あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

生きがいと自我(自我その66)

2019-03-22 18:58:22 | 思想
自我とは、自分の社会的なポジションである。例えば、山田太郎、山田晴子は、二人だけで会うと、夫、妻であり、家庭では、父、母であり、道を歩けば、両者とも、通行人であり、職場へ行けば、会社員、銀行員であり、コンビニに入れば、両者とも、客である。自我とは、この、夫、妻、父、母、通行人、会社員、客というポジションを、心身共に自らとして引き受けるあり方なのである。そして、その自我が他者から認められるように行動するのである。自我が他者から認められるように行動する、人間のあり方を対他存在と言う。自我が他者から認められたいという気持ち、つまり、対他存在は、自分で意識して意志したものではなく、深層心理から湧き上がってきた欲望である。我々は、対他存在の意のままに動くしか無いのである。ところで、「生きがいが無い。」、「何をやっても、生きがいが感じられない。」などと不満げに言う人がいる。彼らは自我にあぶれ、自己を見つめ直した時に、自己の不在に気付いたのである。しかし、それは当然のことである。元々、我々には、自己や自分は存在せず、自我だけが存在しているからである。我々は、自我を、自己や自分だと思い込んで暮らしているのである。誤った考え方は、自己とは、自分で自分を認めるという考え方である。確かに、空想的には、そういう考え方で、自己を想定できるが、実際には、そういう自己は存在しないのである。生きがいの不在を嘆いている人は、そこには自分や自己がいないと気付き、本来の自分や本来の自分は何かと自問するが、本質的に、人間には、自分や自己は無いから、自答できないのである。自答できるのは、常に、自我だけである。生きがいがいの不在の嘆きは、自我が認められていないことの不満から発せられるのである。さて、「僕は山田太郎です。」、「私は山田晴子と申し上げます。」と自己紹介するのは、会社や学校でことであり、自分を、あるポジションの人間として認めている人がいる場合に限りのことである。だから、正確には、社内での他者や級内の他者からの自我認知の機会なのである。誰にも尋ねられてもいないのに、「僕は山田太郎だ。」、「私は山田晴子だ。」と言う人はいない。また、それは意味の無いことなのである。氏名とは、人を識別する手段に過ぎないからである。若者には無限の可能性があると言っても、小学生に、「将来の夢は何ですか。」と尋ねると、男子ならば、「サッカー選手です。」、「野球選手です。」、女子ならば、「花屋さん。」、「お菓子屋さん。」と答える子が多い。有限の可能性であり、夢では無く、ありきたりの職業であり、現実である。しかし、子供の夢は、周囲のマスコミによる影響が大きく、言わば、大人たちが与えたものなのである。だから、戦時中の少年たちの夢は、陸軍や海軍の将校であったのである。子供たちも、将来、自らの憧れの職業に就き、大人たちに認められることを夢見ているのである。たとえ、将来、憧れの職業に就けなくても、与えられた職業を、自我として、周囲から認められることを願いながら、生きていくのである。それが叶えば、生きがいになるのである。これが生きがいの実態である。それ故に、生きがいが感じられなくなったならば、自己を見つめ直すのでは無く、自我を見つめ直すこと、つまり、自らの社会的なポジションのあり方を反省すべきなのである。