甘泉園公園は、回遊式の日本庭園と庭球場及び児童コーナーからなる新宿区立の公園で、日本の歴史公園100選にも選ばれている。宝永7年(1710)、下戸塚村の田畑の内7千坪が尾張徳川家に与えられ、後に大草内記の屋敷となり、安永3年(1774)には清水家の下屋敷となる。その後、清水家では北側の土地を抱屋敷として取得し、神田川近くまで屋敷地とする。幕末には田安家の屋敷となるが、明治になってから清水家の本邸となる。明治34年、彦根藩士の出で後に専修大学初代学長となる相馬永胤がこの屋敷を買い上げるが、昭和12年には早稲田大学に譲渡する。昭和36年、早稲田大学の敷地内にあった高田富士と水稲荷が移設され、庭園部分は東京都に譲渡されて改修が行われた後、区立公園となる。
現在の池は上下二段になっており、高低差を利用した滝があって、その下を飛び石で歩けるようになっている。明治19年の地図では池は一つだけで、島も見当たらないが、相馬邸になってからは9年かけて邸宅を建て造園を行ったとされ、明治44年の地図では、池は三カ所になり中島も造られている。現在の庭園に近い形になっていたと思われる。
日本庭園の冬の風物詩といえば雪吊りだが、甘泉園公園では区職員の手作りで雪吊りが行われているという。上の池には州浜の先に岬灯篭として小型の置灯篭が据えられている。下の池からは岬灯篭が目線の高さになるので、灯をともして見てみたい気もする。
飛び石で滝からの流れを渡り、それから滝を眺める。滝の落ちる姿は流量により多少変わる事があるらしく、前に来た時は4筋に分かれて落ちていた。甘泉というからには湧水があった筈だが、今は汲み上げか水道水だろうか。湧水が豊富だった頃は滝の形も異なっていたと思われる。湧水の場所にあった甘泉銘並序の碑は、今は水稲荷の社務所近くに置かれているが、文化8年(1811)という事なので清水家下屋敷時代のものである。
移設された高田富士は期間を限って公開されるが、甘泉園公園からも見る事は出来る。公園を出て水稲荷の敷地に出ると、左側に堀部安兵衛の碑がある。碑の前の東西の道は流鏑馬が行われていた場所だが、今は戸山公園に場所を変えて行われている。
右へ進み水稲荷の社殿に行く。その途中に清水家の茶室であった聴松亭がある。聴松亭は戦前に取り壊されたという話もあるので、建物は再建されたものかも知れない。水稲荷の裏手に祀られている三島神社は清水家の守護神という事だが、源頼朝が勧請したという言い伝えがある古い社で、清水家の屋敷の西側にあった三島山に祠があったという。
流鏑馬が行われていた道の西側の端を左に行き、その先を右にすぐ左に進む。突き当りの道は江戸時代に茶屋が並んでいた茶屋町通りで、南側は高田馬場の跡地である。ここを右に行き、突き当りの一つ手前の角を右に入る。ここからは旧鎌倉街道中道の東回りルートという説がある道をたどる。近くの早稲田大学の敷地内で中世の豪族の城館が発掘されているので、この辺りは交通の要衝であったと考えられている。道は次第に下りとなり亮朝院の前に出る。七面大明神堂の入口はその先にある。先に進むと都電が走る新目白通りに出る。この通りを渡って神田川を面影橋で渡る。先に進むと宿坂となるが、坂の上から先の鎌倉街道の道は定かではなくなる。
現在はオリジン電気の移転に伴う工事のため少々見えにくくなっているが、面影橋を渡ってすぐの豊島区側に山吹の里の碑が置かれている。山吹の里については別稿で取り上げる。
<参考資料>
「江戸東京の庭園散歩」「地図で見る新宿区の移り変わり・戸塚落合」「下戸塚」「東京名所図会・西郊之部」「旧鎌倉街道探索の旅・中道編」「歴史よもやま話(新宿法人会)」「街歩き庭めぐり(草樹舎)」