あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、憎悪や嫉妬心のからくりを理解しない限り、それらに支配し続けられる。(自我その482)

2021-03-31 19:03:45 | 思想
聖書に「人はパンのみにて生くるものにあらず。」という言葉がある。言うまでもなく、パンとは、食糧のことである。聖書は、人間は、生きていくためには、食糧以外に、神の言葉が必要だと言うのである。人間を生かしてくれるのは神であり、神の言葉に従えば、人間が生きていくために必要なものを神が備えてくれると言うのである。さすがに、イエスの教えである。しかし、キリスト教国ではない日本では、一般には、人間は、食べることだけを目的に生きるのではなく、文化的・精神的なことを追求することを目的にして生きるのだという意味で解釈されている。確かに、人間が生きていくためには、食糧だけでなく、他の物や他のことが必要である。それが、キリスト教国では神の言葉、日本では文化的・精神的なことなのである。しかし、人間は、聖書に記されているような高尚な生き方をするようには生まれていない。人間は、パンを食べる時にも快楽を求め、それ以外の時にも快楽を求めているのである。もしも、高尚な生き方を求める人がいたならば、それが快楽に繋がるからである。もしも、人間が、聖書に記されているような高尚な生き方をするようには生まれていたならば、誰が憎悪や嫉妬心を抱くだろうか。人間は、自我が快楽を向かう心が阻害されたから、不快感を抱き、その原因を作った人間に、憎悪や嫉妬心を覚えるのである。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って行動しているのである。しかし、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、憎悪や嫉妬心を抱くのではない。誰が、自ら意識して、自らの意志によって、醜くて不快な憎悪や嫉妬心を抱くだろうか。人間は、無意識のうちに、憎悪や嫉妬心を抱くのである。しかし、理由無く、憎悪や嫉妬心は生まれてこない。人間は、無意識のうちに、思考して、憎悪や嫉妬心を抱くのである。人間の無意識の思考を深層心理と言う。深層心理は、一般に、無意識と言われている。つまり、深層心理が思考して、心の中に憎悪や嫉妬心という感情を生み出すから、人間は、憎悪や嫉妬心を覚えるのである。しかも、深層心理は、憎悪や嫉妬心という感情を単独に生み出しているわけではなく、それらの感情とともに、憎悪や嫉妬心を覚える対象者に対して、侮辱せよ、殴れ、からかえ、いじめてやれ、意地悪をしろなどの行動の指令を、自我に出し、動かそうとするのである。感情は、常に、行動の指令と一体化して、自我の欲望になって現れるのである。すなわち、深層心理が、快楽を求めて、人間の無意識のうちの思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、この自我の欲望に動かされて行動しているのである。人間が行動する時には、必ず、感情が後押ししているのである。人間にとって、感情の伴わない行動は存在しないのである。また、感情も、単独では、存在しないのである。常に、行動の指令という行動への衝迫を伴っているのである。さて、深層心理が、快楽を求めて、人間の無意識のうちの思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているが、快楽は欲動に合致した時に得られるのである。だから、深層心理は、欲動に基づいて、快楽を求めて、人間の無意識のうちの思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。だから、深層心理は、常に、自我を主体に立てて、この四つの欲望のうちのいずれかをかなえようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。さて、欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理は自我の保身化という作用でこの欲望を満たそうとする。この欲望が、人間の基本的な欲望である。なぜならば、人間が人間たる所以は、人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って行動しているということだからである。だから、人間は、離婚、退学、退職などを恐れるのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。深層心理は自我の対他化という作用でこの欲望を満たそうとする。人間は、日々、自我が他者に認められたいという気持ちで暮らしている。家族という構造体では、子供が両親などから、学校という構造体では、生徒が教師や同級生などから、会社という構造体では、社員が上司や同僚などから認められたいと思って行動しているのである。だから、この欲望が裏切られた時、深層心理は、心を傷つけた相手に対して、憎悪の感情と復讐の行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望である。深層心理は対象の対自化という作用でこの欲望を満たそうとする。学校という構造体で、校長が教師や生徒を支配し、建設業者という構造体で、大工が木材という対象を支配して家を建て、大学という構造体で、心理学者は人間の心の動きを対象にして研究するのである。欲動の第四の欲望が、自我が他者と心の交流を図りたいという欲望である。深層心理は自我と他者の共感化という作用でこの欲望を満たそうとする。心の交流を図って、仲間という構造体を作り、友人という自我を得るのである。心の交流を図って、カップルという構造体を作り、恋人という自我を得るのである。また、「呉越同舟」(仲の悪い者たちも、共通の敵が現れると、仲良くする。)も、自我と他者の共感化の現象である。自民党の総理大臣は、中国、韓国、北朝鮮を日本の敵だと煽って、大衆の支持を得ようとするのである。人間は、無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動の四つの欲望に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、自我である人間は、それによって、動きだすのである。さて、人間の対象の他者に対する最も強い不快感は憎悪という感情である。憎悪という感情は、突然、意味も無く、理由もなく、心に湧き上がってこない。それは、決まって、傷心から始まる。憎悪は、復讐の感情である。憎悪は、自分の心を傷つけた相手に対する復讐の感情である。憎悪は、自分の心を傷つけた相手の立場を下位に落とし、相手の心を傷つけることによって、自らの立場を上位に立たせようとすることである。だから、人間は、憎悪という感情を持つと、徹底的に自分の心を傷つけた相手の弱点を突こうとするのである。そこには、見境は無い。自分の心を傷つけた相手の心を深く傷つけられるのならば、何でも構わないのである。自分の心を傷つけた相手の心が最も早く最も深く傷付く方法を考え出し、そこを徹底的に攻めようとするのである。相手の心が最も傷付く言葉で侮辱したり、腕力の劣った相手ならば暴力に訴えようとするのである。憎悪はその時の傷心から逃れるためのものであるから、相手が気にしていることを突いて侮辱するのである。女性に対して、「ブス」、「デブ」などと侮辱し、男性に対して、「能なし」、「ちび」などと侮辱するのである。また、憎悪は傷心から逃れるためのものであるから、相手が腕力が無かったり手が出せない立場ならば平手打ちを食わせたり蹴ったりするのである。すなわち、暴力で、一撃で相手を打ち倒そうとするのである。もちろん、後に、人間は、憎悪によって自ら発した言葉や暴力によって、相手に深くうらまれたり、周囲から顰蹙を買うことによって、自らの立場を危うくすることが多い。本人も、表層心理では、それがわかっている。表層心理とは、人間の自らを意識しての思考である。しかし、その時は、深層心理が生み出した憎悪の感情が強く、表層心理での思考による抑圧は功をなさないのである。深層心理は、強い憎悪の感情と侮辱しろ殴れなどの行動の指令を生み出し、自我である人間はそれに従い、侮辱の言葉や暴力によって、相手を一撃で倒そうと考えているからである。それでは、人間は、どのようなことで、心が傷付くのか。それは、注意されたり、侮辱されたり、殴られたり、陰口を叩かれたりすることなどである。それでは、なぜ、人間は、そのようなことで、心が傷付くのか。それは、自分の立場が下位に落とされたからである。つまり、プライドが傷付けられたからである。人間は、常に、他者に認められたいという欲動の第二の欲望を満たそうと生きているのであるが、それが、認められるどころか、貶され、プライドがずたずたにされたから、深層心理は、心が傷付き、その傷心から立ち上がろうとして、憎悪の感情と相手の心をずたずたにして自分の心を癒やそうとする行動の指令を生み出すのである。言わば、相手によって自らの立場が下位に落とされたから、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせようとするのである。つまり、自らの自我が相手によって下位に落とされたから、相手の自我を下位に落とすことによって、自らの自我を上位にしようとするのである。人間は、常に、深層心理が、自我が他者から認められるように生きているから、自分の心を傷つけた相手に対して、憎悪し、復讐を考えるのである。人間は、常に、深層心理が、自我が他者から認められるように生きているから、自分の立場を下位に落とした相手に対して、憎悪し、復讐し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせようと考えるのである。しかし、それは、抑圧しなければいけないのである。なぜならば、復讐すれば、必ず、後に、その報いを受けるからである。さて、人間の深層心理には、毎日同じことを繰り返すというルーティーン通りの行動を守らせようという作用がある。それが超自我である。超自我とは、深層心理の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化の作用である。超自我がルーティーンの生活を守るために、侮辱や暴力などの復讐を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した憎悪の感情が強過ぎると、超自我の抑圧の作用が功を奏さないのである。そして、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、憎悪の感情の下で、侮辱や暴力などの行動の指令を受け入れるか拒否するかを、自らを意識して、将来のことを考え、自我の現実的な利得を求めて思考するのである。深層心理は、快楽を求める思考だから、そこには、道徳観に基づき社会規約を守ろうと価値観は存在しないが、表層心理での思考は、自我の現実的な利得を求めているから、そこには、道徳観に基づき社会規約を守ろうと価値観が存在するのである。もちろん、人間は、表層心理で思考して、侮辱したり暴力を振るったりすれば、後に、相手に深くうらまれたり、周囲から顰蹙を買い、自らの立場を危うくすることが予想されるから、意志によって、侮辱や暴力を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した憎悪の感情が強過ぎると、人間は、表層心理の思考では、深層心理が生み出した侮辱や暴力などの行動の指令を抑圧できないのである。なぜ、抑圧できないのか。それには、二つの理由がある。一つはストレスを忌避したい気持ちであり、もう一つは自我に執着する気持ちである。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を抑圧すると、ストレスを感じるのである。人間は、誰しも、ストレスなく、暮らしたいと思っている。しかし、毎日、大なり小なり、ストレスを感じている。なぜならば、生きていくために、深層心理が生み出した自我の欲望を抑圧しているからである。なぜ、自我の欲望を抑圧するのか。それは、自我の欲望通りに行動すると、後に、自らの立場が危うくなるからである。例えば、会社や学校で、社員や生徒が、上司や教師に、叱責される。悔しいから、反論したくなる。しかし、反論すると、後に、自らの立場が危うくなるから、恭順の意を表すのである。つまり、自らの立場を守るために、自らの欲望を抑圧するのである。そして、それがストレスになるのである。特に、現代社会はストレス社会だとよく言われる。ほとんど全ての人が何らかのストレスを抱えているからである。現代は、これまでの時代に比べてストレスが感じることが多い社会だと思われているのである。それでは、なぜ、ストレスが感じることが多いのだろうか。むしろ、現代は、これまでの時代には無いような、自由な時代ではないのか。しかし、誰もが現代は自由な時代であると思っていることがストレス社会を作り出しているのである。自由とは、自我の欲望通りに行動できるということである。自由な社会とは、自分の実力が十分に発揮できる社会である。自由な社会の最大のメリットは、自我の欲望通りに、自分の力を存分に発揮でき、それが、他者から好評価・高評価を受けることにあるのである。しかし、逆に、自我の欲望通りに行動できず、自分の力を発揮できず、他者から悪評価・低評価を受けると、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めるのである。それが、ストレスになるのである。自我の欲望が満たされないことがストレスになるのである。現代社会がストレス社会であるとは、自我の欲望が満たされないために、自分の力不足を嘆き、自分自身を責めている人が非常に多いことを意味しているのである。しかし、ストレスを否定的に捉えず、ストレスを受け入れてみたらどうなるであろうか。その方が生きやすいのではないのか。なぜならば、ストレスは、深層心理が生み出した自我の欲望を抑圧したことから生じるが、自我の欲望を抑圧したのは、自我の欲望通りに行動すると、自我に不幸を招くと考えたからである。つまり、現今の小さな喜びを得ることが、将来の大きな不幸を招くから、深層心理が生み出した自我の欲望を抑圧したのである。だから、正しい判断をしたのである。正しい判断をして生じたストレスだから、受け入れれば良いのである。むしろ、ストレスを受け入れることが、ストレスを軽減するのである。なぜならば、納得したストレスだからである。また、現代社会がストレス社会と言われるのは、それほど、現代人は自分に賭けているていることを意味するのである。しかし、現代人が賭けるほど執着している自分とは何であろうか。それを考えると、袋小路に入り込んでしまうのである。なぜならば、人間には、自分という実態は存在しないからである。人間には、自分そのものは存在しないのである。自分とは、他者や他人と区別した、自らの存在でしか無いのである。多くの人が自分だと思っているものは自我なのである。それでは、自我とは何か。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。人間は、自我を自分だと思い込んでいるのである。しかし、人間が、所属している構造体も、持している自我も偶然の産物にしか過ぎないのである。それは、人間は、誰しも、自分の意志によって生まれてきていないことから始まっているのである。そうかと言って、生まれることを拒否したのに、無理矢理、誕生させられたわけでもない。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、そこに存在しているのである。人間、誰しも、親を選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その家の子として存在しているのである。その家族を構造体として、娘、息子を自我として存在しているのである。親も、子を選べない。生まれてくるまで、どのような子なのかわからないのである。その家族を構造体として、父、母を自我として存在しているのである。人間は、誰しも、生まれてくる時代も選べない。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その時代に存在しているのである。だから、現代日本人は、誰しも、藩という構造体に所属できず、武士という自我を持つことはできないのである。人間は、誰しも、生まれてくる国を選べない。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その国に存在しているのである。日本という国に生まれたから、日本という構造体に所属して、日本人という自我を持っているのである。パスカルが、『パンセ』で、「私の人生の短い時間が、その前と後ろに続く永遠のうちに、『一日だけで通り過ぎてゆく客の思い出』のように飲み込まれ、私の占めている小さな空間、さらに、私の眺めているこの小さな空間が、私の知らない、また私を知らない無限のうちに沈んでゆくのを考える時、私はあそこにいず、ここにいるのを見て、恐れ、驚く。というのは、なぜあそこにいずここにいるのか、あの時にいず今この時にいるのか、全然その理由がないからである。誰が私をここに置いたのだろうか。誰の命令と指図によって、この場所とこの時が私のために当てがわれたのか。」と述べているように、誰しも、存在の不安を感じる時があるのである。そこで、その不安を打ち消すために、ますます、人間は構造体と自我に執着するのである。しかし、構造体は時代の産物であり、自我は他者から与えられたものであるから、構造体が消滅し、自我が奪われる不安は拭えないのである。一生、その不安が付きまとうのである。しかし、常に、構造体が消滅し、自我が奪われる可能性を覚悟すれば、この不安は消滅するのである。なぜならば、人間は、偶然に生まれてきているからである。偶然に生まれてきているから、いつか、構造体が消滅し、自我が奪われるのは必然なのである。また、「子供は正直だ」という言葉がある。それは、子供は自我の欲望に正直に言動し、行動するという意味である。子供は、社会性が乏しく、表層心理の抑制や反省の成長が遅れているので、深層心理のままに言ったり、行動したりすることが多いのである。だから、時として、子供は、大人以上に残酷なことをする。その最たるものが、いじめである。大人の世界にもいじめは存在するが、子供の比ではない。残酷な事件は、自分の心に正直に行動した時に、つまり、表層心理の抑えが無く、深層心理が生み出した自我の欲望のままに行動した時に、起こるのである。だから、「子供は正直だ」という言葉を好意的に使ってはいけないのである。さて、人間は、他者が成功を収め、賞賛されているのを見ると、うらやましく思い、嫉妬心を抱くことがある。つまり、嫉妬心も、憎悪と同じく、自我が評価されたいという欲動の第二の欲望から生まれているのである。嫉妬心とは、自らもその成功を収めて賞賛を受けても良いはずなのに、なぜ他者がその成功を収めたのか、悔しく思い、その他者を毛嫌いし、排除しようとする感情なのである。だから、嫉妬の対象者は、自らと同じ立場の他者であり、自らと同じような実力のものである。人間は、誰しも、自分の力の及ばない他者に対しては、嫉妬心は抱かないものである。もちろん、人間は、表層心理で思考して、すなわち、自ら意識して思考して、、自らの意志によって、嫉妬心を抱くのではない。深層心理が思考して、嫉妬心を生み出し、人間に持たせるのである。嫉妬心は、自我が認められたいという欲望が満たされた他者がいて、自らはその欲望が満たされる可能性があったのに、その他者のせいで満たすことができなかったという敗北の悔しさ、そして、その他者がそこにいる限り自らはその自我の欲望を満たすことができないという恨みの心である。つまり、他者は自我が認められたいという欲望を満足させているが、自らはまだ自我が認められたいという欲望を満足させていないばかりか、自我が認められたいという欲望を満足させた他者が存在することによって自らは自我が認められたいという欲望を満足させることができないのではないかと思われた時、深層心理が嫉妬心を生み出すのである。持統天皇が、大津皇子を謀反の罪で処刑したのは、その文武に秀でた実力を嫉妬したからである。実子の草壁皇子に皇位継承をしたいがためである。持統天皇は、『日本書紀』では、沈着で度量が大きく礼にかない、仏教に対して熱心で、歌もよくしたと記されていると描かれているが、実子の草壁皇子に皇位継承をさせ、天皇の母として自我が認められたいという欲望が、大津の皇子に嫉妬し、冤罪で死に追いやったのである。また、無名大学出身者は自我が認められたいという欲望がかなっているように思われる有名大学出身者に対する嫉妬心で苦しむのである。少女アイドルグループは、仲が良いように装っているが、実際は、自我だけが認められたいという欲動の第二の欲望から来る互いの嫉妬心から心から仲良く交際できないでいるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体を作り、友人という自我で、構造体に所属していない同級生をいじめるのは、連帯感の喜びを感じているとと共に一人で生きている者への嫉妬心も一因である。カップルや夫婦という構造体にある者が、相手から別れを告げられてストーカーになるのは、自分の代わりの恋人や妻もしくは夫に対する嫉妬心からである。このように、嫉妬心は醜くて恐ろしいものである。嫉妬心に取り憑かれた人間は、殺人すらも犯してしまうことがあるのである。しかし、人間、誰しも、嫉妬心を抱く時があるのである。嫉妬心は、深層心理が生み出すから、人間は、嫉妬心を無くすことはできないのである。そして、人間は、自らのそれに堪えきれないから、嫉妬心をライバル心に読み替えたのである。自分が嫉妬を覚える人間を良きライバルというように好敵手に仕立て上げたのである。ライバル心という実際には存在していない心が存在していてほしいという深層心理の欲望が、深層心理をして、存在しているようにに思い込ませたのである。これが、深層心理による、無の有化作用である。つまり、深層心理は存在していてほしいという欲望によって、無意識に、実際には存在していないライバル心を存在しているように思い込んでしまったのである。しかし、深層心理は、恣意的に、実際には存在していないものを存在しているように思い込むのではない。無の有化作用には、志向性が存在するのである。その志向性とは、あるものの存在が、深層心理にとって絶対必要不可欠であり、それが存在すれば、深層心理に、すなわち、人間に、安らぎを与えるということである。無の有化作用による存在の典型として、神の存在がある。人類が神を創造したのは、深層心理が、神が存在しなければ生きていけないと思ったからである。ニーチェは、「人間の認識する真理とは、人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬である。」と言う。まさしく、人間の一生は、「人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬」を重ね続け、「仮象」を「巧みに張り巡らす」ことなのである。人間は嫉妬心という「真理」を「深く洞察」すれば、自らを「滅ぼしかねない」ので、ライバル心によって「誤謬」を「作為」し、「仮象」を「巧みに張り巡らす」しかないのである。嫉妬心という「真理」は人間の生に無用だが、ライバル心という「誤謬」は「人間の生に有用」だからである。そして、この「誤謬」は有効なのである。






人間は、ニーチェの言うように、力への意志によって、永劫回帰を求めて生きている。(自我その481)

2021-03-28 15:12:37 | 思想
ニーチェに、力への意志、永劫回帰という思想がある。人間は、力への意志によって、永劫回帰を求めて生きているのである。そして、人間は、永劫回帰することによって、力のへの意志を実現しようとするのである。永劫回帰とは、この世に存在しているものやあることは永遠に同じことを繰り返すという思想である。しかし、真実は、逆である。この世に存在しているものやことは永遠に同じことを繰り返すのではなく、人間は、同じことを繰り返すものやことしか理解できないから、それらに存在の称号を与えたのである。人間は、同じことを繰り返すものやことしか理解できないから、無意識のうちに、同じことを繰り返すものやことだけがこの世に存在していると思い込んでいるのである。さらに、それらが、永遠に存在していないと不安だから、永遠に存在していると思い込んでいるのである。もちろん、同じことを繰り返すのは、人間自身にも当てはまる。人間は、同じことを繰り返さないと存在の実感をできず、力への意志が湧かないから、同じことを繰り返すのである。力への意志とは、自我を最大限に伸張させることである。そして、人間は、永遠に存在しているように思いたいから、自分が死んでも、子孫が連綿と自分の命をつないで、自分の永遠の命を保証してくれると思い込んでいるのである。さらに、それに飽き足らず、自分が死んでも、あの世が存在し、そこには、神や仏が存在し、自分の永遠の命を保証してくれると思い込んでいるのである。だから、あなたは、今日、家に閉じこっていれば、明日も、今日と同じように、家に閉じこもっているだろう。そして、明日も、今日と同じようなことをして、一日を過ごすだろう。あなたは、今日、学びの場や勤務先へ行けば、明日も、今日と同じように、そこへ行くだろう。そして、明日も、今日と同じようなことをして、過ごすだろう。人間は、毎日、家、学校、会社、店、仲間、カップルなどの構造体で、自我を持って、同じようなことを繰り返して暮らしているのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、構造体の中で、自我を持って、同じようなことを繰り返して暮らしているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、国民という自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我があるのである。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。自我を持つとは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らもそれを認めている状態である。それは、アイデンティティーが確立された状態である。人間は、自我を得て、アイデンティティーが確立された状態になって、権力への意志を遂行するための足がかりを得ることができるのである。なぜならば、権力への意志とは、自我を最大限に伸張させることであるからである。しかし、人間は、自我を持つことによって安心するが、意識して、自我を持つのでは無い。深層心理が自我を持つのである。深層心理が、自我を持つことによって安心するのである。それが、アイデンティティーが確立された状態である。深層心理とは人間の無意識の思考である。そして、人間は、自我を持つと同時に、深層心理が、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。人間の行動の起点は、意識しての思考では無く、深層心理によってなされるのである。深層心理は、永遠に快楽を求め、すなわち、永劫回帰して、自我の欲望を生み出し、人間に、今日も、昨日と同じようなことをするように強いるのである。深層心理は、自我を永劫回帰することで、力への意志を実現しようとするのである。人間は、同じことを繰り返さなければ、力を蓄えることができないのである。力への意志とは、自我を最大限に伸張させることであるから、深層心理は、自我を永劫回帰させることで、自我を最大限に伸張させようとしているのである。だから、基本的に、人間は、今日も昨日と同じようなことをするのである。だから、人間は、毎日、同じようなことを繰り返しながら、生きているのである。それが、ルーティーンである。人間の日常生活は、毎日同じようなことを繰り返すルーティーンになっているのである。それは、人間が、自ら意識して思考して、自らの意志によって行っているからではなく、深層心理がそれを望むからである。表層心理とは、自らの存在を意識することであり、自らを意識して思考することであり、自らを意識して思考した結果を意志として行動することである。しかも、人間は、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。すなわち、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動し、表層心理で深層心理が生み出した行動の指令に対して審議すること無く行動することが多いのである。それが、無意識の行動である。日常生活がルーティーンになるのは、無意識の行動だから可能なのである。深層心理が日常生活をルーティーンにするようにを望むからだけでなく、人間は表層心理で意識して思考することが無ければ楽だからである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。さて、深層心理が、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのであるが、欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動が、深層心理を動かしているのである。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなえば、快楽を得ることができるのである。だから、深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。さて、欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。自我を失えば、力追求の手段が無くなるからである。退学者・失業者が苦悩するのは、生徒・会社員という自我で温かく迎えてくれる構造体が数少ないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、高級官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、正義よりも自我が大切だからである。力への意志の現れである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は、自殺した生徒よりも自分たちの自我を大切にするから、事件を隠蔽するのである。いじめた子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないから、いじめの事実を隠し続け、自殺にまで追い詰められたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、構造体を維持しようとするのである。力追求の手段が無くなるからである。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、構造体の消滅を認めるしかないから、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとする者まで現れるのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。そうしないと、力への意志を発揮できないからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけず、生きる目標を失ってしまうから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できず、力への意志を発揮できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。それは、また、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望がかなった生活をしているということなのである。つまり、権力への意志に基づいた生活なのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望であるが、深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。自我の対他化とは、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。この欲望がかなえば、自我が伸張し、力への意志が満足できるのである。だから、深層心理は、自我が他者から見られていることを意識して思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそううとするのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人が自分をどのように思っているか探り、その後、どのようにすれば、その人から好評価・高評価を得られるかと考えて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。ているかを探ろうとする。ラカンに、「人は他者の欲望を欲望する」という言葉がある。それは、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」という意味である。ラカンのこの言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。他者の欲望を獲得することが、力への意志の表れなのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から生徒や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なると、苦悩に陥るのである。また、受験生が有名大学を目指すのも、少女がアイドルを目指すのも、自我を他者に認めてほしいという欲望を満足させるためである。つまり、力への意志によるものなのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望であるが、深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。対象の対自化は、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。快楽を得られるということは力への意志が満たされたからである。自我の対他化は自我が他者によって見られることならば、対象の対自化は自我の志向性(観点・視点)で他者・物・現象を見ることなのである。いずれも、力への意志によるのである。対象の対自化には、有の無化と無の有化という作用がある。まず、有の無化という作用であるが、それには二つの機能がある。その一つは、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。)という一文で表現することができる。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。まさに、自我の伸長という力への意志の現れである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の思いを探りながら、他者を支配することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することであり、実際に、他者を支配し、力を発揮することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られ、力への意志が満たされるのである。他者たちのイニシアチブを取ったり、牛耳たりすることができれば、快楽を得られるのである。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。いずれも、力への意志による。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。わがままは盲目的な力への意志の衝動である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、力への意志が発揮され、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば、力への意志が発揮され、快楽を得られるのである。次に、有の無化のもう一つの作用であるが、それは、人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。つまり、力への意志が、深層心理の思考にも力を及ぼすことがあるのである。次に、無の有化の作用であるが、それは、「人は自己の欲望を心象化する」という言葉で言い表すことができる。それは、人間は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造するという意味である。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。これも、また、力への意志が、深層心理の思考にも力を及ぼしたのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。力への意志は、他者と一体化することによって、自我を伸張させようとするのである。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。つまり、力への意志の欲望が満たされたのである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。これも、また、力への意志の欲望が満たされたのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。一人で権力への意志を追求できないから、他者の力を借りるのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは、何よりも、他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、価値があるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終われば、互いに相手を対自化し、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否するという仲の悪い状態に戻るのである。本来の権力への意志に戻るのである。しかし、日常生活が破られることがある。それは、侮辱などによって、自我が傷つけられた時である。自我が傷つけられたならば、深層心理は、怒りの感情とともに侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出す。深層心理は、怒りの感情によって、人間を動かし、侮辱・暴力などの過激な行動を行わせ、自我を傷つけた相手をおとしめ、傷付いた自我を癒やそうとするのである。それは、自我が他者に認められたいという欲望が、他者によって、自我をおとしめられ、阻害されたからである。深層心理は、このままでは、自我をおとしめられた状態で、力への意志への道が閉ざされたままであると思うから、怒りの感情とともに侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、状況を変えようとするのである。しかし、そのような時には、まず、超自我が、ルーティーンを守るために、侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。深層心理には、超自我という、毎日同じようなことを繰り返すルーティーンを行うように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとする機能も存在するのである。それは、ルーティーンを守れば、自我を存続でき、力への意志の足がかりが確保できるからである。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、自らを意識して、表層心理で、思考することになる。表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、基本的に、長時間掛かるのである。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な自我の利得を求めようとして、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。表層心理での現実的な自我の利得を求めようという欲望の下での思考は、深層心理の快楽を求める欲望の下での思考と異なり、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、行われる。つまり、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実的な自我の利得を求めようとして、深層心理が指令しているように相手を侮辱したり殴ったりしたならば、後に、自我がどうなるかという、相手の気持ち、周囲の人の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧しようと考えるのである。表層心理での現実的な自我の利得を求めようという欲望も、力への意志の現れである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を侮辱したり殴ったりしてしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、暫くは、苦悩の中での思考がが続くのである。さて、確かに、日常生活のルーティーンが破られた時、常に、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、自我に現実的な利得をもたらそうとして、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考するが、それ以外に、人間は、自らを意識して、表層心理で、現実的な利得を求めて、思考する時がある。それは、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時である。そのような時に、人間は、自らを意識する。つまり、人間は、他者の存在を感じた時、自らを意識して、表層心理で、自我に現実的な利得をもたらそうとして、思考するのである。自らを意識するとは、自らの存在を意識することであり、自らの現在の行動や現在の思考を意識することである。そして、自らの存在を意識すると同時に、思考が始まるのである。それが、表層心理での思考である。それでは、なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識し、表層心理で、自らの行動や思考を意識し、自我に現実的な利得をもたらそうとして、思考するのか。それは、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。さらに、無我夢中で行動していて、突然、自らの存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識することがあるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じた時、表層心理で、自らの存在を意識して、現実的な利得を求めて、思考するのである。それでは、なぜ、人間は、他者の存在に脅威を感じるのか。それは、他者は何を考えているか、そして、何をするかわからない存在者であるからである。人間は、他者の脅威の中で、他者から認められたい、他者を支配したいという力の意志を持って、自我を永劫回帰させようとするから、存在の難しさがあるのである。


人間とは、快楽を追うように作られた存在者に過ぎないのか。(自我その480)

2021-03-25 13:57:02 | 思想
人間は、誰しも、自由に行動したいと思っている。なぜならば、自由に行動できなければ、不快だからである。もちろん、自由に行動できたとしても、快楽が得られるとは限らない。しかし、自由に行動できなければ、必ず、不快感が心に満ちあふれるのである。だから、誰しも、自由を求めるのである。しかし、快楽はどこかに隠れていて、それを見つけ出せれば得られるというものではない。しかし、人間は、経験から、どのような時、快楽を得られるか知っている。快楽を得るには自我と他者が関わっているのを知っている。快楽は、自我の容姿や行動が他者から好評価・高評価を受けた時に生まれるのを知っている。人間は、自我が他者から、好かれたり、褒められたりすると、自我に自信を持ち、心の中に、快楽が生まれるのである。快楽は、外部からやってこない。しかし、快楽は、外部の他者と関わらなければ、人間の内部の心に生まれない。自我が他者から好評価・高評価を受けると、人間の心の中に快楽が生まれ、すなわち、心の中に快楽が湧出し、人間は自ら快楽を得るのである。だから、快楽の出現は、人間の心の中だけに起きる出来事であり、独りよがりなものであると言うことができる。しかし、人間の心の中だけに起きる独りよがりな出来事であると言っても、自ら意識して、自らの意志で、快楽を生み出すことができないのである。人間の意識しての思考と意志を表層心理と言う。すなわち、人間は、表層心理では、快楽を生み出すことができないのである。人間が、表層心理でできることは、自らの心に快楽があることを意識することである。深層心理が、快楽を生み出すのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。深層心理が、人間の無意識うちに、自我が他者から好評価・高評価を受けたことを認識して、快楽を生み出したのである。すなわち、人間は、深層心理によって、心に快楽を得たのである。しかし、多くの人は、深層心理の存在を知らず、自我が他者から好評価・高評価を受けると、自然に、若しくは、機械的に、心の中に快楽が生じると思っているのである。ちなみに、人間が、麻薬や覚醒剤や酒に手を出すのは、自我が他者から好評価・高評価を受けなくても、快楽を手に入れたいからである。そして、逆に、人間は、侮辱されたり無視されたりすると、すなわち、自我が他者から悪評価・低評価を受けると、心が傷付き、心が重くなるのである。これも、また、人間は、自ら意識して、自らの意志で、すなわち、表層心理で、自らの心を重くしたのではない。深層心理が、人間の無意識のうちに、自我が他者から悪評価・低評価を受けたことを認識して思考して、自らの心を重くしたのである。つまり、深層心理には、自我に対する他者の評価という価値観があるから、自我が他者から好評価・高評価を受けると喜び、快楽を生み出し、自我が他者から悪評価・低評価を受けると傷心し、心を重くするのである。しかし、多くの人は、深層心理の存在を知らず、常に、自ら、意識して、思考して、すなわち、表層心理で思考して、自らの意志で行動していると思っているのである。そして、自由とは、自ら意識して思考して生み出した結論の通りに、自らの意志で、行動することだと思っているのである。しかし、自らの行動を考えてみればわかることだが、多くの行動は、自ら意識して思考していず、意識して自らの意志によってなされていないのである。無意識のうちに行っている行動なのである。すなわち、深層心理が思考した結果の行動なのである。多くの人の毎日が、同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。無意識の行動とは、人間は、表層心理で、自らの現在の状態を意識することなく、自らを意識して思考すること無く、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動することである。日常生活がルーティーンになるのは、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を望むのである。さらに、人間にとって、深層心理が生み出した行動の指令に従ったルーティーンの生活という習慣的な生活が安全であり、安定しているから、それを望むのである。つまり、深層心理は、受動的に思考して快楽や傷心という感情を生み出すだけでなく、能動的に快楽を求めて思考して行動の指令を生み出し、自我である人間を動かしているのである。だから、自由とは、深層心理が快楽を求めて思考して生み出した行動の指令のままに、行動することなのである。自由とは、人間が、表層心理で思考して、すなわち、自ら意識して思考して、生み出した結論の通りに、自らの意志で、行動することではないのである。人間が、自ら意識して思考するのは、すなわち、表層心理で思考するのは、日常生活において、異常なことが起こり、ルーティーンの生活ができない時である。人間が、自ら意識して思考するのは、すなわち、表層心理で思考するのは、深層心理が快楽を求めて思考して生み出した行動の指令のままに行動することができない時である。つまり、人間が、表層心理で思考するのは、不自由を感じた時である。人間は、不自由を感じるから自由の状態に思いを致すのである。そして、自由とは、自ら意識して思考して、自らの意志で、すなわち、表層心理で思考して、行動することだと思い違いをするのである。真実は、自由とは、深層心理が快楽を求めて思考して生み出した行動の指令のままに、行動することなのである。だから、自由とは表層心理で思考して行動することだと思っている限り、人間には自由は存在しないのである。そもそも、人間には、自ら意識して思考して自らの意志で行動するという意味での自由は存在しないのである。自由の状態とは、深層心理が快楽を求めて思考して生み出した行動の指令のままに行動することだからである。さらに、人間の行動の目的は、快楽を求め、不快から脱却すること以外には存在しないのである。快楽という甘い誘惑と不快という苦痛が人間を動かしているのである。
人間は、自我が他者から好評価・高評価を受けると、深層心理が喜び、快感を生み出し、自我が他者から悪評価・低評価を受けると、深層心理が傷心し、不快感を生み出すのである。だから、人間は、自我が他者から好評価・高評価を受けることを善しと考え、自我が他者から悪評価・低評価を受けることを悪しと考えるのである。そして、深層心理は、快感に満足し、次にも。快感を得ようとして、すなわち、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。深層心理は、不快感に不満を覚え、不快感から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。つまり、快感、不快感を覚えるのも深層心理であり、快感を求めて、不快感から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのも深層心理なのである。確かに、人間は、表層心理で、自らの快感、不快感を意識する。しかし、表層心理によって、すなわち、意志によって、快感を維持することも、不快感を消滅させることもできないのである。つまり、人間は、表層心理によって、すなわち、意志によって、感情を生み出すことも、維持することも、消滅させることも、変化させることもできないのである。確かに、人間は、自らの状態を意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、自らの行動を考えることがある。しかし、深層心理が納得しなければ、表層心理で思考して生み出した行動を実行できないのである。なぜならば、人間の行動は感情と一体化したものであり、表層心理によっては感情を生み出せないので、表層心理で思考して生み出した行動には力が無いからである。深層心理が、表層心理で思考して生み出した行動を読み取り、納得し、深層心理が思考して生み出した行動のように感情を付与したものだけが、行動に移せるのである。だから、人間は、苦悩の果てに、良い行動を考えついたと思っても、実行できないことが往々にしてあるのである。なぜならば、苦悩とは、人間が、苦痛の下で、表層心理で、思考することであるから、表層心理で、良い行動を考えついたと思っても、深層心理が納得しなければ、実行できないからである。このように、深層心理が、快感を生み出し、快楽を求めて思考して、人間を動かしているのである。深層心理が、不快感を生み出し、不快から脱却しようと思考して、人間を動かしているのである。つまり、快楽があるから、深層心理はそれを求めることを目標にして思考して人間を動かし、人間は、それによって、行動し、生きていくことができるのである。それでは、快楽とは何か。それは、幻覚ではないのか。いや、幻覚ではない。誰しも、感じることができるからである。しかし、それでは、それぞれの快楽は、皆、同じ感情なのか。また、別の感情を快楽だと勘違いしている人はいないのか。しかし、快楽という言葉があり、誤解無く使われているから、同じ感情である。むしろ、快楽という言葉が既に存在していて、深層心理は、その言葉に合わせて感情を生み出しているのであるから、誰しもに共通な快楽という感情が存在するのである。しかし、快楽は見せることができないから、無ではないのか。いや、無でない。なぜならば、深層心理は、快楽を生み出し、また、快楽を求めて思考し、行動の指令を生み出しているからである。人間は、それを感じ取り、それを求めて行動しているからである。しかし、人間は、誰一人として、自らの快楽を他者に見せることはできない。また、人間は、誰一人として、意志では、すなわち表層心理では、快楽を生み出すことはできない。快楽は、何かをすることによって、生まれてくるのである。すなわち、深層心理が生み出すのである。さらに、同じことをしても、誰しもに、常に、快楽が生まれてくるわけではない。だから、実験によっても、快楽の存在を証明できない。そして、快楽は、一瞬のうちに、若しくは、徐々に、消えていく。快楽が継続しているように見えるのは、快楽の余韻に浸っているだけなのである。しかし、その余韻も、必ず、消滅する時が来る。そして、深層心理は、再び、快楽を求めて、思考して、行動の指令を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。人間は、再び、快楽を求めて、深層心理が生み出した行動の指令に基づいて、行動を起こすのである。また、快楽は、一瞬のうちに消えていくことがあるから、幻覚とも、無とも言うこともできる。しかも、人間は、表層心理で、意識して、快楽を得るための行動を考え出して、それを実行しているわけではない。深層心理が、人間の無意識うちに、思考して、快楽を得るための行動を考え出して、それを実行しているのである。すなわち、深層心理が、快楽を得るための行動を考え出し、人間は、それを実行しているのである。深層心理が、常に、快楽を得るための行動を考えているから、人間は、それに従って、常に、快楽を得るための行動ができるのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の存在に気付かず、表層心理での思考しか知らないから、表層心理で、快楽を得るための行動を考え出し、それを実行していると思い込んでいるのである。もしも、人間の意識しての思考だけが、すなわち、表層心理での思考だけが人間の思考だと言えるならば、人間は、常に、立ち止まって、意識して、快楽を求めるような行動を考え出し、その後で、それを実行しなければならない。しかし、誰が、そのようなことしているだろうか。しかし、深層心理が、快楽を得るための行動を考え出し、人間は、それを実行して快楽を得ているとしても、また、快楽は一瞬の出来事だとしても、快楽を幻覚だとか無だとかと言って否定することはできない。なぜならば、快楽を否定することは、人間の存在を否定することだからである。人間の生きる目的は快楽を求めることなのである。だから、希望とは、深層心理が快楽を得る可能性のある行動が考えている、若しくは、深層心理が快楽を得る行動を考えることができる余裕ある状態にあるということなのである。逆に、絶望とは、深層心理が、快楽を得られる可能性のある行動を考え出せず、深層心理が快楽を得るような行動を考えるような余裕のある状態ではないということなのである。人間は、絶望に陥ると、その精神の重さに堪えられない人は、ある人は、大麻や覚醒剤や麻薬などに手を出すことによって、現実から逃げようとし、ある人は、深層心理が鬱病や統合症や離人症などの精神疾患に自らを罹患させて、現実から逃げようとし、ある人は、自殺という存在そのものを抹殺する手段によって、現実から逃げようとする。それほどまでに、快楽のない現実、快楽が考えられない現実は、人間に、重くのしかかってくるのである。しかし、人間は、快楽の実態を捉えきれないのである。人間の知的能力には、限界があるからである。しかし、人間は、自らが捉えきれないもの、すなわち、それ以上遡及できないものに動かされて生きているのである。聖書に「初めに言葉ありき」という言葉がある。この世は神の言葉によって作られたという意味である。人間の限界ある知的能力では、全知全能の神を捉えきれないのである。それ故に、この世には、捉えきれないものが存在するのである。また、聖書に「人はパンのみにて生くるものにあらず」ともある。人間は生きるという欲求を満たすだけでは満足できず、高尚な生き方を求めて生きていくという意味である。なぜ、高尚な生き方を求めるのか。聖書には、それが記されていない。聖書の「人はパンのみにて生くるものにあらず」という言葉は絶対真理であり、これ以上遡及してはいけないことなのである。まさしく、「初めに言葉ありき」である。聖書にとって、人間は生きることができるというだけでは満足できず、高尚な生き方を求めて生きていくということは、これ以上遡及できない絶対真理なのである。しかし、人間は生きるという欲求を満たすだけでは満足できず、高尚な生き方を求めて生きていくという主張は正しかったとしても、高尚な生き方を求めるのも快楽を得るためである。もちろん、聖書は、高尚な生き方を求めるのは快楽を得るためであるという主張を認めることはないだろう。キリスト教は、快楽は人間を堕落すると考えているからである。しかし、キリスト教に拘泥する必要は無い。確かに、「人はパンのみにて生くるものにあらず」という主張は正しい。人間は生きるという欲求を満たすだけでは満足できず、快楽を得るために行動するのである。それでは、人間は、何を基に快楽を得ているか。人間は、自我を基に、快楽を得ているのである。人間に、自我が存在しなければ、快楽は生まれないのである。だから、人間は、自我にこだわるのである。人間は、自我を主体に立てて、快楽を得ようとするのである。さて、自我とは何か。自我とは、構造体の中で、役割を担ったポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、国、県、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなど、大小さまざまなものがある。自我も、その構造体に所属して、さまざまなものがある。国という構造体では、総理大臣・国会議員・国家公務員・国民などの自我がある。県という構造体では、知事・県会議員・地方公務員・県民などの自我がある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我がある。店という構造体では、店長・店員・来客などの自我がある。電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我がある。仲間という構造体では、友人という自我がある。カップルという構造体では恋人という自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動している。人間は、構造体に所属し、自我を持つことによって、自分の役割・役目を認識し、それに沿って行動するのである。しかし、人間は、先天的に自我を有しているわけではない。人間は、カオスの状態で、動物として、生まれてくるのである。人間は、カオスの状態で生まれてきて、不安だから、コスモスの状態を求め、構造体に所属し、自我を持とうとするのである。人間は、精神が安定するには、安定した構造体に所属し、安定した自我を有していなければならないのである。人間は、安定した構造体に所属し、安定した自我を持つようになって、精神が安定し、安心して、快楽を求めて行動できるようになるのである。人間は、自我が不安定になれば、若しくは、所属している構造体が不安定になれば、深層心理が、絶望に陥り、快楽を得るような行動を考えるような余裕のある情態性を失い、快楽を得られる可能性のある行動を考え出せなくなるのである。さて、人間の最初の構造体は家族であり、最初の自我は息子・娘である。人間は、家族という構造体に所属し、息子・娘だという自我が得られて、初めて、安心感を得ることができるのである。深層心理は、家族という構造体に所属し、息子・娘だという自我が得られて、初めて、安心感を得て、快楽を求めて、思考できるのである。自我の成立は、アイデンティティーの確立を意味するのである。幼児が息子・娘という自我を持ったということは、動物を脱し、人間になったということ、つまり、人間界に入ったことを意味するのである。しかし、幼児が、家族という構造体の中で、息子・娘という自我を持ち、人間になった時から、息子は母に対して、娘は父に対して性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を抱き始めるのである。つまり、深層心理は、構造体の中で、自我が持ち、安定すると、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を持った幼児を動かそうとするのである。幼児の深層心理は、家族という構造体の中で、息子・娘という自我の安定という快楽を得たから、次は、息子・娘という自我の発展のために、母・父に対して性愛的な快楽を求めて、自我を持った幼児を動かそうとするのである。それが、エディプスの欲望である。エディプスの欲望とは、最も自分に親しげに愛情を注いでくれる異性の親という他者に対する性愛的な欲望である。人間界に入るということ、つまり、人間になるということは、異性の他者に対して性愛的な欲望を抱けるということなのである。幼児が、人間になれば、すなわち、家族という構造体の中で、息子・娘であるという自我が成立すれば、深層心理が、異性の親である、母・父に対して性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を抱き始めるのは当然なのである。これが、フロイトの言う、エディプスの欲望である。母・父に対する性愛的な欲望(近親相姦的愛情)、すなわち、エディプスの欲望をかなえることが、幼児期における人間の共通の欲望なのである。しかし、もちろん、この欲望は決してかなえられることは無く、幼児は、絶望することになる。それは、男児の母への性愛的な欲望(近親相姦的愛情)には父が大きな対立者として立ちふさがり、女児の父への性愛的な欲望(近親相姦的愛情)には母が大きな対立者として立ちふさがり、絶対的な裁き手としての社会(周囲の人々)もこの欲望を容認せず、父・母に味方するからである。そこで、男児・女児は、この家族という構造体の中で生きていくために、そして、社会(周囲の人々)の中で生き延びるために、自我の欲望を、深層心理(無意識の世界)の中に抑圧するのである。つまり、自我の安定のために、自我の欲望を抑圧するのである。これが、フロイトの言う、所謂、エディプス・コンプレクスである。つまり、人間になるということは、家族という構造体において、息子・娘という自我が成立し、アイデンティティーが確立された時から始まるが、それとともに、エディプスの欲望という自我の欲望が生じるのである。もちろん、それは、社会的には悪事である欲望だから、他者や他人から反対され、自らも抑圧しようとするのである。しかし、幼児だから、このような、悪事となる自我の欲望を抱くのではない。人間は、死ぬまで、悪事となる自我の欲望を抱き続けるのである。なぜならば、人間は、死ぬまで、常に、何らかの構造体に属し、何らかの自我を持っているから、自我が安定すれば、自我の発展のために、さまざまな自我の欲望が、深層心理から湧いてくるからである。深層心理の快楽を求める欲望には、道徳観や社会規約が無く、自我の発展を目的としているから、深層心理が生み出した自我の欲望には、悪事となる欲望は、必ず、存在するのである。もちろん、男児・女児が性愛的な欲望(近親相姦的愛情)という自我の欲望を抑圧したのは、道徳観や社会規約からではなく、父・母、(周囲の人々)が容認せず、家族という構造体から追放される虞があるからである。深層心理の中にある、超自我という、日常生活をルーティーンに、すなわち、今日も昨日と同じように送ろうという欲望からである。しかし、幼児期以後も、人間の中には、母・父に対する性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を抱く者が出現するのである。快楽を求める欲望は、飽くなき欲望なのである。しかし、その時も、超自我が抑圧に向かい、超自我が抑圧ができなかったならば、人間は、表層心理で、道徳観や社会規約を使って、現実的な利得を求める欲望の下に思考して、抑圧しようとするのである。道徳観は、成長するに従い、周囲の大人から与えられ、また、社会規約は、自ら、社会(周囲の人々)の中で生き延びるために体得していくものである。道徳とは、人のふみ行うべき道であるが、社会の秩序を成り立たせるために、個人が守るべき規範とされているものである。社会は、取り締まるべきことを、道徳観で取り締まり、それで果たせないならば、法律などの社会規約で取り締まるのである。しかし、深層心理が生み出す自我の欲望の感情が強すぎると、人間は、深層心理の超自我や表層心理の現実的な利得を求める欲望の下での思考を乗り越えて、自我の欲望をかなえようとするのである。それが、時には、偉大なものを創造することもあるが、往々にして、犯罪に繋がるのである。芸能人が不倫すると、マスコミや大衆は非難する。しかし、芸能人ならずとも、安定した生活に満足できないのである。確かに、不倫した芸能人も、最初は、安定した生活を快楽として求める。しかし、生活が安定すると、次は、発展した生活を快楽として求めるのである。人間、誰しも、不倫が道徳に反した行為だとわかっている。しかし、深層心理の快楽を求めて、思考して、生み出した、自我の欲望の感情が強すぎると、深層心理の超自我や表層心理の現実的な利得を求める欲望の下での思考を乗り越えて、自我の欲望をかなえようとするのである。それほど、深層心理の快楽を求める欲望、すなわち、深層心理の快楽を求める欲望は強いのである。さて、人間は、日常生活において、絶望に陥っていなければ、深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて行動している。深層心理が自我を主体に立てて思考しているのであり、人間が、主体となって、思考しているのではないのである。自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我自身が主体的な思考ができず、もちろん、主体的に行動もできないのである。つまり、人間は、主体的な存在者ではないのである。人間の行動は、主体的なものではなく、全て、深層心理が、自我を主体に立てて思考して生み出した自我の欲望の現れなのである。しかし、それでも、人間は、表層心理で、自ら意識して、思考することがある。その思考の結果が意志である。しかし、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が思考して生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議する時だけなのである。しかも、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、表層心理で意識することなく、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することである、無意識の行動だから可能なのである。人間の行動は、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動が、ほとんどなのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。そして、深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、行動していないのである。人間の表層心理で思考が理性である。人間は、理性性で行動しているのではなく、深層心理が快楽を思考して生み出した自我の欲望によって生きているのである。しかし、多くの人は、深層心理の存在を知らず、深層心理の思考の力を知らないから、自我の欲望の存在に気付くことがあると、自らが表層心理で意識して思考して生み出しているように誤解するのである。しかし、自らが表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているのであるから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自我の欲望は、紛れもなく、自らの欲望だから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きているのである。さて、深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかを叶えれば、快楽が得られるので、欲動の四つの欲望に従って、思考するのである。深層心理に内在している欲動には、四つの欲望がある。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、簡潔に言えば、自我という社会的な地位や社会的な位置を守りたいという欲望である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望であるが、簡潔に言えば、好かれたい・評価されたいという欲望である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望であるが、簡潔に言えば、自我の思い通りにしたいという欲望である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、簡潔に言えば、理解し合いたい・愛し合いたい・仲良くしたいという欲望である。深層心理は、快楽を求めて、欲動の四つの欲望のいずれかが叶うように、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っているのは、深層心理が、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、表層心理で自我の欲望を意識することなく、自我の欲望のままに行動しているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で意識して考えることがなく、無意識の行動だから可能なのである。また、人間は、表層心理での、現実的な利得を求める欲望に基づいて、意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想そのものである。しかし、人間の生活は、必ずしも、毎日が、平穏ではない。嫌なことがある。それでも、学校や職場へ行くのである。それは、深層心理の超自我がルーティーンを守る欲望が、学校や会社に行かないという深層心理が思考して生み出した行動の指令を抑圧しているからである。もしも、深層心理の超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、意識して、思考して、ルーティーンを守るために、自我の欲望を抑圧するのである。そして、明日も、また、学校や会社へ行くのである。ルーティーンの生活を続けるのである。このように、日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、その時その場での快楽を求める欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強い場合、抑えきれないのである。超自我が過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求める欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が思考して生み出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。強い傷心の感情が、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。強い怒りの感情が、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。そして、それが国という構造体同士の争いになれば、戦争になるのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、誰しも、愛国心を持っているのである。国という構造体にに所属しているからである。よく、愛国心の有無、強弱に関するアンケートがある。現在の日本人の愛国心についての状況を知りたいがためである。しかし、それは全く無意味である。誰でも愛国心は存在するからである。確かに、日本が嫌いだという人がいる。しかし、それは、自分の理想とする日本と現在の日本が違っていると思うからであり、決して、愛国心が存在しないわけではない。愛国心は、日本人だけでなく、全世界の人々に共有されている。なぜならば、全世界の人々が、いずれかの国に所属しているからである。愛国心とは、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている者の、深層心理が思考して生み出す自我の欲望だからである。それは、郷土という構造体に所属しているから愛郷心を、家族という構造体に所属しているから家族愛を、会社というという構造体に所属しているから愛社精神を、学校という構造体に所属しているから愛校心を、カップルという構造体に所属しているから恋愛感情を、仲間という構造体に所属しているから友情を、宗教団体という構造体に所属しているから信仰心を抱くのと同じである。それらも、皆、深層心理が思考して生み出す自我の欲望である。さて、「俺は、誰よりも、日本を愛している。」と叫び、中国や韓国などに対して対抗心を燃やす人がいる。そして、自分の考えや行動に同調しない人を売国奴、非国民、反日だなどと言って非難する。売国奴とは敵国と通じて国を裏切る者を罵って言う言葉であり、非国民とは国民としての義務を守らない者であり、反日とは日本に反対することや日本や日本人に反感をもつことや人のことを言う。つまり、売国奴、非国民、反日のいずれも、日本人ならば日本に対して愛国心を持っていることを知らず、自分の愛し方だけが正しいと思い込んでいる者が生み出した言葉なのである。また、憂国という言葉がある。憂国とは国家の現状や将来を憂え案ずることや国家の安危を心配することという意味である。そして、憂国の士という言葉さえ存在する。しかし、日本人ならば、誰しも、理想の日本の国家像があり、現在の日本がその国家像にそぐわないように思えれば、憂国の念を抱くのである。それ故に、憂国の念を抱く者を特別視し、憂国の士と呼ぶ必要はないのである。さらに、憂国は国家の現状や将来を憂え案ずることや国家の安危を心配することという意味であるが、現在の日本の国家の捉え方も、個人差があり、自らの捉え方は普遍化できないはずである。ところが、傲慢にも、憂国の士を自認する者は、自らが持っている理想の日本の国家像は誰にも通用するものだと思い込み、自分だけが日本の現状や将来を憂え案じていると思い込んでいる。そして、自らと異なった理想の日本の国家像を持っている者たちや自らと異なった日本の現状のとらえ方をしている者たちを、売国奴、非国民、反日などと言って非難するのである。もちろん、中国人や韓国人にも愛国心はある。特に、中国人や韓国人は、近代において、自国が日本に侵略された屈辱感がまだ過去のものとなっていないから、日本人に侵略・占領の過去を反省する心を失ったり、正当化するような態度が見えると、愛国心が燃え上がるのである。中国において、愛国無罪を叫んで、日本の企業を襲撃するような人たちもまた憂国の士である。もちろん、彼らは犯罪者である。さて、日本の憂国の士と自称する者と中国の憂国の士と自称する者、日本の憂国の士と自称する者と韓国の憂国の士と自称する者が一堂に会するとどうなるであろうか。互いに自分の言い分を言い、相手の主張を聞かないであろう。挙句の果てには、殴り合いが始まるか、最悪の場合、戦争に発展するだろう。このように、愛国心が高じると危機的な状況を招くのである。一般に言われているような、決して、過大に評価すべきものではないのである。なぜならば、国という構造体が存在する限り、国民という自我を有する者が存在し、そこには愛国心という自我の欲望が必ず存在するからである。ただ、それだけのことなのである。しかし、愛国心を持てない国民は悲劇である。精神状態が不安定になるからである。それは、家に帰っても、家族の誰からも相手にされない父親と同じ気持ちである。自らが日本人であることにアイデンティティーを持っているから、理想の日本の国家像を描き、現在の日本を批判し、将来の日本を憂えるのである。それが、日本人としての自我のあり方である。しかし、それは、中国人、韓国人も同様である。そのことに気付かず、日本人としての自我を強く主張すれば、中国人、韓国人と対峙するしかないのである。ヘイトスピーチをして、中国国籍の人、韓国国籍の人、北朝鮮国籍の人を日本国内から追い出そうとする人たちは、極端に日本人としての自我に強い人たちである。大勢の人とヘイトスピーチをすることによって、日本人のアイデンティティーを確認し合っているのである。彼らは、自らの行為を愛国心の発露だとしているだろう。彼らは、自らの行為に反対する日本人を、売国奴、非国民、反日だと思っているだろう。彼らは日本を純粋に愛しているからこのような行為をするのだと思っているだろう。しかし、なぜ、日本を愛すのだろうか。その答えは一つしかない。自分が日本という国に所属しているからである。自分に日本人という自我を与えられているからである。日本という自我が与えられているから日本という構造体を愛するのである。自分に日本人という自我を保証してくれるものは日本という構造体だからである。それ故に、愛国心は国を愛しているように見えるが、真実は、国民という自我を通して自分を愛しているのである。つまり、自我の欲望なのである。それに気づかなければ、愛国無罪のような罪を犯すことになるのである。さて、「子供は正直である。」と言われる。この言葉の真意は、大人は嘘をつくことがあるから言ったことの全部を信用することはできないが、子供は嘘を言わないから言ったことの全部を信用できるということである。言うまでもなく、子供に対して好意的な言葉である。しかし、「子供は正直である。」からこそ、些細なことで喧嘩するのである。相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、簡単に喧嘩が始まるのである。子供は、お互いに、相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、喧嘩が絶えないのである。自分の権利だけを主張することは、自我の欲望に忠実であるということである。子供は、子供としての自我の欲望に忠実なのである。つまり、愛国心の発露も幼児の行為なのである。子供は正直だと言う。それと、同様に、愛国心の発露も正直な心情の吐露である。しかし、それは、後先を考えない、幼児の行為である。日本人の愛国主義者と中国の愛国主義者の争い、日本人の愛国主義者と韓国の愛国主義者の争いは、幼児の争いである。幼児の悪行は大人が止めることができる。しかし、日本、中国、韓国の政治権力者は、それを止めるどころか、むしろ、たきつけている。彼らもまた幼児的な思考をしているからである。それ故に、愛国心による争いは収まる気配は一向になく、むしろ拡大しているのである。為政者、国民、共々、愛国心から発する自我の欲望に従順である限り、収まらないのである。さて、いじめも、また、自我の欲望に忠実であることの悲劇、惨劇である。2019年7月3日、岐阜市の中学3年生の男子生徒が、マンションから転落死した。いじめを苦にしての自殺であった。彼は、自殺する前日、同級生三人以上から、トイレの便器に頭を入れられていたという。なぜ、彼は、他の生徒に助けを求めなかったのか。なぜ、彼は、教師に訴えなかったのか。なぜ、彼は、親に訴えなかったのか。それは、そうすることで、いじめっ子たちは罰せられるかも知れないが、自分は、仲間という構造体から追放され、学校という構造体やクラスという構造体に居場所を無くすからである。それを彼は最も恐れたのである。そこで、彼は自殺したのである。自殺すれば、いじめられる屈辱から解放され、いじめっ子たちは罰せられるからである。自殺すれば、仲間という構造体から追放され、学校という構造体やクラスという構造体に居場所が無くすという不安を味わわないで済むのである。それでは、なぜ、いじめっ子たちは、いじめをしたのか。それも、非人間的ないじめをしたのか。それは、いじめっ子たちの深層心理にとって、いじめは楽しいからである。小学生、中学生、高校生が、仲間という構造体で、一人の人をいじめるのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、連帯感という快楽が得られるからである。また、嫌いな人間や弱い人間をいじめると、人間は、快感を覚えるのである。なぜならば、人間にとって、嫌いな人間の嫌いな部分とは、自分自身も身に付ける可能性がある、忌避したい部分であるからである。だから、いじめっ子たちは、自らが持つかも知れない嫌いな部分や弱い部分を持っている同級生を仲間という構造体でじめることで、それを支配したと思えるから、快楽を覚えるのである。それでは、なぜ、いじめを見ていた周囲の中学生たち注意することも無く、教師に訴えることをしなかったのか。そうすれば、自分が、次に、いじめっ子たちのいじめのターゲットになる可能性があるからである。大人たちが現れ、いじめっ子たちを罰するということがわかった時に、安心して、いじめの事実を話すのである。しかし、いじめは、遠い存在ではない。毎日のように、芸人たちがいじめを行い、いじめにあっている。漫才で、ぼけ役が話すと、突っ込み役ははぼけ役の頭を殴って反論したり、否定したりする。それが、視聴者の笑いを誘う。売れている先輩芸人が、売れていない後輩芸人に、無理難題を押し付け、売れていない後輩芸人は、案の定、失敗し、困窮の表情を浮かべる。それが、視聴者の笑いを誘う。芸人たちは、罰ゲームと称され、熱湯湯に入れられたり、蟹に鼻を挟まれたり、火傷しそうな熱い物を食べさせられたり、吐くしかない辛い物を食べさせられたり、のどに通らない苦い物を飲まされたりする。それが、視聴者の笑いを誘う。つまり、いじめの番組を見て、視聴者は快楽を得ているのである、つまり、大衆も、また、芸人という弱い人間がいじめられているのを見ることに、快楽を覚えているのである。大衆も、また、自我の欲望に忠実なのである。そして、芸人が、いじめを甘んじて受けるのは、芸人という構造体や放送業界という構造体から追放されたくないからである。だから、人間世界において、いじめは無くなることがないのである。さて、ストーカーも、また、自我の欲望に忠実な人である。ストーカーは、恋人という自我の欲望に取り憑かれ、失恋を認めることができず、憎しみの感情に動かされ、理性(表層心理による判断)を失ったである。マスコミは、ストーカーを、精神異常者のように扱っているが、ストーカーは決して精神異常者ではない。ストーカーの行動は、他者(彼氏・彼女)が、カップルというい構造体から他の構造に所属することに脅威を覚え、それを妨害することから起こることである。それは、いじめという快楽を覚える行動ではなく、恋人いう自我を保つための必死の行動である。失恋した人は、誰しも、一時的にしろ相当の時間にしろ、ストーカー的な心情に陥る。誰しも、すぐには失恋を認めることができない。相手から別れを告げられた時、誰一人として、「これまで交際してくれてありがとう。」とは言えない。失恋を認めることは、あまりに苦しいからである。相手を恨むことがあっても、これまで交際してくれたことに対して礼など言う気には決してならない。失恋を認めること、相手の自分に対する愛が消滅したこと・二人の恋愛関係が瓦解したことを認めることはあまりに苦しい。それは、相手から、自分に対する愛が消滅したからと言われて、別れを告げられても、自分の心には、恋愛関係に執着し、相手への愛がまだ残っている。しかし、相手との恋愛関係にはもう戻れない。このまま恋愛関係に執着するということは、敗者の位置に居続けることになる。失恋したということは、敗者になり、プライドが傷付けられ、下位に落とされたということを意味するのである。ずたずたにされたプライドを癒し、心を立て直すには、自分で自分を上位に置くしか無い。そのために、失恋した人は、いろいろな方法を考え出す。第一の方法は、すぐには、自分を上位に置くことはできないので、相手を元カレ、元カノと呼び、友人のように扱うことで、失恋から友人関係へと軟着陸させ、もう、相手を恋愛対象者としてみなさないようにすることである。これは、相手との決定的な別離を避けることができるので、失恋という大きな痛手を被らないで済むのである。第二の方法は、相手を徹底的に憎悪し、軽蔑し、相手を人間以下に見なし、自分が上位に立つことで、ずたずたにされた自分のプライドを癒すのである。これは、女性が多く用いる方法である。第三の方法は、すぐに、別の人と、恋愛関係に入ることである。新しい恋人は、別れた人よりも、社会的な地位が高く、容貌が良い人である方が、より早く失恋の傷は癒やされる。しかし、失恋の傷が深く、失恋の傷を癒やす方法を考えることができない人も存在する。それは、相手に別れを告げられ、相手が自分に対する愛を失っても、相手を忘れること、相手を恋人として見なさないようにすることができない人である。そのような人の中で、相手につきまとう人が出てくる。それがストーカーと呼ばれる人である。ストーカーは、男性が圧倒的に多い。彼は、失恋を認めることがあまりに苦しく、相手を忘れる方法が考えることさえできず、相手から離れることができずに、いつまでも付きまとってしまうのである。中には、相手がどうしても自分の気持ちを受け入れてくれないので、あまりに苦しくなり、その苦悩から解放されようとして、相手を殺す人までいる。確かに、ストーカーの最大の被害者は、ストーカーに付きまとわれている人である。しかし、ストーカーも、また、深層心理が愛という自我の欲望に取り憑かれた被害者なのである。人間は、誰しも、失恋すると、ストーカーの感情に陥るが、多くの人は、何らかの方法を使って、相手を忘れること、相手を恋人として見なさないことに成功したから、ストーカーにならないだけなのである。カップルという恋愛関係の構造体は、恋人という自我があり、恋愛感情という愛があるから、相思相愛の時は、「あなたのためなら何でもできる。」と言いながら、相手が別れを告げると、相手のことが忘れられず、誰しも、ストーカー心情に陥り、時には、実際に、ストーカーになる人が現れるのである。それは、相思相愛で、カップルという恋愛関係の構造体を形成している時は、あまりに大きな快楽を得ていたから、カップルという恋愛関係の構造体が破壊された上に、相手が、別の人とカップルという恋愛関係の構造体を形成し、その人と快楽を得ること想像すると、嫉妬心で堪えられないからである。このように、一事が万事、人間は、深層心理の快楽を求める欲望によって動かされているのである。しかも、人間は、表層心理で、意識して、快楽を得るための行動を考え出して、それを実行しているわけではない。深層心理が、人間の無意識のうちに、快楽を得るための行動を考え出して、それを人間を実行させているのである。しかし、深層心理が、快楽を得るための行動を考え出し、人間は、それを実行して快楽を得ているとしても、快楽を否定することはできないのである。なぜならば、深層心理が。快楽を求めて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我である人間を動かしているからである。快楽を求めることが、人間の生きる目標になっているのからである。快楽を否定することは、人間の存在を否定することだからである。




人間の日々は、自我の欲望のままに、空しく、過ぎていく。(自我その479)

2021-03-20 17:56:00 | 思想
人間に主体性が無いことは、誕生から始まっている。人間は、誰一人として、誕生の意志をもって生まれていないからである。人間は、気が付いたら人間として存在しているのである。自らの意志で誕生していないから、主体性を持つことができないのである。だから、何かに動かされて生き、何かを追うように仕向けられて生きているのである。そして、時として、それに疑問を覚えるのである。つまり、主体性が無いことに疑問を覚えるのである。しかし、自らの意志によって生まれてきたのではないことは、他の動植物も同じである。しかし、人間には、他の動植物と異なるところがある。それは、言葉を持っていることである。他の動植物は言葉を持っていないから、何かに動かされて生き、何かを追うように仕向けられて生きていることに疑問を覚えることが無いのである。思考と行動は完全に一致しているからである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている」と言う。無意識とは、無意識の思考である。深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、深層心理が言語を使って論理的に思考していることを意味する。深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、自我を主体にして、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうとして、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。人間には、表層心理という、自らを意識しての思考も存在するが、表層心理での思考は常に深層心理の後で行われ、表層心理独自に自我の欲望を生み出すことはできないのである。さて、まず、自我であるが、自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているのであるが、その時、深層心理が、常に、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。次に、心境であるが、心境は。感情と同じく、情態性という心の状態を表している。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する情態性である。感情は、喜怒哀楽悪などの、突発的に生まれる情態性である。心境と感情は並び立つことがない。また、ある心境は別の心境と並び立つことがなく、ある感情は別の感情と並び立つことがない。人間は、常に、一つの心境という情態性、若しくは、一つの感情の下にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、人間の心境であり感情である。深層心理は、心が空白の状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境や感情に動かされているのである。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境の状態の時には、深層心理は、現在の状態を維持させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間が、不得意の心境の状態の時には、深層心理は、現在の状態から脱却させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。つまり、深層心理は、自らの現在の心境を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという心境が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わないのである。苦しいという心境が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、深層心理にとって、苦しみの心境から抜け出すことが最大の目標であるからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境という情態性が大切なのである。それは、常に、心境という情態性が深層心理を覆っているからである。もちろん、日常生活において、異常なことが起こると、例えば、美しい花を見ると感動という感情が湧き、誰かに侮辱されると怒りという感情が湧き、深層心理を覆うことになる。深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトは、「我思う故に我あり」という言葉で、私がいろいろなものの存在を疑うことができるのは、私が存在しているからだとし、そこから、私の存在の確信を得たと言っているが、デカルトが、表層心理で、自分や物やことの存在を疑う以前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、すなわち、表層心理で、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境や感情を変えることができないから、気分転換をして、心境や感情を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境や感情の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができないから、何かをすることによって、心境や感情を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境や感情を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境や感情を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境や感情を変えようとするのである。さて、人間の最も強い感情は怒りである。怒りの感情は、突然、意味も無く、理由もなく、心に湧き上がってくることは無い。それは、決まって、傷心から始まるのである。怒りは、復讐の感情である。怒りは、自分の心を傷つけた相手に対する復讐の感情である。怒りは、自分の心を傷つけた相手の立場を下位に落とし、相手の心を傷つけることによって、自らの立場を上位に立たせようとすることである。だから、人間は、怒ると、徹底的に自分の心を傷つけた相手の弱点を突こうとするのである。そこには、見境は無い。自分の心を傷つけた相手の心を深く傷つけられるのならば、何でも構わないのである。自分の心を傷つけた相手の心が最も早く最も深く傷付く方法を考え出し、そこを徹底的に攻めようとするのである。相手の心が最も傷付く言葉で侮辱したり、腕力の劣った相手ならば暴力に訴えようとするのである。怒りはその時の傷心から逃れるためのものであるから、相手が気にしていることを突いて侮辱するのである。女性に対して、「ブス」、「デブ」などと侮辱し、男性に対して、「能なし」、「ちび」などと侮辱するのである。もちろん、後に、人間は、怒りによって自ら発した言葉や暴力によって、相手に深くうらまれたり、周囲から顰蹙を買うことによって、自らの立場を危うくすることが多い。しかし、怒っている時は、怒りの感情に駆られて、そのことまで思いを馳せる余裕が無いのである。なぜならば、侮辱の言葉を発することによって、相手を一言で討ち倒そうとすることだけを考えているからである。また、怒りはその時の傷心から逃れるためのものであるから、相手が腕力が無かったり手が出せない立場ならば平手打ちを食わせたり蹴ったりするのである。暴力で、一撃で相手を打ち倒そうとするのである。それでは、人間は、どのようなことで、心が傷付くのか。それは、注意されたり、侮辱されたり、殴られたり、陰口を叩かれたりすることなどである。それでは、なぜ、人間は、そのようなことで、心が傷付くのか。それは、自分の立場が下位に落とされたからである。つまり、プライドが傷付けられたからである。換言すれば、人間は、他者に認められようと生きているのである。それが、認められるどころか、貶され、プライドがずたずたにされたから、心が傷付き、その傷心から立ち上がろうとして、怒るのである。怒りは、心が傷付いたから、その代償を相手に求め、相手の心をずたずたにして、自分の心を癒やそうとするのである。言わば、相手によって自分の立場が下位に落とされたから、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせようとするのである。人間は、常に、深層心理で、自我が他者から認められるように生きているから、自分の心を傷つけた相手に対して、怒り、復讐を考えるのである。人間は、常に、自我が他者から認められるように生きているから、自分の立場を下位に落とした相手に対して、怒り、復讐し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせようと考えるのである。人間が、社会的な動物であるということは、常に、構造体の中で、自我が他者から認められるように生きているということを意味するのである。次に、快感原則であるが、快感原則とは、ひたすらその時その場で、快楽を得ようとし、不快を避けようとする欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。ひたすら快楽を得ようとし、不快を避けようとする。人間が、道徳観や社会規約を考慮するのは、表層心理で、思考する時である。表層心理とは、自らを意識しての思想である。人間は、表層心理で、現実原則を満たそうとして、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考するのである。現実原則とは、自我に現実的な利得を求める欲望である。現実原則に、道徳観や社会規約という価値観が存在するのである。道徳観や社会規約を考慮に入れなければ、他者から顰蹙を買い、自我に現実的な利得が得られないことがあるからである。次に、欲動であるが、欲動とは、深層心理に内在している、四つの欲望である。欲動には、第一から第四まで、四つの欲望がある。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなうことができれば、快楽が得られるのである。すなわち、快感原則が満たすことができるのである。そこで、深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかを満たして快楽を得るために、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我である人間を動かそうとするのである。すなわち、感情と行動の指令という自我の欲望は、快楽を得るために生み出されるのである。感情は、行動の指令を実行させるための力になるのである。だから、怒りの感情が強ければ強いほど、復讐する可能性が高まるのである。さて、欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという欲望がある。保身欲である。自我の保身化という作用である。これが、深層心理には、自我の保身化という志向性での思考となって現れるのである。つまり、深層心理は、保守的な志向性の下にあるのである。だから、深層心理は、毎日、同じような感情や気分で、同じようなことをすることを欲望するのである。ニーチェの「永劫回帰」(全ての事象は永遠に同じことを繰り返すという思想)を支えているのは、この深層心理の欲望なのである。つまり、深層心理の志向は、習慣的な行動なのである。すなわち、ルーティーン通り行動することなのである。また、毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。無意識の行動とは、人間は、表層心理で、自らを意識することなく、自らを意識して思考すること無く、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。さらに、人間にとって、深層心理による習慣的な行動の方が、生活が安全であり、安定している。だから、夫が会社をを辞めて新しい仕事を始めようとすると、妻は、決まって、反対するのである。ルーティーンの生活が破られるからである。人間は、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持し、アイデンティティーを得なければ、安心して、深層心理が生み出す自我の欲望を満たすために生きることができないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならず、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならないが、新しい構造体に所属して新しい自我を獲得することに、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、安定した自我あっての自我の欲望の追求であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だからこそ、安定した構造体に所属し、安定した自我を持つことを望むのである。それは、安定した構造体でなければ安定した自我が得られず、安定した自我がなければ、安心して自我の欲望を追求できないからである。欲動には、第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。承認欲である。自我の対他化の作用である。これが、深層心理には、自我の対他化という志向性での思考となって現れるのである。それは、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉が、全てを、言い表している。人間が、他者の目を気にするのは、認められたい、恥をかきたくないという気持ちからである。現在、日本では、オリンピック開催の可否が問題となっている。なぜ、東京オリンピックに、マスコミも国民も期待するのか。それには、二つの理由がある。一つは、東京オリンピックが成功すれば、世界中の人々から、東京、そして、日本が賞賛されるからである。もう一つは、日本選手も自分自身も、日本という構造体に所属し、日本人という自我を持っているからである。日本国民は、日本選手が金メダルを中心にしたメダルを獲得すれば、世界中の人々から、日本という国・日本人という自我の存在が認められると思うから、楽しみなのである。二つの理由とも、愛国心である。愛国心とは、国民という自らの自我を愛する心なのである。欲動には、第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。支配欲である。対象の対自化の作用である。これが、深層心理には、対象の対自化という志向性での思考となって現れるのである。教諭が校長になろうとするのは、学校という構造体の中で、生徒・教諭・教頭という他者を校長という対象を、自我で対自化し、支配し、充実感を得たい欲望があるからである。大工は、材木という物という対象を対自化し、加工し、家を建てるのである。哲学者は人間と自然を対象として、哲学思想で捉え、支配しようとし、心理学者は人間の心を対象として、心理思想て捉え、支配し、科学者は自然を対象として、科学思想で捉え、支配しようとする。だから、校長の中には、自らに刃向かう教諭に傷心し、怒りの感情で、他校へ移動させる者がいるのである。欲動には、第四の欲望として、自我が他者と心の交流を図りたいという欲望がある。共感欲である。自我の他者との共感化という作用である。これが、深層心理には、自我の他者との共感化という志向性での思考となって現れるのである。共感化とは、自我が他者と心の交流をすること、愛し合うこと、友情を育むこと、協力し合うことである。つまり、共感化とは、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。それがかなえば、喜び・満足感が得られるからである。だから、人間は、仲間を作り、恋人を作り、結婚をしようとするのである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感化の機能である。自民党の政治家が、中国、韓国、北朝鮮を敵視するのは、国民の愛国心を煽り、「呉越同中」の関係になって、支持を集めたいからである。このように、人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているが、深層心理が、常に、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて、行動しているのである。つまり、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望が、人間を動かしているのである。さて、人間は、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望んでいるが、時には、異常なことが起こり、ルーティーン通りの行動ができない時がある。人間は、必ず、日常生活において。異常なことが起こるのである。しかし、それは、必ずしも、生死に関わるような出来事ではない。ほとんどの場合、侮辱などをされ、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望が破られることである。人間は、侮辱などをされた時、深層心理が怒りの感情と侮辱した相手を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間に相手を殴ることを促すのである。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、それが働き、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとするのである。超自我は、深層心理に内在する欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という作用の機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する審議は、表層心理に移されるのである。その時、人間は、自らを意識して、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、思考するのである。人間は、自らを意識して、表層心理で、思考する時は、自我が危機的な状況に陥った時である。人間は、自我が危機的な状況に陥っていなければ、日常生活のルーティーン通りの生活と同じく、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに、自らを意識することなく、無意識のままに行動するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。現実原則は、自我に現実的な利得を得ようという欲望であるが、換言すれば、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などから、自我が不利益を被らないように、思考するのである。つまり、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を殴ったならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎる場合、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。そうして、傷心のままに、苦悩のままに、自我の内にこもるのである。そのような時、深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことがある。精神疾患は心境の一つである。だから、精神疾患は情態性である。精神疾患は最下層の心境である。精神疾患は長期に継続する心境である。深層心理が、自らの心に、精神疾患という最下層の心境をもたらすことによって、現実を見えないようにし、現実から逃れようとするのである。一般に、人間は、深層心理が、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのであるが、心境が精神疾患という最下層の心境に陥ると、深層心理は、積極的な思考ができなくなるのである。すなわち、積極的に、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出せず、自我である人間を動かすことが難しくなるのである。そうすると、自我である人間の行動は自信なげなものになり、その時間と空間にとどまってしまうのである。しかし、るのである。人間は、誰しも、自ら意識して、自らの意志によって、心境や感情を生み出すことも変えることも消すこともできないように、精神疾患に陥ることも逃れることもできないのである。すなわち、表層心理という意識や意志では、自らの心に精神疾患を呼び寄せることも、自らの心から精神疾患を追放することもできないのである。深層心理という人間の無意識の心の働きが、自らの心に、精神疾患をもたらすからである。さて、精神疾患には様々なものがあるが、代表的なものが、鬱病である。すなわち、憂鬱という最下層の気分であり、情態性である。鬱病の基本症状は、気分が落ち込む、気がめいる、もの悲しいといった抑鬱気分である。また、あらゆることへの関心や興味がなくなり、何をするにも億劫になる。知的活動能力が減退し、家事や仕事も進まなくなる。さらに、睡眠障害、全身のだるさ、食欲不振、頭痛などといった身体症状も現れることが多い。抑鬱気分が強くなると、自殺念慮が起こる。また、鬱病に罹患している人間は、表層心理で、自らの心理状態を意識して、思考して、自らの意志で、行動を起こそうという気にならない。また、たとえ、自らの意志で、行動を起こそうとしても、肉体が動かない。深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、自らの肉体が行動を起こさないようにしているのである。つまり、深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、自らの肉体を学校や会社に行かせないようにしたのである。つまり、学校や会社で堪えられない情況にある人間の深層心理が、自らの心を、鬱病に罹患させることによって、抑鬱気分を維持させ、学校・会社の行かせないようにするという現実逃避による解決法を見出したのである。しかし、人間は、鬱病に罹患すると、学校や会社に行けなくなるばかりでなく、他のこともできなくなるのである。さらに、自殺を考えさせるのである。鬱病は、人間を、継続した重い気分に陥らせ、何もする気も起こらなくさせ、自殺を考えさせるから、大きな問題なのである。鬱病だけでなく、精神疾患は、全て、深層心理によってもたらされた現実逃避よる解決法である。統合失調症は、現実を夢のように思わせ、現実逃避をしているのでる。離人症は、自我の存在を曖昧にすることによって、現実逃避しているのである。このように、現実があまりに辛く、その辛さから逃れる方策、その辛さから解放される方策が考えることができないから、深層心理が、自らを、精神疾患にして、現実から逃れたのである。しかし、精神疾患によって、現実の辛さから逃れたかも知れないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛の心理状態が、終日、本人を苦しめるのである。だから、精神疾患に陥った人に対して、周囲のアドバイスも励ましも、無効であるか有害なのである。精神疾患に陥った人は、現実を閉ざしているから、周囲の現実的なアドバイスには聞く耳を持たず、無効なのである。また、周囲の「がんばれ」という励ましの言葉は、「がんばれ」とは「我を張れ」ということであり、「自我に執着せよ」ということであるから、逆効果であり、有害なのである。自我に執着したからこそ、現実があまりに辛くなり、精神疾患に逃れざるを得なくなったからである。さて、現在、精神疾患の苦痛から解放するために、薬物療法とカウンセリングが多く用いられる。確かに、精神疾患そのものの苦痛の軽減・除去には、薬物療法は有効であろう。しかし、現実は、そのまま残っている。現実を変えない限り、たとえ、薬物療法で、精神疾患の苦痛が軽減されても、その人が、そのことによって、再び、現実が見えるようになると、再び、元の精神疾患の状態に陥るようになることが考えられる。そこで、重要になってくるのが、カウンセリングである。カウンセリングは、自己肯定感を持たせることを目的として、行われる。精神疾患に陥ったのは、自分が無力であるため、現実に対処できないと思い込み、深く心が傷付いたからである。そこで、自己に肯定感を持たせ、自信を与え、現実をありのままに受け入れるようにするのである。しかし、自分に力が無いと思い込み、外部に関心を持たない状態に陥っている者に対して、肯定感を持たせ、自信を持たせ、現実をありのままに受け入れるようにさせることは、至難の業である。だから、カウンセリングは、長い時間が掛かるのである。さて、一般に、人間は、日常生活において、異常なことが起こり、その時、深層心理が過激な感情と過激な行動の指令を生み出し、超自我がその過激な行動を抑圧できず、自我が危機的な状況に陥っている時に、表層心理で、現実原則に基づいて、過激な行動を抑圧するために思考するのだが、自我が危機的な状況に陥っていなくても、自らを意識して、表層心理で思考する時がある。人間は、他者や他人の視線を感じた時、他者や他人がそばにいる時、他者や他人に会った時、他者や他人に見られている時に、他者や他人に対して恐怖を覚え、自らの存在を意識するのである。人間は、他者や他人の存在を感じた時、他者や他人に対して恐怖を覚え、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自我がどのような行動や思考をしているかという行動性を意識し、それと同時に、自我がどのような感情や心境という情態性の下にあるかということを意識することである。それでは、なぜ、人間は、他者や他人の存在を感じた時、自らの存在を意識し、自我の行動性と情態性を意識するのか。それは、人間は、常に、他者や他人の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じていて、他者や他人に対して警戒の念が生じたからである。さらに、人間は、無我夢中で行動していても、突然、自らの存在を意識し、自我の行動性と情態性を意識することがある。無我夢中の行動とは、無意識の行動である。人間は、そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識し、自我の行動性と情態性を意識することがあるのである。それも、また、人間は、常に、他者や他人の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じていて、他者や他人に対して恐怖を覚え、突然、他者や他人に対して警戒の念が生じたからである。だから、人間は、他者や他人を心から信用することがなく、常に、他者や他人に対して脅威を感じているから、実際に他者や他人が自らを襲ってくる時はもちろんのこと、実際に他者や他人が自らを襲ってくる状態でない時でも、他者や他人に対して恐怖を覚え、自らの現在の姿勢を意識する時があるのである。人間は、他者や他人に対しての恐怖から逃れることができないのである。なぜならば、他者や他人の心を覗き込むことができないからである。しかし、サルトルは、他者に対して、見られる姿勢から見る姿勢へと生き方を変えると、恐怖を覚えなくなると言う。サルトルは「地獄とは他者のことである。」と言う。なぜならば、人間は、他者に見られていると意識すれば、他者に見つめられていると意識すれば、他者に睨まれていると意識すれば、恐怖を感じるからである。だから、かつて、やくざが眼を付けたと言って暴力を振るうことがよく起こったのである。刑務官が死刑を執行する時に、死刑囚に覆面をするのは、死刑囚に見つめられるのが恐いからである。死刑囚に恐怖を覚えさせないようにするという思いやりからでもなく、死刑囚の最期の表情を見せないようにするという尊厳を守るためでもなく、刑務官が自らの行為を恥じているからである。レヴィナスは、人間は、他者の顔を見ると、他者の視線にあうと、良心が芽生え、自らを恥じてしまうと言う。つまり、人間は、他者の視線にあうと動揺してしまうのである。しかし、視線を送ってくる人は他者であって、他人ではない。他人とは、赤の他人という言葉があるように、構造体外の、全く関わりの無い人である。しかし、視線を送ってくる人は、関わりの無い人ではない。関わりがあるからこそ、視線を送ってくるのである。だから、視線を送ってくる人は他人であっても、その視線を意識すれば、他者になるのである。たとえ、自分が誤解して、相手が自分を見ていないのに、自分が見られていると意識すれば、その人は、それまでは他人であっても、それからは他者となるのである。なぜならば、自分がその人のことを意識することで、自分とその人に関係ができたからである。サルトルは、見られている時に感じる恐怖から脱するために、最も効果的なことは、自分もその人を見ることだと言う。つまり、見返すのである。こちらからも視線を送るのである。それでは、なぜ、自分も相手を見ることが必要なのか。それには、二つの理由がある。一つの理由は、自らの考えを取り戻すためである。そのためには、相手から見られている恐怖から脱する必要があるのである。それは、見られている恐怖を味わっている間、恐怖から解放されるためにはどのようにしたらこの状況から脱することができるだろうかという考えがとらわれ、相手にイニシアチブを握られ、自分の考えができないからである。しかし、自分も相手を見ることの危険もある。見られた相手が、その恐怖に耐えきれず、一挙に形勢を逆転しようとして、復讐心を持って、悪口雑言を浴びせたりすることがあるからである。だから、相手を見返す時には、強さが必要なのである。虚心坦懐の強さが必要なのである。相手を打ち倒そうという意欲ではなく、対話をする強さ、優しさや余裕を持った強さが必要なのである。どちらがイニシアチブを執るとか、どちらの意見を認めるかということではなく、互いの立場を認め、良い結論を導くことを目的にするのである。相手がイニシアチブを執ろうとし、一方的に自らの意見を通そうとしても、虚心坦懐に対応する強さが必要なのである。虚心坦懐の心の姿勢を体得した時、新しい人間関係が開かれるのである。次に、自分も相手を見ることが必要なもう一つの理由は、自らがイニシアチブを執ることである。こちらが相手を見続け、相手が視線を外すのを待つのである。相手が視線を外せばこちらの勝利である。相手は、こちらの視線によって、恐怖を感じるばかりでこちらを見ることができず、こちらは、相手をゆっくりと観察できるからである。そうして、イニシアチブを握るのである。しかし、相手が視線を外さず、両者が見つめ合うこともある。その時はどのようになるであろうか。両者ともに、見続けた方が勝者となり、視線を相手から外した者が敗者となると思っているから、にらみ合いが続くだろう。そうして、何かの出来事で、二人のにらみ合いは中断する。しかし、二人にわだかまりが残り、その後も、承認闘争が続くのである。しかし、相手を見続けることの危険もある。見続けられている者が、その屈辱に耐えきれず、一挙に形勢を逆転しようとして、復讐心を持って、暴力を振るったり悪口雑言を浴びせたりすることがあるからである。このように、視線の掛け合いで勝利しても、大きなしっぺ返しを食らうことがあるのである。だから、大抵の人は、サルトルの忠告に従わず、自ら、視線を外し、敗者の道を選ぶのである。しかし、サルトルは、相手を見続けるだろう。それが、サルトルの生き方だからである。しかし、人間は、他者に見つめられている時、恐怖ではなく、喜びを覚えることがある。つまり、相手の視線には見る視線と愛の視線の二種類があるのである。相手の視線が見る視線ならば、こちらは恐怖を覚え、相手の視線が愛の視線ならば、こちらは喜びを覚えるのである。そして、相手は、こちらに愛の視線を送ってくるということは、相手は自らの愛情をこちら側に気付いてほしいだけでなく、こちらからの愛情も求めているのである。人間の深層心理は、こちらが相手を愛している時には、相手にこちらの愛の存在を気付かせ、相手からの愛情を求めてやまないのである。もちろん、相手が見る視線を送っているのに、こちらはそれを愛の視線だと誤解することも時には起こる。もちろん、相手が愛の視線を送っているのに、こちらはそれを見る視線だと誤解することも時には起こる。これらは、人生における悲喜劇の原因の一つになっている。また、人間は、見る視線にせよ、愛の視線にせよ、どちらかわからない視線にせよ、相手から見つめられると、自らを反省する。自分の容貌、服装、言動、行動を省みる。自らを反省する時があるからこそ、人間は社会生活を送れるのである。人間は、実際に他者から見られる機会があるから、他者から見られることを想像できるから、自分自身を反省し、社会生活を送ることができるのである。もしも、人間は、他者から見られても反省することがなくなったら、社会生活を送れなくなる。それ故に、誰しも、他者から視線を受けると、時には、その視線に、見られているということを意識して、恐怖を覚え、時には、その視線に、愛情を感じて、喜びを覚えて、相手の存在を感じ取るが、それ以外に、他者からの視線は、自ら自身の反省を促し、社会生活を行う上での礎になっているのである。さて、それでは、なぜ、人間は、相手の視線に愛情を感じることができるのか。それは、人間は、他者から認めててもらいたい、尊敬してもらいたい、好評価・高評価を受けたい、愛してもらいたいなどの欲望の志向性を持って生きているからである。だから、逆に、人間は、他者から認めてもらえなかったり、無視されたり、軽蔑されたり、悪評価・低評価を受けたり、嫌われたり、憎まれたりすると、傷心するのである。しかし、他者から認めててもらいたい、尊敬してもらいたい、好評価・高評価を受けたい、愛してもらいたいなどの欲望の志向性は、人間が、自ら、意識して、思考して、生み出して、持っているのではない。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、持っているのではない。すなわち、人間の、他者から認めててもらいたい、尊敬してもらいたい、好評価・高評価を受けたい、愛してもらいたいなどの欲望の志向性は、深層心理の中にある志向性なのである。つまり、人間は、深層心理の欲望から発する志向性から逃れることができないのである。もちろん、その深層心理の欲望は、欲動によって生み出されているのである。さて、芥川龍之介の「河童」という小説には、河童の世界では、生まれる前の子供に「生まれてきたいか。」と誕生の意志を尋ね、誕生の意志を示したものだけが生まれてくることになっている。だから、生まれてきた河童には、誕生の必然性がある。河童は主体的に思考でき、主体的に生きることができるのである。しかし、人間は、誰一人として、誕生の意志を尋ねられていず、もちろん、それに答えてもいない。だから、誕生の必然性を有していないのである。母親にしても、どのような子供が生まれてくるかわからない。だから、母親の責任でもない。しかも、人間は、誰一人として、死を免れることはできないのを知っている。生きたいという意志を持っていても、死は、必ず、やって来るのを知っている。死は、突然かつ偶然、必然的にやって来るのを知っている。これらのことを知っているのも、言葉を持っているからである。つまり、人間は、意志無く誕生させられた上に、生への意志があっても死は確実に訪れるという理不尽な存在者なのである。中島敦の小説「山月記」に、主人公の李徴が、「全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押し付けられたものを大人しく受け取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。」と呟いているが、まさしく、人間は、押し付けられた人生を、自分の人生として生きるしかないのである。人間は、誰一人として、死を免れることはできず、生きたいという意志を持っていても、死は、突然かつ偶然、必ずやって来ることがあるのを知っているから、突然、不安に陥ることがあるのである。それは、死への不安である。人間は、一生、死への不安から逃れることはできないのである。



人間という現象について。(自我その478)

2021-03-17 13:07:59 | 思想
人間は一つの現象に過ぎない。一つの現象にしかに過ぎない存在者なのに、主体的に、人間以外のものを変えていくことができると思っているから、無理が掛かるのである。ヘーゲルは、時代が進めば、絶対精神などという究極の理性を獲得できると言う。しかし、理性は対立すれば感情に負けてしまうのである。アドルノは、第二次世界大戦の惨状をみて、理性の限界を感じた。しかし、理性とは、自らを意識しての思考であり、人間の思考に、感情を抑圧する力は存在しないのである。マルクスは、階級を無くし、貧富の差を無くせば、皆、平和に幸福に暮らせるという。しかし、人間は、階級がなくなっても、別のもので、人間を差別する。国に、国民が飢えないだけの食糧があっても、政治権力者は、飢える人が出ても、自らの食糧を余計に取ろうとするのである。人間には、国を運営するために、政治権力者を必要とし、政治権力syが存在する限り、貧富の差は無くならない。つまり、人間世界に、貧富の差は無くならないのである。サルトルは、「人は自由に呪われている」と言い、人間は、何ものにもとらわれず、主体的な判断ができると言い、自らの行動に責任を取らなければいけないと言う。しかし、人間は、自由になることはできない。それは、常に、他者が束縛しているという意味ではない。人間は、自らが、積極的に、他者に束縛されているのである。さらに、人間は、常に、自我の欲望にとらわれて行動しているから、自由になれず、主体的な判断ができないのである。そもそも、責任を取るとは、どういうことか。一般的に、責任を取るとは、自らの過ちや罪を認めて、社会に反省の意を示すことを言う。しかし、それは、社会にひれ伏し、同化することなのである。人間は、社会に同化したいから、すなわち、社会に疎外されたくないから、反省という恭順の意を示すのである。それは、責任を取ったことにはならない。そもそも、責任を取ることはできないのである。人間が、内心行っているのは、反省ではなく、後悔である。また、責任を取るのは、社会に対してだけでなく、自らに対しても行わなければいけないと主張する人がいる。しかし、責任という言葉を使わなくても、人間は、他者から好評価・高評価を受けたいから、内心、自らの行為に対して、常に、後悔・反省を行っているのである。フロイトは、精神疾患の原因は、自らの過ちや罪を、無意識(深層心理)に押しやって認めないから起こると言う。だから、自らの過ちや罪を意識化して(表層心理で認識して)、ありのままの状態で認めれば、精神疾患は寛解すると言う。しかし、人間は、臆病な動物であり、物事をありのままに見ることはできないのである。人間は、物事をありのままに見ることが恐いから、深層心理という無意識の思考が、無の有化や有の無化という作用で、現実を歪めて見るのである。無の有化とは、存在しないものを存在しているように思い込むことである。人類が、神を創造したのは、その典型的な例である。有の無化とは、現実にあるものを存在していないと思い込むことである。犯罪者は、他者に責められ自らを責めるのが辛いから、深層心理は犯罪をやっていないと思い込むのである。神の創造、犯罪の否定は、深層心理の自己正当化の作用によるものなのである。そもそも、人間は、ありのままに見ることはできず、ある志向性(観点・視点)から見ているのである。カントが、「人間が認識しているのは現象であって、現象の背後にある物自体ではない。物自体は認識できない。」と主張するのは、人間は、特定の志向性からでしか、物を意識できないからである。志向性が変われば、同じ物も、別様に見えてくるのである。精神疾患に陥った者が寛解したのは、自らの過ちや罪を、自己正当化できる志向性で見たからである。自己正当化できる志向性の発見が、寛解に導いたのである。ニーチェは、「神は死んだ」、「キリスト教の神が誕生し、その神が死んでから、新しい神が、まだ、現れていない。」と言う。ニーチェの言う「死んだ神」とは、この世での幸福を諦め、あの世での神の祝福・加護に期待を掛けて祈る人々に応える「神」である。ニーチェの言う「新しい神」とは、現世を肯定して生きる人間に応える「神」である。つまり、現世を肯定する志向性、すなわち、現世を肯定する思想である。また、ニーチェは、「超人」を推奨する。「超人」とは、「誤謬・仮象を否定して、真理を求めても、そこには真理は存在しない」という「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」を認識しつつ、敢えて、自ら、新しく真理を打ち立て、現世を肯定して生きる人間である。もちろん、新しく打ち立てた真理も、また、誤謬・仮象である。しかし、この誤謬・仮象は、キリスト教の教えに従った「最後の人間たち」の誤謬・仮象ではない。現世を肯定して生きるための誤謬・仮象である。だから、「超人」とは、自ら、この世で「新しい神」になることである。すなわち、現世を肯定する志向性、すなわち、現世を肯定する思想を打ち立て、生きる人間である。しかし、ニーチェが言うように、「新しい神が、まだ、現れていない」のである。すなわち、「超人」がまだ現れていないのである。つまり、現世を肯定する志向性、すなわち、現世を肯定する思想がまだ現れていないのである。ヘーゲルは「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」と言う。ローマ神話の女神ミネルヴァは、技術や戦いの神であり、知性の擬人化と見なされている。梟は、この女神の聖鳥である。一つの文明、一つの時代が終わる黄昏時に、ミネルヴァは梟を飛ばした。「超人」がまだ現れていないのは、まだ、この鬱積した時代が続くと言うことなのであろうか。いや、そうではなく、恐らく、「超人」が現れた時、この鬱積した時代が終わるのであろう。