夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

千川上水花めぐり(5)

2010-04-23 21:14:53 | 千川上水
 更新橋から右岸を歩く。自転車も通る道だが、煩わしいという程ではなく、桜も所々にあって散策するには良い道である。ただ、コンクリートの直線的な水路が、少し興ざめではある。次の無名の橋を過ぎると、木の橋風に作られた西北浦橋に出る。ここから無名の橋が二か所続くが、水路が石積護岸となり、昔からの水路のような眺めとなる。

 右岸をさらに歩くと、北裏橋に出る。次の橋は桂橋、その次の橋は東北浦橋と続く。この橋の近くには供養塔があるが、昔の千川上水は水量もあり流れも速かったのだろう。次の橋は吉祥寺橋で、ここを渡ると、昔に戻ったような風景が広がっている。北側には畑が広がり、南側の屋敷森の下には、千川上水が小川のような風情で流れている。ここからは、農道のような道を歩くが、本来は畑の北側の道を歩くべきなのかも知れない。次の橋を渡り、千川上水の右岸に沿って一般道路を歩くが、その先に、もう一つの屋敷森が現在も残っている。吉祥寺橋から先、無名の橋が幾つかあるが、川が身近な存在で、暮らしと結びついていた頃を思い出す風景である。

 屋敷森を過ぎると、千川上水は突如暗渠となる。遊歩道風に整えられた道を歩いていくと、その先の石神井西中の前の辺りに、千川上水の水路が再び姿を現す。それも短い区間で、再び暗渠となり千川上水緑道となる。この緑道は吉祥寺通りで終わるが、この場所、石神井西中の交差点のところには、千川橋という橋が架かっていたという。吉祥寺通りを渡ると、千川上水が石積護岸の姿で現れる。ここから伊勢橋までの区間は、昔を思わせる水路が続くが、右岸は車道で、歩道はその南側にしか無く、左岸の細い歩道は部分的にしか通れない。無名橋、田中橋、久山(キュウヤマ)橋を過ぎ、北側に広がる畑を眺めながら歩く。さらに、無名橋、竹下橋、さらに無名橋を幾つか過ぎると青梅街道に出る。伊勢橋があった所である。なお、青梅街道の手前で、千川上水から六ケ村分水が分かれていたが、現在は暗渠となり、清流復活で流されて来た水の7割が、青梅街道沿いを流れて善福寺川に流入しているとのことである。


 「千川上水路図」(明治16年頃)によると、現・更新橋から先の左岸の道は千川上水から少し離れた所を通っていた。千川上水の北側は畑地で、南側の千川上水沿いには屋敷森らしきものが続いていたようである。しばらく行くと、南側の吉祥寺村に出る橋がある。この橋の先で、弧を描いて流れてきた千川上水が東北に折れ曲がるようになるが、ここに南北に通じる道があり、橋が架かっていた。現在の吉祥寺橋である。なおも左岸を進み、南側に渡る橋を見送ると、道が左岸から右岸に移る場所に橋が架けられている。現在の石神井西中の西側辺りになるだろうか。その先にあるのが千川橋である。ここから、両側に畑地が続く道を進み、橋を一つ通り過ぎると、千川上水から六ケ村分水が分かれている。この分水は元々七ケ村分水であったが、後に中村が外れて、明治の頃には六ケ村分水になっていた。この分水は、青梅街道沿いに流れ、上井草村、下井草村、上鷺宮村への用水となり、その先で上萩久保村、天沼村、阿佐ヶ谷村へ用水を供給していた。六ケ村分水を小橋で渡ると青梅街道で、左に行けば千川上水に架かる伊勢橋である。この橋の南側には、千川上水の維持管理を行う水番屋があったというが、明治時代まで残っていたかどうかは分からない。
 千川上水の水車への利用は、安永9年(1780)に今川氏知行地の井草村に設置された水車に始まる。千川上水の水量は、玉川上水から千川上水への分水口で加減しており、その管理は水元役である千川家が行っていたが、井草村の水車を回すに十分な水量が得られないこともあったらしく、井草村の人間が無断で分水口を加減し、千川上水の水量を増やす事があった。その結果、千川上水の下流で水が溢れ、田畑や街道が浸水する事態が発生したため、千川家から訴状を出したものの、それで一件落着とはならなかった。文政元年(1818)になって、井草村の水車を上保谷新田に移す事で決着が図られたが、その後、井草村に水車が新設されたことから問題が再燃し、結局、井草村に新設された水車は廃止される事になった。文政5年(1822)のことである。


コメント    この記事についてブログを書く
« 千川上水花めぐり(4) | トップ | 千川上水花めぐり(6) »

千川上水」カテゴリの最新記事