夢七雑録

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江戸名所記見て歩き(1)

2012-05-26 11:44:20 | 江戸名所記

 明暦3年(1657年)、明暦の大火または振袖火事と呼ばれる、江戸最大の火災が発生した。火元は三か所。折からの強風にあおられて、二日間に渡って燃え広がり、江戸の大半を焼失。焼死者は10万人という大惨事となった。幕府は直ちに復興に着手し、両国橋を架け、本所深川の開発をすすめ、大名・旗本の屋敷や寺社などの移転を図り、火除けのため広場の設置や、道幅の拡大など防火のための対策を行った。

 寛文2年(1662年)、復興後の新しい江戸についての案内書が出版された。江戸の案内書としては最も古い部類に属する「江戸名所記」である。著者は浅井了意で、京都で出版されている。「江戸名所記」は7巻から成り、80項目に渡って江戸の名所を取り上げ、項目ごとに本文と狂歌、さらに、京都の絵師の手になると思われる、様式化された挿絵を付けている。

 「江戸名所記」に取り上げられた江戸初期の名所は、その後どうなったか。江戸の終わりごろの様子は、天保7年(1836年)刊の江戸名所案内の決定版「江戸名所図会」により、ある程度は知る事が出来る。そして、今はどうなっているか、訪ね歩いてみるしかない。

 「江戸名所記」は、二人づれで名所を巡る形式をとっていて、次のように始まっている。
“うららかな春の日に誘われるように家を出て、何処へとも決めずに歩いていると、同じような気持ちの友人と行きあった。しばらく、立ち話をしていたが、このまま別れて帰るのも心残りなので、思いつきで、江戸の名所巡りの話をしたところ、江戸に長年住んでいるのに、人に名所を尋ねられて、まともに返事が出来ないのも変だし、話の種にもなる事なので、それは良いという事になった。早速、近くの茶屋に行き、酒を酌み交わしながら、名所めぐりの道筋を相談した。”

 それでは、今から、江戸の名所を見て歩く小さな旅に、出かけるとしよう。

<巻1>
1.1 武蔵国


 「江戸名所記」では、最初に武蔵国を取り上げ、国名の由来を紹介している。その由来だが、武蔵の国のうちに祖父が岳という、鎧武者が怒って立っているような姿の山があり、この山を見たヤマトタケルが、この国の人が猛々しいのも当然だと言い、この山の神が自らの軍を守るよう願って武具を山の岩蔵に納め山の神を祭ったため、武蔵と書くようになったとし、国中を平定したあと武具を差し置いたので、むさしの国となったとする。寛文5年(1665年)に京都で刊行された「日本国名風土記」にも同様な由来が載っているが、ほかにも、「大和本記」「風土記抄」「武蔵風土記」などという書にも同様な話があり、このような説が当時は流布しいていたと思われる。しかし、時代が下がるにつれて反論も出てきたようで、たとえば、武具を納める理由はないとする意見や、武蔵の国号は和銅の頃から後の話でヤマトタケルの時代には文字が無いとする批判、武蔵風土記などは後世の偽書で信ずるに足らぬとする見解、さらにヤマトタケルが武具を納めたのは青梅の武蔵御岳で秩父ではないとする説も出るようになる。歴史についての知識がさらに深まると、見狭下や下佐斯や総下から転じたとする説や、アイヌ語が語源とする説なども登場してくる。ただ、現在のところ、国名の由来についての定説といえるものはないようである。

 武蔵国は、7世紀半ばの大化の改新で、胸刺ムネサシ、无邪志ムサシと知々夫チチフが統合されて成立し、国府は現在の府中市に置かれたという。「続日本紀」では、768年に白雉が献上された際に武蔵の国号が定められたとする。江戸時代の初めまでは、武蔵国と下総国の境界は隅田川になっていたが、明暦の大火の後、隅田川の東側にまで江戸の市街地が拡大したこともあって、隅田川の東側、現・江戸川から西側が武蔵国に編入されることになった。編入の時期は、貞享3年(1686年)というが、もっと早いとする説もある。ただし、「江戸名所記」では、隅田川を武蔵と下総の境界と書いているので、編入以前の記述と考えられる。武蔵国には、現在の地名でいうと、島を除く東京都、川崎市、横浜市の一部、それに埼玉県のほとんどが含まれている。

 「江戸名所記」に祖父が岳とあるのは現在の武甲山のことであり、武光山、秩父が岳、妙見山などとも呼ばれていた。「江戸名所記」では、弘法大師が妙見大菩薩を勧請したので妙見の御岳と呼ばれるようになったと記しているが、鎌倉時代に秩父氏が妙見大菩薩を秩父神社に合祀した事から、神社の御神体である武甲山が妙見山と呼ばれるようになったという事のようである。武甲山は都内からも遠望することが出来るが、秩父市内からは間近に眺める事が出来る。ただ、セメント原料としての石灰岩の採掘のため山容が変わってしまったのが少々残念な気もする。芝桜の季節には羊山公園から眺める武甲山がベストで、以前、横瀬駅から芝桜の丘を経て西武秩父駅まで歩いたこともある。ただ、最近は、花時に限り入園料を取る事になったらしい。

1.2 江戸御城
 「江戸名所記」では、江戸城は大田道真が築城したあと、道灌が居城としたとする説をとっている。「江戸名所図会」では、築城を道灌としているが、今は、これが定説になっている。道灌が築城する以前にも、江戸氏の居館が江戸にあったと考えられているが、その場所は分かっていない。

 「江戸名所記」には、大手は東向きで大手門は南向き、本丸と南側の西の丸の間に紅葉山があり、城のまわりは大名小名の屋敷が軒を並べ、出入りの侍たちは大身も小身も礼法がきちんとして威儀正しく穏やかに見えると書かれている。また、五層の天守の挿絵が付けられ、鯱鉾の鱗の輝きが雲間に輝き海原に写ると書かれてもいるが、実際には、江戸城の天守は明暦の大火で焼失したあと、再建される事はなかった。

 「江戸名所図会」は、太田道灌の時代についての記事を中心としており、吹上御庭、松原小路、梅林坂についての記述はあるものの、江戸期の城については記載していない。図版の中にも、江戸城の遠望が描かれているだけである。おそらくは、幕府の意向に配慮した為であろう。

 浅井了意は、当然のことながら、外から江戸城を見ていたわけだが、現在では、江戸城の本丸と二の丸の跡地が皇居東御苑として無料で公開されているので、浅井了意に代わって、江戸時代の様子を思い浮かべながら歩いてみることにした。江戸時代、大手門には濠に架かる橋を渡って入ったが、この橋より少し手前に下馬所があり、大名や一部の重臣などを除くと、ここで馬から下りる必要があった。また、城内に入れる従者の数にも制限があったので、多くの従者は敷物を敷いて主人を待つことになった。「江戸城年始登城風景図屏風」には、登城の列や主人を待つ従者たちなど、濠の手前の広場の混雑ぶりが描かれているが、よく見ると天秤棒を持った物売りらしい姿も見える。人集まるところ商売ありである。それにしても、主人が城から出るまで待っていなければならない従者も大変である。

 大手門は高麗門、石垣の間に櫓を渡した櫓門、石垣、土塀で構成される枡形門である。高麗門を入って右に直角に折れると再建された櫓門がある。江戸時代には門の中に番所があり、櫓門の先にも番所があった。また、櫓門の先には幕府の財政を担当した下勘定所もあったが、これらの建物は現存していない。櫓門から左に行くと発券所があり、右手には、皇室から移管された美術品を展示する尚蔵館がある。その先、右手に大手休憩所がある。休憩所の先の石垣の場所は、大手三の門跡で、同心番所の建物が今もある。三の門は大手門と同じ形式の枡形門であった。

 江戸時代、三の門の手前は濠になっていて下乗橋が架かり、橋の手前と門の内に番所があった。大手門から入った大名のほかに、桔梗門(内桜田門)から入った大名も三の門を通ったが、ここから先、御三家以外の大名は駕籠から下りて歩く事になっていた。三の門跡を直角に曲がると、広場のような場所に出る。右手には石垣があり、修復についての説明板や石材が展示されている。左手には鉄砲百人組が昼夜交代で詰めた百人番所の建物が今も残っている。

 百人番所のある広場から北に行くと二の丸跡に出られる。江戸時代、二の丸との境にも門があったが現存していない。二の丸跡には後で行くことにし、石垣の間にある中之門跡に入る。その先には、与力が詰めていた大番所が今も残っている。一般の大名は三の門で駕籠から下りたが、御三家は中之門まで駕籠で入ることができた。中之門は櫓門であったが、枡形門ではなかった。

 中之門跡を通って左に行き、中雀門跡の坂を上がる。中雀門は、玄関前門または書院門と呼ばれ、石段を設けた枡形門である。江戸時代、中雀門を出た先には1万坪を越える本丸の殿舎が所狭しとばかり建っていた。本丸は、儀式や行政の為の場所である「表」、将軍の執務及び日常生活の場としての「中奥」、将軍の私邸である「大奥」から構成されていた。中雀門に近い側にあるのは「表」で、中雀門を出て正面やや左手に御玄関があった。御玄関の位置は、現在の本丸大芝生にそびえる二本のケヤキの辺という。登城した大名は御玄関から入って所定の殿中席に行き、老中など幕府の諸役人は玄関の右側を通って別の入口から下部屋(控室)に入り、そのあと殿中席や詰所に向かったという。中雀門を出て左側には塀があって、門を入ると御白州があった。御白洲の北側には、儀式を行う場として使用された格式の高い大広間があり、御白州を挟んだ南側には能舞台があって、慶事などの際には、町人も能を見る事が許されていた。

 中雀門跡を出て左に行き、富士見櫓を見に行く。この櫓は、八方正面の櫓と呼ばれた形の良い三重の櫓で、天守の代用をつとめた櫓でもある。富士見櫓を眺めてから北に行くと、本丸絵図を彫った石が置かれている。その位置は大広間北側の中庭の角にあたっている。西側の土手に沿って北に進むと、松之廊下跡に出る。ご存じ忠臣蔵の発端となった廊下だが、大広間から白書院に通じる廊下で、東側は中庭に面し、西側には御三家などの殿中席があった。松之廊下跡から先に進むと、富士見多聞に向かって土手を上がっていく道がある。江戸時代、この土手の下に池が作られていた。池の東側には白書院と黒書院があり、竹之廊下で結ばれていた。白書院と黒書院は「表」における応接間に相当し、将軍の謁見の場でもあった。黒書院の北側には「表」と「中奥」の境となる錠口があり通常は閉鎖されていた。

 富士見多聞は蓮池濠に面して建てられた、鉄砲や弓矢をおさめた防御の為の建造物である。富士見多聞の土手下から東側は、将軍の執務や生活の場である「中奥」に相当し、御座之間や御休息之間などが設けられていた。「中奥」は「表」と異なり、将軍の意向が強く反映されるため、代替わりごとに模様替えがあったという。五代将軍綱吉の時には、耐震性を考慮した地震の間が、本丸中奥のほか西の丸にも設けられていたが、活用されたかどうかは分からない。

 富士見多聞から道を下っていくと、その先に石室がある。「中奥」と「大奥」の境は、石室の南側になる。石室は「大奥」の御納戸に近かったため、石室に大奥の調度品を収めたという説があるが、抜け穴という説もある。石室から本丸休憩所に行き、小休止したあと、白鳥濠に面した展望台に上がり、二の丸方面を眺める。

 現在の展望台は、台所前三重櫓の跡地にあたる。櫓の名前にもあるように、櫓の土手下から西側は本丸の台所があった場所で、食料品や日用品を購入する賄方や、食品を調理し膳を用意する台所方が詰めていた。台所の北側には風呂屋門があり、その北側には奥坊主部屋などがあって、大奥との境になっていた。田安、一橋、清水の徳川御三卿は、将軍家の近親扱いであったため、登城する時は御三家とは異なり、平川門から入り風呂屋門を経て、ひかえ所に入ったという。展望台から下りて、今度は大奥跡の芝生を歩く。正面に天守台、右手には桃華楽堂が見える。楽部の庁舎の横から二の丸に下る坂は汐見坂である。

 天守台に上がって南を眺めると、今は芝生が見えるだけだが、江戸時代には、手前に「大奥」、その先に「中奥」と「表」の多くの殿舎が建てられていた。「大奥」は、将軍の寝所や御台所などの居室がある「御殿向」、奥女中の住居となる「長局向」、大奥の事務や警備を担当する男性の役人の詰めた「広敷向」から構成されていた。天守台から見て右の方向が「御殿向」であり、左の方向が「長局向」、左側の奥が「広敷向」になる。「長局向」は時代とともに変化し、後には天守台の左側まで拡大されるようになった。「大奥」と「中奥」との境は銅の塀で仕切られ、「大奥」には御鈴廊下が通じていた。「大奥」は将軍以外男子禁制であったわけではなく、必要とあれば男も立ち入ることがあった。例えば、病人を診察するために医師が入ったし、畳替えをする時は畳職人が入った。広敷の役人のほか幕府の一部の役人も、用事があれば中に入る事があった。大奥から城外に出る場合は、「広敷向」の広敷門を出て梅林坂を下り平川門から外に出た。

 天守台の北側から、江戸城の搦め手にあたる北桔橋門の一部が見えている。今は、皇居東御苑の入場口の一つになっているが、江戸時代には、幕府御金蔵に近く、天守や大奥に近いこともあり、深い濠、跳ね上げ可能な橋、枡形門によって、堅固な防備を誇っていた。

 江戸城の天守が明暦の大火で焼失した後、天守台は再建されたものの、天守が再建される事はなかった。幕府は復興のために莫大な資金を必要としていた。それにもかかわらず、眺めるだけの天守に金と時間をかけるのは如何なものかという意見が出たからという。まさに卓見というべきであったろう。いまや天下泰平の世。前時代の遺物とでも言うべき天守は、無用の長物にしか過ぎなかったのである。江戸城に天守が存在したのは初期の51年間に過ぎず、明暦以降の江戸城にはあえて天守が設けられなかった。長きにわたり政権の座にあった江戸幕府は、その存在自体が権威であったが故に、江戸城も、権威の象徴である天守を必要としない城として存続していたのである。ついでに言うと、江戸城は度々火災に見舞われており、現在の天守台にも後世の火災の影響が見られるので、仮に天守が再建されていたとしても、後に焼失した可能性がある。

 天守台を後にして、梅林坂を下る。坂の名は、太田道灌が天神を祭り、梅を植えた事に由来するという。二の丸庭園に行く前に、天神濠の先の平川門を見に行く。この門は「大奥」の通用門として使われた門であり、鑑札を交付された商人も、この門を通り、「大奥」の広敷向で御用を承った。なお、罪人や死人も平川門から出されたので、この門は不浄門とも呼ばれていた。

 二の丸庭園は何度か改修されているが、現在の二の丸庭園は、第九代将軍家重の頃の庭園を再現したものという。二の丸御殿は第三代将軍家光により別荘として使われたが、後に世継ぎの住居や将軍の隠居所などとして使用され、幕末には、天樟院(第13代将軍家定御台所・篤姫)の居所となる。天樟院が二の丸御殿に移る数日前、江戸に陳情に来ていた村役人が、江戸城に出入りしていた者に連れられて平川門から入り、老女(御年寄)の許しを得て、建て替えられたばかりの二の丸御殿を見て回ったという話がある。江戸城は警戒厳重で、城内を見物する事など出来る筈もないように思えるが、不可能なことではなかったらしい。江戸城には、門番、運搬、使い走り、修繕、お供など、身分の軽い下働きの者が多数働いており、彼らには鑑札が交付されていた。この鑑札さえ持っていれば、城内を通行することが可能だったようである。

 江戸城には、本丸と二の丸のほかに、三の丸、西の丸、紅葉山、北の丸があり、石垣や濠は江戸時代の姿がかなり残されている。しかし、建造物については、門や櫓や番所の一部が残されているに過ぎない。理由の一つは火災にある。本丸は5回、二の丸は4回焼失しており、再建されることなく明治を迎えている。西の丸は4回焼失したあと再建されたが、明治に入って焼失している。江戸城は難攻不落の城として造営されたが、実は火災という弱点を抱えていたのである。


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