夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

港七福神

2010-01-05 19:29:21 | 七福神めぐり

 この七福神は、戦前から行われていた七福神が元になっているが、対象となる社寺は現在とは異なっていたようである。ここでは、現在の港七福神を、江戸の絵図で巡拝する。宝珠院(弁財天)-熊野神社(恵比寿神)-十番稲荷(宝船)―大法寺(大黒天)-氷川神社(毘沙門天)-桜田神社(寿老人)-天祖神社(福禄寿)-久国神社(布袋尊)。

(1)宝珠院(港区芝公園4-8)

 五重塔(現在は無し)を仰ぎつつ、赤羽橋を渡って、毎朝肴市が開かれるという広場に出る。増上寺へは、その先の赤羽門(赤羽橋交差点付近)から中に入る。門の左手には、閻魔堂のある宝珠院があり、右側には白蓮池という池があって、弁財天は、池の中の島に祭られている(現在、池は小さくなったが、現存している。ただし、弁財天の方は、宝珠院に祀られている)。参拝のあと、赤羽門を出て、赤羽橋北側の広場に戻る。橋の南側は久留米藩の屋敷で、その西北には水天宮の白い幟が見えている(この水天宮は、明治になって日本橋蛎殻町に移され、日本橋七福神の一つとなる)。

(2)熊野神社(港区麻布台2-2)
 赤羽橋北側の広場から、土器坂(桜田通り)を上がる。坂の名は、土器職人が住んでいたことによるという。坂の途中、左手に熊野権現(熊野神社)がある。太田道灌との所縁から太田稲荷とも呼ばれていたという社である。

(3)十番稲荷神社(港区麻布十番1-4)

 熊野権現から土器坂を少し戻り、斜めに入る道をたどり中ノ橋に出る。橋の手前を西に、新堀川沿いの町並みを行き、飯倉新町を通って、麻布永坂町に出る。ここに稲荷(長竹稲荷)があり、その先の麻布坂下町にも稲荷(末広稲荷)がある(戦前に行われていた七福神には、長竹稲荷と末広稲荷の両方が入っていた。戦後、両方の稲荷社が合祀されて十番稲荷神社となるが、現在は十番稲荷神社から宝船を出す形で、港七福神に参加している)。

(4)大法寺(港区元麻布1-1)
 麻布坂下町から一本松坂(大黒坂)を上がっていく。ものを売る店があったり、茶店があったりする坂道である。この坂の途中、右側に大黒天を祀る大法寺がある。

(5)氷川神社(港区元麻布1-4)
 大法寺から坂を上がり、右から上がってくる闇坂と合流した先に、伝説の一本松がある。ここから道は左に曲がっていくが、その先の左側に、麻布の総鎮守である氷川神社がある。

(6)桜田神社(港区西麻布3-2)
 氷川神社を出て、本村上ノ町の四つ辻(仙台坂上交差点付近)を右に行き、次の四つ辻(愛育病院前交差点付近)を右に折れる。しばらく北に向かって歩くと桜田中町(西麻布3)に出る。ここの左側に霞山稲荷(桜田神社)がある。この稲荷は、もと、桜田霞が関にあったが、住民共々この地に移住し、稲荷は霞山を称し、町は桜田町になったという。

(7)天祖神社(港区六本木7-7)
 桜田中町から北に向かい、竜土材木町から竜土町(六本木7)に出る。ここに、竜土神明宮(天祖神社)がある。

(8)久国神社(港区六本木2-1)
 竜土神明宮から六本木町へ行く道(外苑東通り)を歩き、途中で左に入る道(現在の東京ミッドタウンの横の道)をたどり、次の角を右に折れ、その先を左に折れて、三河台の道(六本木4)を歩く。そのまま進むと氷川神社(赤坂6)の前に出る。さらに行くと南部坂に出る。右に折れて坂を下り、さらに右に行くと久国稲荷(久国神社)に出る。帰りは、氷川神社の横を通って赤坂に出る(現在は、六本木一丁目駅が最寄りの駅になるが、六本木駅もそう遠くない)。

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新宿山ノ手七福神

2010-01-02 08:29:56 | 七福神めぐり

 新宿山ノ手七福神は昭和初期に作られたものである。今回は、江戸の絵図上を次の順路で巡拝する。善国寺(毘沙門天)―経王寺(大黒天)―厳島神社(弁財天)―法善寺(寿老人)―永福寺(福禄寿)―鬼王神社(恵比寿神)―太宗寺(布袋尊)。

(1)善国寺(新宿区神楽坂5-36)
 神楽坂を上がっていくと、坂の途中、左側に善国寺がある。この寺は徳川家の祈願所であり、毘沙門天の寺として庶民の信仰を集めてもいる。毘沙門天は、寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に現れたとされることから、狛犬の代わりに虎の形の石寅が置かれている。

(2)経王寺(新宿区原町1-14)
 神楽坂の上から左に行く(大久保通り)。御箪笥町、山伏町、市ヶ谷柳町を経て、牛込原町に出る(この辺り、古い地名が現在も残っている)。ここに、経王寺がある。牛込は火事が多い土地であったが、ここの大黒天は焼け残ったため、火伏せの大黒天として知られるようになったという。

(3)厳島神社(新宿区余丁町8)

 経王寺から西に行き、若松町の分かれ道で左の道をとる。馬ノ首団子坂という、妙な名前の坂を下っていくと、左側に厳島神社、通称抜け弁天がある。この弁財天は、源義家が社殿を建てたのが始まりとされており、また、江戸六弁天の一つでもある。

(4)法善寺(新宿区新宿6-20)
 抜弁天の境内を通りぬけると、法善寺がある。この寺の裏手に七面の社があり、かつては境内に桜が多かったため、上野の山に負けない程の花見客が訪れたということだが、それも昔の話で、今は花見の場所ではなくなっている(現在、この寺には、身延山の鎮守である七面明神が祀られている)。

(5)永福寺(新宿区新宿7-11)
 法善寺から戻って、抜弁天の斜め前にある永福寺に行く(この寺には、江戸では珍しい五葉の松の大木があったという)。

(6)鬼王神社(新宿区歌舞伎町2-17)
 久左衛門坂(職安通りの北側を通る坂)を下って、西大久保村の村道を行くと、稲荷社がある(現在、この稲荷社は鬼王権現を合祀して、稲荷鬼王神社になっている)。

(7)太宗寺(新宿区新宿2-9)

 西大久保村を斜めに通る道を歩き、番衆町に出て、成覚寺の前を過ぎ、門前町を右に折れると内藤新宿で、太宗寺がある。この寺は甲州街道に面しており、江戸六地蔵の一つが置かれていた(六地蔵とは、江戸の出入り口に当たる六ヶ所の寺、品川寺、東禅寺、太宗寺、真性寺、霊巌寺に置かれた地蔵尊のことである)。ここからは、甲州街道を通って帰路に就く(現在の最寄り駅は新宿御苑駅だが、新宿駅まで歩いても遠くはない)。

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深川七福神

2009-12-29 22:59:17 | 七福神めぐり

 富岡八幡を起点として、江戸の絵図の上で、深川七福神を巡拝してみる。順路は、富岡八幡(恵比寿)―冬木弁天堂(弁財天)―心行寺(福禄寿)―円珠院(大黒)―竜光院(毘沙門天)―深川稲荷社(布袋)―深川神明宮(寿老人)である。

(1)富岡八幡(江東区富岡1-20)

 永代橋を渡って料理屋が並ぶ門前仲町を通り、富岡八幡に行く。富岡八幡宮は江戸最大の八幡宮であり、その祭礼は江戸三大祭りの一つに数えられている。また、八幡宮の西側にある、別当寺の永代寺には、池を中心に人工の富士や石組を設けた広い庭園があり、春には一般公開されるという(現在、永代寺は廃寺となったが、その名を継いだ子院が、深川不動尊の門前にある。また、庭園は無くなって、今は深川公園となっている)。

(2)冬木弁天堂(江東区冬木22)
 富岡八幡を出て、深川三十三間堂(現在は無い。江東区富岡2)の前を通り、橋を渡って水路(高速道路9号線の下にあった油堀川)に沿って左に折れる。途中で右に折れ、幕府賄方が居住する大縄地(江東区冬木)を抜けると、堀割(現在は無い)がある。堀割の向こうが冬木町で、木場の材木商・冬木弥平次の邸内に弁財天が祀られているが、私邸内の弁財天ゆえ遙拝して済ます(この弁財天が冬木弁天堂の前身だが、一般の参詣が許されたのは明治以降のことである。なお、現在の七福神巡りでは、富岡八幡の西側の道を北に行き、葛西橋通りを渡って右に行くのが順路である)。

(3)心行寺(江東区深川2-16) 
 賄方大縄地から蛤町を通って西に行き、富岡橋(現在は無い)を通る道(清澄通り)に出て右に行く。深川の閻魔で知られる法乗寺(江東区深川2)を過ぎて、心行寺に出る(現在の道順では、冬木弁天堂から葛西橋通りを西に行き、清澄通りに出て右に折れて、心行寺に行くことになる)。

(4)円珠院(江東区平野1-13)
 心行寺を出て、仙台堀川を海辺橋で渡り、そのまま進むと、浄心寺(江東区平野2)への参道がある。浄心寺の中を抜けて、本堂の裏手にある円珠院に行く。円珠院は浄心寺の塔頭で、深川の大黒天として知られる寺である(江戸時代の円珠院は、浄心寺本堂の東側にあったが、現在は、浄心寺の西側にあるので、道順は少し異なっている)。

(5)竜光院(江東区三好2-7)
 浄心寺の裏門から出て深川山本町(江東区平野2)を通り、堀割(福富川。現在は公園になっている)を渡る。水路に沿って北に行き、元加賀町の通り(江東区三好3)に出て右折し、すぐ左折すると雲光院(江東区三好2)の前を通る道(江戸資料館通り)に出る。ここを左に行き、雲光院の塔頭である竜光院に行く(当時の竜光院は、雲光院の西側に位置していたが、現在の竜光院は、雲光院の南側にあるため、現在の順路では、円珠院から北に行き、次の信号を右折。次の信号の所が竜光院である)。

(6)深川稲荷神社(江東区清澄2-12)

 雲光院を出て左に行き、右に折れ左に折れ右に折れると、小名木川の川岸に出る。ここを左に行くと高橋に出る。橋を通る道(清澄通り)を渡って、海辺船大工町(江東区清澄3)に行き、少し先の裏町を左に入って、稲荷社に行く(現在の順路では、江戸資料館通りに出て西に行き、清澄通りを渡って、清澄庭園の北側を歩き、正門の所から北に進んで、清州橋通りを渡って、深川稲荷神社に行く)。

(7)深川神明宮(江東区森下1-3)
 稲荷社から戻って小名木川河岸を西に行くと、万年橋に出る。富士が良く見えることで有名な場所である。橋を渡り、右に折れて六間堀(現在は無し)に出る。堀に沿って北に行き、中橋(現在無し)を渡って堀沿いに行き、次の角を右に入ると、神明宮に出る(現在の順路では、深川稲荷神社から西に行き、萬年橋を渡り、そのまま北に行って、芭蕉記念館の前から東に行けば、深川神明宮に出る)。帰りは籾蔵の横を通って新大橋に出る(現在なら、地下鉄の森下駅が最寄り駅になる)。

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下谷七福神

2009-12-26 16:53:53 | 七福神めぐり

 元三島神社を起点に、江戸の絵図の上で、下谷七福神を巡拝する。順路は次の通りである。元三島神社(寿老人)―真源寺(福禄寿)―英信寺(大黒天)―法昌寺(毘沙門天)―弁天院(弁財天)―飛不動(恵比寿)―寿永寺(布袋尊)。

(1)元三島神社(台東区根岸1-7)
 不忍池から、茶店などが並ぶ上野の山下を抜けて、寛永寺の子院が続く辺り(現在は鉄道の敷地になっている)を左に見ながら、車坂町(台東区上野7)を経て、下谷坂本町(台東区下谷1)に出る。直進する道(金杉通り)は、千住まで町屋が続く奥州街道の裏道である。下谷坂本町から左に行き、要伝院(台東区根岸3)の前を過ぎ、山裾に沿って進むと、山の麓にある元三島神社に出る(現在は、鴬谷駅北口からすぐの場所)。この神社は、大三島の大山祇神社を上野山中に分霊したことに始まる。江戸の世になると、上野の山の麓に移って三島社と称するが、のちに浅草に移転、さらに、熊野権現社と合祀して元の土地に戻り、元三島神社を名乗ったという。

(2)真源寺(台東区下谷1-12)


 元三島神社から、もと来た道を入谷坂本町まで戻り、奥州街道の裏道(金杉通り)を渡り、折れ曲がりの道(現在は言問通り)を行けば、真源寺に出る。真源寺は、恐れ入谷の鬼子母神と狂歌に歌われた寺であり、朝顔市でも知られている。

(3)英信寺(台東区下谷2-5)


 入谷坂本町に戻って千住方面に(金杉通りを)少し行くと、英信寺の入口がある。中に入って、三面大黒天を参拝する。

(4)法昌寺(台東区下谷2-10)
 英信寺を出て、次の角(根岸三の信号付近)を右に入ると法昌寺に出る(現在は、英信寺の横からも行くことができる)。

(5)朝日山弁天院(台東区竜泉1-15)
 法昌寺から折れ曲がりの道を抜け、その先、東に向かって真っすぐな道を歩く(現在の道でいえば、昭和通りを渡って、金美館通りを歩くことになる)。左側にあるのは、水谷家の屋敷である。不忍池に弁財天社を建立した備中松山藩主・水谷勝隆は、屋敷内の池にも弁財天を祭っていたということだが、屋敷内の弁財天ゆえ、今回はパスして次へ行く(朝日山弁天院のもとになったのは、この弁財天である。水谷家の屋敷は、現在の金美館通りの北側にあったが、明治になると、屋敷の跡が原っぱとなり、池は関東大震災のあと埋め立てられる。現在の朝日山弁天院は、戦後、池のあった場所に建てられたものである。現在は、大正小の手前の道を北に向かえば、弁天院に行くことが出来る)。

(6)正宝院・飛不動(台東区竜泉3-11)
 水谷家の屋敷に沿った道(金美館通り)を東に進み、溝口家の屋敷の先を左折し、鷲神社、長国寺、西徳寺、大音寺を過ぎて、下谷竜泉寺町の四つ辻に出る(現在の道順では、朝日山弁天院を参拝したあと、弁天院から東に行き、西徳寺横を国際通りに出て左折、次の信号の所が、下谷竜泉町の四つ辻に相当する)。ここを右に行けば飛不動に出る。

(7)寿永寺(台東区三ノ輪1-22)
 竜泉寺町の四つ辻に戻って北に行き、金杉村(台東区三ノ輪1)に出て、田地の間を抜けて寿永寺に出る(現在の道順では、飛不動から北に向かう道をたどって、寿永寺に出ることになる)。この寺での参拝を終えると、これで下谷七福神めぐりは終了となる。帰りは、奥州街道の裏道(金杉通り)を戻る(現在なら、日比谷線三ノ輪駅が最寄り駅である)。

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山手七福神

2009-12-23 09:22:38 | 七福神めぐり

 この七福神は元祖を名乗っているが、江戸で最初の七福神としているからである。巡拝の順序だが、誰が言い出したか、覚林寺から巡るのは、無病息災長寿祈願で、瀧泉寺から巡るのは商売繁盛祈願だという。ここでは、江戸の絵図により、次の順路で巡拝する。瀧泉寺(恵比寿神)―蟠龍寺(弁財天)―大円寺(大黒天)―妙円寺(福禄寿・寿老人)―瑞聖寺(布袋尊)―覚林寺(毘沙門天)。

(1)瀧泉寺(目黒区下目黒3-20-26)
 瀧泉寺・目黒不動尊は関東最初の不動霊場で、江戸三拝所の一つとされ、いつも多くの参詣客で賑わっている。瀧泉寺への参詣道には、白金の大通りを通る道のほかに、中原街道を通る道、品川宿を経由する道、広尾から爺が茶屋(三田2)経由で目黒に出る道などがある(現在は、東急目黒線不動前駅が最寄り駅である)。茶店や土産物の店が並ぶ門前町を過ぎ、仁王門をくぐって石段を上がると本堂がある。境内には、このほかに、書院、鐘楼、前不動堂、勢至堂など多くの堂宇がある。

(2)蟠龍寺(目黒区下目黒3-4-4)
 瀧泉寺から、門前町を通って蟠龍寺に行く。寺に入ると、左側に銅製丈六の阿弥陀如来像(今は無い)があり、池を渡ると本堂がある。その右手の洞窟内には弁財天が祀られているが、この寺が岩屋弁天と呼ばれるようになったのは、この弁財天に由来する。

(3)大円寺(目黒区下目黒1-8-5)

 蟠龍寺を出て、民家の点在する下目黒村の道を進み、目黒川を太鼓橋で渡る。正式には一円相唐橋という石橋である。橋から少し先の右手に明王院がある。昔は楓が多かったこともあって、夕日の岡と称される景勝の地であったが、すでに楓も見られなくなっている(現在、明王院は無く、その境内は目黒雅叙園の敷地になっている)。明王院から行人坂を少し上がった右側が大円寺の跡地である。この寺は、行人坂火事の火元であったとされ、幕府から再建を許されなかったが、その跡地に、焼死者を供養するため五百羅漢の石像が造られるようになった(大円寺は幕末に再建されて、現在に至っている)。

(4)妙円寺(港区白金台3-17-5)
 行人坂を上がると、三田用水に出る(三田用水は、北沢で玉川上水から分水して、台地の上を通って、麻布などに給水していた。その水路は目黒駅の西側を回って目黒通りに沿って流れていたが、現在は無い)。用水を渡り、六軒茶屋町(上大崎3)を過ぎて、目黒不動参詣道の一つでもある白金の大通り(目黒通り)を歩く。道の左側に続くのは、讃岐高松藩の屋敷(自然教育園及び庭園美術館)である。次の目的地、妙園寺(妙円寺)は、道の右側にあり、白銀(白金)の妙見堂として知られている。寺は白金通りに面しているが、本堂は、道から少し下がったところに位置している(境内は昔より狭くなっている)。

(5)瑞聖寺(港区白金台3-2-19)

 妙園寺を出て、白金台町を歩いていくと、右側に瑞聖寺が見えてくる。江戸における黄檗宗の中心となる寺である。参道は東側の桑原坂から上がっていくようになっており、広い境内の中程に大雄宝殿が東に面して建っている(現在は目黒通りに面した側に入口がある。境内は当時より狭くなっているが、瑞聖寺大雄宝殿は現存しており、重要文化財の指定を受けている。なお、文化財ウイークには、内部が公開されている)。

(6)覚林寺(港区白金台1-1-47)
 白金台町から日吉坂を下っていくと、右手に覚林寺がある。加藤清正所縁の寺で、白金の清正公さまとして親しまれた寺である。寺の前を流れる細流は、少し先で樹木谷(港区高輪1)と称する谷となるが、帰途は、その横を通り、松秀寺(港区白金2)の横を進めば、四ノ橋近くの麻布田島町に出る(現在は、都営三田線の白金高輪駅が最寄り駅である)。

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隅田川七福神

2009-12-20 16:59:20 | 七福神めぐり

 墨田七福神は向島七福神ともいい、江戸時代の文人墨客によって始められたという。江戸の絵図により、次の順路で巡拝する。三囲神社(恵比寿、大黒)―弘福寺(布袋尊)―長命寺(弁財天)―白髭神社(寿老人)―向島百花園(福禄寿)―多聞寺(毘沙門天)。

(1)三囲神社(墨田区向島2-5)

 吾妻橋を渡り、北十間川を渡って、隅田川沿いに北に行く。右手の水戸藩邸(墨田公園付近)を過ぎると、堤に沿って桜の木が続くようになる。花見の頃を思い浮かべながら、堤の上を歩いて行くと、右側に三囲稲荷社(三囲神社)の参道が見えてくる(参道は現在も残っているが、堤防を広げたため、かなり短くなっている)。この参道は神社の裏手にあたるので、気になる人は南側の正面にまわるとよい。なお、別当寺は延命寺(現在は移転)で、東側にある。

(2)弘福寺(墨田区向島5-3)

 三囲神社を出て隅田川の堤に戻り北に向かう。途中に料理屋があるが、その先の牛ノ御前(牛島神社。現在は墨田公園内に移転)の角を右に入る。幅広の道を行くと左側に弘福寺がある。参道の入口は南側にあり、本殿も南向きである(現在は、山門が東側の道路側に移り、本殿も東向きになっている。現在の本殿は関東大震災後の建造である)。

(3)長命寺(墨田区向島5-4)
 長命寺へは、牛ノ御前の境内を通っても行けるが、弘福寺の参道の途中から分かれて、裏手にある長命寺に行く道がある。この寺の名物は桜餅だが、その時期になったら、また来たいところだ(現在も、隅田川寄りに桜餅を売る店が健在である)。

(4)白髭神社(墨田区東向島3-5)
 長命寺の裏手から隅田川の堤に戻る。堤は少し先で東に折れ、さらに北に向かっている。桜が続く堤の上の道(現在の墨堤通り)を北にしばらく行くと、右側の堤下に白髭明神(白髭神社)がある。この神社が隅田川七福神に加わったのは、寿老人を祀る社寺が他に無かったため、この神社に祀られている白髭大明神を、寿老人の代役としたためだという。

(5)向島百花園(墨田区東向島3―18)
 白髭神社の横道を入って行くと、新梅屋敷(現在の向島百花園)に出るが、福禄寿は、この園内に祀られている。ここは、骨董商として財をなした佐原鞠塢(サハラキクウ)が、この土地に梅樹を植え、亀戸の梅屋敷に対して、新梅屋敷と称したのが始まりとされる。その後、この地には、文人墨客が多く集まるようになったが、ある時、鞠塢の持っていた福禄寿をもとに話し合った結果、生まれたのが墨田七福神だといわれている。

(6)多聞寺(墨田区墨田5-31)
 新梅屋敷から法泉寺の横を通り、隅田川の堤に出る。堤の下、橋場の渡しに行く道を見送って、桜の木が続く堤の道を北に行く(この道は現在の墨堤通りだが、歩くのであれば東白髭公園内の方が快適である)。左手に見えるのは水神の森で、その先に木母寺(墨田区堤通2。江戸時代の位置より少し西に移動している)が見えてくる。木母寺は梅若伝説で知られた寺であり、時間があれば立ち寄りたいところである。この寺の北側は、隅田川の水が入り込んで池のようになっている風光明美な場所で、池の畔には料理屋もある。この少し先(鐘が淵陸橋北の信号の所)を右に入り、その先を左に折れて多聞寺に行く。隅田川七福神は、この寺で終わりとなる。ここから、隅田川の堤を戻って、橋場の渡しを渡れば、浅草はそう遠くない(現在は、東武伊勢崎線の、鐘が淵駅が最寄り駅)。

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谷中七福神

2009-12-17 20:43:53 | 七福神めぐり

 谷中七福神は江戸時代からあったという七福神だが、対象となる社寺は、現在と異なっていたようである。ここでは、江戸の絵図により、現在の谷中七福神を、次の順路で巡拝してみる。不忍池・弁天堂(弁財天)―護国院(大黒天)―長安寺(寿老人)―天王寺(毘沙門天)―修性院(布袋尊)―青雲寺(恵比寿)―東覚寺(福禄寿)。

(1)弁天堂(台東区上野公園2)

 最初に詣でるのは、上野不忍池の天龍山生地院・不忍弁財天(弁天堂)である。弁財天の参拝を終え、不忍池に沿った道(現在の動物園通り)を北上する。風は冷たくとも、眺めの良い道である。道の右側には、寛永寺の境界にあたる水路が続いている。やがて道は不忍池から離れるが、道なりに行けば、松平伊豆守屋敷の前に出る(鴎外荘の先の信号の辺り)。ここを右に折れ、さらに左折して、屋敷の塀に沿って清水坂(上野高の前にある坂)を上がっていく。道なりに行けば、寛永寺の清水門の前に出る(現在、清水門は無い。位置的には、護国院前の信号の辺り)。

(2)護国院(台東区上野公園10)
 護国院は、清水門を入ったすぐ右手のところにあり、正月三日は、大黒詣での参詣客で賑わうところである(現在の護国院の敷地は狭くなっているが、当時は、上野高と、芸大の一部を含む広い敷地を有していた)。護国院での参拝を終え、清水門を出て、右側の寛永寺と左側の松平伊豆守の屋敷の間の道を北に向かう。屋敷の先は善福寺前町で、その先を突き当たって右に折れ、道なりに左に折れると、谷中八軒町である(現在の道で言えば、言問通りに出て右折し、次の信号を左折することになる)。その先の右側に寛永寺の谷中門があるが(谷中門は妙雲寺の付近にあったが、現在は無い)、ここを過ぎて直進すると、谷中天王寺の表門(現在の谷中霊園の入口付近)に出る。先に天王寺を参拝しても良いのだが、ここでは後回しにして、その手前を左に新茶屋町を行き、三崎坂の上に出る。この辺りには茶屋が多いが、行楽の人が多いからなのだろう(現在は、信号のある所で、谷中霊園に行く道と分かれて左に、三崎坂の上に出る広い道ができている)。

(3)長安寺(台東区谷中5-2)
 三崎坂の上から右に入り、天王寺中門前の町を歩いていくと(朝倉彫塑館の前を通って諏訪台通りに出る道)、右側、天王寺子院の福泉院内に、かさもり稲荷(笠森稲荷)がある。福泉院の門前には水茶屋があり、お仙(笠森おせん)という評判の美女が居たということだが、今回は立ち寄らずに、もう少し先の左側にある長安寺に行く(明治になって建てられた功徳林寺の敷地は福泉寺の跡とされ、笠森稲荷が祀られている)。

(4)天王寺(台東区谷中7-14)

 長安寺の向いにある西門(現在無し)から天王寺に入り、表門からの参道に出て、ここを左に折れ、五重塔の前を通って、天王寺の本堂に行く(現在の道順では、長安寺を出て、ぎんなん通りから、さくら通りに出て、駐在所のある場所を左に折れ、焼失した五重塔の跡地の前を通って、本堂に行く)。天王寺本堂で本尊の毘沙門を参拝したのち(現在は毘沙門堂を参拝)、長安寺の前まで戻り、北へ寺町を行くと四つ辻に出る。右に行くのは経王院(経王寺)や本行寺への道(日暮里駅に出る道)で、直進する道は諏訪台の通りである。この四つ辻を左に折れ、七面の社(別当寺は延命院)の前の七面坂を下るが、坂の上の門から七面の社に入り境内を下って坂の下の門から出てもよい(現在なら、夕やけだんだんを下るのが便利)。下りたところは、六阿弥陀道(六阿弥陀通り)である。

(5)修性院(荒川区西日暮里3-7)
 六阿弥陀道に出て右に折れる。右側は西向きの斜面で寺が続き、左側は田畑で民家が点在している。しばらく歩くと、修性院に出る。この辺りは、日が暮れるのを惜しむほど景色が優れていたため、日暮里と呼ばれるようになったという景勝地で、各寺院は傾斜地を利用して庭を作り、花木を植えていたが、そのうち、きりしまつつじで知られていたのが修性院である。

(6)青雲寺(荒川区西日暮里3-6)
 修性院を出て、隣の青雲寺に行く。青雲寺は花見寺と称された寺で、船繋松という名松でも知られた寺である。参拝を終えて、北に向かうと、佐竹右京大夫の屋敷(西日暮里4)の門の前に出る。門の前の道(道灌山通り)を左に行き、屋敷の垣根に沿って北に行く。そのまま進めば、田端村(北区田端1)で、西側一帯は畑地である。さらに行くと、六阿弥陀詣での四番寺である与楽寺(田端1)に出る(六阿弥陀詣でとは、江戸時代に流行した巡拝の一つで、西福寺、延命寺、無量寺、与楽寺、常楽院、常光寺を巡るものである)。六阿弥陀詣での、与楽寺から常楽院までの経路は、佐竹右京大夫屋敷の横を通り、青雲寺、修性院の前を通る六阿弥陀道を行き、三崎坂を上がって、谷中門から寛永寺内に入り、寛永寺を黒門から出て、常楽院に向かうものだが、今回のコースと一部分が重なっている。彼岸の時は、大勢の老若男女が巡拝するため、道はかなり混雑するらしい。

(7)東覚寺(北区田端2-7)
 与楽寺から左に折れ、田畑の中を行くと十字路があり、ここに、石造の仁王像が立つ東覚寺がある。右に入る道は、東覚寺が別当をつとめる八幡神社への道である。谷中七福神は東覚寺で終わりとなるが、帰りは、ここから南に行き、千駄木を経て不忍池に戻る(現在は、JR田端駅が最寄り駅)。

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