あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

欠如態としての見方(対自の意識のあり方)について(自我その52)

2019-03-07 21:30:10 | 思想
人間は、常に、現在の物事や他者や自分自身の状態に満足せず(「欠如態」として見て)、次の高い段階に進もう(進ませよう)と考えている(「完全態」を追い求めている)。人間は、一生、これを繰り返す。言わば、カミユの言う「シーシュポスの神話」である。シーシュポスは、一生、地下の石(「欠如態」)を地上に運ぶこと(「完全態」)を繰り返したのである。ハイデッガーは、「人間は、常に、物事や他者や自分自身を、欠如態として見て、その欠如が満たされた状態である完全態を求め、時にはそのようになることを期待し、時にはそのようになるように努力するあり方をしている。」と言う。これが、「全ての現象を欠如態として見るあり方」である。簡潔に、「欠如態としての見方」とも言われている。人間を「欠如態としての見方」(「全ての現象を欠如態として見るあり方」)をする動物として捉える考え方は、卓越した見識、有効な思考法であるが、一般に解説されることは少ない。ただし、サルトルは重要視し、「即自それ自体は無意味な物質的素材のあり方であり、対自はこの素材を意味づける意識のあり方である。」と述べている。サルトルはハイデッガーとは異なった言葉を使っているが、サルトルの言う「対自の意識のあり方」がハイデッガーの言う「全ての現象を欠如態として見るあり方」(「欠如態としての見方」)なのである。さて、人間の心は、「欠如態」を「完全態」にするという思いが叶いそうな時は希望が湧き、「欠如態」が「欠如態」のまま留まりそうな時、苦悩や絶望の状態に陥る。人間は、「全ての現象を欠如態として見るあり方」(欠如態としての見方」)に突き動かされて活動し、それが人類の歴史になったのである。人間は、生きている間、「欠如態」を満たして「完全態」にするために、馬車馬や競馬馬のように突き進むしかないのである。馬車馬は御者に操られて、競馬馬は騎手に操られて前に突き進んでいるが、人間は、深層心理(自らの心の底から湧き上がってくる思い)に操られて、「欠如態」を「完全態」にするように活動するしかないのである。そして、馬車馬は御者から離れ、競走馬は騎手から離れれば自由のようであるが、実際は、その時、彼らは殺されるのである。つまり、彼らは、生きている間、御者、騎手に操られ、前に突き進むしかないのである。人間も、表層心理(自分の意志)で深層心理(自らの心の底から湧き上がってくる思い)から離れることができれば、現在の物事や他者や自分自身の状態に満足でき、「欠如態」として見ることがなく、そのまま「完全態」として見るから、次の高い段階に進むように考えさせられ行動させられることが無いから自由であり、楽な状態になるように見える。しかし、実際は、人間の表層心理(自分の意志)は深層心理(自分の心の底から湧き上がってくる思い)に届くことが無いから、そのような自由で楽な状態は来ないのである。表層心理(自分の意志)は深層心理(自分の心の底から湧き上がってくる思い)を支配できないからである。サルトルは、「現在の物事や他者や自分自身の状態に満足し、欠如態として見ることがなく、そのまま完全態として見るあり方」を「即自の意識のあり方」と呼んでいる。そして、サルトルも、人間には「即自の意識のあり方」は身につくことはないと言っている。しかし、サルトルは、「人間は、自由へと呪われている。」とも言っている。サルトルの言う「自由」とは「表層心理(自分の意志)」という意味であり、「呪われている」とは「運命づけられている」という意味である。つまり、サルトルは、「人間は、表層心理(自分の意志)で、常に、物事や他者や自分自身を、欠如態として見て、その欠如が満たされた状態である完全態を求め、時にはそのようになることを期待し、時にはそのようになるように努力するあり方をするように運命づけられている。」と言っているのである。ここから、サルトルは、「表層心理(自分の意志)」で考え、行動したのだから、自分の行動に責任を持てと言っているのである。サルトルの責任論は潔い。しかし、物事や他者や自分自身を「欠如態」として見るのは、「表層心理(自分の意志)」ではなく、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)なのである。もしも、「表層心理(自分の意志)」で、物事や他者や自分自身を「欠如態」として見ているのならば、「欠如態」が「欠如態」のまま留まりそうに思われる時、苦悩や絶望の状態に陥る前に、自由に、これまで「欠如態」として捉えていた物事や他者や自分自身を、別の物事や他者や自分自身に換えることができるはずである。また、自由に、これまでの「完全態」を別の「完全態」に換えることができるはずである。しかし、これまでの「欠如態」も「完全態」も別の「欠如態」にも「完全態」にもできないのである。深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)で、物事や他者や自分自身を「欠如態」として見ているからである。つまり、人間は、生きている間、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)につきまとわれ、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)に操られ、自由になれないのである。つまり、人間は、生きている間、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)が捉えたように、現在の物事や他者や自分自身の状態を「欠如態」として見て、「完全態」を追い求めるしかないのである。さて、人間は、同じ現在の物事や他者や自分自身の状態を「欠如態」として見ても、求める「完全態」は、必ずしも、一致しない。例えば、同じ三日月を見ても、次に、半月を期待する人、満月を期待する人とさまざまなのである。中学三年生が国語で65点を取っても、次に80点を目指す人、90点を目指す人、100点を目指人、少し点数が上昇すれば良いと考えている人とさまざまである。それは、それぞれの人の深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)のあり方がさまざまだからである。また、マスコミの情報から、世の中には、いろいろな悩みを抱えている人がいることがわかる。「生きがいが無い。」と嘆く二十代の若者、「生まれてこの方、一度も彼女がいない。」と嘆く三十代の若者、「子供がいない。」と嘆く四十代夫婦、「友達がいない。」と嘆く女子高校生、「美人ばかりが得をしている。」嘆く二十代の女性などさまざまである。彼らは、現在の自分の状態を「欠如態」として見て、「完全態」を追い求めたいと考えているのだが、「欠如態」が「欠如態」のまま留まりそうに思われるので、悩んでいるのである。言うまでも無く、彼らの「完全態」は、生きがいがあること、彼女がいること、友達がいること、美人であることである。しかし、傍から、「諦めた方が良いよ。」と言って楽にさせようとしても、かえって、逆効果になり、本人を傷つけることが多い。なぜならば、諦めろの言葉は、本人にその能力が無いことを意味しているからである。また、現在の自分の状態を「欠如態」として見て「完全態」を追い求めるあり方は、本人の深層心理(思い)が為すことであり、表層心理(意志)では、どうすることもできないことだからである。諦めさせるのには、「諦めろ」という言葉掛けのような敵(本人の深層心理)の正面から攻めような大手の方法を取らず、自然に諦めるような状況を作ったり、優しく説得したりなどして、敵(本人の深層心理)の裏面から攻めるような搦め手の方法が取った方が良いだろう。そうすれば、本人が、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)から諦める可能性が大なのである。また、たいていの人は、複数の「欠如態」を持っている。一般に、深層心理の敏感な人ほど、「欠如態」が多い。だから、一般に、深層心理の敏感な人ほど、悩みが多いのである。しかし、「欠如態」はマイナスばかりではない。人間に、「欠如態」があるからこそ、満足感や幸福感が得られるからである。満足感や幸福感は、「欠如態」を「完全態」にする(「欠如態」が「完全態」になる)ことによって、得られるからである。つまり、人間には、先天的に、「全ての現象を欠如態として見るあり方」(「欠如態としての見方」)が備わっているから、欠如態」を「完全態」にする(「欠如態」が「完全態」になる)ことによって、満足感や幸福感を得ることができ、「欠如態」が「欠如態」のまま留まりそうに思われる時、苦悩や絶望の状態に陥るのである。

愛の鞭は存在しない(自我その51)

2019-03-07 08:31:36 | 思想
愛の鞭は存在しない。暴力は、全て、憎しみから発する。愛情があれば、鞭は使えない。愛情があれば、暴力を振るうことはできない。愛の鞭は、地位の上の者が地位の下の者に対して振るう暴力、年齢の上の者が年齢の下の者に対して振るう暴力を正当化した言葉である。日本では、愛の鞭という偽善的な言葉を使って、地位の上の者や年齢の上の者が、これまで、暴力を振るい続けてきたのである。しかも、愚かにも、暴力を振るった者の中には、自分の振るった暴力は愛の鞭だと信じ、暴力を振るわれた者の中には、自分が振るわれた暴力は愛の鞭だと心から信じている者が、少なからず存在するのである。なぜ、彼らは、そのように信じるのか。加害者の罪、被害者の恥から逃れようとするためである。フロイトは、「人間は、過去に嫌な出来事があると、無意識のうちに、記憶を修正して、自己正当化を図ろうとする。」と言っているが、この無意識の記憶の修正と同じことを、暴力の加害者も被害者も行っているのである。また、子供を暴力で殺した親が、皆、「あれはしつけのつもりだった。」と証言するが、しつけという言葉で自らの暴力を正当化しているのである。愛の鞭という言葉と同じである。また、生徒を暴力で怪我をさせた教師が、時々、「あれは教育のつもりだった。」と証言するが、教育という言葉で自らの暴力を正当化しているのである。愛の鞭という言葉と同じである。体罰という教師の暴力を容認した言葉もあるが、これもまた、愛の鞭と同じく、偽善者をはびこらせる要因になっている。また、部員に暴力を振るった監督が、よく、後で、部員に対して、「おまえに期待しているから、思わず、手が出たのだ。期待していなければ、無視している。」と言う。それは嘘である。期待していようと期待していまいと、自分の言いつけを守らなかったならば、監督は部員を殴るのである。憎しみによる暴力である。それでは、なぜ、親、教師、監督が暴力を振るうのだろうか。それは、彼らは、皆、自らの自我を傷つけられたから、その復讐が暴力となって現れたのである。親は我が子から親という自我を、教師は生徒から教師という自我を、監督は部員から監督という自我を傷つけられたのである。人間、誰しも、いついかなる所でも、自我を持ち、他者から自我を認めてもらおうと行動している。これが人間の「対他存在」のあり方である。「対他存在」が満足できれば、つまり、他者から自我が認知されていることが実感できれば、大きな喜びを得、幸福感に満たされるのである。誰しも、無意識にしろ意識的にしろ、常に、自我の充足を目標に生きているのである。ところが、子供が親の言うことを聞かず、生徒が教師の言うことを聞かず、部員が監督を言うことを聞かないと、彼らは自らの親、教師、監督という自我を認めてほしいという思いが打ち砕かれ、その中に、復讐心を暴力という形で表す者が出てくるのである。その者たちに都合の良いことに、しつけ、教育、体罰、無視しないこと、そして、愛の鞭という言葉があり、暴力を振るうことにためらう必要は無いのである。それでは、なぜ、暴力が人間界から消滅しないのだろうか。それは、人間の深層心理には、誰しも、機会があれば、ニーチェの言う「力への意志(権力への意志)」を発揮しようという思いがあるからである。先に述べたように、人間、誰しも、深層心理に、「対他存在」という、いついかなる時でも他者から自我を認めてもらおうという思いが存在している。しかし、「対他存在」は、他者の目を気にして行動するから、主体は他者にある。ところが、「力への意志(権力への意志)」は、他者からの自我の認知という点では「対他存在」と同じであるが、「対他存在」はこちらの自我が他者に認知されることを望むということで主体が他者にあるのに対して、「力への意志(権力への意志)」は他者が他者自身の自我の認知をこちらに求めるということで主体がこちらにあるのである。つまり、「力への意志(権力への意志)」とは、他者が他者自身の自我の認知をこちらに求めるというあり方なのである。そして、暴力は、復讐心が動機だが、「力への意志(権力への意志)」が満足しないと収まらないのである。子供に暴力を振るう親は、子供から自我が傷つけられたので、対他存在が失われたと感じ、その復讐心とともに一挙に対他存在を取り戻そうとして、暴力を振るったのだが、子供が自分の非を求めて親に詫びるという「力への意志(権力への意志)」が満足しないと気持ちが収まらないのである。なぜならば、子供が自分の非を求めて親に詫びない限り、主体は子供にあり、いつ子供に復讐されるかわからないからである。また、子供が第三者に暴力にあったことを訴えれば、自分が罰せられる可能性が大きいからである。暴力は、「力への意志(権力への意志)」が満足するか、誰かが止めに入らない限り、続くのである。それは、生徒に暴力を振るう教師、部員に暴力を振るう監督も同じである。この世には、常に、暴力が起こる可能性がある。それは、誰しも、いついかなる時でも、自我があるから、常に、自我が傷つけられる可能性があるからである。そして、その暴力は、第三者がいなければ、被害者が心から謝罪するまで続くのである。被害者が、加害者の「力への意志(権力への意志)」を満足させるまで暴力を受け続けるとは、何という理不尽なことであろうか。それゆえに、暴力の起こりそうな場所、暴力の起こりそうな人間関係に対して、加害者になる可能性のある人も被害者になる可能性のある人も第三者も警戒と監視を怠ってはならないのである。そして、愛の鞭などいう、暴力を助長する、偽善の言葉をはびこらせてはならないのである。