あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自分を政治権力者と大衆に変えられないために。(自我その503)

2021-05-30 14:04:03 | 思想
政治権力者とは、何か。自我の欲望を達成するために、政治権力を使う人である。大衆とは、何か。自我の欲望を達成するために、ある時には、権力者に寄りかかり、ある時には、群がる人々である。さて、自我とは何か。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。政治権力者とは、国という構造体で、総理大臣、国会議員などの自我をを持った人である。大衆とは、国という構造体で、国民という持った人たちである。国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているのである。それでは、自我の欲望とは何か。自我の欲望とは、深層心理が思考して生み出した感情と行動が一体化したものであり、これが人間を動かしているのである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。深層心理が、構造体において、自我を主体に立てて、快楽を求めて、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている」と言う。言うまでもなく、無意識とは、無意識の思考であり、深層心理の思考を意味する。「言語によって構造化されている」とは、深層心理が言語を使って論理的に思考していることを意味する。深層心理は、自我を主体にして、快楽を求めて、欲動に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。人間は言葉を持っているから、深層心理が、言葉を使って思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かすことができるのである。また、人間は言葉を持っているから、表層心理で、自らを意識することができるのである。表層心理とは、自らを意識しての精神活動である。人間は、表層心理で、自らを意識して思考し、思考して得た結果を意志として持つことができるのである。しかし、人間は、表層心理で思考しても、感情も行動の指令も生み出すことができないのである。つまり、人間は、表層心理で、思考しても、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すことができないのである。人間が表層心理でできることは、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、自我に現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを思考し、それを意志として持つことができるだけなのである。しかも、人間が表層心理で思考して、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、抑圧できず、行動の指令のままに行動してしまうのである。それほどまでに、人間の表層心理での思考は、すなわち、意志は脆く、儚いのである。さて、深層心理は、欲動に応じれば快楽が得られるので、欲動に従って、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我である人間を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。欲動の第一の欲望が、自我を確保・・存続・発展させたいという欲望である。それは、自我の保身化という作用となって現れる。ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望が満たされている、すなわち、自我の保身化の作用が上手く行っているのである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で意識して考えることがなく、無意識の行動だから可能なのである。また、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことでもあるのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。総理大臣という自我を持った政治権力者が、内閣の支持率が下がった時だけ、国民の要望に応えた政策をとるのは、総理大臣という自我を失いたくないからである。生徒・会社員という自我を持った国民が、毎日嫌々ながらも学校・会社という構造体に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍前首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍前首相に迎合したのは、自我を存続させ、なおかつ、立身出世という自我の発展ののためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子も、仲間という構造体から追放されたくない上に、友人という自我を失いたくないから、いじめの事実を隠し続けたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとうのである。そして、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとする者が現れるのである。深層心理は、自我に執着するあまり、人間に、かくも愚かなことを行わせるのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。それは、自我の対他化の作用となって現れる。人間は、常に、他者に対して、深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているか、探っているのである。フランスの心理学者のラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。総理大臣という自我を持った政治権力者は、国民の窮乏した生活を見ても苦悩しないが、内閣の支持率が下がると、国民に評価されていないことを知って、苦悩するのである。生徒や会社員という自我を持っている国民が、学校や会社という構造体で、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から好評価・高評価を得たいという欲望を持って、生活している。しかし、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なると、深層心理は、これ以上傷心しないように、不登校・不出勤の行動の指令を生み出す。すると、人間は、表層心理で、自我に現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した傷心という感情の下で、深層心理が生み出した不登校・不出勤という行動の指令について、受け入れるか拒否するか思考する。そして、現実的な利得の視点からは、不登校・不出勤は自我にとってマイナスだから、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとする。だが、深層心理が生み出した傷心という感情が強いので、登校・出勤できないのである。そして、人間は、表層心理で、すなわち、理性で、不登校・不出勤を指令する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとする。しかし、たいていの場合、それは上手く行かずに、苦悩に陥るのである。また、受験生が有名大学を目指すのも、少女がアイドルを目指すのも、自我が他者に認められたいという欲望からである。男性が身だしなみを整えるのも、女性が化粧をし、痩せようとするのも、自我が他者に認められたいという欲望からである。有名大学を目指すこと、アイドルを目指すこと、身だしなみを整えること、化粧をすること、痩せることいずれも、他者から見るとたわい無いことであるが、自我が他者に認められたいという欲望にとらわれている深層心理には、非常に大切なことである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。それは、対象の対自化の作用となって現れる。それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。対象の対自化とは、「人間は、無意識のうちに、深層心理が、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性や趣向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。」ことである。さらに、対象の対自化が高じると、深層心理には、無の有化と有の無化という機能が生じる。無の有化とは、「人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。」ことである。これは、人間特有のものである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。有の無化とは、「人間は、自我にとって、不都合な他者・物・現象がこの世に存在すると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないようにみなしてしまう。」ことである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むのである。いじめ自殺事件が起こると、いじめた子たちの親は親という自我を傷付けられるのが辛いからい、有の無化によって、我が子に原因が無いと思い込み、無の有化によって、原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように、存在を非存在のように思い込むことによって心に安定感を得ようしているのである。人間とは、弱い存在であるから、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、また、自己正当化できなければ生きていけないのである。さて、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのである。総理大臣という自我を持った政治権力者こそ、国民を支配することによって、快楽を得ているのである。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその理由である。だから、総理大臣という自我を持った政治権力者は、無茶なことをするのである。無茶なことを押し通すことが、快楽なのである。また、教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その理由である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その理由である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば快楽を得られることがその理由である。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られることがその理由である。とどのつまり、人間とは、自我中心の動物なのである。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。それは、自我と他者の共感化という作用となって現れる。それは、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由からである。もちろん、表層心理で、それを抑圧しようとするのだが、抑圧しようとしても、深層心理が生み出した屈辱感が強いから、抑圧できないのである。さらに、ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。呉越同舟も、自我と他者の共感化という作用である。呉越同舟とは、「仲の悪い者たちも、共通の敵が現れると、仲良くなる。」という意味である。二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、イニシアチブを取りたいが、できず、しかし、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こるのである。そのような時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒せば皆で喜びを得ることができるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取ろうとして、仲が悪くなるのである。政治主張を異にする自民党と公明党が連立政権を組んでいるのは、国を支配できるという対自化が満足できるだけでなく、共産党という共通の敵が存在するからである。自民党に所属する総理大臣は政権は、中国、北朝鮮、韓国を共通の敵として、大衆を煽り、それが成功しているのである。さて、人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、快楽を求めて、欲動に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、自我である人間は、それによって、動き出すのであるが、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識して思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識して、思考して、行動する。すなわち、人間は、表層心理で、自我に現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかについて、思考した後で、行動するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考であり、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、そ時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちである。その時、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとする。超自我は、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発し、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を守ろうとする機能である。しかし、深層心理が生み出した感情が強い場合、超自我は機能できないのである。すなわち、超自我は、深層心理が生み出した過激な行動の指令を抑圧できないのである。そうなると、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、自我に現実的な利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我というルーティーンの生活を守るという機能がそれを抑圧できないのである。そうなると、人間は、表層心理で、思考することになるのである。しかし、たとえ、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧できたとしても、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。犯罪の多くはこの時に起こるのである。それほどまでに、深層心理が生み出す自我の欲望は強いのである。作家の武田泰淳は、「人間は、どんなことをしてでも、生きのびようとする。」と言う。武田泰淳は、太平洋戦争下の中国大陸で、日本の多くの軍人が、中国の民家に押し入り、食糧を強奪し、老婆から幼女まで女性と言えばレイプし、抵抗する庶民を射殺しているのを知っている。彼らは、帝国軍隊という構造体の中で、帝国軍人という自我を持っている。大日本帝国は軍事的に優位を保っていたから、中国大陸において、中国人に対して冷酷無残なことを行っても、支配欲を満たすという快楽を得るばかりで、他者から非難されるという不快感を味わうことはなかった。つまり、中国人を対自化するばかりで、誰からも対他化することは無かった。つまり、中国人を思い通りに支配し、中国人の視線を気にせず、暴虐の限りを尽くしたのである。上官は、それを見て見ぬふりをするどころか、彼らも同じことをしていたのである。日本の中国での国策映画のヒロインの李香蘭(山口淑子)も、「中国大陸での、日本軍人・民間人の威張り方を見れば、中国人が日本人を嫌いになるのも理解できる。」と言っている。さらに、戦争末期になり、戦況の不利を悟り、戦闘機・戦艦・武器などが少なくなると、若い兵士や学徒出陣の学生・生徒たちに強要し、「自分も後に続くから。」と言って、六千人以上を特攻という苦悶の死を与えたが、ほとんどの上官は後に続かなかった。そして、戦後、彼らは、特攻の責任を、自決した大西瀧次郎海軍中将などに押しつけ、「特攻を希望した若者たちは立派だった。彼らの名誉ある死があるから、現在の日本の繁栄があるのだ。」と言って、自らの責任を回避した。しかし、特攻によって命を散らされた若者が生きていたならば、日本は現在もっと繁栄しているだろう。軍部の上官たちは、行動が詐欺師であるばかりでなく、言動まで詐欺師である。特攻のほとんどは、希望ではなく、軍部の上官による強要である。軍部の上官たちは、自らの保身のために、若者たちを犠牲にし、若者たちは、臆病者だと言われたくないために、特攻死したのである。そして、中国大陸で残虐非道の行為を繰り返し、若者を特攻で無理強い死させた帝国軍人が、敗戦後、帰還して、素知らぬ顔で、家族という構造体の中で、父親、息子という自我を持って、平穏な生活を送るのである。確かに、人間は、どんなことをしてでも、生きのびようとするのである。さて、詩人の石原吉郎は、「人間は、どんな環境にもなじむものだ。」と語っている。彼は、14年間、シベリアに抑留され、飢え、寒さ、過酷な労働、射殺の恐怖の環境に耐えて、帰国した。人間とは、常識を越えて、悪環境という構造体でも、哀れな身の上という自我でも、それに合わせて生きていけるというのである。深層心理による対自化や対他化はそこでも行われ、日常生活がそこにあり、非人間的な暮らしが人間の日常生活として繰り替えされると言っているのである。確かに、人間は、どんな環境にもなじんで生きていくのである。それは、金一族に支配されている北朝鮮、共産党に支配されている中国、戦前の日本を見れば、わかることである。しかし、当該者は、それになじんでいるから、権力の肥大化した欲望、環境の劣悪さに気付かないのである。テレビで、異様な光景をよく目にする。大衆が、安倍晋三前首相や小泉進次郎衆議院議員などの政治家が演説会場に登場すると、場内割れんばかりの拍手で迎えるのである。まるで、売れっ子アイドルや自分たちの強い味方であるような歓迎ぶりである。彼らは、確かに、アイドルのようにマスコミによく登場するが、アイドルのようには夢を売らない。口では「日本の将来を見据えて」などと夢を語るが、彼は政治家という自我を維持し、それを最大限に利用し、自らの存在をアピールするために、徹底的に現実的に行動する。彼らは、庶民の味方ではない。財界、ゼネコン、銀行、官僚の味方である。財界やゼネコンや銀行は陰に陽に資金援助をしてくれ、官僚は陰で不正なことまでして自分たちを支えてくれるからである。彼らがそうするのは、自民党が、財界やゼネコンや銀行に利益が行くように政治を行い、官僚の天下りを許し、官僚と同じ考えの下でアメリカに迎合した政治を行っているからである。しかし、大衆は政治家の本性を見抜いていない。むしろ、期待している。ニーチェの「大衆は馬鹿である」という言葉が聞こえてくる。大衆が、国政選挙で、自民党を大勝ちさせたから、自民党の政治家だけが、政治家という自我を維持し、それを最大限に利用し、自らの存在をアピールするために、徹底的に現実的に行動しようとするのである。大衆が、国政選挙で、大勝ちさせれば、政治家という政治家、権力者という権力者は、皆、このように行動するのである。しかし、政治家などの権力者だけに、ニーチェの言う「権力への意志」が存在するのではない。人間、誰しも、心の中に、「権力への意志」が存在する。しかし、誰しも、周囲の人や他の人に評価されたいと思いつつ、自分がどのように見られているか気遣うという対他化のあり方が心の中にあるから、人間はわがままなことをしないのである。対自化のあり方から来る、他の人に自分の力を誇示したいという欲望を抑圧できるのである。しかし、誰しも、権力を持つと、「権力への意志」を、思う存分、発揮する権利を得たと思い込んでしまうのである。本来、人間はわがままな動物である。人間は、自我に応じて、深層心理がいろいろな欲望を生み出してくる。人間は政治家になると、つまり、政治家という権力者としての自我を持つと、深層心理が、庶民の時と異なった、欲望を生み出してくる。庶民の時にも、深層心理がいろいろな欲望を生み出してくるが、対他化がそれを抑圧している。「権力への意志」が心の中にあるが、それを発揮すると、周囲の顰蹙を買い、人間関係が閉ざされるから、心の奥底にとどめておく。しかし、誰しも、政治家などの権力者になると、「権力への意志」という欲望が頭をもたげ始め、対他化の気遣いがなりを潜めるのである。また、政治家になると、周囲には、阿諛追従する人が列をなすから、ますます、「権力への意志)」という欲望が肥え太るのである。安倍晋三前首相は「権力への意志」の権化である。安倍政権になって、暮らしが良くなったか。庶民は以前より貧しくなっている。安倍政権になって、日本の外交がうまく行っているか。中国、韓国、北朝鮮とは関係がより悪化し、アメリカへの属国化を進めているだけである。民主党政権より良くなったという思いは、官僚、産経新聞、読売新聞、田崎史郎などのお友達評論家や八代英輝などのお友達コメンテーターによって作られた幻想である。民主党政権は、官僚、産経新聞、読売新聞、週刊誌によって葬り去られた。特に、官僚の裏切りはひどかった。官僚たちは民主党議員の秘密を週刊誌にリークし、外務省官僚を中心に鳩山由紀夫政権の普天間基地移転を妨害し、東京地検特捜部は冤罪で小沢一郎を逮捕し、小沢一郎の政治力を微弱なものにした。民主党の首相たちは、首相という自我を守るために、官僚たちの軍門に下った。彼らは、最初は、国民寄りの政治を行おうとしたが、官僚の妨害に遭うと、首相という自我を守るために官僚の言うままに政治を行った。彼らに覚悟がなかった。それでも、大衆は、権力者に夢を託す。テレビドラマで、「水戸黄門」、「西郷どん」などが高視聴率を記録する。しかし、徳川光圀は、諸国を漫遊したことが無いばかりか、場内で家臣を斬殺し、身持ちが悪かったから、庶民でも、若い女性は警戒した。西郷隆盛は、鳥羽伏見の戦いで勝利し、幕府軍追討のために赤報隊を利用したが、用が無くなると、隊長の相楽総三などを処刑した。しかし、水戸光圀、西郷隆盛、そして、安倍晋三が異常なのではない。権力者とは、こういう者なのである。権力者とは、常に、「権力への意志」の権化になるのである。だから、大衆が、権力者を批判し続けなければ、「権力への意志」の欲望はとどまることはないのである。しかし、大衆は、政治権力者を批判するどころか、期待し、政治権力者が残虐非道なことを行っても、自分の無力を正当化するための思考が自我の欲望によって生み出し、政治権力者の残虐非道な行為に抗することができないという自分の無力を忘れていくのである。それでは、政治権力者にならず、大衆にもなじまない人間は、何ができるか。インド建国の父と言われているガンジーは、「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでも、しなくてはならない。世界を変えるためではなく、世界によって、自分が変えられないようにするために。」と言う。至言である。市民にできることは、政治権力者と大衆に、自分が変えられないために思考し、発言し、行動することしか無いのである。



   




我慢することの意味、我慢の限界について。(自我その502)

2021-05-28 13:11:41 | 思想
人間には、我慢が必要である。我慢とは、自我の欲望を抑圧することである。人間に我慢するという機能が存在しなければ、既に、人類は滅びていただろう。なぜならば、人間は、誰しも、自我の欲望として、他者を殺したいという欲望を持つことがあるからである。その欲望通りに行動すれば、毎日、無数の人殺しが行われ、人類は、どれほど、維持できるだろうか。幾ばくと無く、滅びるだろう。人間は我慢するという機能があるから、人殺しは、現在の数値のように抑えられ、世界的に、年々、人口が増えているのである。しかし、人間には他者を殺したいという自我の欲望は抑圧する機能が存在すると言っても、常にその他者を殺したいという自我の欲望を抑圧できるわけではない。他者を殺したいという自我の欲望が強過ぎる場合、抑圧することができずに、人殺しは実行されるのである。そして、人殺しの犯人のほとんどが、犯行現場から逃走し、自らの犯罪を隠匿する。自らが犯人だと露見して、周囲の者や世間から非難され、逮捕されて、処罰されることを恐れるからである。しかし、人間は、誰しも、人殺しをする前から、人殺しをすれば、逮捕されて、厳しく処罰されることを知っている。一人でも殺せば、何年も、刑務所に入れられ、監視されて、自由な生活を奪われることを知っている。出所しても、差別され、以前の生活ができないのを知っている。人殺しは、全く、割に合わない行為だと知っている。それでも、毎日、世界でも、日本でも、どこかで、人殺しが行われている。それはなぜか。それは、他者を殺したいという自我の欲望が強過ぎるからである。他者を殺したいという自我の欲望が強過ぎるから、理性で、犯行後のことを考えてその行為を抑圧しようとしてもできずに、実行してしまうのである。もしくは、理性で、犯行後のことを考えることができないほど、他者を殺したいという自我の欲望が強過ぎるから、実行してしまうのである。しかし、なぜ、理性で抑圧しなければいけない他者を殺したいという自我の欲望が、自らの心の中に生まれてくるのか。理性で抑圧するのならば、最初から、持たなければ良いではないか。確かに、その通りである。しかし、自分の意志にかかわらず、他者を殺したいという自我の欲望を持ってしまうのは、その欲望は、人間が、自ら意識した思考によって生み出したものではないからである。他者を殺したいという自我の欲望に限らず、自我の欲望は、人間が、自ら意識した思考によって生み出したものではなく、自らが意識していないところで生まれているのである。それが、深層心理である。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、他者を殺したいという自我の欲望を生み出したのである。その欲望に対して、人間が、自ら意識した思考によって、抑圧しようとするのである。人間の自らを意識した精神活動を表層心理と言う。人間の表層心理での思考が理性である。人間は、常に、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて行動しているのである。そして、人間は、時には、表層心理で、思考して、すなわち、理性で、それを抑圧しようとすることがあるのである。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。人間は、深層心理も表層心理でも、自我を自分だと思い込み、自我を中心に考えるのである。それが、自我を主体に立てるという意味である。欲動には、第一の欲望として自我を確保・存続・発展させたいという欲望があり、第二の欲望として自我を他者に認めてもらいたいという欲望があり、第三の欲望として自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望があり、第四の欲望として自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。すなわち、深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動の四つの欲望に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて生きているのである。欲動の四つの欲望は、それぞれに、他者を殺したいという自我の欲望を生み出す要素をはらんでいるのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。ミャンマーの国軍兵士が、無差別に、市民を射殺しているのは、上官の命令に従っているからであり、上官の命令に背けば、兵士という自我を失うからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。そうしないと、自分の力を発揮できないのである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけず、生きる目標を失ってしまうから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できず、自分の力を発揮できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。自我の対他化とは、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。この欲望がかなえば、自我が伸張し、自分お力が発揮できたように思い、だから、深層心理は、自我が他者から見られていることを意識して思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理は、どのようにすれば、その人から好評価・高評価を得られるかと考えて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。ラカンに、「人は他者の欲望を欲望する」という言葉がある。それは、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」という意味である。ラカンのこの言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。他者の欲望を獲得することが、自分の力を発揮したことの現れなのである。だから、逆に、自我が他者に認められないと、深層心理は、すなわち、人間は苦悩に陥るのである。だから、その苦悩を回避しようとして、敢えて、自我の力を知らしめ、他者に自我を認めさせようとしている者も現れるのである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、北朝鮮の金正恩による殺戮は、国民に、自我の力を知らしめるためである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望である。深層心理は、対象の対自化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化による快楽は、自我が他者に好評価・高評価を受けることによって得られるが、対象の対自化による快楽は、自我の志向性(観点・視点)で他者・物・現象を支配することによって得られるのである。対象の対自化には、有の無化と無の有化という作用がある。まず、有の無化という作用であるが、それには二つの機能がある。その一つは、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。)という一文で表現することができる。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者を支配することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、深層心理が、すなわち、人間が、喜び・満足感が得られれるのである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。わがままは盲目的な支配欲の現れである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、北朝鮮の金正恩による殺戮は、国民からの承認欲を満足させるためだけでなく、国民に対する支配欲を満足させるために起こしているのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば、快楽を得られるのである。また、欲動の第三の欲望が強まると、深層心理は、有の無化、無の有化という二つの機能を持つことになる。有の無化とは、人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。つまり、他者の対自化の欲望が、深層心理の思考にも力を及ぼすことがあるのである。無の有化は、「人は自己の欲望を心象化する」という言葉で言い表すことができる。それは、人間は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造するという意味である。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。神の創造は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。これも、また、他者の対自化の欲望が、深層心理の思考にも力を及ぼしたのである。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理は、自我と他者が心の交流をすること、愛し合う、友情を育む、協力し合うようにさせることによって快楽を得るのである。自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりするのである。それがかなえば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。また、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うこともある。それが、「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象である。この欲望は、愛情、友情、協調性を大切にする思いであり、自我の立場と他者の立場は同等であるから、一般的に、歓迎されるのである。だから、この欲望は、自我の評価を他者に委ねるという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を一方的に支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うのである。「呉」の国と「越」の国の仲が悪いのは、二国は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。つまり、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。しかし、試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなり、自分がイニシアチブを取りたいから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。つまり、対象の対自化が自我の力が発揮できると思うから、共通の敵がいなくなると、我を張る(自我を主張する)のである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。しかし、中学生や高校生が、仲間という構造体を作り、友人という自我で、構造体に所属していない同級生をいじめるのは、友人と連帯感ができて仲間という構造体が形成されているという快楽を得ているとともに、一人で生きている者への嫉妬心からである。カップルや夫婦という構造体にある者が、相手から別れを告げられてストーカーになり、相手を殺すことまであるのは、自分の代わりの恋人や夫に対する嫉妬心からである。自民党・公明党政府がオリンピックにこだわるのは、国民が自国の選手やチームが活躍すると、共感欲を満足し、狂喜乱舞して、政権の支持が高まるからである。自民党・公明党政府は、中国、北朝鮮、韓国を敵視することによって、国民を煽り、「呉越同舟」の現象を作り出し、支持を得て、戦争をして相手国民を殺そうと思うまでに愛国心を高めるのである。しかし、人間には、深層心理の思考だけでなく、表層心理という意識しての思考も存在する。しかし、深層心理は表層心理よりも時間的に早く思考し、力が強いのである。人間が表層心理で思考する時は、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について実行するか抑圧するかを審議するだけなのである。人間は、表層心理独自に思考することはできないのである。しかも、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令について審議し、抑圧するという結論を出し、意志で抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、抑圧できないのである。深層心理が生み出した感情を打ち消すには、表層心理で対抗する感情を生み出さなければならないが、人間は、表層心理では、感情を生み出せないのである。感情は、深層心理でしか生まれないのである。だから、人間は、感情をコントロールできないのである。しかも、深層心理は、快楽を求めて思考しているのである。だから、快楽に繋がる善事ならば行動の指令として生み出すことはあるが、快楽に繋がらない善事ならば行動の指令として生み出さないのである。逆に、快楽に繋がる悪事ならば行動の指令として生み出すことがあるのである。もちろん、深層心理が悪事を行動の指令として生み出せば、人間は、自らを意識して、表層心理で思考して、抑圧しようとする。これが、所謂、我慢である。人間は、表層心理で、自我に現実的な利得をもたらそうとして、道徳観や社会規約に照らして、思考して、深層心理が生み出した行動の指令としての悪事を、意志で抑圧しようとするのである。すなわち、我慢しようとするのである。人間が、表層心理で、道徳観や社会規約を考慮に入れて思考するのは、道徳観や社会規約に背馳した悪事を行えば、後に、他者から顰蹙を買い、自我に現実的な利得が得られないからである。しかし、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、表層心理で、思考して、意志で、深層心理が生み出した行動の指令としての悪事を抑圧しようとしても、抑圧できないのである。すなわち、我慢には、限界があるのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令としての悪事を実行してしまうのである。それが悲劇を生むのである。その最悪の者が、所謂、殺人である。



人間は理性的な動物ではない。自我の欲望が理性を動かしている。(自我その501)

2021-05-26 13:20:40 | 思想
人間は、霊長類に属していると言われている。霊長類は、全動物中最も進化していて、最も知能が高い動物である。しかし、人間は、何に最も進化しているのか。何に最も知能を使ってきたのか。それは、他の人間を支配することである。人間は、他の人間を支配することにに最も進化し、他の人間を支配することに最も知能を使ってきたのである。だから、これまで、集団による集団に対する殺人、集団による個人に対する殺人、個人による個人に対する殺人が繰り返され、現在も、至る所で、行われているのである。しかし、その殺戮は、理性によって考え出されたのではない。深層心理が考え出したのである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、怒り・憎しみなどの感情と襲撃しろ・殺せなどの行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて、行動しているのである。人間は、常に、深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのである。深層心理が思考して、自我の欲望を生み出した後、人間は、それを受けて、表層心理で思考すること無くすぐに行動する場合と表層心理で行動の指令について受け入れるか拒否するかについて思考してから行動する場合がある。表層心理とは、人間の意識しての精神活動である。人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性によって決定した行動が意志による行動である。前者の場合、すなわち、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識して思考することなく、行動する場合、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。後者の場合、すなわち、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて思考してから行動する場合、受け入れると決定したならば、意志によって、行動の指令に沿って行動し、拒否すると決定したならば、意志によって、行動の指令を抑圧しようとする。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れると決定したならば、表層心理で、すなわち、理性で、行動の指令がより効果的に行われるような方法を考え出し、それを意志にとして実行する。つまり、深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、怒り・憎しみなどの感情と襲撃しろ・殺せなどの行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、表層心理で、自らを意識して、襲撃しろ・殺せなどの行動の指令について受け入れると決定したならば、表層心理で、すなわち、理性で、より襲撃・殺人などの行動の指令がより効果的に行われるような方法を考え出し、それを意志にとして実行するのである。すなわち、襲撃・殺人は、人間は理性で考えだしたものでなく、深層心理が思考して生み出した行動の指令にある。しかし、人間は理性で襲撃・殺人の有効な方法を考え出しているのである。確かに、理性によって、意図的な殺人が行われていて、殺す方法を発展させたのは理性だが、殺そうという気持ちを起こしたのは理性では無く、深層心理なのである。つまり、人間は理性的な動物ではなく、深層心理が生み出した自我の欲望が理性を動かしているのである。しかし、たとえ、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が思考して生み出した襲撃しろ・殺せなどの行動の指令について拒否することを決定して、意志によって、行動の指令を抑圧しようとしても、怒り・憎しみなどの感情が強いと、抑圧できず、行動の指令のままに襲撃したり人殺しをしたりするのである。また、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が思考して生み出した襲撃しろ・殺せなどの行動の指令について拒否することを決定して、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、次には、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した怒り・憎しみなどの感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えず、代替の行動を考えるのに苦悩するのである。その苦悩を解消するために、行動の指令のままに襲撃したり人殺しをしたりする者も出てくるのである。だから、人間は、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きていると言えるのである。それでは、自我とは何か。自我とは、ある構造体の中で、他者からある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属し、自我として生きているのである。人間は、構造体に応じて、異なった自我を所有して行動しているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って行動しているが、異なった構造体には、異なった自我となっているから、「あなたは何ですか。」と尋ねられると、異なった答を返すしかないのである。例えば、ある男性は、家族という構造体に所属している時は父という自我を所有し、夫婦という構造体に所属している時は夫という自我を所有し、銀行という構造体に所属している時は行員という自我を所有し、コンビニという構造体に所属している時は客という自我を所有し、電車という構造体に所属している時は乗客という自我を所有し、日本という構造体に所属している時は日本人という自我を所有し、東京都という構造体に所属している時は都民という自我を所有し、同窓会という構造体に所属している時は同級生という自我を所有して行動している。だから、息子や娘が彼のことを父だと思っているが、彼は父だけでなく、夫、行員、客、乗客、都民、同級生人という自我をも所有しているのである。彼は、家族という構造体では父という自我を所有しているが、他の構造体では他の自我を所有して行動しているのである。もちろん、息子や娘は彼の父以外の自我を知らず、全体像がわからないのである。人間は、他者の一部しか知ることができないのに、それを全体像だと思い込んでいるのである。また、人間は、自らのことを、自分と表現するが、自分そのものは存在しない。なぜならば、自分は、単独では存在できないからである。自分は、他者や他人が存在する時に、存在する。人間は、他者や他人の存在を意識した時に、自分を意識するのである。他者とは、同じ構造体の中での、自我以外の人々である。他人とは、別の構造体の中での人々である。だから、人間にとって、自分とは、単に、他者や他人と接する時に、もしくは、他者や他人を意識した時に、自らに対して持つ意識でしか無いのである。また、人間は、自己として存在することに憧れている、もしくは、自己として存在していると思い込んでいるが、容易には、自己として生きることができないのである。自己として存在するとは、自らを意識して、主体的に、自らの行動を思考して、その思考の結果を意志として、行動することである。自らの意識した精神活動を表層心理と言う。人間の主体的な意識しての思考を理性と言う。つまり、人間が自己として存在するとは、主体的に表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して、行動を決めて、それを意志として、行動することである。すなわち、自己として存在するとは、人間が表層心理で思考して、その思考の結果を意志として、行動することなのである。このように言うと、一見、自己として生きることは簡単なように思え、自らも容易にできるように思う。確かに、人間は、表層心理で思考して、すなわち、理性によって、行動しているのならば、自己として存在していると言える。しかし、人間は、深層心理に動かされているから、自己として存在していないのである。先に述べたように、深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。深層心理が、ある心境の下で、自我を主体に立てて、欲動によって、快感原則に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我としての人間は、それに動かされて、行動しているのである。人間が、自己として存在していないということは、自由な存在でもなく、主体的なあり方もしていず、主体性も有していないということを意味するのである。また、そもそも、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるから、人間は、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。主体的に、他者の思惑を気にしないで思考し、行動すれば、その構造体から追放される虞があるからである。だから、人間は、自己として存在できないのである。しかし、人間は、自己として存在できず、自分が主体的に行動できないのは、他者や他人から妨害や束縛を受けているからだと思っている。そこで、他者からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れるのである。自由であれば、自分は、表層心理で、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自らを意識して思考して、自らの意志で行動することができると思い込んでいるのである。つまり、自己として生きられると思っているのである。そして、そのような生き方に憧れるのである。しかし、人間は、自由であっても、決して、主体的になれないのである。なぜならば、深層心理が、常に、ある心境の下で、自我を主体に立てて、欲動によって、快感原則に基づいて、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動しているからである。だから、人間は、朝、目覚めると、深層心理が、今日しなければいけないことのことを思って、不愉快な気持ちを生み出すのである。その気持ちは、人間が、表層心理で、自ら意識して、今日しなければいけないことのことを思って、生み出しているのではないのである。もしも、人間が、表層心理で、自ら意識して、自分の気持ちが生み出せるならば、誰が不愉快な気持ちを生み出すだろうか。不愉快な気持ちだけでなく、愉快な気持ちも、人間の感情は、全て、深層心理が、思考して、生み出しているのである。しかし、人間は、不愉快な気持ちになっても、深層心理にある、超自我という機能が、ルーティーンを守るために、今日も昨日と同じように、自宅に居させたり、学校や職場に行かせたりして、同じことをさせるようにするのである。深層心理には、超自我という、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧し、自我をして、毎日同じようなことを繰り返すルーティーンの生活をさせようとする機能も存在するのである。しかし、人間は、旅館でホテルで目覚めた時、人間は、表層心理で、自らを意識して、思考することになる。つまり、異常なことが起こり、ルーティーンの生活が破られた時、人間は、表層心理で、現実的な自我の利得を求めて、自らを意識して、思考するのである。そして、修学旅行で来たことや出張で来たことを思い出して、その準備に取り掛かるのである。このように、人間は、ルーティーンの生活が破られた時に、表層心理での思考を行うのである。しかし、人間の思考の主体は、深層心理なのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理が、ある心境の下で、自我を主体に立てて、欲動によって、快感原則を基に、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。まず、心境についてであるが、心境が、人間の日常生活がルーティーンになるのを可能にしている。心境は、感情と同じく、情態性という心の状態を表している。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する情態性である。感情は、喜怒哀楽悪などの、突発的に生まれる情態性である。深層心理は、感情を生み出す時は、行動の指令と一体化させて、自我の欲望として、生み出すのである。心境と感情は並び立つことがない。また、心境は別の心境と並び立つことがなく、感情は別の感情と並び立つことがない。人間は、常に、一つの心境という情態性、若しくは、一つの感情の下にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、人間の心境であり感情である。深層心理は、心が空白の状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境や感情という情態性に動かされているのである。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境の状態の時には、深層心理は、現在の状態を維持させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間が、不得意の心境の状態の時には、深層心理は、現在の状態から脱却させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。つまり、深層心理は、自らの現在の心境を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという心境が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わないのである。苦しいという心境が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。苦しいという心境から逃れるための一手段が、苦悩の原因となっている問題を解決することなのである。なぜならば、深層心理にとって、苦しみの心境から抜け出すことが最大の目標であるからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境という情態性が大切なのである。それは、常に、心境という情態性が深層心理を覆っているからである。もちろん、日常生活において、異常なことが起こると、例えば、美しい花を見ると感動という感情が湧き、誰かに侮辱されると怒りという感情が湧き、深層心理を覆うことになる。深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などにも、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。それは、深層心理が、ある心境の下で、自我を主体に立てて、欲動によって、快感原則を基に、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているからである。人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトは、「我思う故に我あり」という言葉で、私がいろいろな物やことの存在を疑うことができるのは、私が存在しているからだとし、そこから、私の存在の確信を得たと言っているが、デカルトが、表層心理で、自分や物やことの存在を疑う以前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。つまり、人間は、論理的に、自分、他者、物、こと(現象)の存在が証明できるから、これらが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、これらの存在を前提にして活動しているのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、すなわち、表層心理で、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、一旦、今までの心境は消滅し、その後、新しい心境が現れてくる。つまり、変化するのである。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境や感情を変えることができないから、何かをすることによって、気分転換をして、心境や感情を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境や感情を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境や感情を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境や感情を変えようとするのである。次に、自我を主体を立てることについてであるが、深層心理が自我を主体に立てて思考して人間を動かしているから、人間に主体性が無いのである。人間は自我に成りきり、深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているから、人間に主体性が無いのである。しかし、人間に主体性が無いことは、誕生から始まっているのである。人間は、誰一人として、誕生の意志をもって生まれていないからである。人間は、気が付いたら人間として存在しているのである。自らの意志で誕生していないから、主体性を持つことができないのである。だから、深層心理に動かされて生きているのである。そして、時として、それに気付き、主体性が無いことを嘆くのである。しかし、自らの意志によって生まれてきたのではないことは、他の動植物も同じである。しかし、人間には、他の動植物と異なるところがある。それは、言葉を持っていることである。他の動植物は言葉を持っていないから、何かに動かされて生き、何かを追うように仕向けられて生きていることに疑問を覚えることが無いのである。思考と行動は完全に一致しているからである。しかし、人間には、表層心理という、自らを意識しての思考、自らの意志も存在するから、自らの意志では、抑圧できない感情の存在に気付き、主体性が無いことに気付くのである。そこから、深層心理の存在に気付き、感情だけでなく、行動の指令までも、深層心理が生み出していることに気付くのである。なぜならば、常に、人間の感情と行動は一体化しているからである。次に、欲動についてであるが、欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動が、深層心理を動かしているのである。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなえば、快楽を得ることができるのである。だから、深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとしているのである。欲動の四つの欲望うちの第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。保身欲である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。退学者・失業者が苦悩するのは、生徒・会社員という自我で温かく迎えてくれる構造体が数少ないからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、残虐な行為が無くなることはないのである。だから、国外、国内において、政治権力者が自我の欲望によって大衆に対して残虐非道のことを行い、大衆は自我の欲望によって自分の無力を正当化して、政治権力者の残虐非道な行為を忘れようとしているのである。国外では、ミャンマーでは、軍部がクーデターを起こして、政治権力を奪い、デモ行進をする民衆を、兵隊と警官が無差別に射殺している。国連が頼りのはずなのに、中国とロシアが反対し、非難声明すら出せないでいる。ナイジェリアでは。イスラム過激派組織ボコ・ハラムが、西洋式の教育を行っていると批判し、学校を襲撃し、数百人単位で生徒を連れ去り、男子生徒を兵士に仕立て上げ、女子生徒をレイプしている。中国共産党政府は、香港に介入し、民主派政治家を逮捕し、中国の支配下におこうとしている。中国共産党政府は、ウイグル自治区では、イスラム教徒を逮捕し、強制収容所に送り、男性を拷問死し、女性をレイプしている。北朝鮮では、金正恩が独裁政治を敷き、理由無く、民衆を殺している。アメリカでは、トランプ前大統領が、コロナウィルスは中国に責任があると幾度も声明を上げると、アジア系住民が大通りで襲撃され、建物が放火されている。ロシアでは、プーチン大統領が、反対派の政治家を暗殺している。メキシコでは、麻薬組織が、ジャーナリストや政治家を暗殺している。国内では、コロナウィルスの感染が収束していないのに、政府はオリンピックを開こうとしている。沖縄県民の反対をよそに、政府は辺野古にアメリカ軍基地が建設している。福島で大事故があったのに、原発は停止される方向に向かっていていない。安倍晋三前首相が、強行採決を繰り返し、集団的自衛権を認めさせ、いつでどこでも、アメリカに追随し、日本は戦争をできるようになった。安倍晋三前首相は、森友学園、加計学園、桜を見る会で、不正を行った。菅義偉現首相の息子が勤めている東北新社やNTTが、当時総務大臣だった野田聖子や高市早苗や総務幹部を接待した。しかし、国外においても、国内においても、誰一人として、罪に問われず、失脚していない。それは、誰もが、自我に執着しているからである。政治権力者は、権力を楯に、自我の欲望を実現しようとし、大衆は、自我を守るために、政治権力者に迎合しているからである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェは、「永劫回帰」という言葉で、森羅万象は永遠に同じことを繰り返すという思想を唱えたが、それは、人間の生活にも当てはまるのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。承認欲である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から生徒や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、悪評価・低評価を受けると、心が傷付くのである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。支配欲である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理には、二つの機能が起こる。一つは、有の無化という機能である。この世に、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象が存在していると、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。自己正当化によって、心に安定を得ようとするのである。もう一つは、無の有化という機能である。この世に、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象が存在しなければ、深層心理が、存在しているように思い込むというということである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定を得ようとするのである。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。共感欲である。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理は、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとするのである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことだからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。北朝鮮の金正恩を中心とした政治権力者が、アメリカを共通の敵として、大衆に協力を求め、それが成功しているのである。日本の自民党政権は、中国、北朝鮮、韓国を共通の敵として、大衆に協力を求め、それが成功しているのである。次に、快感原則についてであるが、快感原則とは、ひたすらその時その場で、快楽を得ようとし、不快を避けようとする欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。ひたすら快楽を得ようとし、不快を避けようとする。深層心理は、欲動に応じた行動を取れば、快楽が得られるので、欲望に迎合した自我の欲望を生み出すのである。人間が、道徳観や社会規約を考慮するのは、表層心理で、思考する時である。人間は、自らを意識して、表層心理で、現実原則を満たそうとして、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考するのである。現実原則とは、自我に現実的な利得を求める欲望である。現実原則に、道徳観や社会規約という価値観が存在するのである。道徳観や社会規約を考慮に入れなければ、他者から顰蹙を買い、自我に現実的な利得が得られないからである。最後に、感情と行動の指令という自我の欲望についてであるが、感情と行動の指令という自我の欲望とは、深層心理が生み出した感情によって、自我を動かし、深層心理が生み出した行動の指令を実行させようとすることである。さて、欲動の四つの欲望がかなわず、自我が傷つけられたならば、深層心理は、怒りの感情とともに暴力などの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出す。深層心理は、怒りの感情によって、人間を動かし、侮辱や暴力などの過激な行動を行わせ、自我の欲望をかなえることを妨害した相手をおとしめ、傷付いた自我を癒やそうとするのである。しかし、そのような時には、まず、超自我が、ルーティーンを守るために、過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、深層心理の構造体の中で自我を持してこれまでと同じように暮らしたいという、欲動の第一の欲望である自我の保身化から発したいう作用である。しかし、もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、基本的に、長時間掛かかる。なぜならば、表層心理での思考は、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実原則とは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望である。この場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、侮辱したり殴ったりしたならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した暴力などの行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した侮辱や暴力などの行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を侮辱したり殴ったり、時には、殺害したりしてしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。それが、時には、精神疾患を招き、時には、自殺を招くのである。


人類が存在する限り、永遠に、人殺しは続く。(自我その500)

2021-05-22 17:58:52 | 思想
人類に未来など存在しない。人類が存続すれば存続するほど、人殺しの数が増えていくだけである。人間は、これまで、いかに遠くから、いかに短い時間で、いかに多くの人間を殺すことができるかという志向性で、大量破壊兵器を開発してきた。そして、核兵器にたどりついた。これからは、核兵器以上に有効な大量破壊兵器を研究して生み出すだろう。人類に待っているのは、無数の無意味な殺し合いによる滅亡である。なぜ、人類が存続する間、人殺しは続くのか。それは、人間は、自我に執着して生きているからである。しかし、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、自我に執着しているのではない。深層心理が、人間を自我に執着させているのである。深層心理とは、人間の無無識の精神活動である。だから、人間は、自ら意識せず、自ら意志しなくても、深層心理によって、自我に執着して生きているのである。さて、自我とは、構造体の中で、役割を担ったポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、国、県、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなど、大小さまざまなものがある。自我も、その構造体に所属して、さまざまなものがある。国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我がある。県という構造体では、知事・県会議員・県民などの自我がある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我がある。店という構造体では、店長・店員・客などの自我がある。電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我がある。仲間という構造体では、友人という自我がある。カップルという構造体では恋人という自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているのである。人間は、自我として生きているから、永遠に、人殺しが続くのである。深層心理が、自我を主体に立てて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望に生み出し、人間は、その自我の欲望に動かされて行動するから、人殺しをするのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、思考して、怒り・憎しみなどの感情と襲撃しろ・殺せなどの行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、その自我の欲望に動かされて、人殺しをしているのである。深層心理が思考して生み出した怒り・憎しみなどの強い感情が、深層心理が思考して生み出した襲撃しろ・殺せなどの行動の指令の動力となっているから、人間は、それに抗することができず、襲撃したり殺したりするのである。すなわち、人間は、自分で意識していず、自分で意志していない深層心理の思考によって動かされて、人殺しをしているのである。だから、人間は、自分で意識して、思考して、意志によって、人殺しをしているのではないのである。人間の意識しての精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は、表層心理で、自分を意識して、思考して、意志によって、人殺しをしていないのである。さて、人間が、自らを意識して、表層心理で思考して、その思考の結果を意志として行動することは、自己として生きているということを意味している。すなわち、自己として生きるとは、人間が、自らを意識して、表層心理で、主体的に、自らの行動を思考して、その思考の結果を意志として、行動することなのである。人間の主体的な意識しての思考を理性と言う。つまり、自己として生きるとは、主体的に表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して、行動を決めて、それを意志として、行動することなのである。しかし、人間は、自己として生きることはできないのである。なぜならば、自我として生きているからである。人間は、常に、ある構造体の中に所属し、そこで、ポジションという自我が与えられ、その自我の役目を果たすように深層心理に動かされて、行動しているのである。つまり、人間は、自己として生きているのではなく、構造体に与えられた自我によって生かされているのである。つまり、人間は、自我として、行動しているのである。しかし、人間は、自己として存在していると思い込んでいる。それは、自己として存在することに憧れているからである。しかし、人間は、容易には、自己として生きることができないのである。なぜならば、人間は、深層心理に動かされて、自我として生きているからである。つまり、人間が人殺しという行為を行ったのは、人間は、表層心理で、思考して、自己として行動したからではなく、深層心理が、自我を主体に立てて、思考して、怒り・憎しみなどの感情と襲撃しろ・殺せなどの行動の指令という自我の欲望を生み出し、その自我の欲望に動かされて、行動したからなのである。考えてみればわかるように、誰が、表層心理で、思考して、後に、他者から指弾され、思い罰を受け、いつまでも周囲から顰蹙を買うような人殺しという行為を考え出すだろうか。つまり、人殺しという行為を考え出したのは、人間の表層心理での思考ではなく、深層心理なのである。深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、その自我の欲望に動かされて、人殺しをしているのである。しかし、深層心理は、人殺しという犯罪行為だけでなく、人間の行動全てを考え出しているのである。深層心理が、常に、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている」と言う。言うまでもなく、無意識とは、無意識の思考であり、深層心理の思考を意味する。「言語によって構造化されている」とは、深層心理が言語を使って論理的に思考していることを意味する。深層心理は、自我を主体にして、欲動に基づいて、快楽を求めて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動が、深層心理を動かしているのである。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなえば、快楽を得ることができるからである。だから、深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。欲動の第一の欲望が自我を確保・存続・発展させたいという欲望であり、簡潔に言えば、自我という社会的な地位や社会的な位置を守りたいという欲望である。自我の保身化(略して保身化)という志向性を有している。さらに、深層心理は、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、自我を確保・存続・発展させたいがためである。なぜならば、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。ミャンマーの国軍兵士が、無差別に、市民を射殺しているのは、上官の命令に従っているからであり、上官の命令に背けば、兵士という自我を失うからである。裁判官が安倍前首相に迎合した判決を下し、高級官僚が公文書改竄までして安倍前首相に迎合したのは、正義よりも自我が大切だからである。欲動の第二の欲望が自我が他者に認められたいという欲望であり、簡潔に言えば、好かれたい・評価されたいという欲望である。自我の対他化(略して対他化)という志向性を有している。それは、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者と同じようなことをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。だから、若者は、アイドルになり、大衆という他者に認められようとするのである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、北朝鮮の金正恩による殺戮は、国民に、自我の力を知らしめるためである。日本の安倍晋三前首相による強行採決の集団的自衛権導入、政府の辺野古のアメリカ軍基地の建設はアメリカに認めてもらうためである。欲動の第三の欲望が自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望であり、簡潔に言えば、自我の思い通りにしたいという欲望である。対象の対自化(略して対自化)という志向性を有している。それは、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、他者という対象を支配しようとする。人間は、者という対象を利用しようとする。人間は、現象という対象を志向性(観点・視点)で捉えようとする。)という言葉に集約されている。自我が、他者を思うように動かすこと、他者の心を支配すること、他者たちのリーダーとなることのいずれかが得られれば、深層心理は、喜び・満足感という快楽が得られのである。教諭の深層心理の欲動に生徒や他の教諭たちという他者を支配したいという欲望があるから、校長を目指すのである。そして、校長は、気に入らない教諭を異動させるのである。人間の深層心理の欲動に物を支配したいという欲望があるから、いろいろな物が材料・原料になるのである。たとえば、大工が家を建てるために、木材を材料とするのである。深層心理は、物を支配するために、物を利用し、喜び・満足感という快楽が得るのである。人間の深層心理の欲動に現象を支配したいという欲望があるから、自らの志向性で現象を捉えようとするのである。たとえば、自然科学者の思想は、自然現象を支配するためにあるのである。深層心理は、自然現象という対象を、自我の志向性(観点・視点)で捉えることができれば、喜び・満足感という快楽が得られのである。さらに、快楽を生み出す対象となるものが、この世に存在しない場合、それを創造するという作用があるのである。神の創造がそれである。人間にとって神が必要だから、深層心理が創造したのである。神がこの世を創造したのではなく、人間が、神を創造し、神がこの世を創造したことにしたのである。人間は、実際には存在しなくても、無意識のうちに、深層心理によって、実際に存在しているように思い込むことがあるのである。また、不快を生み出す対象となるものが、この世に存在している場合、それが存在していないように思い込むのである。犯罪者は、罪に向き合うのが辛いから、自分が犯罪を犯していないと思い込むのである。人間は、実際に存在していても、無意識のうちに、深層心理によって、存在していないように思い込むことがあるのである。ニーチェの言う「力への意志」とは、このような自我の盲目的な拡充を求める、深層心理の対象の対自化の欲望である。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、北朝鮮の金正恩による殺戮は、国民からの承認欲を満足させるためだけでなく、国民に対する支配欲を満足させるために起こしているのである。日本の安倍晋三前首相による強行採決の集団的自衛権導入、政府の辺野古のアメリカ軍基地の建設はアメリカに認めてもらうためだけでなく、国民に対する支配欲を満足させるために起こしているのである。政府の原発の推進も、国民に対する支配欲を満足させるために起こしているのである。欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であり、簡潔に言えば、理解し合いたい・愛し合いたい・仲良くしたいという欲望である。自我と他者の共感化(略して共感化)という志向性を有している。自我と他者が心の交流をすること、愛し合うこと、友情を育みこと、協力し合うことによって快楽を得るのである。自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりするのである。それがかなえば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。この欲望は、愛情、友情、協調性を大切にする思いであり、自我の立場と他者の立場は同等であるから、一般的に、歓迎されるのである。だから、この欲望は、自我の評価を他者に委ねるという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を一方的に支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うのである。また、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うこともある。それが、「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象である。「呉」の国と「越」の国の仲が悪いのは、二国は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。つまり、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。しかし、試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなり、自分がイニシアチブを取りたいから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。つまり、対象の対自化が自我の力が発揮できると思うから、共通の敵がいなくなると、我を張る(自我を主張する)のである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。しかし、中学生や高校生が、仲間という構造体を作り、友人という自我で、構造体に所属していない同級生をいじめ、自殺をするまでに追い込むのは、友人と連帯感ができて仲間という構造体が形成されているという快楽を得ているからである。カップルや夫婦という構造体にある者が、相手から別れを告げられてストーカーになり、殺人事件までに至るのは、自分が共感化していた者が、自分の代わりの恋人や夫を作ったことに対する嫉妬心からである。政府がオリンピックにこだわるのは、国民が自国の選手やチームが活躍すると、共感欲を満足し、狂喜乱舞して、政権の支持が高まるからである。自民党政府が、中国、北朝鮮、韓国を敵視することによって、国民を煽り、「呉越同舟」の現象を作り出し、支持を得ようとしているのである。それを戦争までに持っていき、両国民で殺し合いをさせることまであるのである。このように、人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて、欲動という四つの欲望に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動くのである。確かに、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、深層心理が生み出した行動の指令のままに、すぐに行動する場合が多い。それは、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識して思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェは、「永劫回帰」という言葉で、森羅万象は永遠に同じことを繰り返すという思想を唱えたが、それは、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、人間は、必ずしも、深層心理の思考の後に、すぐに行動するわけではない。深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、表層心理で、意識して、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、承諾するか拒否するかを思考してから、行動する場合もあるのである。それは、人間は、表層心理で、現実的な自我の利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動しようとするのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が表層心理の意志による行動である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会規約を守ろうという価値観を有さず、その時その場での快楽を求め不快を避けたいという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちなので、人間は、表層心理で、道徳や社会的規約を考慮し、後に自我に利益をもたらし不利益を避けたいという自我に現実的な利得をもたらせようという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを、意識して思考する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、意識して思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決めても、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、そのまま実行してしまうのである。また、人間は、表層心理で、意識して思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令のままに行動しなかった場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。その時、理性による思考は長く続くのである。それは苦悩である。だから苦悩する人間は多数存在するのである。それほどまでに、深層心理の思考が強いのである。だから、人間世界には、すなわち、人類には、戦争、殺人事件が絶えることが無いのである。さて、同じ殺人という罪を犯しても、心神喪失者、心神耗弱者、健常者に下される刑罰は異なっている。心神喪失者は、泥酔、麻酔などによる一時的なものと精神病などによる継続的なものがあるが、精神機能の障害によって、自らの行為に対して、是非判断の弁別が全くできない状態にある者とされ、責任無能力者として、その行為を罰されない。心神耗弱者は、飲酒による酩酊や神経衰弱、知的障害、老衰などの精神機能の障害によって、自らの行為に対して、是非判断を弁別する能力が著しく低い状態にある者とされ、その行為は、限定責任能力者として刑が軽減される。心神喪失者、心神耗弱者に対立するのが、健常者である。健常者は、傷害が無く、健康で、自らの行為に対して是非判断を弁別する能力があると見なされ、犯罪を起こせば、厳しく罰せられる。自らの行為に対して是非判断を弁別するとは、自らの行為が正しいか正しくないかを判断することである。すなわち、健常者は、自らの行為が正しいか正しくないかを判断する能力があるのに、その能力を行使しなかったから、犯罪を起こせば、厳しく罰せられるのである。つまり、健常者は、犯罪の行為の全責任を負うべきだというわけである。しかし、人間は、表層心理で、自らの行為が正しいか正しくないかを判断するのである。しかし、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、思考して、怒り・憎しみなどの感情と襲撃しろ・殺せなどの行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、その自我の欲望に動かされて、人殺しをしているのである。深層心理が思考して生み出した怒り・憎しみなどの強い感情が、深層心理が思考して生み出した襲撃しろ・殺せなどの行動の指令の動力となっているから、人間は、表層心理で、それに抗することができず、襲撃したり殺したりするのである。人間は、表層心理で、殺人という行為が正しくないと判断しても、深層心理が思考して生み出した自我の欲望が強ければ、人を殺してしまうのである。すなわち、人間は、自分で意識していず、自分で意志していない深層心理の思考によって動かされて、人殺しをしているのである。だから、人間は、自分で意識して、思考して、意志によって、人殺しをしているのではないのである。だからと言って、私は、殺人者に罰を与えない方が良いと言っているのではない。殺人者には罰を与えた方が良い。しかし、それは、殺人という行為が正しいか正しくないかを判断する能力があるのに、その能力を行使しなかったから、厳しく罰するべきだという意味ではない。殺人という行為が正しくないから、罰するべきだというのである。だから、人殺しをすれば、心神喪失者、心神耗弱者、健常者同等に罰するべきだと言うのである。心神喪失者、心神耗弱者を死刑にするのがかわいそうだというのならば、健常者の死刑も無くせば良いのである。私は、心神喪失者、心神耗弱者、健常者全ての死刑に反対である。なぜならば、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、思考して、怒り・憎しみなどの感情と襲撃しろ・殺せなどの行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、その自我の欲望に動かされて、人殺しをしているのである。深層心理が思考して生み出した怒り・憎しみなどの強い感情が、深層心理が思考して生み出した襲撃しろ・殺せなどの行動の指令の動力となっているから、人間は、表層心理で、その自我の欲望に抗することができずに、実行しているからである。だから、どれだけ死刑にしても、人殺しは無くならないのである。人間のあり方が変わらない限り、人殺しは無くならないのである。深層心理が、常に、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して人間を動かしているという人間のあり方が変わらない限り、人殺しは無くならないのである。人間は、自らの意志で、すなわち、表層心理で、深層心理のあり方を変えられないから、人殺しは無くならないのである。人間が、自らのあり方を変えることができないから、人殺しは無くならないのである。だから、人類が存在する限り、永遠に、人殺しは続くのである。





我々に何が見え、何ができるか。(自我その499)

2021-05-19 12:43:06 | 思想
人間は、常に、志向性によって、他者・物・現象という対象を捉えて、行動している。志向性とは、対象を捉える方向性である。端的に言えば、観点・視点である。しかし、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、志向性を使って、他者・物・現象という対象を捉えているのではない。人間の意識した精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は、表層心理で、志向性を使って、思考して、他者・物・現象という対象を捉えているのではない。人間は、無意識のうちに、志向性を使って、思考して、他者・物・現象という対象を捉えているのである。人間の無意識の精神活動を深層心理と言う。すなわち、深層心理が、志向性を使って、思考して、他者・物・現象という対象を捉えているのである。これが、深層心理の対象への対自化という志向性である。さて、ドイツの哲学者のカントは、「人間は物自体を捉えることはできない」と主張する。カントは、「私たちが直感する物は現象であって、私がそのように直感している物そのものではない。私たちが直感する物の間の関係は、私たちにそのように現れるとしても、物において存在している関係そのものではない。対象その物がどのような物であるか、また、それが私たちの感性のこれらの全ての受容性と切り離された場合にどのような状態であるかについては、私たちは全く知るところが無い。」と述べている。つまり、カントは、「人間が認識しているのは現象であって、現象の背後にある物自体ではない。物自体は認識できない。」と主張しているのである。確かに、カントの言うように、人間は、特定の志向性からでしか、物を意識できないから、物自体は認識できないのである。人間が捉えられるものは物自体ではなく、物の観念である。志向性が変われば、同じ物も、別様に見えてくるのである。物の観念が異なってくるからである。また、ロシアの作家のドストエフスキーは「人間にとって理想は現実よりも現実的である」と言う。それは、人間は、理想を基本に生き、理想が身に迫って生きているということである。理想とは、人間の憧れであり、憧れをもとに思い描いたものなのである。すなわち、観念なのである。また、個人の理想のために、それをかなえるものとして、万人に共通の現実がある。だから、人間にとって大切なものは理想であり、それは万人共通の現実より、身近な存在なのである。つまり、個人としての人間にとって、観念は現実よりも生々しいという意味で現実的なのである。すなわち、人間は観念の動物なのである。つまり、個人としての人間にとって、物自体も現実は存在せず、観念だけが存在しているのである。だから、人間に、物自体が存在しないように、他者自体、現象自体も存在しないのである。人間にとって、他者・物・現象は対象に過ぎず、全て、深層心理が、志向性を使って捉えた他者・物・現象なのである。志向性とは、思考の方向性であるから、捉えるとは、ある志向性から、他者・物・現象という対象を支配すること、すなわち、理解することを意味しているのである。よく理解することは、知ることである。だから、古語では、「しる」は、「占る」とも「知る」とも表記されるのである。さて、人間にとって、他者・物・現象は対象に過ぎず、深層心理が、ある志向性から捉えたものであるが、その志向性を、人間は、自ら意識して、自らの意志で、変えることはできないのである。すなわち、人間は、表層心理で、意識して、意志によって、志向性を変えることができないのである。もしも、志向性に変化があったならば、変えたのではなく、人間の無意識のうちに、変わったのである。人間の無意識の精神活動が深層心理だから、人間の無意識のうちに、深層心理の中で、志向性が変わったのである。確かに、人間は、自らの意志によって、志向性を変えることができないが、志向性で、対象を捉えるしかないのである。人間は、自らの意志では変えることができない志向性で、他者・物・現象という対象を捉えるしかないのである。深層心理が、志向性を使って、他者・物・現象という対象を捉えているからである。しかし、志向性を否定することはできないのである。志向性を否定すれば、深層心理は何ものも捉えことができないからである。だから、志向性を否定すれば、人間そのものを否定することになるのである。もちろん、他の動物にも志向性がある。もちろん、その志向性は、人間と異なるものである。志向性が人間と異なっているから、物事が異なったように見え、異なった行動を取るのである。人間も他の動物も、志向性によって、対象を捉えているから、物自体を捉えるものは、この世には、存在しないのである。人間にとって、志向性とは、次のようなことである。例えば、机という物体がある。一般的な志向性からは、それは、勉強をする道具である。しかし、ある人の志向性からは、それは、食事をするテーブルになる。ある人の志向性からは、それは、物を載せる台になる。ある人の志向性からは、それは、人が座る椅子になる。ある人の志向性からは、それは、バリケードになる。ある人の志向性からは、それは、他者に投げつける武器になる。ある人の志向性からは、それは、自らを守る楯になる。ある人の志向性からは、それは、ベッドになる。ある人の志向性からは、それは、思い出の品になる。つまり、机という物の物自体は存在しないのである。人間は、日常生活においても、物という対象物、現象という対象事だけでなく、他者をも、ある志向性から捉え、知り、理解し、支配しようとしているのである。ドイツの哲学者のハイデッガーも、「人間は、心にある方向性でしか捉えることができない。見ようとしている方向性からしか見ることはできない。」と言う。つまり、人の心は、反応できる人、物、ことにしか反応しないのである。人間の心には、既に、視点・観点という方向性があるのである。この方向性が志向性なのである。すなわち、「心にある方向性」とは志向性を意味するのである。志向性は、対象に向かう作用の中で、初めて、対象が一定の意味として立ち現れ、把握される意識経験を成立させるのである。つまり、人間は、常に、深層心理が志向性によって捉えられた他者・物・現象しか経験できないのである。意外なものに出会って驚くという反応も、既に心の中にある予想された他者・物・現象の像に比較してのことなのである。もちろん、この心の働きは、無意識のうちで行われている。この無意識の心の働きが深層心理である。人間は、深層心理の思考の働きで、志向性によって、他者・物・現象という対象を捉えているのである。そして、人間は、深層心理が、志向性によって、捉えた対象を、時として、表層心理の働きで、それらを意識するのである。意識して、対応・対処・処理することがあるのである。しかし、多くの場合、深層心理は、志向性によって、捉えた対象に対して、人間が表層心理でそれらを意識することがないままに、すなわち、無意識に、対応・対処・処理しているのである。しかし、深層心理は、志向性を使って、他者・物・現象という対象を捉えているという、対象への対自化の志向性という機能だけしか有していないわけではない。深層心理には、対象の対自化以外に、自我の保身化、自我の対他化、自我と他者の共愛化という志向性があるのである。この四つの機能は欲動に所属し、欲動が深層心理を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在している欲望であり、四つの志向性で、四つの欲望を満たすように、深層心理を動かしているのである。人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて行動しているのである。自我とは、構造体の中で、役割を担ったポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、国、県、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなど、大小さまざまなものがある。自我も、その構造体に所属して、さまざまなものがある。国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我がある。県という構造体では、知事・県会議員・県民などの自我がある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我がある。店という構造体では、店長・店員・客などの自我がある。電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我がある。仲間という構造体では、友人という自我がある。カップルという構造体では恋人という自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望であり、四つの志向性で、その欲望を満たすように、深層心理を動かしているのであるる。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかを叶うことができれば、快楽が得られるので、欲動の四つの志向性で、思考するのである。欲動には四つの欲望が存在する。欲動の第一の欲望が自我を確保・存続・発展させたいという欲望であり、簡潔に言えば、自我という社会的な地位や社会的な位置を守りたいという欲望である。自我の保身化(略して保身化)という志向性を有している。欲動の第二の欲望が自我が他者に認められたいという欲望であり、簡潔に言えば、好かれたい・評価されたいという欲望である。自我の対他化(略して対他化)という志向性を有している。欲動の第三の欲望が自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望であり、簡潔に言えば、自我の思い通りにしたいという欲望である。対象の対自化(略して対自化)という志向性を有している。欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であり、簡潔に言えば、理解し合いたい・愛し合いたい・仲良くしたいという欲望である。自我と他者の共感化(略して共感化)という志向性を有している。さて、人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているが、自らが自我を動かしているわけではない。つまり、人間は、最初から、自ら意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して行動しているわけではない。無意識のうちに思考して、すなわち、深層心理が思考して、人間(自我)を動かしているのである。「初めに深層心理ありき」である。深層心理が、自我を主体に立てて、欲動の四つの欲望を満たすことによって、快楽を得るように、志向性の下で、何かを意識して、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間(自我)を動かしているのである。つまり、人間は、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて、行動しているのである。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかを満たすことで、自我が快楽を得るように、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間(自我)を動かしているのである。深層心理は、ひたすらその時その場で、四つの欲望のいずれかを満たして快楽を得ようと欲望して思考する。深層心理には、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求めることを目的にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。深層心理が生み出す感情の最も激しいのは怒りの感情であるが、怒りの感情それだけで生み出されることは無く、常に、相手を殴れなどの行動の指令を伴っている。人間は、侮辱などによって、深層心理が、欲動の第二の欲望が自我が他者に認められたいという欲望が損なわれ、自我が傷つけられると、自我の対他化という志向性によって、深層心理が怒りの感情と相手を殴れなどの行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間(自我)に相手を殴ることを促すのである。しかし、深層心理には、超自我という志向性の作用もあり、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧しようとするのである。超自我は、深層心理に内在する、欲動の第一の欲望である、自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という志向性の作用である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する抑圧は、表層心理に移されるのである。つまり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求める欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考し、抑圧しようとするのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、相手の気持ちや反応、周囲の人の気持ちや反応、道徳観、社会規約などから考慮し、自我が不利益を被らないように、思考するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実的な利得を求める欲望に基づいて、相手を殴ったならば、後に、自我がどうなるかという、将来のことを考え、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。そして、人間は、表層心理で、再び、この状況から逃れるためにはどうしたら良いかと苦悩しながら思考するのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、深層心理が怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。しかし、誰かが自我が傷つけても、深層心理は、時には、傷心の感情から解放されるための怒りの感情と相手を攻撃せよという行動の指令という自我の欲望を生み出さず、うちに閉じこもってしまうことがある。それは、攻撃するには、相手が強大であり、攻撃すれば、いっそう。自我の状況が不利になるからである。そうして、傷心のままに、苦悩のままに、自我の内にこもるのである。それが、憂鬱という情態性である。そのような時、深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことがある。深層心理は、自らの心に、精神疾患をもたらすことによって、現実を見えないようにし、現実から逃れようとするのである。人間は、誰しも、表層心理で、自ら意識して、精神疾患に陥るのではない。また、人間は、誰しも、自らの意志で、精神疾患に陥ることはできない。すなわち、表層心理という意識や意志では、自らの心に、精神疾患を呼び寄せることはできないのである。また、人間は、理由なく、精神疾患に陥らない。深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらし、現実を見えないようにし、現実から逃れようとしたのである。さて、深層心理に内在している欲動の第一の欲望は、自我の保身化(略して保身化)という志向性で、自我を確保・存続・発展させたいという欲望で、快楽を得ようとするのであるが、この欲望が日常生活を成立させているのである。人間の日常生活は、ほとんど、無意識の行動によって成り立っている。それは、第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の志向性にかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動しても何ら問題が無く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を確保・存続・発展させたいという第一の欲望が満たされ、快楽を得ているからである。それが、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由である。また、深層心理は、自我を確保・存続・発展するために、構造体を存続・発展させようとして、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。日本人や韓国人が、竹島という小さな無人島に執着しているのは、日本人や韓国人という自我に執着しているからである。高校生や会社員が、嫌々ながら高校や会社へ行くのは、生徒や会社員という自我を守りたいためである。次に、深層心理に内在している欲動の第二の欲望は、自我の対他化(略して対他化)という志向性で、自我が他者に認められたいという欲望で、快楽を得ようとするのであるが、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとする欲望である。自我の対他化の志向性で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の自我に対する思いを知ろうとするのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の志向性によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の志向性によって起こるのである。高校生や会社員は、高校や会社という構造体で、高校生や会社員という自我を持っていて暮らしている。深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から、高校生や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという欲望を持っている。しかし、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。そこで、深層心理は、傷心という感情とともに不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出した。これが、悪評価・低評価が傷心という感情の理由である。不登校・不出勤は、これ以上傷心したくない、自宅で心を癒やせという深層心理からの行動の指令である。その後、人間は、超自我というルーティーン通りの行動をさせようという志向性で、登校・出勤しようとするのである。超自我が功を奏さなければ、表層心理で、すなわち、理性で、現実的な欲望を求める志向性に基づいて、傷心という感情の下で、不登校・不出勤という行動の指令について意識して思考し、行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのである。超自我の志向性は、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発している。深層心での思考は、現実的な利得を求める欲望から発している。しかし、深層心理が、欲動の第二の欲望である自我を他者に認めてもらいたいという欲望によって生み出した、傷心という感情が強過ぎる場合は、登校・出勤できないのである。そして、人間は、表層心理で、すなわち、理性で、不登校・不出勤を指示する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとするのだが、それも上手く行かずに、苦悩に陥るのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。そして、苦悩が強くなり、自らそれに堪えきれなくなり、加害者である同級生・教師や同僚や上司という他者を数年後襲撃したり、自殺したりするのである。つまり、同級生・教師や同僚や上司という他者の悪評価・低評価が苦悩の原因であり、襲撃や自殺は苦悩から脱出したいという欲望から起こるのである。また、男性が身だしなみを整えること、女性が化粧をすること、いずれも、自我が他者に認められたいという欲望を満足させるためにするのである。さて、人間の最初の構造体は、家族であり、最初の自我は、男児もしくは女児である。フロイトが提唱した精神分析の思想に、エディプス・コンプレクスがある。それは、家族という構造体で、男児という自我を持った者は、深層心理が、母親という他者に対して、男児という自我ではなく、男性という自我から、好評価・高評価を受けて快楽を得ようとして、近親相姦的な愛情というエディプスの欲望を抱き、敵対者として、父親を憎むようになるのだが、父親や社会がそれに反対し、家族という構造体から追放される虞があるので、超自我や表層心理の思考で、抑圧してしまう精神現象である。男児は、家族という構造体の中で、男児という自我を持ったから、深層心理がエディプスの欲望(母親に対する近親相姦的な愛情)という自我の欲望を生み出したのである。男児の深層心理が、エディプスの欲望を抱いたのは、一人の男性という自我を母親という他者から認めて欲しいという欲動の第二の欲望である自我を他者に認めてもらいたいという欲望から起こしたのである。しかし、超自我や表層心理の思考で、男性という自我を捨て男児という自我に戻ることによって、家族という構造体の中での男児の自我を守るために、エディプスの欲望を抑圧したのである。それは、深層心理の欲動の第一の欲望である、自我を確保・存続・発展させたいという欲望にもかない、超自我のルーティーンを守ろうとする欲望にも、表層心理の現実的利得を追求する欲望にもかなっているのである。次に、深層心理に内在している欲動の第三の欲望は、対象の対自化(略して対自化)という志向性で、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望で、快楽を得ようとするのである。深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとするのである。対象の対自化という志向性は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。)という一文で表現することができる。まず、他者という対象の対自化という志向性であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化する志向性から起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化という志向性であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化という志向性であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。また、対象の対自化という志向性が強まると、深層心理には、無の有化、有の無化という志向性が生まれてくる。無の有化という志向性とは、「人間は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。」である。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。ストーカーは、相手の心から自分に対する愛情が消えたのを認めることが辛いから、相手の心に自分に対する愛情がまだ残っていると思い込み、その心を呼び覚ませようとして、付きまとうのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。有の無化という志向性は、「人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込む。」である。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。さて、対象の対自化の作用を徹底させたのが、ニーチェの「権力への意志」という思想である。確かに、人間は、誰しも、常に、対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、他者の視線にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。最後に、深層心理に内在している欲動の第四の欲望は、自我と他者の共感化(略して共感化)という志向性で、自我と他者の心の交流を図り共感したいという欲望で、快楽を得ようとするであるが、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとするのである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるという理由があるのである。しかし、結婚して、夫婦になっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。離婚した人の中には、相手を激しく非難する人がいるが、それは、屈辱感を払いたいという欲望からである。表層心理で、抑圧しようとしても、屈辱感が強いから、相手を激しく非難してしまうのである。相手を激しく非難してしまう理由は、夫婦という構造体が破壊され、夫もしくは妻という自我を確保・存続・発展させたいという欲望が消滅するという、欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さ、そして、夫婦という共感化が失われるという欲動の第四の欲望が失われることの辛さもあるのである。「呉越同舟」は、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。第二次世界大戦で、連合国が団結し、枢軸国が団結して戦ったのは、共感化の現象である。しかし、連合国側が勝利すると、連合国側の一員であるアメリカとソ連の反目が始まったは、互いに相手国を対自化したためである。「呉越同舟」が破産すると、必ず、このようになるのである。さて、表層心理の働きには、二つある。一つは、人間は、表層心理で、自我に現実的な利得をもたらそうとして、深層心理が生み出した感情の下で深層心理が生み出した行動を許諾するか拒否するかを思考することがある。もう一つは、人間は、表層心理の働きで、自らがある情態性にあることを意識したり、自らが対象物や対象事や他者を捉えていることを意識したりして、自らの存在を意識するのである。人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時に、自らの存在を意識する。人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自我がどのような行動や思考をしているかという行動性を意識し、それと同時に、自我がどのような感情や心境という情態性の下にあるかということを意識することである。それでは、なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識し、自我の行動性と情態性を意識するのか。それは、人間は、常に、他者や他人の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じていて、他者や他人に対して警戒の念が生じたからである。さらに、人間は、無我夢中で行動していても、突然、自らの存在を意識し、自我の行動性と情態性を意識することがある。無我夢中の行動とは、無意識の行動である。人間は、そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識し、自我の行動性と情態性を意識することがあるのである。それも、また、人間は、常に、他者や他人の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じていて、突然、他者や他人に対して警戒の念が生じたからである。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持して行動しているが、人間は、表層心理で思考して、行動しているわけではない。表層心理とは、自らを意識することであり、自ら意識して思考することであり、自らの意志である。すなわち、人間は、表層心理で、自ら意識して思考して、自らの意志によって、行動していないのである。深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間はそれに動かされて、行動しているのである。深層心理とは、人間の無意識のうちでの思考である。すなわち、人間は、無意識のうちに、深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのである。人間は、自らの深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に捕らわれて生きているのである。自我の欲望は、感情と行動の指令の合体したものであり、感情が行動の指令を実行させる推進力になり、人間の活動の原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して生み出していない自我の欲望に動かされて生きているのである。それでも、人間が、自らに、自分の存在や自己の存在があると思い込んでいる。それは、人間は、自分の存在に執着し、自己の存在に憧れているからである。執着の念、憧憬の念が、実際には存在していないものを存在しているように思わせるのである。神の存在、来世の存在と同じ現象である。しかし、自らが表層心理で思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、逃れることができないのである。人間は、生きている間、深層心理は感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かし続けるのである。もしも、人間が自我の欲望から逃れることができることがあったり、深層心理が自我の欲望を生み出すことがなくなるようなことが起これば、人間は生ける屍になるしかないのである。人間は、そのような圧倒的な深層心理の力の中で、表層心理で、どれだけ、自らの生きる力を発揮するかが問われているのである。