あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自分を生かそうとする内なる力について(自我その120)

2019-05-19 18:01:36 | 思想
人間は、何もしていなくても、部屋でぼうっとしている時でも、内なる力が動いている。常に、内なる生命力が働き、自分を生かそうとしている。「ぼうっと生きているんじゃないよ。」と他者を揶揄する言葉があるが、それは、表層的な人間関係から発せられる言葉であり、ぼうっと生きているように見えても、誰しも、ぼうっと生きているわけではない。ぼうっとしているのには、それなりの意味がある。内なる生命力が、敢えて、ぼうっとした状態を作りだしているのである。例えば、疲れたから休んでいるのかも知れない。休むことによって、次の活力を生み出そうとしているのかも知れない。そうしていることを楽しんでいるのかも知れない。必ず、そこに、何らかの意味があるのである。人間を含めて、全ての生物には、意味の無い行為など存在しない。それに思いを致さず、他者の内なる生命力の存在に気付いていないから、「ぼうっと生きているんじゃないよ。」という揶揄の言葉を浴びせかけ、言われた人も、自らの内なる生命力の存在に気付いていないから、ショックを受けるのである。だから、「ぼうっと生きているんじゃないよ。」という言葉は、無意味であるどころか、人間の生命力に誤解を与え、人間に内なる力が存在していないような誤解を与え、害毒である。さて、それでは、常に活動し、内なる生命力になっているものは何か。それは、深層肉体と深層心理である。それらは、無意識の活動であるから、ほとんどの人は気付いていない。つまり、人間は、常に、無意識のうちで、深層肉体と深層心理の活動によって生かされているのである。さて、それでは、深層肉体はどのような意志を持って活動しているのだろうか。それは、文字通り、その人を、肉体的に、生き続けさせようという意志である。これは、人間だけでなく、全ての生物に共通の意志である。心臓が伸縮・拡張を繰り返し、血液を循環させる。呼吸し、肺が活動する。飲食物摂取し、胃腸が消化・吸収する。これらの行為は、全て、無意識のうちに為され、その人を生き続けさせようという意志に基づいている。これらの内臓ばかりではない。深層肉体は、常に、病気や怪我に対応する。例えば、体内にウイルスが入り、風邪を引くと、深層肉体は、インターフェロンを産生し、免疫系を働かせて防御し、咳でウイルスを体外に放出し、発熱でウイルスを弱らせたり殺したりする。頭痛や咳や発熱などの不快感は、表層心理にも、肉体の異状を意識させ、その警戒と対応を求めているのである。怪我をすると、深層肉体は、血液でその部分を固め、白血球で、侵入した細菌を攻め滅ばす。怪我の痛みの不快感は、表層心理にも、肉体の異状を意識させ、その警戒と対応を求めているのである。空腹やのどの渇きという欲求が起こるのは、深層肉体の、基本的には、食糧や飲み物を摂取することによって、肉体的に生きさせようという意志によってである。このように、我々は、我々の内なる深層肉体の意志によって、肉体的に生かされているのである。次に、深層心理は、どのような意志を持って活動しているのだろうか。それは、他者に認められようという意志である。人は、常に、他者から自分がどのように思われているか気になる存在である。人は、他者によって自らを対他化し、自分が他者からどのように思われているか推し量ることによって、自らの価値を推し量るのである。自らを対他化するという、他者からの自らへの思いを詮索するのは、他者に認められたいという強い意志が存在しているからである。それは、愛されたい、好かれたい、高く評価されたい、存在価値を認めてもらいたいなどという気持ちになって現れる。性欲も、人間の場合、それが独立して存在するのではなく、そこには、相手に自分を愛の対象者として認めてほしいという気持ちがある。友人と遊ぶのも、仲間として認めてほしいという気持ちからである。政治家になりたいのも、国民に権力者としてふさわしい人間だと認めてほしいからである。仕事をするのも、もちろん、給金を得て生活の糧を得るという肉体的な欲求を満たすこともあるが、社会人として認めてほしいからである。ノーベル賞を狙うのも、世界に貢献しようという思いは第二義で、第一義は、世界中の人々に自分の存在価値を認めてほしいからである。このように、我々は、常に、他者から認められたいという思いで生きているのである。だから、逆に、他者から嫌われたり、低く評価されたり、無視されたりすると、心が痛むのである。心の痛みの不快感は、表層心理にも、心理の異状を意識させ、その対応と解決策を求めているからである。苦悩とは、心の痛みの中で、その対応と解決策を模索している状態である。このように、常に、我々は、深層肉体と深層心理によって動かされているのである。だから、自ら動く必要はないのである。と言うよりも、動けないのである。たとえ、主体的に、深層肉体の欲求や深層心理の欲望から外れた行為を行おうとしても、それは長続きせず、雲散霧消化し、いたずらに、自己嫌悪に陥るだけである。世の中には、自分が動かなければ飢え死にし、何かしなければ自分がだめになってしまうという強迫観念に駆られて行動したり、思い悩んだりする人が珍しくない。しかし、そのような強迫観念に駆られて行動しても、長続きせず、挫折するばかりである。大切なことは、自らの内なる言葉を聞くことである。深層肉体そして深層心理の言葉を聞くことが大切なのである。深層肉体の言葉は内なる肉体の状況を知らせ、深層心理の言葉は外なる自らの状況を知らせているからである。我々には、それに答えるしか、生きる道は存在しないのである。

人は自己の欲望を他者に投影し、投影させる。(自我その119)

2019-05-18 19:54:12 | 思想
人は、他者に接する時、三つの視点で捉える。三つの視点とは、対他化、対自化、共感化である。まず、対他化であるが、端的に言えば、対他化とは、自分が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を考えることである。この他者の視線の意識化は、自らの意志という表層心理に拠るものではなく、無意識のうちに、深層心理が行っている。だから、自動的な行為のように思われがちである。それは、深層心理が行っているからである。だから、他者の視線の意識化は、誰しもに起こることなのである。しかし、ただ単に、他者の視線を感じ取るのではない。そこには、常に、ある思いが潜んでいる。それは、その人から好評価・高評価を得たいという思いである。つまり、人は、他者に会うと、視線を感じ取り、その人から好評価・高評価を得たいと思いつつ、自分がその人にどのように思われているかを探ることなのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人は常に他者の評価を勝ち取ろうとしている。人は他者の評価が気になるので他者の行っていることを模倣したくなる。)という言葉は、端的に、対他化の現象を表している。対他化とは、ある意味では、自ら、敢えて、自分の身を他者の評価にさらそうとすることである。サルトルが、「対他化とは、見られているということであり、敗者の態度だ。」というような意味のこと言っているのも、一応は、頷ける。当然、サルトルは、「見られることより見ることの方が大切なのだ。」ということになる。見ることは、対自化である。次に、対自化であるが、端的に言えば、対自化とは、自らの視線で見るということである。人は、他者に会うと、まず、その人から好評価・高評価を得たいと思いで、その人の視線から、自分がどのように思われているかを探ろうとする。つまり、自らを対他化する。次に、その人がどのような思いで何をしようとしているのか、つまり、その人の欲望を探ろうとする。これが、対自化である。しかし、他者の欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自らの欲望と対比しながら行うのである。その人の欲望が、自分の欲望と同じ方向にあるか、逆にあるかを探るのである。つまり、他者が味方になりそうか敵になりそうか探るのである。この行為が、「人は自己の欲望を他者に投影する」ということなのである。そして、その人の欲望が自分の欲望と同じ方向にあり、味方になりそうならば、自らがイニシアチブを取ろうと考える。また、その人の欲望が自分の欲望と異なっていたり逆の方向にあったりした場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。これが、「人は自己の欲望を他者に投影させる」ということなのである。つまり、他者を見るという姿勢、つまり、他者を対自化するとは、自分中心の姿勢、自分主体の姿勢なのである。これが高じると、敗れることを想定せず、勝つまで、最後まで戦うという姿勢に達するのである。これが、ニーチェの言う「権力への意志」である。しかし、誰しも、常に、対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、誰かの反対にあうと、その人の視線を気にし、自らを対他化するからである。だから、サルトルは、「対自化とは、見るということであり、勝者の態度だ。」というような意味のことを言っているが、その態度を貫く「権力への意志」の保持者はまれなのである。誰しも、サルトルの「見られることより見ることの方が大切なのだ。」ということは理解するが、それを貫くことは難しいのである。また、他者を対自化し、その人の欲望が自分の欲望と同じ方向にあり、味方になりそうならば、一般には、自らがイニシアチブを取ろうと考えるものであるが、時には、その人にイニシアチブを委ねることがある。その方が欲望を実現しやすいと判断したからである。その際は、他者に自らを対他化する。つまり、その人に従うのである。ヒットラーが、第二次世界大戦で、ジェノサイドというユダヤ人の大虐殺ができたのは、ドイツの大衆にも、ユダヤ人粛清の願望があり、それを自分ではできないから、ヒットラーに自らを対他化したのである。だから、ヒットラーは、易々と、ユダヤ人の大虐殺という自己の欲望をドイツの大衆に投影させることができたのである。ニーチェの「大衆は馬鹿だ」という声が聞こえてきそうである。安倍晋三首相が、国会の短期間の審議で、強行採決をして、国家安全保障会議、集団的自衛権、特定秘密保護法を制定したのは、内閣総理大臣の判断だけで、戦争ができる国にしたかったからである。もちろん、そこには、アメリカの力を借りて、中国・北朝鮮に対抗しようという考えもあり、それを前面に押し立てて、大衆にアピールしたのである。しかし、安部晋三首相の最大の欲望は、自衛隊そして日本国民を統率して、戦争するということなのである。権力者の最大の欲望は、国民の生殺与奪の権利を握るということなのである。安部晋三首相は、国民の生殺与奪の権利を握るという権力者の欲望を、国民という他者に投影させることにまんまと成功したのである。それというのも、大衆の多くに、アメリカの力を借りて中国・北朝鮮に対抗したいという欲望があり、それを自分ではできないから、安倍晋三首相に自らを対他化したのである。つまり、従ったのである。しかし、大衆は、戦争で最初に死ぬのは大衆であり、権力者は最後の最後まで生き延び、戦争は、戦勝国も敗戦国と同じような被害を受け、勝っても、その後は、ゲリラ活動に悩まされるということを知らない。いや、知ろうとしない。またもや、ニーチェの「大衆は馬鹿だ」という声が聞こえてきそうである。さて、先に述べたように、サルトルは、「他者の視線を受けること、他者から見られることを意識すること、つまり、自らを対他化することは、自らの評価を他者に委ねることだから、屈辱的な行為であり、自らの敗北を意味する。」というような意味のことを言っている。「他者(人間)は地獄である。」とはこのことである。当然、サルトルは、「人間存在とは、対他化と対自化は相克するものであり、他者の評価へと自らの対他化することから他者を自らで評価するという対自化することへの戦いである。」というような意味のことを言うのである。確かに、サルトルの論理は、学校における「いじめ」対策には有効である。「いじめ」とは、一人の生徒が複数の生徒から、継続的な対他化を要求され、それを実行してきたことから起こることだからである。いじめられている一人の生徒が、いじめている複数の生徒からの評価を断念し、つまり、対他化を断念し、ある時、決断して、一般的には、卑怯だと考えられているような方策まで考えるようになれば、自殺にまで行くことはない。言わば、いじめている生徒たちからの評価も周囲の人からの評価も諦めれば、つまり、周囲の人全体への対他化も諦めれば、孤立しても、自殺することはない。つまり、対他化から対自化が有効なのである。しかし、人間関係は、最初は、対他化から対自化へと移るが、その後は、対他化と対自化が何度も入れ替わり、それが何度も繰り替えされ、それが留まることはない。対他化と対自化の相克は、この二つの視点に執着している限り、留まることはない。しかし、最初に述べたように、対他化と対自化の他に、共感化という視点がある。共感化が、対他化と対自化の相克を留めるのである。共感化とは、相手に一方的に身を投げ出す対他化でもなく、相手を一方的に支配するという対自化でもない。共感化は、協力するや愛し合うという現象に、端的に、現れている。「呉越同舟」という四字熟語がある。「仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。」という意味である。仲が悪いのは、二人は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができなくても、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否し、妥協することを拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなるから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差しだしていた自分には、屈辱感だけが残る。その屈辱感を払うために、ストーカー殺人という凶行に走る者がいるのである。また、一般者の愛の喜びとは、互いに対他化することの喜び、つまり、互いに自らの身を投げ出し、相手から愛の対象者として評価されることの喜びである。しかし、サディストは、相手を対自化して、つまり、相手を支配して喜ぶのである。マゾヒストは、相手から対自化されて、つまり、相手から支配されて喜ぶのである。しかし、どうしてサディストやマゾヒストが生まれてきたのかは、誰にもわからない。どうして一般者は互いに対他化することによって喜びを感じられるのかが、誰にもわからないように。

人の裏切りについて(自我その118)

2019-05-16 23:13:47 | 思想
親友だと思っていた人が陰で自分の悪口を言っているのを知った時、また、必ず味方してくれると思っていたのに敵側に付いた時、誰しも、「もう、誰も信用しない。」と思ったり、口に出したりする。そして、信頼していた人の裏切りを、心の中で非難したり、面と向かって非難したりする。しかし、それでも、心のもやもやが晴れないのは、最も非難すべきは、信頼していた人の裏切りではなく、そのような人を信頼していた自分の愚かさであることを、深層心理で(心の奥底で)わかっているからである。しかし、非難者の自我は、自分が愚かであることを認めたくないために、裏切った人を非難し続けるのである。ニーチェが、「人間は、他者の非難をするのは、自分の愚かさに気付いていて、それを認めたくないためである。」と語っているのは、まさしく、このことについて述べているのである。そもそも、親友や味方は、心の結び付きから生まれてくるものではない。関係性から、生まれてくるのである。「呉越同舟」という関係性から生まれてくるのである。「呉越同舟」とは、「仲の悪い者同士でも、共通の敵ができると、手を携えて協力する。」という意味である。すなわち、友人を作るのは、自分一人で周囲の人に対応するのは不安だからである。心の結び付きではないのである。だから、親友だと思われていた人は、より強力な友人を求めて、これまでの友人の悪口を言うのである。また、味方を作るのも、自分一人で周囲の人に対応するのは不安だからである。心の結び付きではないのである。だから、味方だと思われていた人は、より強力な味方が現れると、これまでの弱い味方を敵にするのである。そもそも、人間同士において、心の結び付きとは、存在するのであろうか。心の結び付きのある関係とは、互いに、常に、相手を信じることができ、もしくは、相手を愛することができる関係を言う。互いに、常に、相手を信じることができる関係の人を親友と言い、互いに、常に、相手を愛することができる関係の人を恋人と言う。つまり、親友や恋人は、腹蔵なく話すことができる関係の人なのである。腹蔵なく話すとは、思ったことを包み無く話すことを意味する。しかし、思ったことを包み無く話すことを危険な行為である。なぜならば、誰しも、親友と思っていた人に、不信の念を抱くことがあり、恋人がいるのに、別の人に好意を抱くことがあり、それを、腹蔵なく話していけば、早晩、友情も恋愛も破綻するのは確実だからである。しかし、親友と思っていた人に、不信の念を抱いたり、恋人がいるのに、別の人に好意を抱いたりすることがあるのは、決して、本人の罪ではない。人間の思いとは、意志という表層心理が生み出したものではなく、無意識という深層心理が生み出したものだからである。深層心理は、自我の欲望として、いろいろな思いを生み出してくる。誰しも、自分の深層心理をコントロールできない。それは、夢をコントロールできないのと同じである。我々にできることは、表層心理で、深層心理から湧き上がってくる思いの中で、相手が喜びそうなことを選択して、言ったり行ったりし、相手の心が傷付きそうなことは抑圧して、言わなかったり行動に移さないようにすることである。しかし、深層心理の欲望が強ければ、表層心理の抑圧も功を奏さず、言ったり、行ったりすることがある。それが、裏切りであり、不倫である。また、かつて、「男は、家を出ると、外には、七人の敵がいる。」とよく言われたものである。現在は、女性の社会進出も著しいから、「男も、女も、家を出ると、外には、七人の敵がいる。」と言えるだろう。この言葉は、生活の糧を得るためには社会の多くの他者と渡り合わなければいけないという、経済活動の厳しさを謳ったものである。だが、翻って言えば、家は安心領域だということである。家族が心の拠り所だということである。家族が心の拠り所になるのは、家族の心が深く結び付いているからである。なぜ、家族の心が深く結び付いているのか。それは、決して、血縁関係があるからではない。血縁関係が絶対であれば、父親が子を殺し、娘にセクハラし、母親が子を虐待し、子が父や母や祖父や祖母を殺すことは起こらないはずである。家族の心が深く結び付くのは、父や母を社会に送り出して、多くの他者と渡り合って、生活の糧を得てほしいからである。社会が敵であり、家族が味方なのである。社会が生活の糧を与えてくれないが、父や母が社会の多くの人と渡り合い、生活の糧を獲得し、家族に振る舞うから、家族は味方になるのである。しかし、その家族も、遺産相続をめぐって、兄・姉・弟・妹が争うことがある。それは、兄・姉・弟・妹が成人し、独立し、生活の糧を獲得するための協力をもうする必要がなくなったからである。彼らは、おのおの、生活の糧を得るためには、自分自身で、社会の多くの他者と渡り合わなければならなくなったからである。もう、兄・姉・弟・妹は味方でないのである。協力すれば、遺産の取り分が少なくなるのである。また、よく、「人間は、外見より、中身が大切だ。」と言われる。しかし、一生の伴侶となる可能性があるのだから、結婚相手を決める時に、最も、その言葉に従わなければいけないのに、男性は、美人・スタイルの良い女性・可愛い女性、女性は、イケメン、野球選手、サッカー選手、俳優、医者、青年実業家などを選ぼうとする。それはなぜだろうか。傍目には、全く、逆のことを行っているように見える。大切なのは中身なのではないか、と。中身とは、人間の心を意味する。だから、当然のごとく、人間の心が最も大切になってくる。しかし、彼らは、自分自身は、間違ったことをしていると思っていない。男性にとって、女性の外見が中身なのである。男性は、美人・スタイルの良い女性・可愛い女性に会うと、心も美しいようにきれいなように見えてくるのである。また、他の男性が憧れている、美人・スタイルの良い女性・可愛い女性と結婚すると、自我の欲望を満足させることができるのである。自我の欲望とは他者の欲望を欲望することだからである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する」(人間は他の人がほしがっているものをほしくなる。人間は他の人から評価されたいと思っている。)と言っているが、まさしく、この言葉通りなのである。また、女性にとっても、男性の外見が中身なのである。女性は、イケメン、野球選手、サッカー選手、俳優、医者、青年実業家などに会うと、心も美しく見えたり、たくましく思えてきたりするのである。また、他の女性が憧れている、イケメン、野球選手、サッカー選手、俳優、医者、青年実業家などと結婚すると、自我の欲望を満足させることができるのである。自我の欲望とは他者の欲望を欲望することだからである。また、「人間は、外見より、中身が大切だ。」と言っても、他者の心の中は見ることができないのである。たとえ、見えたとしても、人間の心はさまざまに変化するから、ある時は、信じることができても、その後も、信じ続けるということはできないのである。それよりも、外見で、その人の心に夢を見て、結婚する方がまだ夢を見ることができるのである。さて、このように、心は、誰もがコントロールできない深層心理の世界だから、深層心理の自我の欲望が強過ぎて、表層心理の抑圧が利かず、自分が他者を裏切り、他者から自分が裏切られる可能性を常にはらんでいるのである。人間は、常に、裏切り、裏切られる可能性を持っているのである。しかし、そうは言っても、誰しも、信頼していた人に裏切られると、辛い。「もう、誰も信用しないでおこう。」と思う。もう二度と愚かな過ちを繰り返したくないからである。他者とともに自分も信用できないから辛いのである。しかし、時間の経過とともに、やはり、自分一人で周囲の人に対応するのは不安だから、友人を作り、親友を作るように向かうのである。固定した心の結び付きの人がいないと不安だからである。親友だと思っていた人に裏切られても、固定した心の結び付きの人がいないと不安だから、新しく、友人を求め、親友を求めるのである。そして、また、そのような人がいるように思われてくるのである。つまり、「自我の欲望が他者に投影する。」(自分の思っているような人がこの世に必ず存在する。自分の思いを理解してくれる人がこの世に必ず存在する。)のである。自我の欲望が、再び、自分に夢を見させてくれるのである。そして、再び、日常が始まるのである。

自我の終焉と自己の終焉(自我その117)

2019-05-15 20:20:07 | 思想
人間には、自己は一つしか存在しないが、自我は幾つも存在する。自我とは、構造体で与えられたポジションを自分として行動する主体を意味する。構造体とは、家族、学校、会社などの人間の組織・集合体を意味する。仲間、カップルも集合体である。各構造体は、その中でのいろいろなポジションを自我とする者たちによって成り立っている。しかし、一般に、構造体は、種々の自我を持った人がいるが、カップルや仲間は一種である。例えば、家族という構造体には、父、母、息子、娘、祖父、祖母などの種々の自我の人が存在するが、仲間には友人という自我、カップルには恋人いう一種の自我しか存在しない。また、人間は、一つの構造体には、一つの自我しか持てない。しかし、いろいろな構造体に属しているから、異なった構造体に行く度に、異なった自我を持つことになる。だから、一日のうちでも、幾つもの自我を持つことになる。例えば、沢山由美という女性がいる。彼女は、沢山家という構造体では、母という自我を持ち、百条銀行大手町支店では、行員という自我を持ち、しかも、支店長とは、不倫という構造体を持って、暮らしている。支店長とそのような関係になったのは、彼女の残業に支店長がつきあってくれたことがきっかけであり、三年前からである。しかし、支店長が、早朝、軽井沢で、自動車事故を起こし、同乗の女性は軽傷で済んだが、自分自身は重傷を負って入院したことがきっかけとなり、沢山由美は、別れを決断した。早朝、軽井沢で、支店長の車に二人が乗っていたことは、前夜、二人は軽井沢に泊まったことになる。しかも、軽井沢には銀行と取引関係がある機関は無く、さらに、同乗の女性は、銀行の取引先の会社の独身の金融担当者であったから、不倫と不正融資が、行内でささやかれたのである。沢山由美も、構内の噂を信じた。副支店長は、自らの自我を守るために、本店による監査が入る前に、行員全ての前で、不正融資を否定した。しかし、行員の多くは信用しなかった。行内では、支店長が、融資を条件に、その女性に関係を迫ったのではないかと言う者まで現れた。支店長の評判は、地に落ちた。この事故の前までは、いつも、威張らず、無理強いはせず、笑みを絶やさず、穏やかであり、部下のために惜しみなくポケットマネーを出してくれる優しい支店長であった。しかし、事故の後は、次第に、あの優しさは、何かを企んでいることを隠すためにあったと思われるようになっていった。沢山由美は、支店長の怪我の具合を全然心配しなかった。支店長に、自分以外に不倫相手がいたと思われるので、すっかり愛は冷め、むしろ、裏切られたことの怒りでいっぱいだった。そして、同乗していた人が自分でなくて良かったとつくづく思った。もしも、自分であったならば、今まで仲良くしていた行員たちからも、自分を信頼している夫からも、自分を慕ってくれる子供たちからも軽蔑されることになるだろう。それを想像すると、身震いが起こるような気がした。しかも、百条銀行という構造体を追われ、行員という自我を失い、沢山家という構造体を追われ、母という自我を失い、二人の子供に軽蔑され、一生会えなくなり、更に、明日の生活の糧を得ることができなくなっていた可能性が大であった。「私があの車に乗っていたら、自殺だった。」と、一人呟いた。支店長から、彼女のスマホにメールが入った。電話は、着信拒否にしているから、支店長は、メールに頼るしか無かったのである。メールには、「皆、誤解している。不倫も不正融資もしていない。私は、このままでは、全てを失ってしまう。君だけが頼りだ、退院したら、会ってほしい。」と記してあった。彼女は、一度、「もう、個人的には会うことはありません。。さようなら。」とメールしたきり、その後、一切返信しなかった。一日に、何十通も、メールをくれることもあったが、次第に少なくなっていった。彼女は、支店長がストーカーになることは考えなかった。事故の前までは、慎重な人だと信頼し、事故の後では、ずるがしこい人だと軽蔑した。慎重にしろ、ずるがしこい人にしろ、自らの自我を敢えて傷付けることすることをするような人には思えなかったからである。彼女自身、自分の気持ちの変化に驚いていた。事故の前は、支店長が銀行を退いても、自分が銀行を退いても、支店長のことを忘れることができず、一生、この関係が続くと思っていたのである。しかし、支店長に別の愛人がいて、しかも、その女性が、自分が知っている人であったので驚いたのである。その女性は、会社の重役たちと一緒に、銀行を訪れ、支店長や副支店長や融資担当係の者と話し合っていたからである。沢山由美は、その女性を良く覚えていた。その女性は、三十代前半のように見えたが、化粧をあまりせず、臆することなく、男性たちに混じって、自分の意見を述べていたからである。その女性の、好青年のような、軽快で、屈託のない様子が、印象に残っていたのである。沢山由美は、他の多くの行員たちと同じく、支店長が融資を条件にその女性に関係を迫ったのではないかと思った。実際に、その女性が勤めている会社は地益が上がらず、銀行から融資を受けなければ、倒産する状態にあり、その女性は会社の犠牲になったのではないかと思ったのである。沢山由美自身、ある日、支店長と二人で残業をし、思ったより早く終わったので、食事に誘われ、その後、「君を良いようにするから。」という言葉に乗せられ、ホテルの部屋に入ったのである。良いようにするという言葉の具体的な意味は尋ねなかったが、支店長の権限に期待し、身を委ねたのは事実である。それでも、この事故の前までは、この銀行では、支店長が、二十人以上の女性行員の中で、トップの魅力ある女性として、自分を選んだことを誇らしく思っていたのである。若い女性よりも落ち着いた四十代の女性を選んでくれたことを嬉しく思っていたのである。しかし、この事故で、若い女性と不倫していたことが露見し、自分は不倫相手の単なる一人であり、二人以外にも、支店長は、その権限を生かして、不倫しているのではないかと思うようになっていったのである。さて、支店長の危惧通り、その後、支店長は退院すると、家族という構造体を追われ、父という自我も祖父という自我も失い、百条銀行大手前支店という構造体を追われ、支店長という自我を失い、不倫という二つの構造体が破壊され、愛人という自我も失い、彼の言う、全てを失った。また、しかし、沢山由美は、あの支店長ならば、したたかに、また、何かを始めると思っていた。不正融資の証拠はなく、依願退職となり、大金の退職金をもらったからである。しかし、退院後、二ヶ月後、支店長は、アパートの一室で、首つり自殺した。しかも、自殺してから、一週間ほど後の発見であった。現在の支店長は、行員全員の前で、旧支店長の死について述べ、涙にくれている行員たちに、「私が見舞いに行くと、支店長は、いつも、この銀行に戻りたいといつもおっしゃっていました。それほど、この銀行を愛していたのです。しかし、体が十分に回復せず、去らざるを得ませんでした。」と語った。しかし、行員たちは、知っていた。支店長が戻りたいと言っても、本店の幹部たちはそれを聞き入れず、頑強に、退職することを勧めていたことを。沢山由美は、支店長が自殺するまで支店長の椅子にこだわっていたことにあっけにとられた。理解できなかった。役職を奪われたことが死に繋がるとはどうしても理解できなかったのである。つまり、銀行の支店長という自我の終焉が、直接に、肉体の死という自己の終焉に繋がるのがどうしても信じられなかったのである。また、同乗していて、事故で軽傷を負った女性も退職していた。沢山由美は、その女性がコンビニでアルバイトをしている時に、出会ったのである。その女性の方から、話し掛けてきた。その女性は、会社の幹部から、「何も言わず、去ってほしい。」と言われて、退職したのである。会社の幹部は、自らの自我を守るために、会社の犠牲になったその女性を切り捨てたのである。しかし、その女性は、いつものように、屈託なく、「まず、食べていかなくちゃ。」と、自分自身に語りかけるように、沢口由美に言った。沢口由美は、ここに救いを見た。会社を追われても、コンビニの店員で食いつないでいこうとするその姿勢に感服したのである。自我の終焉が自己の終焉を意味していない人を見て嬉しく思ったのである。彼女は、「人生は、こうでなくちゃ。」と、心の中で、呟いた。確かに、一つでも、自我が終焉すると辛いものである。しかし、必ず、別の自我がそれを補填してくれる。掛け買いの無い、補填の聞かない自我など、この世に存在しない。一つの自我が終焉を迎えても、複数の自我が終焉を迎えても、自我の終焉を自己の終焉に結びつけるのは愚かである。自己は一つしか無く、自殺という自己の終焉を迎えると、何の補填も利かないのである。

自我の分散と自己の同一(自我その116)

2019-05-14 20:42:55 | 思想
数年前、ストーカー殺人事件の犯人として、男性が逮捕された。逮捕されたと言っても、逃げていたわけではない。犯行現場に、呆然と立ち尽くしていたところを、連行されたのである。彼らは三年間交際し、彼が結婚を申し込もうと思っていた矢先、彼女から、「好きな人ができたから、別れてほしい。」と言われた。彼は、怒ったり、哀願したりしたが、彼女の気持ちは変わらなかった。それでも諦められない彼は、彼女が勤務している会社の前で待ち伏せしたり、彼女のアパートの部屋を監視したりした。彼女は、身の危険を感じ、警察に相談した。警察は、彼を呼び、注意した、彼が謝罪し、納得したようなので、警察はそれ以上踏み込もうとしなかった。その三日後、会社帰りの彼女が、近所のスーパーで買い物し、アパートに入ろうとしているところを、彼が、包丁で、背後から襲い、刺殺した。マスコミは、この事件を追った。特に、この手の事件を扱うことを特徴としているバラエティー番組が、執拗に、この事件を追い、連日、放送した。レポーターは、遠慮会釈無く、いろいろな人にインタビューした。まず、彼の実家を訪ねた。父親がインタビューに応じた。父親は、「家では、穏やかで、こんなことをするとは信じられない。」と答えた。これが真実で無かろうと、父親は自らの自我を守るために、そして、息子の自我を少しでも自我を守るために、このように答えざるを得なかったのである。レポーターは、「このような精神の異常者に育てたことに責任を感じませんか。」と、親の責任を問うた。「申し訳ありません。」と、記者に対してにとも、世間に対してにとも、被害者に対してにとも、被害者家族に対してにとも明らかにせずに、深々と頭を下げた。しかし、ストーカー殺人の責任は、一に、息子の責任であり、父親には、全く、責任は無い。息子は、恋人の彼女から別れを告げられ、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を失うことに耐えられなかったので、殺人にまで至ったのである。彼の深層心理が彼に殺害を命じ、彼はそれに抗することができなかったのである。また、彼は、精神の異常者ではない。彼に限らず、誰しも、失恋すると、ストーカー的な心情に陥るのである。一般に、女性の方が、相手の男性を嫌悪し、軽蔑することによって、上位に立ち、失恋の苦悩から立ち直るのが速いのである。男性の方も、相手の女性を嫌悪し、軽蔑することによって、上位に立ち、失恋の苦悩から立ち直ろうとするが、その気分転換が女性より下手で、時間が掛かる。中には、彼のように、全く気分転換が図れず、全く立ち直れない人がいるのである。その中に、凶行に及ぶ者が存在するのである。さらに、レポーターは、「被害者の親御さんに対して、何か、言葉はありませんか。」と尋ねた。父親は、「息子が大切な娘さんの命を奪ってしまって、本当に、すみません。」と、涙声で、深々と頭を下げた。これでは、まるで、拷問である。確かに、凶悪な犯罪である。しかし、父親に何の落ち度があると言うのだろうか。しかし、レポーターは、視聴者という他者の欲望を感じ取っているので、そうするのである。ラカンは「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者のしていることがしたくなる。また、人間は、他者に評価されようと行動する。)と言っているが、この他者の欲望が、視聴者の欲望つまり、大衆の欲望なのである。しかも、レポーターは、このような追及の仕方をすると、視聴率が上がり、レポーターという自我の欲望も満足できるので、何の反省もなく、行うのである。大衆は、犯人一人を責めるだけでは、怒りが収まらないので、彼の近親者を探し求め、責任を追及するのである。レポーターを含めてバラエティー制作関係者は、それを利用し、視聴率を上げ、自我を満足させるのである。さらに、レポーターは、近所に行き、彼の人間性について、尋ね回る。しかし、近所の人は、異口同音に、「きちんと挨拶し、物腰が柔らかで、このような事件を起こすとは考えられません。」と答える。彼の、近所という構造体での近所の人という自我、近隣関係は、すこぶる評判が良いのである。さらに、レポーターは、彼が勤務している会社へ行き、上司や同僚に、彼の人間性について、尋ねる。彼らも、異口同音に、「勤務態度はまじめで、仕事ができ、こんな事件を起こすとは、想像できない。」と答える。彼の、会社という構造体での社員という自我も、評価が高いのである。さらに、レポーターは、彼の高校時代の同級生にインタビューし、「あいつは、カットすると、何をするかわからないところがあった。」という言葉を引き出し、ようやく。満足できたのである。「やはり、犯人には、裏の顔がありました。これが、真実の顔です。」と言い、自分のインタビューの成果を誇るのである。レポーターを含めてバラエティー制作関係者は、最初から、「罪を犯す人には、必ず、常任とは異なる、異常心理がある。どんなに穏やかな顔をしていても、それに、騙されてはいけない。」という結論を持っているのである。さらに、被害者の両親にインタビューを試みたようだが、それは断られたようである。それは当然である。彼らは、突然、娘がこの世から消え、家族という構造体が傷付けられた痛みから立ち直っていないからである。何を語れば良いのか。語るとは、訴えることである。訴えることは、ただ一つ、娘を返してほしいということである。しかし、そう訴えたところで、何になろう。誰が叶えてくれるというのか。より虚しさが増すだけである。レポーターは、その代わり、被害者の叔父から、「犯人を死刑にしてほしい。」という言葉を引き出し、最後に、大衆とともに歩む番組の姿勢を示し、視聴者にアピールでき、満足げであった。しかし、レポーターが言うように、犯人は精神の異常者なのだろうか。異常な心理があるから、犯罪を犯すのだろうか。そうではなく、深層心理が生み出した自我の欲望が強いから、犯罪だとわかっていても、それを行ってしまうのではないか。深層心理、自我、自我の欲望を徹底的に分析し、これらを上手に導く思想を編み出さない限り、この手の犯罪は無くならないのではないか。また、レポーターは、カットすると何をするかわからないところが彼の真実の顔だとし、彼の嘘の顔が多くのの高評価・好評価を生み出していると言っている。つまり、高校時代の同級生を除いて、皆、騙されているというわけである。しかし、人間は、皆、いろいろな構造体に属し、いろいろなポジションを自我として持って暮らしている。この自我の他者からの評価が顔である。自我の他者からの評価が高ければ、良い顔になり、自我の他者からの評価が低ければ、悪い顔になる。だから、顔は、良い顔にもり、悪い顔にもなり、一つに定まらないのである。構造体によって、自我の評価が決まって来るからである。彼は、家族という構造体では、息子という自我は他者からの評価が高く、近所という構造体では、近所に住んでいる人という自我は他者からの評価が高く、会社という構造体では、社員という自我は他者からの評価が高かったが、たった一つ、高校という構造体では、同級生という自我が他者からの評価が低かったのである。人間とは、こういうものである。自我の他者からの評価、つまり、顔は一つに定まらないのである。犯罪者だからと言って、全ての構造体での、自我の他者からの評価が低いわけではないのである。人間は、幾つもの自我、幾つもの顔を持っているからである。人間にとって、常に、自らのものとして、同一のものとして固定したものは、名前と肉体だけなのである。名前と肉体が、その人自身、つまり、自己を形成しているのである。つまり、自己が、活動の拠点なのである。しかし、自己は、活動している姿ではない。活動している姿は自我なのである。自我を統率するものとして、自己が存在するのである。だから、自己は一つであるが、自我は、自分が属している構造体の数だけ存在し。その数だけ、顔があるのである。デカルトは、「良識はこの世で最も公平に配分されているものである。正しく判断し、真を偽と区別する能力、それはまさしく良識または理性と呼ばれているものであるが、これは生まれつき、全ての人に平等にある。」と言っているが、この良識こそ、自我に囚われない、自己による思考なのである。だから、反省とは、常に、自己が自我の行為に対して反省することであり、その自我が属する構造体とは別の構造体で行われるのである。だから、自分の部屋に入って、自己が、今日の学校や会社という構造体での自我の行為を反省するのである。