秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

まだ増殖するラーメン店、一乗寺。

2011年10月30日 09時13分11秒 | グルメなのか?

 左京区を離れて約三年、久々に訪れた一乗寺ですが、ラーメン激戦区
といわれるこの一帯にまた増えていましたねぇ、ラーメン店・・・。
      


これは「つけそば」。

まだ数店新規開店していましたナ。行列ができているのはやはり新規オープン
店です。ワタクシは別に味の保守主義者ではないんですけど、ここは久々の
一乗寺ですから「珍遊」で懐かしの味と再会することに決定。

なにしろ、この珍遊、線路側にあった頃からのファンでして、一時宝ヶ池に移転
したときもおっかけていたほどです。

周囲の新規店に負けじと改装されていました。(と、いってもごく最近ではない
かも知れませんが。なんせ久しぶりの一乗寺ですからね)



シンプルに並(¥580)を注文。最後に食べたのはいつだったか忘れたけど、
なんだか麺が変ったような気がしますが、気のせいでしょうか?

これからまだこの地区はラーメン店が増殖していきそうです。私も麺喰い人で
すから、ラーメンは嫌いじゃないけど、さすがにこの年になると頻繁には無理
です。やはりオヤジは蕎麦かウドン、ということですかな。


坂上田村麻呂の墓。

2011年10月23日 14時24分59秒 | 京都非観光迷所案内

 私の場合、坂上田村麻呂と聞いて思い浮かべるのは清水寺縁起と
「アルテイの乱」程度です。

だから、東山山頂にある「将軍塚」が田村麻呂の墓だとばかり思って
いました。だから今回この墓を偶然見つけたときは、???でしたネ。

しかし、東山のほうは正確に田村麻呂の墓と書かれた資料は無く、
私の勝手な思い込みだったようです。(一部資料には関わりがある、
と記載されていることもありますが)

静かな住宅地にある公園、といった風情です。この日もご近所の方
が数名ボランティアで草刈をなさっておられました。

田村麻呂は身長191センチ体重120キロの巨漢で、眼光するどく、
アゴヒゲは金糸で編まれていたとか。

しかし平時は談笑し、老少も親しむ、と書き残されていますから、正に
気は優しくて力持ち、の絵に描いたような豪傑だったようです。

  

この墓が田村麻呂のものである、と指摘されたのは近年で、それ以前
はこの地に馴染みの深い中臣氏の墓ではないか?とみなされていた
そうです。そういえば公園の入り口に中臣氏に関する看板が建っていま
いたな。

しかし、大正時代に発見された木棺墓は、ハタシテ2メートルもあったん
でしょうかね。

最後の余談。田村麻呂の小像が天保時代に盗難にあったそうです。それ
を買い戻して清水寺に寄附したのが明石博高。

勧業政策をはじめ、その他モロモロ、明石氏の京都に対する貢献度を
京都市民はもっと評価すべきでアル、なんてエラソーなこと言ってすん
ません・・・。

田村麻呂の墓。京都市山科区西野山岩ケ町。

 

 


美味い!麦焼酎「財宝」

2011年10月20日 06時59分58秒 | グルメなのか?

 知り合いからの頂き物です。毎月定期的に6本お取り寄せされているうち
の一本を「持っていきなはれ」と言われて遠慮なく頂戴いたしました。
     

鹿児島産、黒麹とくれば芋焼酎だと思いますよね。実は私は芋焼酎はほと
んど飲みません。お付き合いで飲むことはあるけど、好んで飲むことはない。

しかし、今のワタクシは贅沢言える立場じゃありません。こうなったらメチル
アルコールでも何でも飲むもんね!

しかし、家に持ち帰ってよく見たら、私の愛飲している麦でした。ただ、黒麹
の麦は以前何度か飲んだけど、ちょっこしクセがあるんですよね。

で、水割りにして一口飲んで驚きました、クセどころかなめらかな飲み口で
スイッと、サラッと喉をすべって胃の腑へ落ちていくではありませんか。

瓶を手にとり、御見それしやした、とラベルを読んだら、「財寶温泉」の温泉水
を利水にして仕上げられている、と表示されていました。ナルほどこの滑らか
さは温泉水のおかげでしたか。

鹿児島には何度か出かけているけど、財宝(寶)温泉は知らなかった・・・・・。
そりゃそうだ、鹿児島も広いもんあぁ。それに観光で出かけた訳じゃなかったし。

相方の感想も聞いてみたいところですが、現在長期出張中、残念でした。ま、
それはまた次回の機会に・・。(また貰えたらネ。)

 

 


脳みそのある神社。「折上稲荷神社」

2011年10月18日 17時34分14秒 | 京都非観光迷所案内

 山科区にも多くの神社仏閣はありますが、観光でこの地を訪れる人は少ない
でしょうね。私も今まで探索したことはほとんどありませんでした。

しかし、迷所案内としてのスポットはけっこうあるんですよね。ここしばらくは今
まで無視していたお詫びにボチボチ案内していこうかな、などど考えています。

観光寺が少ないとはいえ、リッパな神社仏閣がないわけではありません。しかし
ここは迷所案内ですから、まずはマニアックな「折上稲荷神社」からご紹介。

 
株・宝くじ・賭け事・・・。いきなりギャンブラーの心をくすぐっておりますナ。


モルガンお雪。数奇な運命をたどった女性です。

 

               この切り株もご神体?↓
             

そしてワタクシが一番興味を惹かれたのがコレ。最初見たときは、何でこんな草むらに
脳味噌の看板が打ち捨てられているんだ?と、驚きましたネ。↓


この後ろに鎮座していたのが、脳みそ瘤。私の場合、脳全体が弱っているから、
まんべんなく、ナでナデさせていただきました。


動物の形をしたご神体やお地蔵さんを撫でて、ご利益をいただく、ってのは今
までアチコチで見聞きしたけど、「脳みそ」は初めて見ましたナ。

いや~、まだまだ京都にもディープなスポットが残されております。

 


新玉津島神社。

2011年10月15日 22時56分07秒 | 京都非観光迷所案内

 薩摩守忠度(ただのり)の名前から無賃乗車を思い浮かべる人は、落語大好きか
狂言通でしょうナ。(もしくはかなりの年配者。私もリアルタイムで聞いたことはナイ)

その忠度さんは平家の武人でしたが、平時であれば歌人としてその生涯を終えた
はずでした。しかし「おごる平家は久しからず」、源氏に追われて都落ちのサダメと
あいなりました。

「あ~、一時は宮廷のサロンで和歌を詠み交わしていたこの身が、こうして都を捨て
る境遇となりはてたとは・・。」と、馬上で悲観にくれた忠度さんであります。

このまま平氏一族として滅亡の道をつきすすむのは、いたしかたあるまいが、心残り
は和歌の道。せめて一首なりとも我が人生の足跡を残さんと、ただ一騎都へと逆戻り。

したためられた歌を預けられたのは藤原竣成先生。サテ、困ったわいな。平家の滅亡
は鉄板ですから。(鉄板の意味が分からない人は周りのギャンブル好きに聞いてね。)

しかし、いままでの友情や忠度の和歌の才能をムゲにするのも忍びない・・・。て、こと
で「詠み人しらず」の歌として竣成先生は千載和歌集に発表したわけですナ。

その後日談ウンヌンはともかく(また前説が長くなりました、すんません)、その竣成先生
の屋敷跡に和歌の女神の新玉津明神が勧進されたのがこの社です。

烏丸五条通近辺は表通りはビル街(といっても京都は高さ規制があるもんで高層ビルは
ありませんけど)ですが、一歩裏通りに入るとまだ昔の京の面影が残されています。

金輪の井戸」もこの社のすぐ近くですが、嫉妬深い女性たちに追い掛け回されている
ワタクシはゼッタイ足を向けたくない場所ですから、今回はパス!

あ~、また今宵も大嘘をこいてしまった・・・・。私を追いかけているのは貧乏神だけだ
もんね。

 

 

 

 

 


豊臣秀次と瑞泉寺。

2011年10月09日 10時11分00秒 | 京都非観光迷所案内

 木屋町三条下がる、といえば「長浜ラーメン」を思い浮かべる京都人は多い
でしょうね。その店の北に位置するのがこの「瑞泉寺」です。

場所柄、夜の街ですからこの寺の存在に気がつく人は少ないかも知れません
ナ。(夜は門が閉じられています)

何年かごとに訪れる秀吉ブームですが、その時々によって「秀次」のあつかわれ
かたに違いがあるようです。

運命に翻弄された悲劇の主人公であったり、「殺生関白」と呼ばれた悪逆非道の
権力者としてえがかれる場合もあります。

本当のことはわからないけど、秀次が高野山で切腹させられた後、正室や側室な
ど一族三十数名が鴨の川原で次々に首を刎ねられたのは事実です。

鴨川の水が真っ赤に染まったほどの惨劇でしたが、秀吉の偉業の影に隠された
この事件にスポットライトがあてられることは、あまりないようです。

川原に埋められていたその遺骸を、あらためて埋葬して手厚く法要したのが、
大商人の角倉了以。商人というより事業家である角倉家ゆえできた偉業です。

「殺生関白」は捏造説ともいわれますが、秀次があちこちに養子に出され(戦略
として)、一時は栄華をきわめ、最後は出家した後に切腹、はホントの話です。

関白まで出世したんだから、それはそれで男としてはシアワセだったのでは?
と思えなくもないけど、秀次の一族はどうして処刑されたのかも分からずに、
この塚の下で眠っているのではないでしょうか?


工場の月?

2011年10月08日 07時41分27秒 | Weblog

 朝夕めっきり涼しくなってきましたナ。日の暮れるのも早くなってきました。
昨夕帰宅途中で空を見上げるともうお月さんが出てました。

工場の屋根越しに見る工場の月。あ、つまらんぞ。そういや、とっくに音楽の
教科書からは「荒城の月」は消えていたっけ・・・。
      


うなぎふりかけ。

2011年10月07日 07時31分32秒 | グルメなのか?

 近所のスーパーで見つけた「うなぎふりかけ」。相方も以前目にして買おうとした
けど、我が家には、ふりかけのタグイがたっぷり備蓄されているため購入を断念。

なぜにそんなに備蓄されているか?理由の一つが店でランチ用に置いていたタラコ
ふりかけ。これは業務用だから量が半端じゃない。

他には出張に出ると朝食バイキングのコーナーに用意されている小袋のふりかけ。
一袋でいいのについ、大目に取ってしまう貧乏人の悲しいサガ・・。戻すのもなんだ
し、持ち帰ってしまうのです。それが何度も繰り返されて溜まっています。

以外にも、スーパーなどで珍しいふりかけをみると、ついカートにほり込んでしまう
習癖があるのです、ワタクシ。で、相方が購入しなかったこれが台所に参入・・・。
     

ふりかけ、といえば永谷園のお茶漬けふりかけ、を思いつく人も多いと思います。
私も大好きだったけど、ここ何年かはお茶漬けというシロモノを口にした気億がない。

これは夕食に米飯を食べない食習慣に変わったからです。その前は飲んだ後に
お茶漬け、ってのがパターンでした。で、昼は麺類、朝から茶漬けは食べないし。

つうことで、お茶漬けとは縁遠くなってしまいましたね。この「うなぎふりかけ」で
茶漬けをしたら「、鰻ひつまぶし」三段活用の「うなぎ茶漬け」になるかも?

あれはお茶じゃなくて出汁だったっけ?まぁ、湯でもいいか。余談ですけど、足利
義政は湯漬けが好物だったそうです。以来、湯漬けが世間に広まったとか。

日本史の三大恐妻家の一人ともいわれる義政さんは嫁の顔を見ながら食事
するのが嫌なもんだから、サッサと食べられる湯漬けを好んだのかも?

富子さんと一緒に食事していたのかどうかは知りませんけどネ。

 


天皇の杜古墳。

2011年10月06日 07時30分59秒 | 京都非観光迷所案内

 西山一帯にはかなりの数の陵墓や古墳がが残されています。この天皇の杜古墳も
そのうちの一つです。いつか訪れようと思っていたけど、中々果たされなかったのです。

理由は車の駐車場が無い・・。9号線を走行中、横目で見ながら、いつかは散策して
みようとは思っていたんですけどね。本日は道路脇に駐車して短時間で撮影。

そうか、こんなに奇麗に周りが整備されていたんだ。左端を散歩中の男性は片手に
岩波文庫を持って読書と散歩を同時進行中。私がいた間に三周はしておられましたネ。

歩くと脳が活性化するそうですから、難しい岩波文庫でもスラスラ頭に入るかも?
そんなことが出来るのは、ほとんど人が居ないからです。当然自転車は禁止です。

この古墳は埋葬者は不明で、推測はいろいろされているそうです。不明なのにナゼ
天皇の杜、とよばれるのか?その理由は↓

中学生のころ、考古学クラブの古墳巡りでは、この辺りの陵墓は範疇に入っていな
かったなぁ。引率の先生が案内してくれたのは、崩れかけた古墳や、竹薮の中に
ある、説明を聞かないと、ただの丘みたいなトコばかりでしたね。

その先生の嗜好だったかも知れないけど、まぁ、天皇陵などは案内されなくても
わかりますから今思うと貴重な体験だったと感謝しています。

でも、マイナーすぎて、もう一度訊ねようと思っても無理な場所がほとんどですケド。


大枝神社。

2011年10月05日 08時29分54秒 | 京都非観光迷所案内

 大枝の社寺仏閣といえば大原野神社や花の寺のように9号線より南に集まって
いますが、9号線、いや、街道が出来るまでは村落も繋がっていたから、この方面に
も寺社はあって当然ですよね。
       

とはいっても、観光客が訪れるような社寺はありませんけどね。チカゴロこのような
社や寺にひかれています。いわゆるパワースポットなどとはまったく無縁の世界です。

酒井順子さんがエッセイで書いておられますが、パワースポットブームは、昨今の
「もらう・与える」ブームとリンクしているのでは?という指摘にワタクシも同意しますナ。

勇気や力は他人や場所からもらうものではないんですよね、確かに。

案内を始めてから、どれだけの社寺仏閣に参ったことか。そのお賽銭で家が一軒
建つほどです。(ハイ、大嘘でございます。)

こんなひと気のない社で静かに手を合わせて、少しでも気持ちが浄化された気がすれ
ば、あたしゃ充分ですけどね。