あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

右翼と左翼(自我の欲望(その5))

2016-01-24 18:49:24 | 思想
言うまでもなく、愛国心とは、国を愛する心であり、理性ではなく、感情である。愛国心を声高に主張するのは、右翼である。だから、右翼は、理性的に思考し判断しようとする左翼とは、本質的に、相容れない関係にあるのである。もちろん、左翼も国民であるから、愛国心を有している。愛国心が無い国民は存在しない。だから、国民の誰もが、いつでも、右翼になる可能性があるのである。しかし、愛国心に溺れることを潔しとしない国民も存在する。それが、左翼である。左翼は、敢えて、反右翼、非右翼の立場を取る。自らの思想のもとで、冷静に、自国の動き、自国民の動き、他国の動き、他国民の動き、国際的な動きを見て、それを詳細に分析・検討して行動し、感情的な行動は取らない。しかし、右翼は、愛国心にどっぷり浸り、感情的に行動する。行動右翼という言葉があるが、実際には、行動しない右翼は存在しない。隠忍自重という言葉は右翼には似つかわしくない。自分の立場に少しでも有利だと思えば、いつでも、右翼は行動する。感情的に、激しい行動をする。それが、愛国心に埋没している者の宿命である。しかし、確かに、右翼の行動は感情的であるが、決して、無目的でも、無論理でもない。愛国心によって突き動かされた行動だからである。愛国心という心(深層心理・無意識)が、国益、国威発揚という目的、国の汚辱や屈辱を晴らすにはどうすればよいかという単純な論理の下で思考し、その人(右翼)を、瞬間的に行動させるのである。動力の主体が愛国心という感情だから、容易に、右翼は過激な行動や異常な行動を取るのである。だから、暴力的には、右翼が左翼より優っている。右翼と左翼が喧嘩をすれば、必然的に、右翼が勝つことになる。また、右翼自体、暴力を振るうことをためらわない。暴力が、彼(彼ら)の愛国心の現れだからである。それは、国同士が戦争をした場合、残虐な国の方が勝利するのと同じである。だから、左翼は、国家が民主主義を失っている時代に、右翼や国家権力を批判する場合、暴力による反撃、不当な逮捕、拷問、そして、死さえも引き受ける覚悟が必要である。実際に、明治時代、大正時代、そして、昭和時代も太平洋戦争に敗北する以前は、日本には、実質的に、民主政治は存在せず、左翼は、公然と、右翼や国家権力から、暴力、不当な逮捕、拷問、暗殺、冤罪による死刑という被害を受けて来たのである。日本憲法をいただき、民主主義国家になったはずの戦後においても、皇室、アメリカ、右翼、現政権を批判すると、暴力、不当な逮捕、暗殺の虞があるのである。日本は、戦後においても、民主主義国家となりえなかったばかりでなく、時代に追うごとに、ますます離れていくのである。また、右翼は、愛国心という単一の感情が主体で、愛国心を満足させるという単一の明確な目的があるから、その成立は早く、その思いは強く、その意志は固い。右翼の成立が早いことは、大事件が、未成年者によって引き起こされていることからも理解できるだろう。その例を二つ挙げてみよう。一つ目の例は嶋中事件である。深沢七郎の小説『風流夢譚』」が雑誌『中央公論』に掲載され、右翼が「皇室に対する冒瀆で、人権侵害である。」として中央公論社に抗議をしていたが、大日本愛国党の少年は、1961年2月1日、同社社長宅に侵入し、応接に出た同社長夫人をナイフで刺して重傷を負わせ、制止しようとした同家の家事手伝いの女性を刺殺した。二つ目の例は浅沼事件である。日本社会党委員長の浅沼稲次郎が、1960年10月12日午後3時頃、東京日比谷公会堂で演説中、少年に刺殺された。彼は、一時、赤尾敏が総裁である大日本愛国党に入党していた。「日本の赤化は間近い。」という危機感を抱き、容共的人物の殺害を考え、街頭ポスターで演説会を知り、犯行に及んだのである。後に、少年鑑別所の単独室で、壁に『七生報国』『天皇陛下万歳』と書き残して、自殺した。それに比べて、左翼の成立には時間が掛かる。左翼は、まず、自らの中に思想が存在しなければならない。思想の構築には、自らの経験と先人の思想が必要である。だから、時間が掛かるのである。その上、さらに、左翼は、自国民と他の国の人々の立場、自国民の思いと他の国の人々の思い、現在だけでなく将来的にも両国民が血を流さないためにはどうすれば良いかな、延いては、世界中の人々を納得させ、世界に平和をもたらすにはどうすれば良いかなどと深謀遠慮し、自国の政治権力者並びに他国の政治権力者に対峙し、自国民だけでなく他国民を納得させ、延いては、世界の人々に理解してもらうだけの深い思考が自らの中に存在しないと、他に訴える力がなく、時代に流されてしまうから、その成立は困難を極める。戦後、財界の大物が、戦前・戦時中を振り返って、「金を使えば、右翼よりも左翼を転ばすのが簡単だった。」と言っているが、故なき話ではない。確固たる思想によって自我が形成されている左翼は転ばないが、安直な人道主義や立身出世やかっこよさや利害によって左翼になった者は転ばすことは容易なのである。似非左翼は転向させやすいのである。本物の左翼は容易に転向しないが、それは、自ら構築した思想が自我となっているからである。本物の左翼は、自らの思想を自我としているので、政治権力や右翼勢力の弾圧にあっても、それに屈することはない。転向することは、自我を捨てること、つまり、自分自身を捨てることを意味するからである。人間にとって自我を捨てることは死ぬことに等しいのである。似非左翼は、自らの思想が自我になっていないから、それを捨てることは簡単なのである。それに比べて、愛国心を主軸にし、国益、国威発揚、汚辱や屈辱を晴らすことだけを目的にして行動している右翼は、自我の成立は容易である。愛国心に思想は不必要だからである。だから、転ばすことも難しいのである。右翼は転向させにくいのである。だから、国民は、左翼よりも右翼になりやすいのである。自分が既に持っている愛国心を増長させるだけで右翼に成れるからである。そこに、深い思想など必要ないのである。現在の日本の風潮を、反知性主義だと評する人が多く存在する。知性とは、思考によって認識を生み出す精神の働きを意味する。ということは、反知性主義がはびこっているということは、端的に言えば、思考しない人間が増えているということである。言い換えれば、理性よりも感情を重んじている人が増えているということなのである。それは、日本において、左翼的人間より右翼的人間が増えていることを意味している。書店は、中国、韓国、北朝鮮を非難・批判する本であふれかえっている。このような現象は、戦後において、初めて見られることである。右翼的人間が増え、右翼が台頭しているのである。また、国民は、一般的に、左翼よりも右翼になびきやすい。日本国民もその例外ではない。なぜならば、国民ならば誰しも既に持っている愛国心を、右翼が刺激するからである。ところが、国民が全面的に右翼になびくことをしない。それは、なぜか。国民は、右翼の言うことを全面的に聞き入れれば、自分の所属している国が、すぐに戦争に向かうのがわかっているからである。しかし、国民が、ある国の政治権力者やある国の人々に対して、戦争の被害を恐れないほど怒ったら、その国は一致団結して容易に戦争に向かうだろう。そして、それを右翼と右翼的な政治権力は狙っているのである。右翼は、愛国心に生き、そして、死にたいのである。右翼的な政治権力者は、自分たちのイニシアチブの下で、国民を一致団結させて、自分たちが意図した一つの方向に、国を持っていきたいのである。言わば、全体主義国家を作りたいのである。端的に言えば、それが戦前の日本である。戦前回帰である。自民党の憲法草案が、まさしく、その方向性にある。そして、右翼的な政治権力者の典型的な例は安倍晋三である。安倍政権ができてから、右翼が台頭し、中国、韓国と極端に仲が悪くなり、書店は、中国、韓国、北朝鮮を非難・批判する本であふれかえり、街頭ではヘイトスピーチが横行し、秘密保護法案、安保法案が成立し、日本は、着実に、全体主義国家に向かい始めたのである。さて、右翼とは、自分が所属している国だけの国益、国威発揚、自分が所属している国だけの汚名返上を考えて発言し、行動しようとしている人(人々)のことであるから、その人(人々)が他国の政府及び他国の人々と真っ向から対峙しようと考え、行動を起こすのは当然のことである。他国の政府及び他国の人々と真っ向から対峙しないような右翼は右翼ではない。現在の日本の右翼が、中国、韓国、北朝鮮政府及びその国民と真っ向から対峙する発言し、行動しているのは、右翼として当然のあり方である。ところが、不思議なことに、日本の右翼の中には、アメリカ政府及びアメリカ国民と真っ向から対峙しようとしていないばかりか、媚びを売っている者が存在し、しかも、それが日本の右翼の大半を占めているのである。彼らは、右翼ではない。真っ赤な偽物である。それでは、なぜ、日本の右翼の大半はアメリカの政府及びアメリカ国民と真っ向から対峙しようしないのか。それには、様々な理由が考えられる。第一に、アメリカが世界で最も強い国であるということがある。アメリカを敵に回すと、日本の存立・自分の存在基盤が危ういという判断から来ていると考えられる。確かに、冷静な判断であるが、それは、右翼のすることではない。日本の右翼には、日本は世界の中で最高の国であるという意識がなければいけない。いかなる国に対しても、なびいたり、媚びを売ったりしてはいけないのである。第二に、中国、韓国、北朝鮮政府及びその国民と真っ向から対峙するためには、アメリカの政府及びアメリカ国民の力を借りる必要があるということがある。これも、また、冷静な判断である。確かに、アメリカが日本のために動いてくれたら、大きな力になるだろう。しかし、これは他力本願で、右翼の本来の発想からはかけ離れた考えである。虎の威を借る狐の発想である。しかも、アメリカ政府及びアメリカ国民が、自国や自身の利益にならないことのために、兵士を出すはずがないのである。あまりにも、人の好い考えである。第三に、アメリカが日本になじんでしまったことがある。だから、右翼の大半はアメリカの勢力を日本から追い出すという発想が存在しないのかもしれない。確かに、戦後、アメリカは、日本に、日本国憲法という平和憲法をもたらし、軍国主義勢力を一掃し、財閥を解体し、農地改革をし、民主主義を持ち込んだ。しかし、それは、日本のためではなく、アメリカ自身のためなのである。その端的な例が、現在も、なお、日本に多数のアメリカ軍基地が存在することである。もちろん、それは日本の防衛のためにではなく、アメリカのアジアにおける覇権戦略のために存在している。言わば、日本はいまだにアメリカに占領されているのである。アメリカ軍基地の最も大きな地域を占めているのは、沖縄県である。沖縄県民は、アメリカ軍基地を県外に移すために、日本政府と厳しい交渉をしている。愛国心を主軸とする右翼ならば、当然、沖縄県民の考えを支持しなければならない。ところが、右翼の大半は、逆に、沖縄県民を非難しているのである。日本の右翼の大半は姑息であり、真の右翼とは決して言うことができない。右翼とは、単純な論理の下で思考し、瞬間的に行動し、先見の明がない(先のことが深く考られない)人(集団)であると言っても、日本の大半の右翼の、アメリカという虎の威を借る狐というあり方、アメリカ軍基地を県外に移転してほしいという沖縄県民の願いを非難する態度は、あまりに浅薄で、到底容認することはできない。日本の右翼の大半は右翼ではない。似非右翼である。さて、先にも述べたように、愛国心を有しているのは、右翼だけではない。日本だけでなく、世界においてもそこに国というものが存在すれば、国民は、誰しも、自国に対して愛国心を有している。それを声高に主張するか、内面に秘めているかの違いだけである。全ての人に愛国心が存在するのは、誰しも、特定の国に所属しているからである。だから、どの国においても、愛国心を声高に主張する人は存在する。つまり、世界各国にその国の右翼が存在するのである。また、たとえ、二つの国籍を有している人がいたとしても、その人の愛国心は全体に拡散することはなく、その二ヶ国だけには愛国心を抱くが、その他の国には愛国心を抱くことはない。愛国心とは、自分が気に入った国を愛する心ではなく、自分が所属している国を愛する心だからである。自分が所属している国が素晴らしいからでも、自分が所属している国から恩義を受けたからでもなく、自分が所属しているから、その国を愛するのである。だから、愛国心とは、自我から発しているということは言うまでもないことだろう。言い換えれば、日本国民という位相において、日本人にとって日本という国は自分なのである。だから、日本人は、日本のいう国に執着し、日本のあり方が気になるのである。もちろん、現在は日本人であっても、もしもその人が中国に生まれていたならば、中国に愛国心を抱いていたのは、疑いのないところである。「俺は日本に対して強い愛国心を持っているのだ。だから、中国が嫌いなんだ。」と威張るように言う日本人は、中国に生まれていたならば、中国で、「俺は中国に強い愛国心を持っているのだ。だから、日本が嫌いなんだ。」と威張るように言っているに違いないのである。愛国心に限らず、愛とは、自分が所属しているものや自分が所有しているものに執着し、それが他の人に評価されることを望む感情である。これが自我の現れなのである。ニーチェならば、この現象を、権力への意志と表現するだろう。だから、自分が日本という国に所属しているから日本に愛国心を抱いているのと同様に、自分が中国、韓国、北朝鮮、アメリカという国に所属していたならば、中国、韓国、北朝鮮、アメリカに愛国心を抱いていたのは確実なのである。自我の為せる業である。だから、愛国心は声高に叫ぶほどのことはないのである。自我の為せる業、ただ、それだけのことなのである。しかし、愛国心は、国民個々人ばかりでなく、時には、国全体を大きく動かすのである。自分が所属している国に対する愛、執着、評価が国民個々人ばかりでなく、国全体を動かすことがあるのである。自分が所属している国やその国に所属している自分を、他国や他国の人々や他の人々に認めてもらいたいと思いが高まった時である。国民としての自我が人を動かすのである。それが、人間は社会的な存在であるという文の端的な意味である。人間は社会的な存在であるという文の意味を、マルクスは、階級にこだわり、ブルジョア(資本家)やプロレタリアート(労働者)などの自分の所属している階級によって、人間は意識(考え)が決定されると述べているとし、それが、経済闘争に繋がるとしているが、人間の自我(マルクスは自我という言葉を使っていない)が形成される場(構造体)は階級ばかりでなく、国はもちろんのこと、家族、会社、学校、県、市、町など数多く存在する。そこに構造体が存在し、そこに所属している人がいれば、そこには自我が存在するのである。ちなみに、日本のマスコミの多くは、イスラム教徒の原理主義に基づく過激派のテロの原因を、貧困や洗脳に求めているが、あまりにも安っぽい考え方をしている。貧しくなくても、洗脳されなくても、イスラム教徒の過激派はテロを起こすのである。なぜならば、彼らは、イスラム教という宗教組織に所属し、イスラム教徒という自我を持っているからである。彼らは、国家権力やキリスト教国家やキリスト教徒によって、イスラム教やイスラム教徒が虐げられていると考え、自らの自我が傷つけられていると感じるから、あの世では神に祝されることを願い、この世では、自爆テロなどの絶望的な戦いを行っているのである。さて、それでは、いつ、なぜ、人間に愛国心が芽生えたのだろうか。人間には、先天的に愛国心を備わっているのだろうか。いや、そんなことはない。人類には、有史以来、愛国心という観念が存在したのだろうか。いや、そんなことはない。現代のように、世界が国という単位で細断されながらも、その国の領域を縦断・横断ができるような、国際化した時代においては、自分がある特定の国に所属し、その国が確固たる存在を呈しているという意識、つまり、確固たる国に所属しているという国民意識がないと不安だから、愛国心が生まれてくるのである。つまり、国民としてのアイデンティティ(自己同一性・ほかならぬこの私であることの核心)の意識が存在しないと、国際化した社会では不安で生きていけないから、愛国心を抱くのである。もちろん、自分が所属している国が、国際社会において認められれば、不安解消ばかりか、満足感すら得ることができるのである。それは、国民としてのアイデンティティが満足できるからである。自分が認められたように満足感を得るのである。そこにおいては、国の存在こそが自分の存在、もっとはっきり言えば、国こそが自分なのである。国の存在が自分の自我の現れの一つなのである。オリンピックで日本人が活躍したり、日本人がノーベル賞を獲得したりした時に、日本国民全体が喜ぶのも、国民としてのアイデンティティが満足できたからである。自己満足ならぬ自我満足である。手柄を挙げた日本人に、日本人の一人として自分が繋がっているように感じられるからである。逆に、日本という国や日本人が貶められると、自分が貶められたように傷つく。その日本という国やその日本人に、日本人の一人として自分が繋がっているように感じられるからである。それも、また、国民としてのアイデンティティが為せる業である。自我の為せる業である。それでは、いつから、日本人は愛国心を持つようになったのか。それは、時代的と個人的の二面から考えることができる。まず、時代的な側面から見ると、次のようになる。時代的には、明治時代からである。正確には、黒船来航がその端緒となり、欧米と対抗するには、幕藩体制を解体して、日本一国としてまとまらなければいけないと思った江戸時代の末期からである。だから、その時まで、江戸時代には、愛国心は存在しなかった。武士の「おらが国」の国は藩であり、農民の「おらが国」の国は村であったのである。明治時代に入り、日本人全体の尊崇の対象としての天皇の存在を強調し、庶民に浸透させ、日本人全体が守らなければならない大日本帝国憲法の成立させ、日本を取り仕切る明治政府への納税の義務を国民全体に課し、日本が他国と戦う時のために徴兵令を公布して、国民に兵役義務を課すことなどを通して、日本人は、自分が住んでいる日本を他国に対抗する独立した国として認めると同時に、自分自身が日本という国の一員として認めるようになったいったのである。つまり、明治時代以降、日本人は、日本という国の存在と日本人としての自分を認め、意識するようになったのである。愛国心の誕生である。もちろん、そこには、同時に、日本に対するアイデンティティ、言い換えれば、日本国民としてのアイデンティティも誕生している。端的に言えば、愛国心、日本に対するアイデンティティ、日本国民としてのアイデンティティの三者は同じものである。次に、個人的な側面から見ると、次のようになる。個人的には、日本人は、誰しも、生まれつき愛国心を持っているわけではなく、成長の過程の中で、子供の頃から愛国心を抱くようになるのである。自分自身の体験や周囲の日本人からの影響によって愛国心を持つようになるのである。単に、小学校で、日本という国の存在とともに自分が日本人だということを教えられただけでは、愛国心は身につかない。そこでは、知識は入ってくるが、愛国心は湧いてこない。次のような時、愛国心が湧いてくるのである。街で欧米人に会い、その体格に圧倒され、惨めな自分の体格を卑下しつつ、自分と同じ体格の人たち、つまり、日本人を見た時、自分と同じように日本に生まれ育った者への愛情、つまり愛国心を抱くのである。外国旅行に行き、言葉や習慣や雰囲気の異なっているのに不安を覚えている時、日本人を見て安心感を得た時、愛国心を抱くのである。また、外国旅行に行き、日本に帰りたくなった時、自分の生まれ育った国への愛情、つまり愛国心を抱くのである。さらに、子供心にも、オリンピックやワールドカップやノーベル賞受賞などでの日本人の活躍に、周囲の大人たちが湧きかえっているのを見ると、自分もうれしくなり、自分もこの大人たちと同様に日本人だから喜んでいいのだと思った時、愛国心を感じ取っているのである。つまり、誰しも、自分が他国の人々から疎外されていると感じていた時に、自分が日本人の一員であり、日本人の仲間の一人なのだと意識して、安心感を得た時から、我知らず、愛国心を持つようになるのである。また、日本及び日本人が他国及び他国の人々と対抗している場面で、自分も、周囲の日本人と同様に、日本及び日本人に応援したくなる気持ちになった時から、愛国心を覚えるようになるのである。特に、日本及び日本人が他国及び他国の人々との対抗している時、自分が日本という国に所属していることそして日本人の一員だと強く意識し、愛国心を強く覚えるのである。さて、先に、愛国心は自我の現れだと述べたが、愛郷心も愛校心も自我の現れである。何であれ、自分がそこに所属していることを意識し、そこに愛着を感じ、無意識に(深層心理で)そこに囚われた時、つまり、アイデンティティを抱いた時、そこが自分の自我の一つになるのである。例えば、自分は青森県民だと意識するようになった時、青森県に愛郷心を抱き、青森県民としてのアイデンティティを抱き始めるようになる。また、自分はX高校の生徒だと意識するようになった時、X高校に愛校心を抱き、X高校生としてのアイデンティティを抱き始めるようになる。つまり、人間は、自分が所属している構造体(日本、青森県、X高校など)に執着し、他の構造体と対抗することを意識して生きている動物なのである。人間は、常に、ある特定の構造体の中で、その一員として生きざるを得ない存在者である。構造体の外の生き方は存在しない。構造体に属さずに生きることはできない。山田一郎には山田一郎独自の生き方は存在しない。山田一郎は、ある時には日本人として、ある時には青森県民として、ある時にはX高校生として生きているのである。日本人、青森県民、X高校生が、山田一郎のそれぞれの場面における自我である。自我の現れが山田一郎の行動になっている。その自我を支えているのが、日本という構造体、青森県という構造体、X高校という構造体なのである。だから、山田一郎にとって、日本人、青森県民、X高校生だけでなく、日本も青森県もX高校もかけがえのない存在なのである。さて、一般的には、愛国心の強い人に対して、右翼という短い言葉ではなく、ナショナリスト(民族主義者、国家主義者、国粋主義者)という長い言葉があてがわれることが多い。確かに、ナショナリスト(民族主義者、国家主義者、国粋主義者)と呼んだ方がわかりやすい。言葉そのものにその意味が現れているからである。しかし、私が、ここで敢えて右翼という言葉を使うのは、ナショナリスト(民族主義者、国家主義者、国粋主義者)の反対勢力は、一般に、左翼と呼ばれているからである。そこで、それの対義語として右翼という言葉を使用しているのである。さて、先に述べたように、誰しも、愛国心を持っている。だから、誰でも右翼になりうる可能性がある。それでは、なぜ、一部の人しか右翼にならないのか。それは、そこに、左翼的な考え、そして、左翼が存在するからである。左翼とは、愛国心を抱きつつも、自らの愛国心に身をゆだねず、相手の国民にも愛国心があると認識し、両者に折り合いをつけようとする人たちである。端的に言えば、左翼が存在するから、右翼の愛国心の暴走を止めることができるのである。右翼と左翼が対抗し、国民がそれを見て判断を下すから、国に秩序が成立し、国が存続するのである。もしも、右翼が台頭し、左翼が有名無実になってしまえば、国民も右翼化することになり、その国はためらいなく他国と戦争を始めるだろう。世界は、幾度も、その惨劇を見ている。いや、現在も見続けている。日本は、その惨劇を、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、太平洋戦争などにおいて見てきた。しかし、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦においては、勝利に酔い、惨劇を惨劇として認識できなかった。それゆえ、太平洋戦争戦争において、大惨劇を見ることになった。世界は、第一次世界大戦、第二次世界大戦において、大惨劇を経験をした。右翼の台頭がもたらしたものである。愛国心の暴走がもたらしたものである。それゆえ、右翼の台頭、愛国心の暴走を絶対に許してはならないのである。右翼の台頭そして愛国心の暴走の制止に失敗すれば、国は滅びてしまうことになるのである。延いては、世界が滅びてしまうのである。フロイトは、人間個人の心理構造と社会の心理構造は同じだと言ったが、それは至言である。右翼の台頭・愛国心の暴走を制止することと男児の母親に対する欲望を抑圧することととは、原理的に同じである。フロイト、ラカンは、男児の母親に対する欲望を抑圧することをエディプス・コンプレックスと呼んだ。男児の母親に対する欲望は抑圧しなければならない。なぜならば、それに失敗すると、その家庭はめちゃめちゃになってしまう。延いては、社会がめちゃくちゃになり、秩序が保たれなくなってしまう。しかし、愛国心も男児の母親に対する欲望も、異常な感情ではなく、誰しも、成長過程において、自然に生まれてくる感情なのである。自然に身につく観念、深層心理(無意識)なのである。だから、愛国心も男児の母親に対する欲望も、その誕生を止めることはできない。何かに転嫁できても根絶させることはできないのである。仮に、それらを根絶させてしまうと、この世には、国民もいなくなり、男児も存在しなくなるだろう。それらは、現代のすべての人間の発達段階において、自分の体験や周囲からの影響を通して、自然と生まれてくる感情、自然と心に身につく感情、深層心理(無意識)なのである。そして、それらは、ある年齢の頃においては、ある時には、ある場面においては、心の拠り所になることがある。また、その誕生にも必然性がある。問題は、それを手放しに喜べないということである。それらを暴走させるととんでもないことになるからである。確かに、それらが弱い間、自分が抑圧しようと思って抑圧できている間、自分が抑圧できなくても周囲が制止することができている間は問題は無い。むしろ、ほほえましい状況を作り出す。しかし、それらが強くなり、自分が抑圧しようと思わなかったり、思わなくなったり、自分が抑圧しようとしても抑圧できない時に周囲がそれらを制止することができなかったり、周囲が逆にそれらに加担したりした場合は、とんでもない状態を引き起こす。人間関係が乱れ、家族が崩壊し、社会の秩序が保たれなくなり、国が破壊され、世界が破滅する。「子供は正直だ」という言葉をがある。子供をほめた言葉である。しかし、この言葉は、大人が子供をしっかり管理できている時にしか使えない言葉である。文字通り、子供が自分の心に正直に行動したらどうなるか。子供が大人の管理を離れて正直に行動するようになったらどうなるか。男児が母親に対する欲望のままに行動するとどうなるか。誰でも、その結果は容易に想像できることである。家庭が破壊され、社会が破壊される。愛国心も同じである。右翼の言うように、国民が愛国心のままにわき目も振らずに行動してはいけないのである。むしろ、右翼の行動を止めなくてはいけないのである。特に、権力者の動向に細心の注意を払う必要があるのである。政治権力者が、右翼と共に、もしくは右翼的な考えの下で、愛国心を振りかざして、わき目も振らずに国を動かせば、確実に、その国は戦争になる。それは、二国間だけの戦争にとどまらず、他の国の権力者や他国民の愛国心を燃え上がらせ、世界中が戦火に見舞われてしまうような状態を作り出す可能性が十分にある。端無くも、現在、世界の至る所に、その状態が見え隠れしているのではないか。キリスト教徒の国がイスラム教徒の国を圧迫してきたのも、キリスト教徒の国に圧迫され続けたイスラム教徒が絶望的な自爆テロで反撃を開始したのも、愛国心の故ではないか。イスラム教徒の一過激集団、一原理主義組織が、「イスラム国」という国を名乗っているのも、その現れではないのか。現在の日本も、右翼が台頭し、愛国心が暴走を始めているから、戦争まであと一歩の状態であると言えるのではないか。さて、このように、日本の右翼が台頭し、愛国心が暴走し始めたのは、安倍政権の誕生からである。日本の右翼の台頭、愛国心の暴走の原因を、中国の台頭、韓国の理不尽な要求、北朝鮮の不穏な動きに求める人が多いが、それらは主因ではない。主因は、安倍政権の誕生にある。中国の台頭、韓国の理不尽な要求、北朝鮮の不穏な動きが無くても、右翼の台頭、愛国心の暴走は、いつでも、起こり得る。右翼は、常に、虎視眈々とその機会をうかがっている。右翼にとっては、日本国だけの国益、日本の国威発揚、日本を貶める国への懲罰を目的とした、愛国心の発露だけが生きがいなのである。常に、戦争も辞さない覚悟を持っているからである。現に、安倍政権誕生以前にも、中国の台頭、韓国の理不尽な要求、北朝鮮の不穏な動きはあった。しかし、右翼の台頭、愛国心の暴走はなかった。それは、なぜか。国民が右翼的な考えや右翼に理解を示さず、時の政権も右翼的な思考を持っていなかったからである。たとえ、時の政権が右翼的な思考を持っていたとしても、国民に理解を得られないと判断し、その思考を自ら封鎖していたからである。さて、先に述べたように、日本人ならば誰でも愛国心を持っている。そして、それが極端に強い人、右翼はいつの時代にも常に存在する。それ故に、日本国民が愛国心に振り回されたり、右翼を制止しなかったりしたならば、彼らが台頭し、愛国心が暴走し、日本は容易に戦争に導かれてしまうる。右翼は、右翼的な思考を持った安倍政権が誕生したから、国民が右翼の考えに賛同していると考え、安倍政権の陰に陽にバックアップを得て、我が意を得たりとばかりに、跳梁跋扈するようになったのである。愛国心とは、他の国や他の国の人々の対抗意識であるから、中国や韓国や北朝鮮が存在しなくても、例えば、アメリカやロシアやフィリピンやベトナムやタイなど、どの国(国民)に対してでも抱くことはできる。しかし、どの国(国民)に対してであろうと、異常なレベルでの対抗意識、異常なレベルでの愛国心を燃やしてはいけないのである。それが、戦争に繋がるからである。戦争には、戦勝国は存在しない。戦勝国、敗戦国ともに敗戦国になるのである。関わった国全部が、敗戦国なのである。戦争に勝ち、相手国を占領し、相手国に非を認めさせ、相手国から多額の賠償金を得るなどというのは夢の話である。勝利国においても、無傷は終わることはない。多数の戦死者が出て、国土は荒廃し、民主主義は廃れる。敗戦国においても、権力者は敗戦を認めても、その後、国民の中からゲリラ闘争を始める者が出てくる。それほど、現代人は、国に対する愛国心、郷土対する愛郷心、宗教に対する殉教意識が強いのである。アメリカに敗北した、アフガニスタン、イラクの現状を見ればよい。アメリカは、アフガニスタン、イラクを日本のようにしたかったのである。日本は、太平洋戦争で、アメリカに敗れ、アメリカの意のままの国になった。現在でも、アメリカ軍の爆撃機が、自分たちの好きな時間に、日本国全体の上空を飛び回っている。アメリカは、アジア支配のために日本に基地を置いているのだが、日本政府は、思いやり予算などという言葉をねつ造して、毎年二千億円以上のみかじめ料をアメリカに払っている。情けないことに、大半の右翼は、中国、韓国、北朝鮮を批判しても、アメリカを批判しないのである。右翼の風上にも置けない人たちである。右翼の中には、中国や韓国や北朝鮮と戦争をしても日本(日本人)のプライドを守るべきだと説く者がいる。彼らは、戦争をゲームのようにしか考えていないのである。太平洋戦争を考えてみれば良い。日本(日本人)は、プライドを守るために、アメリカと、勝ち目のない戦争、太平洋戦争をしたのである。そして、破滅的な敗北を喫したのである。喉元過ぎれば熱さを忘れるというが、戦後も七十年を過ぎると、日本人は太平洋戦争の惨状、そして、その原因を忘れてしまったのではないか。マルクスは、「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。」と言ったが、日本人は、もう一度、戦争をしないと、戦争という地獄に面と向かうことはできないのだろうか。右翼の台頭、愛国心の暴走を許してはいけないと気付かないのだろうか。先に述べたように、フロイトは、男児の母親に対する欲望の抑圧を、エディプス・コンプレックスと表現している。男児は母親に対して恋愛感情を抱く。だが、父親の反対に遭い、社会が父親に味方するので、男児は母親に対する恋愛感情を抑圧する。その後、その代理としての別の女性に恋愛感情を抱くことによって、その不満を解消するようになると言うのである。ちなみに、フロイトは、男児たちの父親殺しの例も挙げている。社会が正しく機能していなければ、大いにその可能性はある。この行為の後、男児たちは、このことを秘密にしていたから、社会的に罰せられることはなかったが、一生、負い目を持って暮らすことになる。言うまでもなく、社会的にも、家庭的にも、男児個人にとっても、男児の母親に対する欲望を抑圧しなければならないのである。エディプス・コンプレックス(男児の母親に対する欲望の抑圧)と愛国心の暴走(右翼の台頭・暴走)の抑圧は、対称的である。男児は、父親の反対に遭い、しかも、社会(周囲の人たち)が父親の考えに同調していると感づいたから、母親に対する欲望に抑圧するしかなかったのである。男児は、この家庭、そして、この社会に生きていかなければならないからである。右翼は、左翼が反対し、国民が左翼の考えに賛意を示したならば、右翼の台頭・愛国心の暴走は無いはずである。右翼も、また、この日本の社会において生きていかなければならないからである。しかし、安倍政権が誕生し、中国や韓国や北朝鮮を挑発するようになると、右翼は我が意を得たりとばかりと台頭して来たのである。政治権力を笠に着たのである。マスコミも、連日連夜、中国の台頭、韓国の理不尽な要求、北朝鮮の不穏な動きについて報道するので、巷でも愛国心が暴走させる人が出てきたのである。ヘイトスピーチをする集団が、その典型である。戦前も、現在と同じような状況を呈していた。だから、太平洋戦争に突き進んでしまったのである。マスコミは、連日連夜、中国に攻め込んだ日本兵の勇敢さ、中国兵の弱さ、中国人の愚かさ、アメリカの理不尽な要求について報道し、愛国心をくすぐったので、国民全体が右翼の考えに同調してしまったのである。もちろん、当時の日本国家の中枢の軍人や政治家たちも、愛国心に凝り固まり、日本国だけの国益、国威発揚を考えるような、右翼の権力者集団だったのであるから、日本国全体が右翼の思想に染まっていたと言えるのであるが。しかし、そのような時代風潮の中にあっても、日本共産党、灯台社というキリスト教団体、桐生悠々という新聞記者、斎藤隆夫という国会議員は、戦争反対を唱えて、果敢にも、国家権力に反旗を翻した。しかし、右翼的な考えにどっぷり染まっていた国民は、彼らに理解を示すどころか、目の敵にした。「大衆は馬鹿だ」というニーチェの言葉が聞こえてきそうである。しかし、たとえ、大衆は馬鹿であっても、左翼は大衆に訴え続けなければいけないのである。死をも覚悟して、右翼に抗して主張しなければいけないのである。それが左翼である。明治以来、死を覚悟しながら、真っ向から、右翼の政治権力に抗して、天皇制に反対し、戦争反対を唱えた者が少なくとも三人存在する。大逆事件で冤罪で死刑になった幸徳秋水、関東大震災のどさくさ紛れの中で軍隊に拉致され虐殺された大杉栄、治安維持法の罪状を科せられ逮捕されその日のうちに特別高等警察に拷問死させられた小林多喜二である。彼らは、常に死を覚悟して、日本国民に、天皇制の反対と戦争反対を訴え続けた。しかし、愚かな日本国民は、彼らを理解せず、むしろ、非難した。日本国民は、自らを「天皇の赤子」としていた上に、軍隊に肩入れしていたからである。彼ら三人は、それを理解していた。しかし、国民に、自らの主張をし続けた。左翼とはこういうものなのである。たとえ、国民から理解されなくても、死を覚悟しつつ、政治権力と右翼に抗して、自らの主張をし続ける存在者が左翼なのである。だから、それは、愛国心におぼれず、権力者や右翼に抗するものであれば、マルクス主義者であっても、無政府主義者であっても、自由主義者であっても、構造主義者であっても、脱構造主義者であっても、どのような思想を抱いている者でも構わないのである。しかし、現在の日本において、左翼陣営はあまりにも貧弱である。幸徳秋水、大杉栄、小林多喜二がいないのである。左翼陣営が貧弱なのは、決して、政治権力の弾圧やマスコミの政治権力への迎合や右翼の激しい妨害があるからではない。確かに、安倍政権は、マスコミを圧迫し、国民を愚弄し、戦前のように戦争のできる、上意下達の全体主義の国家にしようとしている。民主主義の否定の動きを示している。読売新聞、産経新聞、週刊新潮などのマスコミは、安倍政権と歩調を合わせ、原発推進、安保法案賛成、憲法改正の論調を張っている。権力にすり寄っていく態度はマスコミの役目をすっかり失っているどころか、共犯者である。右翼は、在日韓国人や在日朝鮮人に対してヘイトスピーチを繰り返し、自由主義的な発言をする人をネットで口汚くののしっている。その短絡的な思考や行動は幼児性を示している。しかし、戦前は、日本は、もっとひどい状況にあった。政治権力は、警察や軍人を使って、共産主義者、無政府主義者、自由主義者などの反体制派を、不当逮捕し、冤罪や拷問によって、百人以上の者を死に追いやった。マスコミは、政治権力に同調し、国民に対して、戦争を煽り、戦場に向かわせた。右翼は、自分たちと考えの異なる者を暗殺した。それに比べると、現代は、まだ、左翼に発言できる機会が多く、政治権力や右翼の妨害も陰険ではあるが、隠微な段階にある。それでありながら、左翼陣営が貧弱なのは、覚悟あるものが少ないからである。幸徳秋水や大杉栄や小林多喜二のような覚悟ある者があまりに少ないのである。政治権力の弾圧やマスコミの非難や右翼妨害を敢えて引き受けるだけの覚悟を持っている者が少ないのである。もちろん、そこには、殺される可能性もある。しかし、死すら厭わず、自らの言葉によって、政治権力やマスコミや右翼の愛国心の暴走を止めようとしない者は、左翼ではない。死を覚悟して発言する者がほとんどいないから、現代は、左翼陣営が貧弱なのである。愛国心とは感情である。感情が高まると、過激な行動に出る。右翼には常にその可能性がある。だから、左翼は、それを受ける覚悟が必要である。それを受ける覚悟で発言できない者は左翼ではない。安泰な位置で発言している者が多いから、現代のような逆境の中では、沈黙を保つものが多いのである。しかし、このままでは、戦前に舞い戻ることになるだろう。

哲人政治家と俗人政治家(自我の欲望(その4)

2016-01-15 19:39:21 | 思想
日本には、哲人政治家は存在しない。俗人政治家しか存在しない。いや、日本だけではない。私が見る限り、世界中、どこを探しても、哲人政治家は存在しない。俗人政治家しか存在しない。哲人政治家とは、見識が高く、知識・学識が豊かで、道理に通じ、政治家という地位をなげうっても国民のために尽くす、信念のある政治家を言う。俗人政治家とは、政治家という地位にあることを第一目的とし、因循姑息な政治家集団の色に染まり、プライドが高く、傲慢で、国民より自分がレベルが上だと思っている政治家を言う。二十代のあるアナウンサーがいた。その人は、バラエティー番組で、ゲストとして招かれた与野党議員の発言を、国民の視線で、ユーモアを交えて批判した。その姿勢は好評を博した。後に、自民党の国会議員になった。そして、国会では、質問する野党議員に口汚くヤジを飛ばすヤジ将軍として名をはせた。三十代のある新聞記者がいた。その人は、紙面で、与野党の区別なく、舌鋒鋭く批判した。特に、政治資金については、胸をすくような記事を書いた。その人は、後に、自民党の国会議員になった。そして、裏金を受け取った疑惑でマスコミに追及されると、自殺した。五十代のある政治解説者がいた。その人は、テレビの政治番組で、与野党議員に鋭く迫り、派閥解消を訴え、多くの視聴者の信頼を勝ち得た。後に、自民党の国会議員になった。そして、自分がテレビ番組で批判した議員の派閥に入った。さて、この三人は、アナウンサー、新聞記者、政治解説者の時の考えと自民党の政治家になってからの考えが明確に異なっているが、いったい、どちらの考えが自分の本当の考えなのだろうか。彼らは、そこに矛盾を感じていないのだろうか。彼らは、無節操だと非難されることを恐れないのだろうか。しかし、彼らは矛盾を感じていない。無節操だとも思っていない。彼らにとって、どちらの考えも自分の本当の考えなのである。アナウンサー、新聞記者、政治解説者であった時は、その放送局、新聞社の考えを陰に陽に受け取り、自分の考えもそれに同化してしまった。自民党の政治家になると、自民党の考えを陰に陽に受け取り、自分の考えもそれに同化してしまった。ただ、それだけのことなのである。だから、アナウンサー、新聞記者、政治解説者の時の考えと自民党の政治家になってからの考えが異なっているのは当然のことなのである。彼らは、周囲の考えに自らを同化させて生きているだけなのである。そこに、自分の本当の考えなど存在するはずはないのである。それでは、なぜ、彼らは、周囲の考えに自分を同化させて生きようとするのか。それは、彼らは、ステータス(社会的境遇、職業的地位、階級、身分)に囚われて生きているからである。彼らは、ステータスとしての自らを認められようと腐心し、そのステータスが奪われないように生きているのである。だから、彼らは自民党の政治家になってしまうと、自民党の党是を自らのものとし、周囲の自民党の国会議員の考えに同化し、官僚と共存・共犯の関係になるのである。そこに、国民の考えに対する配慮は存在しない。彼らにとって、国民とは、自らが配慮するべき存在ではない。国民が彼らの考えを理解するべきなのである。彼らが、国民の考えに対する思いが生まれてくるのは、選挙の時だけである。その時は、美辞麗句を並べ立てて国民の支持を集めようとする。普段の政治活動においては、国民の支持を受けなくても、国会議員のバッジを外させられることはない。しかし、周囲の自民党の国会議員や官僚から見放されると、自民党の国会議員としての活動に支障を生じ、ステータスの維持が危うくなってしまう。だから、普段は、周囲の自民党の国会議員と官僚の配慮を怠らないのである。これが、自民党の国会議員の自我なのである。自民党の国会議員というステータスにこだわった生き方をするのが、自民党の国会議員の自我なのである。しかし、ステータスにこだわった生き方をするのは、自民党の国会議員だけではない。民主党の国会議員も同じである。民主党は政権与党になると、それまでの主張を翻した政策をとった。言わば、第二の自民党になった。これが、政権与党になった民主党国会議員の自我なのである。公明党も政権与党に組み込まれると、それまでの主張を翻して、集団的自衛権を認めて、自民党との共存・共犯の関係を確立した。これが、政権与党になった公明党の国会議員の自我なのである。もちろん、彼らも、国会議員になるまでは一庶民であり、その庶民のステータスに応じての政治思想を持っていた。それが、先の例に挙げたように、アナウンサー、新聞記者、政治解説者などのステータスに応じた政治思想である。そして、野党の国会議員になると、野党の国会議員のステータスにふさわしい、与党を攻撃するような政治思想を持つ。さらに、与党の国会議員になると、与党の国会議員のステータスにふさわしい、歴代の与党の政治思想を持つようになるのである。何のことはない。誰しも、自分のステータスに応じた政治思想を持つだけなのである。ステータスがその人の政治思想を決めているのである。だから、日本には、俗人政治家しか存在しないのである。いや、それは日本にとどまらず、全世界に及んでいる。世界中の政治家が、自分の立場と自国の立場から発言し、行動している。だから、戦争がやまないのである。世界各国に哲人政治家が誕生しないと、この世から戦争はなくならない。哲人政治こそ平和への唯一の道である。しかし、果たして、ステータスに囚われない思考を持つということは可能だろうか。誰しも、自己のステータスに応じた利益を追求する中で、自分だけがステータスを超えた政治思想を持つことができるだろうか。たとえ、自分だけがステータスを超えた政治思想を持ったとしても、それを発言し、それに応じた行動したとたん、その政党から追放されるのではないか。かてて加えて、マスコミも、国益、国益と声高に言い、自国の利益を追求することを当然視する中で、日本国の利益を超越した政治思想を唱えると、その人は、国民から支持されなくなるのではないか。反日、売国奴などと下品な非難を受けるのが関の山ではないか。しかし、政治家を目指す者は、敢えて、哲人政治家を目指してほしいのである。確かに、すぐには、周囲の政治家から理解されないばかりか、国民から理解されないかもしれない。暗殺される可能性も無いとは言えない。しかし、哲人政治家を目指してほしいのである。なぜならば、哲人政治しか、現在の日本ばかりか、現在の世界を救うことはできないからである。

狂った世界(自我の欲望(その3))

2016-01-13 16:50:26 | 思想
国連の第一の目的は、世界の平和と安全の維持である。その主要機関の一つが、安全保障理事会である。平和への脅威、平和の破壊活動を行っている国に対し、武力行使を含む強制措置の発動を決定することができる機関である。この機関は、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の常任理事国五カ国と非常任理事国十カ国で構成されている。そして、常任理事国五カ国には、拒否権(安全保障理事会の決議・決定を覆し得る権利)が与えられている。そのために、他の十四カ国が賛同しても、常任理事国の中の一国が拒否権を行使すれば、その決議は成立しないのである。だから、シリアや北朝鮮の平和への脅威、平和の破壊活動に対して、世界の大多数の国々や大多数の人々が、国連に、安全保障理事会を開いてもらい、武力行使を含む強制措置の発動を決定してもらおうと考えても、常任理事国のロシアや中国が拒否権を行使する(と考えられる)から、シリアや北朝鮮は野放しの状態にあるのである。ロシアや中国は自国の利益だけを考えて行動しているのである。しかし、それは、ロシア、中国にとどまらない。アメリカ、イギリス、フランスのイスラム教国家に対する残酷な仕打ちは、自ら、拒否権を持っているから為すことができるのである。なぜ、この五カ国が、安全保障理事会で、常に理事国である必要があるのか。なぜ、この五カ国の一国でも拒否権を行使すれば、安全保障理事会の決議は成立しないことになっているのか。なぜ、この五カ国が、平和への脅威、平和の破壊活動を行う国にならないと言えるのか。むしろ、第二次世界大戦後の最大の平和への脅威、平和の破壊活動を行っている国はロシアであり、次いで、アメリカであり、現在は、中国ではないのか。現在のイスラム国などのイスラム教原理主義集団のテロは、アメリカ、イギリス、フランス、ロシアがイスラム教国家にとって、平和に対する脅威をもたらし、平和の破壊活動を行ってきたことへの反発が招いたことではないのか。世界の多くの国々や多くの人々は、国連安全保障理事会の組織のあり方に疑問を持っているだろう。むしろ、疑問を持たない方が不思議である。しかし、どの国もどの国の人もそれを言わない。五カ国ににらまれるのが怖いからである。その典型がアメリカである。アメリカは、ヴィン・ラディンをかくまっているという理由でアフガニスタンを攻略し、大量破壊兵器を隠し持っているという理由でイラクを攻め、フセイン大統領を死刑に処した。特に、アメリカににらまれたら、理由をでっちあげられて、攻め滅ぼされる可能性がある。それが怖いから、どの国の政府もどの国の人も、声を上げることができないのである。北朝鮮が核を所持したのも、アメリカに、突然、攻め込まれることを危惧したからである。だから、五カ国が、自ら、安全保障理事会の改善に向かうことが望ましいのである。しかし、それは、ほぼ絶望的な状況である。アメリカだけでなく、ロシアのチェチェン共和国の独立に対する武力干渉、イギリスのアルゼンチンとのアルゼンチン沖のフォークランド諸島をめぐる戦争、フランスのフランスからの独立を目指したアルジェリアの民族解放戦線に対する残酷な仕打ち、中国のチベット支配とウイグル族差別などを見てもわかるように、他の四カ国も自国の利益だけを考えて行動しているからである。それは、NPT(核拡散防止条約)にも、如実に表れている。NPT(核拡散防止条約)とは、多量の核を保有しているアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の五カ国が、他の国にその保持を認めないという条約である。しかし、したたかなインド、パキスタンは、それを不平等だと言って保持し、北朝鮮はアメリカが怖いので保持している。イスラエルは、公表していないが、保持していると言われている。それでも、世界の大多数の国、二百カ国近くの国が、NPT(核拡散防止条約)に加盟している。この五カ国ににらまれたら怖いからであり、これ以上、核保有国を増やしたくないからである。しかし、インド、パキスタンが主張するように、これは不平等な条約である。アメリカ、ロシアが音頭を取って作った条約であるが、核保有国が自国の核を廃棄してこそ、他国に訴えるべき内容のものである。しかし、核保有国は、いずれも、自国の核を減らすように努力していない。そればかりか、むしろ、増やす傾向にある国もある。アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の政治権力者は、自国一国の利益だけを追求して、政治を運営しているのである。彼らは、自らの良心という自己による判断ではなく、政治権力にしがみつきつつ自国一国の利益を追求する自我による判断によって行動しているのである。そのような彼らを、民族主義者、国家主義者、国粋主義者というナショナリストや愛国心に酔った国民が支持しているのである。世界で最も権力を持った組織が国連である。国連の安全保障理事会が機能しない限り、世界に平和は訪れない。。国連の安全保障理事会が、平和への脅威、平和の破壊活動を行っている国に対し、武力行使を含む強制措置の発動を決定し、国連がそれを実行することによって、初めて、世界の平和と安全を維持することができるのである。しかし、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国を安全保障理事会の常任理事国とし、拒否権を与えている限り、安全保障理事会は正当に機能しない。アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の政治指導者はもちろんのころ、それ以外の国の政治指導者も、自我に囚われている限り、世界に平和は訪れない。アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の政治指導者に対して、どの国の力もどの政治指導者の力を借りず、それ以外の国の政治指導者が、反論したり、意見したする人がいただろうか。アメリカという虎の威を借る狐になり下がった日本の安倍晋三などは言うに足りない人間である。自己判断による政治指導から全く外れ、自我による政治指導をする道を歩んでいる人である。しかし、現在はもちろんのこと、過去においても、自己の良心に従って政治を行った人は存在しない。自我によって政治を行う人ばかりである。だからこそ、プラトンは、自我に囚われない人による政治、哲人による政治を望んだのである。

北朝鮮の核実験に思う(その2)(自我の欲望(その2))

2016-01-12 15:42:45 | 思想
北朝鮮が水爆実験を成功させたと発表した。狙いは、アメリカと終戦条約を結ぶことにある。北朝鮮は、イラクの二の舞になりたくないのである。アメリカは、イラクは大量破壊兵器を持っていると言いがかりをつけ、攻め込み、勝利し、フセイン大統領を裁判にかけて殺害した。しかし、イラクは大量破壊兵器を所持していなかった。もしも、イラクが核を所持していたら、アメリカは戦争を仕掛けなかっただろうということは誰でも容易に推察できることである。しかし、アメリカは、北朝鮮が核を捨てない限り、国際社会に復帰させないと言明している。今回の水爆実験を理由に、国際連合を動かして、経済制裁を強化しようと考えている。しかし、今のところ、常任理事国のロシアや中国が同調する動きはない。確かに、金正恩の独裁国家である北朝鮮が、これまで原子爆弾を保持していた上に水素爆弾を持つようになったら、いっそう脅威になるのは間違いはない。しかし、北朝鮮は容易に核を使うとは考えられない。北朝鮮が核を使う時、それは自国が滅びる時である。それが小国の運命である。それでは、最も脅威の国はどこであろうか。それは、国際連合の常任理事国の五か国である。核弾頭の数で明瞭である。アメリカは約9400個、ロシアは約13000個、イギリスは約185個、フランスは約300個、中国は約240を保有していると言われている。しかし、北朝鮮の保有している核弾頭の数はせいぜい10個であると言われている。比較にならないのである。攻める国と守る国の違いである。核の保有に関しては、核保有国は将来的に核を全廃し、核非保有国は核をこれからも持たないという、NPT(核拡散防止条約)というものがある。現在、世界のほとんどの国(二百国近くの国)が加盟している。もちろん、この五カ国も、NPT(核拡散防止条約)に加入しているが、核の数を減らすどころか、徐々に増やすか、現状を維持している。北朝鮮はNPT(核拡散防止条約)に加入したことがあったが、現在は、態度をあいまいにしている。インドは70個前後、パキスタンは80個前後の核弾頭を保有していると言われている。両国とも、NPT(核拡散防止条約)に加盟していない。その理由は、両国とも、NPT(核拡散防止条約)は、核保有国に有利、核非保有国に不利な不平等条約だからとしている。イスラエルは、NPT(核拡散防止条約)に加盟せず、核の保有を秘密にしているが、約80個の核弾頭を保有していると言われている。インドやパキスタンが言うように、NPT(核拡散防止条約)は不平等条約である。それでも、世界の核非保有国のほとんどが加盟している。なぜならば、これ以上核保有国が増えてほしくなく、核保有国ににらまれたくないからである。エディプス・コンプレックスにおいて、男児は、母親に対する欲望を、父親の妨害に遭い、周囲の者が父親を支持するので、抑圧せざるを得なかった。それが、道を外れた欲望の運命である。ラカンは、その周囲の者の存在(判定)を大文字の他者と呼んだ。しかし、常任理事国の五か国の道を外れた欲望を制止するものは存在しない。世界には、大文字の他者は存在しない。常任理事国の五か国の欲望を妨害するのが、他の常任理事国の五か国であり、その対立は泥仕合になり、常に収拾がつかない状態に陥る。現在のイスラム教国家の混乱が収拾がつかないのも、常任理事国の五か国が絡んでいるからである。そして、大文字の他者が存在しないからである。国際連合が大文字の他者になりようがない。常任理事国の五か国が拒否権を持っているので、国際連合は大文字の他者としての機能を果たせないのである。常任理事国の五か国は、自国の欲望、つまり、自国の自我によって、世界を動かそうとしている。そして、それを制止する大文字の他者としての組織が世界に存在しないから、世界は狂騒するばかりで、悲劇ばかりしか生まれないのである。

北朝鮮の核実験に思う(その1)(自我の欲望(その1)

2016-01-11 17:51:48 | 思想
今月6日、北朝鮮は、水素爆弾の実験の行い、成功したと発表した。アメリカ、韓国を中心に、世界各国から、非難の声が上がった。日本も、例外ではない。言うまでもなく、北朝鮮の脅威が増すからである。確かに、金正恩によって支配されてる独裁国家・北朝鮮は異常な国である。金正恩は、自らに近侍している者であっても、気に入らなければ、いきなり粛清してしまう。それでも、国民は金正恩が喜ぶようなことをし、金正恩とともに悲しんでいる。軍人が幅を利かせ、軍事費が膨大であるため、国民に食糧が行き渡らない。秘密警察組織が張り巡らされているから、国民は自由な発言はできず、飢え凍えても、死を待つしかない。それでも、国民は反乱を起こそうとしない。他国にとって、北朝鮮とは何をしでかすかわからない不安を抱かせる国家である。しかし、戦前の日本もそうではなかったのか。軍人が威張り、国民に食糧が無くても、上位の軍人はたらふく食べていたのではなかったか。国民は天皇が喜ぶようなことをし、天皇とともに悲しんでいたのではなかったか。国民は、一度として、天皇制による軍事国家に対して反乱を起こしたことはなかったのではないか。むしろ、国民は、国会議員や軍人や警察などの国家権力が、天皇制による軍事国家や海外戦争に対して異見を持つ者に対して、拷問や粛清を行った時、むしろ、国家権力に対して拍手喝采を送ったのではなかったか。戦後になり、天皇が象徴となり、軍事国家も消滅し、ようやく民主主義を謳歌できるようになった。しかし、国民は、戦後七十年ともなると、戦前の苦労を忘れてしまったようだ。それが、自民党の衆参の絶対的支配を選ぶことを招請した。自民党の党是は憲法改正である。それは、結党当初から存在した。自民党は憲法改正の機会を、手ぐすね引いて待っていたのである。A級戦犯の孫である安倍晋三が、狂喜乱舞したのは当然のことである。今年の参議院選挙の結果、自民党・公明党・大阪維新の会などの改憲勢力が、参議院の三分の二の議員を占めると、憲法改正に大きく動く。改憲勢力が、すでに、衆議院では、三分の二の議員を占めているからである。もちろん、衆参で、憲法改正案が通っても、その後、国民投票が待っている。しかし、安倍晋三は自信満々である。なぜならば、テレビ局、新聞社を中心としたマスコミを牛耳り、抑圧し、国民を一時の景気上昇でうつつを抜かせることに成功したからである。自民党政権によって憲法改正が成立すれば、日本は戦前の日本の道を歩むようになるのは必至である。現在の北朝鮮を非難することはできない。ニーチェは「大衆は馬鹿だ」と言った。それは、19世紀の言葉である。しかし、その言葉は、現在も生きているのである。人類全体も、日本人も、進歩しないようである。マルクスも、「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。」と言っている。日本人は、太平洋戦争の敗北だけでは気づかず、もう一度、大きな戦争の敗北を経験して、初めて、どのようなあり方が日本にふさわしいのか気づくのかもしれない。しかし、その時、日本という国は存在しているだろうか。たとえ存在していたとしても、立ち直れないほどに叩きのめされているのではないだろうか。