秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

鷹ヶ峰散策。

2010年12月08日 08時58分14秒 | 京都非観光迷所案内
この鷹ヶ峰という地は、京都市内に住んでいる人間にとってはあまり縁のない土地です。
市内ではあるけど、北の果てという感があって特別な用事でもない限り足を向けることは
まずないでしょう。私も一度だけ忘年会で訪れたくらいです。なぜか一泊したっけ。

一応観光地ではあるんですよ。私にとっては観光地というより、「光悦村」のイメージが
あって、いつかは訪ねてみようとは思っていたんですけど、機会がありませんでした。

もう、秋というより初冬、紅葉も終盤近くなったから、一度は散策しておこうと、出かけた
ワケであります。
      
まずは「源光庵」、禅宗のお寺です。ここでも伏見城の「血天井」が使用されているのです
が、興味がないもんで、庭だけ拝観させてもらいました。
   
他にも「悟りの窓」と「迷いの窓」も見学できますが、迷いっぱなしのワタクシには無縁です。

夫婦椿。↓
  

ここから光悦寺へ。この光悦村は元和元年、家康から東西二百間、南北七町の土地を光悦が
拝領して、一時は茶人や芸術家たちが大勢住まう村でした。

この光悦寺も明治の廃仏毀釈で荒廃していたのを明治40年ころに前田日延という人が再建さ
れたそうです。本阿弥と前田家は深い関わりがあるけど、もしかしたら日延さんは前田家の
末裔だったのだろうか?(関係ないかも知れませんケド)
       
鷹ヶ峰三山が借景となっています。この鷹ヶ峰、花札の坊主の絵柄の元だそうですョ。↓
       
萱葺きの鐘つき堂。現役で近辺に時刻を知らせています。だから勝手に撞いてはイケマセン。
       
本阿弥光悦は亡くなったときには、飯炊き一人と小者一人だけを使うだけの簡素な暮らしぶり
だったそうです。前田家から依頼を受けていた茶入れを見つけたときは自分の家を黄金十枚
で売り払い献上したけど、前田家からの謝礼は一切受け取らなかったといわれています。
  
そんな本阿弥家の墓標。ひそやかな佇まいです。

常にわが身を軽くもち、家も粗末で小さいのを好んだ光悦さんの人柄をしのばせるような
お寺です。

光悦寺といえば忘れてはいけない光悦垣。着物の意匠にもよく使用されています。

私の好きな逸話なんですけどね。左京区の詩仙堂に暮らした丈山は夕暮れ時に庭前に枯れ草
を集めて焚き火をしたそうです。その煙は「光悦さん、ご機嫌はいかがですか」という挨拶。

その煙を見た光悦はただちに火を焚かせて「おおきに、静かにお休みやす」という返事を
送り返したとか。

実は丈山は隠棲したふりをしていたが、幕府の隠れ目付けで、市内を監視していて、鷹ヶ峰
に向かって今日は平穏無事のメッセージを送っていたんだ、という説もありますけどね。

光悦宅の近くに住んでいた「茶屋辻家」も幕府御用達の隠密商人だったという話もあります。
でも、ここはやはり「ご挨拶説」をとりたいトコです、ワタクシ的には。

ナンだか今回は迷所案内らしからぬ、観光案内になってしまったけど、タマにゃいいやね。