体的に生きていると強く思い込んでいるのである。さらに、自我の欲望をほとんどかなえられない人間が、自我の欲望を他者や他人よりはるかに多くかなえている人間を主体的に生きている人だと誤解し、そのような人間の生き方に憧れているのである。自我の欲望を追求し続け、自我の欲望から離れた考えや行動は損だと思っている人間に主体的な生き方は存在しない。しかし、ほとんどの人間は自我の欲望を追求することに腐心して、そこから一歩も出ることは無いので、主体的な生き方とは無縁である。しかし、自我も自我の欲望も、生得のものでも自ら獲得したものでもない。自我は、人間が構造体に所属することによって、他者から与えられたものである。自我の欲望は、深層心理が自我になりきっている人間を動かして欲動に基づいて快楽を得ようと思考して生み出した感情と行動の指令である。しかし、ほとんどの人間は、他者から与えられた自我を自らのものと思い込み、自我の欲望を欲望を表層心理で自ら考えだしたものだと思い込んでいるのである。それは、深層心理の存在も思考も知らず、自ら意識しながら思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らないからである。だから、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら、主体的に暮らしている、もしくは、主体的に暮らすことができると思い込んでいるのである。確かに、人間は、表層心理で、自ら意識して思考することがある。しかし、人間が、表層心理で自らを意識して思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令をそのまま実行すれば後に自らに利益をもたらすかどうかという視点から思考して、行動の指令を受け入れるか拒否するかについて思考する時だけなのである。しかも、人間は、表層心理で思考することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間の行動は、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動が意識しての行動よりも、断然、多いのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して、表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して行動していず、深層心理が思考して生み出した自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自らの欲望であるから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きているのである。よほど深い思想がない限り、人間は、表層心理で、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動するという、主体的なあり方は存在しないのである。ほとんどの人間は深層心理の道化師でしかないのである。さて、深層心理は、自我の状態を欲動にかなったものになれば快楽が得られるので、自我の状態を欲動にかなったものにしようと思考して、感情とと行動の指令というう自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理は、動力として感情を生み出し、深層心理の生み出した行動の指令通りに人間を動かそうとするのである。このような、快楽を求めて思考すする深層心理の動きをフロイトは快感原則と呼んだ。欲動は、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望の集合体であり、深層心理に内在している。深層心理は欲動の四つの欲望に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我になっている人間を動かしているのである。保身欲とは自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。承認欲とは自我が他者に認められたいという欲望である。支配欲とは自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。共感欲とは自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。欲動には、道徳観や社会規約は存在しない。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、欲動に基づいて、その時その場でひたすら快楽を求めて、思考するのである。人間が、道徳観や社会規約を考慮するのは、表層心理で思考する時である。さて、欲動の第一の欲望は自我を確保・存続・発展させたいという保身欲であるが、深層心理は、自我の保身化という作用によって、この欲望を満たそうとする。自我の保身化とは、現在所属している構造体、現在持している自我に執着することである。人間がルーティンの生活を維持しようとするのは、保身欲からである。結婚、入学、入社などを喜ぶのは、夫(妻)、生徒、社員という自我を確保したからである。離婚、退学、退社などを忌避するのは、夫(妻)、生徒、社員という自我を失うからである。会社などの構造体で昇進を喜ぶのは、自我が発展したからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、現在所属している構造体の存続を自我が存続するから願い、その発展を自我の発展のように喜ぶのである。だから、高校サッカーや高校野球で、郷土チームを応援するのである。それは、一般に、郷土愛と言われているが、保身欲から来る自我愛である。さらに、オリンピックやワールドカップで自国選手や自国チームを応援するのも保身欲からである。それは、一般に、愛国心と言われているが、これもまた保身欲から来る自我愛である。しかし、愛国心という保身欲があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、それが発揮されるのは自我の欲望だからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明され、推賞されるが、真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという承認欲から来る自我の欲望であり、自我愛である。だから、愛国心という自我の欲望がかなわず、自我愛が満たされない場合、その不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、国家観の戦争が無くなることはないのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲であるが、深層心理は、自我を対他化して、その欲望を満たそうとする。自我の対他化とは、他者から自我を評価されたいと思いつつ、他者から自我がどのように思われているか探ることである。深層心理は、自我が他者に認められると、承認欲が満たされ、快楽が得られるのである。だから、人間は、誰しも、常に、他者から認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、他者の気持ちを探っているのである。フランスの心理学者のラカンは「人は他者の欲望を欲望する」と言う。この言葉は「人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。」という意味である。この言葉は、自我が他者に認められたいという深層心理の欲望、すなわち、自我の対他化の作用を端的に言い表している。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。だから、人間の苦悩のほとんどの原因が、他者から悪評価・低評価を受けたことである。例えば、会社で上司に口汚く罵られ、高校で同級生に侮辱される。そのような時、承認欲を傷付けられた深層心理は、怒りの感情と上司や同級生を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとする。しかし、深層心理には、超自我という機能があり、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとするのである。超自我は、深層心理に内在する欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化の機能である。
しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、殴れという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する審議は、表層心理に移される。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求めて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した殴れという行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。現実的な利得を求める欲望とは、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。これは、フロイトは現実原則と呼んでいる。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実原則の視点から、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、自我に利益をもたらし、不利益を被らないないように、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に思考するのである。自我を傷つけられた会社員や高校生は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、自我を傷つけた上司や同級生を殴ったならば、後に、自我に不利益がもたらされるということを、他者の評価を気にして、将来のことを考えて、結論し、深層心理が生み出した殴れという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、たとえ、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。深層心理が得心させなければいけないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。しかし、時には、自我が傷つけられても、深層心理は、自我の欲望として怒りの感情と相手に復讐せよという行動の指令を生み出さず、自我をうちに閉じこもらせてしまうことがある。それは、攻撃するには、相手が強大過ぎるからであり、攻撃すれば、いっそう、自我の状況が不利になるからである。そうして、傷心のままに、苦悩のままに、自我の内にこもるのである。それが、憂鬱という情態性である。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという支配欲であるが、深層心理は、対象を対自化化して、その欲望を満たそうとする。対象の対自化ととは、深層心理が自らの志向性(観点・視点)で他者・物・現象を捉えることを言う。つまり、対象の対自化とは、対象を自らの志向性で自我の支配下に置くことなのである。他者という対象の対自化とは、支配しよう、リーダーになろうという志向性で他者を見ることである。つまり、他者の対自化とは、他者を支配するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちの上位に立つこと、他者たちのリーダーとなることができれば、喜び・満足感が得られるのである。教諭が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。最後に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という機能が生まれる。有の無化とは、人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。借金をしている者の中には、返済するのが嫌だから、深層心理が、借金していることを忘れてしまうのである。無の有化という機能は、深層心理は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造するという意味である。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、深層心理は、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。ストーカーは、相手の心から自分に対する愛情が消えたのを認めることが辛いから、相手の心に自分に対する愛情がまだ残っていると思い込み、その心を呼び覚ませようとして、付きまとうのである。有の無化、無の有化、いずれも、深層心理が自我を正当化して心に安定感を得ようとするのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲であるが、深層心理は、自我と他者を共感化させて。その欲望を満たそうとする。自我と他者の共感化とは、深層心理が、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うようにさせることによって、快楽を得ようとすることである。自我と他者の共感化ができれば、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにすることができ、喜びや満足感が得られるのである。愛し合うという現象は、互いに、共感欲を満たした状態である。相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合う関係になるのである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという承認欲が失われたことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えない。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、それほど屈辱感が強かったのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さ、欲動の第四の欲望である自我と他者の共感欲が阻害された辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の現象である。一般に、二人が仲が悪いのは、支配欲から互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。自民党政治家や右翼が、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆を踊らせ、大衆の支持を集めたのである。「呉越同舟」を利用した、大衆との共感化である。このように、人間は誰しも深層心理が欲動に基づいて快楽を求め思考してて生み出した自我の欲望によって動かされている他に類を見ない奇妙な動物である。一般に、「人類は、動物の側面を持つとともに、言葉を持ち、学問・芸術・文化を通して、より便利により豊かに暮らすことを求めて。文明を発展させていく動物を超越した存在者である。」と言われている。しかし、人間は動物を超越した存在者ではない。精神が深層心理と表層心理に分離され、深層心理が生み出した自我の欲望によって動かされている奇妙な動物なのである。なぜ、この世から、殺人や戦争が無くならないのか。それは、人間は、自我の欲望によって動かされているからである。人間は、自己の意志で行動せず、自我の欲望によって動かされているからである。しかし、そもそも、人間は、表層心理で思考しない限り、すなわち、理性で思考しない限り、本質的に、自己の意志は存在しないのである。平穏な日常生活も残虐な犯罪も、自我の欲望がもたらしているのである。だから、他者や他人の犯罪に対しては正義感から怒りを覚える人が同じような犯罪を行ってしまうのである。他者や他人の犯罪に対する怒りも自らが為した犯罪も自我の欲望から発されているのである。だから、表層心理で、すなわち、理性で自我の欲望をコントロールできない限り、誰しも、犯罪を行う可能性があるのである。すなわち、理性による思考とは自らの正義に基づく志向性で思考することなのである。人間は理性で思考し行動して初めて自己になるのである。自己とは、正義に基づくという志向性で、自我の現況を対象化して思考して、行動することなのである。しかし、人間はさまざまな構造体に所属し、それに応じて、さまざまな自我を持ち、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて行動しているの、本質的に、自己としても存在していないのである。自己として存在するとは、理性で、主体的に思考して、行動することである。自己として存在するとは、自我の欲望を、自らの良心・正義感に基づいて、意識して、思考して、その結果を意志として、行動することである。自己とは、主体的に生きている人間を意味しているが、人間は、自我の欲望にとらわれた自我から自らの良心・正義感に基づく自己へとを転換させなければ、主体的に生きることはできないのである。自我を主体的に生きて、初めて、自己となるのである。しかし、ほとんどの人は、自我の欲望と自らの良心・正義感が対立した場合、自我の欲望を選択するから、主体的に生きることができず、自己として生きることができないのである。自我の欲望と自らの良心・正義感が対立しない人さえ存在するのである。なぜならば、自己として生きようとして、自らの良心・正義感に基づいて行動すれば、構造体から追放され、自我を奪われる危険性があるからである。だから、人間が無反省に自我として生きていくということ、すなわち、無反省に自我の欲望に従って生きていくということは不正を重ね罪を重ねることなのである。人間は、誰しも、ソクラテスのような自らの思想に殉じた生き方やキリストのような自らの信仰に殉じた生き方をしていないのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理で、主体的に生きることに憧れているから、主体的に生きていると錯覚しているのである。人間にとって、自我の欲望に支配されない唯一のあり方は自己である。自己とは、人間が表層心理で正義に基づいて思考して行動するあり方である。自己とは、正義を貫くという志向性で、自我の現況を対象化して思考して、行動することなのである。しかし、自己として正義に徹して生きている人は、必ず、構造体の他者から白眼視されたり、迫害されたり、構造体から追放されたりするのである。自己として正義を貫く人は、その覚悟が必要なのである。日本人の思考の元型は、現実密着の形而下の思考である。現実密着とは、自我にこだわって生きていくということであるから、そこから脱することが必要なのである。そもそも、構造体も自我も、その存在に、必然性は無いのである。そういう意味では、人生は虚構である。人間は、虚構の中に生きているのである。しかし、虚構だから何をしても良いというのでは無い。そもそも、何をしても良いという思いは、深層心理の自我の欲望の願いあり、それは、現実密着型の人間の発想であり、人生を虚構だと考えている人からは生まれてこないのである。現実を虚構だと思い、虚構を生き抜いていけば良いのである。虚構だと思えばこそ、自由があるのである。自分の意志によって、現実密着の形而下の思考から距離を置き、形而下の思考を形而上の思考に変換させ、自分の思考によって、現実を編み直すことが大切なのである。そこに、自由の喜びがあるのである。しかし、人間は自我の欲望を意識して、表層心理で思考するだけでは、自己としても存在していると言えないのである。一般に、表層心理での思考は現実原則によって思考するからである。それを正義を貫く志向性で思考すしなければならないのである。そこで初めて自己が生まれるのである。自己とは、主体的に生きている人間を意味しているが、人間は、自我から自己へとを勝ち取らなければ、主体的に生きることはできないのである。自我を主体的に生きて、初めて、自己となるのである。人間は主体的に生きることに憧れているから、主体的に生きていると錯覚しているに過ぎないのである。多くの人は、自我を自己だと思い込み、自らは自己として生きていると思い込んでいるのである。自己として存在するとは、自我の欲望を、正義に基づいて、主体的に、意識して、思考して、自らの意志で行動を決めることだからである。しかし、人間は、表層心理で、正義に基づいて、自我の欲望を意識して思考して、すなわち、理性で思考して、主体的に自らの行動を決定するということは容易にはできないのである。だから、たいていの人は自己として存在していないのである。人間が自己として存在しにくいのは、自我を動かすのは、深層心理が生み出す自我の欲望だからである。自我は、構造体という集団・組織の中で、他者から与えられるから、深層心理は、他者の思惑を気にして、自我が構造体から放逐されないように思考するのである。人間は、表層心理で、他者の思惑を気にしないで、主体的に思考し、行動すれば、他者から白い眼で見られ、その構造体から追放される可能性、時には殺される可能性あるから、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。構造体から追放される覚悟、殺される覚悟がある人だけが主体的に生きられるのである。すなわち、自由に生きられるのである。



サルトルはもういない。(欲動その10)

2024-03-04 16:39:48 | 思想
フランスの哲学者サルトルはもういない。世界には、自らの良心に従って思考し、自らの良心に従って行動する人はもういない。自我の欲望に従って生きている者しかいない。サルトルは「人間は自由へと呪われている。」と言った。「人間は、全てのことにおいて、自ら思考して、自ら決断して、自ら行動できる。だから、全ての行動の責任を自ら取らなければいけない。人間は、誰一人として、この運命から逃れることはできない。」これがサルトルの言葉の意味である。また、サルトルは、「実存は本質に先立つ。」とも言った。実存とは、自分自身で主体的に思考して行動する生き方である。本質とは、人間本来の定まった行動や生き方である。つまり、サルトルは、「人間には、定まっている行動の仕方や生き方は存在しない。自分で思考して行動しなければいけない、そして、その責任を取らなければいけない。ここから逃れることはできない。」と言うのである。これがサルトルの考え方・生き方であるととに、実存主義という思想である。さらに、サルトルは、「神が存在していようと存在していまいと、私には関係がない。」とも言っている。サルトルは、「自分の行動は自分が決めることであり、自分は神を恐れることもなく、神に頼ることもない。」と言っているのである。これが無神論的実存主義と言われる所以ある。確かに、サルトルの覚悟は潔い。また、死ぬまで、自分の言葉通りに考え行動した。また、ノーベル文学賞を授与されようとしたが、「作家は自らを既成の制度にあてはめることを拒絶しなければならない。」と言って、受賞を拒否した。サルトルは、フランス人でありながら、アルジェリアのフランスからの独立闘争を支持した。フランス人という自我に捕らわれず、自らの言葉の通り行動した。晩年は不遇だったが、それでも、葬儀には、5万人を越える市民が追悼をするために集まった。サルトルは、全てにおいて、自我にとらわれなかった。自我とは、構造体の中で、ポジションが与えられ、それを自らのあり方とする存在者である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、構造体に所属し、他者と関わり、他人を意識しながら、自我として行動しているのである。他者とは、構造体内の人々である。他人とは、構造体外の人々である。構造体には、家族、学校、会社、店、電車、カップル、仲間、県、国などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、県という構造体では、知事、県会議員、県民などの自我があり、国という構造体では、総理大臣、国会議員、官僚、国民などの自我がある。たとえ、一人で暮らしていたとしても、孤独であっても、孤立していても、人間は、常に、構造体に所属し、他者と関わり、他者と他人を意識しながら、暮らしているのである。他者とは構造体内の人々である。他人とは構造体外の人々である。しかし、サルトルは、フランス人という自我にとらわれることなく、自らの良心による思考によって、フランスから独立しようといていたアルジェリアを支持したのである。サルトルにとって、人間の意識しての良心による思考、その思考の結果としての意志、決断、そして、行動が全てであった。サルトルは、人間の無意識での思考を認めなかった。人間の無意識の精神活動を深層心理と言う。すなわち、サルトルは、深層心理の思考を認めなかった。サルトルは、自らを意識しての思考しか認めなかった。人間の自らを意識しての精神活動を表層心理と言う。すなわち、サルトルは表層心理での思考しか認めなかった。しかし、人間は、深層心理が思考して生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。つまり、人間は自我の欲望に呪われているのである。サルトルのような人だけが、自らの良心による、無神論的実存主義の思想を行使できるのである。しかし、人間は自我の欲望を満たすためにはどのようなことでもするのである。自我に取りつかれ、自我の欲望に動かされて生きているのである。人間は、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて生きているのである。深層心理は、快楽を求めて、欲動に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して人間を動かしているのである。人間は、自我が欲動にかなった状態であれば快楽が得られるのである。そこで、深層心理は、自我の状態を欲動にかなったものにしようと思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理のこの動きを、フロイトは快感原則と呼んでいる。欲動とは、深層心理に内在している保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望の集合体である。深層心理は、自我の状態が欲動の四つの欲望のいずれかにかなったものであれば、快楽を得ることができるのである。だから、深層心理は欲動の四つの欲望に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我になっている人間を動かしているのである。保身欲とは自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。承認欲とは自我が他者に認められたいという欲望である。支配欲とは自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。共感欲とは自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。欲動には、道徳観や社会規約は存在しない。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場でひたすら快楽を求めて、思考するのである。人間が、道徳観や社会規約を考慮するのは、表層心理で思考する時である。さて、欲動の第一の欲望は自我を確保・存続・発展させたいという保身欲であるが、深層心理は、自我の保身化という作用によって、この欲望を満たそうとする。人間がルーティンの生活を維持しようとするのは、保身欲からである。人間が、結婚、入学、入社を祝福するのは、夫(妻)、生徒、社員という自我を確保したいからである。人間が、離婚、退学、退社を忌避するのは、夫(妻)、生徒、社員という自我を失うのを恐れているからである。人間が、会社などの構造体で昇進を喜ぶのは、自我が発展したからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。また、自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、構造体の存続を自我の存続のように喜び、構造体の発展を自我の発展のように喜ぶのである。だから、高校サッカーや高校野球で、郷土チームを応援するのである。それは、一般に、郷土愛と言われているが、単なる自我愛である。また、オリンピックやワールドカップで自国選手や自国チームを応援するのも、愛国心からだと言われているが、それも、単なる自我愛からである。また、愛国心という自我愛があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、それが発揮されるのは自我の欲望だからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明され、推賞される。しかし、真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望であり、自我愛である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、国家観の戦争が無くなることはないのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。深層心理は、自我が他者に認められると、喜び・満足感という快楽を得られるのである。深層心理は、自我を対他化して、その欲望を満たそうとする。自我の対他化とは、他者から評価認められたいという思いで自分がどのようにみられているかを探ることである。人間は、誰しも、常に、他者から認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、他者の気持ちを探っているのである。フランスの心理学者のラカンは「人は他者の欲望を欲望する」と言う。この言葉は「人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。」という意味である。この言葉は、自我が他者に認められたいという深層心理の欲望、すなわち、自我の対他化の作用を端的に言い表している。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。だから、人間の苦悩のほとんどの原因が、他者から悪評価・低評価を受けたことである。例えば、会社で上司に口汚く罵られ、学校で同級生に侮辱される。そのような時、承認欲を傷付けられた深層心理は、怒りの感情と上司や同級生を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとする。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、それが働き、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとするのである。超自我は、深層心理に内在する欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という作用の機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する審議は、表層心理に移されるのである。つまり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令というルーティーンから外れた自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できなかった場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求めて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。現実的な利得を求める欲望とは、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。これは、フロイトは現実原則と呼んでいる。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、自我に利益をもたらし、不利益を被らないないような視点から、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に思考するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を殴ったならば、後に、自我に不利益がもたらされるということを、他者の評価を気にして、将来のことを考えて、結論し、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧しようと考える。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、たとえ、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象(こと)などの対象を支配したいという支配欲である。深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとするのである。深層心理が自らの志向性(観点・視点)で他者・物・現象を捉えることを対象の対自化と言う。つまり、対象の対自化とは、対象を志向性で自我の支配下に置くことなのである。対象の対自化とは、「人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えようとする。」という意味である。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。最後に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という機能が生まれる。有の無化とは、人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。借金をしている者の中には、返済するのが嫌だから、深層心理が、借金していることを忘れてしまうのである。無の有化という機能は、深層心理は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造するという意味である。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、深層心理は、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。ストーカーは、相手の心から自分に対する愛情が消えたのを認めることが辛いから、相手の心に自分に対する愛情がまだ残っていると思い込み、その心を呼び覚ませようとして、付きまとうのである。有の無化、無の有化、いずれも、深層心理が自我を正当化して心に安定感を得ようとするのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。それは、自我と他者の共感化という作用として現れる。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという承認欲が失われたことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、それほど屈辱感が強かったのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。安倍晋三前首相は、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆を踊らせ、大衆の支持を集めたのである。「呉越同舟」を利用した、自我のエゴイスティックな行動である。このように、人間は、動いているのではなく、深層心理によって動かされているのである。深層心理が、常に、心境の下で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。ところが、ほとんどの人は、自らを意識して思考して、自らの意志によって行動していると思っているのである。確かに、人間は、自らを意識して思考することがある。人間は、表層心理で思考して意志を生み出すことはあるが。しかし、表層心理での思考は、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出せないので、それでは、人間は行動できないのである。表層心理での思考の結果である意志は、深層心理が生み出した行動の指令について容認するか抑圧するかの判断するだけなのである。しかも、人間の表層心理での思考は、現実原則という自我に利益をもたらすという志向性に基づくのである。つまり、所謂、利己主義の原則に貫かれているのである。さて、なぜ、この世から、殺人や戦争が無くならないのか。それは、人間は、深層心理が快感原則に基づいた思考で生み出した自我の欲望によって動かされているからである。そして、なぜ、殺人や戦争を見過ごすことができるのか。それは、人間は、表層心理で、快感原則に基づいて思考して行動しているからである。人間は、自己の意志で行動せず、自我の欲望によって動かされているのである。人間には、本質的に、自分の意志は存在しないのである。平穏な日常生活も残虐な犯罪も、自我の欲望がもたらしているのである。だから、他者や他人の犯罪に対しては正義感から怒りを覚える人が同じような犯罪を行ってしまうのである。他者や他人の犯罪に対する怒りも自らが為した犯罪も自我の欲望から発されているのである。だから、自我の欲望をコントロールできない限り、誰しも、犯罪を行う可能性があるのである。すなわち、自らの正義に基づく志向性で思考し行動しない限り、誰しも、犯罪を行う可能性があるのである。自己とは、正義という志向性で、自我の現況を対象化して思考して、行動することなのである。しかし、人間には自分そのものは存在せず、人間はさまざまな構造体に所属しさまざまな自我を持って行動しているということは、ほとんどの人は、自己としても存在していないということを意味するのである。自己として存在するとは、主体的に思考して、行動することである。自己として存在するとは、自我のあり方を、自らの良心・正義感に基づいて、意識して、思考して、その結果を意志として、行動することである。自己とは、主体的に生きている人間を意味しているが、人間は、自我の欲望にとらわれた自我から自らの良心・正義感に基づく自己へとを転換させなければ、主体的に生きることはできないのである。自我を主体的に生きて、初めて、自己となるのである。しかし、ほとんどの人は、自我の欲望と自らの良心・正義感が対立した場合、自我の欲望を選択するから、主体的に生きることができず、自己として生きることができないのである。なぜならば、自己として生きようとして、自らの良心・正義感に基づいて行動すれば、構造体から追放され、自我を奪われる危険性があるからである。時には、命を奪われる危険性があるからである。だから、人間が生きていくということ、すなわち、自我として生きていくということは不正を重ねることなのである。人間は、サルトルのような自らの思想に殉じた生き方をできないのである。