夢七雑録

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千川上水花めぐり(3)

2010-04-17 08:53:46 | 千川上水

 現在は、境橋の交差点から武蔵野大学前の交差点まで、千川上水跡地の緑地が五日市街道の中央を分離するように伸びている。この緑地は、多摩湖自転車道と交差する関前五の交差点と、柳橋交差点とにより三か所に分断されている。千川上水は、境橋に近い一番目の緑地内の「千川上水 清流の復活」碑近くの開口部から流れ出している。現在の千川の水路は千川上水本来の姿ではないが、緑地には欅の並木が続き遊歩道もあって、交通量の多い道路の中央にあるとは思えないほどである。ただ、横断歩道が少ないので緑地に入るのは少々煩わしい。まず、五日市街道北側の歩道から横断歩道を渡って一番目の緑地内の蛍橋に出る。そのあと、緑地内を右に行き、清流の復活の碑を見たあと引き返し、緑地内の遊歩道を歩いて、蛍橋の下流にある樋口橋に行く。橋の名は、バス停にその名を残す橋からきているのだろうか。なお、樋口は地名で、千川上水に分水する埋樋の出口・樋口に由来している。遊歩道はさらに下流に続いているが、交差点で行き止まりになるので、樋口橋に戻って横断歩道を渡り、南側の歩道に出て、次の交差点に行く。左へ行けば、多摩湖自転車道を通って花小金井方面、右へ行けば境浄水場に出る。

 二番目の緑地は、柳橋交差点の横断歩道を渡って入ることになる。緑地内には橋が無いので、遊歩道により緑地内を一巡して戻り、柳橋交差点の横断歩道を三回渡って、三番目の緑地に行く。この緑地内の水路を流れに沿って歩いて行くと鎮守橋がある。橋の名は、上保谷新田の鎮守・阿波洲神社に由来する地名からだろうか。この橋の先にあるのは無名の橋で、その下流はショカッサイの花も咲く春の小川のような雰囲気の水路になるが、交差点で行き止まりになる。無名橋からは、横断歩道を北か南に渡れるが、ここでは北に渡って武蔵野大学前の交差点に出る。2mはあろうかという文字庚申塔が印象的である。千川上水に架かる井口橋は交差点の北側にあり、この橋が石橋に架け替えられた時の供養塔が傍らにひっそりと建っている。この橋から北に行く道は、田無から所沢に出る深大寺街道で、古くは川越から深大寺に至る軍道であったそうだが、今は、南に深大寺に向かう道が境浄水場で分断されている。


 明治16年頃の「千川上水路図」には、玉川上水からの分水が地上に現れる樋口から、井口橋までの間に三か所の橋が記されている。現在の千川上水の水路は、当時とは異なるので、現在の橋と対応させることは出来ないが、最初の橋は土橋で境橋の近く、二番目の橋は石橋で現・樋口橋の付近、三番目の橋は土橋で柳橋交差点より上流部に位置していたと思われる。当時、千川上水の南側には畑地が広がっていたが、千川上水の左岸・北側には五日市街道があり、街道沿いに人家もあった。五日市街道を先に進むと二番目の橋の手前に水路があり小橋が架かっていた。この水路は五日市街道の北側を流れ、水車を回したのち、地下を通って、三番目の橋の下流で千川上水に戻っていた。水車の位置は、現・柳橋交差点の西側、五日市街道の北側にあたる。水車を経営していたのは平井家で、他にも坂上水車を保有していた。平井家は上保谷新田の名主を勤める家柄で、千川上水分水口の水番人も勤めていたという。上保谷新田には、同一の水車かどうかはともかく、江戸時代から水車はあったようである。さて、三番目の橋を過ぎると、北側には楢の林が広がるようになる。そのまま進むと五差路に出る。現在の武蔵野大学前の交差点が、その場所に相当する。五差路から北に行く道は田無に出る深大寺街道、西に行く道は鈴木新田に行く道、橋を渡って南東に行く道は五日市街道、あとの二つは千川上水の左岸の道である。


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