秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

一日尼が経験できる「川崎大師京都別院」

2011年11月30日 19時42分08秒 | 京都非観光迷所案内

 前回紹介した「岩屋神社」からさらに坂道を登ると見えてくる「川崎大師
京都別院」
。歴史的には新しく、建物もコンクリー製で堅牢そのものです。

私の場合、コンクリートでできた社寺仏閣には拒否感とまではいかないけど、
興味の範疇外ですから、本堂だけサクッと撮影。

でも、このテのタグイには興味をそそられます。
 

      

「きもの塚」か・・。なんだか着物の世界も縁遠くなってきたワタクシです。

        
ズラーリと並んだ石仏群。当然まだ新しく、「とろけた仏」になるまでは、まだまだ時代がかかる
でしょうナ。

今回思ったのは「岩屋神社」も「大師別院」も、開発された山科区の中で、人知れず(いや、知って
いる人は知ってるけど)密やかな世界を保っている感があります。

前回ものべたように、高速道路で遮断されたためなのでしょうね。かつては川がその役目を果たし
ていたのが、現代では高速道路がそれに代わった結界になったのかも知れませんナ。

 


長~い参道「岩屋神社」

2011年11月29日 20時26分03秒 | 京都非観光迷所案内

 先日紹介した「皇塚」をさらに南へくだったところに突然表れる赤い鳥居。
石碑には「岩屋神社」と記されています。

ところが、鳥居のその先を見通しても、それらしき神社は見当たらない・・・・。
目だっているのは中華料理屋の赤いテントのみです。

鳥居だけジリツした神社で参拝者は、ここの中華料理を食べて御利益を授かる
のだろうか?なんて不思議に思っていたのです。

先日、意を決して(そんなタイソーなもんでもないけど)、車で鳥居を潜りその先
を目指してみました。なかなかの急勾配であります。しかし行けども、行けども
周囲は住宅街。ついに名神高速下を通過。この辺りから周囲は一変します。

まるで名神が結界となっているかのように、周りは林に囲まれた丘陵地帯です。

小さな駐車場に車を停め、ちょいとだけ散策。(仕事中ですから・・・)


土曜日の好天気、しかも七五三の時期だというのに境内は静かなもんです。
(神殿では祈祷が行われていたので、無人ではありませんでしたけど)



やはり、この社も元は磐座をご神体として祀っていたようです。

 

境内脇から奥之院の道が伸びています。

 
奥之院まで行こうと思ったんですけど、時間がないもんで、横道にそれて不動尊をお参り。

おそらく、名神高速ができるまで、この社から下の中華屋鳥居(違うか)まで一望できたと思います。
名神が目隠しとなってしまったんでしょうね。

この先に川崎大師京都別院がありますが、それは次回に。もったいつけてるワケじゃありませんョ。

 


幻の二条城。

2011年11月28日 20時25分33秒 | Weblog

 「幻の二条城」、といっても信長が足利義昭のために造営した城の
ことではありません。(場所は烏丸丸太町。70日で完成させたそうです。)

私にとっての、幻なのです。これだけ長いこと京都に暮らしていながら、一度
も見学したことがない。学生時代に一度だけ機会はあったんですけどネ。

当時、友人のS君に二条城へ連れていって欲しい、と頼まれ引き受けたん
です。(彼は車を所有していなかったもんで)

S君は美術美学史を選考しており、なんらかの課題で二条城を見学する必要
が生じたワケです。で、彼を乗せて二条城のガレージに着いてS君はいいました。

「ちょっと待っててくれるか?そのへんで落ちてる入場券の端切れひろってくるでぇ」
(彼は福井県出身で、でぇ、というのは福井弁です。今もこんな喋り口調です)

え、見学せんのんかいナ。ま、そやな、タダで済むならそれにこしたことはない、
とワタクシも納得、せっかくの機会はこうして幻と化したのであります。

その二条城も昨日の日曜日は行楽日よりに恵まれ、大勢の観光客がおしよせた
と思います。しかし長い年月を経て、アチコチ傷みがきているようですナ。

堀川通りからチラリと見ただけでも、こんな具合です。

そこで、京都市は100億円の予算を組んで、一大改修工事に踏みきったそうです。
工期は20年。なんでまたこの不景気に、と思ったら案の定、予算の捻出に大苦戦。

そこで、市民や観光客から一万円以上の寄付をしてくれた人を「一日城主」に認定。
一年間入場無料などの特典で寄付を募っています。

でも、ちょっと待てよ・・。私みたいに生涯一度も入城したことのない京都市民もけっこ
ういますョ。それを一年間無料といわれて、なんもオトク感がないんですけど。

USJやディズニーランドならともかく・・・・。

京都には世界に名だたる大企業も何社かあります。大震災による不況から寄付が
思うように集まらない、という現状もあるでしょうね。

でも、二条城ができたのは徳川幕府が京都を威嚇監視するための意味もありました。
いわば江戸のための城ですわナ。イニシエから京に存在する社寺仏閣ならともかく、

「江戸さんが勝手に建てたお城に、なんでウチがぎょうさん寄付しなあきまへんの?」
なんて大企業のオーナーも密かに思っているかも知れませんナ。

因みに二条城とよばれるようになったのは昭和14年に市に下賜されてからで、それ
までは二条離宮とよばれていたそうです。

皇室と関わりの深い神泉苑の敷地をごっそり拝借したもんだから、市民の反感を緩和
するために、離宮なんて優しげな名称にしたんでしょうかね?

まぁ、来年から工事は始まるそうですが、どうなることやら・・・・・・。


親鸞上人誕生の地。

2011年11月27日 08時56分22秒 | 京都非観光迷所案内

 吉川英治先生の「親鸞」を読んだのは、いつの頃だっただろう?内容はほとんど
忘れてしまったけど、日野、という地名は微かに記憶の片隅にへばりついていました。

京都市(伏見区)なんだけど、まず、この地に足を運ぶことなど生涯ないであろうと思
ってたんですけどね。今回たまたま仕事でさ迷いこんでしまいました。

一応行政的には町なんですけど、ワタクシの感覚では「里」のイメージであります。

 法界寺。日野薬師、乳薬師とも呼ばれています。


   

  
えな塚↓                       産湯の井戸↑

 
今年の紅葉はイマイチのようですが、銀杏は見事に色づいていました。↑



法界寺の奥にある誕生院。



親鸞さんは母親の胎内に十二ヶ月もいらしたそうで、生まれてしばらくは声を
ださなかったから、唖ではないか?といわれていたそうです。

ところが生後かなり経て、はじめて口にした言葉は「なむあみだぶつ」・・・。

お釈迦様といい、やはり常人とは違います、生まれたときから。私の第一声
はナンだったんだろう。マンマ(飯)?まさか「ビ~~~ル」では無いよな。
 

          

平日とはいえ、秋の観光シーズンにもかかわらず、この寺を訪ねる人はほとんど 見かけ
ませんでしたネ。交通の便の悪さもあるけど、寺自体が観光客の誘致に力をあまり入れて
いないのかも知れません。私的には好もしいトコロであります・・・。


車石。

2011年11月26日 20時45分58秒 | 京都非観光迷所案内

 江戸時代、京と大津を結ぶ東海道に二ケ所の難所がありました。それは日ノ岡峠と
逄坂峠。人も大勢行き来しましたが、荷を運ぶ牛車の数も半端じゃなかったのです。

記録によると安永8年(1778)、この間を往来した牛車の数は15894もあったそうです。

晴れの日でも大変な坂道ですが、雨でも降ろうものならオオゴトです。そこで文化2年
(1805)に一万両をかけて大津から三条まで、この車石が敷設されたのです。
   

車石で舗装されたのは一車線に限られていたため、一方通行だったそうですよ。
(午前は東行き、午後が西行き)
   

   

   
これら↑は九条山(日ノ岡)の国道沿いに設けられたモニュメント。車で通過している
と一瞬で見逃してしまいます。

コチラ↓は旧東海道と三条通りが交わる場所で見つけた車石。
   

   

この他にも革堂行願寺、大将軍八神社などにも数箇所保存されているそうです。
興味のある人はどーぞ。(誰が行くねん!)

余談ですが、この難所でお百姓さんが肥料の大八車を運ぶさい、それを後押しする
専門の人たちもいたそうですョ。

牛馬から疎水運輸、そして鉄道、自動車へと東海道の運輸手段は変転しましたが、
名残の敷石がこうして残されているのは意味深いことだ、と思います、ワタクシ。

 


皇塚。

2011年11月24日 07時43分54秒 | 京都非観光迷所案内

 国道一号線を山科方面から滋賀へ向かう途中、大塚という交差点があります。

その交差点を南へ、新幹線の高架を越えてすぐ右手に見えるのが「皇塚」。
この土地名(大塚)の元となったといわれているそうです。

   
山科最古の円墳で周囲は約20メートルあったそうですが、今はこんな状態です。

地元では長いこと桓武天皇の陵墓と信じられていたそうですが、この古墳ができ
たのは六世紀、時代が違いまんがな、ということで桓武陵説はアッサリ却下。

しかし、この桓武陵は現在では伏見区にありますが、そこに落ち着くまでは紆余教説
があったようです。
   

桓武天皇は存命中は宇多野の地を希望されたけど、卜占によって伏見の地が選ば
れましたが、秀吉の伏見城建設や水害によって、その場所の確定は難事業だった
ようですナ。以前紹介した浄蓮華院(谷口古墳)も考定されていました。

一応現在地(伏見区桃山)に陵墓は築かれていますが、今だその地は不明だとも
いわれています。

遷都を繰り返した桓武天皇ですが、その陵墓も何度か改墓されていたようですネ。

ところで、この皇塚、いったい誰が埋葬されていたんでしょうネ。

 

 


徳林庵。

2011年11月23日 08時50分52秒 | 京都非観光迷所案内

 この「徳林庵」も通りすがりに撮影。以前から「蝉丸」と琵琶法師には興味が
あり、四宮近辺も散策したいとは思っていたんですよね。

四宮川。(宿川)柳田邦夫先生によると、四宮はシク、と称せられる土地だった
とあり、「四の宮」が通称化されたが、シク、シュクの文字があてられることが
あった、ということです。シク、シュクはハチと同じ境を意味する古語です。
   

宿神は必ず水辺に祀られ、荒ぶる水神の面影をもち、祟り激しい怨霊御霊を
垣間見る、とあります。

その昔、四宮川原に集まった琵琶法師たちは年に二度必ずここに集まって経
を読み琵琶を弾じていたそうです。
  
徳林庵。面している道は旧東海道です。お堂の横で販売されている陀羅尼助丸。↓


   

人康親王はいっとき目を患われ、山科に隠棲されており、つれずれに法師たち
を集めて管絃の如をつとめさせたといわれます。
   
京阪の線路を越えた十禅寺の横にある人康親王御陵。↑

四宮の名は仁明天皇の第四子であったため、この地が四宮とよばれるように
なった、という説もあります。

人康親王=蝉丸と書かれた案内書もありますが、これは間違い。(だと思います。
一説では蝉丸は醍醐天皇の第四子で盲目であったため、混同されたのでしょうか)

また、宇多天皇の皇子説、敦実親王に仕える雑色だったという話もあります。(醍醐
説は平家物語)。ま、その辺りは歴史に詳しい人たちにお任せしときましょう。

人康親王は平安期の人ですが、この庵に関わり深い人見天皇は室町期。この親王
は江戸時代に座頭の始祖とされ、ここで検校たちが琵琶演奏を行っていたそうです。

なんだか分かったような分からんような話ですが、私が興味を惹かれたのは、四宮
川原の市。さきほど記しましたが、荒ぶる水神を祀る川原で行われていたのですが、
かつて交易の場所と神は深い関わりがあるといわれていましたから、それは当たり前。

その市で行われていた「あき人(商人)の袖くらべ」にワタクシ、大変興味をしめしました。
これは袖と袖をさし合せ、袖の中で指を握り合って値を決める取引だそうです。

これを読んで思い浮かべたのが下関の「ふく」(河豚)のセリ。これは袖ではなく、袋の中
で行われる取引ですが、なんとなく似ていると思いますよね。

ま、そんなコトに興味をいだくのはワタクシくらいか・・・・・。


蓮如上人御指図の井。

2011年11月22日 20時42分54秒 | 京都非観光迷所案内

 山科区の音羽、住宅地の中にこんな井戸があります。昔の高僧は仏教だけじゃなく、
医学や地学まで学んでいた、という話ですから、ただの伝説ではないかも知れませんナ。
  

空海さんなどは、この手の井戸や温泉に関わる話が全国に残されていますよね。
  

関係ないけど、中国の諺に「井戸を掘った人のことは忘れない」というのがあります。
今の中国だと「この井戸を掘ったのもわたしだ」ってことになりますかナ?


山科八幡神社。

2011年11月21日 07時06分29秒 | 京都非観光迷所案内

 人様に自慢できるほど忙しいってわけでもないんですけどね。仕事で市内を
徘徊中に、興味のある場所があるとカメラに収めています。

ところが投稿する時間がないもんで、後で、アレ?ここはどこだっけ、なんて事態
も発生いたします。とくに社寺は似たような風景が多いですからね。

この八幡宮もフト、足を止めて立ち寄ってみた社です。山科の八幡宮といえば
若宮八幡宮を思い浮かべる人のほうが多いでしょうナ。
   
多い、といっても山科に住む人だけだと思いますけど。こちらは観修寺近くの山麓
に位置する社です。
   

         

   

山科もドンドン変化をとげています。この観修寺近辺もそうです、観修寺道も新しく
広い道路ができて、旧道を走行する車はずい分少なくなったようです。

その分、昔の風情に戻りつつあるのかも知れませんね。
   

   この木製の灯篭もご神体なんでしょうか?↓
    
安産のご神体。注連縄で固く結ばれた夫婦石。よりそいかたが、微笑ましいです。↑